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<title>真砂バプテスト教会: MB-Church</title>
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<title>2010/2/21礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2010年2月21日礼拝のメッセージ要約です。 「本質に目を向けて」 ピリピ4:...</summary>
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<![CDATA[<p>2010年2月21日礼拝のメッセージ要約です。<br />
「本質に目を向けて」<br />
ピリピ4:2～3 </p>]]>
<![CDATA[<p>1.　具体的な問題<br />
　パウロがピリピ教会の現実に対して触れなくてはならなかったこと、それは何でしょうか。それは具体的な問題でした。ここでは二人の女性の名前が記されています。この手紙は、当時の教会が置かれていた苦難や問題を聞いたパウロが、キリストのからだである教会の助けになろう、主のみこころを伝えよう、その思いで書き送ったのではなかったかと想像します。ですから、パウロは具体的な諸問題に立ち入る前に、教会が知っておくべき信仰の本質的なことがらについてこれまで説明してきたわけです。その問題とは、二人の女性の対立でした。</p>

<p>2.　対立<br />
　ここに人名が出てきます。この女性二人に対して、パウロは「主にあって一致してください」と命じています。当時のピリピ教会で現実にあった不一致騒動です。その詳細はここには記されていません。しかし、彼女たちが教会の中で強い影響力を持っていたことは間違いないでしょう。教会内にあった二つのグループの対立ということが関連していた可能性もあります。当時の教会の文脈に立って考えてみると、この2、3節こそ、パウロが手紙を書く動機になった出来事であったとも言えるのかもしれません。さらにパウロは「真の協力者」にも懇願しています。つまり、彼女たちの一致は、二人だけの問題ではなく、教会全体が取り組み、祈るべき課題であったのだということです。対立の問題は、教会だけの問題ではありません。私たちの周囲にあふれている深刻な課題なのです。</p>

<p>3.　本質を見つめる<br />
　しかし、対立の最中におかれると、本質的なことよりも表面的なことで対立が深刻化することが多くあります。パウロもそのことをよく知っていました。これまでの3章分を用いて、パウロは対立の本質的な問題と、信仰者の基準、考え方を明らかにしてきました。それは次の三点です。まず一つは、すべてのことがキリストのゆえであり、キリストのためである、ということ。次にキリストにならうということ。三つ目に、私たちがなぜ救われ、またなぜ生かされているのか、そのことを思い出すこと、です。私たちはこれらの本質を見失うことによって、互いを受け入れあうことも、認め合うこともできなくなってしまうという事態が起きます。私たちは、本質的なところにこそまず目を留めなくてはなりません。教会は対立ではなく、キリストの一致があらわされるところなのです。</p>]]>
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<title>2010/2/14礼拝メッセージ</title>
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<modified>2010-02-27T02:49:23Z</modified>
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<summary type="text/plain">2010年2月14日礼拝のメッセージ要約です。 この日は吉澤慎也神学生でした。 ...</summary>
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<![CDATA[<p>2010年2月14日礼拝のメッセージ要約です。<br />
この日は吉澤慎也神学生でした。<br />
「バプテスマの意味」<br />
ローマ6:1～14 </p>]]>
<![CDATA[<p>1節：信仰義認の教えに納得できない人たちによる問題提起「恵みは結果的に罪を奨励してしまうのでは？」。同様の疑問は現代においてもある。</p>

<p>2節：「絶対にそんなことはありません」非常に厳しい言葉。2節以降は、1節の問題提起に対する応答。そのテーマは「罪からの解放」。すなわち罪はキリスト者において許容されない、ということ。</p>

<p>3-5節：バプテスマの意味について。キリスト者はキリストと1つにさせられた存在である。私たちはキリスト・イエスの中へバプテスマされたのである。そしてキリストと一つにさせられた者は、すなわちキリストの死と復活とにも与っている。それは私たちが「いのちにあって新しい歩みをするため」（4）である。</p>

<p>6-11節：「キリストと共に死ぬ」＝「罪に対して死ぬ」と、「キリストと共に生きる」＝「神に対して生きる」という2つの理解。この両者を切り離して考えることはできない。<br />
　①イエス・キリストは十字架で死に、三日目に復活した。<br />
　②キリストを信じるキリスト者は、キリストと一つにさせられ<br />
　　 た者である。それがバプテスマに象徴されている。<br />
　③キリストと一つにされたキリスト者は、キリストの死と復活<br />
　　 とも同じようになっている。<br />
　以上のことを自己認識することが大切である。このように考えるならば、キリスト者は罪の中に生きていられない。</p>

<p>12-14節：性的な罪が意識されているのかもしれない。罪の誘惑を退けること。</p>

<p>まとめ：キリスト者が罪の問題と取り組むときには、自分はキリスト者であるという自己認識が決定的に重要である。罪からの解放はキリスト者にとって切実な問題だが、その只中でバプテスマの意味が説かれている。</p>]]>
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<title>2010/2/7礼拝メッセージ</title>
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<modified>2010-02-27T02:46:28Z</modified>
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<summary type="text/plain">2010年2月7日礼拝のメッセージ要約です。 「愛する教会へ」 ピリピ3:20～...</summary>
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<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2010年2月7日礼拝のメッセージ要約です。<br />
「愛する教会へ」<br />
ピリピ3:20～4:1</p>]]>
<![CDATA[<p>1.　与えられる特権<br />
　キリストを信じる信仰によって与えられる特権とは何でしょうか。イエスを救い主であると信じるときに、私たちに与えられるもの、それは「天の国籍」です。この国籍は「市民権」とも訳せる言葉です。ただキリストの十字架の血潮によってのみ、私たちの罪は赦され、神の国の市民としていただけるのです。この神の国の市民権は、お金を積んで得られるものでもありません。それはただ主イエス・キリストを救い主として信じるときに、私たちに与えられるものなのです。</p>

<p>2.　天から来られる方<br />
　さらにパウロは「そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」と言います。しかし、私たちはこの逆を考えます。私たちは、ここから天国へと行くことを待ち望んでいるようです。ここでのパウロは、そうは考えていません。天から、必ず私たちがいるこの世界にイエスが救い主として来てくださる。再び来られたイエスは、その神の御力で、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる･･･。すべてを完成させるためにイエスは再び来られるとパウロは語ります。</p>

<p>3.　未完成の世<br />
　私たちは、どうがんばっても、神の目にかなうような「良き人」「義人」には到達できないでしょう。私たちは罪人にしか過ぎないからです。またこの世界も完全な世になるとは考えがたいことです。だからといって、正しいこと、良きことをあきらめてはなりません。あきらめて天国を待ち望みなさいと聖書は語っていません。むしろその逆です。あなたには罪があり未完成の者ではあるが、神のみこころを知り、また主イエス・キリストの赦しと救いを受けたものとして、今いるその場所で、天の国の市民として歩みなさいと言われています。しかし、私たちが現実を襲う苦難や試練の中にあって、希望を失わないで生きるにはどうしたらよいのでしょうか。</p>

<p>4.　希望の光<br />
　そこに与えられた希望の光こそ、復活の主イエス・キリストです。復活の主が天からこの場所へとやがて来て下さり、すべてを完成してくださるのです。だからこそ、私たちは、今ここで前に向かって歩み続け、また神の思いにかなう良きことを求めて、力強く奮闘することができるのです。私たちもまた神の国の市民としてふさわしい歩みを続けてまいりましょう。</p>]]>
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<title>2010ハートフルコンサートのお知らせ</title>
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<modified>2010-01-27T05:18:59Z</modified>
<issued>2010-01-27T01:02:13Z</issued>
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<summary type="text/plain">今年もハートフルコンサートを開催いたします。 寒い日がまだまだ続きますが、教会な...</summary>
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<dc:subject>教会の集会</dc:subject>
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<![CDATA[<p>今年もハートフルコンサートを開催いたします。<br />
寒い日がまだまだ続きますが、教会ならではのコンサートで、ご一緒にほっといたしましょう。</p>

<p>今年は上野有さん、直子さんご夫妻の音楽ユニット「JOIN」をお招きします。<br />
フルートと歌、シンセサイザーによる心あたたまるひと時をお届けいたします。</p>

<p>そして今年はなんと二部構成！<br />
一部はファミリーコンサート。こどもたちが主役のコンサートです。ご家族でぜひご一緒に。<br />
二部はスタンダードコンサート。落ちついた雰囲気の中、JOINの音楽をゆっくりとご一緒に楽しみましょう。</p>

<p>ちらしはこちらになります。<br />
<a href="http://www.mb-church.com/NsPdf.PDF">ファイルをダウンロード</a></p>]]>

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<title>2010/1/24礼拝メッセージ</title>
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<modified>2010-01-27T01:01:44Z</modified>
<issued>2010-01-27T00:59:53Z</issued>
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<summary type="text/plain">2010年1月24日礼拝のメッセージ要約です。 「互いを手本として」 ピリピ3:...</summary>
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<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2010年1月24日礼拝のメッセージ要約です。<br />
「互いを手本として」<br />
ピリピ3:15～17</p>]]>
<![CDATA[<p>1.　良き手本<br />
　これまでの歩みの中で、手本となるべき方と出会ったことがあるでしょうか。しかし、自分がお手本となるならばどうでしょうか。パウロは「私を見ならう者になってください」と言っています。パウロが偉大な教師であるから、こう述べたのでしょうか。しかし、この言葉はこう続きます。「また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに目を留めてください。」これは、「教会」または「他のクリスチャン」に目を留めるようにという言葉です。パウロは、自分のまた他の教会の何を見倣いなさいと言っているのでしょうか。</p>

<p>2.　現在のパウロ<br />
　キリストを知る以前の彼は、当時のユダヤ人における正しい生き方を真剣に実践した人物でした。彼はそのような姿を「犬」「肉体だけの割礼の者」と言っています。これらの言葉は、本質のない者、うわべだけの者というような言葉です。では今のパウロはどのような歩みをしているのでしょうか。彼はキリストによって、「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない」者となりました。以前の彼は、自分の正しさや誇りのゆえに、神をほめたたえていました。いえ、神をほめたたえていたのではなく、自らが満たされ、他の人よりも自分が勝っていることを持って喜びを得ていたと言ってもいいでしょう。この姿は、キリストのたとえ（ルカ18:9～14）と重なります。パウロはキリストを知ったゆえに、自らの罪に気がつかされます。そして、自分自身を、その生涯を、神にささげていくことこそ、真の礼拝であると彼は確信しました。さらにその歩みは、自らの力で正しい者、力ある者となることではなく、キリストの姿にならい、神の前にへりくだり、神の御力、みことばによって生かされ、そして約束された復活のいのちにいたるためのものであるということを知りました。彼はゴールを見据えて、希望と喜びを告白しつつ歩む競技者のようであると述べています。その自分を見習ってほしい、とパウロは今日の箇所で勧めているのです。</p>

<p>3.　他の信仰者とともに<br />
　さらに彼は他の信仰者に、ともに走り抜こうとしている他の教会にも目を留めなさいと勧めます。目を留めるのは外面的なことではありません。それぞれのうちにあるキリストに目を留めていくのです。喜びや苦難の中でも、強さや弱さの中でも、私たちの中心には十字架の、復活のイエス・キリストがいてくださるのです。その姿を、ともに見続けてまいりましょう。</p>]]>
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<title>2010/1/17礼拝メッセージ</title>
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<modified>2010-01-27T00:58:20Z</modified>
<issued>2010-01-27T00:57:14Z</issued>
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<summary type="text/plain">2010年1月17日礼拝のメッセージ要約です。 「ゴールを目指して」 ピリピ3:...</summary>
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<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2010年1月17日礼拝のメッセージ要約です。<br />
「ゴールを目指して」<br />
ピリピ3:12～16</p>]]>
<![CDATA[<p>1.　求道者<br />
　教会における「求道」の意味は「真理を求める」とういことにあります。もっと厳密に言えば、求道者とは「真理を求めるようにと導かれている人」のことです。パウロも自分は神によって導かれている、そうまっすぐに受け止めた人でした。確かにパウロは、神にある正しさを求め、追い続けています。しかし、それは自分からスタートしたことではなく、イエス・キリストが私を捕らえてくださったからだと告白しています。ここでの問題は、パウロが何を求め続けていたのか、ということです。</p>

<p>2.	何を求めているのか<br />
　彼が求めているのは「死者からの復活」です。この言葉は「復活のキリスト」を示す言葉です。パウロが求めていたものは、復活のキリストと同じようになることでした。この言葉は人格的、肉体的な完成を示す言葉です。神の前に真にへりくだった愛、人ではなく神にある正しさこそ、ここでパウロが追い求めているものと言えるでしょう。とはいっても、そこまでのことを私は求めていない、そう思われるかもしれません。私たちの視点は、すぐに天ではなく、地に向かうものだからです。パウロはそのことをよく知っていました。13節にある「うしろのもの」とは、以前の価値観のことです。私たちは「うしろのもの」に、いつも引きずられてしまいます。うしろのものとは、キリスト抜きの世界であり、目に見えるもの、人の基準で生きることです。実のところ、真の問題は、うしろのものにではなく、前にあるものがはっきりと見えていないことにあります。</p>

<p>3.	前のもの<br />
　パウロは信仰の歩みを競技にたとえています。Ⅰコリント9:24～25でも同様のたとえが出てきます。パウロは競技者の姿勢と、信仰者の姿勢とを重ねあわせています。競技者はゴールがない競技を走るわけはありません。ゴールを、そして栄冠を目指して走ります。パウロは、勝ち負けの話ではなく、競技者として純粋にゴールに向かうことや、その途上にあって奮闘し続ける競技者と、信仰者とを重ねあわせているのです。それぞれの走り方は違います。それぞれに時に苦しく、また倒れそうになりながらも、走りぬこうとしています。この先に見ている天におけるゴールは、すでにキリストによって約束されているものです。私たちは、今そのゴールを見据えているでしょうか。すべては復活のキリストの栄冠へと招きいれるためのものであるということを受け取らせていただきましょう。</p>]]>
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<title>2010/1/10礼拝メッセージ</title>
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<modified>2010-01-27T00:56:57Z</modified>
<issued>2010-01-27T00:55:23Z</issued>
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<summary type="text/plain">2010年1月10日礼拝のメッセージ要約です。 ピリピ3:7～11 「キリストと...</summary>
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<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2010年1月10日礼拝のメッセージ要約です。<br />
ピリピ3:7～11<br />
「キリストとひとつにされ」</p>]]>
<![CDATA[<p>1.　喜びを失わせる現実<br />
　この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれています。パウロが「喜び」を多く書かなくてはならなかった背景には、その逆の現実がありました。それは今も私たちを取り巻く現実です。パウロは、この手紙の中で「今与えられている喜び」を語ります。それは、私たちがキリストによって神のものとされているということであり、また救われている状態です。これは信仰によって見ることの赦されている私たちの目に見えない現実です。これこそ、聖書の語る「霊的」な私たちの側面です。霊的という言葉は、目に見えない、つまり神の領域ということになるでしょう。私たち自身の本質的な部分もまた霊的な部分です。それは、目に見えるものだけでは満たされることはありません。私たちが満たされ、平安や神の愛が与えられるのは、キリストによって救われたからです。</p>

<p>2.　産みの苦しみ<br />
　律法による自分の義。これはユダヤ人の基準です。これは、神を抜きにした人間中心の価値観、正しさを表しています。そこには本当のいのちの望みはありません。真の望みは「神」から与えられるものです。パウロは「キリストのその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態」になっていると語ります。キリストにある信仰が与えられ、平安と満たしは与えられました。しかし、苦しみの現実は続きます。パウロや教会の現実の痛み、苦しみは増しているようにさえ見えます。しかし、信仰を持つパウロの目から見たその現実は、いままで見ていたものとは違いました。彼はその苦しみの現実が、キリストの十字架の苦しみと重ね合わさるものであることを知りました。やがて神がその痛み、苦しみを通して、完全に勝利してくださるものであることを、まさに霊的な目を持って受け止めたのです。</p>

<p>3.　キリストと一つに<br />
　救われたものはキリストのいのちと継ぎ合わされます。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。（ガラテヤ2:20）」その視点から見たときに、パウロの置かれた状況も、また苦難の現実も、それは喜びを失わせるものでも、また失望に沈み行くものでもありませんでした。それは、復活のキリストの栄光に満ちた姿へとつなげられている現実だったのです。だから彼は、主イエス・キリストの復活の姿へと変えられることを切に願うのです。</p>]]>
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<title>2010/1/3礼拝メッセージ</title>
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<modified>2010-01-13T05:46:39Z</modified>
<issued>2010-01-13T05:45:12Z</issued>
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<summary type="text/plain">2010年1月3日新年礼拝のメッセージ要約です。 詩篇67篇 「神を知るために」...</summary>
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<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2010年1月3日新年礼拝のメッセージ要約です。<br />
詩篇67篇<br />
「神を知るために」</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 詩篇67篇<br />
　この詩篇は、旧約聖書にはめずらしいと思われる「宣教」の詩篇です。イスラエル民族は、選民思想を持つと言われています。しかし、旧約聖書を読むと、なぜ彼らが選ばれたのか、その理由が記されています。その理由は、この神を信じる民イスラエルを通して、この世界がはっきりと神を知り、そしてその神の救いと祝福に預かる道備えをするように、ということでした。この群れが、神のあわれみ、祝福、豊かさ、正しさを求めるのは、自分たちの都合ではありません。その理由は、神の御救いがすべての国々の間に知らされるためなのです。</p>

<p>2. 私たちの祈り<br />
　これはとても大事な視点です。私たちもまた神の祝福があるようにと祈ります。私たちが神の前に祈るべきことは、第一に「神の栄光を多くの人が見るように」との祈りです。そして、そのために、私たち神を信じるものの上に神の祝福があり、また正しさと豊かさがあるようにと求めるのです。この世界に仕えるために、またこの世界が真の神を知り、そしてその栄光を見るために、私たちは祈り求めるのです。この一年の私たちの歩みを祝福してください。あなたの栄光を見せてください。そのことを通して、私たちではなく、神があがめられ、そしてまことの神を知り、信じる人々を起こしてください、そう大胆に祈るのです。</p>

<p>3. アブラハムの祝福<br />
　アブラハムに与えられた約束もまた同様のものです。アブラハムを通して、すべての民が祝福されるのです。私たち教会も同じです。大胆に祈り、求めることは許されています。しかし、私たちは、それがなぜなのか、その理由を失ってはなりません。ともに、多くの人が神の栄光を見るように、そして、神ご自身が、この世界でほめたたえられるようにと私たちは祈り求めてまいりましょう。</p>]]>
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<title>2009/12/27礼拝メッセージ</title>
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<modified>2010-01-13T05:44:52Z</modified>
<issued>2010-01-13T05:41:51Z</issued>
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<summary type="text/plain">2009年12月27日礼拝のメッセージ要約です。 「キリスト－復活の希望－」 マ...</summary>
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<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2009年12月27日礼拝のメッセージ要約です。<br />
「キリスト－復活の希望－」<br />
マタイ20:17～19<br />
Ⅰコリント15:19～22</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 復活の出来事<br />
　キリストについて、学ぶときに大事なことが3つあります。第一に「受肉」です。それは、神が私たちと同じ人となられたということです。二つ目は「贖い」です。受肉されたキリストが、私たちの身代わりとして罪の罰を受けてくださったということです。このことはキリストの受難、十字架に最もよく表されています。そして三つ目。それが「キリストの復活」です。キリストは十字架上で死に、その三日の後にキリストはよみがえった、と聖書は証言しています。しかし、私たちにとって復活は受け入れることの難しいことでもあります。なぜなら、それは人間の範疇を超えているからです。しかし、だからこそ、そこにこそ大いなる神の御力が働いているということになります。復活のキリストへの信仰とは、神のひとり子イエス・キリストを私たちに与えた神、そして十字架の死からイエスをよみがえらせた「神」、その神への信仰ということになります。</p>

<p>2. キリストの見ておられたもの<br />
　キリストは、ご自身の宣教の道すがら、復活のことを弟子たちに語っていました。イエスの奇跡を見て多くの人は殺到しました。今の自分を少しでも楽に、良くしてくれる可能性のあるところに多くの人は集まります。しかし、イエスが人々に常に語ってきたのは、神に立ち返るようにというメッセージでした。そして、ご自身の歩みは、まっすぐに十字架へと向かっていったのです。私たちの死の先にあるものをキリストは見ておられました。神に悔い改めた者の先には何があるのでしょうか。キリストは十字架の死の後、完全な肉体を持って復活をします。その後キリストは天に上げられます。これこそ、キリストが私たちに備えられた完全なる希望でした。復活のキリストが表すのは、完全なる勝利した人の姿です。</p>

<p>3. 復活の希望<br />
　復活の主が与える希望は、私たちがたとえどのようなところを通らされたとしても、復活の主が、私たちの行く先を示す光となってくださる希望です。暗黒の闇はやがて消え去り、希望の光が必ず差し込む希望です。最大の私たちの敵である死はもはや私たちの脅威ではなくなったのです。この希望は、「あの世」のものではありません。この世を生き抜く力となる希望です。今私たちが生きているこの延長に、神の国の到来と、キリストにある完全な復活のいのちが与えられるのです。</p>]]>
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<title>2009/12/20礼拝メッセージ</title>
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<modified>2009-12-25T23:45:10Z</modified>
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<summary type="text/plain">2009年12月20日礼拝のメッセージ要約です。 「キリスト－子とされる恵み－」...</summary>
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<![CDATA[<p>2009年12月20日礼拝のメッセージ要約です。<br />
「キリスト－子とされる恵み－」<br />
ルカの福音書15:11～24<br />
テモテ第一の手紙2:5～7</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 救い主の誕生<br />
　私たちに救い主イエス・キリストが与えられたことを神に心から感謝します。神はこの方を指して、あなたがたを罪から救う救い主であると告げ知らされました。神は、長い年月をかけてこのことを備えられました。誰もがよく調べれば必ずこの人こそ救い主だとわかるように、神はその方を与えてくださったのです。しかし、それにも関わらず、多くの人々はこの方の前を素通りしてきました。私たちを絶望へと、また死へと追いやる病である罪から救う唯一の方は、このキリストであると聖書は語り続けています。</p>

<p>2. 放蕩息子のたとえ<br />
　「放蕩息子」のたとえは、非常に有名なたとえです。このたとえは、人が自らを神に背いた罪人であることに気がつき、そして父なる神に立ち返るというものです。これは「悔い改め」ということを物語っています。父なる神は、その人を喜んで抱きとめます。傷ついた私たちが故郷に帰るような話です。しかし、私たちはこうも思います。そんなに私は愚かではない。しかし、これは神からの視点の話です。神の前で、私たちは、自分の生涯やいのちを自分勝手に使っていない、無為に消費していない、完全に計画通りである、そう言いきれるものでしょうか。</p>

<p>3. 子とされる恵み<br />
　なぜ弟はこうも簡単にゆるされたのでしょうか。なぜなら父と子の話だからです。しかし、神と私たちの関係はいかなるものでしょうか。私たちと神との関係は、神とその神に背く罪人の関係です。なぜイエスはこのたとえを語られたのでしょうか。なぜなら、その話を語ることのできる理由と権威がキリストにはあったからです。キリストによって、キリストを通して、あなたも神の子となることができるからです。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。（ヨハネ1:12）」イエスは、私たちの罪を背負い、その身代わりとして十字架で死なれます。私たちは罪人から神の子となるのです。キリストが私たちに与えられたのは、私たちが神の子となるためです。そして私たちは父なる神のもとへと帰ることができるのです。それは、私たちの本当の居場所に帰ることなのです。ともに帰るべき場所へと帰らせていただきましょう。</p>]]>
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<title>2009/12/13礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2009年12月13日礼拝のメッセージ要約です。 「キリスト－あなたを招く方－」...</summary>
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<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2009年12月13日礼拝のメッセージ要約です。<br />
「キリスト－あなたを招く方－」<br />
マタイの福音書11:25～30<br />
イザヤ書46:1～4<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 神のことばであるキリスト<br />
　イエス・キリストは、神のことばであると聖書には記されています。それは、神の意思を直接あらわす方であり、神のみおしえを語り、神の約束そのものであるという意味でもあります。「すべてのものは、この方によって造られた」ともあります。いのちはイエス・キリストにあってその意味が解き明かされるというのです。この方にこそいのちそのものがあり、この方に信頼すればするほど、私たちは希望のない所に希望を見出すことになるでしょう。</p>

<p>2. キリストのことば<br />
　「そのときイエスは、こう言われた。」この記事は、すでにイエスが神から遣わされたメシアとしての働きをしているときのことです。イエスは、メシアとしての姿を人々にあらわしていました。多くの人々の病を癒し、弱さを覚えている者、貧しい者たちに、神の希望が来たことを、イエスは宣言しました。しかし、人々は悔い改めませんでした。イエスは人々に真のいのちと希望を与えるために来られました。しかし、その希望を得るためには、どうしても人間が通らなくてはならない道がありました。それは、人間のおかれた悲惨さに気づくことでした。人間の罪深さを自覚しなくてはならないのです。しかし、その事の深刻さに私たちはなかなか気がつきません。実は、神が私たちのことを忍耐されている現実を私たちは知らないでいるのです。そこから神に向くことこそ、悔い改めることです。悔い改めに年齢は関係ありません。問題はどちらの方向を向いているか、ということなのです。</p>

<p>3. キリストの招き<br />
　信じるということは、声を聞き分けることです。自分に対して、語られている神の声に気がつき、そしてそちらの方へと向かっていく、それが信じるということです。信仰というのは応答です。神があなたを呼んでおられる、その呼びかけへの応答です。ここでキリストはこう招いておられます。「わたしのところに来なさい。」「わたしのくびきを負いなさい。」「わたしから学びなさい。」これはすべての人に語られた招きです。その招きに応えるときに、私たちに神からの平安と安らぎが与えられるのです。キリストが私たちの重荷を負ってくださり、また私たちはキリストによって示されて歩んでいく生涯が、信じる人に与えられるのです。</p>]]>
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<title>2009/12/6礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2009年12月6日礼拝のメッセージ要約です。 「キリスト－インマヌエルの主ー」...</summary>
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<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2009年12月6日礼拝のメッセージ要約です。<br />
「キリスト－インマヌエルの主ー」<br />
イザヤ書7:14<br />
イザヤ書8:22～9:2<br />
ルカの福音書2:1～7</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 私たちの存在<br />
　私たちの存在は、私たちが思うほどに安定していないのかもしれません。ふとした時に、自分の足元がぐらぐらと揺れ動くことがあります。聖書が語る神から離れた人間は、はかなさの中で生きなくてはならない存在となってしまったと教えます（創世記3:19）。私たちはちりに過ぎないと。しかし、私たちはちりに過ぎないものですが、ちりに帰るだけの運命を容易に受け入れることのできないものでもあります。なぜなら私たちの中には、「神のいのちの息」が吹き込まれているからです（創世記2:7）。私たちは神の作品であり、本来神と息を合わせて生きる存在なのです。しかし、私たちはあるべきところを失ってしまった状態なのです。</p>

<p>2. 人の悲惨<br />
　ただ生きて死に、ちりに帰る。それが人間のもつ悲惨さです。しかし、私たちは神について考え、また思いをめぐらせることもできます。私たちはこの世界にあって稀有な存在です。自らの悲惨を知りながら、天を思う存在です。聖書は私たちにこう語りかけます。「あなたがたは確かにちりに帰らなくてはいけない運命を持ちながら、それをただ受け入れなくてはならない悲惨さを持っている。しかし、その悲惨さを持ちながら、まことの神を知り救いを求めるならば、その悲惨さから救われる。」この人間の悲惨な現実と神が伸ばした救いの御手が交錯する地点こそが、イエス・キリストです。</p>

<p>3. インマヌエルの主<br />
　私たちは、この神の語りかけに気がつかない限り、神がどのような方を知ることはできません。神のことばの表れこそが「イエス・キリスト」です。イエスは神と等しい方であり、その存在とことばは、神ご自身をもっともよく表しています。それと同時に、イエスは私たちと変わらない人であったというのです。キリストを前にして問われるのは、私たち自身の本当の姿と神への信仰です。キリストの誕生シーンにおいても示されたのは、救い主が来た現実の悲惨さと、その現実をともに担おうとされる神の姿です。イエス・キリストは、私たちの悲惨をともに背負われようとしている「インマヌエル（神がともにおられる）の主」の御姿なのです。</p>]]>
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<title>2009/11/29礼拝メッセージ</title>
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<modified>2009-12-15T07:49:54Z</modified>
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<summary type="text/plain">2009年11月29日礼拝のメッセージ要約です。 「キリスト－ほふられた小羊－」...</summary>
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<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2009年11月29日礼拝のメッセージ要約です。<br />
「キリスト－ほふられた小羊－」　<br />
レビ記1:1～4<br />
ペテロの手紙第一1:18～20</p>]]>
<![CDATA[<p>1.　私たちの存在<br />
　聖書は世の初めを記しています。私たちが神によって創造されたということ、そして私たちがその直後に、創造主にそむき、自分を神として人間が勝手に歩みをすすめているということが明らかにされています。つまり人間は、その存在の出発点を失い、本当に帰るべき故郷（ふるさと）を失ってしまった状態なのです。聖書の根本的なテーマは、私たちがこの生涯を通して、まことの神と再び出会い、神のもとへと帰る、本当の故郷へとたどり着くということにあります。</p>

<p>2.　神のかたちと罪<br />
　神は人間を「神のかたち」に創造しました（創世記1:27）。「かたち」とは、私たちの人格、性質、こころを指しています。神はなぜ人間を神のかたちとして創造されたのでしょうか。なぜなら、神はご自分の栄光を私たちに表し、すばらしい世界をともに分かち合おうとされたからです。しかし、私たちは神のものであることを忘れ、神のみこころに反し、自己中心へと陥ってしまいました。これこそが神に対する罪責なのです。私たちは神から離反してしまったがゆえに、苦痛と病と死の恐怖に苛むようになってしまったと聖書は語ります。私たちの求めは、神でなくては答えることのできないものです。しかし、私たちは、神を求めれば求めるほど、神から遠ざかる現実をも見出すことになります。なぜなら、私たちの中には、神と相反する「罪」があるからです。私たちの思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなってしまったのです（ローマ1:20,21）。神と私たちとの間には深い断絶があるのです。</p>

<p>3.　小羊イエス<br />
　旧約聖書には「いけにえ」の規定が記されています。ここに表されたのは、人と人との取り決めではありません。神の前に人が償うべき内容です。それは「いのち」そのものです。神と正しい関係を持つために、動物のいのちをささげることが指示されています。しかし、それは最良のいけにえであっても不完全なものです。私たち自身とはイコールではないからです。それゆえに神は、イエスを私たちに送ってくださいました。私たち以上の犠牲としてイエスが私たちに送られたのです。キリストは十字架に架けられ殺されます。それは、まさにほふられたいけにえそのものです。イエスを信じるということは、この方が私の身代わりに犠牲になってくださったということを信じることです。そのときに、私たちは、神に完全にゆるされ、神との新しい関係に入ることができるのです。</p>]]>
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<title>2009/11/22礼拝メッセージ</title>
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<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2009年11月22日礼拝のメッセージ要約です。<br />
「すべてキリストのゆえに」<br />
ピリピ3:4～9</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 終末<br />
　「はじめがあり、終わりがある」それが聖書の語る世界観です。私たちの世界は永遠ではありません。この事実から私たちは目をそらしてはなりません。大きな視野に立つならば、この世界のはじまりと終わりがあるということになります。もっと小さな範囲では、私たち自身のいのちのはじまりと終わりがあります。人間という存在は、はじまりと終わりを意識して生きる存在です。終末が問われる時に、私たちは自分という存在が量られることにもなります。今日の箇所で、パウロは自分自身のことを証言しています。ここで彼が言っていることを短く言い表すならばこうなります。自分はユダヤ人であれば非の打ち所のない生まれと実績である。しかし、彼はここで自らの存在を決めるのは、そのようなものではないと言います。終わりの時に、ものを言うのはこれらのものではないのです。</p>

<p>2. 存在の救い<br />
　今日の箇所が私たちに問いかけるのは、あなたの存在は何によって救われるのか、あなたは終わりの時に何によってしっかりと立つことができるのか、ということです。パウロはここで、昔の自分と、今の自分を比べています。昔の自分は、自らの生まれや能力、実績、評価、それによって自分は立っていたと証言しています。しかし、それらのことが自分を救ってくれるわけではないことに気がつくのです。私たちがいのちを問われるとき、つまり終末を迎えるとき、それは神の前に立つときであると聖書は言います。パウロはその存在の救いの鍵が「キリスト・イエス」にあると指し示しています。</p>

<p>3. 神の義<br />
　終わりのときに問われるのは、神の前の義であると聖書は語ります。神の前に正しいものとされる、それが義です。それは神との関係が正しいものとなるという意味です。神との関係が正しくなければ、私たちは自分の存在の意味を失い、またはじまりも終わりも見極めることができなくなります。聖書において、神の義と救いはセットとして語られます。神からの救い、また真の希望は、神との関係が正しくなることからもたらされる、それが私たちに与えられた道筋です。どうすれば、神と正しい関係を持つことができるのでしょうか。イエス・キリストはこのように語りました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。（ヨハネ14:6）」。このイエス・キリストを知り、そしていのちを得させていただきましょう。</p>]]>
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<title>2009/11/15礼拝メッセージ</title>
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<issued>2009-12-02T03:19:30Z</issued>
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<summary type="text/plain">2009年11月15日礼拝のメッセージ要約です。 「主にあって喜べ！」 ピリピ3...</summary>
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<![CDATA[<p>2009年11月15日礼拝のメッセージ要約です。<br />
「主にあって喜べ！」<br />
ピリピ3:1～3</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 喜べという命令<br />
　「喜べ」とここで命じられています。普通「喜ぶ」ことは命じられてできることではありません。しかし、この命令は、私たちを立ち上がらせ、前進させるための言葉です。この手紙は、ピリピ教会の苦難の時、また同時にパウロの苦難の時に書き記されたものです。「私の兄弟たち。主にあって喜びなさい」これはパウロの命令であると同時に、パウロ自身もまた神様から語られていることでもあります。このような状況に置かれている、だからこそ「主にあって喜びなさい」と。</p>

<p>2. 主にあって<br />
　この言葉の中で重要なのは「主にあって」という言葉です。この言葉が意味しているのは、この喜びがむなしく終わる一時的なものではないということです。主イエスにあって喜ぶということ。この短い言葉であらわされていることこそ、聖書で語られている私たちに与えられる約束の一つです。パウロが命じる「喜び」は、自分で言い聞かせて喜べというものでは決してありません。主イエスにあって私たちは喜ぶことができる。いえ、今信じる者には喜びがすでに与えられている、そう私たちに語りかけている言葉なのです。パウロはこの喜びについて「あなたがたの安全のためにもなること」であると言っています。主にあって喜ぶときに、私たちは堅く立つことができる、そうパウロは私たちに教えています。</p>

<p>3. 真の喜びを得る<br />
　キリストにある信仰とはご利益ではありません。この信仰は真の喜びを得させるものです。パウロはここで誤った教えへの警告を記しています。本当の喜び、キリストにある信仰を失わせるものに気をつけるようにとパウロは言います。それは、正しい行いや目に見える正しさによって救いを得ようとする「律法主義的」な、また「ご利益主義的」なあり方でした。パウロは自らのことをこう言い表しています。「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」真の喜びを得、主にあって喜びを持つものとは、どのような人でしょうか。それは、神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない者です。なぜなら、神が私たちに与える救いは、私たちの側に根拠はなく、ただ神からのみ与えられるものだからです。だからこそ、この救いと喜びは失われることがないのです。</p>]]>
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