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2008年11月20日

2008/11/9礼拝メッセージ

2008年11月9日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:39~46
「みこころを求めて」

1. ゲッセマネの祈り
 有名なイエスの祈りの場面です。しかし,ルカの福音書は他の福音書とは異なる描き方をしています。ルカは,ここでの出来事をとても簡潔に記しています。この個所は,私たちに対してシンプルにこう語っているようです。「これからおこるであろう苦難,信仰の試練に対し,霊的な備えをせよ。その備えこそ祈りであると。」この箇所で私たちが気づかされるのは「いつものように」という言葉です。私たちには,いつものように祈るとき,そして祈る場所が確保されているでしょうか。

2. 誘惑に陥らないように
 この「誘惑」とはなんでしょうか。イエスは次のように祈られました。「父よ。みこころならば,この杯をわたしから取り除けてください。しかし,わたしの願いではなく,みこころのとおりにしてください。」この祈りの言葉は,神に祈られた言葉であると同時に,弟子たちに教えるための祈りでもあるでしょう。イエスはまず祈られます。できればこの苦難をわたしから取り除けてくださいと。しかし,ここで重要なのは次の言葉です。「しかし,わたしの願いではなく,みこころのとおりにしてください。」これこそがキリストの弟子の祈りであり,確かな備えの祈りなのです。

3. 悲しみの果てに
 しかし,この祈りは,非常に祈るのが難しい祈りでもあります。ここでも,弟子たちは「悲しみの果てに,眠り込んで」しまいました。他の福音書では,疲れて眠ってしまったかのような記述になっています。しかしルカでは悲しみから彼らは眠ってしまったというのです。一方でイエスは,十字架の苦しみを前にして,いつものように,いつもの場所で祈られました。しかし,そのもう一方の弟子たちは,いつものように,いつもの場所で,試練を前にして,祈ることをせず眠ってしまったのです。私たちにイエスは語られます。くじけそうになる事柄を前にして,祈らず眠り込んでしまった弟子のようではなく,私のように絶えず祈りなさい,と。その祈りは,ただ熱心に祈ればよいわけではありません。「わたしの願いではなく,みこころのとおりにしてください」と祈るように導かれているのです。私たちは,祈る前からここでの弟子たちのように眠り込んでしまっています。私たちはみこころを求める祈りによって,目に見える剣よりも確かな武具を手にすることになるのです。

[考えるために]
 私たちには,祈りの場所,祈りの時間が確保されているでしょうか。
 また,その祈りは何を願う祈りなのでしょうか。

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2008年11月08日

2008/11/2礼拝メッセージ

2008年11月2日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:35~38
「十分な備え」

1. イエスの問いかけ
 「わたしがあなたがたを,財布も旅行袋も持たせずに旅に出したとき,何か足りない物がありましたか。」弟子たちを訓練するための宣教旅行のことをイエスは話に出しました。この旅行は,弟子たちにとっての成功体験でもありました。このように聞かれた弟子たちは「何も不自由はありません」と答えました。しかし,イエスは続けて今は持ち物をしっかりと持ちなさいと言われたのです。しかも,剣のない者は,着物を売ってまで剣を揃えなさいと言いました。

2. 誤解
 以前の旅行で弟子たちは,イエスの名の偉大さ,すごさを知ることとなりました。それと同時に,彼ら自身が「力を得た」と感じたことでしょう。しかしその弟子たちにイエスはこう教えました。ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさいと。さらに今日の箇所で,イエスは持ち物をしっかりと持ちなさいと教えられました。さまざまな持ち物,刀なども比喩なのでしょう。しかし,弟子たちはその比喩に気がつきませんでした。弟子たちはまったくイエスの言葉を理解していなかったのです。いよいよイエスとともに戦いに赴く,そのような様子が見て取れます。

3. イエスの答え
 イエスは続けてお語りになりました。「彼は罪人たちの中に数えられた」とは,イザヤ書53:12の言葉です。これは十字架の苦難の預言です。イエスはこれから十字架に向かうとはっきりと語られた上で,備えるべきものを備えよ,そう命じられたのです。イエスの備え,それは信仰における備えです。ここではその信仰における備えと,さらには信仰の自立をイエスは促しています。信仰における自立のために「霊的な備え」をしなさいと教えられました。ただ受けるだけのものではなく,備えなさい,と言われたのです。私たちが強いのではありません。また私たちは何もしないでいても大丈夫なのではありません。神が,主イエスが強いのであり,また,みことばにその力があります。私たちは神の真理に逆らい,神の正しさや聖さにではなく,自分の正しさや基準に立とうとしてしまいます。私たちは信仰の備えをしなくてはならないのです。祈りによって,またみことばを学ぶことによって,さらに主イエスに従うことによって,私たちは信仰の備えをしてまいりましょう。

[考えるために]
 霊的な備えが十分にされているでしょうか。
 そのために私たちは何をすべきなのでしょうか。

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2008年11月01日

2008/10/26礼拝メッセージ

2008年10月26日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:31~34
「あなたのために祈る主」

1. 苦しみの中で
 「神はなぜこのような現実を許しておられるのか。」私たちは苦しみの中叫びます。神が自分を見捨てていると思うときが私たちの生涯の中でもあります。「サタンが,あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って」とイエスはペテロに語りました。「あなたがた」とあります。イエスを信じる全ての人に対して「あなたがた」と言っています。キリストを信じる歩みの中で信仰における試練を与えることを,神が許容されることがあるというのです。ペテロにもそのようなことが起こりました。「三度の否認」でした。自分の力でイエスに従えると思っていたペテロ。それなりに自信も持っていたことでしょう。その彼が,自分の弱さ,欠けをまざまざと知らされる出来事に遭遇するのです。イエスはこのことを知っていたにもかかわらず,この言葉通りになります。

2. 神の方法
 分かっているならば回避してくれればよかったのに,と思います。しかし神の方法は違います。イエスは,「あなたの信仰がなくならないように,あなたのために祈りました」と言われました。ここで対比されているのは,サタンの願いと神の子キリストの祈りです。サタンの願いは,一時的に聞き届けられているかのように見えます。それは一時的であり,不変なものではありえません。しかし,イエスの祈りはどうでしょうか。イエスの祈りは完全で,圧倒的な力に満ちたものです。この祈りは,今もわたしたちに向けて祈られている祈りでもあります。わたしたちは何も守りのないなか,放り出されているわけでは決してありません。絶えず祈ってくださる主イエスのとりなしの祈りの中,わたしたちは導かれていると言えるのです。

3. 失敗の中から
 ペテロは予告通り失敗をしました。しかしイエスはこのようにペテロに語りかけています。「だからあなたは,立ち直ったら,兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエスは知っていました。必ずペテロは試みにあうが,必ず立ち直ると。私たちが苦難を通るときに,私たちは同じように神から人生の歩みを与えられた人々を励ますことができるように整えられます。私たちに与えられた苦しみは,ただ自分だけの苦しみではありません。その苦しみは,すでに誰かが通った道であり,そしてこれから多くの人々が通るであろう苦しみなのです。主は今も祈ってくださっているのです。

[考えるために]
 神のとられる方法は,私たちとは同じなのでしょうか。
 今もイエスは私たちに何をしてくださっているのでしょうか。

投稿者 mb-church : 16:41 | コメント (0) | トラックバック

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2008/10/19礼拝メッセージ

2008年10月19日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:22~30
「仕える者のように」

1. 聖書の原則
 聖書の言葉は,書かれた時代の言葉として読まなくてはなりません。この箇所においてもイエスが最後の晩餐のその場で,弟子たちに語られた言葉として読むということが第一です。しかし,もう一つの視点があります。それは当時の教会に語られた言葉としての視点です。弟子たちに語られたこれらの言葉は,当時の教会の信仰者に対して語られたものでもあります。そしてそれはまさに今の私たちに対して語られている言葉であることを意識したいと思います。

2. 裏切り
 聖餐の直後,イエスはこう言われました。「しかし,見なさい。わたしを裏切る者の手が,わたしとともに食卓にあります。」直接的にはユダのことでしょう。しかし,これは聖餐を受けたものがみな受けるべき自己吟味でもあります。これは教会の話でもあるのです。イエスはその上でこう言われました。「人の子は定められたとおりに去っていきます。」 誰が裏切るか,そのこともイエスは知っていました。しかし,それでも十字架に架かられたのです。私たちが罪人であるにもかかわらずそうなさったのです。そのことを知っていてなお,イエスを裏切るような人は「わざわい」なのです。

3. 比較を超えて
 弟子たちは犯人探しをし始めました。それが発展して,とうとうこの中でだれが一番偉いのかという論議にいたるのです。これは私たちの悲しい罪の現実です。罪を自分のものとしてではなく,他者との比較の中でとらえてしまう私たちの愚かさが表わされています。しかし,そこで,イエスは教会に大きな知恵を与えてくださいました。神を信じ,キリストに従う者は,自分を誇るのではなく,一番年の若い者のようになり,仕える人のようでありなさいと勧められました。人との比較の中で,自分を正しい者とするのではなく,私たち自身が一番弱く,貧しく,むなしいものであることを自覚し,仕える人となること。それはまさにイエスの姿でした。自己正当化では,私たち自身の罪はどうにもなりません。自己正当化をすることによって,神の憐れみやキリストの十字架の恵みを取り逃してしまうことでしょう。たとい誰からも評価されなかったとしても,イエスが私たちの忠実な歩みをご覧になっています。そして,神の国での祝福を約束してくださっているのです。

[考えるために]
 私たちの基準はどこにあるのでしょうか。自己正当化に陥ってはいないでしょうか。

投稿者 mb-church : 16:39 | コメント (0) | トラックバック

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2008/10/12礼拝メッセージ

2008年10月12日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:7~22:23
「これを覚えなさい」

1. 最後の晩餐
 十字架にかかる日が近づいてきました。異様な緊張感がこのときのエルサレムの町にはあったのではないかと思います。民衆の期待と祭司長たちの殺意。そのような中で「最後の晩餐」は開かれました。この食卓が聖餐式のはじめの時となります。この聖餐式はもともと「食事」でした。この食事は過ぎ越しの食事と呼ばれるものでした。この食事こそ,神の救いを思い起こすときであり,神との契約の証でもありました。

2. イエスの晩餐
 この過ぎ越しの食事をイエスは新たなものとしました。十字架の贖い,そして救いの新しい契約・・・イエスは,これから起こる出来事を何度も思い起こすようにとこの食卓を弟子に用意しました。「神の国が完成するその時まで,過ぎ越しの食事はしない。」それは必ず私は神の国で,あなたとともに食事をするという約束の言葉です。この食卓は,神の家族の全員が招かれている食卓です。一人で飲み食いするのではなく,一つのパンと一つの杯を分かち合うようにと命じられています。

3. 教会の晩餐
 過ぎ越しの祭りは一年に一度でした。しかし,聖餐式はいつでも開かれます。過ぎ越しの食事と違い,教会ではキリストの聖餐をいつも開きました。なぜなら,キリストの十字架の出来事が,今信じる者にとって,今まさに目の前で起きる出来事でもあるからです。イエスは「わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われました。聖餐の中心にあるのは「イエスを覚えること」そして「新しい契約」を私たち自身に絶えず刻みつけ,告白していくことにあります。それは儀式としてというよりも,みことばが語られ,イエスの教えが語られ,そして,十字架の死において流された血潮とささげられた体を覚えるときであり,さらには主の約束を思い返す時でもあるのです。

4. 私たちの晩餐
 イエスは私たちと親しく食事をともにしてくださいます。イエスご自身を私たちに与えてくださいました。そして,神の国で杯を交わそうと約束してくださったのです。今は目の前にイエスはいないけれども,信仰を持ってこの食卓に着くときに,私たちの目の前にイエスはいてくださるのです。

[考えるために]
 イエスが備えられた聖餐には,どのような意味があるのでしょうか。

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2008年10月24日

2008/10/5礼拝メッセージ

2008年10月5日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ21:37~22:6
「すべての人」

1. イエスの周囲
 十字架を前にしたイエスの周囲には様々な人々がいました。まず「民衆」がいました。民衆はみな朝早くおきて,教えを聞こうとして,宮におられるイエスのもとに集まってきました。それは彼らの熱心さをあらわしています。それと同時に,イエスに対する彼らの期待の高さをも示しています。さらに過ぎ越しの祭りに入り,民衆の熱気は高まっていったことでしょう。その民衆の一方で,祭司長,律法学者たちは,イエスを殺すための良い方法を探していました。

2. 弟子たち
 ここでは12弟子の一人の姿が記されています。それはユダです。ユダの裏切りは初期の教会で非常に大きな問題となったことでしょう。また彼を単純に悪者にはできない背景もあったのではないかと思います。他の福音書においてもユダの裏切りが取り上げられていますが,それぞれに特色があります。いずれにしてもユダの裏切りは衝撃的な出来事でした。これをどう教会は受け止めたのでしょうか。もう一つの問題はイエスが自ら十字架を予告していたということです。ユダの裏切もまたイエスは承知していたということも,弟子たちは知っていたのです。悪を神が誘発したのか,それとも神は悪を容認されたのか。ここでは「サタンが入った」と説明をしています。そうとしか言えないほどに私たち人間は弱いという現実があります。しかしそれだけではありません。そのことさえも神はご存知であるというもうひとつの側面があるのです。

3. すべての人
 一見無害に見える群衆も,明らかにイエスに敵対していた祭司長たちも,さらにキリストの弟子たちも,裏切ったユダも,ここにいるすべての人が,イエスの十字架と無関係ではありません。群集は熱心にイエスの話に耳を傾けていました。しかし,彼らもまたイエスを十字架にかけることに賛同していきます。弟子たちも最後までイエスに従うことのできなかったものたちです。ここに登場する人すべてが罪人であり,それは私たちも同様です。しかし,主の名を呼ぶものは,みな救われる,これもまた聖書の語る真理なのです

[考えるために]
 私たちの弱さとは何でしょうか。
 神は私たちの弱さをどのように受け止めておられるでしょうか。

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2008年10月22日

2008/9/28礼拝メッセージ

2008年9月28日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ21:29~36
「神の約束を信じて」

1. 時を見極める
 「この世界がいつまでも続くように」そう願うものです。私たちはイエスが口にされたその世界の悲惨な現状を見て祈ります。「どうか,ここに平和が,神の国が来ますように」と。イエスの宣教はこの言葉でスタートしました。「時が満ち,神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」イエスは時を見極めなさいと言われます。ここでそれをたとえを用いて説明しました。木が茂ることにより,季節の到来を知ると同じように,今がどのような時かを見極めなさいというのです。

2. 時の捉え方
 イエスが語られた「その時」とは恐ろしい審判の時であるような気がします。よく耳にする最後の審判と呼ばれているものです。イエスも私たちを脅しているのでしょうか。この天地は滅びる,だから今信じなさいと言われているのでしょうか。全てが手遅れとなってしまうその前に神に立ち返りなさい,と勧めているのは確かなことです。しかし,ここでイエスは何か分からないけれど,恐ろしいから信じるようにと言っているのではありません。イエスは「本当の現実をしっかりと知りなさい」と仰っているのです。

3. 神の国の到来
 神の国が来るとはどういうことでしょうか。それは,世界の終わりだけを意味しているのではありません。それは神の救いの完成の時です。あらゆる苦難や現実に対する神の完全なる回答が,「神の国の到来」です。イエスが教えられた「主の祈り」の中にもこの事が祈られています。これは「この世界を救ってください」という切実な祈りでもあります。神の国が来るということは2重の意味を持っています。それは「滅び」と「救い」です。滅びは罪の世の滅びです。そして救いは罪の世が過ぎ去り,そして神の国がここに到来することです。私たちの目に見えるものすべては崩れ去り,過ぎ去ります。しかし,神の言葉は決して滅びることはありません。つまり,神の約束が無に帰することはなく,神の救い,神の国は必ず来るということなのです。だからこそ,私たちは世に流され,落胆することなく,神の国が来ますようにと祈るものとさせていただきたいのです。

[考えるために]
 主の祈りの意味をもう一度考えましょう。
 私たちは何を祈っているのでしょうか。

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2008年10月16日

2008/9/21礼拝メッセージ

2008年9月21日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ21:20~28
「頭を上にあげて」

1. 世の終わり
 「世の終わり」はいつの時代においても語られてきました。終末ということを,私たちは聖書から正しく知ることが必要でしょう。聖書は始まりがあり,終わりがあるということを語っています。始まりはこの世界の始まりであり,私たちのいのちの始まりでもあるでしょう。そして終わりは人の生涯の終わりであり,この世界の終わり,終末のことをも指しています。しかし,その「終わり」は同時に「神の国の完成」「神の国の開国」の時と言ってもいいものなのです。

2. 二つの終わり
 イエスは「世の終わり」について2つの側面から語りました。一つは「エルサレムの終焉」ともう一つは「世界の終末」です。「エルサレムの終焉」これは歴史の中ですでに起こった出来事です。「滅亡」「逃亡」「痛み」「大きな苦しみ」「神の怒り」それは悲しい現実です。当時の人々は神を信じる者にはこのようなことは起こらないと考えていました。しかし,イエスの認識は違いました。なぜならそのこともまた神によって預言された現実の苦難だったからです。この苦難は神の知らないことではなく,神が報いる日でもありました。さらにこの苦難に終わりがあります。「異邦人の時の終わるまで」さらに「人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗ってくる」その時こそ終わりの時です。

3. 贖いの時
 初代教会は実際にエルサレムの滅亡に直面しました。その現実を目の当たりにしたとき,彼らはイエスのことばを改めて現実のものとして受け取ったことでしょう。そして,身を引き締めたに違いありません。ここでイエスは言われました。「これらのことが起こり始めたなら,からだをまっすぐにし,頭を上げなさい。」苦難は起こる,しかしそのときこそ,頭を天に向け,神を見上げよとイエスは言いました。なぜなら「贖いの時」がいよいよ来たのです。つまり神の国がここに到来し,完成する・・・それが贖いの時です。私たちもまた苦難の先にある神の救いを,神の贖いの時を信仰によって見させていただきましょう。主イエスの十字架の苦難と死の先にある,復活の栄光と新しいいのちを見上げさせていただきましょう。

[考えるために]
 私たちの苦難の先に,主イエスは何を約束されたのでしょうか。

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2008年10月04日

2008/9/14礼拝メッセージ

2008年9月14日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書21:10~19
「忍耐によって」

1. イエスの預言
 「恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。」すでにこれらのことが,私たちの時代において起こっていることを私たちは見ています。今の日本において,実感としては薄いものも中にはあるでしょう。しかし,潜在的に言い知れない不安や焦燥感があることも事実です。しかし,いつ何が起こっても不思議ではない中に私たちは生きています。このイエスのことばを聞いた人々も同様だったことでしょう。また弟子たちの期待は,イエスが,ダビデのような王として君臨してくださると期待していました。イエスが王位に着いてくだされば,決してそのようなことは起こらない,そう期待していたことでしょう。

2. イエスの認識
 しかし,イエスの現実認識は異なりました。これから起こるのは,多くの痛ましい事柄と迫害であると言うのです。キリストを信じる信仰は安易な慰めの信仰ではありません。また現実から目を背けさせるようなものでもありません。この世界を生きるということは,苦しみの連続です。聖書はそのことを最初から記しています。「あなたはちりだから,ちりに帰らなければならない。」私たちのいのちには苦しみが付きまといます。

3. 慰めのことば
 しかし,イエスは従うものに対する慰めと励ましの言葉を語ってくださいました。それは,苦しみの時,迫害の時,痛みの時,そこに必ず神の手が伸ばされるという約束でした。迫害のときも心配しなくてよい,なぜならそのときが「あかし」の時となるからだと言われました。また語るべきこともあなたがたに与えると約束されました。さらなる苦しみに会おうとも,あなたがたの髪の毛の一本も失われることはないとお語りになりました。なぜなら,イエスご自身が,十字架上でこれらの苦しみを受けてくださり,そしてそれゆえに,神がこの方を高くあげてくださったからです。イエスの忍耐の先にあったのは,復活のいのち,復活の主の栄光でした。私たちもまた苦しみのなかで忍耐を強いられることもあるでしょう。しかし主に従うものの忍耐は,キリストご自身の忍耐がそこに合わさり,キリストが受けた栄光と同じ栄光が,そこに完全にあらわされるのです。私たちをどんなときにも守られ,支えてくださる主の約束にとどまらせていただきましょう。

[考えるために]
 イエスの忍耐の先にあったものは何でしょうか。
 私たちの忍耐の先に約束されているものは何でしょうか。

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2008/9/7礼拝メッセージ

2008年9月7日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書21:5~9
「警告と招き」

1. イエスとの対決
 イエスは人々との対決を深められます。私たちも同じようなところがあります。私たちが聖書と,イエスと向きあうときに,私たちの内面が探られるということがあります。そのことを通して,私たちの信仰は自立していきます。最初から神のことがよくわかる人はいません。一人の人が練り上げられるのには相当な時間が必要なのです。ここでもイエスは人間と神との考えの違いを明らかにしています。

2. 身勝手なメシア像
 イエスは民衆に語りました。「どうして,人々はキリストをダビデの子と言うのですか。」「ダビデの子」というのは,当時のメシアに対する称号です。この言葉だけを取れば正しい物の言いでした。しかし,問題は,この言葉を口にするときにどのような思いを抱いていたかということです。「ダビデの子」それは文字通り新しい王,ダビデのような王,そのような人を指していました。彼らにとっての救いとは何だったのでしょうか。自国の栄光,繁栄,地位の保障,勝利,平和,自由・・・これらをもたらす偉大なリーダー,カリスマ的な人物を彼らは待ち望んでいたのです。現代ではどうでしょうか。私たちはいかなる思いでキリストの名を口にしているのでしょうか。

3. イエスとは誰なのか?
 イエスとは人なのか,それとも神なのでしょうか?イエスはここで詩篇110篇を引用しました。これは父なる神が,メシアであるダビデの主に語ったと記している箇所です。これをイエスはダビデがキリストを主と呼んでいるのだと解説しました。このことは同時にご自身がいったい何者かを示した言葉なのです。それは,この世の中で考えられている神でもなく,人間のレベルのカリスマでもないということ。この詩篇にある私の主とは,世界の全ての王であると同時に「祭司」であると歌われている方です。王であり,祭司である方こそ来るべきメシアです。王とは神の正しさを実現する者であり,神の民を導く方です。そして祭司とは,神と民とを仲介する役目を負っています。その方が私たちの救い主であるがゆえに,私たちは神の民であり続けることができるのです。最後の最後まで,神の前に赦されたものであり続けることができるのです。それゆえに神の愛から誰も私たちを引き離すことはできないのです。私たちの救い主は,ただの人間でもなく,ただの神でもないのです。

[考えるために]
 詩篇110篇にあるメシアの姿とはどのようなものでしょうか。

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2008年09月21日

2008/8/31礼拝メッセージ

2008年8月31日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:45~21:4
「与えられているものによって」

1. 律法学者と金持ち
 イエスは律法学者たちと対立しました。「律法学者には気をつけなさい。」教会の指導者である弟子たちにイエスは語られました。律法学者はどのような人々だったのでしょうか。イエスが語られたように彼らは長い衣をまとっていました。その姿は目に見える形での権威を示しています。また広場で特別な挨拶をしました。会堂や宴会の席でも特別な席があったようです。さらにイエスはやもめの家を食いつぶしているとか,長い祈りをすると指摘しています。イエスは目を上げて話を続けました。それは金持ちたちが献金している姿と,貧しいやもめがレプタ銅貨を二つ投げ入れている姿でした。そこで語られたのは,この貧しいやもめこそ,どの人よりも多く神にささげた人であるという話でした。

2. イエスの非難
 私たちはイエスの言葉から何を受け取るでしょうか。律法学者や金持ちのようではなくというメッセージでしょうか。見るからに悪い人を悪く言うことは簡単なことです。しかし,ここでイエスは見るからに悪い人のことを取り上げているわけではありません。律法学者も金持ちも,彼らは悪人ではなく,むしろ神によって祝福された人と言ってもいいでしょう。律法学者になるためには,相当な努力が必要ですし,金持ちは,まさに神からの祝福を受けたものたちであると言えます。宮を支えていたのは,このような人々でもありました。しかし,イエスはその彼らのあり方を明らかに非難されたのです。

3. すべては神のために
 私たちは目に見えるものに縛られます。あの人は立派であるとか,またしっかりしているということを重要視します。しかし大事なことは,私たちが持っているもの,努力も血筋も環境も,また地位もお金も名誉も,そのすべては誰のものであるのか,という根本的な問いかけがあります。多くのものを与えられた人には,多くの責任が持たされています。それらのものをもって,与えてくださった神のすばらしさを表し,さらに神が望まれていることを実現するために,一人一人に多くのものが与えられているのです。ここで非難しているのは,自分に与えられたものを,自分の栄光のためや神に感謝せずにささげている姿です。主がほめられたこのやもめの姿は私たちに何を示しているのでしょうか。

[考えるために]
 私たちに与えられているものとは何でしょうか。それはなぜ委ねられているのでしょうか。

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2008/8/24礼拝メッセージ

2008年8月24日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:41~44
「王であり祭司である方」

1. イエスとの対決
 イエスは人々との対決を深められます。私たちも同じようなところがあります。私たちが聖書と,イエスと向きあうときに,私たちの内面が探られるということがあります。そのことを通して,私たちの信仰は自立していきます。最初から神のことがよくわかる人はいません。一人の人が練り上げられるのには相当な時間が必要なのです。ここでもイエスは人間と神との考えの違いを明らかにしています。

2. 身勝手なメシア像
 イエスは民衆に語りました。「どうして,人々はキリストをダビデの子と言うのですか。」「ダビデの子」というのは,当時のメシアに対する称号です。この言葉だけを取れば正しい物の言いでした。しかし,問題は,この言葉を口にするときにどのような思いを抱いていたかということです。「ダビデの子」それは文字通り新しい王,ダビデのような王,そのような人を指していました。彼らにとっての救いとは何だったのでしょうか。自国の栄光,繁栄,地位の保障,勝利,平和,自由・・・これらをもたらす偉大なリーダー,カリスマ的な人物を彼らは待ち望んでいたのです。現代ではどうでしょうか。私たちはいかなる思いでキリストの名を口にしているのでしょうか。

3. イエスとは誰なのか?
 イエスとは人なのか,それとも神なのでしょうか?イエスはここで詩篇110篇を引用しました。これは父なる神が,メシアであるダビデの主に語ったと記している箇所です。これをイエスはダビデがキリストを主と呼んでいるのだと解説しました。このことは同時にご自身がいったい何者かを示した言葉なのです。それは,この世の中で考えられている神でもなく,人間のレベルのカリスマでもないということ。この詩篇にある私の主とは,世界の全ての王であると同時に「祭司」であると歌われている方です。王であり,祭司である方こそ来るべきメシアです。王とは神の正しさを実現する者であり,神の民を導く方です。そして祭司とは,神と民とを仲介する役目を負っています。その方が私たちの救い主であるがゆえに,私たちは神の民であり続けることができるのです。最後の最後まで,神の前に赦されたものであり続けることができるのです。それゆえに神の愛から誰も私たちを引き離すことはできないのです。私たちの救い主は,ただの人間でもなく,ただの神でもないのです。

[考えるために]
 イエスとはどのようなお方であると聖書は語っているでしょうか?

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2008年09月10日

2008/8/17礼拝メッセージ

2008年8月17日の礼拝メッセージの要約です。
この日は吉澤慎也神学生がご奉仕くださいました。
ヨナ書1:1~17
「ヨナと神様と私」

1. ヨナ書アウトライン
①海におけるヨナ
 A. ヨナの最初の召命(1:1-3)
 B. ヨナと水夫たち(1:4-16)
 C. 救出に対するヨナの感謝(1:17-2:10)

②ニネベにおけるヨナ
 A. ヨナの第二の召命(3:1-3)
 B. ヨナとニネベの人々(3:4-10)
 C. ニネベの救出に対するヨナの怒り(4:1-11)

2. 海に投げ込まれたヨナ
 アッシリヤ帝国の首都ニネベに行くようにという主の言葉に対して、預言者ヨナは主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとする。船は激しい暴風に襲われるが、ヨナは祈らない。ヨナは自暴自棄になっていたと思われる。海に投げ込まれたヨナは、ようやく神様の方を向き始め、魚の中から感謝の祈りをする。
ヨナの態度は中途半端で、ゆっくりとした成長しか見られないが、それでも神様はヨナをあわれまれた。神様は、ヨナと同じような私たちにもあわれみを示してくださる。

3. ヨナの怒りと神様のあわれみ
 ヨナの働きにより、ニネベは滅びを免れるが、そのことでヨナは怒る。ヨナは正義感が強く、ニネベのような悪の町は滅びるべきだと考えていた。それはヨナが最初にタルシシュへ逃れようとした理由でもある(4:2)。ヨナでさえも理解できない神様の深いあわれみが、ヨナ書の中心メッセージ。しかし最もあわれみを受けたのはヨナ自身であろう。ヨナは必ずしも模範的な信仰者として描かれていないが、神様はヨナに対して大きなあわれみを示した。ヨナと同様の私たちにもまた、神様の永遠の愛が注がれていることを覚えたい。その神様の愛を覚える時に、私たちの心にも他人に対する寛容さが生まれるのではないか。

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2008年08月10日

2008/8/10礼拝メッセージ

2008年8月10日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:27~40
「生きている者の神」

1. サドカイ派
 サドカイ派は祭司職についていたユダヤの貴族階級に支持されていました。彼らは義人の復活を否定しました。彼らは「レビラート」と呼ばれる制度を用いて質問をしました。それは規定通りに行った場合,もし復活があるならば復活後妻は誰の妻となるのか?という質問でした。

2. 質問の真意
 レビラート婚の制度は「相続」ということがその根底にあります。それは真の神に対する信仰の継承が,神が与えてくださった財産を継承することと固く結びついていたからに他なりません。それほど,この世におかれた神の民の使命が重要なものであったことを,この規定は表しています。しかし,サドカイ派はその点は問題にせず,ただ表面的な規定を取り上げてイエスに質問しました。一見,夫婦の問題であるかのように見えます。しかし,この質問で問われているのは夫婦の愛ではありません。復活の時に妻は誰のものとなるのか,さらには,結局,財産は誰のものになるのかという問題なのです。彼らは律法を取り上げながら,その根底には世俗的な考えがあることがわかります。しかし,私たちもまた,神の国と義を求めているようで,その実態はこの世の現実や心配で頭の中がいっぱいになっているのではないでしょうか。

3. 復活の子
 イエスは答えられました。「義人が復活したならば,そのような人はめとることも,とつぐこともない。」神の国ではもう財産の相続など関係はありません。なぜなら,そこは神の完全なる支配が完成に至った「国」だからです。さらにイエスは言います。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは,神に対しては,みなが生きているからです。」つまり,神は過去のお方でもなく,また死んでしまった者の神ではありません。今,生きている者の神であり,それはアブラハムの時代から,今に至るまで同様であるということ。そして,今,神を信じ,神に従うということは,神がこれから先,永遠に至るまで,私たちを心に留めてくださるということです。イエスにあって神の国に入る,そして永遠のいのちを持つということは,私たちの想像をはるかに超えたことであり,この世の尺度では決して測ることができない大きなものです。その約束はアブラハムや過去の信仰者のものではなく,今生きている者に与えられてもいる約束であるということなのです。

[考えるために]
 私たちはどこに向かって生きているのでしょうか。この世,目に見えるものに対してでしょうか。
 それとも,神に向かって生きるものでしょうか。

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2008/8/3礼拝メッセージ

2008年8月3日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:19~26
「神の肖像」

1. 律法学者たちの反発
 たとえ話を聞いて,律法学者たちは自分たちのことであると気がつきました。しかし,彼らは神に立ち返りイエスを受け入れようとはしませんでした。反発の度合いを強め,義人を装った間者を送りました。イエスの言葉尻を捕まえて,理由をつけ総督の下へと引き出そうと考えたのです。自分たちの手を汚さずにイエスを葬り去ろう,それが彼らの狙いでした。

2. 間者の罠
 彼らは税金に関する質問をイエスにしました。「私たちがカイザルに税金を納めることは,律法にかなっていることでしょうか。」この質問は,答え次第ではローマ総督へ引き出すか,もしくは民衆がイエスから離れていくきっかけになるものでした。イエスは答えました。「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。」銀貨にはカイザルの肖像が彫られていました。そこでイエスはこのように言います。「カイザルのものはカイザルに。そして神のものは神に返しなさい。」イエスは税金を納めることを否定しませんでした。しかし,献げることの本質的な議論に入っていったのです。

3. 誰のものか
 「神のものは神にかえしなさい。」問題はここです。「神のもの」これは一体何か。ここで注目すべきは「肖像」という言葉です。この言葉は「かたち」という言葉です。つまり,神のかたちとは何かという問いをイエスは投げかけているのです。神の「かたち」それは人間の創造のときに神が語った言葉です。神のかたちであるものは何でしょうか。それは「人」です。神のかたちでが刻まれている人間,そうあなた自身を神に返しなさい,神にささげなさい,と語られたのです。

4. 神のものは神へ
 私たちの目線はどこに向けられているでしょうか?「神のものは神に返す」ということはどの範囲をさしているのでしょうか?旧約の規定である10分の1でしょうか。表向きは正しく行っているかのように見えて,全てをご存知で,全てを下さった方に何をお返ししていたのでしょうか。私たちは何よりも大きなものを神からいただいています。それが十字架の主イエス・キリストなのです。この十字架に対して,わたしたちは何を神にお返しすることができるでしょうか。

[考えるために]
 あなたにはどなたの肖像が刻まれているのでしょうか。
 何を神にお返しすることができるでしょうか。

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2008年08月02日

2008/7/27礼拝メッセージ

2008年7月27日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:9~18
「砕きの石」

1. 主人と農夫
 ある人がぶどう園を造り,農夫たちに貸して長い旅にでます。季節になりぶどう園の収穫の分け前をもらうことにしました。そこで一人のしもべを遣わします。ところが農夫たちは,このしもべを袋叩きにし送り返したのです。そのようなことが三度繰り返されます。このたとえ話は,イスラエルと神,人間と神との関係が描かれています。しもべは旧約の預言者です。神は預言者を通して,この世界の真の主人が誰であるかを語ってきました。しかし,その預言者を,神のことばである聖書を私たちはどのように扱ってきたのでしょうか。このたとえのように,そのことばを受け止めず,軽んじ,無視してしまっているような現実があるのではないでしょうか。

2. 主人の忍耐
 この主人は,三度もしもべを農夫たちに送りました。これこそイエスが語る神の姿なのです。神は寛容にこの世界を私たちにゆだねておられます。そのような中で,何度も神は私たちに語りかけておられます。「今,神に立ち返りなさい,あなたは神から離れてしまっている。神は悔い改める民をあわれみ深く扱ってくださる」と語りかけてくださっている。しかし,私たちはその言葉に耳を傾けず,自分の考え,自分の悟りによって歩んでいるのです。しかし,神は三度目を越えて,とうとう彼の愛する息子を遣わすことにしました。しかし農夫たちは,その息子を殺すという暴挙に出るのです。当然,ぶどう園の主人はこの農夫を打ち滅ぼしてしまいました。

3. 和解の使者
 人々は,この話を聞いてそんなことがあってはならないと言います。この主人は農夫たちに望みを置きました。何とか分かって欲しいと期待したのです。しかし,残念ながらその思いは農夫たちに届きませんでした。この息子は礎の石であり,その石によって私たちが神の前に問われているのだとイエスは語ります。この息子こそイエス自身です。イエスが来られたのは決して私たちを裁くためだけではありません。神が御子を世に遣わしたのは、御子によって世が救われるためなのです。愛する息子を送ったのは,そこに最後の希望を置くためでした。私たちは,その和解の使者をどのようにお迎えするのでしょうか。神の前に悔い改め,イエスを信じるならば必ず神との和解が与えられるのです。

[考えるために]
 私たちと神様との関係を考えて見ましょう。
 どれだけ多くのものが私たちの手に委ねられているのでしょうか。

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2008/7/20礼拝メッセージ

2008年7月20日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:1~8
「誰の権威の下で」

1. 宮きよめで語られたこと
 「宮きよめ」のメッセージの本質は,神の前の悔い改めを迫ったということにあります。あなた自身が,神の前にささげられているのか,そうイエスは問われました。これまでのあり方を神の前に悔い改め,キリストをお迎えしなさい・・・神はそのあなたを救ってくださる。これが救いのメッセージです。

2. 何の権威の下に
 私たちはどこに基準を置いているのでしょうか。どの尺度で物事を計り,他の人を値踏みしているのでしょうか。ユダヤ人たちはイエスに問いました。「何の権威によって?」これは実に根本的な「問い」です。私たちが人間である限り,どこかに基準(権威)を置き,この世界と関わっていることでしょう。しかしイエスは人々の目に見える基準を否定されました。そしてこの行動は,この時代の権威の下にあった人々を震え上がらせ,恐れさせました。なぜ彼らは恐れたのでしょうか?

3. イエスの行動の前に
 なぜなら,イエスの言動は,人による権威を無効化した行為だったからです。その前に私たちが立たせられるならば,たちまち人間的な取り繕った正しさや正義ではなく,神の前に素の私たちの姿があらわになってしまいます。ですから,祭司長,律法学者,長老たちはイエスの前に恐れました。彼らは表向き正しさを保っているように見えます。しかし,その正しさは人の権威によって築き上げられたものでした。彼らだけではありません。私たちの世界もまた,何らかの権威によって成り立っています。それは個人においても同様です。

4. 天からか人からか
 彼らは問いました。しかし,イエスは問いを彼らに返されました。ヨハネのバプテスマは天からなのか?しかし,彼らの結論は「どこからか知りません」というものでした。それは,ただプライドと人を恐れての結論でした。彼らが恐れているのは神ではなく,「多くの人の目」また彼らが築き上げてきたものを失うことへの恐れだったのです。イエスは言われます。「あなたがたに話すまい。」この答えは,彼らの頑なさゆえです。人の目を恐れず,正しさに固執しなければ答えを出せたはずです。イエスが答えてくださらないのではなく,私たちの方で本心を隠し,答えを避けてしまうことがあるのです。

[考えるために]
 私たちは考えや行動の基準をどこに置いているのでしょうか?

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2008年07月27日

2008/7/13礼拝メッセージ

2008年7月13日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書19:45~48
「祈りの家」

1. 宮清め
 イエスはエルサレムで最初に宮清めをしました。イエスは人の罪と悲惨を思われ涙されました。罪から自分の力で抜け出せないことにこそ人の悲惨があります。当時,エルサレムの宮で認められて人々は商売をしていました。イエスはその人々を追い出しました。なぜイエスはこのような行為に及んだのでしょうか。「わたしの家は,祈りの家でなければならない」「あなたがたはそれを強盗の巣にした」これらは旧約聖書の言葉です。一つはイザヤ書56章です。この箇所の中心テーマは「異邦人(罪人)の救い」です。ここでの「祈り」とは神に私たち自身を受け入れていただくことを願う祈りです。しかし,私たちの祈りは,自身の欲することを願う祈りに終始します。私たちがまず祈らなくてはならないことは何でしょうか。それは,主が罪人の私を受け入れ,ご自分の民としてくださることを願う神の前に立つ祈りなのです。

2. 真の神を信じる信仰
 真の神を信じる信仰とは何でしょうか?私たちは祈ったので主は聞いてくださるとか,祈っていないので聞いてくださらないと思いがちです。しかし,神は悔い改め,主に立ち返り,自分自身を主にささげたものを,ご自分の民と言ってくださいます。私たちをご自分のものとされたがゆえに,主は必ず祝福してくださるということ,これこそ真の神信仰です。キリストの体なる教会もまた祈りの家と呼ばれます。その祈りの中心にあるのは,真の神を信じる信仰です。主に対して私自身をささげる礼拝がその中心にあります。「強盗の巣」はエレミヤ書7章にある言葉です。表向きの言葉と,内なる信仰との分離が語られています。それは偽りの信仰です。イエスは,表向きは神をあがめているようで,その実は神ご自身を求めていない私たちと真正面から向き合おうとされています。

3. ご自身をささげられたイエス
 イエスはなぜ,十字架の直前に宮を清められたのでしょうか。それは,これから十字架上でささげられる犠牲の大きさに目を向けさせるためです。私たちの罪のために,ご自身を神の前でささげようとされているからです。イエスの十字架の犠牲によって,私たちの祈りが神に受けいれられるものとなります。私たちはこの宮を清められたイエスの姿を思い,この礼拝に集い,私たち自身を神にささげてまいりましょう。

[考えるために]
 私たちが第一に祈るべき祈りとは何でしょうか?

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2008年07月04日

2008/6/29礼拝メッセージ

2008年6月29日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書19:11~28
「主のみ思いはどこに」

1. 私たちと主の考えの違い
 イエスがエルサレムに近づくと,人々は神の国がすぐに実現すると考えていました。人々の思い描く理想と,イエスが考える神の国とが異なっていました。カルバンはこう記しています。「われわれに良きものがあるとすれば,それは御霊の実にほかならず,これなしでは我々のものとしては精神の暗黒と心情の倒錯しかない。」私たちはどこかで自分は正しいものであるという思いを持ってしまいがちです。しかし,ここで一つのたとえ話を通してそのような考えを退けられました。

2. ある身分の高い人
 ある身分の高い人はイエスのことを指しています。イエスが十字架の後に天にあげられ再び戻ってこられる,その間の時を指してたとえを話されました。この人は10人のしもべを呼んでお金を手渡して命じます。「私が帰るまで,これで商売しなさい。」イエスは王位を得て戻ってきます。そしてしもべたちがどのようにすごして来たかを聞くのです。お金を有効に運用したものには良い評価を与えられました。しかし,ある人が主人の前にやって来ました。彼はお金を包みにしまいこんで取っておきました。なぜなら,彼の目にこの主人は「計算の細かい厳しい方」「すべてを奪い取る方」として写っていたからです。主人はこの人に厳しい応答をしました。「その一ミナを彼から取り上げて,10ミナ持っている人にやりなさい。」

3. しもべの不理解
 厳しい話です。しかし,私たちが一番に注目すべきことは,このしもべがまったく主人のことを理解していなかったということです。私たちもまた,イエスのことを理解しているでしょうか。ある人は,この方を王と認めません。また,ある人は,イエスを神の子と認めていながらも,イエスのことを理解しようとしていません。私たちの目にイエスはどのように映っているのでしょうか。儲けた人々は,預けられたものを最大限に用いようとしました。失敗するか,成功するかが問題ではありません。それよりも,彼らは主人に言われたことを忠実に実行し,必ず主がほめてくださると信じていました。主は私たちに恵みに生きるように,そして,必ず将来さらに私たちに与えてくださることを信じて生きるようにと,私たちに語ってくださっているのです。ただし忘れてはなりません。主イエスが望まれていることは何であるかを。

[考えるために]
 主イエスの望まれていること,命じられていることは何でしょうか?

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2008/6/22礼拝メッセージ

2008年6月22日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書19:1~10
「義人ザアカイ」

1. ザアカイ
 今日の結論はこうです。「救いは神の招きにこたえること」。イエスの呼びかけにこたえる時に,そこに救いがもたらされます。その招きにこたえた人がザアカイでした。ザアカイとは「義人」という意味の名前です。彼はその名とは異なる人物でした。人からも,また自分でも救いようがないと見なされたこのザアカイはどのように救いに預かったのでしょうか。それはある奇跡が起こったからです。

2. 奇跡
 どのような奇跡が起こったのでしょうか。それは一見すると小さなものでした。しかしその意味するところは計り知れない大きさを持つものでした。その奇跡は「神との出会い」という奇跡です。ザアカイは神の子イエスと出会ったのです。彼はイエスが来られると聞いて走り出します。彼はイエスを間近で見たいとの思いから,木に登りました。しかし,そこで予想していなかったことが起きました。イエスが突然上を見上げ彼に声をかけられ,彼の家に泊まることになったのです。

3. ザアカイの喜び
 彼はこの申し出を喜んで受け入れました。彼はイエスを「私の主,神の子」としてへりくだりつつ迎えたのです。彼はイエスとの出会いを求めていました。そして,イエスはそのザアカイのところに「ちょうど」来て下さったのです。彼が喜んでイエスを迎えると,ザアカイには大きな変化がもたらされます。彼の心を本当に満たすものが与えられたのです。

4. 真の宝
 本当の宝は私たちが探し出して手に入れるのではありません。宝とは,私たちを探しておられるイエスを迎え入れるということです。ザアカイの奇跡は,神の御子イエスがザアカイの前に来てくださったこと,そしてザアカイがイエスを救い主として迎え入れたということでした。救いは,すでに私たちを探して下さったイエスを私の内に招きいれるということです。その時にザアカイと同様に,大きな喜びが私たちに沸き起こります。私たちは本当の宝を手に入れることができるのです。

[考えるために]
 本当の宝とは何でしょうか。
 私たちを真に満たすものは何でしょうか?

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2008/6/15礼拝メッセージ

2008年6月15日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:35~43
「信仰によっていやされる」

1. エリコに近づいたイエス
 イエスはエリコという町に近づかれました。そこには,ある盲人が道端に座り,物乞いをしていました。その日はいつもとは違いました。大勢の人々がこの人の前を通りすぎようとしていました。ナザレのイエスが通る・・・この盲人は,それを聞いて即座の反応を示します。彼は大声で叫びはじめました。ダビデの子のイエス,これはまさにイエスこそメシアであると彼が告白している言葉と言えるでしょう。あの役人とは正反対の姿がここにあったのです。

2. 役人との対比
 彼は,盲目で物乞いをせざるを得ない状況にありました。あの役人は自分でイエスの目の前にやってきました。そして自分からイエスに「永遠のいのち」を得るためにはどうしたらいいかを聞きました。彼の目にはイエスはただの人,偉い教師でしかありませんでした。また弟子たちにもイエスの真の姿は隠されていました。しかしこの盲目の人はどうでしょうか。彼はイエスを救い主と認め,そしてイエスにあわれみを求めた人でした。

3. 叫ぶ人
 彼の見えない目にうつったのは,人としてのイエスではなく,神が約束してくださったメシアの姿でした。周りの人は彼を黙らせようとします。しかし,彼はますます大きな声で信仰を告白しました。これは信仰の叫びです。今を逃してしまったら,イエスは自分に気がつかずに通りすぎてしまう。この叫びにイエスは目を留められました。

4. 信仰による救い
 イエスは彼に尋ねます。「わたしに何をして欲しいのか?」自分では見ることができない。自分には何もできない。ただあなたに願い叫び,求めるだけ・・・。そのことを彼はよく知っていました。この人は自分は本当に神の前に貧しく,弱く,何もないものであることを知っていたのです。そしてイエスこそ,この私を救ってくださる方であることを信じ,告白しました。「見えるようになれ,あなたの信仰があなたを直したのです。」あなたの信仰があなたを直した,この言葉は「救い」という意味の言葉です。イエスを信じる信仰だけが,私たちに救いをもたらすのです。

[考えるために]
 癒された人の目には,イエスはどのような方として映ったのでしょうか?

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2008/6/8礼拝メッセージ

2008年6月8日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:28~34
「その手に握り締めたもの」

1. 救いの真髄
 役人とのやり取りの中でイエスは言いました。「人にはできないことが,神にはできるのです。」これこそ救いの真髄です。神に委ね,イエスを信じるとき,救いは必ず与えられます。ところがイエスの弟子は,この話しの後にこのように言いました。「私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」役人が悲しそうに出て行ったのとは対照的な言葉です。イエスに評価を求める姿がここにあります。ここに役人と同じような匂いを感じます。「名誉」と「賞賛」です。この弟子の言葉に,イエスはどのように答えられたのでしょうか。

2. イエスの答え
 イエスは「神の国のために,家,妻,兄弟,両親,子どもを捨てた者で,だれひとりとして,この世にあってその幾倍かを受けない者はなく,後の世で永遠のいのちを受けない者はありません」と言いました。イエスが語られたのは,「この時に何倍も多くを,来たる時に永遠のいのちを受けないものはない」という内容です。イエスは,直接に弟子のことを賞賛しいません。それではイエスは何をお語りになったのでしょうか。

3. あなたの手に何があるのか
 家,妻,兄弟,両親,子どもを捨てた者とイエスは言いました。また役人とのやりとりでは,財産を捨てて従いなさいと命じられました。これらの言葉の意味するところは,「あなたが頼りにし,誇りにしているものは何か?あなたのその手に握り締めて,離せなくなっているものは何か?」という問いかけではないでしょうか。自分のものとして握り締めてしまっているものを手放し,神の前にへりくだり,神にすべてを預けなさいとイエスは語られているのです。

4. 神の祝福
 今のこの時,私たちが自分の手に握りしめているものを手放していくときに,それをすべて主が祝福してくださる・・・終わりの時には,必ず神の国を,永遠のいのちを私たちに与えてくださる,その約束がここにあります。この祝福は,自分だけが何倍も得るということではありません。家,夫婦,兄弟,両親,子ども,そのすべてにおいて,神の守りと祝福が及ぶと言ってもいいでしょう。神は私たちに必要なものを,あの空を飛ぶ鳥,野にさく花のように,いえ,それ以上に私たちに与えてくださるのです。

[考えるために]
 私たちの手から離すことのできなくなっているものは何でしょうか?

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2008年06月18日

2008/6/1礼拝メッセージ

2008年6月1日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:18~27
「欠けたところ」

1. 神の国,永遠のいのち
 ある役人がイエスに問います。「何をしたら永遠のいのちを得ることができるのか」と。彼は明らかに「何かをすれば」永遠のいのち,神の救いを受けることができると考えています。確かに力を尽くして歩むときに,そこに神の祝福が与えられるのは,世の摂理と言ってもいいでしょう。しかし,この世界は人の「罪」によってゆがんでしまっています。その罪は,私たちの力では克服することはできないのです。

2. 罪からの救い
 「救い」は,ただ私たちが成功した人生を送り,不幸を避けるという意味ではありません。聖書の「救い」とは,罪からの救いです。この救いは,個々人から全世界にまでおよぶものです。役人は,救いが何かをわかってはいません。ただ,彼は自分の人生に栄誉や正しさを加えようと,イエスの前にやってきました。彼はイエスを人間の教師と考え,その答えを求めました。彼は神に求めようとはしませんでした。その役人の考えをイエスは否定されます。確かに役人は,十戒も他のイスラエルの人々と同様に,幼い時から守ってきたこでしょう。イエスは彼の目を本質的な問題に向けさせます。彼に全財産を売り,貧しい人に与え,そして従いなさいと語られました。

3. 欠けたところ
 なぜ,イエスは不可能なことを口にされたのでしょうか。なぜなら,この問いこそ彼の本質的な罪を明らかにするものだったからです。彼の価値基準はどこにあったのでしょうか。それは「富」と「名声」です。それは人の評価であり,また物によって自分を高めようとする生き方です。さらにイエスは問われます。天に宝を積む,つまり,あなたは本気で神を信じ認めているのか,と。私たちは誰でも,神を認めることのできない罪を抱えています。その生涯の中で,何か自分の力ですべてをなしているかのような錯覚に陥っているのです。それこそが「罪」であるとイエスは私たちに語られています。

4. 救いはどこから
 ただ神により頼むものに救いは与えられます。罪からの救いは,ただただ神による,イエスの十字架によるのです。私たちに欠けていることは何でしょうか。それは神以外による救いはないと,心から認めることなのです。

[考えるために]
 私たちの内にある錯覚とは何でしょうか?あなたの生涯は誰から与えられたものでしょうか?

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2008年05月31日

2008/5/18礼拝メッセージ

2008年5月18日の礼拝メッセージの要約です。
申命記31:6~8
「これからという時」

1. 先の見えない今を生きる私たち
 「これからどうなるのか?」これはとても大きな関心事です。特に今の多様化,複雑化の時代にあって,未来に対する明快な答えは誰も持っていません。現実からは決して目を背けてもいけませんし,できるだけしっかりとした情報を得,また考えを持つべきなのはいうまでもありません。しかし,私たちには聖書が与えられています。私たちは聖書が教える,神の目線を教えられる必要があるのです。

2. 本当の今を生きる私たち
 私たちにとって本当の「今」は,主イエスを救い主として信じるときから始まります。主イエスを信じ従うときに,私たちは本来の「自分」になるのです。それは,出エジプトのイスラエルの民と重なります。彼らは約束の地を目指して歩みを進めました。その旅路を通して,彼らは自分たちを救うお方こそ神であり,他には神はないことを教えられ続けたのです。モーセは繰り返しこう語ります。「あなたの神,主の御声に聞き従い,きょう,あなたに命じる主の命令とおきてとを行いなさい。」この命令が語られたのは,約束の地に入った後こそ,神に選ばれた民としての歩みが始まるからに他なりません。神が与えてくださる救いの完成の時は未だ来ていません。私たちは既に救われているけれども,未だ完成していない時代に生きているのです。

3. 遣わされる私たち
 イスラエルの民が約束の地に入るということは,カナンの地へと遣わされるということをも意味していました。そこは,多くの異民族がすでに住み,真の神でない神々が入り乱れた世界でした。だからこそ,神とみ言葉に中心を置くように繰り返し言われています。私たちにも同様のことが起こっています。キリストの十字架によって,私たちは罪の奴隷から解放され,自由が与えられました。さらに,私たちはイスラエルの民と同様に,この世へと遣わされています。私たちはこの世にあって,神の国を待ち望むものたちです。遣わした者たちに神は語られます。主ご自身があなたの先に進み,ともにおられると。私たちも遣わされたものとして,主に信頼して歩ませていただきましょう。

[考えるために]
 あなたは今,どこに遣わされているのでしょうか。また,与えられている使命とは何でしょうか?

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2008年05月22日

2008/5/11礼拝メッセージ

2008年5月11日の礼拝メッセージの要約です。
Ⅱコリント6:1~10
「いまという時を見つめて」

1. 恵みの時
 パウロは「いま」という時をどのようにとらえているでしょうか。イザヤ書を引用して,いまは恵みの時,救いの日であると記しています。「救いの日」とは実のところ神のみこころの時でもあります。「救い」は,私たちにはコントロールすることはできません。救いは,ただ神のみ思いによってもたらされるものです。それはただイエス・キリストの十字架と復活によって,神から与えられたのです。

2. いまという境
 恵みの時,救いの日は,イエス・キリストがその境にあります。キリスト以降はすべて「恵みの時,救いの日」なのです。このことは一人の人の生の中でも起こります。キリストを救い主として信じる前と後。イエスを救い主として信じる私たちが生きているのはまさに恵みの時である「いま」です。キリストにあるいまを自覚したときに,いったい私たちの中に何が湧き上がってくるのでしょうか?

3. 真のアイデンティティー
 イエスとの出会いによって,私たちの中に真のアイデンティティーの確立が与えられます。私たちが何者なのかということがはっきりするのです。そのことをパウロはこのように表現します。「あらゆることにおいて,自分を神のしもべとして推薦している・・・」彼はキリストを信じるすべての人を,神のしもべであると推薦しています。キリストを信じて生きるとはどういうことでしょうか?それは,「いま」という時をどのようにとらえるかにかかっています。

4. 逆転の恵み
 パウロも彼を取り囲む「いま」を見つめます。さらに彼の内面に起こった「いま」も記しています。これらはキリストを信じたことによって得たものであり,引き起こされた出来事です。良い評価も悪い評価ももちろんあります。しかし,彼の中にはキリストによってもたらされた救いが確かにあります。私たちは神のしもべなのです。神のしもべは逆転の恵みに生き続ける者たちです。そしてその逆転を可能にするものこそ,キリストの十字架なのです。

[考えるために]
 「いま」はキリストにあって,どのような時と言えるのでしょうか。

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2008年05月14日

2008/5/4礼拝メッセージ

2008年5月4日の礼拝メッセージの要約です。
申命記4:32~40
「きょうに至るこれまで」

1. 申命記とは
 申命記は,モーセの遺言と言われる書です。イスラエルの40年もの荒野を彷徨う旅の終着の時,そこで語られたメッセージが申命記です。モーセは,これまでの40年の彷徨いの歴史を振り返ります。そこにある過ちの歴史。しかしそれは神の憐れみと確かな守りの歴史でもありました。

2. イスラエルの失敗
 もし彼らが失敗しなかったら,誰もがそう思うことでしょう。しかし,聖書における人間の前提は,人は必ず失敗する罪深い存在だということです。ただの成功神話が聖書に記されているわけではありません。約束の地を前にして主への信頼を失った者たちは,生きて約束の地に入ることはかないませんでした。しかし,彼らの子孫は約束の地に入ることを許されました。なぜなら,イスラエルの民は荒野を歩む中で,神とともに歩むことを学び,み教えを受け,それを子供たちに教え伝えたからです。このようにしてイスラエルの民全体が神の救いに与かりました。

3. 過ぎ去った時代に聞く
 この40年の月日を振り返ってみなさいと神はいわれます。その時,不信仰に陥いりながらも,神が確かに導き守ってくださった神の姿を認めることができます。なぜ,この40年の間,失敗に始まった神の民の歩みが守られ導かれてきたのでしょうか?それは,主だけが神であることを知るためであり,あなたを訓練するためであり,主があなたを選ばれたからだと,神は言われたのです。

4. 私たちの歩み
 教会の歩み,そして神を信じる私たちの歩みも,まさにイスラエルの民と同様です。イスラエルの民と同じように,過ぎ去った時代を振り返るとき,そこに神の守りと赦しが確かにそこにあることを私たちは見出すのです。そのことを覚えつつ,私たちは「今日」という時に立つのです。私たちも今日という日に,主だけが神であり,そして主が命じた教えと約束を心に留めたいと思います。これこそ,私たちが,この地上を歩むときの大切な心得なのです。

[考えるために]
 過ぎ去った日をもう一度振り返りましょう。
 今日という日に,神様はあなたに何を語ってくださっているのでしょうか?

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2008/4/27礼拝メッセージ

2008年4月27日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:15~17
「幼子のように」

1. 連れてこられた幼子たち
 イエスから祝福を受けようと,人々がその幼子たちをみもとに連れて来ました。彼らは,当時の慣例にしたがって,子どもたちに祝福を祈っていただこうとして,イエスのそばまで,子どもたちをつれてきたのです。その多くは乳飲み子であったことでしょう。この幼子たちは,「連れてこられた」子どもたちです。しかし,この微笑ましい光景も弟子たちに遮られました。しかし,この時代において,弟子たちの行為は常識的な行動でもありました。子どもの順番は,一番最後だったからです。しかし,イエスは幼子たちを呼び寄せます。イエスはここで当時の常識を覆して言いました。神の国はこのような者たちのものだと。神の基準は一体どこにあるのでしょうか。

2. 神の国にふさわしいもの
 イエスは言われました。子どもたちのように神の国を受け入れる者,それこそが神の国に入るものである,と。では「こどものように」とはどういうことでしょうか。子どものように「素直に」「疑うことをせず」ということでしょうか。この当時の子どもは「低い者」でもあります。そして,この子どもたちはイエスの前に連れてこられた者たちです。この子どもたちは受動的な存在です。子どものように神の国を受け入れるとは,子どものように素直に,疑わずに信じるということだけではありません。親に連れられて,またイエスに呼ばれたときに,そこに連れ出された最も謙った存在としての子どもたちの姿。その姿こそ,神の国に入るにふさわしいのです。

3. 謙遜
 真に謙るとはどのようなことなのでしょうか。それは,見せかけの謙遜さとは違います。また,逆に自分を卑しめることとも違います。この幼子たちは,そのようなどちらの謙遜さとも無縁の存在です。そして,神の国に入るには,子どものようにそこまで連れていってもらう存在でなければなりません。いったい誰に連れていっていただくのでしょうか。そう,それは神になのです。私たちは子どものように,全面的に神にゆだねる者とさせていただきましょう。

[考えるために]
 幼子のようになるとは,どのようなことでしょうか?
 神の国にはどのように入るのでしょうか?

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2008年05月02日

2008/4/20礼拝メッセージ

2008年4月20日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:9~14
「自己義認という課題」

1. 自己正当化と他者との比較
 イエスは神にある本当の救い,罪の赦しは,決して人の目に見えるものによってではないことを明らかにされました。私たちには神の救いが必要なのです。しかし,私たちは自己正当化によって,自分は罪人ではないと思い,神の救いは必要のないものだと考えてしまうのです。また,私たちは他の人との比較によって,自分の正当性を保とうとします。比較とは他者との違いだけではありません。人と同じだから安心することも比較に入るでしょう。そして私たちは自分とは違う人に対して赦すことのできない者でもあるのです。

3. ふたりの人
 パリサイ人と取税人がたとえに登場します。パリサイ人は自己正当化と他人との比較を祈ります。まさに自己義認の祈りです。自分の行動や言動は正しい,自分は正しい側にいるとこの人は考えています。しかし彼の基準は神にはありません。彼の基準は人の作り出した基準です。その一方で取税人は何を祈ったのでしょうか。取税人は遠く離れて立ち,目を天に向けようともせず,自分の胸をたたいて祈りました。「こんな罪人の私をあわれんでください。」この祈りの中には,他の人は登場しません。彼は目を天に向けようともしていません。なぜなら,それは今目の前にいる「神」を意識しているからです。そこには聖なる神を前にした「恐れ」や「おののき」があります。

4. 義とされたのは・・・
 イエスは取税人が義と認められたと語りました。私たちが自分の正しさや基準,またプライドなどにしがみついている限り,私たちはパリサイ人でしかありません。私たちが義と認められ,高く上げられるのは神のあわれみのゆえです。そして,救いを可能にしたのは,十字架の贖いのみ業なのです。私たちは根本的に自己義認の弱さを持っています。だからこそ,私たちはキリストの十字架の赦しを見続けることが必要です。神のあわれみを受けた者として,いつでも神の前に謙らせていただきましょう。

[考えるために]
 私たちの中に潜む自己義認の弱さは,どのようにして乗り越えられるのでしょうか。

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2008年04月23日

2008/4/13礼拝メッセージ

2008年4月13日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:1~8
「いつでも失望しないで」

1. いつでも祈る必要
 ここは17章とつながりを持って読むべき箇所です。私たちが,神の国へと歩み始めたのならば,後ろのものを振り返らずに,神の国へと歩みを進めていきなさいとイエスは語られました。そして,私たちが後ろを振り返らないために,私たちは「いつでも祈る必要がある」のです。

2. 不正な裁判官
 不正な裁判官でさえ,ひとりのやもめの絶え間ない訴えを聞くとのたとえをイエスは語りました。それでは正しい神はどうなのでしょうか。神は不正な裁判官とは比べようもないほど,正しく,愛にあふれ,知恵に満ちています。その神が,あなたの祈りを聞かれないだろうか?当然,神はその祈りを聞かれるのです。

3. 何を祈るのか?
 この祈りは,たとい苦難が目の前にあろうとも,神の国へと歩みを進めるための祈りです。ここでの祈りは,「御名があがめられ,御国が来ますように」との祈りでもあります。しかし,そうは言っても,そのような祈りは,私たちの日常とはかけ離れているように感じるのではないでしょうか。しかし,神の国はどこから始まるのでしょうか?それは多くの場合,病人や罪人からであり,やもめや貧しい人,痛みを知る人,放蕩した弟,迷い出た羊からです。私たちのほんの些細な日常の中で,絶え間なくやってくる困難や苦悩,なすべき仕事,人間関係,そのような中で,私たちはイエスが言われるようにいつでも祈るべきなのです。どんな些細なことにおいても,主は必ずそこにご自身の正しさを,またご栄光を表してくださるのです。

4. 人の子が来たときに
 イエスは最後に言われました。「しかし,人の子が来たとき,はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」これは,私たちに対する問いかけと同時に,希望の言葉でもあります。イエスが再び来られるときに,神にあって,地上に信仰は見出すことができるでしょう。私たちの望みは,私たち自身にではなく,神にあるのですから。

[考えるために]
 神の国はどこから始まるのでしょうか?

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2008年04月11日

2008/4/6礼拝メッセージ

2008年4月6日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書17:22~37
「前へと向かって」

1. 人の子の日
 人の子の日,神の国の完成の時を見たいと願っても見れない時が来るとイエスは弟子たちに言われました。イエスは,神の国が来るその前に,教会は苦しみ,悲しみに直面するということを教えられたのです。事実,キリストの弟子たちは苦難を通りました。そして,その時には誤った教えも次々と出てくるようになります。しかし,イエスが再び来られるときは,すべてを輝き照らす「いなずま」のように来ると語られています。必ずイエスの栄光が照り輝く日がやがて来るのです。

2. 必ずそこにある苦難
 しかし,その栄光の時の前に,苦しみの時がやってきます。そして,そのときのことを,旧約にあるノアとロトの物語からさらに明らかにされています。救いの完成に向かう間,それもまた救いの時であると言えますが,それは同時に苦しみの時でもあります。しかし,ここで重要なことは,ロトの妻のように後ろのものを振り返ってはならないということです。それは,救いの言葉を聞いた後の私たちの生き方の問題でもあります。人の子の現れる日がいつかは,はっきりと分かりません。しかし,その日は必ず来ます。しかし,その日を迎える前に,私たちは必ず苦しみを通らされ,さらに救いの言葉を見失わせるような現実や言葉を聞くことになるのです。

3. 前に向かって
 私たちは救いの完成へと向かうこの時代にどのように歩んでいるのでしょうか?後ろを振り返らずに,神の方へと歩みだしているでしょうか?苦しみを前にしてもなお,救いの完成の時を待ち望んで歩んでいるでしょうか?私たちが大事にするべきことは,どんなときでも,やがて来る神の国の完成の時を見つめて,十字架に完全な希望を置いて歩むということです。今目の前に苦しみ,痛ましい現実があったとしても,私たちは救いの完成の時に向かって着実に進んでいるのだということを覚えさせていただきましょう。

[考えるために]
 あなたは何を望みに歩んでいるのでしょうか?

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2008/3/30礼拝メッセージ

2008年3月30日の礼拝メッセージの要約です。
ローマ人への手紙12:12
「ともに祈る祈り」

1. 第一の奉仕
 私たちの第一の奉仕は,主の日に時間をささげ,身体をささげ,心をささげ,聖霊にうながされて集い,ともに父なる神を覚え,イエス・キリストの十字架に感謝する礼拝をささげることです。また,神の民である私たちの歩みは,恵みの神が先行し,私たちは主に心から従うという歩みです。

2. 両輪
 恵みの神が先行し,主に心から従う。この単純なあり方に,なぜ私たちは向かうことができないのでしょうか。その原因のひとつは「恵みの神の姿」をはっきりと捉えていないことにあります。もうひとつの原因は,私たちの側に主に従う備えがないということです。その現状への打開策とは何でしょうか?それは「みことばと祈り」です。これが信仰生活の両輪なのです。

3. 祈り
 祈りは,神の恵みにお応えすることです。神の語りかけに応えるという循環こそ,私たちの信仰を生き生きとしたものにする秘訣です。祈りとは何でしょうか?祈りとは,私たちの願いであり,叫びともいえます。祈りにおいて重要なことは,祈りにあなた自身をささげているか,ということです。祈りの中で,深くみことばをめぐらせ,神のみこころを求める。それは神と呼吸をあわせていくことでもあります。しかし,それでも問題は残ります。しかし,真の問題は個人の問題ではないのです。

4. ともに祈る
 「祈り」は個人だけのものではありません。聖書において祈りとはともに祈ることをも指しています。私たちは,ともに神のみこころを求めて祈っているでしょうか。この世と神の国の狭間である教会において,私たちはいつでもともに祈るものとさせていただきましょう。私たちがともに祈るそこに主はおられるのですから。

[考えるために]
 ともに祈るときをもっているでしょうか?

投稿者 mb-church : 13:26 | コメント (0) | トラックバック

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2008年03月29日

2008/3/16礼拝メッセージ

2008年3月16日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書17:20~21
「神