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<title>真砂バプテスト教会: MB-Church</title>
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<title>2012/1/22礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2012年1月22日の礼拝メッセージの要約です。 マルコの福音書1:16～20 ...</summary>
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<![CDATA[<p>2012年1月22日の礼拝メッセージの要約です。<br />
マルコの福音書1:16～20<br />
「イエスの招き」</p>]]>
<![CDATA[<p>1. キリストの招き<br />
　今日の箇所は、ペテロたちがイエスに声をかけられ、そして応答する場面です。当時、律法の教師たちが、弟子を取るということがありました。しかし、多くはこのような方法を取りませんでした。しかも、当時は家業を継ぐということが一般的でもありました。そのような彼らが、すぐに自分たちの職と家を捨て、イエスの言葉に従いました。なぜなのでしょうか。詳細な理由は書いていません。ただ彼らは従ったのです。この時のペテロたちが、イエスのことを正確に理解し、先のことを分かっているのかといえば、全く分かっていなかったことでしょう。それでは、ペテロがこの場面で教会に、また私たちに語ろうとしたことは何だったのでしょうか。</p>

<p>2. ペテロの驚き<br />
　一つは、漁師であった自分たちに声をかけたという驚きです。なぜ私たちであったのか。その理由はよく分かりません。しかし、ここで注目すべきはイエスの言葉です。「私について来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」ここには難しい言葉はありません。ただ漁師であった彼らにとって、とても気になる一言だったのは確かです。人間をとるということが何を意味するのか。またそれが自分たちにできるのか。しかし、その言葉は彼らの心を捉えてしまったのです。結果、ペテロたちはどのような道をたどることになったでしょうか。彼らは後の教会の基礎、信仰者の代表となっていくことになります。彼らはただの漁師です。何か特別な能力があったのではありません。しかし、彼らはイエスが約束されたように、人をとる漁師へと変えられていくことになるのです。</p>

<p>3. 即座の応答<br />
　それはペテロひとりの話ではありませんでした。シモン・ペテロと兄弟アンデレ、またヤコブとその兄弟ヨハネという漁師四人であったのです。ここに教会の息吹を感じることができます。キリストが言葉どおりに、いえ、自分たちの思いをはるかに越えた形で導いてくださったという証がここにあります。アブラハムにも最初の一歩がありました。神を信頼しての一歩です。彼らは即座の応答をしています。私たちにもキリストは呼びかけています。それぞれにその呼びかけは違うことでしょう。しかし、ここで彼らは、自らの頼みを即座に脇に置いたのです。そこから彼らの新たな歩みは始まりました。私たちもその一歩を踏み出してまいりましょう。</p>]]>
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<title>2012/1/15礼拝メッセージ</title>
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<![CDATA[<p>2012年1月15日の礼拝メッセージの要約です。<br />
マルコの福音書1:14、15<br />
「時は満ちて」<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>1. キリストは何を伝えられたのか<br />
　これは大切な、そしていつも私たちが戻らなくてはならないテーマの一つです。イエスが伝えられたことの中心はいったいなんだったのでしょうか。キリストは、荒野での試みを退けられた後、公の宣教活動を始められます。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」イエスは言いました。時がついに満ちたと。それでは、いったい何の時が満ちたのでしょうか。この時とは、神の約束の成就の時を指しています。それは旧約聖書に語られている神の救いの約束です。長い年月をかけ、神が示し、民に教え続けられたことが、遂に実現へと至るそのときが来たのです。</p>

<p>2. 時が満ちる<br />
　時が満ちたことは、異邦人である私たちにとっても無関係ではありません。神のかたちに創造された人である限り、神にある祝福に預かる必要があるのです。私たちは普段、物事の根本を問わずに生きています。しかし、聖書は、私たちにその根本を問いかけてきます。あなたは一体誰なのか。そして、それと同時に気がつかされるのです。いかに、人が始めの場所を失って歩んできてしまったかということを。それは私たちの中に「神」という絶対者が不在となっている現実です。そのような私たちに、神は救い主を与えてくださるのです。そしてキリストはついにこのように語られました。「時は満ちた」と。</p>

<p>3. 悔い改めるということ<br />
　そしてキリストはこのように次に教えられました。「神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」もし、私たちのところに、今神が来られるのだとするとどうでしょうか。また神が本当に、私たちと一緒に歩まれるということであれば、皆さんはどのように思われるでしょうか。聖書の語る悔い改めとはどのようなことでしょうか。それは神の前で自分には隠すところがないだろうかと問うことです。つまり神から出発して自分たちを見つめなければ、真の悔い改めには至らないのです。「悔い改めなさい。そして神のご支配の中で、イエスを信じなさい。」私たちは真に悔い改めて、神のご支配の中で、イエスを信じて歩みだしてまいりましょう。</p>]]>
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<title>2012/1/8礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2012年1月8日の礼拝メッセージの要約です。 マルコの福音書1:9～13 「た...</summary>
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<![CDATA[<p>2012年1月8日の礼拝メッセージの要約です。<br />
マルコの福音書1:9～13<br />
「たとい荒野にあったとしても」</p>]]>
<![CDATA[<p>1. マルコの福音書<br />
 この福音書は福音書の中でも早い時期に記されたものです。紀元60年代にローマで執筆されました。著者はマルコと言われています。この書の執筆に関しては主にペテロからその情報を得たのではないかと考えられています。これらのことに関して確かな証拠はありません。しかし、明らかなことは、この福音書が初期の教会において大切に読まれ、そしてキリストを証するものとして重要な役割を担い、この書から教会の人々がともに聴いたということです。私たちも、今、目の前でこの書が開かれ、読まれ、ともにキリストの言葉を、キリストの姿をともに聞き、見ているのだということを意識したいと思います。</p>

<p>2. イエスのバプテスマ<br />
　「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」この神の祝福の宣言は、キリストに従う者すべてに与えられた宣言でもあります。すでに天の扉はキリストによって開かれています。私たちの目にはすべてを見ることはかないませんが、神の祝福のことばは響き渡っています。バプテスマは、このことの確かな印です。マルコは、イエスのバプテスマの直後に、イエスが荒野に追いやられたことを記しています。神の祝福の直後のことです。出エジプトの出来事を連想させます。荒野での出来後は、さまざまなことを私たちに物語ります。それは私たちの生涯でもあり、通る苦難でもあるでしょう。イエスも祝福を受けられた後に荒野へと向かうのでした。</p>

<p>3. 荒野でのイエス<br />
　神は、荒野でのイスラエルの歩みを支えられるための備えを十分にしてくださいました。しかし、民は目の前の状況に飲み込まれてしまうのです。そして民は嘆きます。私たちもまた、何度も、その生涯の中で、嘆き、また目の前の試練に打ち倒れそうになります。まるで荒野にいて、身を守るものもなく、野の獣に囲まれているようなそんな絶望的な状況にいるかのように思うときがあります。しかし、私たちはここでのキリストの姿をともに見ることができるのです。キリストもまたサタンの試みを受け、さらに野の獣と隣あわせになります。しかし、その時であっても、御使いたちがイエスに仕えていました。今も私たちのことを神はご自身の愛する子として、支え守り続けてくださいます。私たちの周りには、神の御守りがあり、御使いもまたそこにいるのだということ、私たちは信仰によって見ることが許されています。私たちは、このキリストの姿をともに見させていただきたいのです。</p>]]>
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<title>2011/12/25礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2011年12月25日の礼拝メッセージの要約です。 マルコの福音書1:4～11 ...</summary>
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<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2011年12月25日の礼拝メッセージの要約です。<br />
マルコの福音書1:4～11<br />
「ともに歩んでくださるお方」</p>]]>
<![CDATA[<p>1. クリスマスおめでとう！<br />
 クリスマスおめでとう、という言葉はいったい誰に向けられた言葉でしょうか。私たちの救い主キリストを送ってくださった神にむけて、私たちは感謝をします。しかし、感謝であれば、クリスマスおめでとうではなく、クリスマスありがとうということになるでしょう。クリスマスおめでとう、それは私たちに向けて言われていることばです。クリスマスは、救い主が、私たちに与えられた日です。その喜びの言葉、それがクリスマスおめでとうなのです。</p>

<p>2. キリストはどこに来られたのか？<br />
 キリストは、どこに生まれてくださったのでしょうか。それは最も悲惨な場所でした。何もない、闇しかない、また冷たく、汚れた場所でした。本当にさびしい場所に、キリストは生まれてくださった。それはとても象徴的なことなのです。救い主が、最初に降り立った場所、それは紛れもなく、私たちのこの世界のもっとも日の当たらない場所でした。そこに小さな光がともされたのです。私たちが考えうる希望とは何でしょうか。それはいつでもともに歩んでくださる方がいることではないでしょうか。この世界は、また私たちはうめきながら歩んでいます。そのような世界に、私たちの現実に、キリストは来てくださったのです。</p>

<p>3. イエスのバプテスマ（洗礼）<br />
 キリストはその宣教のはじめに、バプテスマのヨハネから悔い改めのバプテスマを受けられました。なぜならそれが私たち人の歩むべき道にあるからです。キリストは、この先、十字架へといたるその道々で、多くの困難、悩み、痛みを負うことになります。しかし、決してその歩みをそらすことも、またその歩みが無為に終わることもありませんでした。そして最終的に、復活と栄光の神の右の座へと上られていきます。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」この言葉は、イエスご自身に神が語った言葉でもあり、また私たち一人一人がキリストと、ともなる歩みをするときに、私たち一人一人にも語られている言葉なのです。</p>]]>
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<title>2011年クリスマスのご案内</title>
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<modified>2011-12-21T07:54:50Z</modified>
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<summary type="text/plain">2011年のクリスマスのご案内です。 12月23日（金）　17：30～キャンドル...</summary>
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<dc:subject>教会の集会</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2011年のクリスマスのご案内です。</p>

<p>12月23日（金）　17：30～キャンドルサービス（燭火礼拝）<br />
12月25日（日）　10：00～クリスマス礼拝＆ランチ</p>

<p>どなたでも、ご自由にご参加ください。<br />
ぜひ教会でクリスマスをともに過ごしましょう。<br />
</p>]]>

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<title>2011/12/4礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2011年12月4日の礼拝メッセージの要約です。 マルコ1:1～4 「キリストを...</summary>
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<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2011年12月4日の礼拝メッセージの要約です。<br />
マルコ1:1～4<br />
「キリストを迎える備え」</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 福音のはじめ<br />
　「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」この言葉からこの福音書は始まります。キリストとは、「油注がれた者」「王」という意味です。つまり、イエスは油注がれたものであり、神が私たちに与えられた救い主、そして王であることを表しています。福音とは「よい知らせ」です。イエスが、私たちの救い主であり王であるというよい知らせ、そのはじまりとこの福音書は最初に宣言します。</p>

<p>2. 良い知らせ<br />
　良い知らせとは何でしょうか。マルコがこの言葉から始めたのは、この言葉を告げるその前に、この知らせを待ち望む人々がいたからです。イエスが救い主であり、王である、この知らせが「良い」と思えるのは、救い主を待っていた人々です。それでは誰がこのキリストを待ち望んでいたのでしょうか。その人々は、旧約聖書に証されている人々です。聖書で語られているのは、人類の創造から始まり、神の前を追われ、神不在の混乱した世界におかれた人々の姿です。その中に、目に見えないまことの神を求める人々が出てきます。それが後にイスラエルの民となります。彼らは世における多くの苦難を通されます。そして、彼ら自身の力では乗り越えることができないことが明らかにされます。それどころか、むしろ神を見失い、神への不信仰に陥ってしまう民の姿が克明に描かれます。それでも、神の側から神の民に警告と招き、そして信仰を通しての救いが与えられ続けていくのです。人々は願います。貧しさにある人々が、豊かさの中に生き、不正が正され、悪ではなく、真に正しい者が栄える世界をと。それはイスラエルの叫びでもあり、実は私たち自身の叫びでもあるのです。</p>

<p>3. 道を整える<br />
　その世界に一筋の光が与えられます。それが「イエス・キリスト」でした。そして、キリストの直前にその道を備える者が現れるということも語られています。人々が待ち望んでいた救い主の道備えをする者が現れます。それがバプテスマのヨハネでした。私たち、どのような思いでこのキリストという方を迎えたらよいのでしょうか。救い主、私たちの王を向かえるにあたって、向かえる側に「整える」ことが求められています。「悔い改めよ」とヨハネは語ります。それは神のもとへと再び私たちが方向を向けることなのです。私たちも救い主を迎える備えをしてまいりましょう。</p>]]>
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<title>2011/11/27礼拝メッセージ</title>
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<issued>2011-12-21T07:49:07Z</issued>
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<summary type="text/plain">2011年11月27日の礼拝メッセージの要約です。 創世記35:1～13 「ヤコ...</summary>
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<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2011年11月27日の礼拝メッセージの要約です。<br />
創世記35:1～13<br />
「ヤコブへの呼びかけ」<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 立って<br />
　行き詰ったヤコブに神は答えてくださいました。その答えは「立って、ベテルに上り、そこに住め」というものでした。ここで三つのことを神はヤコブに命じています。まず「立って」。「さあ立ち上がって」と言ってもいいでしょう。キリストが病を癒されたときにも、この言葉が語られました。私たちを本当の意味で立ち上がらせるのは何でしょうか。家族や財産でしょうか。ヤコブは、自らの存在の小ささと、現実に起こったことの重さに押しつぶされそうになっています。その彼に神は「立ち上がって」と声をかけられました。信仰には、私たちは立ち上がらせる力があるのです。</p>

<p>2. 上れ<br />
　ヤコブは神に手をとられて立ち上がることになります。神は続けて「ベテルに上れ」と命じられました。それは、この旅だけではなく、ヤコブの生涯の目的をも明確に示す言葉でした。神の祝福を求めて生きてきたヤコブ。最初は「私の祝福」という自己の幸せにしか過ぎませんでした。それが、彼の生涯を通して、神を信じる信仰の歩みへと変えられていきます。彼は、神ご自身を求め、神に近くされることこそ、神の祝福であることを理解していくことになります。「ベテルに上れ」これは神からの招きです。罪あるヤコブをそれでも神は近くに来るようにと招き続けています。この招きに対して彼は身を清めるようにと家族に命じます。私たちも知らず知らずのうちに、多くのものを抱え、神にのみ信頼することができなくなっている、そんなことはないでしょうか。そして「着物を着替えなさい」とヤコブは家族に命じます。ここで彼は古い衣を脱ぎ捨て、進むべき方向へと、神ご自身の方へと向きを変えたのでした。</p>

<p>3. ベテルに住む<br />
　神の家に住むことこそ、聖書で語られる私たちのゴールです。神から離れた所ではなく、神のそばに私たちが住まい続けるということ。今、教会は、神の家、神の宮と言われる場所です。本当にその場所となっているでしょうか。そのことを私たちは問わねばなりません。そして私たちは、神にある目的を見失ってはなりません。私たちはキリストによって、すでにイスラエル、神の民とされた者たちなのですから。</p>]]>
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<title>2011/11/20礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2011年11月20日の礼拝メッセージの要約です。 創世記34章 「神の側にある...</summary>
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<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2011年11月20日の礼拝メッセージの要約です。<br />
創世記34章<br />
「神の側にある救い」</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 創世記34章<br />
　聖書には違和感が残るような、釈然としないそのようなストーリーが、私たちの前に突如提示されることがあります。私たちの人生も、そのような側面を持っています。なぜこのようなことが起きたのか？そのように神に思わず問わずにはいられないようなことが突如として起きます。この34章もそんな現実の物語です。ヤコブは、自身の誓いに従わず、シェケムの町の近くに宿営し、そしてそこで土地を買い祭壇を築きました。なぜここで留まってしまったのでしょうか。このことが悲劇を生むことになります。</p>

<p>2. 事件<br />
　娘のディナが辱められるという事件が起きます。さらにシェケムの民は、ヤコブたちと近しい存在になることを望んできます。この事件そのものは「悲劇的」な結末で閉じることになります。結局、シメオンとレビが、その町の民の男子を殺戮し、そして略奪するという悲惨な結果となってしまうのです。ここに、私たちは何を見いだせばいいのでしょうか。ヤコブも何を考えているのか分かりません。どこをとっても、正しさのかけらもない、そんな事件です。この34章には神は出てきません。神は沈黙しておられます。34章では神が出てこないのです。</p>

<p>3. 神からの語りかけ<br />
　35章でようやく神は語られます。まさにその通りのことが今も起きています。私たちも、日々の生活の中で神を締め出しています。神を待ち望むよりも先に、自分の思いに従い、神の望まれるあり方や手段よりも、自分たちが満足する方法を選び取ってしまいます。私たちは絶えず、神に救いを求める思いと、神を私たちの場から追い出そうとしてしまう自我との狭間で揺れ動いています。この一連の問題の中で、ヤコブはずっと問われ続けています。あなたはこの問題を解決することができるのかと。しかし、ヤコブは答えることができないのです。しかし、神は次のようにヤコブに語りかけました。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。」私たちは、現実に対してなかなか答えが出せずにいます。しかし、聖書が私たちに絶えず語りかけるのは、神はそれでも、私たちを憐れんでおられるということ。そして神の側から救いを与えてくださるという約束なのです。</p>]]>
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<title>2011/11/13礼拝メッセージ</title>
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<modified>2011-11-26T04:15:17Z</modified>
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<summary type="text/plain">2011年11月13日の礼拝メッセージの要約です。 詩篇127篇 「主が建てるの...</summary>
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<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2011年11月13日の礼拝メッセージの要約です。<br />
詩篇127篇<br />
「主が建てるのでなければ」<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 主が家を建てるのでなければ･･･<br />
　この詩篇における「家」とは、「ダビデ王家」を指していると考えられます。イスラエルは、とてもユニークな使命を負わされた国です。他の国が、人を王にし、武力に頼り、むなしい人の手によって造られた偶像を神とし、その力を利用する中、イスラエルは、天地を造られた神を主とし、王とする国として歩みを進めました。</p>

<p>2. ともなる神<br />
　私たちは困難ある現実を前にして生きています。それでも私たちは毎日起き上がります。そして労し、そして食を得る・・・。労苦し、そして悩み、時に病まで得て、この道を歩まざるを得ません。それは何のためなのでしょうか。イスラエルの民は、どの民よりも苦難を通らされ続けた民です。それでも、彼らはまことの神への信頼を止めず、神に感謝をささげ、神のみこころを行うことを第一のこととし続けてきました。その歩みは、私たち人間の歩みそのものを表すものでもあります。しかし、聖書は語り続けます。そのどの時でもあっても、神はあなたとともに歩んでいるのだと。そして神抜きで心配し、労苦することをやめよと語りかけます。</p>

<p>3. ともに歩む私たち<br />
　一転して「こども」にフォーカスが当たります。国としても、こどもが多く与えられることそのものが神の豊かな祝福の表れであったことでしょう。こどもたちを祝福する、それはただこどもがかわいいからだけではありません。まさに主が与えてくださった私たち家族の一員だからです。神の国、神の家族の一員だから、ともに祝福するのです。いのちが与えられること、それは究極的に主の業にほかなりません。このこどもたちを大切にし、神のご支配へとともに歩んでいくことは、主の家にとって重要な働きです。私たち教会が語るべきは神と人との絆です。そしてその絆は、神とわたしたちの絆なのです。そしてそれはキリストにある絆です。私たちは、キリストのからだとして一つとされていること。キリストにある絆に結ばれていることを、互いに感謝してまいりましょう。</p>]]>
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<title>2011/11/6礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2011年11月6日の礼拝メッセージの要約です。 創世記33章 「和解の福音」...</summary>
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<![CDATA[<p>2011年11月6日の礼拝メッセージの要約です。<br />
創世記33章<br />
「和解の福音」</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 目を上げて見る<br />
　「目を上げて」これは主がともにおられ、主とともに見ることを思わせる言葉です。ヤコブも今その時にありました。新しい名イスラエルを神からいただいたヤコブ。そのヤコブがここで見たものは何でしょうか。彼が見たのはエサウ率いる四百人の群れでした。昨日までの彼にとって400という数字は恐怖にしかすぎない存在でした。ヤコブは簡単にその恐れを克服できたわけではありません。彼はヤボクで、弱い自分のまま神と向き合い格闘しました。そしてついに、神からの約束の言葉を獲得することができたのです。ヤコブにとって大事なのは、神と向き合ったこの濃密な時間です。</p>

<p>2. へりくだるヤコブ<br />
　ヤコブは以前に考えていた方法をすべて止めました。一番後ろに控えているはずのヤコブは、今群れの先頭に立って進んでいきます。エサウはただ自分に危害を加えるものではなくなっていました。必ず和解すべき、自らの命を懸けてでも赦され、和解すべき存在となっていたのです。ヤコブは、七回も地に伏しておじぎをしました。それは完全なるへりくだりを示しています。私たちは大概、自らの方に多くを願い、相手から奪いとる、そのような方法を考え、選び取ろうとしてしまうものです。ヤコブのこれまでの歩みは、図らずもそのことを示していたように思います。神の祝福を願ったそのことが、兄の恨みを買い、家族の分裂を引き起こしてしまいました。しかし、ヤコブは、ここで完全にへりくだり、そして自らを他者にささげきるのです。</p>

<p>3. 和解の福音<br />
　へりくだる姿は、キリストの姿にも見出すことのできるものです。しもべの姿をとることは決して簡単なことではありません。エサウは彼を迎えに走って来て、ヤコブをいだき、首に抱きついて口づけし和解をしました。ヤコブはイスラエルとして神の選びにあずかったものであることは間違いがありません。しかし、それは何のための選びであったのでしょうか。それは主にある和解をもたらすためでした。ヤコブの謙遜は彼の恐れから出ているものではありません。これはすべてイスラエルとされたヤコブの喜びから出てくる行動なのです。神から赦され、さらにエサウの赦し、和解を得たその喜び。それはキリストのもたらす福音の響きにも含まれるものです。神の勝利は、相手を打ち負かし圧倒することではなく、相手に与え、そして和解をなしとげたという勝利だったのです。</p>]]>
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<title>2011/10/30礼拝メッセージ</title>
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<![CDATA[<p>2011年10月30日の礼拝メッセージの要約です。<br />
Ⅰコリント3:1～3<br />
「十字架の主を見上げて」</p>]]>
<![CDATA[<p>1. コリントの町<br />
　コリントの町は非常に栄えた町として知られています。ローマによって紀元前146年に侵略され廃墟となりました。紀元前44年になってから、ローマの植民地として再建されました。コリントの町は他民族の町で、商売、貿易、産業の町としても繁栄を誇り、人々は「競争社会」で生きていたといわれています。ある人はコリントの町は現代に近いものを持っているとも言います。コリントの教会の人々も、その町の影響を深く受けていました。「知恵」「霊的」「自由」そのような言葉を、彼らは自分たちに都合よく使っていました。しかし、彼らも自分たちがどのような状態であるのか、何が誤っているのかはよく分からなかったのです。</p>

<p>2. ただの人のように<br />
　コリントの教会にパウロは「ただの人のように歩んでいるのではありませんか」と問いました。コリントの教会には対立がありました。ある人々は自分たちのことを高い次元にあると誇り、霊的であると言っていました。クリスチャンであることは力を得ること、それが彼らにとって信仰の確信のよりどころともなっていました。ここで問題となっているのは違いがあることではありません。むしろなぜこのような対立が起き、溝が深まっているのかということです。この対立はねたみや争いによって、それが引き起こり深まっていました。いかに霊的であるかのように見えようと、能力があり、社会的に成功しているかのように見えようとも、十字架が語られず、キリストが、その人から透けて見えない、そのような者であるならば、それのどこが御霊に満たされている人なのかとパウロは問います。</p>

<p>3. 十字架の主を見上げて<br />
　十字架の主、キリストの姿とはどのようなものでしょうか。十字架は敗北の印です。それはコリント社会の持つ価値観とは相反するものでした。十字架によってコリントの教会はスタートしたことは間違いありません。しかし、気がつけばコリントの教会は、十字架を語らず、誇らず、むしろ力や弁論、富、豊かさ、目に見えるもの、それらを誇るようになっていきました。私たちは、どこに信仰の確信をおいているのでしょうか。なぜ十字架のイエス・キリストが、私たちの力となるのでしょうか。これは大事な出発点です。問題は、教会の中心である十字架が、キリストが、その中心からずれてしまうことにあります。だからこそ、私たちは絶えず十字架の主の前にへりくだることが求められているのです。</p>]]>
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<title>2011/10/23礼拝メッセージ</title>
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<![CDATA[<p>2011年10月23日の礼拝メッセージの要約です。<br />
創世記32:22～32<br />
「新しく生まれる」</p>]]>
<![CDATA[<p>1. イスラエルという名<br />
　この場面で、ヤコブは神から別の名前「イスラエル」をもらいます。その名前には、神と戦う者、神にある勝利、そのような意味があります。ここでヤコブは、群れを先に渡らせ一人ヤボクに残りました。なぜ彼は一人残ったのでしょうか。家族を先に渡らせたのも、一人後に残ったのも、それはヤコブが一人孤独に神と向き合うためでした。一人神の前に立つときが私たちにも必要です。ヤコブは、時間に余裕があったから一人の時を持ったのではありません。彼にとって、その時間が本当に必要であったのです。</p>

<p>2. 格闘するヤコブ<br />
　すべての手は尽くしました。兄エサウも、そろそろ向こう岸に着くころです。しかし、もう一歩、ヤコブは神に近くあることが必要であると感じていました。そして彼は神と格闘します。文字通りの格闘です。神と全身全霊の死闘を繰り広げました。そして何と神の側のほうが、ヤコブに勝てないと思うに至ります。神はヤコブに勝てないわけではありません。ここで強調されているのは、ヤコブの神の力をも圧倒する粘りです。腿のつがいが外されてもなお、神にしがみつくヤコブのしつこさ。ここで神の側が根負けしている様子がよく分かります。ヤコブは神の「祝福」を切に求めます。しかし、すでに彼は以前、神の祝福を受けていたのではなかったでしょうか。</p>

<p>3. 最大の祝福<br />
　神の祝福は確かな約束です。しかし、私たちはただ約束をもらったから、それでもうすべてが手に入ったというわけではありません。神を知り、そして信じてからこそ、本当の神への求めと祈りの生涯が始まっていきます。「人間の主な最高の目的は神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことです。（ウェストミンスター小教理問答）」私たちの生涯は神とともに歩む、そこに真の祝福があります。ヤコブにとって最大の祝福とは、神ご自身にありました。ヤコブもまた、自分自身の弱さ、愚かさ、小ささを思うときに、神の祝福に決して値しない自分であることを、痛感していたことでしょう。しかし、ヤコブは、そこからなお神に祝福を願ったのです。ヤコブは神の祝福を求め、そしてついには赦され、勝利の宣言を得ました。私たちも、神にあって新しいいのちを得なければなりません。ヤコブが神から新しい名をいただいたように、私たちもキリストにあって新しい歩みを得させていただきのです。</p>]]>
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<title>2011/10/9礼拝メッセージ</title>
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<![CDATA[<p>2011年10月9日の礼拝メッセージの要約です。<br />
創世記32:1～21<br />
「ヤボクの前で」<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>1. ヤコブが直面したこと<br />
　ヤコブが故郷へ帰るということ。それは兄エサウとの対面が待っているということでもありました。ヤコブは故郷の地へと入る、その手前までやってきました。ここで彼が渡らなくてはならない場所がありました。それがヤボクです。この場所は簡単に通れるような所ではなく、まさに格闘することが必要なそんな所でした。どのように兄と対面すればいいのだろうか･･･以前の自分とは違う･･･しかし、以前のままの自分でもある･･･そのような複雑な内面を抱えたまま、このヤボクを前にしたのです。そのとき、神の御使いたちが彼に現れました。彼を支えるのは神への信仰でした。そして、ヤコブは、この場所から兄に使者を送ることにします。それは、和解のために戻ってきたことを知らせるためでした。</p>

<p>2. ヤコブの最善<br />
　使者が伝えたのは「あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます」という知らせでした。ヤコブはこのことに非常な恐れと心配を抱くことになります。しかし、引きえそうとは考えませんでした。ここで群れを二つのグループに分けることを考え付きます。この時にもヤコブは神の約束を信じ、武力によらず、平和的に事を進めようとしていることが分かります。そして彼は祈るのです。彼の祈りは真実なものです。そして彼は自分のことを告白します。彼は自分の弱さを自覚しています。何よりも兄エサウを恐れています。彼にとってこのことは自分では到底乗り越えることのできないものでした。神が共にいることは分かっています。しかし、それでも襲う不安、弱さ。そして彼は祈りつつ、備えるのです。ヤコブはエサウへの贈り物を準備します。これがヤコブの考えうる、できうるこの時点での最善でした。</p>

<p>3. 最後の砦<br />
　しかし、それでも彼の力では乗り越えることのできない最後の砦がありました。それが自分自身の弱さでした。彼の中から出てくるものはヤコブそのものでしかありません。神への信仰を持って歩むということは、さらに大きな局面を乗り越えるものであることを、私たちはこの後のヤコブの経験から知ることになります。これらのことは、「ヤコブ」という人を神の器として完成へと導く、神の丁寧な取り扱いです。古い自分、自分自身の弱さとの対決がここにあります。私たちは神の取り扱いの中で、切に祈らされ、そして神の御思いを知り、神の御力に支えられ、押し出されていくのです。</p>]]>
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<title>2011/10/2礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2011年10月2日の礼拝メッセージの要約です。 創世記31:17～55 「証の...</summary>
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<![CDATA[<p>2011年10月2日の礼拝メッセージの要約です。<br />
創世記31:17～55<br />
「証の塚を前にして」</p>]]>
<![CDATA[<p>1. ヤコブの旅立ち<br />
　心を決めた後の彼の行動は早いものでした。彼は逃げるようにしてこの地を去ります。しかし、ラバンが何もせずに行かせるわけはありません。ラバンに追いつかれてしまいます。ヤコブも容易にそのような事態は想定できたことでしょう。いずれにせよヤコブはラバンとの前面対決を避けます。ここにヤコブの信仰が働いています。現実を前にして、どの道が正しいのか分かりません。しかし、その中で祈り、考え、決断をし、そして必ずあなたと共にいると約束してくださった神のことばを信じる信仰を持って一歩を踏み出していくのです。</p>

<p>2. ラバンとの対峙<br />
　ラバンはヤコブたちに追いつきました。ラバンは事前に「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ」と神から語られていました。しかし、ラバンは事の善悪を論じています。しかし、これらの言葉の背後にあるのはラバンの恐れです。その恐れは「神」に対するものでした。「なぜ、私の神々を盗んだのか？」これがラバンにとって一番大事なことでした。ラバンは表向きの態度と異なり、恐れと不安に心を満たされています。力はヤコブよりもあったかもしれません。しかし、彼が本当に信頼していたのは、小さな偶像の神でした。実体はないのに、何かそれが一番価値があり力を持っているかのように見える、それが偶像です。ラケルはこのテラフィムを密かに持ち出していました。この出来事によってラバンは、逆にヤコブにこれまでしてきたことの善悪を責められるということになります。ヤコブはこれまでの20年間のことをラバンに訴えるのです。</p>

<p>3. 証の塚を前にして<br />
　ラバンはヤコブに契約を提案します。表向きは神を前にしての契約です。しかし残念ながら、ラバンの言葉の端々には偶像の神々への執着と、ただこの先のことへの「恐れ」が見えます。ラバンは神を見張り続けている恐ろしいものと捕らえています。さらに彼は複数の神々の名前を口にしています。ラバンは表面的には、まことの神の裁きを受け入れながら、まだ偶像の神々から完全に脱しきれないでいるのです。神が問題にされるのは、表面的な正しさではありません。また見せかけの言葉や信仰ではありません。心からの神への信頼と誠実です。しかしそのような中で、ヤコブはあくまでも信じるなる神の前に、厳かに誓います。ヤコブにとってこの石塚は、神が自分を解放してくださったこと、またともにいてくださることの証であり、神の恵みを覚える場所となったのです。</p>]]>
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<title>2011/9/25礼拝メッセージ</title>
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<summary type="text/plain">2011年9月25日の礼拝メッセージの要約です。 創世記31:1～16 「決断の...</summary>
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<dc:subject>礼拝メッセージ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>2011年9月25日の礼拝メッセージの要約です。<br />
創世記31:1～16<br />
「決断の時」</p>]]>
<![CDATA[<p>1. 決断の時<br />
　人生の岐路に立たされた時、どのように決断しているでしょうか。ヤコブは、叔父ラバンのもとから旅立つ決心をします。ラバンにヤコブは何と要求していたのでしょうか。「私を去らせ、故郷の地へ帰らせてください」と願っています。「もしあなたが私の願いをかなえてくれるのなら…」とラバンは答えていています。そして「あなたの望む報酬を申し出てくれ。私はそれを払おう」と言っています。結局、ヤコブの願いはうやむやになり、報酬のことだけが取り上げられ、契約として成立します。しかし、ヤコブはラバンの思惑以上のことをやり遂げます。その後ヤコブはラバンの態度が、以前のようではないのに気がつきました。このような現実に直面し、ヤコブはどう考えたのでしょうか。</p>

<p>2. 待ち望む時<br />
　この20年間、神の前にある誠実さを学び、神とともに歩むことをヤコブは学んできました。しかし、現実は容易ではありません。そのような中で神は彼に語りかけます。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。」この言葉は、長い間の祈りに対する答えといえる言葉でしょう。ヤコブはこの20年間で、神の時を待つということを学ばされました。この間、ヤコブは神の前に誠実に歩もうとします。その彼を支え続けたのは、神が必ず救ってくださるという信仰でした。そしてついに彼は、神の救いの声を聞くのです。彼はその決断を、ラケルとレアに伝えます。ここでのヤコブの言葉は、ラバンの不誠実さに対する怒りに満ちています。聖書は、不正や不誠実に対して、大きな憤りを示しています。それは神を信じている者とそうでない者とを分ける分水嶺だからです。</p>

<p>3. 支えられる決断<br />
　ヤコブが、しもべとして仕えてきた間も、その間の悩み、苦しんできたときも、神は彼とともにいてくださいました。ここでヤコブの決断を推し進めたのは、神のみ思いです。その神のみ思いは、ヤコブの思いと一致したのです。大事なことは、ヤコブの待つ姿勢です。神のみ思いを知るまで誠実に待つ姿勢。神のみ思いと自分の思いとが一致するまで求め続ける姿勢。神のみこころを知るには、神とともに歩む月日が必要です。そしてラケルとレアもまた、父ラバンのもとを離れる決断をします。みこころに沿った決断は、自分だけが納得し、自分だけのひとりよがりなものではありません。私たちはどのようにみこころを求めているのでしょうか。</p>]]>
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