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<title>真砂バプテスト教会: MB-Church</title>
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<title>2012/5/13礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2012年5月13日の礼拝メッセージの要約です。 マルコ3:20～30 「聖霊を...</summary>
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<![CDATA[<p>2012年5月13日の礼拝メッセージの要約です。<br />
マルコ3:20～30<br />
「聖霊を汚す罪」</p>]]>
<![CDATA[<p>1. キリストは狂人か？<br />
　イエスの身内（他の福音書では家族）が来て、イエスを連れ戻しに来ました。イエスは「気が狂っている」とふれまわった人々がいたからです。私たちは、もちろんイエスの気が狂っているとは考えません。しかし、この時代のユダヤの指導者たちは、そうは考えませんでした。さらに悪意のある言葉を述べています。イエスは悪霊の力によって業をなしている・・・明らかな悪意を含む言葉です。それはイエスがいったい誰なのか、冷静な目でその正しさを見極めた上での結論ではありません。それは、神の正しさを見極めもせず、ただ自らの正しさに固執していたことの表れでした。</p>

<p>2. イエスの応答<br />
　イエスは次のように答えました。私がもし悪霊の力を借りているのだとすれば、悪霊を追い出すような業とは、すなわち内部分裂だと。イエスはさらに一歩踏み込んで教えられました。人は、その犯すどんな罪も赦していただける、私たちが想定するありとあらゆる罪は赦されると。しかし「聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められる」とも言われました。これは具体的に何を指しているのでしょうか。それはまずイエスに表された神のみ業を、悪霊の力によるものだとすることです。なぜ彼らはイエスの業を悪霊のものだといったのでしょうか。彼らはすでに与えられていた神のことばみ教えを与えられながらも、そこにある神のみこころを理解していませんでした。そして神の子である方を、自分たちの正しさに固執するあまりに、悪霊の力によるものであると言ったのです。自らの正しさを一旦置き、神のみこころが何かを思いつつ、冷静な目でイエスを見るならば、イエスが誰なのかは明らかなことなのです。</p>

<p>3. 私たちの応答<br />
　イエスという方を、私たちがどのように受け止めるのか、そこに教会の信仰はかかっています。そしてこれは同時に教会に与えられている指針でもあります。教会は、キリストの姿を、その品性を実としてならせることによって、この集団が何であるかを証するものでなくてはなりません。私たちのあり方と、神のことばが照らしあわされる時に、教会は自己証明をすることになるでしょう。私たちの神はどのような方なのか。また私たちが何を信じ、そして何を大切にしているのか。そのことを教会は明らかにすることができるのです。</p>

<p>参照：ガラテヤ5:22～26</p>]]>
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<title>2012/5/6礼拝メッセージ</title>
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<![CDATA[<p>2012年5月6日の礼拝メッセージの要約です。<br />
マルコ3:7～19<br />
「主の選びと教会」</p>]]>
<![CDATA[<p>1. イエスの名声<br />
　この時のイエスの名声は広く伝わりました。それは、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダンの川向こう、ツロ、シドンという東西南北に渡りました。そして大勢の人々が殺到したのです。これは自然な流れであったことでしょう。しかし、ここでもイエスは悪霊にものを言うのを許されませんでした。「あなたこそ神の子です。」それは、私たちもそう信じる言葉です。これはこの福音書の大事なテーマです。それゆえに、この言葉をイエスは悪しき霊が語ることを許されませんでした。それは何よりも、人々が勝手につくりあげるメシア像とご自身とはまったく違うのだということを指し示そうとしているからです。この福音書が語ろうとしているのは、イエスのご自身をささげられた歩みです。その存在そのものなのです。</p>

<p>2. 弟子の任命<br />
　弟子を任命する場面にも、なにゆえにイエスがこの地に来られたかを知る手がかりがあります。イエスは私たちが考えうる「救い」を正されようとしています。そもそも、イスラエルの民の、旧約での役割はそこにありました。この地において神の国を体現することです。そのイスラエルは12部族によって構成されていました。それはヤコブの12人の息子がその原点にあります。彼らはなぜ選ばれたのでしょうか。そこには神の選びがあります。そして、この場面での、イエスによる新たな共同体の形成もまた、同じような神の選びがあるのです。そしてこの新たな12人にイエスはその権威を分け与えました。その中にはイスカリオテ・ユダも入っていたのです。</p>

<p>3.　私たちを通して<br />
　これは任命失敗なのでしょうか。なぜイエスはこの12人を選ばれたのでしょうか。私たち教会もそうです。私たち一人一人もなぜ主は選ばれたのでしょうか。私たちもこの先何をするか分かりません。信じてもなお失敗をし、また主を見失うことさえあるでしょう。そのようなリスクを主はご存知の上で選ばれています。まずユダヤ人たちは、この12人を見ます。この弟子たちを通して、神の国を見ることになるのです。この12人を通して、イエスにある赦しと復活、罪への勝利が示されていくことになるのです。この任命から始まる神の民の新たな姿、これは間違いなく教会を指しています。それはキリストがともにいてくださるという新たな神の民なのです。</p>

<p>参照：ヨハネ15:15、16</p>]]>
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<title>2012/4/29礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2012年4月29日の礼拝メッセージの要約です。 マルコ3:1～6 「安息日の主...</summary>
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<![CDATA[<p>2012年4月29日の礼拝メッセージの要約です。<br />
マルコ3:1～6<br />
「安息日の主のみこころ」</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 正しさ<br />
　私たちにとっての正しさとは何でしょうか。私たちはある正しさの枠組みを持って生きています。その枠組みの中で、絶えず自分や他者をチェックしています。枠組みの力というものは、相当に強力です。時に暴力的ですらあります。聖書の時代、安息日を守ることにも、暴力的な力が働いたのです。この時代のユダヤ人にとって、この日を守ることは絶対でした。安息日と礼拝とは切り離すことはできません。しかし、この時代のユダヤ人たちにとって、安息日は最早、祝いの日ではありませんでした。神は安息日を守る民のことを忘れず、救いを与えてくださり、正しい者たちは必ず勝利する、それが、強力な民族主義の思想に結びついていきます。そしてそれゆえに自分たちで戒めを加え、厳密性を高めていきました。</p>

<p>2. 律法<br />
　旧約聖書にはどう記されていたのでしょうか。出エジプト記31:15、レビ記23:3を見てみましょう。「殺されなければならない」これは最上級の禁止の言葉です。しかし、この強い禁止の目的はあくまでも、この日を徹底的に「神を礼拝する日」として意識するということにあります。彼らは、神の民としてこの世で生きるという使命を託されたのです。そしてこの命令は救いの条件ではありません。むしろ、神の民であることの証なのです。しかし、イエスの時代には、主の安息日を祝うことではなく、彼らの中での正しさが守られることに大きな比重が置かれていたのです。時に、「正しさ」は、私たちの中にあって鋭い剣となることがあります。そのような目でイエスを見ていました。</p>

<p>3. 安息日の主のみこころ<br />
　イエスは、そのような中、手の不自由な人の手を癒すのです。イエスはここで問われました。「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」安息日を覚えること。それは私たちにとって最も基礎となる部分です。これをないがしろにしてしまうならば、人は知らず知らずのうちに神から離れていくことになるでしょう。しかし、ただ守るだけになってしまうこともまた、神から離れることになってしまうのです。ただこの日を守ることが大事なのではありません。真の課題は、その日をどのように覚え、どう過ごすかということにあるのです。</p>

<p>参照：出エジプト記 31:15、レビ記23:3、ヘブル3:13</p>]]>
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<title>2012/4/22礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2012年4月22日の礼拝メッセージの要約です。 マルコ2:23～28 「安息日...</summary>
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<![CDATA[<p>2012年4月22日の礼拝メッセージの要約です。<br />
マルコ2:23～28<br />
「安息日の主」<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>1. パリサイ人<br />
　イエスの登場はどれだけセンセーショナルなものであったのでしょうか。ユダヤの人々が、積み重ねてきた神の前に敬虔な歩み。それは私たちが簡単に「偽善」と片付けることのできないものでもあります。今日の箇所にも登場するパリサイ人。彼らに対する私たちのイメージは「偽善者」です。しかし、彼らは、自主的に神の聖さと神にある生活を求め、実生活の中で神を中心にし、神の救いを求めていた人々でした。もしパリサイ人たちが偽善者なのだとしたら、おそらくは私たちも例外なく偽善者であるということになるでしょう。しかし、イエスはパリサイ派と対峙することによって、神のみこころを表そうとしました。人の考える正しさと神の考える正しさのギャップが、そこに明らかになったのです。</p>

<p>2. 安息日<br />
　安息日は単なる制度の問題ではありません。この日は、創世記のはじめに記された神のあり方を示すものであり、十戒に規定された大切な戒めでした。この日は完全に神のものであり、創造の御業を覚え、神をあがめる日でした。この時、イエスの弟子たちは穂を摘むという行為をしていました。これは安息日にはしてはならないと当時、考えられていたことでした。ですからパリサイ人のイエスに対する質問は当然のものでした。この場面で、イエスが明らかにされたことは何だったのでしょうか。</p>

<p>3. 安息日の主という宣言<br />
　一つは安息日の本当の意味です。そしてもう一つはイエスこそ安息日の主だということです。安息日の本質的な意味は、安息すること、つまり神に憩うことです。創造の主を覚え、十字架の御救いに浸り、キリストとの交わりを享受すること。そこにキリストの教会の安息日の意義があります。しかし、この時のパリサイ人たちは、ただ安息日を守る、その正しい行為にのみ執着していました。この時の人々は、すでにその本質的な意味を失っていたのです。さらにイエスは重要なことを明らかにしました。それはイエスが安息日の主であるということです。神が供えられた安息。それは私たち人間のためのものです。しかし、私たちは真の安息を手に入れることができずにいます。すべての業、仕事、労苦、痛み、病、飢え乾き、そのすべてから解放され、神の前に安らぐ時を、私たちはどのようにして手にすることができるのでしょうか。私たちの安息は、イエスによってのみ真実なものとなるのです。</p>

<p>参照：マタイ11:28～30</p>]]>
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<title>2012/4/15礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2012年4月15日の礼拝メッセージの要約です。 マルコ2:18～22 「真の新...</summary>
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<![CDATA[<p>2012年4月15日の礼拝メッセージの要約です。<br />
マルコ2:18～22<br />
「真の新しさ」<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 断食<br />
　キリストの時代の断食とはいったいどのような意味があったのでしょうか。三つほどその意味を挙げることができるでしょう。一つは疫病や飢饉などの大きな危機に際して、神に嘆願するときに断食をしました。さらには個人的な神への誓約の時。嘆願の時。その際にも断食したようです。そしてもう一つ。この断食には、バビロン捕囚期の苦しみを思い返すという意味がありました。あの時代の苦境。自由に食べることができず、辛苦を通ったイスラエルの歩みを忘れないための断食。あのときの民が犯し続けた神への不信仰、偶像礼拝、それらの罪を悔い改めるための断食。そして、この断食には、神が約束してくださった方、救い主である方を待ち望むという意味が、そこに込められていました。ところが、イエスの一団は断食をしていませんでした。</p>

<p>2. 花婿が来たということ<br />
　その理由をイエスはこのように語っています。イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。」あなたがたが400年の間、断食をし、そして待ち望んできた、その喜びの時が来ているとイエスは言われたのです。救い主があなたの目の前にいると。しかし、彼らの目にはそうは写りませんでした。</p>

<p>3. 真の新しさとは<br />
　続けてイエスは二つのたとえ話を語られました。一つは着物の継ぎはぎのたとえ、もう一つはワインを入れる皮袋のたとえです。一つ目の要点は、古い着物に新しい布切れは合わないということです。ここでの結論は、古いものには、古いものを継ぎ合わせるとなるでしょう。実際に、これは一つの私たちの特徴です。古いという意味は、自分たちの考え、価値観、見方ということを意味しています。二つ目のたとえはどうでしょうか。今度は、新しいぶどう酒はどこに入れるのかという問題です。ここでの結論は明らかです。新しいことを受け入れるためには、新しい入れ物を用意する必要があるのだということ。ここでの新しさとは、第一に私たちの側からではないという意味です。神から与えられるもの。それがここでの新しさでしょう。古いとは何でしょうか。そして新しいとは何でしょうか。真の新しさ、それは私たちの側からではなく、神が与えてくださることです。そして、それは何よりも、キリストに見出されるものなのです。</p>

<p>参照：ローマ6:4～5、Ⅱコリント4:16</p>]]>
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<title>2012/4/8礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2012年4月8日イースターの礼拝メッセージの要約です。 ローマ5:2～5 「与...</summary>
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<![CDATA[<p>2012年4月8日イースターの礼拝メッセージの要約です。<br />
ローマ5:2～5<br />
「与えられた恵みの場所」<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>1.　イースターの希望<br />
　必ず苦難の時はすぎ去り、復活の主の恵みに私たちはあずかることができる、これこそイースターが私たちに語りかける大きな希望だといえます。パウロは私たちに語りかけます。「いま私たちの立っているこの恵み」を覚えなさいと。私たちの立っているこの恵みとは何でしょうか。それはキリストが私たちに開いてくださった救いの恵みです。それでは救いの恵みとは何でしょうか。聖書は、私たち人間のおろかさや罪深さを明らかにしています。しかし、それは私たちをただ落ち込ませるためでは決してありません。落ち込ませるというよりも、私たちが「神」という存在をはっきりと意識して、そして神に向かって生きるということを自覚させるためだと言えます。自らの力や知恵では、神に向かって、正しさや愛、きよさ、完全と私たちが考える方へとは向かわない現実があります。それゆえに、私たちは苦闘します。しかし、キリストは私たちに新しい地平を開いてくださるのです。キリストの十字架と復活は、私たちに与えられた唯一の処方箋です。死も苦しみも、痛みも憎しみも、争いも、そこで終わりではありません。キリストは、神に向かって新しい道を開いてくださったのです。復活にある希望が私たちに示され与えられたという恵み、それがパウロの語る恵みの場所なのです。</p>

<p>2.　神の情熱<br />
　しかし、私たちは、その恵みの場所を自分たちで再び閉ざし、また見失ってしまう者でもあります。人間の罪の大きさに絶望してしまう時があります。しかし、パウロはそのような私たちにもう一度確認するかのように言います。「私たちは神の栄光を望んでいるのではないのか」と。しかし、私たちは本当に神の栄光を望んでいるのでしょうか。みことばはそんな私たちにさらに語りかけます。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」患難・・・それはいまや復活のキリストに結びついたものとされている、それは神からの一方的な恵みに他なりません。私たちから出たことではありません。品性とは、神のかたちに変えられていく私たち自身の人格のことです。恵みの場所、そこは私たちの歩み始める地点です。そこから、神は、私たちとともに歩み、私たちを変え続け、そして神のもとに行くまで、私たちを作り変え続けてくださるのです。私たちが望む以上に、神が、私たちをキリストの似姿になることを望んでくださっているのです。</p>]]>
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<title>2012/4/1礼拝メッセージ</title>
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<![CDATA[<p>2012年4月1日の礼拝メッセージの要約です。<br />
ローマ15:1～7<br />
「キリストのからだを建てあげるために」</p>]]>
<![CDATA[<p>1.　「力のある者」<br />
「力のある者」とはいったい誰を指しているのでしょうか。それは「偶像に捧げられた肉を食べてよい」と思っていた人々のことです。ユダヤの律法を堅く守りたいと考えていた人々は、市場に流れていた肉は汚れているので食べてはならないと考えていました。このような人々は古い律法に執着するユダヤ人たちのことで「力のない人」と言われています。力のある者とはより新しい考えを持っている人、そして力のない者とは、これまでの考え方にとどまる人と言ってもいいでしょう。当時の教会の中には、すでに考え方の違いによって、教会が一つになれないという現実がありました。深い溝、ギャップがここにあります。</p>

<p>2.　良きことのために<br />
このようなギャップが、現代の教会の中にないかといえばそうではありません。時代が変わる中で、以前は正しいと思っていたことがそうではなくなる、そのようなことは数多くあります。新しい考えがすべて正しいということではありません。世の中に様々な衝突があるように、教会の中にもそのような衝突は絶えずあるのだということです。問題は衝突があることではありません。問題は衝突の最中にあると、本当に大事なことが見えなくなることです。ですからこうパウロは言います。「自分を喜ばせるべきではありません。」ここに一つの決定的な基準が示されることになります。ここにおいて「強い」「弱い」という区別はなくなっています。「私たちは互いに、良きことのため、建てあげることのために、隣人を喜ばせるべきです。」教会は「ある人の益」になることを求めるのではありません。教会の、キリストにあって「良きこと」のために、と語られています。</p>

<p>3.	忍耐と励ましの神によって<br />
教会はキリストのからだです。なぜ互いに仕えるということを大切にするのでしょうか。なぜなら、そこにこそ「キリスト」が表されるからです。私たちは徹底的に、教会がキリスト中心であることを教えられる必要があります。「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった」のです。その姿は、みことばにある通りであり、昔からの神のみこころなのです。私たちが仕えるものと変えられていくこと。これは神のみ思いです。強い人も、弱い人も、すべて仕えるものとならせていただくのです。「同じ思い」とは、神と、キリストと同じ思いを持つということです。だからパウロはここで神に祈るのです。忍耐と励ましの神に祈り求めるのです。神は必ずみこころを求める者の祈りに、忍耐深い祈りに応えてくださるお方なのです。<br />
</p>]]>
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<title>2012/3/25礼拝メッセージ</title>
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<![CDATA[<p>2012年3月25日の礼拝メッセージの要約です。<br />
マルコ2:13～17<br />
「私たちへの招き」<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>1.　イエスの弟子たち<br />
　イエスの弟子になった人たちには様々な経歴の人がいました。漁師であったペテロやヨハネ、商人や、熱心党員と呼ばれる者、そして今日登場するレビという名の取税人。この中にはパリサイ人や律法学者はいません。職業すら記されていない人もいます。いわゆる「庶民」であったと言ってもいいでしょう。しかし、イエスは単なる庶民の味方ではありませんでした。後にペテロはイエスの十字架を指してこう説教します。「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。(使徒の働き 2:36)」聖書は、私たちすべての人が、神の恵みから離れ、自分勝手に歩み、そして神を神としない歩みをしていると明言しています。</p>

<p>2.　レビという名の取税人<br />
　彼は12弟子の一人となる人物です。取税人という職業はユダヤの中では特に忌み嫌われていた職業でした。彼が関税所で仕事をしているときにイエスから「私について来なさい」と声をかけらました。これは当時の時代背景から言うとかなり大胆な行動です。一緒にいた弟子たちも驚いたことでしょう。イエスについてきた民衆も引いてしまったのではないでしょうか。さらにイエスはレビの家に行きます。そこに集まったのは取税人の仲間と、当時の社会で「罪人」と呼ばれる人々でした。イエスの行動には、境界線というものがなかったことが分かります。それはパリサイ人であっても、律法学者であっても、漁師であっても、病を負っていようとも、お金持ちでも、貧しい人でも、収税人でも分け隔てはありませんでした。</p>

<p>3.　医者である方<br />
　「なぜ罪人と食事をするのか」と問われた時のイエスの答えは次のようなものでした。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」イエスは、私たちの罪を赦し、病を癒し、ゆがみをただし、神にある聖さへと導く医者だと言うのです。ただあなたは大丈夫だと言ってくれる医者ではありません。必ず私たちを神のもとへと導く癒し主なのです。それはただ一方的に一瞬で終わるような治療ではありません。私たちの人格に関わり、ともに時間を過ごし、そして一緒に歩んでくださる方なのです。</p>]]>
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<title>2012/3/18礼拝メッセージ</title>
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<![CDATA[<p>2012年3月18日の礼拝メッセージの要約です。<br />
マルコ2:1～12<br />
「屋根に空けられた穴」<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 屋根の穴<br />
　屋根に穴が開けられました。なぜ屋根を空けるほどに急いでいたのでしょうか。人がいなくなるまで待てなかったのでしょうか。この時しかないと思って、この行動に彼らはうって出たのでしょう。この病人が相当悪い状態であったのでしょうか。もしくは、ここに来るまでには相当な決意が必要であったのでしょうか。この時点で、すでにイエスの周りには大勢の人がいました。しかし、この四人の友人たちはあきらめませんでした。イエスのもとに彼を連れて行くことさえできれば、何とかしていただけるのではないか。そんな必死な思いがこの屋根の穴となったのです。</p>

<p>2. 目の前の壁<br />
　この病の人のために誰もゆずってはくれませんでした。ここには順序がありました。当時、優先される人々がいました。神の祝福や救いにも順序があった時代です。罪あるものは後。特に重い病を持つ者や、忌むべき職業に付く者は後回しとなっていました。それがこの時代の価値観でした。私たちの時代はどうでしょうか。目に見えないところで、以前として差別があり、区別があります。また人の価値も、能力や才能で決まってしまう面もあるでしょう。この時代とは違いますが、私たちとイエスの間にも、様々な壁が立ちはだかっています。この屋根の穴は、キリストの前に、神の前に立ちはだかる幾重にも立ちはだかる壁を突き破った穴でもあるのです。目の前に開けられる穴をイエスはどのような顔で見ていたのでしょうか。この出来事は、この時代の価値観に穴が開けられた瞬間でもあったのです。</p>

<p>3. イエスの宣言<br />
　イエスは目の前に下ろされた人に向かってこういわれます。「子よ。あなたの罪は赦されました。」ここで、イエスはご自分のことをさらに明らかにされています。ただの預言者でも、律法の教師でもなく、「メシア」である、そのことを明らかにされたのです。「人の子」という言葉は、ダニエル書で語られる「神が遣わされる救い主」の称号です。「あなたの罪は赦されたというのと、おきて、寝床をたたんで歩け」というのと、どちらがやさしいか。これはどちらも難しいものです。イエスはこの人の病を癒します。それは罪が赦されたことの、目に見える証でした。私たちは、この出来事をどのように私たちの物語として受け取るでしょうか。あなたは、この中に出てくる人々の中のいったい誰でしょうか。私たちがイエスを信じるとは、ただ心に思うだけではありません。ここに登場する四人の者たちの信じきる姿に、神の思いが表されているのです。</p>]]>
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<title>2012/3/11礼拝メッセージ</title>
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<![CDATA[<p>2012年3月11日の礼拝メッセージの要約です。<br />
ヨハネの福音書17:16～18<br />
「天と地のはざまで」<br />
　<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>1.　3.11<br />
　昨年のあのときを思い返す日。いえ、思い返さざるを得ない日。そしてこれからも思い続ける日が3月11日です。大きな衝撃が私たちを襲いました。あの日、私たちの目の前にある風景の色が変化した気がしました。しかし、私たちは今何を、どこを見ているのでしょうか。聖書においてもそのようなシーンが幾度か出てきます。主を知り、信じる者たちが、何を見るのかが問われることが度々あります。私たちは、おそらく自分の望むものだけを見たいと思う者たちでしょう。見たくない現実からは目をそらしたいのです。しかし、主が望まれているのは、「神と思いを合わせてしっかりと一緒に見なさい」ということです。この大きな痛みを覚えた一年を振り返りつつ、もう一度、私たちはそこにあるものへと思いを向けたいのです。</p>

<p>2.　大切なこと<br />
　本当に今私たちは回復しているのでしょうか。一瞬にして大事にしているものが流され奪われる現実。何が人間にとって大事なのか。何が私たちにとって生きるということなのか。人のいのちの尊さと同時に、人のいのちのはかなさをまざまざと見せ付けられもしました。しかし気が付くと、震災以前の価値観へと戻される時があります。与えられている日常の恵みが、神から与えられているのにも関わらず、自分の力で、自分たちでさもどうにでもなるようにと、すぐに考えてしまうのです。今日も礼拝に来ることが赦され、神に感謝をささげるときをもてる恵みを、私たちは覚えているのでしょうか。</p>

<p>3.　天と地のはざまで<br />
　今こそ、主のまなざしとともに見なければならないものがあるのではないでしょうか。この世界は、再び主イエス・キリストが来て下さるその時まで、痛みと悩みに満ちた場所であることは間違いありません。私たちには立ち返るべきところがあります。神のことばである聖書、そして私たちの教会の主であるイエス・キリストです。聖書は、私たちにただ地を見よとだけ語ってはいません。罪の地の現実の一方で、私たちは、地だけではなく天を見よ、とも語られています。私たちは、この世のものであって、実はそうではありません。私たちは主の救いに既にあずかっています。この救いと希望を告げ知らせるように、教会を通して地と天をつなぐようにと語られている者たちなのです。私たちは天と地の狭間に生かされています。そして教会は、主キリストとともに、この狭間を歩みぬき、そして主キリストにある希望を語り、神の国を指し示す、そのような存在として置かれているのです。</p>]]>
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<title>2012/2/26礼拝メッセージ</title>
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<![CDATA[<p>2012年2月26日の礼拝メッセージの要約です。<br />
マルコの福音書1:40～45<br />
「きよめの供えものを携えて」<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>1. ツァラアトに冒された人<br />
　当時の律法の教師たちは、この病を治すことを「死人をよみがえらせるより難しい」とまで言っていた程、忌まわしいものとしていました。そしてこのような人たちは隔離されていました。一旦、ツァラアトに冒されたことが分かると、財産も没収され、家族から引き離され、その病の人々のみが住む場所へと移されてしまったのです。この病に冒された人がイエスのもとにやってきました。彼の行動は常軌を逸したものです。もちろん彼に触れようとするものはいません。その中でイエスは彼の前に立たれたのです。</p>

<p>2. イエスのあわれみ<br />
　イエスはこの人を深くあわれました。この人の行動はもしかすると自暴自棄からであったかもしれません。この人に対して私たちは何かかける言葉を持っているでしょうか。「わたしの心だ。きよくなれ」そうイエスは語られました。ツァラアトが癒されるというのは、ただ直るとは意味が違います。この病の前では、人の暗い負の部分すら明らかになってしまうものです。自らの弱さだけではありません。周囲の人々の弱さ、醜さ、そのすべてがここで扱われているものなのです。</p>

<p>3. イエスの命令<br />
　イエスは病を癒された後、彼を厳しく戒めました。「気をつけて、だれにも何も言わないように」「自分を祭司に見せるように」と命じています。なぜなら、勝手に判断してしまうならば、新たなパニックやうわさを引き起こすことになりかねないからです。そして公の証として供え物を神にささげるようにと命じられました。イエスは、この世界に何をしに来られたのでしょうか。そのことをもう一度、この出来事とイエスの言動から考えさせられます。ただイエスは、ご自分のことを宣伝しに来られたわけではありません。イエスが意図されたのは、キリストによってもたらされる希望を指し示すことにありました。神の前にゆるされて礼拝をささげる者とされたという事実です。私たちもまたキリストによって赦され、神の前に自分自身をささげるようにと導かれているのです。</p>]]>
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<title>2012/2/19礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2012年2月19日の礼拝メッセージの要約です。 マルコの福音書1:35～39 ...</summary>
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<![CDATA[<p>2012年2月19日の礼拝メッセージの要約です。<br />
マルコの福音書1:35～39<br />
「独り祈られたイエス」<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 弟子たちの記憶<br />
　弟子たちは、この福音書に記されている出来事を、後に思い返して語り伝えています。彼らが、イエスの姿を振り返ったときに思い返したのは、ただただ大きな力を振るわれる姿だけではありませんでした。ここにあるのは、イエスがただ独りで祈っておられた姿です。マルコの福音書で、イエスが祈っておられたという記事は三箇所です。もちろんそれ以外のときでも、イエスは祈っておられたはずです。しかし、弟子たちが思い返したときに、特に記憶していたのは、孤独の中で祈られるイエスの姿でした。</p>

<p>2. 何を祈っていたのか？<br />
　一体イエスは何を祈っていたのでしょうか。しかも孤独の中で。イエスの祈りで思い出すのでは、イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」です。「神様のみこころがなるように。」そのようにイエスは、絶えず祈られていたことでしょう。そして、この祈りには絶えず苦しみがともなっていたことも想像に難くありません。罪に満ち、苦しみと痛み、時に裏切られ、失意をともなうこの地上で、神のみこころがなるように祈るのは、とても強い意志と信仰が必要です。周囲の称賛や盛り上がり、また弟子たちの期待とは別に、あえて独りとなられるその姿がここにあります。弟子たちはイエスを呼びに来ました。その時にイエスは彼らにこう言われました。「福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」イエスは自分の願いを達成するために私たちのところへ来られたのではありません。人々のニーズに応えるためでもありません。ただ神の福音を告げるために出てきたのです。</p>

<p>3. 独り祈られるイエス<br />
　福音とは何でしょうか。それは私たちの王であり、慰め主であり、導き手である救い主が来られたということです。そして、その方は私たちとともに歩んでくださり、私たちを神の支配へと導きいれ、神の国を今ここに確かにしてくださる方です。そしてこの方は、私たちの弱さを分かっていてくださる方です。同じ人間として、私たちの痛みを、苦々しい思い、そのすべてを受け止めてくださるのです。この世では多くの矛盾があります。おそらく気落ちする現実があるでしょう。しかしその時にこそ、神の前に独り祈られるイエス様の姿を、私たちも思い返したいのです。</p>]]>
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<title>2012/2/12礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2012年2月12日の礼拝メッセージの要約です。 マルコの福音書1:29～34 ...</summary>
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<![CDATA[<p>2012年2月12日の礼拝メッセージの要約です。<br />
マルコの福音書1:29～34<br />
「主がいてくださる」<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>1. ペテロの家にて<br />
　その場所はペテロの家でした。ガリラヤ湖の湖畔の近く、カペナウムという町の漁師の家です。ペテロたちはイエスについていこうと決断しました。しかし、その一方で、ペテロの家の家族たちは複雑な思いを抱いていたことでしょう。そのような中ペテロはイエスを招き入れます。ところが、そこで事件がおきます。シモンの姑が高い熱病を発症したのです。周囲の人もどうしようもない状況でした。とにかく彼らは、イエスにその病のことを告げます。会堂で悪霊を追い出したイエスならば、この熱も何とかなるのではないか･･･そう考えたとしても不思議ではありません。そして期待通りのことが起きます。熱が下がるのです。その家の空気は一変したことでしょう。暗い影が、すぐに暖かな光へと変わった瞬間でした。</p>

<p>2. 殺到する人々<br />
　夕方になると、周辺ものたちが、イエスのところに病人や悪霊につかれた人を連れてきました。とにかく何とかして欲しい、その一心で、それぞれの家族をイエスのもとにつれてきたのです。そしてそのすべての必要にイエスは応えられました。このときの人々の驚き、そして喜びはどのようなものだったでしょうか。おそらくイエスの力が圧倒的なものであればあるほど、ここにある驚きは大きく、そして喜びも絶大なものだったでしょう。暗い夜であれば、あるほど、その光は輝きをましたことでしょう。イエスは、この後人々の期待を一身に背負って歩まれます。この方によって、神にある癒しが、私たちに与えられる。さらにそれは大きなものになっていきます。しかし、すぐに「神にある」ということは失われ、「私の願い」をかなえてくれる方、そのような期待へと膨らんでいくのです。しかし、その先にあるのは何だったでしょうか。その先にあるのは十字架でした。十字架において、私たちの罪を、私たちの痛みを、苦しみをすべて背負い、神の完全な赦しを私たちに与えるために、イエスは歩まれていくのです。</p>

<p>3.　黙すとき<br />
　イエスは、奇跡的なことをされた後、それを黙っているようにと命じました。なぜなら、この時点でイエスのことを正しく理解しているものは皆無だったからです。よく、私たちは「すぐに分かった」といいたくなります。また決め付けたくもなります。しかし、イエスはそんな私たちに言うのです。「まだあなたは十分に私のことを見てはいない」と。私たちは知っているようで、知っていない者たちです。しかし、信じ従っていくときに、イエスは私たちを正しい道へと導いてくださるのです。</p>]]>
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<title>2012/1/29礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2012年1月29日の礼拝メッセージの要約です。 マルコの福音書1:21～28 ...</summary>
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<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2012年1月29日の礼拝メッセージの要約です。<br />
マルコの福音書1:21～28<br />
「イエスの権威」</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 権威<br />
　この箇所で特に中心的なことがらは何でしょうか。それは「権威」についてです。正しい権威は私たちにとってとても重要です。問題は何がよい権威なのか、ということでしょう。それを見分ける目。それが私たちには必要です。彼らはカペナウムという町に入ります。会堂では、旧約聖書が開かれ、律法学者たちが聖書を教えていました。聖書を教えているというよりも、むしろ、自分たちの考えの正しさをといていたといった方が正確かもしれません。私たちはこうすれば間違えない、祝福された者になれる、そのように教えていました。シナゴーグは、学校でもあり、社交場でもあり、情報交換の場でもあったのです。私たちも、どこかで教育を受け、正しさを教わります。そのような中で考えさせられるのは、私たちの正しさはどの権威によっているのかということです。</p>

<p>2. 権威ある者として<br />
　イエスは「権威ある者のように教えられ」ました。律法学者たちとは異なる権威を示されました。イエス自身のことばに力が、神にある権威があった、ということです。イエスは別の箇所でこう語られています。「私が道であり、真理であり、命なのです。」人でありながら、神と等しい者としての権威をもって語り、それでいながら自らのために生きることはしなかったイエス。そのような人間では不可能なあり方をキリストはされました。だからこそ人々は驚くのです。この人はいったい何者なのだと。</p>

<p>3. 汚れた霊を追い出す権威<br />
　それだけではありませんでした。ここでイエスは悪霊を追い出されました。「汚れた霊」とは何でしょうか。それは神に、キリストに敵対する力の支配です。聖書に登場する悪霊とは、私たち人間より力が強く、私たちを支配する存在です。何よりも私たちを真の神から遠ざける存在として描かれています。私たちの魂を狙うものは数多くあります。しかしイエスは、圧倒的な権威をもって、この力を追い出すのです。「黙れ。この人から出て行け。」キリストのことばによる圧倒的な権威がここに示されています。私たちを縛る罪、世や他者、また様々な権力、力、そして自分自身。その縄目から解かれるためには、キリストの圧倒的な力、キリストの宣言が必要なのです。</p>]]>
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<title>2012ハートフルコンサートのお知らせ</title>
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<modified>2012-02-10T09:16:48Z</modified>
<issued>2012-02-10T09:06:03Z</issued>
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<summary type="text/plain">今年のハートフルコンサートのお知らせです。 寒い季節、そして教会ならではのコンサ...</summary>
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<dc:subject>教会の集会</dc:subject>
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<![CDATA[<p>今年のハートフルコンサートのお知らせです。<br />
寒い季節、そして教会ならではのコンサートです。<br />
今年は岩渕まことさん、由美子さんご夫妻をお迎えしてのチャリティーコンサートです。<br />
心暖まる歌声とともに、ご一緒に心をつないでまいりましょう。</p>

<p>日時：2012年3月3日土曜日<br />
午後1時30分開場、午後2時開演</p>

<p>当日、募金箱を設置いたします。集まった募金は東日本大震災の復興活動のために寄付させていただきます。</p>

<p>ちらしはこちらです。<br />
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</p>]]>

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