2010年02月27日
2010/2/21礼拝メッセージ
2010年2月21日礼拝のメッセージ要約です。
「本質に目を向けて」
ピリピ4:2~3
1. 具体的な問題
パウロがピリピ教会の現実に対して触れなくてはならなかったこと、それは何でしょうか。それは具体的な問題でした。ここでは二人の女性の名前が記されています。この手紙は、当時の教会が置かれていた苦難や問題を聞いたパウロが、キリストのからだである教会の助けになろう、主のみこころを伝えよう、その思いで書き送ったのではなかったかと想像します。ですから、パウロは具体的な諸問題に立ち入る前に、教会が知っておくべき信仰の本質的なことがらについてこれまで説明してきたわけです。その問題とは、二人の女性の対立でした。
2. 対立
ここに人名が出てきます。この女性二人に対して、パウロは「主にあって一致してください」と命じています。当時のピリピ教会で現実にあった不一致騒動です。その詳細はここには記されていません。しかし、彼女たちが教会の中で強い影響力を持っていたことは間違いないでしょう。教会内にあった二つのグループの対立ということが関連していた可能性もあります。当時の教会の文脈に立って考えてみると、この2、3節こそ、パウロが手紙を書く動機になった出来事であったとも言えるのかもしれません。さらにパウロは「真の協力者」にも懇願しています。つまり、彼女たちの一致は、二人だけの問題ではなく、教会全体が取り組み、祈るべき課題であったのだということです。対立の問題は、教会だけの問題ではありません。私たちの周囲にあふれている深刻な課題なのです。
3. 本質を見つめる
しかし、対立の最中におかれると、本質的なことよりも表面的なことで対立が深刻化することが多くあります。パウロもそのことをよく知っていました。これまでの3章分を用いて、パウロは対立の本質的な問題と、信仰者の基準、考え方を明らかにしてきました。それは次の三点です。まず一つは、すべてのことがキリストのゆえであり、キリストのためである、ということ。次にキリストにならうということ。三つ目に、私たちがなぜ救われ、またなぜ生かされているのか、そのことを思い出すこと、です。私たちはこれらの本質を見失うことによって、互いを受け入れあうことも、認め合うこともできなくなってしまうという事態が起きます。私たちは、本質的なところにこそまず目を留めなくてはなりません。教会は対立ではなく、キリストの一致があらわされるところなのです。
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2010年2月7日礼拝のメッセージ要約です。
「愛する教会へ」
ピリピ3:20~4:1
1. 与えられる特権
キリストを信じる信仰によって与えられる特権とは何でしょうか。イエスを救い主であると信じるときに、私たちに与えられるもの、それは「天の国籍」です。この国籍は「市民権」とも訳せる言葉です。ただキリストの十字架の血潮によってのみ、私たちの罪は赦され、神の国の市民としていただけるのです。この神の国の市民権は、お金を積んで得られるものでもありません。それはただ主イエス・キリストを救い主として信じるときに、私たちに与えられるものなのです。
2. 天から来られる方
さらにパウロは「そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」と言います。しかし、私たちはこの逆を考えます。私たちは、ここから天国へと行くことを待ち望んでいるようです。ここでのパウロは、そうは考えていません。天から、必ず私たちがいるこの世界にイエスが救い主として来てくださる。再び来られたイエスは、その神の御力で、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる・・・。すべてを完成させるためにイエスは再び来られるとパウロは語ります。
3. 未完成の世
私たちは、どうがんばっても、神の目にかなうような「良き人」「義人」には到達できないでしょう。私たちは罪人にしか過ぎないからです。またこの世界も完全な世になるとは考えがたいことです。だからといって、正しいこと、良きことをあきらめてはなりません。あきらめて天国を待ち望みなさいと聖書は語っていません。むしろその逆です。あなたには罪があり未完成の者ではあるが、神のみこころを知り、また主イエス・キリストの赦しと救いを受けたものとして、今いるその場所で、天の国の市民として歩みなさいと言われています。しかし、私たちが現実を襲う苦難や試練の中にあって、希望を失わないで生きるにはどうしたらよいのでしょうか。
4. 希望の光
そこに与えられた希望の光こそ、復活の主イエス・キリストです。復活の主が天からこの場所へとやがて来て下さり、すべてを完成してくださるのです。だからこそ、私たちは、今ここで前に向かって歩み続け、また神の思いにかなう良きことを求めて、力強く奮闘することができるのです。私たちもまた神の国の市民としてふさわしい歩みを続けてまいりましょう。
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2010/1/24礼拝メッセージ
2010年1月24日礼拝のメッセージ要約です。
「互いを手本として」
ピリピ3:15~17
1. 良き手本
これまでの歩みの中で、手本となるべき方と出会ったことがあるでしょうか。しかし、自分がお手本となるならばどうでしょうか。パウロは「私を見ならう者になってください」と言っています。パウロが偉大な教師であるから、こう述べたのでしょうか。しかし、この言葉はこう続きます。「また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに目を留めてください。」これは、「教会」または「他のクリスチャン」に目を留めるようにという言葉です。パウロは、自分のまた他の教会の何を見倣いなさいと言っているのでしょうか。
2. 現在のパウロ
キリストを知る以前の彼は、当時のユダヤ人における正しい生き方を真剣に実践した人物でした。彼はそのような姿を「犬」「肉体だけの割礼の者」と言っています。これらの言葉は、本質のない者、うわべだけの者というような言葉です。では今のパウロはどのような歩みをしているのでしょうか。彼はキリストによって、「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない」者となりました。以前の彼は、自分の正しさや誇りのゆえに、神をほめたたえていました。いえ、神をほめたたえていたのではなく、自らが満たされ、他の人よりも自分が勝っていることを持って喜びを得ていたと言ってもいいでしょう。この姿は、キリストのたとえ(ルカ18:9~14)と重なります。パウロはキリストを知ったゆえに、自らの罪に気がつかされます。そして、自分自身を、その生涯を、神にささげていくことこそ、真の礼拝であると彼は確信しました。さらにその歩みは、自らの力で正しい者、力ある者となることではなく、キリストの姿にならい、神の前にへりくだり、神の御力、みことばによって生かされ、そして約束された復活のいのちにいたるためのものであるということを知りました。彼はゴールを見据えて、希望と喜びを告白しつつ歩む競技者のようであると述べています。その自分を見習ってほしい、とパウロは今日の箇所で勧めているのです。
3. 他の信仰者とともに
さらに彼は他の信仰者に、ともに走り抜こうとしている他の教会にも目を留めなさいと勧めます。目を留めるのは外面的なことではありません。それぞれのうちにあるキリストに目を留めていくのです。喜びや苦難の中でも、強さや弱さの中でも、私たちの中心には十字架の、復活のイエス・キリストがいてくださるのです。その姿を、ともに見続けてまいりましょう。
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2010年1月17日礼拝のメッセージ要約です。
「ゴールを目指して」
ピリピ3:12~16
1. 求道者
教会における「求道」の意味は「真理を求める」とういことにあります。もっと厳密に言えば、求道者とは「真理を求めるようにと導かれている人」のことです。パウロも自分は神によって導かれている、そうまっすぐに受け止めた人でした。確かにパウロは、神にある正しさを求め、追い続けています。しかし、それは自分からスタートしたことではなく、イエス・キリストが私を捕らえてくださったからだと告白しています。ここでの問題は、パウロが何を求め続けていたのか、ということです。
2. 何を求めているのか
彼が求めているのは「死者からの復活」です。この言葉は「復活のキリスト」を示す言葉です。パウロが求めていたものは、復活のキリストと同じようになることでした。この言葉は人格的、肉体的な完成を示す言葉です。神の前に真にへりくだった愛、人ではなく神にある正しさこそ、ここでパウロが追い求めているものと言えるでしょう。とはいっても、そこまでのことを私は求めていない、そう思われるかもしれません。私たちの視点は、すぐに天ではなく、地に向かうものだからです。パウロはそのことをよく知っていました。13節にある「うしろのもの」とは、以前の価値観のことです。私たちは「うしろのもの」に、いつも引きずられてしまいます。うしろのものとは、キリスト抜きの世界であり、目に見えるもの、人の基準で生きることです。実のところ、真の問題は、うしろのものにではなく、前にあるものがはっきりと見えていないことにあります。
3. 前のもの
パウロは信仰の歩みを競技にたとえています。Ⅰコリント9:24~25でも同様のたとえが出てきます。パウロは競技者の姿勢と、信仰者の姿勢とを重ねあわせています。競技者はゴールがない競技を走るわけはありません。ゴールを、そして栄冠を目指して走ります。パウロは、勝ち負けの話ではなく、競技者として純粋にゴールに向かうことや、その途上にあって奮闘し続ける競技者と、信仰者とを重ねあわせているのです。それぞれの走り方は違います。それぞれに時に苦しく、また倒れそうになりながらも、走りぬこうとしています。この先に見ている天におけるゴールは、すでにキリストによって約束されているものです。私たちは、今そのゴールを見据えているでしょうか。すべては復活のキリストの栄冠へと招きいれるためのものであるということを受け取らせていただきましょう。
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2010年1月10日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ3:7~11
「キリストとひとつにされ」
1. 喜びを失わせる現実
この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれています。パウロが「喜び」を多く書かなくてはならなかった背景には、その逆の現実がありました。それは今も私たちを取り巻く現実です。パウロは、この手紙の中で「今与えられている喜び」を語ります。それは、私たちがキリストによって神のものとされているということであり、また救われている状態です。これは信仰によって見ることの赦されている私たちの目に見えない現実です。これこそ、聖書の語る「霊的」な私たちの側面です。霊的という言葉は、目に見えない、つまり神の領域ということになるでしょう。私たち自身の本質的な部分もまた霊的な部分です。それは、目に見えるものだけでは満たされることはありません。私たちが満たされ、平安や神の愛が与えられるのは、キリストによって救われたからです。
2. 産みの苦しみ
律法による自分の義。これはユダヤ人の基準です。これは、神を抜きにした人間中心の価値観、正しさを表しています。そこには本当のいのちの望みはありません。真の望みは「神」から与えられるものです。パウロは「キリストのその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態」になっていると語ります。キリストにある信仰が与えられ、平安と満たしは与えられました。しかし、苦しみの現実は続きます。パウロや教会の現実の痛み、苦しみは増しているようにさえ見えます。しかし、信仰を持つパウロの目から見たその現実は、いままで見ていたものとは違いました。彼はその苦しみの現実が、キリストの十字架の苦しみと重ね合わさるものであることを知りました。やがて神がその痛み、苦しみを通して、完全に勝利してくださるものであることを、まさに霊的な目を持って受け止めたのです。
3. キリストと一つに
救われたものはキリストのいのちと継ぎ合わされます。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」その視点から見たときに、パウロの置かれた状況も、また苦難の現実も、それは喜びを失わせるものでも、また失望に沈み行くものでもありませんでした。それは、復活のキリストの栄光に満ちた姿へとつなげられている現実だったのです。だから彼は、主イエス・キリストの復活の姿へと変えられることを切に願うのです。
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2010/1/3礼拝メッセージ
2010年1月3日新年礼拝のメッセージ要約です。
詩篇67篇
「神を知るために」
1. 詩篇67篇
この詩篇は、旧約聖書にはめずらしいと思われる「宣教」の詩篇です。イスラエル民族は、選民思想を持つと言われています。しかし、旧約聖書を読むと、なぜ彼らが選ばれたのか、その理由が記されています。その理由は、この神を信じる民イスラエルを通して、この世界がはっきりと神を知り、そしてその神の救いと祝福に預かる道備えをするように、ということでした。この群れが、神のあわれみ、祝福、豊かさ、正しさを求めるのは、自分たちの都合ではありません。その理由は、神の御救いがすべての国々の間に知らされるためなのです。
2. 私たちの祈り
これはとても大事な視点です。私たちもまた神の祝福があるようにと祈ります。私たちが神の前に祈るべきことは、第一に「神の栄光を多くの人が見るように」との祈りです。そして、そのために、私たち神を信じるものの上に神の祝福があり、また正しさと豊かさがあるようにと求めるのです。この世界に仕えるために、またこの世界が真の神を知り、そしてその栄光を見るために、私たちは祈り求めるのです。この一年の私たちの歩みを祝福してください。あなたの栄光を見せてください。そのことを通して、私たちではなく、神があがめられ、そしてまことの神を知り、信じる人々を起こしてください、そう大胆に祈るのです。
3. アブラハムの祝福
アブラハムに与えられた約束もまた同様のものです。アブラハムを通して、すべての民が祝福されるのです。私たち教会も同じです。大胆に祈り、求めることは許されています。しかし、私たちは、それがなぜなのか、その理由を失ってはなりません。ともに、多くの人が神の栄光を見るように、そして、神ご自身が、この世界でほめたたえられるようにと私たちは祈り求めてまいりましょう。
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2009年12月27日礼拝のメッセージ要約です。
「キリスト-復活の希望-」
マタイ20:17~19
Ⅰコリント15:19~22
1. 復活の出来事
キリストについて、学ぶときに大事なことが3つあります。第一に「受肉」です。それは、神が私たちと同じ人となられたということです。二つ目は「贖い」です。受肉されたキリストが、私たちの身代わりとして罪の罰を受けてくださったということです。このことはキリストの受難、十字架に最もよく表されています。そして三つ目。それが「キリストの復活」です。キリストは十字架上で死に、その三日の後にキリストはよみがえった、と聖書は証言しています。しかし、私たちにとって復活は受け入れることの難しいことでもあります。なぜなら、それは人間の範疇を超えているからです。しかし、だからこそ、そこにこそ大いなる神の御力が働いているということになります。復活のキリストへの信仰とは、神のひとり子イエス・キリストを私たちに与えた神、そして十字架の死からイエスをよみがえらせた「神」、その神への信仰ということになります。
2. キリストの見ておられたもの
キリストは、ご自身の宣教の道すがら、復活のことを弟子たちに語っていました。イエスの奇跡を見て多くの人は殺到しました。今の自分を少しでも楽に、良くしてくれる可能性のあるところに多くの人は集まります。しかし、イエスが人々に常に語ってきたのは、神に立ち返るようにというメッセージでした。そして、ご自身の歩みは、まっすぐに十字架へと向かっていったのです。私たちの死の先にあるものをキリストは見ておられました。神に悔い改めた者の先には何があるのでしょうか。キリストは十字架の死の後、完全な肉体を持って復活をします。その後キリストは天に上げられます。これこそ、キリストが私たちに備えられた完全なる希望でした。復活のキリストが表すのは、完全なる勝利した人の姿です。
3. 復活の希望
復活の主が与える希望は、私たちがたとえどのようなところを通らされたとしても、復活の主が、私たちの行く先を示す光となってくださる希望です。暗黒の闇はやがて消え去り、希望の光が必ず差し込む希望です。最大の私たちの敵である死はもはや私たちの脅威ではなくなったのです。この希望は、「あの世」のものではありません。この世を生き抜く力となる希望です。今私たちが生きているこの延長に、神の国の到来と、キリストにある完全な復活のいのちが与えられるのです。
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2009/12/20礼拝メッセージ
2009年12月20日礼拝のメッセージ要約です。
「キリスト-子とされる恵み-」
ルカの福音書15:11~24
テモテ第一の手紙2:5~7
1. 救い主の誕生
私たちに救い主イエス・キリストが与えられたことを神に心から感謝します。神はこの方を指して、あなたがたを罪から救う救い主であると告げ知らされました。神は、長い年月をかけてこのことを備えられました。誰もがよく調べれば必ずこの人こそ救い主だとわかるように、神はその方を与えてくださったのです。しかし、それにも関わらず、多くの人々はこの方の前を素通りしてきました。私たちを絶望へと、また死へと追いやる病である罪から救う唯一の方は、このキリストであると聖書は語り続けています。
2. 放蕩息子のたとえ
「放蕩息子」のたとえは、非常に有名なたとえです。このたとえは、人が自らを神に背いた罪人であることに気がつき、そして父なる神に立ち返るというものです。これは「悔い改め」ということを物語っています。父なる神は、その人を喜んで抱きとめます。傷ついた私たちが故郷に帰るような話です。しかし、私たちはこうも思います。そんなに私は愚かではない。しかし、これは神からの視点の話です。神の前で、私たちは、自分の生涯やいのちを自分勝手に使っていない、無為に消費していない、完全に計画通りである、そう言いきれるものでしょうか。
3. 子とされる恵み
なぜ弟はこうも簡単にゆるされたのでしょうか。なぜなら父と子の話だからです。しかし、神と私たちの関係はいかなるものでしょうか。私たちと神との関係は、神とその神に背く罪人の関係です。なぜイエスはこのたとえを語られたのでしょうか。なぜなら、その話を語ることのできる理由と権威がキリストにはあったからです。キリストによって、キリストを通して、あなたも神の子となることができるからです。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12)」イエスは、私たちの罪を背負い、その身代わりとして十字架で死なれます。私たちは罪人から神の子となるのです。キリストが私たちに与えられたのは、私たちが神の子となるためです。そして私たちは父なる神のもとへと帰ることができるのです。それは、私たちの本当の居場所に帰ることなのです。ともに帰るべき場所へと帰らせていただきましょう。
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2009年12月13日礼拝のメッセージ要約です。
「キリスト-あなたを招く方-」
マタイの福音書11:25~30
イザヤ書46:1~4
1. 神のことばであるキリスト
イエス・キリストは、神のことばであると聖書には記されています。それは、神の意思を直接あらわす方であり、神のみおしえを語り、神の約束そのものであるという意味でもあります。「すべてのものは、この方によって造られた」ともあります。いのちはイエス・キリストにあってその意味が解き明かされるというのです。この方にこそいのちそのものがあり、この方に信頼すればするほど、私たちは希望のない所に希望を見出すことになるでしょう。
2. キリストのことば
「そのときイエスは、こう言われた。」この記事は、すでにイエスが神から遣わされたメシアとしての働きをしているときのことです。イエスは、メシアとしての姿を人々にあらわしていました。多くの人々の病を癒し、弱さを覚えている者、貧しい者たちに、神の希望が来たことを、イエスは宣言しました。しかし、人々は悔い改めませんでした。イエスは人々に真のいのちと希望を与えるために来られました。しかし、その希望を得るためには、どうしても人間が通らなくてはならない道がありました。それは、人間のおかれた悲惨さに気づくことでした。人間の罪深さを自覚しなくてはならないのです。しかし、その事の深刻さに私たちはなかなか気がつきません。実は、神が私たちのことを忍耐されている現実を私たちは知らないでいるのです。そこから神に向くことこそ、悔い改めることです。悔い改めに年齢は関係ありません。問題はどちらの方向を向いているか、ということなのです。
3. キリストの招き
信じるということは、声を聞き分けることです。自分に対して、語られている神の声に気がつき、そしてそちらの方へと向かっていく、それが信じるということです。信仰というのは応答です。神があなたを呼んでおられる、その呼びかけへの応答です。ここでキリストはこう招いておられます。「わたしのところに来なさい。」「わたしのくびきを負いなさい。」「わたしから学びなさい。」これはすべての人に語られた招きです。その招きに応えるときに、私たちに神からの平安と安らぎが与えられるのです。キリストが私たちの重荷を負ってくださり、また私たちはキリストによって示されて歩んでいく生涯が、信じる人に与えられるのです。
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2009年12月6日礼拝のメッセージ要約です。
「キリスト-インマヌエルの主ー」
イザヤ書7:14
イザヤ書8:22~9:2
ルカの福音書2:1~7
1. 私たちの存在
私たちの存在は、私たちが思うほどに安定していないのかもしれません。ふとした時に、自分の足元がぐらぐらと揺れ動くことがあります。聖書が語る神から離れた人間は、はかなさの中で生きなくてはならない存在となってしまったと教えます(創世記3:19)。私たちはちりに過ぎないと。しかし、私たちはちりに過ぎないものですが、ちりに帰るだけの運命を容易に受け入れることのできないものでもあります。なぜなら私たちの中には、「神のいのちの息」が吹き込まれているからです(創世記2:7)。私たちは神の作品であり、本来神と息を合わせて生きる存在なのです。しかし、私たちはあるべきところを失ってしまった状態なのです。
2. 人の悲惨
ただ生きて死に、ちりに帰る。それが人間のもつ悲惨さです。しかし、私たちは神について考え、また思いをめぐらせることもできます。私たちはこの世界にあって稀有な存在です。自らの悲惨を知りながら、天を思う存在です。聖書は私たちにこう語りかけます。「あなたがたは確かにちりに帰らなくてはいけない運命を持ちながら、それをただ受け入れなくてはならない悲惨さを持っている。しかし、その悲惨さを持ちながら、まことの神を知り救いを求めるならば、その悲惨さから救われる。」この人間の悲惨な現実と神が伸ばした救いの御手が交錯する地点こそが、イエス・キリストです。
3. インマヌエルの主
私たちは、この神の語りかけに気がつかない限り、神がどのような方を知ることはできません。神のことばの表れこそが「イエス・キリスト」です。イエスは神と等しい方であり、その存在とことばは、神ご自身をもっともよく表しています。それと同時に、イエスは私たちと変わらない人であったというのです。キリストを前にして問われるのは、私たち自身の本当の姿と神への信仰です。キリストの誕生シーンにおいても示されたのは、救い主が来た現実の悲惨さと、その現実をともに担おうとされる神の姿です。イエス・キリストは、私たちの悲惨をともに背負われようとしている「インマヌエル(神がともにおられる)の主」の御姿なのです。
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2009/11/29礼拝メッセージ
2009年11月29日礼拝のメッセージ要約です。
「キリスト-ほふられた小羊-」
レビ記1:1~4
ペテロの手紙第一1:18~20
1. 私たちの存在
聖書は世の初めを記しています。私たちが神によって創造されたということ、そして私たちがその直後に、創造主にそむき、自分を神として人間が勝手に歩みをすすめているということが明らかにされています。つまり人間は、その存在の出発点を失い、本当に帰るべき故郷(ふるさと)を失ってしまった状態なのです。聖書の根本的なテーマは、私たちがこの生涯を通して、まことの神と再び出会い、神のもとへと帰る、本当の故郷へとたどり着くということにあります。
2. 神のかたちと罪
神は人間を「神のかたち」に創造しました(創世記1:27)。「かたち」とは、私たちの人格、性質、こころを指しています。神はなぜ人間を神のかたちとして創造されたのでしょうか。なぜなら、神はご自分の栄光を私たちに表し、すばらしい世界をともに分かち合おうとされたからです。しかし、私たちは神のものであることを忘れ、神のみこころに反し、自己中心へと陥ってしまいました。これこそが神に対する罪責なのです。私たちは神から離反してしまったがゆえに、苦痛と病と死の恐怖に苛むようになってしまったと聖書は語ります。私たちの求めは、神でなくては答えることのできないものです。しかし、私たちは、神を求めれば求めるほど、神から遠ざかる現実をも見出すことになります。なぜなら、私たちの中には、神と相反する「罪」があるからです。私たちの思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなってしまったのです(ローマ1:20,21)。神と私たちとの間には深い断絶があるのです。
3. 小羊イエス
旧約聖書には「いけにえ」の規定が記されています。ここに表されたのは、人と人との取り決めではありません。神の前に人が償うべき内容です。それは「いのち」そのものです。神と正しい関係を持つために、動物のいのちをささげることが指示されています。しかし、それは最良のいけにえであっても不完全なものです。私たち自身とはイコールではないからです。それゆえに神は、イエスを私たちに送ってくださいました。私たち以上の犠牲としてイエスが私たちに送られたのです。キリストは十字架に架けられ殺されます。それは、まさにほふられたいけにえそのものです。イエスを信じるということは、この方が私の身代わりに犠牲になってくださったということを信じることです。そのときに、私たちは、神に完全にゆるされ、神との新しい関係に入ることができるのです。
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2009年11月22日礼拝のメッセージ要約です。
「すべてキリストのゆえに」
ピリピ3:4~9
1. 終末
「はじめがあり、終わりがある」それが聖書の語る世界観です。私たちの世界は永遠ではありません。この事実から私たちは目をそらしてはなりません。大きな視野に立つならば、この世界のはじまりと終わりがあるということになります。もっと小さな範囲では、私たち自身のいのちのはじまりと終わりがあります。人間という存在は、はじまりと終わりを意識して生きる存在です。終末が問われる時に、私たちは自分という存在が量られることにもなります。今日の箇所で、パウロは自分自身のことを証言しています。ここで彼が言っていることを短く言い表すならばこうなります。自分はユダヤ人であれば非の打ち所のない生まれと実績である。しかし、彼はここで自らの存在を決めるのは、そのようなものではないと言います。終わりの時に、ものを言うのはこれらのものではないのです。
2. 存在の救い
今日の箇所が私たちに問いかけるのは、あなたの存在は何によって救われるのか、あなたは終わりの時に何によってしっかりと立つことができるのか、ということです。パウロはここで、昔の自分と、今の自分を比べています。昔の自分は、自らの生まれや能力、実績、評価、それによって自分は立っていたと証言しています。しかし、それらのことが自分を救ってくれるわけではないことに気がつくのです。私たちがいのちを問われるとき、つまり終末を迎えるとき、それは神の前に立つときであると聖書は言います。パウロはその存在の救いの鍵が「キリスト・イエス」にあると指し示しています。
3. 神の義
終わりのときに問われるのは、神の前の義であると聖書は語ります。神の前に正しいものとされる、それが義です。それは神との関係が正しいものとなるという意味です。神との関係が正しくなければ、私たちは自分の存在の意味を失い、またはじまりも終わりも見極めることができなくなります。聖書において、神の義と救いはセットとして語られます。神からの救い、また真の希望は、神との関係が正しくなることからもたらされる、それが私たちに与えられた道筋です。どうすれば、神と正しい関係を持つことができるのでしょうか。イエス・キリストはこのように語りました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)」。このイエス・キリストを知り、そしていのちを得させていただきましょう。
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2009/11/1礼拝メッセージ
2009年11月1日礼拝のメッセージ要約です。
「牧会者の思い」
ピリピ2:16~18
1. 牧会者
群れを導く者が牧会者です。その模範となる姿は、よき羊飼いである神ご自身の姿です(詩篇23)。またそれはキリストご自身の姿とも重なります(Ⅰペテロ2:25)。イエス・キリストこそ、教会の大牧者です。牧師もまたキリストにある羊の群れの一員です。しかし牧師はその群れの「牧会者」として立てられてもいます。パウロはこの時代における牧会者の代表です。パウロが牧会者として語ったことは次の三点です(使徒20:17~35)。一つは、最後までそれぞれに備えられた生涯を神の喜ばれるものとして歩んで欲しいということ。二つ目にそのためにみことばから正しい教え(教理)を学び、そこに立ち続けるようにということ。そして三つ目に、教会において「受けるよりも与えるものとなり」、「互いに仕えること」に生きるようにということ、この三点です。
2. パウロの思い
ピリピの手紙においてパウロは牧会者としてのありのままの言葉をつづっています。ピリピの教会の人々が、キリストの福音にふさわしく生きるように、また互いに仕えあい、互いにを尊重しあい、へりくだるように。自己中心から解き放たれ、互いに関心を持ち、キリストの姿に倣い、十字架の福音に立ち続けるように。そして、キリストの教会が、終わりの時まで、神のみこころにかなうものとなるように。教会の一人一人がこのように歩むことを、パウロは心から願っています。彼の喜びと目標はどこにあったのでしょうか?それは教会が大きくなることでも、また教会が経済的に豊かになることでもありませんでした。そうではなく、教会がみことばに堅く立ち、正しい教えを学び、またキリストのことばとキリストの姿にあらわされた互いに仕えあうものたちとして歩んで欲しいということだったのです。
3. キリストの願い
これは実はパウロの願いにとどまらないものです。これはキリストご自身の願いでもあります。私たちの周りには様々な決断が日々迫っています。何を着るか、何を食べるかからはじまり、どのように時間を使うか、何をなすか、どのようにお金を用いるか、究極的には与えられたこの生涯をどのように用いるか。そこには様々な決断が求められています。だからこそ、私たちは委ねられた決断を、神に喜ばれ受け入れられるものとしなくてはなりません。私たちも牧会者キリストともに、互いに喜びを分かち合い、歩んでまいりましょう。
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2009/10/25礼拝メッセージ
2009年10月25日礼拝のメッセージ要約です。
「つぶやかずに、うたがわずに」
ピリピ2:14~16
1. つぶやき
私たちはどんな時につぶやき、神を疑うのでしょうか?私たちは、願いどおりに事が運び、状況が好転した時には神に感謝できます。その逆の時にはつぶやくことになるでしょう。「つぶやく民」とは、まさにエジプトから脱出したイスラエルの民を思い出す言葉です。奴隷から救いだされ自由の民となったイスラエル。しかし彼らはその途上でつぶやきます。「救われた」という事実を忘れ、すぐに目の前の困難な状況に目を奪われてしまうのです。これは私たち自身の姿でもあるでしょう。しかし、パウロはここでこう言うのです。「つぶやかず、疑わずに行いなさい。」ピリピの教会もまた、思わしくない状況を前につぶやいていました。この言葉は実にはっとさせる言葉です。今つぶやいている只中にいる自分に気づかせることばです。みことばは、私たちに「つぶやき続けること」に対して警告を与えています。
2. 神の視野
「それは、曲がった邪悪な世代のただ中にあって、あなたがたが非難されるところのない純真な者となり、傷のない神の子どもとなるためです。あなたがたは彼らの間で、いのちの言葉をしっかり握り、世の光として輝いています。」これは神にあるゴールを示す言葉です。私たちの状況や社会は、決して楽なものではありません。また困難が伴うものでもあるでしょう。そのような中にあって、私たちにはゴールが指し示されています。それは「神の国」の到来です。私たちはキリストに贖われ、すでに神の国の国籍が与えられています。だからこそ、私たちはまだ神の国が完全には完成していない闇の世の中で、ゴールに向かって歩みを進めるのです。
3. 世の光である私たち
私たちはこの世の中で、いのちの言葉をしっかり握り、世の光として輝いていると言われています。これは未来のことではなく、今世の光として輝いているという言葉です。私たちは福音のことばを聴き、救いを得た今、もう世の光として輝いているのです。なぜ、私たちは「純真な者」「神の子ども」となることへと歩みを進めていくのでしょうか。到底これらのことは、努力や思いだけで到達できるものではありません。まさに十字架の恵みによって、これらのことは達成されるのです。これは神の約束であり、希望の言葉です。ここに私たちが目を留め続けるときに、つぶやき続ける者ではなく、希望を告白する者へと変えられていくのです。
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メインページへ2009/10/18礼拝メッセージ
2009年10月18日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ2:12~13
「恵みに立ち続けるということ」
1. パウロの勧め
ピリピの教会に対してパウロは次のことを勧めて来ました。「福音にふさわしい生活をしなさい。」その具体的なあり方がへりくだり、互いに愛し合う生き方でした。その生き方をなすのは、自らの力ではなく、十字架のキリストにあることをパウロは示してきました。そのキリストの姿と神の救いをはっきりと覚えた今「そういうわけですから」とパウロはさらに筆を進めます。以前、ピリピの教会にパウロがいた時も、また不在の今はなおさらのこと従順でいなさいとパウロは勧めます。「従順」とは神に対するものです。ここでパウロは、神に対する誠実なあり方を教会の人々に求めています。
2. 救いの達成
問題はこの言葉です。「自分の救いの達成に努めなさい。」結局、救いは努力が必要なであるかのように受け取れる言葉です。しかしそうではありません。ここの「救い」は、個々人の救いではなく、むしろ教会の成熟と完成、神の国への到達を意味しています。教会が目指すゴールとして「救い」という言葉が用いられています。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」と記されています。「あなたがのうち」とは、心の中という意味ではなく、あなたがたの間、つまり教会のことです。それではこの志とは何でしょうか。これは、私たちが、キリストの福音にふさわしく生きたいと願うこと、そのものです。
3. よきわざ
ウェストミンスター信仰基準にはこうあります。「彼らがよきわざをする能力は、全然自分自身によるものではなくて、全くキリストのみたまからのものである。そして彼らがよきわざをすることができるためには、すでに受けている恵みのほかに、彼らのうちに働いて、み心のままに願いを起こさせ実現に至らせる同じみたまの実際の作用が必要である。しかし、みたまの特別な活動がなければ、何の義務も果たす責任がないかのように、ここで怠惰になってしまってはならない。むしろ彼らは、自分の中にある神の恵みをかき立てることに勤勉でなければならない。」私たちが「よきわざ」に向かうのは、決して私たちの力や能力によるものではありません。それは教会に働く聖霊のみわざです。私たちによきことへの思いを与え、励ましを与えてくださっているのは、まさに神ご自身なのです。ともにこの神の恵みに立って進んでまいりましょう。
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2009/10/11礼拝メッセージ
2009年10月11日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ2:6~11
「キリスト讃歌Ⅱ」
1. キリスト讃歌
キリスト賛歌の前半に歌われていたのは、神と等しい方であったキリストが、そのあり方を捨て、人となられ、しもべとなられ、そして十字架の死にまでも従われたことでした。この私のために、神がしもべとなられた・・・その姿こそ神の愛の顕れであることを見ました。その逆に私たちは、自分たちに与えられている様々な特権を簡単には捨てることはできないものたちです。しかし、その多くは、私たちの手で得られたものではないことに気がつかなくてはなりません。神の前に立つときに、私たちがどこから来て、そして今どこにいるのか、さらにどこへと向かうのかが問われます。キリスト讃歌の後半は、イエスがどこに行ったのかということが描かれています。
2. 高くあげられたイエス
イエスは、神から来て、地にくだり、そしてどこへ行ったのでしょうか。神はイエスを高く上げた、とあります。聖書に、特にキリストのことばの中には、小さい者、幼い者、力のないもの、弱いものこそが幸いであると語られています。明らかに神は低いものが高くされると言っています。「それゆえ神は、この方を高く上げて」とあります。これはキリストが十字架の死の後、復活し、そして天に上げられたことを歌ったものです。私たちは、この言葉をどう受け取るでしょうか?
3. 神の救い
キリストを私たちが見れば見るほど、そこに神のみこころを私たちは見出します。十字架の現場を見るときに、そこに何の救いがあろうかと人々は考えます。人間が考える救い、それは、目に見える形での勝利であり、平和であり、成功です。しかし、神が与える救いは何でしょうか。それは絶望の先にある神の御手の確かさ、です。神の子キリストが私たちのしもべとなられたがゆえに、神は、この方を最も高くされました。これが神がご覧になっているものです。ここに語られているのは、見せかけの謙遜さではありません。すべてを投げ打ち、神の御前にひざまずくしもべの姿です。私たちは、完全にこのキリストのようには、生きることはできないでしょう。しかし、このキリストの姿をまっすぐに見るときに、私たちは自らの高慢さ、愚かさを見せつけられます。そして神の前の真の謙遜へと導かれるのです。そのような者を神は引き上げられます。神の前にひざまずき、へりくだらせていただきましょう。
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2009年10月4日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ2:5~11
「キリスト讃歌Ⅰ」
1. 私たちの課題
福音にふさわしいあり方。皆さんにとってそれはどのような生き方を指しているでしょうか。私たちが取り組む課題とは、私たちの生き方がキリストの福音にふさわしいものとなっているだろうか、という問いにあります。そしてそれは私たちの「動機」を問うものでもあります。あなたがキリストを救い主として信じたときに、自分を中心とする罪から解放され、キリストにあるものとなっている、その宣言こそが福音のことばです。しかし、私たちはその福音の中心からずれてしまう者たちです。ですからパウロは、キリストの姿をあなたがたのうちにはっきりと描くようにと勧めています。
2. キリスト讃歌
キリスト・イエスにあるものこそ、このような考えを持つべきであるとパウロは言います。キリストを中心とするときに、私たちに自分の力や知恵では得ることのできないことが与えられます。イエス・キリストにあるものたちが、常に思うべき私たちの主の姿がここで歌われています。それが「キリスト讃歌」です。この詩には明らかな対比があります。その対比は「キリストは神の御姿である方なのに、仕える者の姿をとった」ということです。神と等しい方が、そのことに固執されないで、つまりそれを捨てられました。ここにある賛美の言葉の一つは、キリストがご自分の立場を捨てられたということです。さらに自分を無にし、人間と同じところに降られたということ。十字架の死にまでも降っていたその姿。この詩を讃美するときに、彼の心は震えたことでしょう。
3. キリストの謙遜
なぜ神である方が、私たちのところに来られたのでしょうか。キリストの姿に現されたのは、神の愛のもっとも具体的なあらわれでした。キリストがその力を一度でも自分のために行使したことがあったでしょうか。すべては父なる神のため、そして私たちのためでした。このことはいったい誰のためであったのか。これが重要かつ重大なポイントです。ただこれを、キリストの高潔な生涯であるとしては意味がありません。それはまさに「この私」のためなのです。私たちがイエス・キリストを仰ぎ見るときに見出すのは、神は私のために大いなる犠牲を払われる方であるということです。つまりそれこそが神の愛なのです。私たちのいのちの原動力はここに見出されるのです。
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2009年9月27日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ2:1~5
「キリスト者の心構え」
1. 「こういうわけですから…」
直前の箇所にはこうありました。「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい」という言葉がそこにはあります。それはただ倫理的、道徳的に正しい生活を指しているのではありません。ただ十字架のキリストによって罪許され、神の民となったものとしてふさわしいあり方、そのことをパウロは私たちに訴えかけたのでした。パウロはさらに教会の現状に踏み込んでいきます。ここは短いフレーズが連続して記されています。「もし、キリストにある励ましが、もし、愛の慰めが、もし、御霊の交わりが、もし、愛情とあわれみが、あなたにあるのなら・・・」キリストの福音を私たちが知るときに、励ましと慰めにあふれた神との交わりを経験することになるでしょう。
2. パウロの喜び
パウロは続けます。「私の喜びが満たされるように・・・」と。パウロは「神の喜びが満たされるように」とは言いませんでした。彼の喜びは自分を満足させるということにはありませんでした。彼の喜びは、教会が神の前に正しく、キリスの福音にふさわしく歩むことにあります。彼の喜びは、自己中心や虚栄にあったわけではありません。しかし、パウロに敵するものたちは「神の喜びが満たされるように」と言いながら、その実体は自らが賞賛されることを喜びとするというむなしいあり方でした。そのような言葉や表面的には正しそうなあり方をパウロは否定します。
3. 教会の一致
そしてパウロは教会に一致を勧めます。長く教会の課題となっている事柄です。一致を別の言葉にするならば「平和」という言葉になるでしょう。これは教会だけではなく、すべての人にとっての重要な課題です。パウロは言います。「あなたがたは同じことを思い、同じ愛を持ち、心を合わせて一つのことを思うために」と。平和の土台をどこに置くかが私たちの問題です。どちらかの側にその土台を置くのではありません。パウロが指し示したのは「イエス・キリスト」でした。パウロは、キリストにあるクリスチャンの態度をこのように記しています。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりも優れた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」すばらしい在り方です。私たちの弱さに根拠を置くのではなく、キリストに土台を置くときに、私たちの間に一致が与えられるのです。
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2009/9/20礼拝メッセージ
2009年9月20日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:27~30
「福音にふさわしく生きる」
1. 苦しみの意味
私たちは、苦しみの意味がどこにあるのか問うものです。なぜ私がこのような苦しみを負わなくてはならないのか。私だけがなぜ?私たちはそのことに何とか説明をつけようと思うものです。しかし多くの説明は一時的なものです。神のことばである聖書は、表面的な回避方法を与えるものではありません。
2. パウロの苦しみ
なぜパウロは投獄されているのでしょうか。なぜピリピの教会も苦境に立たされているのでしょうか。周囲の人はこのように言うでしょう。「律法を守り、正しい行いをすることによってのみその苦境から救われる。」しかし、パウロはここではっきりと語ります。「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」ここでパウロがすすめているのは、ただ正しい生活をすることではありません。キリストの福音にふさわしい生き方が勧められているのです。
3. キリストの福音にふさわしい生き方
福音にふさわしい生き方とはいったい何でしょうか。ただイエス・キリストのみを主と告白することによって、何事にもぶれずに立つということ。さらに、一つ心において主イエスを信じる信仰のために闘っていること。「信仰による救い」この点において、私たちは簡単にゆりうごかされます。何か自分が正しいことをすることが救いにつながる。何か自分が間違っているから、救いが遠くなっていく・・・そうではないのです。私たちの目の前に起こる一つ一つの出来事は、すべて神と無関係なことではありません。私たちは苦難や試練において、神への信仰と救い主キリストへの信頼が第一に問われるのです。神が私たちに求めているのは「信仰」です。あなたは何を神とし、何に信頼し、何に希望を置くのか、そのことが私たちには問われています。
4. キリストのための苦しみ
パウロは、なぜ自分が苦しみを負っているのか、そのことを知っていました。キリストの十字架の不思議はここにあります。あなたの生きる際の苦しみや試練は、ただの苦難ではもはやありません。「賜った」という言葉は、恵みとして与えられたという言葉です。パウロは、キリストの苦しみが、恵みとして与えられているのだと語ります。あなたの今受けている試練は苦しみは、神にあって意味のあるものなのです。
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メインページへ2009/9/13礼拝メッセージ
2009年9月13日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:20~26
「生きるにも死ぬにも」
1. 「私にとって生きることはキリスト、死ぬことも益です。」
パウロは、ここで生きることと死ぬことを天秤にかけているかのようです。この手紙を読み進めてくると、パウロのもどかしさも同時に伝わってきます。自由にならない状況や耳に入ってくる教会を取り巻く不穏な情報がありました。このようなすっきりとしない状況がパウロを取り巻いていました。なぜパウロはこの手紙を書いたのでしょうか。彼の執筆の動機は、教会が誤った立ち位置ではなく、キリストにある立つべき場所にしっかりと立って欲しいという思いでした。
2. 「死ぬことも益である」
パウロはここで自らのいのちは「キリスト」であると言っています。そして、さらに彼はこのように言い表します。「だから死ぬことも益であると。」ここでパウロが触れている「死」は、たとえもし死ぬことがこの先にあったとしても、ということです。パウロはこうも言います。「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。」片方では、いのちが続くのであれば、それはそれで豊かな実を結ぶことになる・・・しかし、もう片方の死という状況であったとしても、それはむしろ自分にとっては、世を去ってキリストとともにいることになる、ゆえにそれはさらにすばらしいことである・・・つまりパウロは「どちらでも大丈夫なんだ」と言っているのです。私たちの最も大事なアイデンティティはすでに神とともにあるとパウロは捉えています。神から喜びと平安が与えられ続ける、それがクリスチャンに与えられた特権の一つなのです。
3. 「今を生きる」
生きること、死ぬこと、そのどちらでも大丈夫なのだと語った後に、パウロが言うのは、だからこそ、今与えられているいのちを精一杯生きる、ということです。さらに付け加えるとするならば、誰のために生きるのか、ということです。ここで、パウロが求めているのは自分自身の利益ではありません。彼が求めているのは、教会にとってよいこととは何かでした。ただ自らの利益のために、彼は生きていたのではありません。ただキリストのためであり、その具体的なあらわれが「あなたがたのため」でした。「生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられること」に彼は立っていたのです。この言葉に私たちは聞き続け、それぞれの生き方の立ち位置を、確認し、修正してまいりましょう。
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メインページへ2009/9/6礼拝メッセージ
2009年9月6日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:18~20
「どんなときであっても」
1. いかなる時であっても
パウロが、どのような状況においても喜びを得ていた、その秘訣を私たちはともにこの手紙から学んでいます。パウロの喜びの第一番目の理由は、自分がたとい牢獄につながれていたとしても、キリストが宣べ伝えられている、そこに目を留めているからだ、と彼は言いました。それはいつでも、どこにおいても、神の大いなる御手を認めていた姿です。しかし、このパウロのことばを聴いて、おそらくこう言う人がいたことでしょう。「パウロは強がりをいっているに過ぎない。」
2. 喜びの源泉
パウロは、そのような人がいることをも知っていました。パウロはここで、さらに自らの喜びがどこから来るのかを明らかにしていきます。「というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。」「このこと」とは何を指しているのでしょうか。それはパウロの身に起こったことや困難です。それが私の救いとなる・・・?ある人は「解放される」ということだとする人もいます。問題はパウロにとっての救いとは何か?ということになります。根本的なことが問われる言葉です。皆さんが問われたら何と答えるでしょうか?現実的な問題が解決すること、そう思うことが悪いのではありません。しかし、ここでパウロは目の前にある困難から救われることだけを「救い」と言っているのではありません。
3. パウロの救い
パウロはここでこのように語ります。「生きるにも死ぬにも」つまりどんなときでも、どんな状態にあったとしても、私の身によってキリストがあがめられること、これこそが彼の願いなのです。キリストがあがめられる時、それはいつでしょうか?それは彼の行った奇跡ゆえではありません。それはキリストの十字架の犠牲のゆえです。十字架の死と復活、それは私たちの根源的な罪の赦しと、私たちが抱えた死という絶望をひっくり返す逆転する力です。どんなに目の前に困難な出来事が起きようとも、それがたとえ死ということであったとしても、キリストがその死に打ち勝ったように、やがては完全な救いへと導かれる・・・だからこそ、パウロは、ここでこう語るのです。「このことが私の救いとなることを私は知っている」と。そして、この信仰は、人の努力や知恵によって得られるのではありません。私たちは私たちのうちに働く聖霊の助けによって、キリストにある希望が与えられ続けていくのです。
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2009/8/23礼拝メッセージ
2009年8月16日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:12~18
「喜びの秘訣」
1. 喜びの人
この箇所のテーマは「どのような状況においても喜び続ける秘訣」です。聖書にはいかなる状況においても、喜ぶことのできた人が登場します。その代表者はパウロです。この箇所でパウロは言います。「私は喜んでいる。いや、これからも喜ぶだろう。」では、パウロはこのときに何を喜んでいたのでしょうか?
2. 獄中のパウロ
この手紙を書いているパウロの今は獄中です。これはパウロ自身も、ピリピの教会の人々も喜べる状況ではありませんでした。この箇所には、パウロの周囲にいた人々の反応が記されています。その反応は二つでした。一方の人々は、ねたみや争いが心を支配していました。また一方は善意、愛を動機としてキリストを宣べ伝える人々がいたと言っています。パウロはこのような人々がいることを牢獄の中で耳にしました。しかし、パウロはこんな境遇の時にあっても、別のものを見ていました。それはイエス・キリストが宣べ伝えられているという現実です。彼の力を超えたところで、神のことばは確かに語られていました。その現実をパウロは見ていたのです。
3. ピリピでのパウロ
ピリピの教会がスタートする時のきっかけの一つは、このパウロの投獄でした。ピリピの教会はいわば牢獄からはじまったのです。パウロもピリピの教会の人々も、人の考えを超えた神の計画が、一見困難に見える状況のうちにもあることを知っていました。パウロは投獄されていたときに、牢屋の中で祈り、賛美をしていました。彼はこの状況下で、神を礼拝していたのです。この礼拝者としてのあり方が、パウロの人格を形成していきました。
4. 喜び続ける秘訣
一つは、「主のみ手にゆだねる」ということです。二つ目に、何を一番にしているのかを問う、ということです。三つ目に、「キリストのゆえに」という信仰です。パウロはすべてのことを「キリストのゆえに」受け止めています。今、目の前に起こっていることすべては、「キリストのゆえ、主にあって」のことでした。目の前にある状況は、ただの不幸ではない、すべてがキリストのゆえのものであるとパウロは受け止めていました。この態度は、一日にして完成したものではありません。日々の神様との交わり、そして神礼拝こそが喜び続ける秘訣なのです。
[考えるために]
パウロの在り方は、どのような歩みの中で育まれたのでしょうか?
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メインページへ2009/8/16礼拝メッセージ
2009年8月16日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:9~11
「教会のための祈り」
1. 教会のための祈り
この箇所はパウロが祈った「教会のための祈り」です。それは主イエスが私たちのために祈った祈りと重なるものです。パウロは二つのことを神に祈り請い願います。一つ目は愛を求める祈りです。そして、二つ目は、愛に根ざした神の聖さ(義)を求める祈りです。
2. 愛を求める祈り
「あなたがたの愛」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。とかく愛は感情の問題であると捉える傾向があります。現代においてはヒューマニズムが強い影響力を持っています。しかし、パウロが祈りに覚えている「あなたがたの愛」はそのような愛ではありません。これは「アガペー」のことです。アガペーの愛は人間の側から自然に生まれるものではありません。アガペーの愛は、見返りを求めない無償の愛、「神の愛」のことです。「あなたがたの愛」とは、あなたがたに神が与えた愛、という意味です。まさにそれはキリストを通して示された無償の愛そのものです。さらにパウロは祈ります。愛が豊かになるということは、実は真の知識が問題であると。聖書における「知識」の源泉はどこにあるでしょうか。それは神のことばです。真の知識、それは聖書によって示された主イエス・キリストのことです。私たちは愛について、神抜き、イエス抜き、聖書抜きにしたときに、どれほどの知恵を手に入れることができるのでしょうか。神が私たちを形作り、キリストを私たちに下さった愛によって私たちを愛している・・・そこから私たちは出発しなくてはならないのです。
3. 聖さを求める祈り
さらにパウロは祈ります。義の実に満たされるように。義の実とは何でしょうか。「義」これは神の聖さや神の正しさ、よきこと、良き行い、それらすべてに関わる言葉です。神の義はどのように示されたのでしょうか。それは愛と同様です。やはりイエス・キリストその人です。パウロは、教会がまさにキリストご自身の生き方、ことば、あり方をあらわすものとなるようにと祈っています。義の実に満たされるとは、教会がキリストの姿をあらわすものとなることに他なりません。そしてそれこそが、教会に、そして私たちに与えられている使命でもあるでしょう。とてもハードルの高い、また目標の高い使命です。私たちはできるかできないかではなく、まず神の義を祈り願うことが求められているのです。私たちも願い、互いに祈りあってまいりましょう。
[考えるために]
パウロは何を神に祈り願ったのでしょうか?
投稿者 mb-church : 09:48 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2009/8/16礼拝メッセージ
2009年8月16日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:9~11
「教会のための祈り」
1. 教会のための祈り
この箇所はパウロが祈った「教会のための祈り」です。それは主イエスが私たちのために祈った祈りと重なるものです。パウロは二つのことを神に祈り請い願います。一つ目は愛を求める祈りです。そして、二つ目は、愛に根ざした神の聖さ(義)を求める祈りです。
2. 愛を求める祈り
「あなたがたの愛」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。とかく愛は感情の問題であると捉える傾向があります。現代においてはヒューマニズムが強い影響力を持っています。しかし、パウロが祈りに覚えている「あなたがたの愛」はそのような愛ではありません。これは「アガペー」のことです。アガペーの愛は人間の側から自然に生まれるものではありません。アガペーの愛は、見返りを求めない無償の愛、「神の愛」のことです。「あなたがたの愛」とは、あなたがたに神が与えた愛、という意味です。まさにそれはキリストを通して示された無償の愛そのものです。さらにパウロは祈ります。愛が豊かになるということは、実は真の知識が問題であると。聖書における「知識」の源泉はどこにあるでしょうか。それは神のことばです。真の知識、それは聖書によって示された主イエス・キリストのことです。私たちは愛について、神抜き、イエス抜き、聖書抜きにしたときに、どれほどの知恵を手に入れることができるのでしょうか。神が私たちを形作り、キリストを私たちに下さった愛によって私たちを愛している・・・そこから私たちは出発しなくてはならないのです。
3. 聖さを求める祈り
さらにパウロは祈ります。義の実に満たされるように。義の実とは何でしょうか。「義」これは神の聖さや神の正しさ、よきこと、良き行い、それらすべてに関わる言葉です。神の義はどのように示されたのでしょうか。それは愛と同様です。やはりイエス・キリストその人です。パウロは、教会がまさにキリストご自身の生き方、ことば、あり方をあらわすものとなるようにと祈っています。義の実に満たされるとは、教会がキリストの姿をあらわすものとなることに他なりません。そしてそれこそが、教会に、そして私たちに与えられている使命でもあるでしょう。とてもハードルの高い、また目標の高い使命です。私たちはできるかできないかではなく、まず神の義を祈り願うことが求められているのです。私たちも願い、互いに祈りあってまいりましょう。
[考えるために]
パウロは何を神に祈り願ったのでしょうか?
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2009年8月16日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:9~11
「教会のための祈り」
1. 教会のための祈り
この箇所はパウロが祈った「教会のための祈り」です。それは主イエスが私たちのために祈った祈りと重なるものです。パウロは二つのことを神に祈り請い願います。一つ目は愛を求める祈りです。そして、二つ目は、愛に根ざした神の聖さ(義)を求める祈りです。
2. 愛を求める祈り
「あなたがたの愛」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。とかく愛は感情の問題であると捉える傾向があります。現代においてはヒューマニズムが強い影響力を持っています。しかし、パウロが祈りに覚えている「あなたがたの愛」はそのような愛ではありません。これは「アガペー」のことです。アガペーの愛は人間の側から自然に生まれるものではありません。アガペーの愛は、見返りを求めない無償の愛、「神の愛」のことです。「あなたがたの愛」とは、あなたがたに神が与えた愛、という意味です。まさにそれはキリストを通して示された無償の愛そのものです。さらにパウロは祈ります。愛が豊かになるということは、実は真の知識が問題であると。聖書における「知識」の源泉はどこにあるでしょうか。それは神のことばです。真の知識、それは聖書によって示された主イエス・キリストのことです。私たちは愛について、神抜き、イエス抜き、聖書抜きにしたときに、どれほどの知恵を手に入れることができるのでしょうか。神が私たちを形作り、キリストを私たちに下さった愛によって私たちを愛している・・・そこから私たちは出発しなくてはならないのです。
3. 聖さを求める祈り
さらにパウロは祈ります。義の実に満たされるように。義の実とは何でしょうか。「義」これは神の聖さや神の正しさ、よきこと、良き行い、それらすべてに関わる言葉です。神の義はどのように示されたのでしょうか。それは愛と同様です。やはりイエス・キリストその人です。パウロは、教会がまさにキリストご自身の生き方、ことば、あり方をあらわすものとなるようにと祈っています。義の実に満たされるとは、教会がキリストの姿をあらわすものとなることに他なりません。そしてそれこそが、教会に、そして私たちに与えられている使命でもあるでしょう。とてもハードルの高い、また目標の高い使命です。私たちはできるかできないかではなく、まず神の義を祈り願うことが求められているのです。私たちも願い、互いに祈りあってまいりましょう。
[考えるために]
パウロは何を神に祈り願ったのでしょうか?
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2009年8月16日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:9~11
「教会のための祈り」
1. 教会のための祈り
この箇所はパウロが祈った「教会のための祈り」です。それは主イエスが私たちのために祈った祈りと重なるものです。パウロは二つのことを神に祈り請い願います。一つ目は愛を求める祈りです。そして、二つ目は、愛に根ざした神の聖さ(義)を求める祈りです。
2. 愛を求める祈り
「あなたがたの愛」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。とかく愛は感情の問題であると捉える傾向があります。現代においてはヒューマニズムが強い影響力を持っています。しかし、パウロが祈りに覚えている「あなたがたの愛」はそのような愛ではありません。これは「アガペー」のことです。アガペーの愛は人間の側から自然に生まれるものではありません。アガペーの愛は、見返りを求めない無償の愛、「神の愛」のことです。「あなたがたの愛」とは、あなたがたに神が与えた愛、という意味です。まさにそれはキリストを通して示された無償の愛そのものです。さらにパウロは祈ります。愛が豊かになるということは、実は真の知識が問題であると。聖書における「知識」の源泉はどこにあるでしょうか。それは神のことばです。真の知識、それは聖書によって示された主イエス・キリストのことです。私たちは愛について、神抜き、イエス抜き、聖書抜きにしたときに、どれほどの知恵を手に入れることができるのでしょうか。神が私たちを形作り、キリストを私たちに下さった愛によって私たちを愛している・・・そこから私たちは出発しなくてはならないのです。
3. 聖さを求める祈り
さらにパウロは祈ります。義の実に満たされるように。義の実とは何でしょうか。「義」これは神の聖さや神の正しさ、よきこと、良き行い、それらすべてに関わる言葉です。神の義はどのように示されたのでしょうか。それは愛と同様です。やはりイエス・キリストその人です。パウロは、教会がまさにキリストご自身の生き方、ことば、あり方をあらわすものとなるようにと祈っています。義の実に満たされるとは、教会がキリストの姿をあらわすものとなることに他なりません。そしてそれこそが、教会に、そして私たちに与えられている使命でもあるでしょう。とてもハードルの高い、また目標の高い使命です。私たちはできるかできないかではなく、まず神の義を祈り願うことが求められているのです。私たちも願い、互いに祈りあってまいりましょう。
[考えるために]
パウロは何を神に祈り願ったのでしょうか?
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2009/8/9礼拝メッセージ
2009年8月9日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:6~8
「完成させてくださる方」
1. イエスによる完成
ピリピ人への手紙は「喜び」の手紙と呼ばれています。何が喜びなのでしょうか。それは主イエス・キリストを信じているがゆえの喜び、です。ともに同じ希望を持ち、神へと、そして救いの完成へと歩みを進めていることへの喜びです。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日がくるまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」良い働きをはじめられた方は誰でしょうか。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)良い働きを始められた方はイエスです。イエス・キリストが、ご自身の日が来るまでに、それを完成してくださるというのです。良い働き(福音のコイノニア)を終わりの日まで、キリストご自身が完成し続けてくださる・・・何と力強い言葉なのでしょうか。
2. キリストにある信仰
信仰は何も難しいことではありません。聖書は救いに関して一人の方を示し続けています。イエス・キリストその方です。キリストはご自身のことをこうご自身のことばの数々をならべてみるとそれがよく分かります。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」なぜイエスなのでしょうか。大切なことは、この方が、私たちの生涯も、また教会の歩みも、そのすべてを完成し続けてくださると信じることです。
3. パウロの根拠
これまでのパウロの歩みに関して二つのことに触れています。投獄されているときと、福音を弁明し立証しているときです。そのときも、パウロとともに恵みあずかった人々が、あなたがたピリピの教会の人々であるとパウロは証言しています。ここにある恵みとは何でしょうか?「恵み」それは、主イエスを信じともに歩みだすことです。それゆえに、どのような困難な中に置かれたとしても、そこに主の守りとまたみわざを見出すことのできる者たちとなることでもあります。その恵みにパウロもまたピリピの教会も預かってきました。そのところどころにおいて、必ずキリストの福音の喜びが、完成に完成を重ねていくことになります。主イエスとともに歩みを進めるうちに、ともにおられる方の確かさを経験していくことになるのです。
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2009年8月2日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:1~6
「喜びの手紙」
1. 獄中書簡
この手紙は獄中書簡と呼ばれています。この手紙はパウロが投獄されているときに記したものであるからです。この手紙を書くときに、パウロはピリピ教会の人々の顔を思い浮かべながら一字一字を記したことでしょう。実にその内容は、教会への愛にあふれていました。教会を建てあげるためのことばが、この手紙にはあふれています。時に励まし、時に叱咤し、そして何よりも、イエス・キリストをその都度思い起こさせる・・・。パウロは、この手紙の冒頭でこのように記しています。「私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り・・・」ここに祈る牧会者の姿があります。
2. 感謝の理由
パウロは言います。ピリピ教会のことを思い出すたびに神に感謝をし、そして、教会のために祈るごとに、喜びとともに祈ることができる、と。その理由が5節に記されています。「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来た」からだとパウロは言います。つまり、あなたがたのことを思うたびに神に感謝し、祈るごとに喜びを持つことができるのは、ピリピの教会が、最初の日から今に至るまで、福音を広めることにあずかって来たからだと言うのです。
3. 福音に預かる人々
ここにはコイノニアという言葉が用いられています。福音のコイノニア。これが教会の感謝であり喜びの源泉です。ピリピの教会の始めの日に目を向けるとこのことがよく分かります。使徒の働き16:11~40にピリピ教会の開拓の様子が記録されています。最初の日にルデヤという女性が救われます。ここには、主が彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた、とあります。そして彼女も、その家族もバプテスマを受けることになりました。さらにルデヤは自分の家をパウロたちに提供します。この教会は一人の女性から始まりました。最初の日から福音が分かち合われました。家をささげ、自らのできることをルデヤはささげました。教会はまさにコイノニアによって始まったのです。コイノニア、それは第一に福音が分かち合われることです。さらには、福音をさらに他の人へ分かち合うことへとつながります。そして、福音のために持てるものをささげることへと前進していくのです。
[考えるために]
福音のコイノニアとはどのようなことでしょうか?
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2009年7月26日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ15:22~33
「上向きの信仰」
1. 教会の中にある緊張関係
パウロは異邦人宣教にその身を投じました。当時の教会は難しい問題を抱えていました。それはエルサレム教会を中心としたユダヤ主義に立つクリスチャンと、小アジアや地中海沿岸を中心とした異邦人社会に誕生した教会のクリスチャンたちとの間にあった緊張関係でした。その緊張関係の最前線にいたのがパウロでした。パウロは、全世界の人々が神の民となり、ともに教会において神を礼拝するということこそ、神が望まれてきたことであると確信していました。
2. エルサレムへ上ること
そのような緊張がある中、パウロはエルサレムへと上ろうとします。周囲の人々はパウロを止めました。なぜならパウロがエルサレムに上れば、ユダヤ主義者との間のトラブルに巻き込まれることは明らかであったからです。しかし、パウロは自分の身がたとえ危険にさらされようとも、教会の一致のためにエルサレムへと上っていく決断をしました。さらにパウロはその先のことを見ています。もしパウロがエルサレム教会において一致を見ることができたならば、今度は新たな宣教地へと赴く計画を持っているというのです。パウロの周囲の人々は今の状況に対して悲観的に見ていました。しかし、パウロはそのようには考えていません。ここに「ささげる人」パウロの信仰のあり方が示されています。「ささげること」に関して、神はそのことを必ず成し遂げてくださる、神が悪いようには決してなさらない、その確信がパウロにはあるのです。
3. 祈りの要請
そして、パウロはローマのクリスチャンたちに祈りを要請します。先の見えない中で、ローマの教会に「ともに祈ってください」と願います。パウロは自らの働きは、すべて教会の働きなのだと考えていました。それぞれの生き方を通して、仕事を通して、人に仕え、また社会に仕え、教会に仕え、何よりも神に仕える・・・そのことすべてが教会の働きなのです。それは一人ではなすことができないものです。だからパウロはここで教会に祈りを要請するのです。しかし、この祈りの課題は、その後すべてが聞かれたわけではありませんでした。パウロはローマに到着します。しかし囚人としてでした。祈りがすべてが聞かれたわけではありません。しかし、これはすべてを「良きこと」へと神が導いてくださった結果なのです。私たちの思いをはるかに超える神のみわざがなされるという確信。これこそ信仰者だけが得ることのできるものなのです。
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2009年7月19日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ15:7~13
「キリストの教会を信ず」
1. ささげるということ
ローマ12章からここまで教会への勧告が多く記されていました。キリストによって贖われ、義とされた私たちが、どのように自らをささげていくのか、このことが大きなテーマとなっていました。これらのことは私たち教会に与えられた道しるべともなるでしょう。そして今日の箇所には、パウロ自身の「ささげるものの姿勢」が記されています。
2. 教会の主を信じること
パウロは「確信している」と言います。この手紙を読んでいる教会が、善意と知恵とを持って、互いに戒め合えることを信じている、そうパウロは記します。これは単に人を信じているという言葉ではありません。教会もまた多くの課題を抱えています。しかし、教会はキリストのもの、神の宮、聖徒の交わりです。パウロは「キリストの教会」を信じています。聖徒の交わりに働かれる主を信じているのです。教会もまたこの世の様々な問題を抱えます。しかし、まず私たちが信じるのは、人や目に見える支えではなく、教会の主「キリスト」なのです。
3. パウロの経験
パウロはこの手紙を送るにあたって、自分が「異邦人を導くもの」であると証しています。そしてパウロは「私はあなたがたにもう一度思い起こして欲しい」と言っています。パウロはこの手紙を通して、教会の主はキリストであり、教会は聖霊によって導かれ、聖霊によって悟り、そして教会は神の御前に傷のないものとして完成するのだと、いうことを伝えようとしています。パウロはそのために大胆に、また誰も通ったことのない道を歩んできました。そのパウロの働きや成果、それらはすべてキリストのものであり、聖霊の力によって成し遂げたものであると彼は書き送っています。何ももないところへと彼は歩みを進めて行きました。ただひたすら、自分に与えられた働きを、キリストのゆえに成していったのです。
4. ささげるところに
パウロが自らのささげる歩みに見出しているのは、キリストのことば、わざ、しるし、不思議、そして聖霊の力です。パウロは徹底的に、キリストを通して、すべての物事をとらえようとしています。キリストの神に仕えた姿、人に仕えた姿、みことばに仕えた姿。それがパウロの原動力であり、また教会の力です。神が私たち主の民をどのように扱ってくださるのか、そのことを思い起こさせていただきましょう。
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2009年7月12日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ15:7~13
「キリストにある望みの神」
1. 多様性
「互いに受け入れること」これは私たちにとって、とてもハードルの高いことです。初代教会の課題は、現在の私たちの課題でもあります。最初は異邦人が救われるということに対して、ユダヤ人は不安と同時に喜びを持っていたことでしょう。世界中の人々が、真の神の前にひれふす時が来たというすばらしい知らせに大きな喜びがあったことでしょう。しかし、異邦人が教会に増えてくると除々に変化が起こります。最初は「偶像に備えて汚れた物は避けるように」と言い伝えられていましたが、その取り決めも現実的ではなくなっていきました。教会はその現実に対し、悩み、祈り、そして聖書に答えを見出そうとしたのです。その答えを的確に導いた人がパウロでした。彼の結論は「偶像に捧げられた肉は食べてもよい」というものでした。しかし、問題は「納得」ではなく、感情的なレベルにありました。
2. キリストにある教会
聖書によって正しい神学は第一に議論されるべきことです。パウロもそのことを踏まえた上で話を進めています。しかし、感情的な衝突は非常に根深いものです。パウロは繰り返しキリストの姿を指し示します。神のひとり子であるキリストが罪ある私たちを受け入れてくださったその姿。神は本来受け入れることができない私たちをキリストのゆえに受け入れてくださっています。「キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者のしもべとなられました。」割礼のある者とはユダヤ人のことです。キリストはユダヤ人としてこられ、そして十字架の死にまで従われました。それはユダヤ人だけのためではありません。それは異邦人も含めたすべての人のためです。キリストは、ユダヤ人のみならず、すべての人のために、ご自身をささげられました。この真理に立たない限り、教会の中の不一致や、感情的な衝突はおさめることができません。
3. 望みの神
教会は「キリスト中心」です。キリストこそが基準であり、その中心です。私たちはキリストにあるときに、たとい痛みや苦しみがあろうとも、それが必ず希望と喜びへと変えられていくことを、キリストご自身の姿から教えられています。キリストにあるときに、私たちの神は確かに「望みの神」と信じることができるお方なのです。私たちも今キリストご自身の姿を、聖霊によって私たちの心にはっきりと映し出させていただきましょう。
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2009/7/5礼拝メッセージ
2009年7月5日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ15:1~6
「忍耐と励ましの神」
1. 力のある者
「力のある者」への勧告が記されています。「力のある者」、これは肉を食べてよいと思っていた人のことです。その人々は主に「異邦人」が中心でした。その一方で「力のない人たち」とは、主にユダヤ人たちのことです。この箇所における力のある、ないということは、能力や意見の強さのことではありません。言い方をかえると、力のある者は、より新しい考えを持っている人、そして力のない者とは、これまでの考え方にとどまる人ということでしょう。このようなギャップは、今日の教会の中にもあるでしょう。最初は、自分の信仰から出ていることで、神様のためになると思っていたことが、気がつくと自分の正当性を主張し、自分が認められることが優先されている・・・そのようなことがあります。
2. 隣人を喜ばせる
「私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」ここには「強い」「弱い」という区別はありません。「私たち」「互いに」と語られています。この文章を直訳するとこうなります。「私たちは互いに、良きことのため、建てあげのために、隣人を喜ばせるべきです。」互いを喜ばせるのは、良きことのため、そして建て上げのためなのです。これは決して個人的に良いことや、個々人の成長を指すことばではありません。むしろその逆です。キリストのからだなる教会の良きこと、建て上げ、キリストのからだ全体の成長をパウロは思っています。「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。」主なるキリストでさえ、ご自身を喜ばせることはしなかった。これ以上の勧告はありません。キリストは「強い者」でした。しかし、キリストは「弱い者」のために十字架にまで従われたのです。
3. パウロの祈り
「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」私たちはどうしても、自分の狭い思いや考え、自己満足という枠から自由にはなれないでいます。そこから飛び立つためには、私たちの力ではなく、神ご自身のみ力によらなくてはならないのです。だからパウロはここで神に祈ります。「忍耐」と「励まし」の神に、パウロは願うのです。神のまなざしは、ユダヤ人にも異邦人にも、そして私たちにも注がれているのです。
[考えるために]
私たちは、自らの思いや満足という狭い枠にとどまっていないでしょうか。
パウロの祈りを自らの祈りとさせていただきましょう。
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2009年6月28日礼拝のメッセージ要約です。
この日は吉澤慎也神学生の説教でした。
ピレモンへの手紙
「キリスト者になるということ」
1. はじめに
もし自分がキリスト者にならなかったら、と考えてみる。自分にとって、キリスト者になるということは、どれほどの意味のある事柄だったか。ピレモンへの手紙に登場するオネシモは、クリスチャンになったことで、その人生が決定的に変えられた。
2. 内容
1:この手紙はパウロによって書かれた。この時パウロはローマの獄中にいたと言われている。この手紙は、使徒職に訴えるような公のものではなく、個人的な私信であった。パウロが書いた手紙の中では、このピレモン書は異色。非常に短く、内容が非常に個人的である。この手紙が残された唯一のパウロによる個人的な私信。
2:手紙の宛先はピレモン。この人はそれなりに裕福な人だったと考えられている。
4-7:パウロはピレモンのことをとても良く思っている。ピレモンにとってパウロは自分を信仰へ導いてくれた先生だった。
8-10:パウロはピレモンの愛に訴えてオネシモのことをお願いする。
11-12:オネシモはピレモンの奴隷だったが、そこから逃げ出した。当時の奴隷制度はそこまでひどいものではなかった。その後、オネシモはパウロによって導かれてクリスチャンとなり、今はパウロと共にいる。パウロはオネシモをピレモンの所へ戻そうとしてこの手紙を書いた。今のオネシモは役に立つ者へと変えられ、パウロはオネシモを非常に評価している。
13-20:パウロはピレモンにオネシモのことを積極的に迎え入れてほしいと訴える。もしオネシモが盗みを働いたのであれば、自分がそれを支払うとパウロは言う。パウロは二人の間の執り成し手として関わっている。
21-22:人間臭い手紙だが、この手紙には確かに愛がある。ピレモンとオネシモは和解したであろうことを期待する。
3. おわりに
オネシモの人生は、キリスト者になることで決定的に変えられた。私たちにとっても、キリスト者になるということは、大きな意味のあることだったと思う。それを今一度思い返して、確認し、感謝したい。
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2009年6月21日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ14:13~23
「しもべへの約束」
1. 飲み食いの問題
今日の箇所の中心は、17節です。「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このように、キリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。」この箇所の背景には一つの問題がありました。それは「飲み食い」の問題です。これは律法に照らした時の様々な規定に関しての問題です。しかしパウロはこう言います。「神の国」というのは、そのような正しいあり方、正しい行いのことではなく、聖霊のうちにある「義と平和と喜び」なのだ、と。神の国、その支配や神のみこころは聖霊によってもたらされると言うのです。正しさと平和、喜びは神からもたらされるのです。
2. パウロの勧告
この箇所で、パウロは特に信仰の強いと言われている人々に、信仰の弱いと言われている人々に配慮しなさいと勧告しています。しかし、それと同時にパウロははっきりと言います。「すべての物はきよい」と。ここで問題となるのは、どちらの側につくのかということです。大概は考え方が正しい方へ、信仰の強い人へと皆がなればよいと考えるかもしれません。しかしそうではありませんでした。ここでパウロが見出すのはもう一つの道です。パウロが向かうのは、キリストにある平和と教会を建てあげることでした。キリストにあるときに、私たちにとって乗り越えがたく見える壁が崩れ去り、そこに神の国が表されるというのです。
3. キリストにある信仰
「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。」この「信仰」には「キリストにある」という言葉を補う必要があります。パウロはキリストにあって「すべてのものはきよい」ということを確信しています。それは物だけではなく、すべての人でもあります。何よりも、私たちは主のしもべなのです。主のしもべには、「神に喜ばれ、また人々にも認められる」という約束が与えられています。この言葉は、主のしもべに与えられた励ましの言葉なのです。
[考えるために]
主のしもべに与えられた約束とはどのようなものでしょうか。
投稿者 mb-church : 09:42 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2009/6/14礼拝メッセージ
2009年6月14日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ14:8~12
「主なるお方」
1. しもべである私たち
「主のしもべ」それがクリスチャンのもう一つの呼び名です。なぜ私たちは「神」を、また「イエス・キリスト」を「主」と呼ぶのでしょう。聖書の神は、私たちの「主」であると聖書には繰り返し記されています。その主なる神は、私たちを作られ、私たちを導き、この世界の支配者であり、また所有者だとあります。神に聞き従うものとして、人間は作られたと聖書は語ります。その関係はただの主従を越えたものとしても教えられています。神は、私たちを愛し、また私たちを哀れみ、私たちを信頼し、私たちに期待をもかけておられる。そしてその主人を「神」としてあがめ、最大限の栄誉と最大限の賛辞と最大限の信頼を置く方として敬うのが、私たち「しもべ」なのです。
2. 主である神
主である神は、キリストを通してご自身を明らかにされました。キリストは、すべての人の主となるために、死んで、また生きられたとあります。この言葉がキリストの十字架の死と復活を意味していることは明白です。この主人は、しもべである私たちのためにそのいのちをかけ、またさらには、私たちの最大の問題である死をも乗り越えてくださった、そのお方であるとこの箇所は証しています。私たちは、このまことの主を知るまでは、自分自身が自分の主(あるじ)でした。実のところ、私たちは、この世のしもべであったとも言えるでしょう。しかし、私たちは気がつかされます。「自分自身の主人は自分ではなかったのだ」ということに。
3. 主人の思いを自分のものとして
パウロは、ここで一つの問題から、いったい誰があなたの主人であるのか、そのことに気がつくようにと、この手紙の筆を進めています。私たちはみな神のさばきの座に立つようになる・・・すべての人が、神の前に、まことの主人の前に立つときがくるというのです。いったい誰があなたの主人なのでしょうか。さらには私たちの主人はどのような考えを持っているのでしょうか。イエスも主人としもべのたとえ(ルカ19:12~)からこのことを教えています。大事なことは、しもべが主人の性質や性格をよく理解しているのか、ということです。私たちはキリストのしもべとして、どのような考え方をし、どのように物事を見るのでしょうか。主人であるイエスであったらどうお考えになるのか、このことをもう一度問い直してまいりましょう。
[考えるために]
主なるキリストが何を望まれているのでしょうか。そのみ思いを思いましょう。
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メインページへ2009/6/7礼拝メッセージ
2009年6月7日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ14:1~8
「キリストのしもべ」
1. 「信仰の弱い人」
信仰に強い、弱いがあるのでしょうか。そのような比較ができるのでしょうか。ここで、問題になっているのは「食べ物のこと」です。それは、当時のローマの町に出回っていた肉の問題でした。それが偶像に一度ささげられているということで、食べるのを拒否したクリスチャンがいたのです。このことに関して、教会の中でも意見が二つに分かれていました。その二つの立場を指して、「信仰の強い人」と「弱い人」と言っているのです。
2. 教会の混乱
このような悩みは、日本のクリスチャンたちも多く抱える問題でもあります。日本特有の文化や風習の中で、このような行為はやっていいんだろうか?それともいけないのだろうか?私たちは、自分たちの基準で、これは聖い、これは清くないと、分別しています。それに合わないものに対しては、攻撃的になってしまうものです。当時の教会の中にもこのような混乱がありました。パウロはここで「偽りなき愛」に生きる教会は、どのような判断をするべきか、その一つの見方を提示しています。パウロはこの二つの立場のどちらの味方でもありません。ここでパウロが見ているのは偽りなき愛によって一致する教会の姿です。
3. 神のしもべ
パウロはここでどちらの人々も神のしもべであると捉えています。そして、そのしもべが立つのも倒れるのも、そのしもべの力量や知恵ではなく、その主人次第だというのです。しもべはどのように物事を判断するものたちでしょうか。パウロはここでこのように物事を整理しています。すべての動機は主のためであると。おそらく、この部分を読み聞いた人々は、もう一度自分たちのあり方を問われたことでしょう。自分の本当の動機はどこにあるのだろうか。主のためと言いながら、実は自らの正しさのためではなかったのか。そしてパウロは私たちに真のしもべの姿をこう言い表し、問いかけるのです。「ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」どんな状況や状態であろうとも、私たちは主なる神のものであり、しもべである。神はそのしもべを必ず立たせてくださるのです。もう一度主のしもべであることを確認してまいりましょう。
[考えるために]
主は、そのしもべをどのように取り扱ってくださるのでしょうか。
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メインページへ2009年06月13日
2009/5/31礼拝メッセージ
2009年5月31日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ13:11~14
「キリストを着る」
1. 今という時
今はどのような時でしょうか?それは「教会の時代」です。教会の時代は、「救いが明らかになった時代」であり、「救いが広く伝えられる時代」であり、「救いが完成へと向かう時代」でもあります。教会はこの三つの点をすべて担うべく存在しています。今は救いが明らかになり、救いが伝えられ、そして救いが完成へと向かう時であるからこそ、あなたがたは、古い罪に縛られることをやめ、自分自身を、あなたがた自身を、神へとささげる生涯を送りなさいとパウロは勧めます。今は眠っている時ではなく、眠りから覚め起き上がるときだとパウロは語ります。なぜなら、今は救いが私たちにもっと近づいているからであり、救いの完成へと向かっているその時に私たちが置かれているからです。
2. 昼間らしい歩み
今は終わりの時です。しかし、恐れの時ではありません。今の時は救いの時です。夜はふけて、昼が近づいているときです。だから、私たちがその時にふさわしく生きることを神は望まれています。恐れによってではなく、今が救いの時であるからこそキリストにならうものとして生きるように勧められているのです。やみを脱ぎ捨て、光を着るように命じられています。このような中で、私たちが注目しなければならないのは、昼間らしい、正しい生き方へと向かう意志です。その意志を形づくるためにこのように勧められています。「主イエス・キリストを着なさい」と。
3. キリストを着るということ
「主イエス・キリストを着る」という言葉は、イエスを救い主とする信仰と、さらにバプテスマを受けることにより、キリストと一つとなったその状態を指しています。神にある正しい歩み、偽りなき愛を示すことは、私たちの力では到底なしえないものです。だからこそここで、「主イエス・キリストを着なさい」と語られています。キリストを着るというのは、単なるキリストのふりをすることを超えて、キリストがこの私のうちで生きてくださり、そしてキリストがこの私を変え続けてくださる、その現実が語られている言葉です。私たちではなく、すでにキリストが私のうちで生きてくださっている、その確信の上に私たちの歩みが支えられていくのです。
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メインページへ2009/5/24礼拝メッセージ
2009年5月24日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ13:5~10
「神の与えた良心」
1. 神の与えた良心
私たちは神によって良きことを教えられます。私たちは神のことばによって、良きこととは何かを判断することができます。神を求め、神の良きことを求めるその思いを「良心」と言っていいでしょう。聖書における「良心」は、その人の中でも、とても価値の高いものであり、尊いものとして扱われています。パウロは非常に高い意識をもって「良心」という言葉を用いています。
2. 神の愛と聖さ
聖書において神の愛と聖さはとても大事な概念です。私たちが現実の社会においても、人間の持つすばらしい側面や高潔な生き方に触れるときに、神ご自身のすばらしさを知ることにもなります。教会では取り繕い、偽善的な態度をとる必要はありません。しかし、その逆に、自分たちがおろかで、罪深いことを強調し、いつまでも社会的にも未発達でいることも、聖書で語られているあり方では決してないでしょう。むしろ、神を信じた者たちは、神の愛や聖さを願い、また自らの生き方も日々神の前に悔い改めることが勧められています。このような良きことへとまっすぐに向かうときに、私たち自身が内面から整えられていきます。
3. むしろ愛し合うということ
パウロは言います。「誰に対しても、何の借りもあってはいけません。」そして続けてこう付け加えます。「ただし、互いに愛し合うことについては別です。」まるで借りを返すことと、愛し合うこととが同じようなこととして扱われています。互いに愛し合うということに関しては制限はいらない、ということになるでしょうか。しかし、ここで注意しなくてはならないのは「愛するだけでよい」と言ったのではないということです。神のみおしえ、律法は、愛するということによって動機付けられ、行われ、さらに完成すると語っているのであって、ただ愛するということを感情的に強調しているわけではありません。もし人間の持つ力だけを見ているならば、この言葉は何の実体も持たないものになることでしょう。しかし、パウロがここで見ているのは教会です。主イエスが愛を示され、愛を注がれた教会なのです。パウロはここで社会的な正しさを強調しています。神の愛がそうであるように、愛はただ感情的な問題では終わりません。私たちは、まず神との正しい関係に立ち、そして互いに愛し合う人との正しい関係へと進んでいくのです。
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メインページへ2009年05月23日
2009/5/17礼拝メッセージ
2009年5月17日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ13:1~5
「神の権威のもとに」
1. 世の権威との関係
今日の箇所は、これまでの教会の歴史の中でも問題ともなってきた箇所です。この箇所はナチスの時代に悪用された箇所でもあります。権威はすべて神によって立てられたもの。この箇所はよく権力側に引用されました。しかし、聖書は文脈を無視して読み用いてはならないものです。パウロは権力側がこの箇所を使用するために、この箇所を記したわけではありません。権力を持つものに対して聖書はこう語ります。神の前にあらゆる権威、権力はひざまずかなければならない。ここでも権力は神のしもべであると語られています。
2. 時代の生き方
パウロがこの箇所を記した時は、ローマの支配する時代でした。パウロはここで何を教会に伝えたかったのでしょうか。神を信じる人々がその社会にあってどのような姿勢を保つべきか、そのことが扱われています。根底には「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい」という考えがあります。私たちは悪に対して悪で報いることを考えてしまうものです。力がほしい。自分に敵するものを打ち負かしたい!そのように私たちは思います。しかし聖書は言います。「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」ローマの皇帝でさえも神のしもべなのだ。だからこそ、私たちは彼らと同じ悪の力を持って対抗するのではなく、良い生き方を表すのです。
3. 誰の目にも
パウロが主張しているのは、誰からも責められるようなことはしないように、ということです。なぜこのような生き方ができるのでしょうか。その理由は、この世界にある神と神の権威を見ていたからです。ですから、権威や国家への盲従をここで推奨しているわけではありません。誰からも責められることなく生きなさい。それは神がそこに働かれているからだとこの箇所は私たちに教えます。戦争の時代、多くの教会は国家に盲従しました。神にある正しさよりも、目の前の権力に従ったのです。「すべての人の目に正しいことをするように」とは、「すべての人の前で神にある正しいことをする」という言葉です。この正しさは、すべての人の基準ではなく、神にある正しさです。私たちがこの良きことを見失ってしまうのは、神と神のことばから離れてしまうからです。私たちは聖書を通し、神を礼拝することを通し、自分たちが神によって造られた被造物であり、神にある正しさがあることが示されるのです。
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メインページへ2009/5/10礼拝メッセージ
2009年5月10日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ12:17~21
「すべての人と平和を保つ」
1. 目には目を
「偽りのない愛」これがこの箇所の根底に流れているテーマです。私たちはそのことを、身近なところからはじめるよう勧められています。自分のすぐ近くにいる人に対して愛を持って仕えること。しかし、それが自分とは敵対する人や、受け入れがたい人となると話は異なります。とたんに実行し難いことになります。パウロはこう言います。誰に対してでも悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。ここにも私たちに示されている神の基準があります。この教えは、実はここで初めて語られたものではありません。聖書の時代このような教えがありました。「目には目を、歯には歯を。」しかし、イエスはその考えに対してこのように言っています。「悪いものに手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」なぜ、こうもまったく異なることを、イエスは言われたのでしょうか。
2. 身勝手な考え
旧約聖書において「目には目を」と語られたのはどの人々にでしょうか。それは「イスラエルの民」でした。そこには本来、敵、味方は存在しないはずです。その内部の問題を正しく裁くために教えられたものが先ほどの教えなのです。しかし、それが外部との関係になったときにどうなるのでしょうか。当時の教会で言えば「迫害者」と言ってもいいでしょう。当然、人々は彼らに対して「目には目を」と考えるわけです。現代も同じです。いやそれ以上でしょう。
3. イエスの教え
そのような中で、イエスは何をもって、神の聖さ、正しさを示すようにとおっしゃったのでしょうか?それが「愛」です。「右の頬を打たれれば、左の頬を差し出しなさい」そんなことは通常は考えないことです。なぜ、そのようなあり方ができるのでしょうか?私たちにもそれが可能なのでしょうか。聖書ははっきりと語ります。あなた自身ではなく、神が報いる、神が正しさを示される、というのです。ここにクリスチャンに与えられた使命を見出すことができます。私たちの目の前に困難な状況があり、難しい課題があります。しかしそれは決してただ途方にくれ、気落ちしてしまう現実ではありません。むしろ、そこにこそ神が働かれ、そこにこそ神のすばらしさが表されるところなのです。私たちがそこには神などいない、自分にとっては困難なことやささいなこと、そこに神は目を留めておられるのです。
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メインページへ2009/5/3礼拝メッセージ
2009年5月3日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ人への手紙12:13~16
「神の価値基準」
1. キリスト教的生活の規範
ここにある言葉には、生活の規範が記されていると教会の歴史では受け止めてきました。しかし,それはただ聖書に記された良い事柄であるから実践するということではありません。そうではなく,ここに記されたことが神の民の喜びとなることだからこそ勧められているのです。イエスは、私たちに神のみこころを宣べ伝えました。その動機は偽りなき愛からでした。この箇所もイエス・キリストの教えがベースにあることは間違いありません。
2. パウロの強調点
ここでパウロは「誰に」ということに触れます。「聖徒」という言葉があります。これはともに教会の人々「私たち」を示しています。その一方で、ここに「敵対者」へのなすべきことが記されています。イエスの言葉にこのような言葉があります。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。」パウロの特徴として最初に受け入れやすいこと,実践しやすいことを述べ,その後に,特に強調すべき難しいと思われることを述べるという手法があるように思います。パウロはここで「聖徒の入用に協力し,もてなす」ことと、さらに「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい」と教えました。さらにパウロはこう続けます。「喜ぶ者と一緒に喜び,泣く者といっしょに泣きなさい。」この言葉をパウロは「互いに一つの心になる」ことと結び合わせています。ここでパウロが特に力を込めるのは「喜び」ではなく「悲しみ」の方です。ただ喜びをともにするのではなく、泣く者と一緒に泣くのです。これはただの悲しみではなく,罪ゆえの悲しみに触れている言葉です。
3. ひとつの心になる
パウロはここでこう勧めます。「高ぶった思いを持たず」、「自分こそ知者だなどと思ってはいけない。」私たちが心をひとつにできない理由はどこにあるのでしょうか。それは,高ぶった思いがあるからです。自分は大丈夫であるとの思い、これも神を神としないところからくる人間の傲慢であるといえるでしょう。ここでパウロは、私たちが困難を覚える人々に対して,むしろ祝福を祈り,ともに泣き、同じ思いを持ち,へりくだりなさい,そう教えているのです。これらのことは、戒律や規定として聖書が私たちに示しているものではありません。そうではなく,これこそ神様のみ思いであることを示したものです。私たちはここに立ち続けさせていただきましょう。それは自らの思いや力ではなく,神の霊によってなのです。
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メインページへ2009/4/26礼拝メッセージ
2009年4月26日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ人への手紙12:9~12
「真実の愛」
1. 真実の愛
「愛には偽りがあってはなりません。」力強い言葉です。この一文には主動詞がありません。「愛,偽善なきもの」という文の直後に,さらにこう記されます。「悪を憎み,よきことに結びつく」。これは神の「聖さ」について触れていると言ってもいいものでしょう。ここでパウロが触れている「愛」という言葉は,神に属するものであるという認識があります。真実の愛と聖さは,神の性質の重要な側面でもあります。「愛」は,神の聖さ,神ご自身とは切り離して考えてはならないのです。
2. 愛の実践
ここでパウロは3つの言葉を上げます。「兄弟愛」「尊敬」「勤勉」です。この3つのことが,真実の愛につながることであると述べられています。どれをとっても何か目新しいものではありません。むしろ私たちにとって身近なことと言ってもいいでしょう。それは即,私たちの教会のことでもあり,私たちの家族のこと,そして,私たちの置かれた場所,職場や学校,家庭のことでもあるでしょう。真実な愛とは,まず私たちの身近なところから始めよう,そう言っているようでもあります。
3. 霊に燃え,主に仕える
パウロは「霊に燃え,主に仕えなさい」と勧めます。この言葉こそ,先ほどの兄弟愛,尊敬,勤勉を集約した言葉です。聖霊によって燃やされ,そして主に仕える。聖霊によって燃やされるとは,ただの熱心さではありません。聖霊によって燃やされるというのは,私たちのうちにキリストの姿が映し出される,あの十字架の主の姿を見上げるということです。兄弟愛,尊敬,勤勉,それらの根底にあるのは,十字架にまで従われたキリストの姿です。その姿こそ,パウロが「兄弟愛」「謙遜」「勤勉」という言葉に見出しているものです。
4. 三つの言葉
さらにここに三つの言葉をパウロは付け加えます。「望み」「艱難」「祈り」。私たちがキリストの愛に生きるときに不可欠なもの,それがこの三つのことです。この三つはどれもが深い関係にあります。私たちに与えられた状況のすべてが,キリストにある信仰において,すべてが希望へと,すべてが喜びへと変えられていく・・・。ここにある祈りとは何でしょうか。それは主の祈りからも教えられるのは,神の国を願い,神のみこころがなることを第一に祈る祈りです。私たちはこれらの言葉によって,自らの歩みを点検してまいりましょう。
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2009/4/19礼拝メッセージ
2009年4月19日の礼拝メッセージの要約です。
ローマ人への手紙12:3~8
「信仰という基準」
1. 私たちのからだをささげるということ
私たちのからだを,神に受け入れられる,聖い,生きた供え物としてささげなさい,これこそ真の礼拝であると聖書は私たちに語ります(ローマ12:1,2)。「からだ」という言葉には,私たちの「すべて」という意味が込められています。「私たち自身」と言い換えてもいいでしょう。あなたは救い主イエスを信じており,あなたの罪をすでに神は赦している,その一人一人が,神に向かってどのように生きるのかということが12章以降に記されています。これは単なる命令ではありません。それは,私たちのあり方,考え方,物事の見方に触れる内容なのです。「ささげる」というのはその人の生き方なのです。
2. 慎み深い考えを持つということ
パウロは教会の一人一人に語ります。「だれでも,思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや,むしろ,神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて,慎み深い考え方をしなさい。」ここで言われているのは「あなたが何者であるかをわきまえなさい」ということです。パウロは「信仰の量りに応じて」と言います。この言葉は「信仰という基準」であり,神が私たちに等しく分け与えてくださった信仰という規準に応じて,節度のある考えを持つということです。信仰という基準とは,まさに「キリストにある基準」に応じて,私たちが考えていくということを示しています。パウロがこの言葉を記した背景を考えると,思うべき限度を越えて思い上がる人間の時代を超えたおろかな姿が見えてくるようです。
3. 互いに器官であるということ
パウロは教会にいる一人一人の姿を思いつつ語ります。教会は一つのからだであり,一人一人はその異なる器官であると言うのです。どれもが同じ働きはしないように,私たちもそれぞれに働きが与えられています。どれが重要で,どれかが不必要であるとは言いません。一人一人にはキリストの信仰がすでに等しく与えられているのです。「賜物」という言葉も一つの真理を伝えています。それは,あなたに与えられた能力も,意志も,機会も,それはすべて神があなたに与えたものであるということです。私たちは,自分が持っているものをどのように受け止め,扱っているでしょうか。何か特別な能力があるからささげるのではありません。すでに私たちには神の恵みが注がれ,それぞれに違う賜物が与えられています。私たちは自らをささげる生き方へと招かれているのです。
[考えるために]
私たちは,自分に与えられているものをどのように受け止め,扱っているでしょうか。
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2009/4/12礼拝メッセージ
2009年4月12日イースター礼拝でのメッセージ要約です。
ローマ6:8~11
「キリストのいのち」
1. 復活祭
花が咲き,緑が芽吹くこの季節に,キリストが復活されたイースターを迎えたことに感謝しています。キリストがよみがえられたことを聖書は私たちに伝えています。キリストを信じる者には,神とともに歩む永遠のいのちが与えられることを神は約束しています。クリスチャンになることは何も難しいことではありません。イエス・キリストを信じればよいのです。ではイエス・キリストを信じるとはどういうことなのでしょうか。
2. イエスは神である
イエスを信じるとは,復活のイエスを信じるということです。「人間が復活した」このことを信じることはあり得ない話です。十字架刑に処せられ,完全に息を引き取った人が,その数日後に生き返るなんてことは信じがたい話です。しかし聖書は証言します。イエスは神の子であり,神と等しい方であると聖書は証言します。復活のイエスを信じるというのは,第一にイエスを神であると信じることです。
3. イエスは救い主である
復活のイエスを信じるというのは,イエスを救い主だと信じることでもあります。イエスが十字架にかかったのは,私たち人間のためだと聖書は語ります。神を神とせず,自分勝手に生きる人間のために,私たちの受ける罰の身代わりとして,イエスは十字架にかかりました。身代わりとなるというのは,身代わりになる人と同じような,いえそれ以上の価値がないとだめです。その身代わりとなられたのがイエスなのです。復活のイエスを信じるというのは,第二にイエスが私の罪のために身代わりとなってくださったことを信じることです。
4. イエスはいのちである
「キリストとともに生きることにもなると信じます。」これが復活のイエスを信じる第三番目のことです。イエスは復活を通して私たちにまったく新たないのちを与えてくださいました。そのいのちこそ,「復活のいのち」です。復活のイエスを信じる第三番目のことは,キリストとともに生きるものとなっているという信仰です。これは信じるというよりも,約束として受け止めるべきことです。このことは,復活のイエスを信じる信仰を持ち,そしてその信仰に歩み始めるときに,実感をともなって私たちに与えられるものです。私たちのいのちは,復活の主にある逆転の恵みのいのちとなるのです。
[考えるために]
復活のイエスを信じる信仰における三つのこととは何でしょうか?
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2009年4月5日の礼拝メッセージの要約です。
ローマ12:1,2
「神のみおもいにたって」
1. 義とされたということ
12章は「そういうわけですから」という言葉ではじまります。11章までのことを踏まえてパウロは語ろうとしています。それをまとめると「イエス・キリストの十字架と,イエスを救い主と信じる信仰によって,あなたの罪は赦され,義とされた」となるでしょうか。しかし,「義とされた」ということが私たちにはよく分かりません。罪ある人間にとって「義とされた」ということは分かりづらいのです。その原因は,私たちの「神」理解の乏しさから来ているのでしょう。神理解が深まれば深まるほど,私たちが義とされた,という意味の重大さが明らかになってきます。その意味が分かると,12章1,2節の持つ意味が,豊かに私たちに迫ってくるようになるのです。
2. 強い勧め
パウロは神のあわれみのゆえに強く勧めます。今,あなたがキリストを信じて生きているのは,偶然ではなく,ただ神のあわれみによる・・・だからこそ,パウロは,私たちにこのように強く勧めます。「あなたがたのからだを,生ける,聖なる,神の喜ばれる供え物としてささげなさい。これがあなたがたの真の礼拝です。」「からだ」は単なる肉体のことをさしていません。私たちの「すべて」という意味です。なぜ,私たちが義とされたのでしょうか。それは,ただ単に私たち自身が救われるためだけではありません。それだけではなく,教会が神の栄光をあらわすものとなるために,あなたを救われたのです。
3. ささげなさい
問題は,神にささげるということが,具体的に何であるのかということでしょう。それを考える前に2節に目を向けなくてはなりません。「この時代と同じかたちにさせられてはいけません。そうではなく,あなたの思いを新たにし,形作りなおされることによって,何が神のみこころであり,よきことであり,神に喜ばれることであり,完全なことであるのかを,あなたが知るようになります。」私たちをささげるというのは,私たちを犠牲にするという意味ではありません。そうではなく,私たち自身が,根底から作り直され,神のみ思い,聖さ,完全さ,それを知るようになり,ついにはそれを喜んで行うようになるということです。ささげるということ,それは私たちが神のみこころを知って,生きるということに他なりません。そのために,私たちはまず,神を私たちの中心にお迎えする必要があります。そして,神ご自身に私たちを作り変えていただくのです。
[考えるために]
神に私たちは何をささげるのでしょうか。
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2009/3/29礼拝メッセージ
2009年3月29日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書24:44~53
「すべては神によって」
1. ルカのテーマ
ルカの福音書は教会において広く読まれ,教えられてきました。この福音書が伝えている次の三つのことは重要です。第一に,イエスが「キリスト」であるということ。次に,イエスを信じる信仰によって,すべての人が罪から救われるということ。そして三つ目に,これらのことすべてが,神によって計画されたことであるということ。私たちは容易にこれらの土台を失います。キリストを信じる信仰以外によっても,救われるのだと考えてしまいます。今生きているのも,歩んでいるのも,神によってではないと考えてしまうのが私たちでしょう。これらのことには,私たちが抱えた罪の問題があると聖書は教えます。たからこそまず私たちは,神のご計画の深さと,一人一人に向けられた神の御思いに目を向けたいのです。
2. すべては神によって
イエスは弟子たちに教えられました。「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは,必ず全部成就する」。すべては人の意志を越えた神のご計画でした。そして「イエスの名によって,罪の赦しを得させる悔い改めが,エルサレムから始まってあらゆる国の人々にのべ伝えられる」のです。罪は人間にとって認めにくいものです。ルカの中にも自らの罪に目を向けたものと,そうでないものとのコントラストがありました。神の目に正しいとは,血筋や身分や地位でもなく,見かけ上のすばらしさでもありません。神の前の正しさとは,神の前に自らを低くする者,へりくだる者,また神に立ち返る者,自らの欠けを認める者たちであったのです。そしてその人々に与えられたのが十字架の赦しと復活の希望なのです。
3. 罪を認めて
自らの罪を認めるのは,その人の生き方を根底から変えるものです。これまで神の存在を無視し,祈りもせず,また神の意思など気にもかけずに歩んできた,そのことを根本から変革させることです。そして私たちの力では,その変革は起こりません。その変革はキリストを信じる信仰によって与えられるのです。その信仰によって,教会は始まり,そして建て上げられてきました。イエスは今も教会を祝福されています。私たちもキリストを信じ,キリストの祝福を受け続ける人生へと導かれてまいりましょう。
[考えるために]
ルカの福音書に一貫して流れる神の御手とキリストの救いが,私たちにも伸ばされていることを覚えましょう。
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メインページへ2009/3/22礼拝メッセージ
2009年3月22日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書24:33~43
「復活の希望」
1. 「死」というテーマ
「死」は私たちの大きな関心事でもあります。人間は死と向き合う存在です。みことばが私たちに与えるものは、その日の力だけではなく、全生涯を作り変え、私たちのいのちや死に対する答えをも与えるものです。この箇所で、聖書は私たちにイエスはよみがえられたということを宣言しています。聖書が語るのは、死に打ち勝った復活のキリストの確かな存在です。このキリストを信じるものは、復活のいのちが与えられていると聖書は私たちに約束しています(ローマ6:4~6)。
2. 復活のキリスト
復活のキリストが示すのは、罪の奴隷ではない、完全に救いが完成した人間の姿です。二人の弟子はイエスと出会った後に、エルサレムの弟子たちのもとへと戻りました。そこで弟子たちと自分たちの経験を分かち合いました。ここで驚くべきことが起こります。イエスご自身が彼らの真ん中に立たれたのです。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思います。彼らは、まだイエスが復活したということの意味も、またそのことが表す希望についても、まだ到底考えは及んでいませんでした。その彼らにイエスはご自身が実体であることを示されたのです。
3. 復活のいのち
さらに信じられずにいる彼らにイエスは食事をする姿を示されました。無事に死からいのちへと生還したということを示されたのです。キリスト教において「復活」は、信仰の中心に据えられるべきことです。それは、「復活」こそ私たちに与えられた希望のリアリティを表すものだからです。キリストが、人間の抱えた罪だけではなく、罪によって私たち人間が背負ってしまったものすべてに対して救いをもたらしたということを、復活は示しています。死や滅び、別離、悲しみ、痛み、差別・・・背負ったものは数限りなくあります。私たちは、気がつかないうちに、人や世界を傷つけ、またすぐに自己中心的に生きる存在であり、いつでも死と隣り合わせの存在です。しかし、イエスを復活の救い主であると信じるときに、私たちもまたキリストの復活と同じいのちが与えられるのです。この復活のいのちを得て歩むことこそ、私たちの生きるべき道なのです。
[考えるために]
キリストの復活は私たちに何をもたらしたのでしょうか。
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2009/3/15礼拝メッセージ
2009年3月15日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書24:13~32
「ともに歩まれたイエス」
1. 二人の弟子
ルカは復活後の記録として,この二人の弟子たちの話を重要視しているようです。使徒の話や体験談は,初期の教会では誰もが直接聞きうることでした。しかし,その証言を聞くことができない時代に教会は入っていきます。見たことのないイエスの復活をいかに信じるのか,ということは非常に大きなテーマとなりました。そのよう中,この二人の弟子の話はとても大きな意味を持つことになります。「復活の主」を信じる信仰は,この二人にどのように与えられたのでしょうか。
2. エマオの途上
二人はエマオへの帰路にありました。二人はこれまでにの出来事について話し合っていました。そして二人の所に復活のイエスが追いつきます。しかし二人の目はさえぎられていて,その人がイエスだとは分かりません。彼らがイエスだと分からなかったのは,神ご自身が二人の目をさえぎられていたからです。まだそれは「時」ではなかったからでしょう。ここからイエスご自身が彼らに語りかけられたのです。クレオパはイエスにこれまでのことを話しました。それは彼らの間で理解されていた当時のキリスト理解であり,彼らの心情でした。彼らにとって,これまでのことは理解し難いことばかりでした。するとイエスはお答えになりました。「キリストは,必ず,そのような苦しみを受けて,栄光に入るはずではなかったのですか。」イエスの言葉の根拠は旧約聖書にありました。そしてその神のことばを解き明かされたのです。
3. 心は燃えていた
彼らはエマオに近づき,イエスに一緒に泊まって欲しいと願います。イエスは,彼らとともに食卓に着き,パンを取って祝福し,裂いて渡されました。この行為によって,目の前にいる方がイエスだということにようやく気がつきました。ここで二つのことに気がつかされます。一つは,聖書の言葉によって,イエスが救い主であることの意味を教えられるということ。そして次にイエスご自身がどのような方であるのかということ。この二つが合わさったときに,彼らの目は開かれ,目の前にいる方が復活の救い主イエスだということが分かったのです。彼らはこの時の心境をこう言い表しています。「私たちの心はうちに燃えていた。」イエスと分からなかい時でも,神は私たちに働き,導きを与え,心を燃やし続けてくださるのです。
[考えるために]
イエスはどのようにして二人の弟子たちにご自身のことを教えられたのでしょうか?
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2009/3/8礼拝メッセージ
2009年3月8日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:50~24:12
「キリストのことば」
1. アリマタヤのヨセフ
イエスの遺体を引き受け,その遺体を適切に葬ったのは,一人の「正しい人」でした。彼は,他のユダヤの議員に反対した人でした。何よりも彼は「神の国」を待ち望む人でした。彼は,苦しみの中にあっても,希望を失わず,自らの最善をなす人でした。彼の行動は実に適切でした。このような誠実な働きが,キリストの復活の知らせの確かな備えとなりました。彼の働きは貴重なものとなりました。
2. イエスの復活
ついに,イエスの復活が明らかにされるときが来ました。しかし,実に静かに,また小規模な形で復活は明らかにされることになります。このことにも神のご計画があるのだということを,私たちは受け止めたいと思います。ルカはここで「ことば」に焦点を当てます。女たちは,墓にイエスがいないという事実を知ると途方にくれます。その時女性たちの前に,み使いが現れます。み使いは「イエスがお話になったことを思い出しなさい」と語りました。その時,女たちはイエスの語られた「みことば」を思い出しました。さらに,彼女たちは墓から戻り,今度は弟子たちに今あった出来事を伝えました。しかし,彼らの反応は「信じられない」というものだったのです。
3. キリストのことば
使徒たちには「この話」はたわごとに思われました。使徒たちが信じられなかったのは,女性たちが話したことだけではなく,イエスの語られたことばそのものだったのです。なぜ信じられなかったのでしょうか。なぜ最初にこの事実を知らされたのが,女性たちだったのでしょうか。ことごとく神は,私たちの常識や順序,人間の勝手な思い込みや権威を退けられます。それは神のことば,キリストを信じる信仰によってのみ,私たちがこの事実を受け止めるようにという神の配慮があるからです。聖書において最も重要なのは,「キリストを信じる信仰」です。それは,聖書の神のことばに,絶対的な信頼を置く信仰と言ってもいいでしょう。この聖書を,私たちの常識や価値観,また勝手な思いで,弟子たちと同様に「たわごと」と思うのでしょうか。それとも,神のことば,救いのことばとして,信じ,受け取るのでしょうか。復活の根拠は,イエス・キリストが,はっきりとそのことを語ったということ,そして神がこのことを,聖書を通して私たちに語っているそこにあるのです。
[考えるために]
弟子たちはなぜイエスの復活を聞いたときに,信じることができなかったのでしょうか。
Ⅰペテロ1:23~25を読みましょう。
投稿者 mb-church : 07:30 | コメント (0) | トラックバック
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2009年3月1日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:44~49
「新しい生ける道」
1. イエスの最期
イエスが息を引き取るそのときが来ました。時刻は午後3時ごろであったことが記録されています。昼ごろから全地は暗くなり,太陽は光を失っていました。さらに神殿の幕が二つに裂けたということが記されています。神殿の幕は至聖所の前にかかっていました。この場所は,一年に一度大祭司だけがこの幕を通って中に入り,そこで神への犠牲をささげることになっていました。天変地異が起こり,幕が裂けた,まさに「一つの世界の終焉」の時が来たのです。イエスは「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と叫んで息を引き取りました。
2. 人々の反応
この姿を見て百人隊長はイエスの正しさを証言しました。彼だけではなくピラトやイエスと一緒に十字架についた犯罪人も,キリストには何の罪もないということを証言しています。この場にいた多くの人々にとって,イエスの死は一つの悲しい終わりにしか見えませんでした。群集は,胸をたたいて悲しみながら帰路につき,イエスの周りにいた人々はただ呆然と,イエスの死を見つめるほかなかったのです。私たちもまたこのような状態に陥ることがあります。何の希望も見出せないそのようなときが確かにあります。クリスチャンであれば,そのときどう行動するでしょうか。おそらくその答えの一つは「祈り」でしょう。イエスは「わが霊を御手にゆだねます」と祈りました。しかし,それは私たちが口にするあきらめのような言葉ではありません。それは神に対する確かな信頼から出る祈りでした(詩篇31篇)
3. 完成と新たな出発
ここで,イエスは無残な最期を迎えたかのように見えました。しかし,実はこのとき偉大な一つのことが成し遂げられ,そして大いなる希望の新しい時代へと突入したことを,聖書は語ろうとしています。何が成し遂げられたのでしょうか。成し遂げられたのは完全な罪の赦しの完成です(ヘブル9:12)。イエスはご自分の身をささげることにより,永遠の贖いを達成されたのです。そしてそれは大いなる希望の時代がスタートしたということでもあります(ヘブル10:19,20)。神殿の幕が二つに裂かれたことはこのことを表しています。古い方法が打ち破られ,新しい生ける神への道が開かれたのです。十字架を前に,人間は何も変わりませんでした。しかし,神の側から私たちに新しい道を開いてくださったのです。「新しい生ける道」これこそがイエスの十字架の死と復活によって開かれた道です。神があなたをわが子のように守り,導き,諭し,そして多くのものをゆだね,ともに歩もうと言ってくださっているのです。
[考えるために]
イエスの十字架によって成し遂げられたことは何でしょうか。
また何が開かれたのでしょうか。
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メインページへ2009年03月07日
2009/2/22礼拝メッセージ
2009年2月22日の礼拝メッセージの要約です。
この日は吉澤慎也神学生のメッセージでした。
ハバクク書1:1~2:4
「正しい人はその信仰によって生きる」
1. 歴史的背景
前721年:アッシリヤ、北イスラエルを滅ぼす
前621年前後:ヨシヤ王の宗教改革
前609年?:ヨシヤ王の死
前605年:バビロン、エジプトを破る
(カルケミシュの戦い)
前587年?:バビロン、エルサレムを征服
前539年:ペルシャ、バビロンを征服
2. ハバクク書アウトライン
1:1~4:ハバククの問いかけ1
1:5~11:神の応答1
1:12~2:1:ハバククの問いかけ2
2:2~4:神の応答2
2:5~20:悪者へのさばき
3:1~19:ハバククの祈り
3. メッセージ概要
南ユダ王国のハバククは、神に抗議した預言者。ハバククはまず、神はなぜ悪を見過ごされるのか、と問うた。これは現代の私たちにとっても大きな問題となる。当時の南ユダ王国は不安定な情勢の中にあった。神様は、その悪を罰するためにバビロンを起こす、と答えられた。ハバククは次に、残虐な異教徒バビロンによって契約の民イスラエルが滅ぼされるのはおかしい、と抗議した。
最終的な神様の答えは「正しい人はその信仰によって生きる」。揺るぎない信仰で神を待ち望む人こそが正しい人で、その人は生きる。神の義がそのような信仰に進ませてくださる(ローマ1:17)。また苦難は信仰を強めもする。私たちも「その信仰によって」生きたい。
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メインページへ2009/2/15礼拝メッセージ
2009年2月15日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:39~43
「今日という日に」
1. 知られざる真実
イエスと二人の犯罪人の知られざる真実がここに記録されています。今日の場面が人々に与えたインパクトは計り知れないものがあります。ルカは常にコントラストを意識していました。それは,「神に義と認められた人」と,もう一方は「自分で自分を義とする人」です。これは現代においても当てはまることでしょう。イエスは,私たちがもともと持ち,考えていることを大逆転させようとしています。私たちが大丈夫だと思い込んでいることや頼っていることでは,本当にはあなたは救われないと語るのです。この救われた強盗は,ただイエスを信じたがゆえに,救われたという驚くべき証人なのです。
2. 二人の強盗
強盗の一人はイエスに悪口を言い続け,イエスに要求します。「自分と私たちを救え!」彼は何の反省もないまま,私たちを救えとイエスに命令をします。この姿に表されているのは,自分で自分を義とする者の姿です。もう一方の強盗はこのように言います。「おまえは神をも恐れないのか。」この一言に聖書が私たちにつきつける大きな問いがあります。「あなたは神を恐れるのか,恐れないのか?」さらに彼はこう言います。「あなたの御国の位にお着きになるときには,私を思い出してください。」死が目の前に迫ってきた最後の瞬間に,彼はイエスへの信仰を告白したのです。彼は最後の最後で,キリストに出会い,神の前にへりくだり,そしてただ自分のことを覚えていてほしい,そうイエスに願ったのです。
3. イエスの応答
イエスの答えはこうでした。「あなたは今日,わたしとともにパラダイスにいます。」これは救いの宣言です。この言葉は「私とともに,神の前に義人と数えられる」という意味です。この強盗は,イエスをキリストと信じたがゆえに,義と認められたのです。彼は当時,決して神の国に入るとは考えられない人でした。その彼が,最後にキリストを信じたがゆえに,赦され神の国へと導かれました。これほどの逆転劇はありません。神の救いは私たちの考えるものとは異なります。私たちが思う秩序や優劣ではなく,神がご覧になっているのは,私たちの本当の姿です。この十字架上の強盗が,私たちに示しているのは,神の救いは,どのような状況にあっても,誰であっても,キリストを信じる人に与えられるということです。イエスを信じるときに,今,神に受け入れられるのです。
[考えるために]
十字架上の強盗の救いは,私たちに何を示しているでしょうか。
神の救いは,誰に与えられるのでしょうか。
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メインページへ2009/2/8礼拝メッセージ
2009年2月8日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:32~38
「自己矛盾にある私たち」
1. 十字架刑
イエスは十字架にかけられました。通常,人々は十字架の苦しみを目の当たりにして罪の重さを見ます。このとき,イエスを真ん中にして,その両隣に二人の犯罪人がつくことになりました。十字架上で,イエスは七つの言葉を語ったと聖書は記述しています。その一つは「父よ。彼らをお赦しください。彼らは,何をしているのか自分でわからないのです」この祈りの言葉でした。「彼ら」とは誰のことなのでしょうか。
2. 詩篇22篇
この時の出来事は詩篇22篇を思い起こさせるものでした。この詩篇は「義人の苦しみ」が題材となっています。神を信じる者が受ける不当な苦しみ,そこから,神は救ってくださるという内容です。イエスもまたこの詩篇と同じ気持ちだったのでしょうか。そうではありませんでした。イエスはこう祈ったのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは,何をしているのか自分でわからないのです。」この言葉は,神の子として,神と人との仲介者として,祈られたとりなしの祈りです。
3. 自己矛盾を抱えた人々
何をしているのかわからない人々。正しい者,神の子を十字架にかける人々。しかし,それだけではありません。私たちは神にあって正しいことを求める人にもなりえるし,また,人を傷つけ,神のみこころを損なう罪人にもなりえてしまう者たちです。パウロもローマ7章でこう言い表しています。「私には,自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく,自分が憎むことを行っているからです。」私たちの存在は,まさに善と悪のどちらをも抱え込んでいるのです。イエスに対しても,救って欲しいと願う一方で,自分の思いにイエスが沿わないのであれば,イエスなどいらないという思いを持ってしまうのです。
4. 聞き続ける信仰
私たちはどうしたら,この自己矛盾の状態から脱することができるのでしょうか。どうしたら,神に喜ばれる歩みをすることができるのでしょうか。どうしたら罪の支配から自由になることができるのでしょうか。その答えこそ十字架にあるのです。私たちはその十字架にあらわされた神のあわれみと,神の赦しのことばを聴き続ける必要があるのです。
[考えるために]
私たちの抱えた矛盾から,どのようにしたら脱することができるでしょうか。
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メインページへ2009/2/1礼拝メッセージ
2009年2月1日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:26~32
「嘆くべきこと」
1. 嘆き悲しむ女たち
今日の箇所は,ルカだけが記している内容です。この箇所を読むとあることに気がつきます。それは民衆と女たちの群れという二つのグループが,この十字架の前にいたのだということです。当時のユダヤの指導者たちは男性によって構成されていました。イエスを十字架に掛けろと叫んだ民衆の大多数は「男性」であったと考えられます。では,女性たちはどうであったのでしょうか。女性たちはイエスの十字架刑を決定した当事者ではありませんでした。それでは十字架の贖いは,そこに関わっていなかった女性たちには関係はないのでしょうか。今の私たちも十字架の現場にいなかったから,十字架と私とは関係がないのでしょうか。今日の箇所で,改めて確認させられるのは,十字架と無関係な人は一人もいないのだ,ということです。
2. 目の前の嘆き
女性たちは,嘆き悲しんでイエスの後をついていきました。絶望的な悲しみがありました。当時の女性の地位はかなり低いものです。その彼女たちにイエスは声をかけられ,慰め,受け入れてくださいました。そのイエスが十字架刑に向かう…。女たちは十字架を前にして悲嘆にくれています。彼女たちは,激しく感情がゆさぶられて涙を流しています。しかし,この女性たちに向かってイエスはこのように声を掛けられました。「わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と,自分のこどもたちのことのために泣きなさい。」
3. 本当に嘆くべきこと
イエスは言います。あなたが嘆いていること以上のことが,あなた自身に起こるのだからと。自ら死を求めるほどの過酷で絶望的な状況が来るというのです。これをこの後のエルサレム崩壊のことと受け取ることもできます。そして私たち自身の末路を意味しているともいえるでしょう。イエスは,私たちに,起きている悲惨な現実,出来事にただ心を奪われ,悲しみに支配されるなと言われます。目の前にある嘆きや悲しみ,それ以上に,私たちが後に置かれる裁きの現実,本当の滅び,悲しみへと目を向けなさいと言われるのです。イエスがこう言われるのは,その先にあるキリストの十字架の救いを受け取って欲しいからこそ,語られているのです。「十字架の言葉は,滅びに至る人々には愚かであっても,救いを受ける私たちには,神の力(Ⅰコリント1:18)」なのです。
[考えるために]
なぜ聖書で裁きが語られるのでしょうか。
イエスは私たちに何を受け取って欲しいと思っているのでしょうか。
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2009/1/25礼拝メッセージ
2009年1月25日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:17~25
「一人の罪人の身代わりに」
1. 人々の熱狂
危機的状況の中で,人々は優秀なリーダー,強力なリーダーを求めます。そして,そのような期待を抱かせる人物が登場すると,大勢の人々は期待をもって迎えます。しかし,もしその期待が裏切られることになるのだとするならば,どうなるのでしょうか。イエスもまた,熱狂的な期待の中,エルサレムに迎え入れられました。しかし,その期待は裏切られることになります。反対する者たちに,イエスは捕らえられます。もし力ある王ならば,そのような現状を打開することなど造作もないことでしょう。しかし,イエスはそうされなかったのです。その姿は,人々が期待し,また慕い従ってきた王の姿とはかけ離れたものでした。民衆の結論は「十字架」でした。
2. 罪人の身代わりに
「この人を除け。バラバを釈放しろ。」バラバは著名な犯罪人でした。この罪人と引き換えにイエスは十字架に架かったのです。そのような決断をさせたのは民衆の声でした。その民衆はごくごく普通の人々です。「イスラエルのすべての人々」がイエスを十字架につけたのです。すべての人,そこには例外となる人はいません。私たちもまた,あの現場にいたならば,イエスを十字架にかけろ!と叫ぶ民衆の一人なのだと聖書は私たちに問うのです。自分の罪を棚上げにし,決して自分こそが罪人だと認めない私たちの姿がそこにあります。イエスは,大勢の罪人によって十字架に掛けられました。そしてそれは奇しくも,たった一人の罪人のために十字架に掛けられるということになるのです。
3. 私のこととして
あなたはこの一人の罪人なのではないかと聖書は私たちに訴えかけます。このイエスの十字架とあなたとは決して無関係ではなく,あなたもまた罪人の一人であり,イエスが身代わりとならなくてはいけないのだ,そう聖書は私たちに問います。キリストは,罪ある人に向けられた神の怒りを,その裁きの全てを,その身に負ってくださいました。しかし,それは本来は神が負うべきものではありません。イエスは私の罪の身代わりにその刑罰を受けてくださった,そう信じ,告白するなら,私たちは神の赦しを受けることができます。そして,神の子としての生涯を歩むことができるのです。ともに神の前に悔い改め,キリストの犠牲に感謝いたしましょう。
[考えるために]
神の払った犠牲の大きさを,イエスを通して考えてみましょう。
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2009/1/4礼拝メッセージ
2009年1月4日の礼拝メッセージの要約です。
使徒の働き18:9~11
「この町には,わたしの民がたくさんいる」
1. 第二回伝道旅行
「この町には,わたしの民がたくさんいるから。」この時パウロは2度目の伝道旅行の最中でした。第一回目の伝道旅行を通して示された異邦人の救いが,エルサレム会議を経て,正式に教会で認められ,そして全ての民が一致する教会の姿が与えられました。パウロは大きな希望抱き,夢を描き,第二回の伝道旅行に出発したことでしょう。しかし,それは彼の思い描いたものとは異なるものとなったようです。確かに訪れる町々で,イエスを信じる人は起こされます。しかし,ユダヤ人たちはパウロたちに反対しました。パウロは敵対する人々によって,町を追われてしまうという繰り返しに陥ってしまったのです。
2. コリントにて
パウロは目に見えるような成果がないまま,コリントへと導かれました。このコリントで彼は力強い同労者を得ます。同労者も得て,パウロ自身がみことばを教えることに専念できる環境も整い,これからという時に,またしてもユダヤ人たちの反発が起こったのです。パウロは激怒しました。パウロが願っていたのは,決してこのようなものではなかったはずです。イエスを信じる信仰によって,全ての人は神の民となる・・・みことばを伝え,イエスが救い主であることを教えれば,ユダヤ人も異邦人も一つとなって救われていく・・・イエスが望んだ神の国の姿が実現していくことをパウロは望んでいたことでしょう。しかし,現実は決して成功とはいえない宣教の結果でした。
3. 神の取り計らい
彼の言葉は,そのような中で思わず出てしまった悲痛な叫びです。このときのパウロはもうどうにもならない状態でした。なぜ同じことが繰り返されるのか,そのような苛立ちがパウロの悲痛な叫びには表されています。パウロはユダヤ人の会堂を離れ,テテオ・ユストの家へと宣教の拠点を移します。それが思わぬことを引き起こします。そこでも救われる人が起こされたのです。そして,ある夜,主から語りかけをパウロは聞きます。「この町には,わたしの民がたくさんいるから」と。パウロの目に映ったものとは異なり,神の目には,すでに多くの主の民がコリントにはいると映っていたのです。私たちもまた,この神の思いを知る者とさせていただきましょう。
[考えるために]
神の目には,私たちの周りはどのように映っているのでしょうか。
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2008/12/14礼拝メッセージ
2008年12月14日の礼拝メッセージの要約です。
ヨハネ1:9~13
「神の子とされる特権」
1. まことの光
私たちは,太陽が光であることを疑わない人はいません。しかし,イエス・キリストこそまことの光であるという言葉に,すべての人がうなずくことができるかといえば,できないのが現実です。その現実をヨハネはここで表しています。確かにイエスはこの世界に来られましたが,世はこの方を受け入れませんでした。この言葉どおりのことが,今も起きているのです。
2. 真の知識
太陽が光であるという言葉と,イエスこそまことの光であるという聖書の言葉とは何が異なるのでしょうか。科学的な説明と聖書による説明とは何が違うのでしょうか。科学が発展する前は,聖書の権威は今よりもずっと確かで強いものでした。しかし,今は聖書の権威が低下しています。なぜなら「絶対的な神」「万物の創造主なる神」という存在が薄れてしまっているからです。しかし,神に対する信頼に基づくならば,私たちの聖書に対する姿勢は変わります。私たちはあまりにも物事を表面的に見ようとしてしまう傾向があります。しかし,聖書は,目に見えない神,そして私たちの人格における真の知識と知恵を扱っているのです。
3. 人という存在
聖書は私たち人のことを「神の似姿に造られた」存在であると教えています。私たちは他の動物とは明らかに違う存在です。ヨハネはそのことを,イエスを通して私たちが造られたと語りました。しかし,そのような特別な存在であるにもかかわらず,一番肝心な部分が私たちから抜け落ちていくことになります。それが「神」の存在です。私たちは自分自身が神であるという人間中心的に自らを変えてしまったのです。人の悲劇はここから生じ,その重大な欠損部分が広がってしまっています。私たちの周りには問題が山積しています。
4. 神の救い
私たちには救いが必要です。一時的な救いではなく,永遠の救いが必要なのです。イエスを救い主として受け入れるときに,私たちに一時的な救いではなく,永遠の救いが与えられます。神の子どもとされる特権を私たちは得るのです。もうあなたを神からの離反者,罪人とみなさず,あなたを受け入れ,あなたを守り,あなたを導く,神の子としての地位が与えられるのです。
[考えるために]
私たちにとって,本当に大切な知識,知恵とは何でしょうか。
神の子とされる特権は,私たちに何をもたらすでしょうか。
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メインページへ2008/12/7礼拝メッセージ
2008年12月7日の礼拝メッセージの要約です。
ヨハネ1:6~9
「光を指し示す声」
1. バプテスマのヨハネ
バプテスマのヨハネの存在は,当時のユダヤ人にとって決して無視することのできないものでした。彼の語ることに当時の人々は注目しました。その彼が生涯をかけて指し示した人。それがイエス・キリストです。バプテスマのヨハネは「この人こそ救い主である」とイエスを人々に紹介したのです。では,なぜヨハネの証言が重要なのでしょうか。
2. 聖書の語る光
今の時代,情報が数多く氾濫している時代です。今私たちは何を信じ,何に頼って生きているでしょうか。しかし,最も根源的でかつ,最も身近なこと,つまり,私はなぜここに存在し,何をすべきなのかという問いには,世の中に氾濫している情報は答えを与えることはできません。その一方で,聖書は語ります。あなたは神によって,イエスに関係するものとして創造されたと。あなたはイエスにあって,本当のいのちを得,本当の光を得ると。なぜイエスこそ真の光だと断定できるのでしょうか。
3. ヨハネの証言
私たちにとってヨハネは昔の人です。また,ユダヤ地方の一宗教家でしかありません。しかし,なぜこれだけ注目を集めるのでしょうか。その最大の理由は,ヨハネが神のことばをそのまま表した「声」だったということです。多くの情報の中で,何が真実なのか私たちは見極める必要があります。イエスとは誰なのか,そのことを見極めるためには,この聖書のことばが最も重用なものとなります。なぜなら,聖書こそ「神のことば」であるからです。そして,バプテスマのヨハネは,この神のことばである聖書を,その身にあらわした人だったのです。
4. 多くの証言
これは何もバプテスマのヨハネだけに限りません。教会の歴史の中で,数多くの信仰者たちが,指し示してきたこと,それは自分の成功や権威ではありませんでした。彼らが生涯をかけて指し示したのは,聖書の神こそ私の救い,イエスこそ私の光であるということなのです。イエスこそまことの光。皆さんは,どのようにこの言葉を受け取られているでしょうか。そして,皆さんの中には,まことの光があるでしょうか。この先,何が起ころうとも,ゆるがない土台はあるでしょうか。ともにこの光を抱いて歩ませていただきましょう。
[考えるために]
私たちのうちにゆるがない土台はあるでしょうか。
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メインページへ2008年12月06日
2008/11/30礼拝メッセージ
2008年11月30日の礼拝メッセージの要約です。
ヨハネ1:1~5
「神のことばなるイエス」
1. はじめに
「はじめに,ことばがあった。」これは,創世記の第一文が意識されています。ことばとは何でしょうか。ここで意識されているのは,ギリシャ哲学のロゴスではありません。これは神の思い,神のみこころ,神のご計画,そのようなものが含まれた,まさに神が人格を持って語ったことばそのものを表しています。このことばは神とともにあり,神であったと記されています。この「ことば」こそイエス・キリストを指しています。キリストこそ神のことばそのものであり,神である方であり,すべてのはじまりの時からおられた方であると語られています。ここで表されているのは,イエス・キリストの神性です。
2. 神のことば
キリストが神のことばであるということはどのようなことでしょうか。神のことばとは,「必ずなる」ものです。キリストそのものが,神の約束の成就であり,また神そのものを表しており,神のみ思いそのものなのです。ですから,私たちはキリストを見,知り,キリストのことばを聞くときに,神そのものを知ることになるのです。そしてすべてのものは,この方を通して造られました。キリストのために私たちは造られたのです。キリストは私たちの存在に関わっておられるのです。そしてそれは私たちにキリストが反映されるということでもあります。
3. この方にあるいのち
「造られたもので,この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。」しかし,ここはこのように訳すことができます。「この方によらずにできたものは一つもない。造られたものは,この方にあっていのちがあった。」すべてのものはキリストを通して造られました。そこには例外はありません。そしてすべてのものは,イエスにあっていのちがあるのです。つまり,キリストに私たちがなければ,そこにはいのちがないのです。さらに5節でこう宣言されます。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」キリストの光,そこにあるいのちは,この世の,私たちの闇を凌駕するものです。キリストにあるものは必ず真の光,永遠のいのちを得るのです。
[考えるために]
私たちは,誰にあって真のいのちを得ることができるのでしょうか。
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メインページへ2008年11月20日
2008/11/9礼拝メッセージ
2008年11月9日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:39~46
「みこころを求めて」
1. ゲッセマネの祈り
有名なイエスの祈りの場面です。しかし,ルカの福音書は他の福音書とは異なる描き方をしています。ルカは,ここでの出来事をとても簡潔に記しています。この個所は,私たちに対してシンプルにこう語っているようです。「これからおこるであろう苦難,信仰の試練に対し,霊的な備えをせよ。その備えこそ祈りであると。」この箇所で私たちが気づかされるのは「いつものように」という言葉です。私たちには,いつものように祈るとき,そして祈る場所が確保されているでしょうか。
2. 誘惑に陥らないように
この「誘惑」とはなんでしょうか。イエスは次のように祈られました。「父よ。みこころならば,この杯をわたしから取り除けてください。しかし,わたしの願いではなく,みこころのとおりにしてください。」この祈りの言葉は,神に祈られた言葉であると同時に,弟子たちに教えるための祈りでもあるでしょう。イエスはまず祈られます。できればこの苦難をわたしから取り除けてくださいと。しかし,ここで重要なのは次の言葉です。「しかし,わたしの願いではなく,みこころのとおりにしてください。」これこそがキリストの弟子の祈りであり,確かな備えの祈りなのです。
3. 悲しみの果てに
しかし,この祈りは,非常に祈るのが難しい祈りでもあります。ここでも,弟子たちは「悲しみの果てに,眠り込んで」しまいました。他の福音書では,疲れて眠ってしまったかのような記述になっています。しかしルカでは悲しみから彼らは眠ってしまったというのです。一方でイエスは,十字架の苦しみを前にして,いつものように,いつもの場所で祈られました。しかし,そのもう一方の弟子たちは,いつものように,いつもの場所で,試練を前にして,祈ることをせず眠ってしまったのです。私たちにイエスは語られます。くじけそうになる事柄を前にして,祈らず眠り込んでしまった弟子のようではなく,私のように絶えず祈りなさい,と。その祈りは,ただ熱心に祈ればよいわけではありません。「わたしの願いではなく,みこころのとおりにしてください」と祈るように導かれているのです。私たちは,祈る前からここでの弟子たちのように眠り込んでしまっています。私たちはみこころを求める祈りによって,目に見える剣よりも確かな武具を手にすることになるのです。
[考えるために]
私たちには,祈りの場所,祈りの時間が確保されているでしょうか。
また,その祈りは何を願う祈りなのでしょうか。
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メインページへ2008年11月08日
2008/11/2礼拝メッセージ
2008年11月2日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:35~38
「十分な備え」
1. イエスの問いかけ
「わたしがあなたがたを,財布も旅行袋も持たせずに旅に出したとき,何か足りない物がありましたか。」弟子たちを訓練するための宣教旅行のことをイエスは話に出しました。この旅行は,弟子たちにとっての成功体験でもありました。このように聞かれた弟子たちは「何も不自由はありません」と答えました。しかし,イエスは続けて今は持ち物をしっかりと持ちなさいと言われたのです。しかも,剣のない者は,着物を売ってまで剣を揃えなさいと言いました。
2. 誤解
以前の旅行で弟子たちは,イエスの名の偉大さ,すごさを知ることとなりました。それと同時に,彼ら自身が「力を得た」と感じたことでしょう。しかしその弟子たちにイエスはこう教えました。ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさいと。さらに今日の箇所で,イエスは持ち物をしっかりと持ちなさいと教えられました。さまざまな持ち物,刀なども比喩なのでしょう。しかし,弟子たちはその比喩に気がつきませんでした。弟子たちはまったくイエスの言葉を理解していなかったのです。いよいよイエスとともに戦いに赴く,そのような様子が見て取れます。
3. イエスの答え
イエスは続けてお語りになりました。「彼は罪人たちの中に数えられた」とは,イザヤ書53:12の言葉です。これは十字架の苦難の預言です。イエスはこれから十字架に向かうとはっきりと語られた上で,備えるべきものを備えよ,そう命じられたのです。イエスの備え,それは信仰における備えです。ここではその信仰における備えと,さらには信仰の自立をイエスは促しています。信仰における自立のために「霊的な備え」をしなさいと教えられました。ただ受けるだけのものではなく,備えなさい,と言われたのです。私たちが強いのではありません。また私たちは何もしないでいても大丈夫なのではありません。神が,主イエスが強いのであり,また,みことばにその力があります。私たちは神の真理に逆らい,神の正しさや聖さにではなく,自分の正しさや基準に立とうとしてしまいます。私たちは信仰の備えをしなくてはならないのです。祈りによって,またみことばを学ぶことによって,さらに主イエスに従うことによって,私たちは信仰の備えをしてまいりましょう。
[考えるために]
霊的な備えが十分にされているでしょうか。
そのために私たちは何をすべきなのでしょうか。
投稿者 mb-church : 18:40 | コメント (0) | トラックバック
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2008/10/26礼拝メッセージ
2008年10月26日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:31~34
「あなたのために祈る主」
1. 苦しみの中で
「神はなぜこのような現実を許しておられるのか。」私たちは苦しみの中叫びます。神が自分を見捨てていると思うときが私たちの生涯の中でもあります。「サタンが,あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って」とイエスはペテロに語りました。「あなたがた」とあります。イエスを信じる全ての人に対して「あなたがた」と言っています。キリストを信じる歩みの中で信仰における試練を与えることを,神が許容されることがあるというのです。ペテロにもそのようなことが起こりました。「三度の否認」でした。自分の力でイエスに従えると思っていたペテロ。それなりに自信も持っていたことでしょう。その彼が,自分の弱さ,欠けをまざまざと知らされる出来事に遭遇するのです。イエスはこのことを知っていたにもかかわらず,この言葉通りになります。
2. 神の方法
分かっているならば回避してくれればよかったのに,と思います。しかし神の方法は違います。イエスは,「あなたの信仰がなくならないように,あなたのために祈りました」と言われました。ここで対比されているのは,サタンの願いと神の子キリストの祈りです。サタンの願いは,一時的に聞き届けられているかのように見えます。それは一時的であり,不変なものではありえません。しかし,イエスの祈りはどうでしょうか。イエスの祈りは完全で,圧倒的な力に満ちたものです。この祈りは,今もわたしたちに向けて祈られている祈りでもあります。わたしたちは何も守りのないなか,放り出されているわけでは決してありません。絶えず祈ってくださる主イエスのとりなしの祈りの中,わたしたちは導かれていると言えるのです。
3. 失敗の中から
ペテロは予告通り失敗をしました。しかしイエスはこのようにペテロに語りかけています。「だからあなたは,立ち直ったら,兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエスは知っていました。必ずペテロは試みにあうが,必ず立ち直ると。私たちが苦難を通るときに,私たちは同じように神から人生の歩みを与えられた人々を励ますことができるように整えられます。私たちに与えられた苦しみは,ただ自分だけの苦しみではありません。その苦しみは,すでに誰かが通った道であり,そしてこれから多くの人々が通るであろう苦しみなのです。主は今も祈ってくださっているのです。
[考えるために]
神のとられる方法は,私たちとは同じなのでしょうか。
今もイエスは私たちに何をしてくださっているのでしょうか。
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メインページへ2008/10/19礼拝メッセージ
2008年10月19日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:22~30
「仕える者のように」
1. 聖書の原則
聖書の言葉は,書かれた時代の言葉として読まなくてはなりません。この箇所においてもイエスが最後の晩餐のその場で,弟子たちに語られた言葉として読むということが第一です。しかし,もう一つの視点があります。それは当時の教会に語られた言葉としての視点です。弟子たちに語られたこれらの言葉は,当時の教会の信仰者に対して語られたものでもあります。そしてそれはまさに今の私たちに対して語られている言葉であることを意識したいと思います。
2. 裏切り
聖餐の直後,イエスはこう言われました。「しかし,見なさい。わたしを裏切る者の手が,わたしとともに食卓にあります。」直接的にはユダのことでしょう。しかし,これは聖餐を受けたものがみな受けるべき自己吟味でもあります。これは教会の話でもあるのです。イエスはその上でこう言われました。「人の子は定められたとおりに去っていきます。」 誰が裏切るか,そのこともイエスは知っていました。しかし,それでも十字架に架かられたのです。私たちが罪人であるにもかかわらずそうなさったのです。そのことを知っていてなお,イエスを裏切るような人は「わざわい」なのです。
3. 比較を超えて
弟子たちは犯人探しをし始めました。それが発展して,とうとうこの中でだれが一番偉いのかという論議にいたるのです。これは私たちの悲しい罪の現実です。罪を自分のものとしてではなく,他者との比較の中でとらえてしまう私たちの愚かさが表わされています。しかし,そこで,イエスは教会に大きな知恵を与えてくださいました。神を信じ,キリストに従う者は,自分を誇るのではなく,一番年の若い者のようになり,仕える人のようでありなさいと勧められました。人との比較の中で,自分を正しい者とするのではなく,私たち自身が一番弱く,貧しく,むなしいものであることを自覚し,仕える人となること。それはまさにイエスの姿でした。自己正当化では,私たち自身の罪はどうにもなりません。自己正当化をすることによって,神の憐れみやキリストの十字架の恵みを取り逃してしまうことでしょう。たとい誰からも評価されなかったとしても,イエスが私たちの忠実な歩みをご覧になっています。そして,神の国での祝福を約束してくださっているのです。
[考えるために]
私たちの基準はどこにあるのでしょうか。自己正当化に陥ってはいないでしょうか。
投稿者 mb-church : 16:39 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2008/10/12礼拝メッセージ
2008年10月12日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:7~22:23
「これを覚えなさい」
1. 最後の晩餐
十字架にかかる日が近づいてきました。異様な緊張感がこのときのエルサレムの町にはあったのではないかと思います。民衆の期待と祭司長たちの殺意。そのような中で「最後の晩餐」は開かれました。この食卓が聖餐式のはじめの時となります。この聖餐式はもともと「食事」でした。この食事は過ぎ越しの食事と呼ばれるものでした。この食事こそ,神の救いを思い起こすときであり,神との契約の証でもありました。
2. イエスの晩餐
この過ぎ越しの食事をイエスは新たなものとしました。十字架の贖い,そして救いの新しい契約・・・イエスは,これから起こる出来事を何度も思い起こすようにとこの食卓を弟子に用意しました。「神の国が完成するその時まで,過ぎ越しの食事はしない。」それは必ず私は神の国で,あなたとともに食事をするという約束の言葉です。この食卓は,神の家族の全員が招かれている食卓です。一人で飲み食いするのではなく,一つのパンと一つの杯を分かち合うようにと命じられています。
3. 教会の晩餐
過ぎ越しの祭りは一年に一度でした。しかし,聖餐式はいつでも開かれます。過ぎ越しの食事と違い,教会ではキリストの聖餐をいつも開きました。なぜなら,キリストの十字架の出来事が,今信じる者にとって,今まさに目の前で起きる出来事でもあるからです。イエスは「わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われました。聖餐の中心にあるのは「イエスを覚えること」そして「新しい契約」を私たち自身に絶えず刻みつけ,告白していくことにあります。それは儀式としてというよりも,みことばが語られ,イエスの教えが語られ,そして,十字架の死において流された血潮とささげられた体を覚えるときであり,さらには主の約束を思い返す時でもあるのです。
4. 私たちの晩餐
イエスは私たちと親しく食事をともにしてくださいます。イエスご自身を私たちに与えてくださいました。そして,神の国で杯を交わそうと約束してくださったのです。今は目の前にイエスはいないけれども,信仰を持ってこの食卓に着くときに,私たちの目の前にイエスはいてくださるのです。
[考えるために]
イエスが備えられた聖餐には,どのような意味があるのでしょうか。
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メインページへ2008年10月24日
2008/10/5礼拝メッセージ
2008年10月5日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ21:37~22:6
「すべての人」
1. イエスの周囲
十字架を前にしたイエスの周囲には様々な人々がいました。まず「民衆」がいました。民衆はみな朝早くおきて,教えを聞こうとして,宮におられるイエスのもとに集まってきました。それは彼らの熱心さをあらわしています。それと同時に,イエスに対する彼らの期待の高さをも示しています。さらに過ぎ越しの祭りに入り,民衆の熱気は高まっていったことでしょう。その民衆の一方で,祭司長,律法学者たちは,イエスを殺すための良い方法を探していました。
2. 弟子たち
ここでは12弟子の一人の姿が記されています。それはユダです。ユダの裏切りは初期の教会で非常に大きな問題となったことでしょう。また彼を単純に悪者にはできない背景もあったのではないかと思います。他の福音書においてもユダの裏切りが取り上げられていますが,それぞれに特色があります。いずれにしてもユダの裏切りは衝撃的な出来事でした。これをどう教会は受け止めたのでしょうか。もう一つの問題はイエスが自ら十字架を予告していたということです。ユダの裏切もまたイエスは承知していたということも,弟子たちは知っていたのです。悪を神が誘発したのか,それとも神は悪を容認されたのか。ここでは「サタンが入った」と説明をしています。そうとしか言えないほどに私たち人間は弱いという現実があります。しかしそれだけではありません。そのことさえも神はご存知であるというもうひとつの側面があるのです。
3. すべての人
一見無害に見える群衆も,明らかにイエスに敵対していた祭司長たちも,さらにキリストの弟子たちも,裏切ったユダも,ここにいるすべての人が,イエスの十字架と無関係ではありません。群集は熱心にイエスの話に耳を傾けていました。しかし,彼らもまたイエスを十字架にかけることに賛同していきます。弟子たちも最後までイエスに従うことのできなかったものたちです。ここに登場する人すべてが罪人であり,それは私たちも同様です。しかし,主の名を呼ぶものは,みな救われる,これもまた聖書の語る真理なのです
[考えるために]
私たちの弱さとは何でしょうか。
神は私たちの弱さをどのように受け止めておられるでしょうか。
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メインページへ2008年10月22日
2008/9/28礼拝メッセージ
2008年9月28日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ21:29~36
「神の約束を信じて」
1. 時を見極める
「この世界がいつまでも続くように」そう願うものです。私たちはイエスが口にされたその世界の悲惨な現状を見て祈ります。「どうか,ここに平和が,神の国が来ますように」と。イエスの宣教はこの言葉でスタートしました。「時が満ち,神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」イエスは時を見極めなさいと言われます。ここでそれをたとえを用いて説明しました。木が茂ることにより,季節の到来を知ると同じように,今がどのような時かを見極めなさいというのです。
2. 時の捉え方
イエスが語られた「その時」とは恐ろしい審判の時であるような気がします。よく耳にする最後の審判と呼ばれているものです。イエスも私たちを脅しているのでしょうか。この天地は滅びる,だから今信じなさいと言われているのでしょうか。全てが手遅れとなってしまうその前に神に立ち返りなさい,と勧めているのは確かなことです。しかし,ここでイエスは何か分からないけれど,恐ろしいから信じるようにと言っているのではありません。イエスは「本当の現実をしっかりと知りなさい」と仰っているのです。
3. 神の国の到来
神の国が来るとはどういうことでしょうか。それは,世界の終わりだけを意味しているのではありません。それは神の救いの完成の時です。あらゆる苦難や現実に対する神の完全なる回答が,「神の国の到来」です。イエスが教えられた「主の祈り」の中にもこの事が祈られています。これは「この世界を救ってください」という切実な祈りでもあります。神の国が来るということは2重の意味を持っています。それは「滅び」と「救い」です。滅びは罪の世の滅びです。そして救いは罪の世が過ぎ去り,そして神の国がここに到来することです。私たちの目に見えるものすべては崩れ去り,過ぎ去ります。しかし,神の言葉は決して滅びることはありません。つまり,神の約束が無に帰することはなく,神の救い,神の国は必ず来るということなのです。だからこそ,私たちは世に流され,落胆することなく,神の国が来ますようにと祈るものとさせていただきたいのです。
[考えるために]
主の祈りの意味をもう一度考えましょう。
私たちは何を祈っているのでしょうか。
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メインページへ2008年10月16日
2008/9/21礼拝メッセージ
2008年9月21日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ21:20~28
「頭を上にあげて」
1. 世の終わり
「世の終わり」はいつの時代においても語られてきました。終末ということを,私たちは聖書から正しく知ることが必要でしょう。聖書は始まりがあり,終わりがあるということを語っています。始まりはこの世界の始まりであり,私たちのいのちの始まりでもあるでしょう。そして終わりは人の生涯の終わりであり,この世界の終わり,終末のことをも指しています。しかし,その「終わり」は同時に「神の国の完成」「神の国の開国」の時と言ってもいいものなのです。
2. 二つの終わり
イエスは「世の終わり」について2つの側面から語りました。一つは「エルサレムの終焉」ともう一つは「世界の終末」です。「エルサレムの終焉」これは歴史の中ですでに起こった出来事です。「滅亡」「逃亡」「痛み」「大きな苦しみ」「神の怒り」それは悲しい現実です。当時の人々は神を信じる者にはこのようなことは起こらないと考えていました。しかし,イエスの認識は違いました。なぜならそのこともまた神によって預言された現実の苦難だったからです。この苦難は神の知らないことではなく,神が報いる日でもありました。さらにこの苦難に終わりがあります。「異邦人の時の終わるまで」さらに「人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗ってくる」その時こそ終わりの時です。
3. 贖いの時
初代教会は実際にエルサレムの滅亡に直面しました。その現実を目の当たりにしたとき,彼らはイエスのことばを改めて現実のものとして受け取ったことでしょう。そして,身を引き締めたに違いありません。ここでイエスは言われました。「これらのことが起こり始めたなら,からだをまっすぐにし,頭を上げなさい。」苦難は起こる,しかしそのときこそ,頭を天に向け,神を見上げよとイエスは言いました。なぜなら「贖いの時」がいよいよ来たのです。つまり神の国がここに到来し,完成する・・・それが贖いの時です。私たちもまた苦難の先にある神の救いを,神の贖いの時を信仰によって見させていただきましょう。主イエスの十字架の苦難と死の先にある,復活の栄光と新しいいのちを見上げさせていただきましょう。
[考えるために]
私たちの苦難の先に,主イエスは何を約束されたのでしょうか。
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2008/9/14礼拝メッセージ
2008年9月14日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書21:10~19
「忍耐によって」
1. イエスの預言
「恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。」すでにこれらのことが,私たちの時代において起こっていることを私たちは見ています。今の日本において,実感としては薄いものも中にはあるでしょう。しかし,潜在的に言い知れない不安や焦燥感があることも事実です。しかし,いつ何が起こっても不思議ではない中に私たちは生きています。このイエスのことばを聞いた人々も同様だったことでしょう。また弟子たちの期待は,イエスが,ダビデのような王として君臨してくださると期待していました。イエスが王位に着いてくだされば,決してそのようなことは起こらない,そう期待していたことでしょう。
2. イエスの認識
しかし,イエスの現実認識は異なりました。これから起こるのは,多くの痛ましい事柄と迫害であると言うのです。キリストを信じる信仰は安易な慰めの信仰ではありません。また現実から目を背けさせるようなものでもありません。この世界を生きるということは,苦しみの連続です。聖書はそのことを最初から記しています。「あなたはちりだから,ちりに帰らなければならない。」私たちのいのちには苦しみが付きまといます。
3. 慰めのことば
しかし,イエスは従うものに対する慰めと励ましの言葉を語ってくださいました。それは,苦しみの時,迫害の時,痛みの時,そこに必ず神の手が伸ばされるという約束でした。迫害のときも心配しなくてよい,なぜならそのときが「あかし」の時となるからだと言われました。また語るべきこともあなたがたに与えると約束されました。さらなる苦しみに会おうとも,あなたがたの髪の毛の一本も失われることはないとお語りになりました。なぜなら,イエスご自身が,十字架上でこれらの苦しみを受けてくださり,そしてそれゆえに,神がこの方を高くあげてくださったからです。イエスの忍耐の先にあったのは,復活のいのち,復活の主の栄光でした。私たちもまた苦しみのなかで忍耐を強いられることもあるでしょう。しかし主に従うものの忍耐は,キリストご自身の忍耐がそこに合わさり,キリストが受けた栄光と同じ栄光が,そこに完全にあらわされるのです。私たちをどんなときにも守られ,支えてくださる主の約束にとどまらせていただきましょう。
[考えるために]
イエスの忍耐の先にあったものは何でしょうか。
私たちの忍耐の先に約束されているものは何でしょうか。
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2008年9月7日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書21:5~9
「警告と招き」
1. イエスとの対決
イエスは人々との対決を深められます。私たちも同じようなところがあります。私たちが聖書と,イエスと向きあうときに,私たちの内面が探られるということがあります。そのことを通して,私たちの信仰は自立していきます。最初から神のことがよくわかる人はいません。一人の人が練り上げられるのには相当な時間が必要なのです。ここでもイエスは人間と神との考えの違いを明らかにしています。
2. 身勝手なメシア像
イエスは民衆に語りました。「どうして,人々はキリストをダビデの子と言うのですか。」「ダビデの子」というのは,当時のメシアに対する称号です。この言葉だけを取れば正しい物の言いでした。しかし,問題は,この言葉を口にするときにどのような思いを抱いていたかということです。「ダビデの子」それは文字通り新しい王,ダビデのような王,そのような人を指していました。彼らにとっての救いとは何だったのでしょうか。自国の栄光,繁栄,地位の保障,勝利,平和,自由・・・これらをもたらす偉大なリーダー,カリスマ的な人物を彼らは待ち望んでいたのです。現代ではどうでしょうか。私たちはいかなる思いでキリストの名を口にしているのでしょうか。
3. イエスとは誰なのか?
イエスとは人なのか,それとも神なのでしょうか?イエスはここで詩篇110篇を引用しました。これは父なる神が,メシアであるダビデの主に語ったと記している箇所です。これをイエスはダビデがキリストを主と呼んでいるのだと解説しました。このことは同時にご自身がいったい何者かを示した言葉なのです。それは,この世の中で考えられている神でもなく,人間のレベルのカリスマでもないということ。この詩篇にある私の主とは,世界の全ての王であると同時に「祭司」であると歌われている方です。王であり,祭司である方こそ来るべきメシアです。王とは神の正しさを実現する者であり,神の民を導く方です。そして祭司とは,神と民とを仲介する役目を負っています。その方が私たちの救い主であるがゆえに,私たちは神の民であり続けることができるのです。最後の最後まで,神の前に赦されたものであり続けることができるのです。それゆえに神の愛から誰も私たちを引き離すことはできないのです。私たちの救い主は,ただの人間でもなく,ただの神でもないのです。
[考えるために]
詩篇110篇にあるメシアの姿とはどのようなものでしょうか。
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2008/8/31礼拝メッセージ
2008年8月31日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:45~21:4
「与えられているものによって」
1. 律法学者と金持ち
イエスは律法学者たちと対立しました。「律法学者には気をつけなさい。」教会の指導者である弟子たちにイエスは語られました。律法学者はどのような人々だったのでしょうか。イエスが語られたように彼らは長い衣をまとっていました。その姿は目に見える形での権威を示しています。また広場で特別な挨拶をしました。会堂や宴会の席でも特別な席があったようです。さらにイエスはやもめの家を食いつぶしているとか,長い祈りをすると指摘しています。イエスは目を上げて話を続けました。それは金持ちたちが献金している姿と,貧しいやもめがレプタ銅貨を二つ投げ入れている姿でした。そこで語られたのは,この貧しいやもめこそ,どの人よりも多く神にささげた人であるという話でした。
2. イエスの非難
私たちはイエスの言葉から何を受け取るでしょうか。律法学者や金持ちのようではなくというメッセージでしょうか。見るからに悪い人を悪く言うことは簡単なことです。しかし,ここでイエスは見るからに悪い人のことを取り上げているわけではありません。律法学者も金持ちも,彼らは悪人ではなく,むしろ神によって祝福された人と言ってもいいでしょう。律法学者になるためには,相当な努力が必要ですし,金持ちは,まさに神からの祝福を受けたものたちであると言えます。宮を支えていたのは,このような人々でもありました。しかし,イエスはその彼らのあり方を明らかに非難されたのです。
3. すべては神のために
私たちは目に見えるものに縛られます。あの人は立派であるとか,またしっかりしているということを重要視します。しかし大事なことは,私たちが持っているもの,努力も血筋も環境も,また地位もお金も名誉も,そのすべては誰のものであるのか,という根本的な問いかけがあります。多くのものを与えられた人には,多くの責任が持たされています。それらのものをもって,与えてくださった神のすばらしさを表し,さらに神が望まれていることを実現するために,一人一人に多くのものが与えられているのです。ここで非難しているのは,自分に与えられたものを,自分の栄光のためや神に感謝せずにささげている姿です。主がほめられたこのやもめの姿は私たちに何を示しているのでしょうか。
[考えるために]
私たちに与えられているものとは何でしょうか。それはなぜ委ねられているのでしょうか。
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メインページへ2008/8/24礼拝メッセージ
2008年8月24日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:41~44
「王であり祭司である方」
1. イエスとの対決
イエスは人々との対決を深められます。私たちも同じようなところがあります。私たちが聖書と,イエスと向きあうときに,私たちの内面が探られるということがあります。そのことを通して,私たちの信仰は自立していきます。最初から神のことがよくわかる人はいません。一人の人が練り上げられるのには相当な時間が必要なのです。ここでもイエスは人間と神との考えの違いを明らかにしています。
2. 身勝手なメシア像
イエスは民衆に語りました。「どうして,人々はキリストをダビデの子と言うのですか。」「ダビデの子」というのは,当時のメシアに対する称号です。この言葉だけを取れば正しい物の言いでした。しかし,問題は,この言葉を口にするときにどのような思いを抱いていたかということです。「ダビデの子」それは文字通り新しい王,ダビデのような王,そのような人を指していました。彼らにとっての救いとは何だったのでしょうか。自国の栄光,繁栄,地位の保障,勝利,平和,自由・・・これらをもたらす偉大なリーダー,カリスマ的な人物を彼らは待ち望んでいたのです。現代ではどうでしょうか。私たちはいかなる思いでキリストの名を口にしているのでしょうか。
3. イエスとは誰なのか?
イエスとは人なのか,それとも神なのでしょうか?イエスはここで詩篇110篇を引用しました。これは父なる神が,メシアであるダビデの主に語ったと記している箇所です。これをイエスはダビデがキリストを主と呼んでいるのだと解説しました。このことは同時にご自身がいったい何者かを示した言葉なのです。それは,この世の中で考えられている神でもなく,人間のレベルのカリスマでもないということ。この詩篇にある私の主とは,世界の全ての王であると同時に「祭司」であると歌われている方です。王であり,祭司である方こそ来るべきメシアです。王とは神の正しさを実現する者であり,神の民を導く方です。そして祭司とは,神と民とを仲介する役目を負っています。その方が私たちの救い主であるがゆえに,私たちは神の民であり続けることができるのです。最後の最後まで,神の前に赦されたものであり続けることができるのです。それゆえに神の愛から誰も私たちを引き離すことはできないのです。私たちの救い主は,ただの人間でもなく,ただの神でもないのです。
[考えるために]
イエスとはどのようなお方であると聖書は語っているでしょうか?
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2008/8/17礼拝メッセージ
2008年8月17日の礼拝メッセージの要約です。
この日は吉澤慎也神学生がご奉仕くださいました。
ヨナ書1:1~17
「ヨナと神様と私」
1. ヨナ書アウトライン
①海におけるヨナ
A. ヨナの最初の召命(1:1-3)
B. ヨナと水夫たち(1:4-16)
C. 救出に対するヨナの感謝(1:17-2:10)
②ニネベにおけるヨナ
A. ヨナの第二の召命(3:1-3)
B. ヨナとニネベの人々(3:4-10)
C. ニネベの救出に対するヨナの怒り(4:1-11)
2. 海に投げ込まれたヨナ
アッシリヤ帝国の首都ニネベに行くようにという主の言葉に対して、預言者ヨナは主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとする。船は激しい暴風に襲われるが、ヨナは祈らない。ヨナは自暴自棄になっていたと思われる。海に投げ込まれたヨナは、ようやく神様の方を向き始め、魚の中から感謝の祈りをする。
ヨナの態度は中途半端で、ゆっくりとした成長しか見られないが、それでも神様はヨナをあわれまれた。神様は、ヨナと同じような私たちにもあわれみを示してくださる。
3. ヨナの怒りと神様のあわれみ
ヨナの働きにより、ニネベは滅びを免れるが、そのことでヨナは怒る。ヨナは正義感が強く、ニネベのような悪の町は滅びるべきだと考えていた。それはヨナが最初にタルシシュへ逃れようとした理由でもある(4:2)。ヨナでさえも理解できない神様の深いあわれみが、ヨナ書の中心メッセージ。しかし最もあわれみを受けたのはヨナ自身であろう。ヨナは必ずしも模範的な信仰者として描かれていないが、神様はヨナに対して大きなあわれみを示した。ヨナと同様の私たちにもまた、神様の永遠の愛が注がれていることを覚えたい。その神様の愛を覚える時に、私たちの心にも他人に対する寛容さが生まれるのではないか。
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2008/8/10礼拝メッセージ
2008年8月10日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:27~40
「生きている者の神」
1. サドカイ派
サドカイ派は祭司職についていたユダヤの貴族階級に支持されていました。彼らは義人の復活を否定しました。彼らは「レビラート」と呼ばれる制度を用いて質問をしました。それは規定通りに行った場合,もし復活があるならば復活後妻は誰の妻となるのか?という質問でした。
2. 質問の真意
レビラート婚の制度は「相続」ということがその根底にあります。それは真の神に対する信仰の継承が,神が与えてくださった財産を継承することと固く結びついていたからに他なりません。それほど,この世におかれた神の民の使命が重要なものであったことを,この規定は表しています。しかし,サドカイ派はその点は問題にせず,ただ表面的な規定を取り上げてイエスに質問しました。一見,夫婦の問題であるかのように見えます。しかし,この質問で問われているのは夫婦の愛ではありません。復活の時に妻は誰のものとなるのか,さらには,結局,財産は誰のものになるのかという問題なのです。彼らは律法を取り上げながら,その根底には世俗的な考えがあることがわかります。しかし,私たちもまた,神の国と義を求めているようで,その実態はこの世の現実や心配で頭の中がいっぱいになっているのではないでしょうか。
3. 復活の子
イエスは答えられました。「義人が復活したならば,そのような人はめとることも,とつぐこともない。」神の国ではもう財産の相続など関係はありません。なぜなら,そこは神の完全なる支配が完成に至った「国」だからです。さらにイエスは言います。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは,神に対しては,みなが生きているからです。」つまり,神は過去のお方でもなく,また死んでしまった者の神ではありません。今,生きている者の神であり,それはアブラハムの時代から,今に至るまで同様であるということ。そして,今,神を信じ,神に従うということは,神がこれから先,永遠に至るまで,私たちを心に留めてくださるということです。イエスにあって神の国に入る,そして永遠のいのちを持つということは,私たちの想像をはるかに超えたことであり,この世の尺度では決して測ることができない大きなものです。その約束はアブラハムや過去の信仰者のものではなく,今生きている者に与えられてもいる約束であるということなのです。
[考えるために]
私たちはどこに向かって生きているのでしょうか。この世,目に見えるものに対してでしょうか。
それとも,神に向かって生きるものでしょうか。
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2008年8月3日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:19~26
「神の肖像」
1. 律法学者たちの反発
たとえ話を聞いて,律法学者たちは自分たちのことであると気がつきました。しかし,彼らは神に立ち返りイエスを受け入れようとはしませんでした。反発の度合いを強め,義人を装った間者を送りました。イエスの言葉尻を捕まえて,理由をつけ総督の下へと引き出そうと考えたのです。自分たちの手を汚さずにイエスを葬り去ろう,それが彼らの狙いでした。
2. 間者の罠
彼らは税金に関する質問をイエスにしました。「私たちがカイザルに税金を納めることは,律法にかなっていることでしょうか。」この質問は,答え次第ではローマ総督へ引き出すか,もしくは民衆がイエスから離れていくきっかけになるものでした。イエスは答えました。「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。」銀貨にはカイザルの肖像が彫られていました。そこでイエスはこのように言います。「カイザルのものはカイザルに。そして神のものは神に返しなさい。」イエスは税金を納めることを否定しませんでした。しかし,献げることの本質的な議論に入っていったのです。
3. 誰のものか
「神のものは神にかえしなさい。」問題はここです。「神のもの」これは一体何か。ここで注目すべきは「肖像」という言葉です。この言葉は「かたち」という言葉です。つまり,神のかたちとは何かという問いをイエスは投げかけているのです。神の「かたち」それは人間の創造のときに神が語った言葉です。神のかたちであるものは何でしょうか。それは「人」です。神のかたちでが刻まれている人間,そうあなた自身を神に返しなさい,神にささげなさい,と語られたのです。
4. 神のものは神へ
私たちの目線はどこに向けられているでしょうか?「神のものは神に返す」ということはどの範囲をさしているのでしょうか?旧約の規定である10分の1でしょうか。表向きは正しく行っているかのように見えて,全てをご存知で,全てを下さった方に何をお返ししていたのでしょうか。私たちは何よりも大きなものを神からいただいています。それが十字架の主イエス・キリストなのです。この十字架に対して,わたしたちは何を神にお返しすることができるでしょうか。
[考えるために]
あなたにはどなたの肖像が刻まれているのでしょうか。
何を神にお返しすることができるでしょうか。
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2008/7/27礼拝メッセージ
2008年7月27日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:9~18
「砕きの石」
1. 主人と農夫
ある人がぶどう園を造り,農夫たちに貸して長い旅にでます。季節になりぶどう園の収穫の分け前をもらうことにしました。そこで一人のしもべを遣わします。ところが農夫たちは,このしもべを袋叩きにし送り返したのです。そのようなことが三度繰り返されます。このたとえ話は,イスラエルと神,人間と神との関係が描かれています。しもべは旧約の預言者です。神は預言者を通して,この世界の真の主人が誰であるかを語ってきました。しかし,その預言者を,神のことばである聖書を私たちはどのように扱ってきたのでしょうか。このたとえのように,そのことばを受け止めず,軽んじ,無視してしまっているような現実があるのではないでしょうか。
2. 主人の忍耐
この主人は,三度もしもべを農夫たちに送りました。これこそイエスが語る神の姿なのです。神は寛容にこの世界を私たちにゆだねておられます。そのような中で,何度も神は私たちに語りかけておられます。「今,神に立ち返りなさい,あなたは神から離れてしまっている。神は悔い改める民をあわれみ深く扱ってくださる」と語りかけてくださっている。しかし,私たちはその言葉に耳を傾けず,自分の考え,自分の悟りによって歩んでいるのです。しかし,神は三度目を越えて,とうとう彼の愛する息子を遣わすことにしました。しかし農夫たちは,その息子を殺すという暴挙に出るのです。当然,ぶどう園の主人はこの農夫を打ち滅ぼしてしまいました。
3. 和解の使者
人々は,この話を聞いてそんなことがあってはならないと言います。この主人は農夫たちに望みを置きました。何とか分かって欲しいと期待したのです。しかし,残念ながらその思いは農夫たちに届きませんでした。この息子は礎の石であり,その石によって私たちが神の前に問われているのだとイエスは語ります。この息子こそイエス自身です。イエスが来られたのは決して私たちを裁くためだけではありません。神が御子を世に遣わしたのは、御子によって世が救われるためなのです。愛する息子を送ったのは,そこに最後の希望を置くためでした。私たちは,その和解の使者をどのようにお迎えするのでしょうか。神の前に悔い改め,イエスを信じるならば必ず神との和解が与えられるのです。
[考えるために]
私たちと神様との関係を考えて見ましょう。
どれだけ多くのものが私たちの手に委ねられているのでしょうか。
投稿者 mb-church : 14:36 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2008/7/20礼拝メッセージ
2008年7月20日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:1~8
「誰の権威の下で」
1. 宮きよめで語られたこと
「宮きよめ」のメッセージの本質は,神の前の悔い改めを迫ったということにあります。あなた自身が,神の前にささげられているのか,そうイエスは問われました。これまでのあり方を神の前に悔い改め,キリストをお迎えしなさい・・・神はそのあなたを救ってくださる。これが救いのメッセージです。
2. 何の権威の下に
私たちはどこに基準を置いているのでしょうか。どの尺度で物事を計り,他の人を値踏みしているのでしょうか。ユダヤ人たちはイエスに問いました。「何の権威によって?」これは実に根本的な「問い」です。私たちが人間である限り,どこかに基準(権威)を置き,この世界と関わっていることでしょう。しかしイエスは人々の目に見える基準を否定されました。そしてこの行動は,この時代の権威の下にあった人々を震え上がらせ,恐れさせました。なぜ彼らは恐れたのでしょうか?
3. イエスの行動の前に
なぜなら,イエスの言動は,人による権威を無効化した行為だったからです。その前に私たちが立たせられるならば,たちまち人間的な取り繕った正しさや正義ではなく,神の前に素の私たちの姿があらわになってしまいます。ですから,祭司長,律法学者,長老たちはイエスの前に恐れました。彼らは表向き正しさを保っているように見えます。しかし,その正しさは人の権威によって築き上げられたものでした。彼らだけではありません。私たちの世界もまた,何らかの権威によって成り立っています。それは個人においても同様です。
4. 天からか人からか
彼らは問いました。しかし,イエスは問いを彼らに返されました。ヨハネのバプテスマは天からなのか?しかし,彼らの結論は「どこからか知りません」というものでした。それは,ただプライドと人を恐れての結論でした。彼らが恐れているのは神ではなく,「多くの人の目」また彼らが築き上げてきたものを失うことへの恐れだったのです。イエスは言われます。「あなたがたに話すまい。」この答えは,彼らの頑なさゆえです。人の目を恐れず,正しさに固執しなければ答えを出せたはずです。イエスが答えてくださらないのではなく,私たちの方で本心を隠し,答えを避けてしまうことがあるのです。
[考えるために]
私たちは考えや行動の基準をどこに置いているのでしょうか?
投稿者 mb-church : 14:19 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2008年07月27日
2008/7/13礼拝メッセージ
2008年7月13日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書19:45~48
「祈りの家」
1. 宮清め
イエスはエルサレムで最初に宮清めをしました。イエスは人の罪と悲惨を思われ涙されました。罪から自分の力で抜け出せないことにこそ人の悲惨があります。当時,エルサレムの宮で認められて人々は商売をしていました。イエスはその人々を追い出しました。なぜイエスはこのような行為に及んだのでしょうか。「わたしの家は,祈りの家でなければならない」「あなたがたはそれを強盗の巣にした」これらは旧約聖書の言葉です。一つはイザヤ書56章です。この箇所の中心テーマは「異邦人(罪人)の救い」です。ここでの「祈り」とは神に私たち自身を受け入れていただくことを願う祈りです。しかし,私たちの祈りは,自身の欲することを願う祈りに終始します。私たちがまず祈らなくてはならないことは何でしょうか。それは,主が罪人の私を受け入れ,ご自分の民としてくださることを願う神の前に立つ祈りなのです。
2. 真の神を信じる信仰
真の神を信じる信仰とは何でしょうか?私たちは祈ったので主は聞いてくださるとか,祈っていないので聞いてくださらないと思いがちです。しかし,神は悔い改め,主に立ち返り,自分自身を主にささげたものを,ご自分の民と言ってくださいます。私たちをご自分のものとされたがゆえに,主は必ず祝福してくださるということ,これこそ真の神信仰です。キリストの体なる教会もまた祈りの家と呼ばれます。その祈りの中心にあるのは,真の神を信じる信仰です。主に対して私自身をささげる礼拝がその中心にあります。「強盗の巣」はエレミヤ書7章にある言葉です。表向きの言葉と,内なる信仰との分離が語られています。それは偽りの信仰です。イエスは,表向きは神をあがめているようで,その実は神ご自身を求めていない私たちと真正面から向き合おうとされています。
3. ご自身をささげられたイエス
イエスはなぜ,十字架の直前に宮を清められたのでしょうか。それは,これから十字架上でささげられる犠牲の大きさに目を向けさせるためです。私たちの罪のために,ご自身を神の前でささげようとされているからです。イエスの十字架の犠牲によって,私たちの祈りが神に受けいれられるものとなります。私たちはこの宮を清められたイエスの姿を思い,この礼拝に集い,私たち自身を神にささげてまいりましょう。
[考えるために]
私たちが第一に祈るべき祈りとは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 13:44 | コメント (0) | トラックバック
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2008/6/29礼拝メッセージ
2008年6月29日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書19:11~28
「主のみ思いはどこに」
1. 私たちと主の考えの違い
イエスがエルサレムに近づくと,人々は神の国がすぐに実現すると考えていました。人々の思い描く理想と,イエスが考える神の国とが異なっていました。カルバンはこう記しています。「われわれに良きものがあるとすれば,それは御霊の実にほかならず,これなしでは我々のものとしては精神の暗黒と心情の倒錯しかない。」私たちはどこかで自分は正しいものであるという思いを持ってしまいがちです。しかし,ここで一つのたとえ話を通してそのような考えを退けられました。
2. ある身分の高い人
ある身分の高い人はイエスのことを指しています。イエスが十字架の後に天にあげられ再び戻ってこられる,その間の時を指してたとえを話されました。この人は10人のしもべを呼んでお金を手渡して命じます。「私が帰るまで,これで商売しなさい。」イエスは王位を得て戻ってきます。そしてしもべたちがどのようにすごして来たかを聞くのです。お金を有効に運用したものには良い評価を与えられました。しかし,ある人が主人の前にやって来ました。彼はお金を包みにしまいこんで取っておきました。なぜなら,彼の目にこの主人は「計算の細かい厳しい方」「すべてを奪い取る方」として写っていたからです。主人はこの人に厳しい応答をしました。「その一ミナを彼から取り上げて,10ミナ持っている人にやりなさい。」
3. しもべの不理解
厳しい話です。しかし,私たちが一番に注目すべきことは,このしもべがまったく主人のことを理解していなかったということです。私たちもまた,イエスのことを理解しているでしょうか。ある人は,この方を王と認めません。また,ある人は,イエスを神の子と認めていながらも,イエスのことを理解しようとしていません。私たちの目にイエスはどのように映っているのでしょうか。儲けた人々は,預けられたものを最大限に用いようとしました。失敗するか,成功するかが問題ではありません。それよりも,彼らは主人に言われたことを忠実に実行し,必ず主がほめてくださると信じていました。主は私たちに恵みに生きるように,そして,必ず将来さらに私たちに与えてくださることを信じて生きるようにと,私たちに語ってくださっているのです。ただし忘れてはなりません。主イエスが望まれていることは何であるかを。
[考えるために]
主イエスの望まれていること,命じられていることは何でしょうか?
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メインページへ2008/6/22礼拝メッセージ
2008年6月22日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書19:1~10
「義人ザアカイ」
1. ザアカイ
今日の結論はこうです。「救いは神の招きにこたえること」。イエスの呼びかけにこたえる時に,そこに救いがもたらされます。その招きにこたえた人がザアカイでした。ザアカイとは「義人」という意味の名前です。彼はその名とは異なる人物でした。人からも,また自分でも救いようがないと見なされたこのザアカイはどのように救いに預かったのでしょうか。それはある奇跡が起こったからです。
2. 奇跡
どのような奇跡が起こったのでしょうか。それは一見すると小さなものでした。しかしその意味するところは計り知れない大きさを持つものでした。その奇跡は「神との出会い」という奇跡です。ザアカイは神の子イエスと出会ったのです。彼はイエスが来られると聞いて走り出します。彼はイエスを間近で見たいとの思いから,木に登りました。しかし,そこで予想していなかったことが起きました。イエスが突然上を見上げ彼に声をかけられ,彼の家に泊まることになったのです。
3. ザアカイの喜び
彼はこの申し出を喜んで受け入れました。彼はイエスを「私の主,神の子」としてへりくだりつつ迎えたのです。彼はイエスとの出会いを求めていました。そして,イエスはそのザアカイのところに「ちょうど」来て下さったのです。彼が喜んでイエスを迎えると,ザアカイには大きな変化がもたらされます。彼の心を本当に満たすものが与えられたのです。
4. 真の宝
本当の宝は私たちが探し出して手に入れるのではありません。宝とは,私たちを探しておられるイエスを迎え入れるということです。ザアカイの奇跡は,神の御子イエスがザアカイの前に来てくださったこと,そしてザアカイがイエスを救い主として迎え入れたということでした。救いは,すでに私たちを探して下さったイエスを私の内に招きいれるということです。その時にザアカイと同様に,大きな喜びが私たちに沸き起こります。私たちは本当の宝を手に入れることができるのです。
[考えるために]
本当の宝とは何でしょうか。
私たちを真に満たすものは何でしょうか?
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メインページへ2008/6/15礼拝メッセージ
2008年6月15日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:35~43
「信仰によっていやされる」
1. エリコに近づいたイエス
イエスはエリコという町に近づかれました。そこには,ある盲人が道端に座り,物乞いをしていました。その日はいつもとは違いました。大勢の人々がこの人の前を通りすぎようとしていました。ナザレのイエスが通る・・・この盲人は,それを聞いて即座の反応を示します。彼は大声で叫びはじめました。ダビデの子のイエス,これはまさにイエスこそメシアであると彼が告白している言葉と言えるでしょう。あの役人とは正反対の姿がここにあったのです。
2. 役人との対比
彼は,盲目で物乞いをせざるを得ない状況にありました。あの役人は自分でイエスの目の前にやってきました。そして自分からイエスに「永遠のいのち」を得るためにはどうしたらいいかを聞きました。彼の目にはイエスはただの人,偉い教師でしかありませんでした。また弟子たちにもイエスの真の姿は隠されていました。しかしこの盲目の人はどうでしょうか。彼はイエスを救い主と認め,そしてイエスにあわれみを求めた人でした。
3. 叫ぶ人
彼の見えない目にうつったのは,人としてのイエスではなく,神が約束してくださったメシアの姿でした。周りの人は彼を黙らせようとします。しかし,彼はますます大きな声で信仰を告白しました。これは信仰の叫びです。今を逃してしまったら,イエスは自分に気がつかずに通りすぎてしまう。この叫びにイエスは目を留められました。
4. 信仰による救い
イエスは彼に尋ねます。「わたしに何をして欲しいのか?」自分では見ることができない。自分には何もできない。ただあなたに願い叫び,求めるだけ・・・。そのことを彼はよく知っていました。この人は自分は本当に神の前に貧しく,弱く,何もないものであることを知っていたのです。そしてイエスこそ,この私を救ってくださる方であることを信じ,告白しました。「見えるようになれ,あなたの信仰があなたを直したのです。」あなたの信仰があなたを直した,この言葉は「救い」という意味の言葉です。イエスを信じる信仰だけが,私たちに救いをもたらすのです。
[考えるために]
癒された人の目には,イエスはどのような方として映ったのでしょうか?
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2008年6月8日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:28~34
「その手に握り締めたもの」
1. 救いの真髄
役人とのやり取りの中でイエスは言いました。「人にはできないことが,神にはできるのです。」これこそ救いの真髄です。神に委ね,イエスを信じるとき,救いは必ず与えられます。ところがイエスの弟子は,この話しの後にこのように言いました。「私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」役人が悲しそうに出て行ったのとは対照的な言葉です。イエスに評価を求める姿がここにあります。ここに役人と同じような匂いを感じます。「名誉」と「賞賛」です。この弟子の言葉に,イエスはどのように答えられたのでしょうか。
2. イエスの答え
イエスは「神の国のために,家,妻,兄弟,両親,子どもを捨てた者で,だれひとりとして,この世にあってその幾倍かを受けない者はなく,後の世で永遠のいのちを受けない者はありません」と言いました。イエスが語られたのは,「この時に何倍も多くを,来たる時に永遠のいのちを受けないものはない」という内容です。イエスは,直接に弟子のことを賞賛しいません。それではイエスは何をお語りになったのでしょうか。
3. あなたの手に何があるのか
家,妻,兄弟,両親,子どもを捨てた者とイエスは言いました。また役人とのやりとりでは,財産を捨てて従いなさいと命じられました。これらの言葉の意味するところは,「あなたが頼りにし,誇りにしているものは何か?あなたのその手に握り締めて,離せなくなっているものは何か?」という問いかけではないでしょうか。自分のものとして握り締めてしまっているものを手放し,神の前にへりくだり,神にすべてを預けなさいとイエスは語られているのです。
4. 神の祝福
今のこの時,私たちが自分の手に握りしめているものを手放していくときに,それをすべて主が祝福してくださる・・・終わりの時には,必ず神の国を,永遠のいのちを私たちに与えてくださる,その約束がここにあります。この祝福は,自分だけが何倍も得るということではありません。家,夫婦,兄弟,両親,子ども,そのすべてにおいて,神の守りと祝福が及ぶと言ってもいいでしょう。神は私たちに必要なものを,あの空を飛ぶ鳥,野にさく花のように,いえ,それ以上に私たちに与えてくださるのです。
[考えるために]
私たちの手から離すことのできなくなっているものは何でしょうか?
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2008/6/1礼拝メッセージ
2008年6月1日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:18~27
「欠けたところ」
1. 神の国,永遠のいのち
ある役人がイエスに問います。「何をしたら永遠のいのちを得ることができるのか」と。彼は明らかに「何かをすれば」永遠のいのち,神の救いを受けることができると考えています。確かに力を尽くして歩むときに,そこに神の祝福が与えられるのは,世の摂理と言ってもいいでしょう。しかし,この世界は人の「罪」によってゆがんでしまっています。その罪は,私たちの力では克服することはできないのです。
2. 罪からの救い
「救い」は,ただ私たちが成功した人生を送り,不幸を避けるという意味ではありません。聖書の「救い」とは,罪からの救いです。この救いは,個々人から全世界にまでおよぶものです。役人は,救いが何かをわかってはいません。ただ,彼は自分の人生に栄誉や正しさを加えようと,イエスの前にやってきました。彼はイエスを人間の教師と考え,その答えを求めました。彼は神に求めようとはしませんでした。その役人の考えをイエスは否定されます。確かに役人は,十戒も他のイスラエルの人々と同様に,幼い時から守ってきたこでしょう。イエスは彼の目を本質的な問題に向けさせます。彼に全財産を売り,貧しい人に与え,そして従いなさいと語られました。
3. 欠けたところ
なぜ,イエスは不可能なことを口にされたのでしょうか。なぜなら,この問いこそ彼の本質的な罪を明らかにするものだったからです。彼の価値基準はどこにあったのでしょうか。それは「富」と「名声」です。それは人の評価であり,また物によって自分を高めようとする生き方です。さらにイエスは問われます。天に宝を積む,つまり,あなたは本気で神を信じ認めているのか,と。私たちは誰でも,神を認めることのできない罪を抱えています。その生涯の中で,何か自分の力ですべてをなしているかのような錯覚に陥っているのです。それこそが「罪」であるとイエスは私たちに語られています。
4. 救いはどこから
ただ神により頼むものに救いは与えられます。罪からの救いは,ただただ神による,イエスの十字架によるのです。私たちに欠けていることは何でしょうか。それは神以外による救いはないと,心から認めることなのです。
[考えるために]
私たちの内にある錯覚とは何でしょうか?あなたの生涯は誰から与えられたものでしょうか?
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2008/5/18礼拝メッセージ
2008年5月18日の礼拝メッセージの要約です。
申命記31:6~8
「これからという時」
1. 先の見えない今を生きる私たち
「これからどうなるのか?」これはとても大きな関心事です。特に今の多様化,複雑化の時代にあって,未来に対する明快な答えは誰も持っていません。現実からは決して目を背けてもいけませんし,できるだけしっかりとした情報を得,また考えを持つべきなのはいうまでもありません。しかし,私たちには聖書が与えられています。私たちは聖書が教える,神の目線を教えられる必要があるのです。
2. 本当の今を生きる私たち
私たちにとって本当の「今」は,主イエスを救い主として信じるときから始まります。主イエスを信じ従うときに,私たちは本来の「自分」になるのです。それは,出エジプトのイスラエルの民と重なります。彼らは約束の地を目指して歩みを進めました。その旅路を通して,彼らは自分たちを救うお方こそ神であり,他には神はないことを教えられ続けたのです。モーセは繰り返しこう語ります。「あなたの神,主の御声に聞き従い,きょう,あなたに命じる主の命令とおきてとを行いなさい。」この命令が語られたのは,約束の地に入った後こそ,神に選ばれた民としての歩みが始まるからに他なりません。神が与えてくださる救いの完成の時は未だ来ていません。私たちは既に救われているけれども,未だ完成していない時代に生きているのです。
3. 遣わされる私たち
イスラエルの民が約束の地に入るということは,カナンの地へと遣わされるということをも意味していました。そこは,多くの異民族がすでに住み,真の神でない神々が入り乱れた世界でした。だからこそ,神とみ言葉に中心を置くように繰り返し言われています。私たちにも同様のことが起こっています。キリストの十字架によって,私たちは罪の奴隷から解放され,自由が与えられました。さらに,私たちはイスラエルの民と同様に,この世へと遣わされています。私たちはこの世にあって,神の国を待ち望むものたちです。遣わした者たちに神は語られます。主ご自身があなたの先に進み,ともにおられると。私たちも遣わされたものとして,主に信頼して歩ませていただきましょう。
[考えるために]
あなたは今,どこに遣わされているのでしょうか。また,与えられている使命とは何でしょうか?
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2008/5/11礼拝メッセージ
2008年5月11日の礼拝メッセージの要約です。
Ⅱコリント6:1~10
「いまという時を見つめて」
1. 恵みの時
パウロは「いま」という時をどのようにとらえているでしょうか。イザヤ書を引用して,いまは恵みの時,救いの日であると記しています。「救いの日」とは実のところ神のみこころの時でもあります。「救い」は,私たちにはコントロールすることはできません。救いは,ただ神のみ思いによってもたらされるものです。それはただイエス・キリストの十字架と復活によって,神から与えられたのです。
2. いまという境
恵みの時,救いの日は,イエス・キリストがその境にあります。キリスト以降はすべて「恵みの時,救いの日」なのです。このことは一人の人の生の中でも起こります。キリストを救い主として信じる前と後。イエスを救い主として信じる私たちが生きているのはまさに恵みの時である「いま」です。キリストにあるいまを自覚したときに,いったい私たちの中に何が湧き上がってくるのでしょうか?
3. 真のアイデンティティー
イエスとの出会いによって,私たちの中に真のアイデンティティーの確立が与えられます。私たちが何者なのかということがはっきりするのです。そのことをパウロはこのように表現します。「あらゆることにおいて,自分を神のしもべとして推薦している・・・」彼はキリストを信じるすべての人を,神のしもべであると推薦しています。キリストを信じて生きるとはどういうことでしょうか?それは,「いま」という時をどのようにとらえるかにかかっています。
4. 逆転の恵み
パウロも彼を取り囲む「いま」を見つめます。さらに彼の内面に起こった「いま」も記しています。これらはキリストを信じたことによって得たものであり,引き起こされた出来事です。良い評価も悪い評価ももちろんあります。しかし,彼の中にはキリストによってもたらされた救いが確かにあります。私たちは神のしもべなのです。神のしもべは逆転の恵みに生き続ける者たちです。そしてその逆転を可能にするものこそ,キリストの十字架なのです。
[考えるために]
「いま」はキリストにあって,どのような時と言えるのでしょうか。
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2008/5/4礼拝メッセージ
2008年5月4日の礼拝メッセージの要約です。
申命記4:32~40
「きょうに至るこれまで」
1. 申命記とは
申命記は,モーセの遺言と言われる書です。イスラエルの40年もの荒野を彷徨う旅の終着の時,そこで語られたメッセージが申命記です。モーセは,これまでの40年の彷徨いの歴史を振り返ります。そこにある過ちの歴史。しかしそれは神の憐れみと確かな守りの歴史でもありました。
2. イスラエルの失敗
もし彼らが失敗しなかったら,誰もがそう思うことでしょう。しかし,聖書における人間の前提は,人は必ず失敗する罪深い存在だということです。ただの成功神話が聖書に記されているわけではありません。約束の地を前にして主への信頼を失った者たちは,生きて約束の地に入ることはかないませんでした。しかし,彼らの子孫は約束の地に入ることを許されました。なぜなら,イスラエルの民は荒野を歩む中で,神とともに歩むことを学び,み教えを受け,それを子供たちに教え伝えたからです。このようにしてイスラエルの民全体が神の救いに与かりました。
3. 過ぎ去った時代に聞く
この40年の月日を振り返ってみなさいと神はいわれます。その時,不信仰に陥いりながらも,神が確かに導き守ってくださった神の姿を認めることができます。なぜ,この40年の間,失敗に始まった神の民の歩みが守られ導かれてきたのでしょうか?それは,主だけが神であることを知るためであり,あなたを訓練するためであり,主があなたを選ばれたからだと,神は言われたのです。
4. 私たちの歩み
教会の歩み,そして神を信じる私たちの歩みも,まさにイスラエルの民と同様です。イスラエルの民と同じように,過ぎ去った時代を振り返るとき,そこに神の守りと赦しが確かにそこにあることを私たちは見出すのです。そのことを覚えつつ,私たちは「今日」という時に立つのです。私たちも今日という日に,主だけが神であり,そして主が命じた教えと約束を心に留めたいと思います。これこそ,私たちが,この地上を歩むときの大切な心得なのです。
[考えるために]
過ぎ去った日をもう一度振り返りましょう。
今日という日に,神様はあなたに何を語ってくださっているのでしょうか?
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メインページへ2008/4/27礼拝メッセージ
2008年4月27日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:15~17
「幼子のように」
1. 連れてこられた幼子たち
イエスから祝福を受けようと,人々がその幼子たちをみもとに連れて来ました。彼らは,当時の慣例にしたがって,子どもたちに祝福を祈っていただこうとして,イエスのそばまで,子どもたちをつれてきたのです。その多くは乳飲み子であったことでしょう。この幼子たちは,「連れてこられた」子どもたちです。しかし,この微笑ましい光景も弟子たちに遮られました。しかし,この時代において,弟子たちの行為は常識的な行動でもありました。子どもの順番は,一番最後だったからです。しかし,イエスは幼子たちを呼び寄せます。イエスはここで当時の常識を覆して言いました。神の国はこのような者たちのものだと。神の基準は一体どこにあるのでしょうか。
2. 神の国にふさわしいもの
イエスは言われました。子どもたちのように神の国を受け入れる者,それこそが神の国に入るものである,と。では「こどものように」とはどういうことでしょうか。子どものように「素直に」「疑うことをせず」ということでしょうか。この当時の子どもは「低い者」でもあります。そして,この子どもたちはイエスの前に連れてこられた者たちです。この子どもたちは受動的な存在です。子どものように神の国を受け入れるとは,子どものように素直に,疑わずに信じるということだけではありません。親に連れられて,またイエスに呼ばれたときに,そこに連れ出された最も謙った存在としての子どもたちの姿。その姿こそ,神の国に入るにふさわしいのです。
3. 謙遜
真に謙るとはどのようなことなのでしょうか。それは,見せかけの謙遜さとは違います。また,逆に自分を卑しめることとも違います。この幼子たちは,そのようなどちらの謙遜さとも無縁の存在です。そして,神の国に入るには,子どものようにそこまで連れていってもらう存在でなければなりません。いったい誰に連れていっていただくのでしょうか。そう,それは神になのです。私たちは子どものように,全面的に神にゆだねる者とさせていただきましょう。
[考えるために]
幼子のようになるとは,どのようなことでしょうか?
神の国にはどのように入るのでしょうか?
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メインページへ2008年05月02日
2008/4/20礼拝メッセージ
2008年4月20日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:9~14
「自己義認という課題」
1. 自己正当化と他者との比較
イエスは神にある本当の救い,罪の赦しは,決して人の目に見えるものによってではないことを明らかにされました。私たちには神の救いが必要なのです。しかし,私たちは自己正当化によって,自分は罪人ではないと思い,神の救いは必要のないものだと考えてしまうのです。また,私たちは他の人との比較によって,自分の正当性を保とうとします。比較とは他者との違いだけではありません。人と同じだから安心することも比較に入るでしょう。そして私たちは自分とは違う人に対して赦すことのできない者でもあるのです。
3. ふたりの人
パリサイ人と取税人がたとえに登場します。パリサイ人は自己正当化と他人との比較を祈ります。まさに自己義認の祈りです。自分の行動や言動は正しい,自分は正しい側にいるとこの人は考えています。しかし彼の基準は神にはありません。彼の基準は人の作り出した基準です。その一方で取税人は何を祈ったのでしょうか。取税人は遠く離れて立ち,目を天に向けようともせず,自分の胸をたたいて祈りました。「こんな罪人の私をあわれんでください。」この祈りの中には,他の人は登場しません。彼は目を天に向けようともしていません。なぜなら,それは今目の前にいる「神」を意識しているからです。そこには聖なる神を前にした「恐れ」や「おののき」があります。
4. 義とされたのは・・・
イエスは取税人が義と認められたと語りました。私たちが自分の正しさや基準,またプライドなどにしがみついている限り,私たちはパリサイ人でしかありません。私たちが義と認められ,高く上げられるのは神のあわれみのゆえです。そして,救いを可能にしたのは,十字架の贖いのみ業なのです。私たちは根本的に自己義認の弱さを持っています。だからこそ,私たちはキリストの十字架の赦しを見続けることが必要です。神のあわれみを受けた者として,いつでも神の前に謙らせていただきましょう。
[考えるために]
私たちの中に潜む自己義認の弱さは,どのようにして乗り越えられるのでしょうか。
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メインページへ2008年04月23日
2008/4/13礼拝メッセージ
2008年4月13日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:1~8
「いつでも失望しないで」
1. いつでも祈る必要
ここは17章とつながりを持って読むべき箇所です。私たちが,神の国へと歩み始めたのならば,後ろのものを振り返らずに,神の国へと歩みを進めていきなさいとイエスは語られました。そして,私たちが後ろを振り返らないために,私たちは「いつでも祈る必要がある」のです。
2. 不正な裁判官
不正な裁判官でさえ,ひとりのやもめの絶え間ない訴えを聞くとのたとえをイエスは語りました。それでは正しい神はどうなのでしょうか。神は不正な裁判官とは比べようもないほど,正しく,愛にあふれ,知恵に満ちています。その神が,あなたの祈りを聞かれないだろうか?当然,神はその祈りを聞かれるのです。
3. 何を祈るのか?
この祈りは,たとい苦難が目の前にあろうとも,神の国へと歩みを進めるための祈りです。ここでの祈りは,「御名があがめられ,御国が来ますように」との祈りでもあります。しかし,そうは言っても,そのような祈りは,私たちの日常とはかけ離れているように感じるのではないでしょうか。しかし,神の国はどこから始まるのでしょうか?それは多くの場合,病人や罪人からであり,やもめや貧しい人,痛みを知る人,放蕩した弟,迷い出た羊からです。私たちのほんの些細な日常の中で,絶え間なくやってくる困難や苦悩,なすべき仕事,人間関係,そのような中で,私たちはイエスが言われるようにいつでも祈るべきなのです。どんな些細なことにおいても,主は必ずそこにご自身の正しさを,またご栄光を表してくださるのです。
4. 人の子が来たときに
イエスは最後に言われました。「しかし,人の子が来たとき,はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」これは,私たちに対する問いかけと同時に,希望の言葉でもあります。イエスが再び来られるときに,神にあって,地上に信仰は見出すことができるでしょう。私たちの望みは,私たち自身にではなく,神にあるのですから。
[考えるために]
神の国はどこから始まるのでしょうか?
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メインページへ2008年04月11日
2008/4/6礼拝メッセージ
2008年4月6日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書17:22~37
「前へと向かって」
1. 人の子の日
人の子の日,神の国の完成の時を見たいと願っても見れない時が来るとイエスは弟子たちに言われました。イエスは,神の国が来るその前に,教会は苦しみ,悲しみに直面するということを教えられたのです。事実,キリストの弟子たちは苦難を通りました。そして,その時には誤った教えも次々と出てくるようになります。しかし,イエスが再び来られるときは,すべてを輝き照らす「いなずま」のように来ると語られています。必ずイエスの栄光が照り輝く日がやがて来るのです。
2. 必ずそこにある苦難
しかし,その栄光の時の前に,苦しみの時がやってきます。そして,そのときのことを,旧約にあるノアとロトの物語からさらに明らかにされています。救いの完成に向かう間,それもまた救いの時であると言えますが,それは同時に苦しみの時でもあります。しかし,ここで重要なことは,ロトの妻のように後ろのものを振り返ってはならないということです。それは,救いの言葉を聞いた後の私たちの生き方の問題でもあります。人の子の現れる日がいつかは,はっきりと分かりません。しかし,その日は必ず来ます。しかし,その日を迎える前に,私たちは必ず苦しみを通らされ,さらに救いの言葉を見失わせるような現実や言葉を聞くことになるのです。
3. 前に向かって
私たちは救いの完成へと向かうこの時代にどのように歩んでいるのでしょうか?後ろを振り返らずに,神の方へと歩みだしているでしょうか?苦しみを前にしてもなお,救いの完成の時を待ち望んで歩んでいるでしょうか?私たちが大事にするべきことは,どんなときでも,やがて来る神の国の完成の時を見つめて,十字架に完全な希望を置いて歩むということです。今目の前に苦しみ,痛ましい現実があったとしても,私たちは救いの完成の時に向かって着実に進んでいるのだということを覚えさせていただきましょう。
[考えるために]
あなたは何を望みに歩んでいるのでしょうか?
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メインページへ2008/3/30礼拝メッセージ
2008年3月30日の礼拝メッセージの要約です。
ローマ人への手紙12:12
「ともに祈る祈り」
1. 第一の奉仕
私たちの第一の奉仕は,主の日に時間をささげ,身体をささげ,心をささげ,聖霊にうながされて集い,ともに父なる神を覚え,イエス・キリストの十字架に感謝する礼拝をささげることです。また,神の民である私たちの歩みは,恵みの神が先行し,私たちは主に心から従うという歩みです。
2. 両輪
恵みの神が先行し,主に心から従う。この単純なあり方に,なぜ私たちは向かうことができないのでしょうか。その原因のひとつは「恵みの神の姿」をはっきりと捉えていないことにあります。もうひとつの原因は,私たちの側に主に従う備えがないということです。その現状への打開策とは何でしょうか?それは「みことばと祈り」です。これが信仰生活の両輪なのです。
3. 祈り
祈りは,神の恵みにお応えすることです。神の語りかけに応えるという循環こそ,私たちの信仰を生き生きとしたものにする秘訣です。祈りとは何でしょうか?祈りとは,私たちの願いであり,叫びともいえます。祈りにおいて重要なことは,祈りにあなた自身をささげているか,ということです。祈りの中で,深くみことばをめぐらせ,神のみこころを求める。それは神と呼吸をあわせていくことでもあります。しかし,それでも問題は残ります。しかし,真の問題は個人の問題ではないのです。
4. ともに祈る
「祈り」は個人だけのものではありません。聖書において祈りとはともに祈ることをも指しています。私たちは,ともに神のみこころを求めて祈っているでしょうか。この世と神の国の狭間である教会において,私たちはいつでもともに祈るものとさせていただきましょう。私たちがともに祈るそこに主はおられるのですから。
[考えるために]
ともに祈るときをもっているでしょうか?
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メインページへ2008年03月29日
2008/3/16礼拝メッセージ
2008年3月16日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書17:20~21
「神の国はどこに」
1. 人々の関心
「神の国はいつ来るのか?」これは当時の人々の関心事でもありました。彼らはメシアの到来を待ちわびていました。しかし,彼らにとっての神の国は王国の復興を意味していたのです。その王国はどのようにして到来するのでしょうか。パリサイ人の結論は,神の命令を守ることでした。つまり律法を守ることによって,神の王国が自分たちの手にもたらされると信じたのです。
2. 律法の意味
しかし,もともと律法は神の民としての契約のしるしということでした。神の民として神の基準に生きるようにと神が与えてくださったみ教えでした。しかし,パリサイ人は,それを単なる手段に貶めてしまったのです。ですから,神の国はいつ来るのかという問いは,彼らにしてみれば自然に出てきた疑問だったのです。
3. イエスの答え
しかし,イエスの答えは彼らの思いとは異なりました。神の国は,人の目で認められるようにして来るものではないというのです。神の国はあなたがたのただ中にあると答えられました。それは人の心ということだけを意味してはいません。これは,神の国はあなたがたの間に「今」あり,そして,これからもあり続けるという言葉です。もう,神の国は来ているというのです。
4. 神の国
イエスが来られたときに,神の国は近づきました。そして,イエスが十字架で死に渡され,そして復活したときに,すでに神の国は私たちのところに到来したのです。私たちはキリストを信じる信仰によって,神の国の民とせられます。私たちは,神の国の民として生きるようにと導かれているのです。私たちが,この神の恵み,十字架の恵み,神のみ思いに目が開かれ続けていくときに,私たちは今ここに,この教会に神の国があることを信仰によって見ることができるのです。
[考えるために]
神の国はどなたによってもたらされるのでしょうか。
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メインページへ2008年03月26日
2008/3/9礼拝メッセージ
2008年3月9日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書17:11~19
「9人と1人」
1. サマリヤとガリラヤの間
10人のツァラアトに冒された人の話です。この場面,イエスはエルサレムへと向かっていく途上にありました。イエスはサマリヤとガリラヤの境を通られたとあります。実際のところここがどこであったのかは明確に示されてはいません。しかし,この表現も,当時の教会を意識しているのではないかと思わせるものです。正しさの尺度の違う人々が集う群れの真ん中を通られるイエスの姿。教会は常にイエスのことば,イエスの歩まれた姿に根拠をおいてきたのです。
2. 10人のいやし
ある村の十人のツァラアトに冒された人がイエスを見かけます。彼らはイエスと出会い,そしてこう声をかけられました。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」その10人は,祭司のところに行く途中できよめられました。しかし,問題はこの後です。10人のうち,すぐにイエスの元に引き返してきたのは,ただ一人だけでした。そして,その一人は,サマリヤ人だったのです。
3. 正しさを求めて
祭司に癒されたことを認めてもらうことは,当時の人々にとって正しい行為でした。しかし,癒されたことを知ったときに,この9人は何を優先したのでしょうか。彼らは正しい行いを優先しました。しかし,サマリヤ人はどうだったのでしょうか。彼は,イエスのみわざにふれた時に,神をほめたたえ,イエスの足元にひれ伏し礼拝することを選びとったのです。
4. 真のいやし
10人すべてがきよめられました。しかし,神との正しい関係を持つことができたのは,ただ一人のサマリヤ人だったのです。このサマリヤ人は,イエスから救いの宣言を聞きます。それだけではなく,彼はここから遣わされていったのです。私たちも,イエスを信じる信仰によって,神とのあるべき関係を持ち続けてまいりましょう。
[考えるために]
この一人の人は,何に気がついたのでしょうか?
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メインページへ2008年03月19日
2008/3/2礼拝メッセージ
2008年3月2日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書17:7~10
「しもべの姿」
1. 役にたたないしもべ
「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」謙遜さの極地と言ってもいいすぎではありません。この箇所から,奉仕のあるべき姿を教えられることでしょう。しかし,それだけで,ここを読むわけにもいきません。なぜなら,この箇所も前節とつながりのある箇所だからです。それは「誤った教え」,つまり「行いによる救い」という人の作り上げた枠から,私たちをその外に置くということでもありました。救いは,イエスを信じる信仰による救い以外にはありません。そこには,一切の妥協も,一切の混ぜ物もしてはならないのです。
2. しもべのたとえ
しもべが野に出て仕事をしてきました。主人は,その働きに対して,過度に感謝するでしょうか?いいえ,しないでしょう。そのしもべは言いつけられたことをしたに過ぎません。つまり,このしもべが正しいことをしたからといって,主人からしもべが受けるである待遇以上のものを得るわけではありません。正しい行いによって,このしもべは,主人である神から特別待遇をされるわけではないのです。
3. 私たちの務め
私たちは,神がデザインし,生かし,守ってくださらなければ存在し得ない者たちです。私たちは,ただ神によって与えられた務めを果たしているにすぎません。しかし,いつでも,私たちは与えられた救いや(神の子としての)身分に,混ぜ物をする危険性があります。しかし,イエスが語られたのは,主の前にへりくだる者,自分を罪人とし,ただ神のあわれみにより頼み,神の救いを待ち望む者に救いを与えるのだということでした。私たちは,救いを与えてくださる十字架を絶えず見続けなくてはなりません。その時に,私たちは,与えられた生涯,働き,能力,財産,そのすべてが神が私たちに与え,ゆだねてくださったものだと理解することができるでしょう。そして私たちは自分は役に立たないしもべですが,喜んで,その務めをさせてください,と口にすることでしょう。私たちは,与えられた務めに対し,希望と勇気を持って向かい続けてまいりましょう。
[考えるために]
私たちの救いの根拠はどこにあるのでしょうか。
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メインページへ2008年03月13日
2008/2/17礼拝メッセージ
2008年2月17日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書17:1~6
「つまずきと赦し」
1. つまずきを起こす者
この箇所は,直接教会に語られている箇所です。テーマは「つまずきと赦し」です。イエスは,教会において「つまずきが起こるのは避けられない」と言いました。つまずきとはいったい何でしょうか。ここでは「誤った教え」のことを指しています。「誤った教え」。それは教会において数多く起こってきたことです。ここまで,イエスが解き明かした救いとは,「罪人の悔い改めとその赦し」です。そして,その救いは,主イエスを信じる信仰によって与えられるものです。その対角にあるものこそ,つまずき,誤った教えなのです。その代表的なものこそ「行いによる救い」です。私たち全ての人は罪人です。だからこそ私たちは神のあわれみを受け,素直に,悔い改めなくてはなりません。信仰による義ではなく,行いによる救いが教会の中に起こるのは避けられません。しかし,一番の問題は,あなた自身がその誤った教えに留まってはいないか,ということなのです。
2. 赦しを与える者
では,もし兄弟が罪を犯したのならば,どうすればいいのでしょうか?当時の教会ならば,もし律法に背く者がいるならばどうすればいいのか,ということになるでしょう。その人を,教会から排除するのでしょうか。しかし,イエスはこう言いました。「赦してやりなさい」。ここでイエスが強調しているのは,相手を「赦しなさい」ということ。なぜなら,私たち自身こそ,行いによってではなく,ただ信仰によってのみ赦され続けているからです。だからこそ,私たちは何度でも相手を「赦しなさい」と迫られているのです。
3. からし種の信仰
しかし,これは容易なことではありません。そして,またこのことは,信仰の大きさや強さによってなるものでもありません。本物の神が与える信仰があれば,たといからし種ぐらい小さなものであっても,神の正しさと赦しを表すことができる,そうイエスは言われました。私たちは,信仰による義ということを,恐れをもって,また,深い感動を持って受け止めさせていただきましょう。この信仰こそが,私たちの立つべき所なのです。
[考えるために]
イエスが教えられた信仰とは何でしょうか?
私たちが救われるために必要なことは何でしょうか?
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メインページへ2008/2/10礼拝メッセージ
2008年2月10日の礼拝メッセージの要約です。
この日は,吉澤慎也神学生にメッセージをしていただきました。
ハガイ書1:1~15
「神殿再建」
1. テキスト
[時代背景]
B.C.586 エルサレム陥落。バビロン捕囚。(Ⅱ列王記25章)
B.C.538? ペルシャ王クロスによる解放令。ゼルバベルの帰還。(エズラ1章)
B.C.537? 神殿再建着手。その後中断。(エズラ3,4章)
B.C.520 神殿再建事業再開。(ハガイ書)
B.C.516 第二神殿完成。(エズラ6:15)
イスラエルの民は「主の宮を建てる時はまだ来ない」(2節)と言って、神殿再建工事に取り掛かろうとしなかった。経済的困難が民の言い訳だったが、主は「それは、廃墟となったわたしの宮のためだ」(9節)と言い、神殿をそのままにしておいたために経済的に苦しい状況を招いたのだと指摘する。実際に民は、神殿再建よりも自分の生活のことに関心があった。そこで主は宮を建てるよう言われる。「そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう」(8節)。民は悔い改め、「彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった」(14節)。
2. 神殿再建
神殿とは神を礼拝する所。そこには神の臨在と神との交わりがある。それでは、今の自分にとって神殿再建とは具体的に何を意味するだろうか。自分と神様との関係において、再建しなければならない何かがあるだろうか。
①現状考察(5,7節)
自分の現状をよく考えることは意味がある。それによって、自己中心の罪が示されるかもしれない。自己犠牲の中にこそ主の栄光が示される(8節)。
②再出発(12~14節)
やり掛けの仕事に再び取り組むことは、より大変なことである。けれども主は、宮を建てよと言われた(8節)。その主の約束は「わたしは、あなたがたとともにいる」(13節)。たとえ挫折の連続でも、イエス様は決して私たちをあきらめない。高齢のハガイの姿勢にも励まされる。私たちも神殿再建のために再出発させていただきたい。
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2008/2/3礼拝メッセージ
2008年2月3日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書16:19~31
「大きな淵」
1. ある金持ち
このたとえの「ある金持ち」とは,イエスの話を笑った「金の好きなパリサイ人」たちのことでしょう。彼らは自分で自分を正しいとする人々でした。それは,神という存在を抜きにした時の,人間の姿そのものです。絶対的な存在である「神」を無視したとき,人間は,神以外のものを絶対化する傾向があります。目に見えるものや権力,富,それらを私たちは「神」とすりかえてしまうのです。
2. 平等に訪れる死
貧しい人の名はラザロ。名前の意味は「神が助けてくださる」。彼は,「罪人」の代表であり,神の救いを待ち望んでいた人であることが名前によって物語られています。この二人にも平等に死がやってきました。この箇所は,死後の世界をイエスが説明したものではありません。ここは,当時のユダヤ人が信じていた死後の世界を土台として,イエスがメッセージを伝えようとしている箇所です。当時の人々は,死後魂がハデス(陰府)に置かれると考えていました。そしてそれは天にある幾つかの層の一つと考えていました。パリサイ人は,自分だちが天で上の層に行くと考えていたのです。これでは天でも上下があり,この世とあまりかわらないようです。
3. 金持ちの願い
金持ちはアブラハムに,ラザロを自分のところに送るように願いました。しかし,答えは冷たいものでした。ラザロをそこに送ることはできない。ここでイエスは,「死んだ後では,その生き方を訂正することはできない」そう言っておられるかのようです。金持ちは,これを聞いて違うリクエストをし始めます。それは,まだ生きている兄弟に,警告をしたいということでした。しかし,アブラハムはこう答えるのです。彼らには旧約聖書,つまり神が語り続けてきたみことばがあるではないか,と。
4. 聞き入れるということ
金持ちはねばります。死者の警告を聞くならば,彼らは悔い改めるに違いない。最終的なイエスの答えはこうでした。もし,神の言葉に耳を傾けなければ,誰かが死人の中から生き返っても聞き入れはしない。自分の正しさから抜け出すことができなければ,神のことばを聞き入れることはできない。すでに必要なことは神から十分に語られているのです。
[考えるために]
私たちは,神のことばを聞き入れているでしょうか?
聞かない者やただ聞くだけのものになっていないでしょうか?
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メインページへ2008/1/20礼拝メッセージ
2008年1月20日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書16:14~18
「神は心を知っておられる」
1. 不正な管理人のたとえ
不正な管理人のたとえをイエスは人々に話しました。あなたは,神を信じ仕えているようでいて,その実際は別の主人に仕えているのではないか,そう問いかけられました。その問いに対して,パリサイ人たちはイエスをあざ笑いました。彼らにイエスは言われました。あなたがたは,人の前で自分を正しいとする者だ,と。
2. 心を知るお方
神はあなたがたの心をご存知であると,イエスは言われました。神が,この私の心を知っておられ,今何を一番としているのか,私の心の奥底まで知っておられる・・・。このことを私たちが受け止めるとすると,安心以上に恐れを感じるのではないでしょうか。イエスはこう言われました。「人間の間であがめられるものは,神の前で憎まれ,きらわれます。」神が最も憎まれるものは「偽善」です。この偽善は,容易に私たちの内にも入り込んでくるものです。偽善は私たちが神を侮ることから始まります。
3. 神のことばの本流へ
バプテスマのヨハネ以降,イエスによって,神の国の福音は述べ伝えられ,多くの人が救いへと招かれています。その一方で,パリサイ人たちは,イエスは律法を壊すものだと感じていました。しかしイエスは言います。「律法の一画が落ちるよりも,天地の滅びるほうがやさしい」と。そして,イエスは離婚に関する問題を取り上げて,人々に誤りを気付かせようとしました。当時,様々に解釈された離婚を正当化する教えに対し,神が定めた秩序と権威へと,人々をイエスは導こうとされたのです。私たちの罪の根はどこにあるのでしょうか。それは,私たちが安易に,神のことばを言い換えてしまう所から始まるのです。神はあなたの心を知っておられます。私たちの心を知るお方の前に,私たちはへりくだらせていただきましょう。
[考えるために]
偽善は私たちのどのような態度から生じるのでしょうか?
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2008/1/13礼拝メッセージ
2008年1月13日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書16:1~13
「抜け目ない管理人」
1. 難解なたとえ?
不正な管理人が主人から解任されるとの宣告を受けます。そこで,この管理人は,次の職を得るために策を講じることにしました。債務者たちに貸しをつくり,次の職を得ようとしたのです。これは決して誉められた行動ではありません。しかし,この不正な管理人は,主人から誉められるのです。このたとえは難解なものなのでしょうか。
2. 全てのものは神のもの
明らかに,イエスはここでも不正な管理人のことをほめているように見えます。しかし,このたとえは,言わば「皮肉」というスパイスがきつくかかったたとえ話です。ですから,10節以降が重要です。不正の富,小さい事,これはこの世の富のことを指しています。そしてまことの富,これは大きな事のことです。私たちは,ふたりの主人に仕えることはできないのです。神にも仕え,また富にも使えるということはできません。私たちは,神から多くのものをゆだねられています。そして,全てのもの,それは小さい事も,大きな事も神に属することです。しかし,私たちは,どこかで自分勝手に区切りをつけ,与えられたものを自分のものだと思ってしまうのです。
3. イエスに問われていること
このたとえは決してほめられた内容ではありません。しかし,この管理人は,最後の場面で,一番大切なことに気がつきます。それは,お金ではなく自分自身のいのちです。そして彼は何とかしようとするのです。イエスは,決してこのような管理人の行動を肯定しているわけではありません。そうではなく,本当に大事なことは一体何なのか,という問題提起をしているのです。あなたは,表面的に取り繕ってはいないか?実は,この不正な管理人よりも,私たちは何もしていないのではないか。神の前に,全ての人はこの不正な管理人のようではないだろうか?それなのに,まだ,あなたは表面を取り繕い,そのままの生き方をするのか?そう問われているかのようです。小さい事も,大きな事も,全ては神のものなのです。
[考えるために]
神があなたに与えているものは何でしょうか?あなたはそれを適切に管理しているでしょうか?
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2008/1/6礼拝メッセージ
明けましておめでとうございます。
今年も神への礼拝から,与えられた日々を始めてまいりましょう。
2008年1月6日の礼拝メッセージの要約です。
民数記13:30
「必ずそれができるから」
1. 主の約束
「必ずそれができる」この言葉は,どのような場面で語られたのでしょうか。この言葉は民数記にあります。この書では,特に重大な事件が取り扱われています。それは,イスラエルの大いなる挫折です。エジプトの脱出の始まりは「わたしは,アブラハム,イサク,ヤコブに与えると誓ったその地に,あなたがたを連れて行き,それをあなたがたの所有として与える」との主の約束でした。
2. 主の命令
エジプトを脱出して,いよいよカナンを前にした時,主は命じました。その土地に入る前に斥候を送れ,というのです。選ばれたのは民の族長でした。彼らの報告は,すばらしい知らせとともに,とても残念なものでした。土地はすばらしい,しかし,そこに住む人々はかなり手強そうだったのです。この報告を聞き,民は揺れ動きます。そのような時,カレブによって口にされた言葉が「必ずそれができるから」でした。それと反対に,他の族長,そして民は,主への不信へと陥ってしまうのです。
3. 神への信頼
この不信が,神の怒りを招きます。彼らはこの後40年という歳月,荒野をさ迷うことになるのです。「必ずそれができるから。」この言葉は,それが必ず成功するという約束の言葉ではありません。この言葉は信仰告白です。神の約束に対する絶対的信頼。それは,自分たちの力がそれを可能にするか,どうかを見つめていては出てきません。ただ,神の言葉の確かさを彼は見つめていたからこそ,この言葉を口にすることができたのです。
4. 神のくださるもの
私たちに神が約束してくださったものはなんでしょうか。神が聖書を通して啓示した約束は,私たちが天の御国,神の国へと導きいれられるということです。「必ずそれができるから。」この言葉は,私たちの生涯をかけて,口にし続ける信仰告白の言葉です。この年も,主を信頼していきましょう。
[考えるために]
神が私たちにくださる約束とは,何でしょうか?
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2007/12/23礼拝メッセージ
2007年12月23日の礼拝メッセージの要約です。
マタイの福音書2:1~12
「一歩一歩たどりつく旅」
1. イエス誕生の時代
イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。人口500人足らずの田舎町ベツレヘムにイエスは誕生しました。東方の博士たちはそこにやってきます。博士たちは,魔術師,占星術師であり,彼らは異教徒中の異教徒でした。しかも,どこの国から来たかも書いていません。しかし,彼らは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を一目見ようと旅してきたのです。
2. ユダヤ人の王
「ユダヤ人の王」この言葉には意味があります。この時の王はヘロデでした。しかし,博士たちは「ユダヤ人の王」が別にいると言っています。当時各地に離散していたユダヤ人たちは,メシア(救い主)をさして「ユダヤ人の王」と呼んでいました。博士たちは「ユダヤ人の王」つまりメシアを探しにやってきたのです。
3. 根拠はどこに
彼らの根拠は何であったのでしょうか?それは,彼らの信じていた宗教,知恵,思想に基づいた結論でした。しかし,彼らは,そのお方がどこにいるのかまではわかりませんでした。しかし,エルサレムにやってきて,この博士たちは新たな情報を得ます。それが「聖書のことば」でした。そして,博士たちは幼子イエスにまでたどり着き,そこで礼拝をささげました。
4. 私たちもまた
ある者はイエスを恐れ否定し,ある者はこの世の権威にひれ伏します。しかし,心から真理を求める者に神は応えてくださるということを,博士たちを通して私たちは知ります。彼らは,救いを,そして神ご自身を求めたのです。しかも,彼らは求めるだけでは終わりませんでした。彼らは求めて旅立ったのです。さらに,一歩一歩真理へと,キリストへと近づいていきました。神は真理を求める者には,聖書をもって教えられます。そして,その真の光こそ,イエス・キリストなのです。
[考えるために]
あなたは心から神を求め,救いを求める者でしょうか?祈るものでしょうか?
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メインページへ2007/12/16礼拝メッセージ
2007年12月16日の礼拝メッセージの要約です。
マタイの福音書1:18~25,イザヤ書7:1~14
「神がともにいてくださる」
1. イザヤの時代
「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは,イザヤ書に記されている預言です。イスラエルが北王国と南王国とに分裂していた時代,アハズ王の時代でした。敵対するアラムと北王国イスラエルとが,エルサレムにのぼってきて,ユダを攻めてきました。アハズ王と国の民は非常に動揺します。そこでイザヤが神のことばを語ったのです。
2. アハズの不信仰
イザヤは,アハズに神があなたがたを守られると告げます。そして,「あなたの神,主から,しるしを求めよ」と語られました。しかし,アハズはその主のことばに応えなかったのです。「私は求めません。主を試みません。」しかし,それはアハズの不信仰から出たものでした。彼はアッシリアに助けを求めました。このアハズの行動が,ユダ王国の崩壊を加速させることとなりました。そのような中でイザヤはキリストの預言を語ったのです。
3. 罪ある人間の姿
アハズの姿は,一人の人の姿というだけではなく,ユダの国全体の,さらには,私たち人間の堕落した姿でもあります。外見は取り繕い,あなたに従います,と形だけは見せる。しかし,実際に取る行動は,目に見えるものにより頼み,それによって,現状を打開しようとするおろかな人間の姿です。いつも聖書が私たちに語りかけるのは,主なるまことの神にゆだねなさいということです。
4. 私たちに与えられたしるし
「主みずから,あなたたにひとつのしるしを与えられる」神みずからがひとつのしるしを与えるという,これが,主が下した結論でした。イエスは「インマヌエル」と呼ばれます。それは「神は私たちとともにおられる」という意味です。神は,私たちが不完全であることを承知の上で,自らがひとつのしるしを私たちに送ってくださいました。それが,私たちに与えられたこの唯一のしるし,イエス・キリストそのお方なのです。
[考えるために]
私たちとアハズの共通点はどこにあるのでしょうか。
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メインページへ2007/12/9礼拝メッセージ
2007年12月9日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書15:25~32
「父と兄」
1. もう一人の主人公
放蕩生活を送ったすえに,父のところに戻ってきた弟。その弟が帰ってきた喜びの宴の途中で,兄は仕事から戻ってきます。彼は,この宴の様子を聞いて怒りだします。彼はすっかりふてくされて家に入ろうとはしませんでした。この兄のところにも父は来ました。しかし,兄は父の言葉を受け入れませんでした。この兄は,弟とのことを,名前でも,また「私の弟」とも呼びません。彼は今や弟を自分の弟とは認めてはいないのです。
2. 兄の怒りと父の思い
兄が怒っているのなぜでしょうか?それは当然の怒りなのでしょうか。しかし,大事な点が見落とされています。それは,父の思いです。この兄は,まったく父の思いを見てはいません。これまでの兄を支えてきた動機は何だったのでしょう。兄は父と一緒にいました。しかし,この兄は父の思いを,願いを知ろうとしていたのでしょうか?もし,彼が父の思いを知っていたのなら,どのような言動をとったのでしょうか?
3. 父の答え
父の答えは,「私のものは,全部おまえのものであり,弟もおまえの弟だ」というものでした。これこそが,私の心だ,そう父は兄に語りかけたのです。私たちもまた,父なる神のみ思いに心を寄せているでしょうか?すべての人が救われ,すべての人が真理を知ること,これこそ,父なる神の願いです。父の近くにいたにもかかわらず,兄は父の心を知りませんでした。知ろうとしていなかったのです。私たちも,失われた弟を探そうとしている父の思いを知り,そして,見つかった弟を喜んで迎え入れる者でありたいと思います。もう一度,この父なる神のみこころを私たち自身の心とさせていただきましょう。
[考えるために]
父なる神の思いと願いは何でしょうか?
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メインページへ2007年12月09日
2007/12/2礼拝メッセージ
2007年12月2日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書15:11~24
「父と弟」
1. 二人の息子
ここには二人の主人公がいます。前半は弟が主人公です。ある日,弟が父に財産の分け前をもらいます。そして,弟は遠い国へ出かけていき,そこで放蕩の限りをつくし,分け前をすべて使ってしまうのです。しかし,その生活は長くは続きません。大飢饉がおこり,彼は食べるものにも困り始めます。とうとう,彼は豚の世話をするようになり,みじめな状態に陥るのです。
2. われに返る弟
そして,とうとう彼はわれに返ります。自分がいったい何者で,どこから来た者なのかを思い出すのです。彼が思い出したのは,遠く離れた父の家のことでした。そして,彼は家に帰ります。この弟は,神から遠く離れた私たちのことです。私たちは,神から多くのものを与えられているにも関わらず,神から遠く離れたところで,自分勝手に生きています。しかし,そこに不測の事態がやってくるのです。私たちの力や考えをはるかに超えた困難。そして,ようやく自分の力ではどうしようもないことに気がつくのです。
3. われに返る私たち
「われに返る」とはどういうことでしょうか。私たちがわれに返るとは,この私はどこから来て,そして誰のものなのか?ということに気がつくことです。あなたは,神が形作り,神の所有のものであり,神のために生きるのだということ。彼はもう息子となる資格はない,と思います。しかし,それと同時に,あの父の家に帰りたいと強く願うのです。
4. 迎える父
彼が家に帰ると,父は遠くに息子の姿を認め,走りよって彼を抱き,口づけをします。それは毎日遠くへ行ってしまった息子を思う父の姿でした。父は待っていたのです。父からこれまでのことを責めるような言葉を,彼は一言も聞きませんでした。あなたがもし神に立ち返るなら,必ず,神は抱きとめてくださるお方なのです。一人の人が神に立ち返るときに,天で,そして教会で喜びの宴がはじまります。帰るべき所を見出した人は幸いなのです。
[考えるために]
「われに返る」とはどのようなことでしょうか?私たちの帰るべき場所はどこにあるのでしょうか?
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2007/11/18礼拝メッセージ
2007年11月18日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書15:1~10
「よい羊飼い?」
1. 慰めに満ちた羊飼い
失われた一匹の羊をかつぐイエスの姿。この姿にどんなにか,私たちは慰められてきたことでしょう。ここでも,一人の罪人が救われることの天にある喜びが語られています。しかし,ルカの福音書においては,ここでもコントラストを意識して読むべきでしょう。つまり,一人の罪人と99人の正しい人との対比です。
2. 残される99匹
100匹の羊を持っている人が,その群れに羊が一匹足りないということに気がつきます。その人は,どのような行動をとったのでしょうか?何と彼は99匹を残して,一匹を探しにいくことにしたのです。これは果たして賢明な方法なのでしょうか?この人は,99匹を残して,一匹を探しにいきました。つまり,この人にとっては失った一匹の方が,99匹よりも重い価値があったのです。この人のとった行動は,現実的にはあまり懸命なものではないでしょう。
3. 見つかった喜び
この人は,失われた羊が見つかると,大宴会を開いて人々と共に喜びます。もう一つのたとえ話でも同じです。一枚の銀貨を見つけた女性もまた,近所の人を招いて喜びを分かちあうのです。どちらのたとえ話も失われた物が見つかったときの大きな喜びについて,私たちに教えています。
4. 神の愛
残された99匹はどうなってしまったのでしょうか。イエスは言います。「ひとりの罪人が悔い改めるなら,悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」悔い改める必要のない正しい人,とは誰のことでしょうか。この99人の正しい(と思い込んでいる)人とは,自分は救いを必要としていない,イエスを必要としていない,自分は大丈夫だと思う人のことでしょう。そして,その人々をイエスはどうするのでしょうか。厳しいようですが,イエスは彼らを野原に残すのです。しかし,悔い改める一人の人に対しては,イエスは,どんなことをしても探し出すと言われるのです。
[考えるために]
神の愛とは誰に向けられるのでしょうか?
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2007/11/11礼拝メッセージ
2007年11月11日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書14:25~35
「私たちが支払うもの」
1. 厳しいことば
大勢の人々が,イエスについてきました。しかし,イエスはその人々に対して,気休めを語ろうとはしませんでした。イエスが語ったのは厳しい内容でした。家族をまた自分のいのちを憎むということ,そして,自分の十字架を負ってイエスについていくということ。私たちはこのことを実行できるのでしょうか。
2. 自分の十字架を負うこと
自分の十字架とは,運命や定めということではありません。自分の十字架とは,第一にこの私の「罪」のことです。さらには,その罪がキリストの十字架によって赦されたという第二の意味をも受け取ることができるでしょう。それは,救いの「恵み」です。それでは,家族や自分のいのちを憎むとはどのようなことでしょうか。この時代の人々の考えていた救いの根拠やいのちの価値観はどこに置かれていたのでしょうか。それは,「血筋」であり,また「内と外」という価値観であり,さらには自己義認という問題でした。しかし,イエスが語られたのは,信仰の根拠はそれらのものではなく,十字架にあるということだったのです。
3. まったく足りていない現実
さらにイエスはたとえを話されました。それは,搭を建築する人と戦いに赴く王の話です。そのどちらも私たちは十分に持っていないということが分かります。そして,結論は「自分の財産を全部捨てる」ということでした。私たちは,あなたの周りの全ての自分を支えるもの,自分を支配するもの,自分の価値を作り出していると思われるもの,そのようなものに中途半端により頼むべきではありません。イエスが語られたことは,私たちのいのちの根拠は,ただ十字架の救いにのみある,ということなのです。
4. 塩が塩であるには
キリストの弟子としての塩気とは何でしょうか?正しい言動?また家族?血筋?キリスト者の塩気とは,ただ主の恵みによって私は救われているのだ,という信仰なのです。
[考えるために]
キリストの弟子であり続ける秘訣とは何でしょうか?
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メインページへ2007年11月07日
2007/11/4礼拝メッセージ
2007年11月4日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書14:15~24
「神の国の食卓」
1. 線を引く
安息日におけるイエスの話は続きます。直前にイエスは「誰を食卓に招くべきか」というたとえ話をしました。そこで,パリサイ人たちの内と外とを区別する信仰を非難したわけです。さらにイエスはたとえを語りました。それは,招かれた人々ではなく,招いていない人々を祝宴に招く主人の話でした。
2. 断る理由
それには理由がありました。なぜなら招いた人々が,ことごとく理由をつけてその招きに応じなかったのです。ひどい話です。そして,その理由は人々の勝手な都合でした。事前にすばらしい宴会の時があると知らされていたにもかかわらず,この招かれた人々は自分たちの都合を優先させたのです。彼らは,この主人の誘いを,第一の優先順位とはしませんでした。なぜ,この人々は誘いを断ったのでしょうか?それはまさに「身勝手な思い」としか言うほかありません。
3. 招きに応じた人々
結局,誰がこの主人の宴会へと招かれたのでしょうか。貧しい人,体の不自由な人,目の見えない人,足の不自由な人,そして,さらには通りにいる人々でした。これらの人々は,事前に招かれていない人々です。結局,神の国の食卓につく人々は,身勝手な理由で断る人々ではなく,罪人とみなされた人々であり,異邦人であり,神の前に真にへりくだる者たちなのです。本当に,神の前にへりくだる人,悔い改める人とはどのような人のことでしょうか。イエスによって,神の国への招待状は,すでに私たち一人一人に届けられています。私たちは,神の国の宴会がはじまる時までに,自分の都合を優先させる生き方から,神様のみこころを第一とする生き方へと,方向転換をするように教えられているのです。
[考えるために]
神の招きに応じる生き方とは,どのような生き方でしょうか。
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メインページへ2007年10月28日
2007/10/21礼拝メッセージ
2007年10月21日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書14:7~14
「引き上げてくださる方」
1. 謙遜
パリサイ人の家での食事は続きます。イエスは続けて教えられました。それは「謙遜」ということでした。婚礼の席に招かれたならば,上座にすわってはならない。なぜならば,その後,もっと身分の高い人がきたときに,あなたは恥をかくことになるからだ・・・。日本人にとって,これほどわかりやすい話はないでしょう。とにかくあなたは末席につきなさい,ということがイエスの回答でした。
2. もうひとつのたとえ
「なぜなら,だれでも自分を高くする者は低くされ,自分を低くする者は高くされるからです。」この謙遜さは,私たちが思い描くものと一緒なのでしょうか。ここにはもう一つのたとえばなしが記されています。こちらは「招かれた人」ではなく「招く人」の話です。ここでは,誰を招くかということが問題になっています。貧しい者,からだの不自由な者,足のなえた者,盲人たちを招きなさい,と教えられています。その見返りは,「復活の時」であると語られます。
3. 動機はどこに?
これらのことは明らかに,今ここでの報いではなく,神から与えられる報いをその動機としなさい,ということを意味しています。神の前に立つときに,私たちは自分を誇るものでしょうか,それとも神の前の謙遜さが私たちのうちに見られるでしょうか?
4. 私たちのゴール
いったい誰が低くて,誰が高いものなのでしょうか。神の前で,いったい誰が身分の高いものだと自分のことを主張できるのでしょうか。教会における基準は常に「神」にあります。謙遜な者を高くしてくださるのは「神」です。私たちは,いつも今,自分を高くしたい,今,見返りがほしいと願い求めてしまうものです。しかし,それは,神の国の民,教会の歩むべき心構えとしてはふさわしくありません。私たちはゴールを,今ここに設定してはならないのです。私たちの帰るべきところは神の国にあるのです。
[考えるために]
私たちの基準はどこにあるのでしょうか?
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メインページへ2007年10月14日
2007/10/14礼拝メッセージ
2007年10月14日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書14:1~6
「安息日に求めること」
1. 家を訪れたイエス
再び,イエスはパリサイ人の家へとやってきました。イエスは「招かれざる客」であったかもしれません。ここでは,さまざまな視線が交錯しています。みんながじっとイエスを見つめていました。そこに注がれていたのは,疑いやねたみのようなものかもしれません。人々の視線の中で,イエスご自身の視線は,どこに注がれていたのでしょうか。
2. イエスの前
イエスの真正面には病の人がいました。水腫のあったこの人のことは,深く「罪」とかかわりのあるものとして受け止められていたことでしょう。その病にかかった人の前にイエスはいました。この人は,偶然にイエスの前にいたのでしょうか?自らここに入ってきたのか,それともパリサイ人たちに連れてこられたのか?しかし,重要なことは,今,この人はイエスの前にいる,それが重要なのです。
3. 安息日問題
イエスは人々の前で問われます。「安息日に病気を直すことは正しいことですか?」なぜ,この議論が福音書に頻繁に出てくるのでしょうか。それは,当時の教会で,律法を守るとはどのようなことかが,重要な課題であったからです。イエスが取り扱われたのは,律法をいかにうまく守るか?ではありません。イエスが教えたのは,律法の持つ本質,律法を与えた神のみこころそのものでした。
4. 安息日に覚えるべきこと
イエスの問いに,なぜ彼らは黙っていたのでしょうか?彼らは自分たちでつくりあげた壁を,自分で乗り越えることができませんでした。しかし,イエスはこの壁をみごとに打ち壊します。イエスは,この病の人を抱いていやされました。ここに神の私たち罪人に対する変わらぬあわれみ,愛の姿を私たちは見ます。神のみこころはは,ただ安息日を守ることにあるのではありません。神の愛,赦し,救いがあらわされることに,安息日の本質があるのです。この日こそ,この水腫が直ったこの人のように,イエスに抱かれる日なのです。
[考えるために]
安息日にあらわすべきことは何でしょうか?
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2007年10月7日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書13:31~35
「幾度も集めようとされた神」
1. 二つのポイント
一つは,神は必ず成し遂げられるということ。そしてもう一つは,イエスを受け入れるということ,です。ここで,何人かのパリサイ人がイエスに近寄ってきました。その理由は忠告でした。ヘロデ王が,イエスを殺そうとしている,それをわざわざパリサイ人たちは伝えにきたのです。
2. 神のご計画
このような圧力に対して,イエスは神のご計画の確かなことを示されました。イエスの宣教の生涯,悪霊を追い出し,病を癒す・・・それは,つまり罪に打ち勝つ救い主としての姿でした。さらに三日目に全うされる。これは十字架の死と復活を通してもたらされる完全な贖罪と救いの成就をさし示しています。これこそ神のご計画にほかなりません。
3. 必ず成し遂げられること
その神のご計画は,どのような圧力があろうとも,成し遂げられます。時の為政者がそれを止めようとしても,人間が否定しようとも,必ず完成へと向かうのです。それは神のご計画な確かさを示すと同時に,神の,イエスの決意の強さをも示しています。主は,ご自分の民を必ず救われるのです。
4. イエスの嘆き
その決意の強さと同時に,ここでイエスは深く嘆かれます。それは人々が,その救いに対して,応答しようとしないからです。預言者を殺し,自分に遣わされた人を石で打つ者。それは,神のことば,神のみこころを無視する人のことです。
5. 幾たびも集めようとされる方
そのような人々の態度の一方で,神はめんどりがひなを翼の下にかばうように,私たちを幾たびも集めようとされます。何度もあきらめずに,神は語りかけ,そのみ手を伸ばしているのです。私たちはこの招きにどのような応答をしているでしょうか?神により頼もうとしないものたちでしょうか?それとも,イエスを私の救い主として迎え入れる者でしょうか?
[考えるために]
主のみ手を拒み続けていく時の結末は,どうなるのでしょうか?
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2007/9/23礼拝メッセージ
2007年9月23日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書13:22~30
「狭い門から入りなさい」
1. 努力しなさい?
「狭い門から入りなさい。」格言としても有名なこの言葉。ルカでは「努力して」と記されています。キリスト教でも努力が必要なんだ・・・そう思われるかもしれません。しかし,ここで大事なことは,私たちはどのような努力をするべきなのか,ということです。救われるために頑張りなさいとイエスは仰ったのでしょうか?イエスが強調されたのは,神に対する悔い改めとイエスご自身への信頼でした。
2. 門か戸か?
この「門」という言葉は,「戸」という意味です。この戸の特徴は「後で入ろうとしても,入れなくなる」ということです。最後の時が来る。そしてこの戸は,一度閉まってしまうと,いくらたたいても,いくら願っても,もう手遅れになります。家の主人は,手遅れになった人に向かって「私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい」と言います。なんという厳しい言葉でしょうか。この戸は明らかに「神の国」へと通ずるドアです。
3. 神の国に入るために
神の国とは,今ここに実現していくものであり,後に神の国は完成し,私たちは神の民として,そこに永遠に住まうことが明らかにされています。しかし,人々は「神の国」に入るためには,律法を自分の力や知恵によって守ることによるのだと考えていました。つまり自分たちで勝手に戸口を広げていたのです。自分に都合のいい解釈,自分たちを中心とした平和,利益を優先していたのです。
4. イエスの宣言
しかし,ここでイエスは宣言します。神の国には,あなたがたではなく,世界中から,そして,しんがりと思われている者が入ると。私たちの努力はどこに向けられるべきでしょうか。私たちは絶えず,キリストによって明らかにされた神の国と,そして神のみこころを第一とすることへと心を配らなくてはなりません。それは,自分の都合や自分の思いを優先する生き方から,神の前にへりくだる生き方への転換とも言えるでしょう。私たちはキリストの十字架によって示された「狭い戸」を選び,そこを通る者とならせていただきましょう。
[考えるために]
「狭い戸」とは何によって示されているのでしょうか?
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2007年9月16日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書13:18~21
「神の国とは?」
1. そこで・・・
直前にすばらしい出来事が起きました。一人の罪深いと思われた女性を通して,神の栄光があらわされたのです。この女性に対して,会同管理者は非難をしました。しかし,イエスはその偽善を見抜き,神のみこころを指し示したのです。直後にこの二つのたとえ話は語られました。
2. 神の国とは?
イエスは,人々に「神の国」について明らかにされました。「神の国」はいわゆる「天国」ではありません。「神の国」という言葉は,この「地」つまりこの世界と密接に結びついています。「神の国」は私たちのうちにきます。それだけではありません。神の国は,今ここにあります。そして,神の国は後に完成の時を迎えます。「あの世」で完成するのではなく,この地に神の国の完成が訪れるのです。
3. 神の国の性質
この女性の癒しと救いに関するやり取りを通して,イエスは神の国の性質について明らかにされています。その性質こそ「からし種」と「パン種」のたとえに語られているのです。それは,目にも留まらぬ小さなものが,大きくなり,周囲に広がるということです。ここで注目すべきことは,小さなものが大きくなり,周囲に広がるという点です。
4. 取るに足りない者
あの女性こそ,取るに足りない者の代表です。それだけではありません。自分でも取るに足りない存在であることを自覚していたことでしょう。しかし,その一人にイエスは目を留められました。そして,この人を通して神のみわざがあらわされ,神のみこころと栄光があらわされました。一人の何もない無力な女性を通して,イエスは神の栄光をあらわされたのです。神の国は,このような取るに足りない,目にも留まらない小さなものからはじまるのです。
[考えるために]
私たちは,神の前にどのような存在でしょうか?
イエスはどこから神の国がはじまると言ったのでしょうか?
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2007/9/9礼拝メッセージ
2007年9月9日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書13:10~17
「解き放たれる主」
1. コントラスト
イエスは,さらに「罪人」と「偽善者」というコントラストを明確にしていきます,罪人には救いを,偽善者には警告をという明確な語り口の違いです。ここでの罪人とは誰でしょうか?18年も病の霊につかれた女性が罪人の代表です。
2. 「病の霊につかれ」
これが,当時の人々の病に対する考え方でした。なぜこの人に病の霊がついているのでしょうか?それはこの女性の犯した罪のため,もしくは,家族の中に罪を犯した人がいた,そのように受け止められていました。この女性は,救われるには遅い人,後の人であったのです。
3. 罪人を招かれる方
イエスは,会堂に集まった人々の中で,真っ先にこの女性を呼び寄せました。そして,高らかに宣言するのです。「あなたの病気はいやされました。」これは,「あなたは痛み,弱さから解放された」という宣言です。この女性にしか分からない18年の間続いた痛み。その痛みからイエスは女性を解放されました。
4. 偽善を暴くイエス
イエスはこの女性に手を置きました。安息日に手を置き,この罪人を癒されたのです。イエスは,一人の罪人のところに来られ,手を置き,癒しを,救いの宣言をするために来られました。しかし,ここには「偽善者」が登場します。その代表が「会堂管理者」です。この人は直接イエスを非難せず,女性を非難しました。神のみ教えを用いながら,この罪人を非難したのです。それは全く神のみこころを,み教えから汲み取らない人の姿と言うことができるでしょう。私たちは,イエスの前に,自らの偽善を恥じ,御前にへりくだらせていただきましょう。
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2007年9月2日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書13:1~9
「例外なき招き」
1. 人々の反応
イエスの主張は単純明快でした。しかし,思わずガリラヤで起こった悲劇を口にした人々がいました。これまでのイエスの語られたことが自分のことではなく,ガリラヤのあの人々こそ,神とすぐに和解しなかった結果ではないか,そう人々は応答したのです。ここに,人間の罪深い姿があります。私たち自身に語られているのにも関わらず,他の事柄を挙げることによって,さも自分はわかっているのだ,そういいたい罪人の姿がここに描かれています。
2. イエスの答え
これは決して他人ごとではありません。イエスの答えは,「あなたがたも悔い改めないなら,みな同じように滅びます」というものでした。また,エルサレムで起きた事件も同じように例に出します。あの人々も例外ではない。みな悔い改めないなら,同じように滅びる,とイエスは明言されたのです。
3. 死の先にある滅び
イエスの視点は,単なる地上での死だけを見てはいません。神からの永遠の別離,完全な滅びに焦点が当てられています。私たちの人生,生涯は,神から与えられた一度限りのものです。しかし,それ以前に,神にあるいのちでなければ,本当に神に喜ばれるものにはなりえないと,聖書は語るのです。
4. 待たれるお方
イエスは,ここで「ぶどう園に植えられたいちじくの木のたとえ」を語られます。このいちじくは,本来のところには植えられていませんでした。それでも実がなることを期待されていました。しかし,残念ながら実はなりませんでした。しかし,その園の番人は,もう一年まって欲しいと園の所有者に願うのです。この願いこそ,イエスの願いです。そして,今,神は私たちが悔い改めの実を結ぶことを待っていてくださるのです。
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2007/8/26礼拝メッセージ
2007年8月26日の礼拝メッセージの要約です。
ローマ人への手紙7:15~8:2
「恵みに帰る信仰」
[ハイデルベルグ信仰問答]
問い3:何によって,あなたは、あなたのみじめなことを,認めることができるのですか。
答え:神の律法によるのです。
問い4:神の律法は、私たちに,何を要求するのですか。
答え:キリストは,律法の内容を,マタイによる福音書22章の中に。おまとめになりました。「『心を尽くし,思いを尽くし,知力を尽くして,あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも,それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが,この二つの戒めにかかっているのです。」
問い5:あなたはこれら全てを,完全に守ることができますか。
答え:できません。なぜならば、うまれつき,神と隣人とを憎む傾向にあるからです。
1. わたしの罪とわたしの悲惨
私たちが,神の慰めに生きるためには,「わたしの罪とわたしの悲惨とが,どんなに大きいかということ」を知らなくてはなりません。悲惨さをつきつめていくと,私たちは自分を守るために自己防衛することでしょう。しかし,聖書はその自衛本能に対し,罪と悲惨に向き合うようにと語りかけています。
2. みじめさ
パウロはその悲惨さをこう記しています。「私は,ほんとうにみじめな人間です。」私たちもみじめさを感じることがあります。しかし,本当にはそのみじめさに向き合おうとはしていません。自分のみじめさを認めようとはしていないのです。
3. 恵みに生きる
みじめさから私たちを救い出すことのできるお方は,イエス・キリストだけです。私たちが,自分の罪深さを知れば知るほど,神の赦しが恵みであることに気がつかされます。この逆説的な恵みの経験に,私たちは絶えず生きなくてはならないと聖書は教えるのです。そして,私たちは神の律法(み教え)によって,真の罪の深さを知ることができるのです。
[考えるために]
あなたは自分の,また人間の悲惨さ,みじめさ,罪深さをどのようにとらえているでしょうか?
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メインページへ2007/8/19礼拝メッセージ
2007年8月19日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:54~59
「和解する熱意」
1. 前兆
イエスはミカ書から引用されました。それは,そこにご自身の預言と,イスラエルの民への悔い改めの勧告が確かに記されていたからです。すでに,イスラエルの人々には,神からの預言が与えられていました。しかし,人々はそれでも神に立ち返らず,イエスを受け入れようとしなかったのです。ですから,イエスは「あなたがたは地や空の現象見分けることを知りながら」と言われているのです。
2. 偽善者
イエスは,ここで人々を「偽善者たち」と非難します。どうして今のこの時代を見分けることができないのか?そして,自分から進んで,何が正しいかを判断しないのか?と容赦のない言葉を人々に投げつけました。なぜ,これだけの神からの警告,預言があるのにもかかわらず,あなたがたは,頑ななのかとイエスは訴えかけられたのです。
3. 告訴する者
どうして,これだけのことが語られているのに心を開こうとしないのか・・・人々の頑なさに対し,イエスはたとえを語られました。それはあなたを告訴する人に対し,手遅れになる前に和解しなさいというものでした。私たちは聖なる神の前に,みな罪人です。最後の一レプタを支払うまで,完全に赦されません。ですから,手遅れになる前に,それに気がついたその時に,神と和解しなさいと,イエスは言われます。何よりも,イエスこそ,私たちの負った罪の負債の代価となり,身代わりとなってくださったお方なのです。私たちは今この時に,イエスにある救いを受け取らせていただきましょう。
[考えるために]
私たちは「前兆」をしっかり見ているでしょうか。
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メインページへ2007年08月16日
2007/8/12礼拝メッセージ
2007年8月12日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:49~53
「主の警告」
1. ご自身が来られた意味
ここで,イエスはご自身が来た意味を強調しました。「わたしが来たのは,地に火を投げ込むためです。」この言葉はとても厳しいものです。しかし,この厳しさは,本当の愛から出たものでもあります。この火は,すべてを焼き尽くし,本当のものだけをあらわにする「火」のことです。隠れされた罪をあらわにし,本当の神への信仰のみ,そこに明らかにする火。その火を,投げ込むために,イエスは来られました。
2. 受けるべきバプテスマ
私たちは,自分の罪があらわになればなるほど,そのような自分をどうすることもできなくなります。しかし,イエスはこの世界に来られ,私たちの弱さ,罪深さという現実に向き合ってくださいました。そして,イエスは私たちの罪ゆえに十字架にかかるのです。それが,イエスが受ける「バプテスマ」でした。その十字架の死によって私たちの罪が贖われ,私たちの罪がすっかり洗い清められるのです。その罪の苦しみは,私たちの基準で計れるものではありません。イエスがどんなに苦しまれたのか,そのことを,深く理解するときに,私たちの罪の重さを私たちは捉えることができるのです。
3. 分裂を与えるために
私たちが求めるのは,「この世(地)」での平和です。それは,自分たちの都合のよい平和でしょう。しかし,イエスが私たちに与えてくださる平和は違います。それは「神の国」そのものです。しかし,この神の国を前にして,私たちは分かれてしまうという現実をイエスは教えられます。これは最も厳しい現実をあらわしています。しかし,その厳しい現実をくつがえすお方もまた,イエスご自身なのです。
[考えるために]
イエス様はあなたに,何を知って欲しいと思っているのでしょうか?
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メインページへ2007/8/5礼拝メッセージ
2007年8月5日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:41~48
「忠実な賢い管理人」
1. ペテロの質問
なぜ,ペテロはこの質問をしたのでしょう。私たちか。それともみなのためか。ペテロの語る「私たち」「みな」とはいったい誰を指しているのでしょうか。この場面から,推測できるのは「弟子」と「群集」でしょう。これまでのたとえは,自分たちに向けてなのか,それとも,群集に対してのものなのか。自分は,群集とは違う,そのような思いがペテロにはあったのかもしれません。
2. イエスの答え
このようなペテロに対して,イエスはさらなるたとえ話で答えられました。それはしもべの中でも,主人から全財産を預けられる管理人のたとえでした。管理人と言ってもしもべです。このたとえも,前のたとえと中心テーマは同じです。ここでもこの主人は,しもべの思いもよらない時に帰ってきます。そして,主人は自分が不在であっても,しもべが忠実であったかどうかを評価するのです。
3. 異なる点
ここに前のたとてとは異なることが付け加えられています。それは,もし,しもべが不忠実であったらどうなるのか,という点です。そのようなしもべは,主人によって厳しく罰せられ,鞭打たれます。なぜなら,このしもべは主人の思い,考えを知っていながら,それを行わなかったからです。
4. キリストから与えられたもの
主人から,多く与えられた者は多く求められ,多く任された者は多く要求されます。責任を持たされていないしもべは,打たれても少しですむ,これは当然の結論です。では,多く与えられた者とは誰を指しているのでしょうか。与えられたものとは,個人個人の能力や資質のことではありません。キリストを信じるときに,すでに私たちは多くのものを受けています。何よりも,キリストのいのちそのものが,与えられているのです。
[考えるために]
与えられたものとして,私たちは,どのような歩みをもって神に応えることができるでしょうか。
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2007/7/29礼拝メッセージ
2007年7月29日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:35~40
「仕える主人」
1. 二つのたとえ
この短い箇所は,二つのたとえ話が組み合わされています。最初のたとえが35~38節。二つ目が39~40節です。まずはじめのたとえ話を見ましょう。このたとえは主人の帰りを待つしもべの話です。主人の帰りを待つしもべの姿に,私たちのあり方をイエス様は写し出しています。そのあり方とは「よく準備をしている」ということです。
2. 主人の帰りのために備える
「主人の帰り」が直接意味しているのは「イエスが再び来られるとき」です。再臨の時を,私たちはどのような状態で迎えるでしょうか。私たちは,すぐに以前の基準を持ち出します。つまり,私たちは,何をしてきただろうか・・・?しかし,イエスの基準はそうではないのです。
3. 仕える主人
しもべが,忠実にいつ帰るかわからない主人の帰りを待つということは,大変なことです。単なる義務感でできることではありません。そして,この主人は,しもべの忠実さとしもべの主人に対する思いも,よく知っています。なぜなら,この主人は,忠実なしもべに,逆に仕えることによって報いる,というのです。主は,その忠実さをしっかりとご覧になり報いてくださるのです。
4. 当たり前の話
家の主人が,泥棒の入る時刻を知っているのであれば,自分の家に押し入られることはなかったことでしょう。これは当たり前の話です。この話のように,もしイエスが再び来られるということを知っているとするならば,この家の主人のように当然備えることでしょう。私たちもまた,この再び来られる方を知るときに,私たちたちがどう生き,備えるかは明らかなこと,なのです。私たちの備えはできているのでしょうか?。
[考えるために]
二つのたとえ話のポイントは何だったでしょうか?
私たちがすべき備えとはどのようなものでしょうか?
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メインページへ2007/7/22礼拝メッセージ
2007年7月22日の礼拝メッセージの要約です。
この日の説教者は,吉澤慎也神学生(元KGK主事)でした。
オバデヤ書1~21
「オバデヤの幻」
理解が困難だと思われがちな旧約聖書の小預言書の一つ,オバデヤ書。オバデヤは預言者であり,オバデヤ書のテーマは「エドムに対する裁き」。エドム人とはエサウの子孫であり,元々双子の兄弟だったヤコブの子孫であるイスラエル人とは良好な関係ではなかった。
1. アウトライン
1~4節:エドムに対する裁きの知らせ
5~9説:エドムが滅ぼされる様子
10~14節:エドムが滅ぼされる本質的な理由
15~16節:主の日の預言
17~21節:イスラエルの回復
2. 傍観者であってはならない
エドム人は,兄弟に値するイスラエル人が苦難のときに,それをただ傍観していた。それだけでなく,イスラエル人の敵に手を貸すことすらした。それゆえに神に裁かれた。私たちにとっての兄弟とは,①家族や親戚,②クリスチャンの兄弟姉妹,③隣人としての兄弟姉妹,の3つのレベルが考えられる。兄弟の捉え方は人によって異なって良いが,自分にとって「兄弟」と呼べる存在が誰にでもいるだろう。その兄弟が困難を覚えている時に,ただ眺めるだけであってはならない,ということをチャレンジとして受け止めたい。
3. 主の日の希望
やがて主の日が来る。主に敵対する諸々の悪は必ず討ち滅ぼされ,「王権は主のものとなる」(21節)。主に敵対する者は最後には必ず滅び,主に付き従うものは最後には必ず救われる,という希望の約束を受け止めたい。私たちの目には,悪がはびこり,罪深い世の中に見えたとしても,必ず最後には主の勝利が来る。オバデヤはその希望の約束を,廃墟となったエルサレムの只中において預言した。私たちも荒廃しているかのように見える現代の社会の只中にあって,主の日の希望の約束を信じて歩んでいきたい。
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2007年7月15日の礼拝メッセージの要約です。
エペソ人への手紙2:3~6
「私たちが知るべきこと」
[ハイデルベルグ信仰問答より]
問い2
「それならば,あなたがその慰めの中に,祝福されて,生きたまま死ぬことができるためには,あなたは,いくつのことを,知らねばならないのですか。」
答え
「三つのことです。第一には,わたしの罪とわたしの悲惨とが,どんなに大きいかということ,第二には,わたしが,どのようにして,わたしのあらゆる罪とわたしの一切の悲惨から,救われるか,ということ,第三には,わたしが,どんなに,この救いに対して,神に,感謝すべきか,ということであります。」
第一の問いは,「生きている時も,死ぬ時も,あなたのただ一つの慰めは何ですか」というものでした。
「わたしが,身も魂も,生きている時も,死ぬ時も,わたしのものではなく,わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります」という答えは,信じ記憶するに値する言葉でしょう。しかし,この慰めの中に生かされ続けるためには,私たちは深く知り続けるべきことがあります。そのことをこの信仰問答は,私たちに教えています。また,そのことは,聖書が今日も,私たちに向かって語り続けているメッセージそのものなのです。
パウロは,これらのことを覚えるときに,神の恵みが自分に与えられ,神の愛が,この私に向けられていることを,強烈に自覚していたようです。それこそが,どんな時にも希望を失わず,感謝に生きたパウロの生涯の秘訣だったのです。
[考えるために]
あなたが知るべき三つのこととは何でしょうか?
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2007/7/8礼拝メッセージ
2007年7月8日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:32~34
「恐れることはない」
1. 聖霊にゆだねること
今日のポイントは,「聖霊に期待するということは,私たちの今から後を,自分や他のものではなく,主に期待してゆだねる」ということです。聖霊の働きにゆだねるということは,何を意味しているのでしょうか。それは,私たち自身の悟り,私たち自身の力,またこの世の権力,この世の富によらず,私たちの内に働かれるお方に,すべて期待し,ゆだねることを意味しています。
2. これから向ける困難
イエスは,ここで弟子たちがこれから迎えるであろう困難に言及します。しかし,そのような困難を前にしても,イエスを認める者を,神は認めてくださると約束しています。しかし,その逆に,イエスを知らないと言うものを,神もまた知らないと言うとも語られています。私たちはどうでしょうか?
3. 聖霊の働き
聖霊の働きは人の内に働き,救いを得させるよう導くことです。ですから,イエスをそしるような者であっても,聖霊に導かれ,悔い改めるならば,その人は赦されます。しかし,内なる聖霊の働きを拒否する者は,イエスを主と認めることができません。つまり,その人は赦されないのです。イエスを主と認めるのは,私たちの力や努力や意志の強さによるのでしょうか。そうではありません。その人のうちに働く聖霊の力によるのです。
4. 私たちのなすべきこと
私たちのなすべきことはいったいなんでしょうか。それは,内なる聖霊の働きに期待し,ゆだねることです。私たちの「今から後」を主に期待してゆだねること,これこそ,私たちが今なすべきことなのです。
[考えるために]
私たちは,聖霊を,日生活常の中で,認めているでしょうか?
あなたは,聖霊に期待して歩んでいるでしょうか。
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2007/7/1礼拝メッセージ
2007年7月1日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:22~31
「心を配るところ」
1. 心配ごと
イエスは,弟子に,そして私たちに言われます。「心配するのはやめなさい」私たちは,多くのことに気を使い,心配しています。なぜ私たちは心配をしてしまうのでしょうか。それは,私に心配を消すだけの力がないからです。私たちは容易に心配で心が満たされてしまうのです。
2. 本質なるもの
私たちの心を満たす心配ごとは,私たちが求めるべき「本質なるもの」ではありません。その心配ごとのために,私たちは生きているのではないのです。今あなたの心を満たそうとしているものは何でしょうか?そのために,あなたは神に造られ,いのちが与えられたのでしょうか?
3. 烏とゆり
ここで烏とゆりが,何も心配せずに生きている姿が語られます。これらの言葉は,主がすべてを与えてくださるから,あなたは何もしなくてよい,という意味ではありません。烏もゆりも,生きること,着飾ることに関して全く心配していません。それは,とても軽やかで自然な姿です。
4. 第一とするもの
それでは,本質的なるものとは何でしょうか?あなたが今,第一としているものは何でしょうか。私たちにとって,いのちを延ばすこと,今日の食や必要なものを得ること,暮らし向きを豊かにすることは,小さなことではありません。しかし,神は,すでに何が最善であるかをご存知です。だからこそ,私たちは,本質なることに,心を向けるべきなのです。それが「神の国」なのです。
5. 神の国
神の国とはいったい何でしょうか?それは,神のすべてにおける支配のことであり,神の栄光であり,神のみこころ,み思いそのもののことです。私たちはまず神の喜ばれることが何かを求め,私たち自身を通して,神の栄光をあらわすものとさせていただきましょう。
[考えるために]
あなたには今,心配事があるでしょうか?
まずどこに私たちは目を止め,心を配るべきでしょうか?
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メインページへ2007年06月28日
2007/6/24礼拝メッセージ
2007年6月24日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:13~21
「あなたのいのちの場所」
1. 遺産問題
群集の中の一人が遺産問題について,イエスの助けを求めにきました。彼は何を期待してイエスのところに来たのでしょうか?しかし,イエスは「いったい誰が私をあなたがたの裁判官や調停者に任命したのか」と答えました。この当時,律法の教師は,このような問題の調停もしていましたが,イエスはその立場とは異なることを明らかにしています。
2. どんな貪欲にも注意しなさい
私たちもまた,何をイエスに願っているのでしょうか?この群集の一人は,イエスに問うだけの正当な理由もあったのでしょう。しかし,イエスの口から出た言葉は,おおよそ,その人の思いとは異なるものでした。「どんな貪欲にも注意して,よく警戒しなさい。」そのように,この人に,また群集に教えられたのです。
3. いのちの場所
「いくら豊かな人でも,その人のいのちは財産にあるのではない」とイエスは言いました。「財産」とは何を指しているのでしょうか。この群集の一人がイエスに求めたものは,「私の持ち分」でした。しかし,イエスは,あなたのいのちは持ちものにはないと言われたのです。
4. 「私の」という思い
イエスはたとえを語ります。その中に出てくる人は,作物も倉も穀物も財産も,さらには魂もすべて「私のもの」であると考えていました。しかし,最終的に,神はこの人のことを「愚か者」と言われ,さらに自分の魂そのものも,神に取り上げられてしまう結末を迎えます。イエスの言う貪欲とは,あなた自身をも自分の所有と考えることです。真に富む者とは,すべてが神のものであると知っている人のことなのです。
[考えるために]
イエスとはあなたにとって,どのようなお方なのでしょうか?Ⅰペテロ2:25を読みましょう。
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2007/6/17礼拝メッセージ
2007年6月17日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:8~12
「聖霊に信頼するということ」
1. 聖霊にゆだねること
今日のポイントは,「聖霊に期待するということは,私たちの今から後を,自分や他のものではなく,主に期待してゆだねる」ということです。聖霊の働きにゆだねるということは,何を意味しているのでしょうか。それは,私たち自身の悟り,私たち自身の力,またこの世の権力,この世の富によらず,私たちの内に働かれるお方に,すべて期待し,ゆだねることを意味しています。
2. これから向ける困難
イエスは,ここで弟子たちがこれから迎えるであろう困難に言及します。しかし,そのような困難を前にしても,イエスを認める者を,神は認めてくださると約束しています。しかし,その逆に,イエスを知らないと言うものを,神もまた知らないと言うとも語られています。私たちはどうでしょうか?
3. 聖霊の働き
聖霊の働きは人の内に働き,救いを得させるよう導くことです。ですから,イエスをそしるような者であっても,聖霊に導かれ,悔い改めるならば,その人は赦されます。しかし,内なる聖霊の働きを拒否する者は,イエスを主と認めることができません。つまり,その人は赦されないのです。イエスを主と認めるのは,私たちの力や努力や意志の強さによるのでしょうか。そうではありません。その人のうちに働く聖霊の力によるのです。
4. 私たちのなすべきこと
私たちのなすべきことはいったいなんでしょうか。それは,内なる聖霊の働きに期待し,ゆだねることです。私たちの「今から後」を主に期待してゆだねること,これこそ,私たちが今なすべきことなのです。
[考えるために]
私たちは,聖霊を,日生活常の中で認めているでしょうか?
あなたは,聖霊に期待して歩んでいるでしょうか。
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2007/6/10礼拝メッセージ
2007年6月10日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:1~7
「恐れをなくすお方」
1. 今日の結論
「本当に恐れなくてはならない方が,あなたの恐れをなくしてくださる」ということがここでの結論です。ここで,群集が再びイエスのまわりに集まってきました。この大勢の群集の中で,本当にイエスご自身を求めた人は何人いたのでしょうか?そのような中で,イエスは,まず弟子たちに語り始めました。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。」
2. パリサイ人の偽善
ここで,イエスは「パリサイ人に気をつけなさい」ではなく,「パリサイ人のパン種,偽善に気をつけなさい」と言われました。パリサイ人の「偽善」は,神のことばを無にし,神よりも自分の正しさを優先させたことにありました。それゆえに,自分が罪人であることを認めようとはしなかったのです。しかし,イエスは,すべての偽善,隠されたもの,罪が,後に明らかになると言われました。
3. 友であるあなた方は・・・
そこで,イエスは弟子たちを「わたしの友」とした上で話を続けられました。偽善の根本的な原因である「人への恐れ」を優先するのではなく,「神を恐れなさい」とイエスは語られました。なぜなら,肉体の死だけではなく,私たちの存在そのものを握っているのは,神であるからです。ここで,イエスは,神の偉大さ,権威,その力に目を向けさせています。
4. だから・・・
イエスは,取るに足りない雀,そして髪の毛でさえ,神は忘れず,数えていると言われました。それは,ただ知っているだけではなく,大きな関心を持って,いつも私たちのことを覚えているということであり,私たちの知らないことさえも,ご存知であるということです。イエスは私たちのことを友と呼んでくださいました。このことを覚える時に,偉大なる神の存在が単なる恐れではなく,すべてに勝る平安となるのです。だから,私たちは,もはや何者をも恐れなくてよいのです!
[考えるために]
神はあなたのどこまでをご存知なのでしょうか?
神の偉大さを覚えるときに,私たちに何が与えられるのでしょうか?
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2007/6/3礼拝メッセージ
2007年6月3日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書11:45~54
「聞いているようで聞いていない人」
1. 律法学者への非難
パリサイ人への非難は,律法学者への非難の言葉としても響きました。そこで,律法学者も黙っているわけにはいかなくなりました。しかし,彼らは,イエスの言葉を「侮辱」としてしか受け止めることができませんでした。イエスは,ここで単なる非難ではなく,「人の罪」の問題を取り扱っています。「あなたがたは,人々には負いきれない荷物を負わせるが,自分は,その荷物に指一本もさわろうとしない。」まず,ここで指摘されているのは,律法学者のした聖書解釈についてです。それは,丁度,律法を自分の基準にあわせて解釈することによって,自己正当化をする姿でした。しかも,自分ではリスクを負わず,その正当性を人々に押し付けていたのです。
2. 神のことばを無にする
さらにイエスは言いました。「あなたがたは預言者たちの墓を建てている。」実際に彼らが預言者を殺したわけではありません。それは神の言葉を無にしているということでしょう。預言者のメッセージは,生ける神を恐れよ,神に立ち返れ,神をあがめよ,というものでした。預言者は,いつも律法の本質に目を向けていたといってもいいでしょう。そもそも律法とは,守れば自分は正しくなるというものではありません。律法とは,神に従うものたちに示された,神ご自身の聖さや愛,公正さを示すものであり,律法によって,自分の罪が教えられ,また,律法によって,神ご自身を知ることのできるものです。十戒をあなたなりに守れば救おうというものではありません。あなたは私のものだから,私の命令に従わなくてはならない,と神は語られたのです。この順番が大切なのです。
3. 人々の妨げとなる者
律法学者の大きな罪は,人々を妨げたことにあります。私たちは,教会はどうでしょうか。神を求める人の妨げとなってはいないでしょうか。私たちも神の前にへりくだり,聖書にあらわされた神のことばの本質を受け止めてまいりましょう。
[考えるために]
私たちは神のことばを「無」にしていないでしょうか?人々の妨げとなっていないでしょうか?
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2007/5/27礼拝メッセージ
2007年5月27日のペンテコステ礼拝メッセージの要約です。
ヨハネの福音書14:16~17
「われらのうちに住むお方」
1. ペンテコステ
ペンテコステは,イエスが弟子たちに約束したことが成就した日です。その約束は,イエスが天にのぼられた後,弟子たちに助け手である聖霊を与えるというものでした。聖霊が弟子たちにくだった時,教会がこの世界に誕生しました。
2. 「あなたのただ一つの慰めは何ですか?」
「聖霊によりわたしに永遠の命を保証し,今から後,この方のために生きる事を心から喜び,またそれにふさわしくなるように,整えてもくださるのです。」私たちに内住する聖霊は,第一に永遠の命を保証する方です。永遠の命とは,私たちの死んで滅ぶべき運命が取り除けられ,永遠に神とともに生きることです。永遠の命を得るのは,私たちの努力でもなく,信心深さでもありません。ただ,キリストへの信仰によってのみ与えられるものです。
3. 信仰という奇跡
イエス・キリストが救い主であることを,どんなに理論的に話をしたところで,十分な説明にはならないでしょう。なぜなら,イエスへの信仰そのものが,いわば奇跡であるからです。私たちがイエスを救い主であると信じ,告白するには,聖霊の働きが不可欠です。聖書を開くこと,みことばに聞き,理解すること,また多くの出会い,すべての事象,それらは決して偶然ではありません。そこに,必ず,神の霊が,聖霊が働いているのです。
4. 永遠のいのちの保証
永遠の命の保証は,一度限りの保証ではありません。どのような事態に直面しようとも,制限なく保証を与えてくれるものです。聖霊は,不完全で,身勝手な私たちと,ともに歩んでくださるお方です。私たちに絶えずイエスが主であることを分からせ,神への思いを強めてくださる存在です。イエスを信じた時から後,私たちには聖霊が与えられています。私たちの生涯は,御霊に導かれている今という時の積み重ねなのです。私たちは,この聖霊が与えられ,今,私の内に住み,語ってくださっていることを,絶えず覚えましょう。来る朝ごとに,自分自身にこう語りましょう。助け手であり,導き手であり,慰めぬしなる聖霊が,今,私の内に住んでくださっています!と。
[考えるために]
ハイデルベルグ信仰問答の問い1を,聖霊の働きを覚えつつ黙想しましょう。
問い「生きるにも死ぬにも、あなたのただ1つの慰めは何ですか。」
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2007/5/20礼拝メッセージ
2007年5月20日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書11:37~44
「うちからのきよめ」
1. 食卓に招かれたイエス
イエスが語られた後,一人のパリサイ人がイエスを食事に招きました。おそらくそれは純粋な招きではなく,さらにイエスが誰であるかを確かめようとしたのでしょう。この人は,決して,自分が「悪い時代」の一員であるとは思ってはいませんでした。そして,彼は驚くことになります。なぜなら,イエスが,食事の前の洗いきよめの慣習をしなかったからでした。
2. 信じられない行動
これは単なる手洗いの習慣ではありません。まるで,外のものはすべて汚れたものであるかのように考え,儀式的に身を洗い清めることを彼らはしていたのです。しかし,あえて,イエスはそのことをしませんでした。なぜでしょうか。それは彼らの持っていた内と外との区別に挑戦をするためでした。彼らは内の汚れを取り扱うことを避け,外側のみを問題としていたのです。
3. すべてを造られた神
「おろかな人たち。外側を造られた方は,内側をも造られたのではありませんか」とイエスは語られました。内と外を分けるということは,まことの神をよく知らない者たちのすることです。私たちにかかわるすべての領域において,神は「神」なのです。ですから,私たちは,まず内のものをささげなくてはなりません。自分がいかにも正しい人のように振舞い,他の人との比較の中で安心したとしても,それはまことの神の思いからかけ離れた姿であり,愚かな者な