2012年01月26日
2012/1/22礼拝メッセージ
2012年1月22日の礼拝メッセージの要約です。
マルコの福音書1:16~20
「イエスの招き」
1. キリストの招き
今日の箇所は、ペテロたちがイエスに声をかけられ、そして応答する場面です。当時、律法の教師たちが、弟子を取るということがありました。しかし、多くはこのような方法を取りませんでした。しかも、当時は家業を継ぐということが一般的でもありました。そのような彼らが、すぐに自分たちの職と家を捨て、イエスの言葉に従いました。なぜなのでしょうか。詳細な理由は書いていません。ただ彼らは従ったのです。この時のペテロたちが、イエスのことを正確に理解し、先のことを分かっているのかといえば、全く分かっていなかったことでしょう。それでは、ペテロがこの場面で教会に、また私たちに語ろうとしたことは何だったのでしょうか。
2. ペテロの驚き
一つは、漁師であった自分たちに声をかけたという驚きです。なぜ私たちであったのか。その理由はよく分かりません。しかし、ここで注目すべきはイエスの言葉です。「私について来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」ここには難しい言葉はありません。ただ漁師であった彼らにとって、とても気になる一言だったのは確かです。人間をとるということが何を意味するのか。またそれが自分たちにできるのか。しかし、その言葉は彼らの心を捉えてしまったのです。結果、ペテロたちはどのような道をたどることになったでしょうか。彼らは後の教会の基礎、信仰者の代表となっていくことになります。彼らはただの漁師です。何か特別な能力があったのではありません。しかし、彼らはイエスが約束されたように、人をとる漁師へと変えられていくことになるのです。
3. 即座の応答
それはペテロひとりの話ではありませんでした。シモン・ペテロと兄弟アンデレ、またヤコブとその兄弟ヨハネという漁師四人であったのです。ここに教会の息吹を感じることができます。キリストが言葉どおりに、いえ、自分たちの思いをはるかに越えた形で導いてくださったという証がここにあります。アブラハムにも最初の一歩がありました。神を信頼しての一歩です。彼らは即座の応答をしています。私たちにもキリストは呼びかけています。それぞれにその呼びかけは違うことでしょう。しかし、ここで彼らは、自らの頼みを即座に脇に置いたのです。そこから彼らの新たな歩みは始まりました。私たちもその一歩を踏み出してまいりましょう。
投稿者 mb-church : 14:04
メインページへ2012/1/15礼拝メッセージ
2012年1月15日の礼拝メッセージの要約です。
マルコの福音書1:14、15
「時は満ちて」
1. キリストは何を伝えられたのか
これは大切な、そしていつも私たちが戻らなくてはならないテーマの一つです。イエスが伝えられたことの中心はいったいなんだったのでしょうか。キリストは、荒野での試みを退けられた後、公の宣教活動を始められます。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」イエスは言いました。時がついに満ちたと。それでは、いったい何の時が満ちたのでしょうか。この時とは、神の約束の成就の時を指しています。それは旧約聖書に語られている神の救いの約束です。長い年月をかけ、神が示し、民に教え続けられたことが、遂に実現へと至るそのときが来たのです。
2. 時が満ちる
時が満ちたことは、異邦人である私たちにとっても無関係ではありません。神のかたちに創造された人である限り、神にある祝福に預かる必要があるのです。私たちは普段、物事の根本を問わずに生きています。しかし、聖書は、私たちにその根本を問いかけてきます。あなたは一体誰なのか。そして、それと同時に気がつかされるのです。いかに、人が始めの場所を失って歩んできてしまったかということを。それは私たちの中に「神」という絶対者が不在となっている現実です。そのような私たちに、神は救い主を与えてくださるのです。そしてキリストはついにこのように語られました。「時は満ちた」と。
3. 悔い改めるということ
そしてキリストはこのように次に教えられました。「神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」もし、私たちのところに、今神が来られるのだとするとどうでしょうか。また神が本当に、私たちと一緒に歩まれるということであれば、皆さんはどのように思われるでしょうか。聖書の語る悔い改めとはどのようなことでしょうか。それは神の前で自分には隠すところがないだろうかと問うことです。つまり神から出発して自分たちを見つめなければ、真の悔い改めには至らないのです。「悔い改めなさい。そして神のご支配の中で、イエスを信じなさい。」私たちは真に悔い改めて、神のご支配の中で、イエスを信じて歩みだしてまいりましょう。
投稿者 mb-church : 14:02
メインページへ2012/1/8礼拝メッセージ
2012年1月8日の礼拝メッセージの要約です。
マルコの福音書1:9~13
「たとい荒野にあったとしても」
1. マルコの福音書
この福音書は福音書の中でも早い時期に記されたものです。紀元60年代にローマで執筆されました。著者はマルコと言われています。この書の執筆に関しては主にペテロからその情報を得たのではないかと考えられています。これらのことに関して確かな証拠はありません。しかし、明らかなことは、この福音書が初期の教会において大切に読まれ、そしてキリストを証するものとして重要な役割を担い、この書から教会の人々がともに聴いたということです。私たちも、今、目の前でこの書が開かれ、読まれ、ともにキリストの言葉を、キリストの姿をともに聞き、見ているのだということを意識したいと思います。
2. イエスのバプテスマ
「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」この神の祝福の宣言は、キリストに従う者すべてに与えられた宣言でもあります。すでに天の扉はキリストによって開かれています。私たちの目にはすべてを見ることはかないませんが、神の祝福のことばは響き渡っています。バプテスマは、このことの確かな印です。マルコは、イエスのバプテスマの直後に、イエスが荒野に追いやられたことを記しています。神の祝福の直後のことです。出エジプトの出来事を連想させます。荒野での出来後は、さまざまなことを私たちに物語ります。それは私たちの生涯でもあり、通る苦難でもあるでしょう。イエスも祝福を受けられた後に荒野へと向かうのでした。
3. 荒野でのイエス
神は、荒野でのイスラエルの歩みを支えられるための備えを十分にしてくださいました。しかし、民は目の前の状況に飲み込まれてしまうのです。そして民は嘆きます。私たちもまた、何度も、その生涯の中で、嘆き、また目の前の試練に打ち倒れそうになります。まるで荒野にいて、身を守るものもなく、野の獣に囲まれているようなそんな絶望的な状況にいるかのように思うときがあります。しかし、私たちはここでのキリストの姿をともに見ることができるのです。キリストもまたサタンの試みを受け、さらに野の獣と隣あわせになります。しかし、その時であっても、御使いたちがイエスに仕えていました。今も私たちのことを神はご自身の愛する子として、支え守り続けてくださいます。私たちの周りには、神の御守りがあり、御使いもまたそこにいるのだということ、私たちは信仰によって見ることが許されています。私たちは、このキリストの姿をともに見させていただきたいのです。
投稿者 mb-church : 14:00
メインページへ2011/12/25礼拝メッセージ
2011年12月25日の礼拝メッセージの要約です。
マルコの福音書1:4~11
「ともに歩んでくださるお方」
1. クリスマスおめでとう!
クリスマスおめでとう、という言葉はいったい誰に向けられた言葉でしょうか。私たちの救い主キリストを送ってくださった神にむけて、私たちは感謝をします。しかし、感謝であれば、クリスマスおめでとうではなく、クリスマスありがとうということになるでしょう。クリスマスおめでとう、それは私たちに向けて言われていることばです。クリスマスは、救い主が、私たちに与えられた日です。その喜びの言葉、それがクリスマスおめでとうなのです。
2. キリストはどこに来られたのか?
キリストは、どこに生まれてくださったのでしょうか。それは最も悲惨な場所でした。何もない、闇しかない、また冷たく、汚れた場所でした。本当にさびしい場所に、キリストは生まれてくださった。それはとても象徴的なことなのです。救い主が、最初に降り立った場所、それは紛れもなく、私たちのこの世界のもっとも日の当たらない場所でした。そこに小さな光がともされたのです。私たちが考えうる希望とは何でしょうか。それはいつでもともに歩んでくださる方がいることではないでしょうか。この世界は、また私たちはうめきながら歩んでいます。そのような世界に、私たちの現実に、キリストは来てくださったのです。
3. イエスのバプテスマ(洗礼)
キリストはその宣教のはじめに、バプテスマのヨハネから悔い改めのバプテスマを受けられました。なぜならそれが私たち人の歩むべき道にあるからです。キリストは、この先、十字架へといたるその道々で、多くの困難、悩み、痛みを負うことになります。しかし、決してその歩みをそらすことも、またその歩みが無為に終わることもありませんでした。そして最終的に、復活と栄光の神の右の座へと上られていきます。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」この言葉は、イエスご自身に神が語った言葉でもあり、また私たち一人一人がキリストと、ともなる歩みをするときに、私たち一人一人にも語られている言葉なのです。
投稿者 mb-church : 13:58
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2011/12/4礼拝メッセージ
2011年12月4日の礼拝メッセージの要約です。
マルコ1:1~4
「キリストを迎える備え」
1. 福音のはじめ
「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」この言葉からこの福音書は始まります。キリストとは、「油注がれた者」「王」という意味です。つまり、イエスは油注がれたものであり、神が私たちに与えられた救い主、そして王であることを表しています。福音とは「よい知らせ」です。イエスが、私たちの救い主であり王であるというよい知らせ、そのはじまりとこの福音書は最初に宣言します。
2. 良い知らせ
良い知らせとは何でしょうか。マルコがこの言葉から始めたのは、この言葉を告げるその前に、この知らせを待ち望む人々がいたからです。イエスが救い主であり、王である、この知らせが「良い」と思えるのは、救い主を待っていた人々です。それでは誰がこのキリストを待ち望んでいたのでしょうか。その人々は、旧約聖書に証されている人々です。聖書で語られているのは、人類の創造から始まり、神の前を追われ、神不在の混乱した世界におかれた人々の姿です。その中に、目に見えないまことの神を求める人々が出てきます。それが後にイスラエルの民となります。彼らは世における多くの苦難を通されます。そして、彼ら自身の力では乗り越えることができないことが明らかにされます。それどころか、むしろ神を見失い、神への不信仰に陥ってしまう民の姿が克明に描かれます。それでも、神の側から神の民に警告と招き、そして信仰を通しての救いが与えられ続けていくのです。人々は願います。貧しさにある人々が、豊かさの中に生き、不正が正され、悪ではなく、真に正しい者が栄える世界をと。それはイスラエルの叫びでもあり、実は私たち自身の叫びでもあるのです。
3. 道を整える
その世界に一筋の光が与えられます。それが「イエス・キリスト」でした。そして、キリストの直前にその道を備える者が現れるということも語られています。人々が待ち望んでいた救い主の道備えをする者が現れます。それがバプテスマのヨハネでした。私たち、どのような思いでこのキリストという方を迎えたらよいのでしょうか。救い主、私たちの王を向かえるにあたって、向かえる側に「整える」ことが求められています。「悔い改めよ」とヨハネは語ります。それは神のもとへと再び私たちが方向を向けることなのです。私たちも救い主を迎える備えをしてまいりましょう。
投稿者 mb-church : 16:50
メインページへ2011/11/27礼拝メッセージ
2011年11月27日の礼拝メッセージの要約です。
創世記35:1~13
「ヤコブへの呼びかけ」
1. 立って
行き詰ったヤコブに神は答えてくださいました。その答えは「立って、ベテルに上り、そこに住め」というものでした。ここで三つのことを神はヤコブに命じています。まず「立って」。「さあ立ち上がって」と言ってもいいでしょう。キリストが病を癒されたときにも、この言葉が語られました。私たちを本当の意味で立ち上がらせるのは何でしょうか。家族や財産でしょうか。ヤコブは、自らの存在の小ささと、現実に起こったことの重さに押しつぶされそうになっています。その彼に神は「立ち上がって」と声をかけられました。信仰には、私たちは立ち上がらせる力があるのです。
2. 上れ
ヤコブは神に手をとられて立ち上がることになります。神は続けて「ベテルに上れ」と命じられました。それは、この旅だけではなく、ヤコブの生涯の目的をも明確に示す言葉でした。神の祝福を求めて生きてきたヤコブ。最初は「私の祝福」という自己の幸せにしか過ぎませんでした。それが、彼の生涯を通して、神を信じる信仰の歩みへと変えられていきます。彼は、神ご自身を求め、神に近くされることこそ、神の祝福であることを理解していくことになります。「ベテルに上れ」これは神からの招きです。罪あるヤコブをそれでも神は近くに来るようにと招き続けています。この招きに対して彼は身を清めるようにと家族に命じます。私たちも知らず知らずのうちに、多くのものを抱え、神にのみ信頼することができなくなっている、そんなことはないでしょうか。そして「着物を着替えなさい」とヤコブは家族に命じます。ここで彼は古い衣を脱ぎ捨て、進むべき方向へと、神ご自身の方へと向きを変えたのでした。
3. ベテルに住む
神の家に住むことこそ、聖書で語られる私たちのゴールです。神から離れた所ではなく、神のそばに私たちが住まい続けるということ。今、教会は、神の家、神の宮と言われる場所です。本当にその場所となっているでしょうか。そのことを私たちは問わねばなりません。そして私たちは、神にある目的を見失ってはなりません。私たちはキリストによって、すでにイスラエル、神の民とされた者たちなのですから。
投稿者 mb-church : 16:49
メインページへ2011年11月26日
2011/11/20礼拝メッセージ
2011年11月20日の礼拝メッセージの要約です。
創世記34章
「神の側にある救い」
1. 創世記34章
聖書には違和感が残るような、釈然としないそのようなストーリーが、私たちの前に突如提示されることがあります。私たちの人生も、そのような側面を持っています。なぜこのようなことが起きたのか?そのように神に思わず問わずにはいられないようなことが突如として起きます。この34章もそんな現実の物語です。ヤコブは、自身の誓いに従わず、シェケムの町の近くに宿営し、そしてそこで土地を買い祭壇を築きました。なぜここで留まってしまったのでしょうか。このことが悲劇を生むことになります。
2. 事件
娘のディナが辱められるという事件が起きます。さらにシェケムの民は、ヤコブたちと近しい存在になることを望んできます。この事件そのものは「悲劇的」な結末で閉じることになります。結局、シメオンとレビが、その町の民の男子を殺戮し、そして略奪するという悲惨な結果となってしまうのです。ここに、私たちは何を見いだせばいいのでしょうか。ヤコブも何を考えているのか分かりません。どこをとっても、正しさのかけらもない、そんな事件です。この34章には神は出てきません。神は沈黙しておられます。34章では神が出てこないのです。
3. 神からの語りかけ
35章でようやく神は語られます。まさにその通りのことが今も起きています。私たちも、日々の生活の中で神を締め出しています。神を待ち望むよりも先に、自分の思いに従い、神の望まれるあり方や手段よりも、自分たちが満足する方法を選び取ってしまいます。私たちは絶えず、神に救いを求める思いと、神を私たちの場から追い出そうとしてしまう自我との狭間で揺れ動いています。この一連の問題の中で、ヤコブはずっと問われ続けています。あなたはこの問題を解決することができるのかと。しかし、ヤコブは答えることができないのです。しかし、神は次のようにヤコブに語りかけました。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。」私たちは、現実に対してなかなか答えが出せずにいます。しかし、聖書が私たちに絶えず語りかけるのは、神はそれでも、私たちを憐れんでおられるということ。そして神の側から救いを与えてくださるという約束なのです。
投稿者 mb-church : 13:15
メインページへ2011/11/13礼拝メッセージ
2011年11月13日の礼拝メッセージの要約です。
詩篇127篇
「主が建てるのでなければ」
1. 主が家を建てるのでなければ・・・
この詩篇における「家」とは、「ダビデ王家」を指していると考えられます。イスラエルは、とてもユニークな使命を負わされた国です。他の国が、人を王にし、武力に頼り、むなしい人の手によって造られた偶像を神とし、その力を利用する中、イスラエルは、天地を造られた神を主とし、王とする国として歩みを進めました。
2. ともなる神
私たちは困難ある現実を前にして生きています。それでも私たちは毎日起き上がります。そして労し、そして食を得る・・・。労苦し、そして悩み、時に病まで得て、この道を歩まざるを得ません。それは何のためなのでしょうか。イスラエルの民は、どの民よりも苦難を通らされ続けた民です。それでも、彼らはまことの神への信頼を止めず、神に感謝をささげ、神のみこころを行うことを第一のこととし続けてきました。その歩みは、私たち人間の歩みそのものを表すものでもあります。しかし、聖書は語り続けます。そのどの時でもあっても、神はあなたとともに歩んでいるのだと。そして神抜きで心配し、労苦することをやめよと語りかけます。
3. ともに歩む私たち
一転して「こども」にフォーカスが当たります。国としても、こどもが多く与えられることそのものが神の豊かな祝福の表れであったことでしょう。こどもたちを祝福する、それはただこどもがかわいいからだけではありません。まさに主が与えてくださった私たち家族の一員だからです。神の国、神の家族の一員だから、ともに祝福するのです。いのちが与えられること、それは究極的に主の業にほかなりません。このこどもたちを大切にし、神のご支配へとともに歩んでいくことは、主の家にとって重要な働きです。私たち教会が語るべきは神と人との絆です。そしてその絆は、神とわたしたちの絆なのです。そしてそれはキリストにある絆です。私たちは、キリストのからだとして一つとされていること。キリストにある絆に結ばれていることを、互いに感謝してまいりましょう。
投稿者 mb-church : 13:13
メインページへ2011/11/6礼拝メッセージ
2011年11月6日の礼拝メッセージの要約です。
創世記33章
「和解の福音」
1. 目を上げて見る
「目を上げて」これは主がともにおられ、主とともに見ることを思わせる言葉です。ヤコブも今その時にありました。新しい名イスラエルを神からいただいたヤコブ。そのヤコブがここで見たものは何でしょうか。彼が見たのはエサウ率いる四百人の群れでした。昨日までの彼にとって400という数字は恐怖にしかすぎない存在でした。ヤコブは簡単にその恐れを克服できたわけではありません。彼はヤボクで、弱い自分のまま神と向き合い格闘しました。そしてついに、神からの約束の言葉を獲得することができたのです。ヤコブにとって大事なのは、神と向き合ったこの濃密な時間です。
2. へりくだるヤコブ
ヤコブは以前に考えていた方法をすべて止めました。一番後ろに控えているはずのヤコブは、今群れの先頭に立って進んでいきます。エサウはただ自分に危害を加えるものではなくなっていました。必ず和解すべき、自らの命を懸けてでも赦され、和解すべき存在となっていたのです。ヤコブは、七回も地に伏しておじぎをしました。それは完全なるへりくだりを示しています。私たちは大概、自らの方に多くを願い、相手から奪いとる、そのような方法を考え、選び取ろうとしてしまうものです。ヤコブのこれまでの歩みは、図らずもそのことを示していたように思います。神の祝福を願ったそのことが、兄の恨みを買い、家族の分裂を引き起こしてしまいました。しかし、ヤコブは、ここで完全にへりくだり、そして自らを他者にささげきるのです。
3. 和解の福音
へりくだる姿は、キリストの姿にも見出すことのできるものです。しもべの姿をとることは決して簡単なことではありません。エサウは彼を迎えに走って来て、ヤコブをいだき、首に抱きついて口づけし和解をしました。ヤコブはイスラエルとして神の選びにあずかったものであることは間違いがありません。しかし、それは何のための選びであったのでしょうか。それは主にある和解をもたらすためでした。ヤコブの謙遜は彼の恐れから出ているものではありません。これはすべてイスラエルとされたヤコブの喜びから出てくる行動なのです。神から赦され、さらにエサウの赦し、和解を得たその喜び。それはキリストのもたらす福音の響きにも含まれるものです。神の勝利は、相手を打ち負かし圧倒することではなく、相手に与え、そして和解をなしとげたという勝利だったのです。
投稿者 mb-church : 13:11
メインページへ2011/10/30礼拝メッセージ
2011年10月30日の礼拝メッセージの要約です。
Ⅰコリント3:1~3
「十字架の主を見上げて」
1. コリントの町
コリントの町は非常に栄えた町として知られています。ローマによって紀元前146年に侵略され廃墟となりました。紀元前44年になってから、ローマの植民地として再建されました。コリントの町は他民族の町で、商売、貿易、産業の町としても繁栄を誇り、人々は「競争社会」で生きていたといわれています。ある人はコリントの町は現代に近いものを持っているとも言います。コリントの教会の人々も、その町の影響を深く受けていました。「知恵」「霊的」「自由」そのような言葉を、彼らは自分たちに都合よく使っていました。しかし、彼らも自分たちがどのような状態であるのか、何が誤っているのかはよく分からなかったのです。
2. ただの人のように
コリントの教会にパウロは「ただの人のように歩んでいるのではありませんか」と問いました。コリントの教会には対立がありました。ある人々は自分たちのことを高い次元にあると誇り、霊的であると言っていました。クリスチャンであることは力を得ること、それが彼らにとって信仰の確信のよりどころともなっていました。ここで問題となっているのは違いがあることではありません。むしろなぜこのような対立が起き、溝が深まっているのかということです。この対立はねたみや争いによって、それが引き起こり深まっていました。いかに霊的であるかのように見えようと、能力があり、社会的に成功しているかのように見えようとも、十字架が語られず、キリストが、その人から透けて見えない、そのような者であるならば、それのどこが御霊に満たされている人なのかとパウロは問います。
3. 十字架の主を見上げて
十字架の主、キリストの姿とはどのようなものでしょうか。十字架は敗北の印です。それはコリント社会の持つ価値観とは相反するものでした。十字架によってコリントの教会はスタートしたことは間違いありません。しかし、気がつけばコリントの教会は、十字架を語らず、誇らず、むしろ力や弁論、富、豊かさ、目に見えるもの、それらを誇るようになっていきました。私たちは、どこに信仰の確信をおいているのでしょうか。なぜ十字架のイエス・キリストが、私たちの力となるのでしょうか。これは大事な出発点です。問題は、教会の中心である十字架が、キリストが、その中心からずれてしまうことにあります。だからこそ、私たちは絶えず十字架の主の前にへりくだることが求められているのです。
投稿者 mb-church : 13:10
メインページへ2011/10/23礼拝メッセージ
2011年10月23日の礼拝メッセージの要約です。
創世記32:22~32
「新しく生まれる」
1. イスラエルという名
この場面で、ヤコブは神から別の名前「イスラエル」をもらいます。その名前には、神と戦う者、神にある勝利、そのような意味があります。ここでヤコブは、群れを先に渡らせ一人ヤボクに残りました。なぜ彼は一人残ったのでしょうか。家族を先に渡らせたのも、一人後に残ったのも、それはヤコブが一人孤独に神と向き合うためでした。一人神の前に立つときが私たちにも必要です。ヤコブは、時間に余裕があったから一人の時を持ったのではありません。彼にとって、その時間が本当に必要であったのです。
2. 格闘するヤコブ
すべての手は尽くしました。兄エサウも、そろそろ向こう岸に着くころです。しかし、もう一歩、ヤコブは神に近くあることが必要であると感じていました。そして彼は神と格闘します。文字通りの格闘です。神と全身全霊の死闘を繰り広げました。そして何と神の側のほうが、ヤコブに勝てないと思うに至ります。神はヤコブに勝てないわけではありません。ここで強調されているのは、ヤコブの神の力をも圧倒する粘りです。腿のつがいが外されてもなお、神にしがみつくヤコブのしつこさ。ここで神の側が根負けしている様子がよく分かります。ヤコブは神の「祝福」を切に求めます。しかし、すでに彼は以前、神の祝福を受けていたのではなかったでしょうか。
3. 最大の祝福
神の祝福は確かな約束です。しかし、私たちはただ約束をもらったから、それでもうすべてが手に入ったというわけではありません。神を知り、そして信じてからこそ、本当の神への求めと祈りの生涯が始まっていきます。「人間の主な最高の目的は神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことです。(ウェストミンスター小教理問答)」私たちの生涯は神とともに歩む、そこに真の祝福があります。ヤコブにとって最大の祝福とは、神ご自身にありました。ヤコブもまた、自分自身の弱さ、愚かさ、小ささを思うときに、神の祝福に決して値しない自分であることを、痛感していたことでしょう。しかし、ヤコブは、そこからなお神に祝福を願ったのです。ヤコブは神の祝福を求め、そしてついには赦され、勝利の宣言を得ました。私たちも、神にあって新しいいのちを得なければなりません。ヤコブが神から新しい名をいただいたように、私たちもキリストにあって新しい歩みを得させていただきのです。
投稿者 mb-church : 13:08
メインページへ2011/10/9礼拝メッセージ
2011年10月9日の礼拝メッセージの要約です。
創世記32:1~21
「ヤボクの前で」
1. ヤコブが直面したこと
ヤコブが故郷へ帰るということ。それは兄エサウとの対面が待っているということでもありました。ヤコブは故郷の地へと入る、その手前までやってきました。ここで彼が渡らなくてはならない場所がありました。それがヤボクです。この場所は簡単に通れるような所ではなく、まさに格闘することが必要なそんな所でした。どのように兄と対面すればいいのだろうか・・・以前の自分とは違う・・・しかし、以前のままの自分でもある・・・そのような複雑な内面を抱えたまま、このヤボクを前にしたのです。そのとき、神の御使いたちが彼に現れました。彼を支えるのは神への信仰でした。そして、ヤコブは、この場所から兄に使者を送ることにします。それは、和解のために戻ってきたことを知らせるためでした。
2. ヤコブの最善
使者が伝えたのは「あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます」という知らせでした。ヤコブはこのことに非常な恐れと心配を抱くことになります。しかし、引きえそうとは考えませんでした。ここで群れを二つのグループに分けることを考え付きます。この時にもヤコブは神の約束を信じ、武力によらず、平和的に事を進めようとしていることが分かります。そして彼は祈るのです。彼の祈りは真実なものです。そして彼は自分のことを告白します。彼は自分の弱さを自覚しています。何よりも兄エサウを恐れています。彼にとってこのことは自分では到底乗り越えることのできないものでした。神が共にいることは分かっています。しかし、それでも襲う不安、弱さ。そして彼は祈りつつ、備えるのです。ヤコブはエサウへの贈り物を準備します。これがヤコブの考えうる、できうるこの時点での最善でした。
3. 最後の砦
しかし、それでも彼の力では乗り越えることのできない最後の砦がありました。それが自分自身の弱さでした。彼の中から出てくるものはヤコブそのものでしかありません。神への信仰を持って歩むということは、さらに大きな局面を乗り越えるものであることを、私たちはこの後のヤコブの経験から知ることになります。これらのことは、「ヤコブ」という人を神の器として完成へと導く、神の丁寧な取り扱いです。古い自分、自分自身の弱さとの対決がここにあります。私たちは神の取り扱いの中で、切に祈らされ、そして神の御思いを知り、神の御力に支えられ、押し出されていくのです。
投稿者 mb-church : 13:06
メインページへ2011年10月09日
2011/10/2礼拝メッセージ
2011年10月2日の礼拝メッセージの要約です。
創世記31:17~55
「証の塚を前にして」
1. ヤコブの旅立ち
心を決めた後の彼の行動は早いものでした。彼は逃げるようにしてこの地を去ります。しかし、ラバンが何もせずに行かせるわけはありません。ラバンに追いつかれてしまいます。ヤコブも容易にそのような事態は想定できたことでしょう。いずれにせよヤコブはラバンとの前面対決を避けます。ここにヤコブの信仰が働いています。現実を前にして、どの道が正しいのか分かりません。しかし、その中で祈り、考え、決断をし、そして必ずあなたと共にいると約束してくださった神のことばを信じる信仰を持って一歩を踏み出していくのです。
2. ラバンとの対峙
ラバンはヤコブたちに追いつきました。ラバンは事前に「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ」と神から語られていました。しかし、ラバンは事の善悪を論じています。しかし、これらの言葉の背後にあるのはラバンの恐れです。その恐れは「神」に対するものでした。「なぜ、私の神々を盗んだのか?」これがラバンにとって一番大事なことでした。ラバンは表向きの態度と異なり、恐れと不安に心を満たされています。力はヤコブよりもあったかもしれません。しかし、彼が本当に信頼していたのは、小さな偶像の神でした。実体はないのに、何かそれが一番価値があり力を持っているかのように見える、それが偶像です。ラケルはこのテラフィムを密かに持ち出していました。この出来事によってラバンは、逆にヤコブにこれまでしてきたことの善悪を責められるということになります。ヤコブはこれまでの20年間のことをラバンに訴えるのです。
3. 証の塚を前にして
ラバンはヤコブに契約を提案します。表向きは神を前にしての契約です。しかし残念ながら、ラバンの言葉の端々には偶像の神々への執着と、ただこの先のことへの「恐れ」が見えます。ラバンは神を見張り続けている恐ろしいものと捕らえています。さらに彼は複数の神々の名前を口にしています。ラバンは表面的には、まことの神の裁きを受け入れながら、まだ偶像の神々から完全に脱しきれないでいるのです。神が問題にされるのは、表面的な正しさではありません。また見せかけの言葉や信仰ではありません。心からの神への信頼と誠実です。しかしそのような中で、ヤコブはあくまでも信じるなる神の前に、厳かに誓います。ヤコブにとってこの石塚は、神が自分を解放してくださったこと、またともにいてくださることの証であり、神の恵みを覚える場所となったのです。
投稿者 mb-church : 08:32
メインページへ2011/9/25礼拝メッセージ
2011年9月25日の礼拝メッセージの要約です。
創世記31:1~16
「決断の時」
1. 決断の時
人生の岐路に立たされた時、どのように決断しているでしょうか。ヤコブは、叔父ラバンのもとから旅立つ決心をします。ラバンにヤコブは何と要求していたのでしょうか。「私を去らせ、故郷の地へ帰らせてください」と願っています。「もしあなたが私の願いをかなえてくれるのなら…」とラバンは答えていています。そして「あなたの望む報酬を申し出てくれ。私はそれを払おう」と言っています。結局、ヤコブの願いはうやむやになり、報酬のことだけが取り上げられ、契約として成立します。しかし、ヤコブはラバンの思惑以上のことをやり遂げます。その後ヤコブはラバンの態度が、以前のようではないのに気がつきました。このような現実に直面し、ヤコブはどう考えたのでしょうか。
2. 待ち望む時
この20年間、神の前にある誠実さを学び、神とともに歩むことをヤコブは学んできました。しかし、現実は容易ではありません。そのような中で神は彼に語りかけます。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。」この言葉は、長い間の祈りに対する答えといえる言葉でしょう。ヤコブはこの20年間で、神の時を待つということを学ばされました。この間、ヤコブは神の前に誠実に歩もうとします。その彼を支え続けたのは、神が必ず救ってくださるという信仰でした。そしてついに彼は、神の救いの声を聞くのです。彼はその決断を、ラケルとレアに伝えます。ここでのヤコブの言葉は、ラバンの不誠実さに対する怒りに満ちています。聖書は、不正や不誠実に対して、大きな憤りを示しています。それは神を信じている者とそうでない者とを分ける分水嶺だからです。
3. 支えられる決断
ヤコブが、しもべとして仕えてきた間も、その間の悩み、苦しんできたときも、神は彼とともにいてくださいました。ここでヤコブの決断を推し進めたのは、神のみ思いです。その神のみ思いは、ヤコブの思いと一致したのです。大事なことは、ヤコブの待つ姿勢です。神のみ思いを知るまで誠実に待つ姿勢。神のみ思いと自分の思いとが一致するまで求め続ける姿勢。神のみこころを知るには、神とともに歩む月日が必要です。そしてラケルとレアもまた、父ラバンのもとを離れる決断をします。みこころに沿った決断は、自分だけが納得し、自分だけのひとりよがりなものではありません。私たちはどのようにみこころを求めているのでしょうか。
投稿者 mb-church : 08:30
メインページへ2011/9/18礼拝メッセージ
2011年9月18日の礼拝メッセージの要約です。
創世記30:25~43
「最善を尽くして」
1. 先が見えない中で
どうにも先が見えない。しかし決断しなくてはならない。そんな状況にヤコブは直面しました。ラバンの下での約20年。決して短い時間ではありません。そこでさらけだされたのは、自らの足りなさ、弱さでもありました。しかし、時は経ち、彼はすでに一族の長になる、そのような年齢にも達していました。しかし彼には何の財産も保証もなかったのです。そこで、彼はラバンに思い切って提案します。「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください。」彼は本当に、誠実にラバンに仕えてきたのでしょう。実直に、誠実に働いてきた彼の姿を、私たちは想像することができます。
2. 叔父ラバン
ラバンはヤコブにこのように言いました。「まじないで知っている」と。ラバンは、ヤコブに「主」という共通の言葉を使いながらも、言っている内容はまるで見当違いのことを言っています。ラバンは、まことの神の名を知りながらも、その土地の偶像崇拝に深く傾いていた人物でした。その土地の神々に心が支配されているラバン。その一方で、誠実に歩もうとするヤコブの姿が対比されています。ヤコブは、今の繁栄は「主が祝福されたからだ」と答えています。そして、彼は「私自身の家を持ちたい」と嘆願します。ラバンとの交渉の中で、ヤコブは一つの提案をします。彼の報酬は「羊とやぎ」でした。それも、羊は黒毛で、やぎはぶち毛やまだら毛のものでした。この提案はラバンの目には有利なように思えました。しかし、ヤコブはここで主に信頼しつつ、彼の最善を尽くすのです。
3. 最善を尽くして
ヤコブは当時の牧畜の知恵を尽くして、この局面に向かいました。このヤコブの姿は何を物語っているのでしょうか。ここでのヤコブは、20年近くにわたり得てきた知識と知恵を用いて、彼のなしうる最善を試みているのです。神を信じて歩むということは、ただ神頼みをすればよいのとは違います。神がともに歩まれていることに力を得、そして神が与えてくださっている力を用い、最善を尽くすのです。ヤコブは、この20年間で確かに学んでいました。神とともに誠実に、そして最善を尽くすときに、神はその信仰に、その信仰を土台とする行動に必ず応えてくださると。そして彼は神に感謝するのです。ここに私たちの生きるあり方があらわれてくるのです。
投稿者 mb-church : 08:28
メインページへ2011/9/11礼拝メッセージ
2011年9月11日の礼拝メッセージの要約です。
創世記29:31~30:24
「愚かさをこえて」
1. 混乱の始まり
ヤコブの結婚にまつわる混乱が今日の箇所に描かれています。ヤコブとエサウ、この二人の争いに続き、ラケルとレアの争いが起こります。夫に愛されていないレアにこどもが与えられます。夫の思いが自分に向く、それが彼女にとっての救いでした。こどもが与えられたのは、レアにとっては神の救いの御手そのものだったのです。ラケルにこどもが生まれない様子を見て、レアは彼女の上に立ちます。夫の愛を得るかわりに自分自身の価値を、彼女は見出したのでした。
2. ラケルの妬み
その様子に、ラケルの妬みが燃え上がりました。彼女はヤコブに怒りをぶつけます。「私が神に代わることができようか。おまえの胎内に子を宿らせないのは神なのだ」とのヤコブの答えは、ラケルの怒りへの助けとはなりませんでした。するとラケルは女奴隷によってこどもを得ようとします。さらに争いは深化していきます。ここに出てくる人々は、みな「神」を知っています。言葉の端々に「神」の存在をにおわせてはいます。しかし、その使い方の何と身勝手なことか。ヤコブもそうです。ここでのヤコブも、この夫婦間の、また姉妹間の問題、争いに対してただ手をこまねいています。私たちは、神の存在を意識しながらも、神を自分のために、自分の都合にあわせて使いたいと考えてしまいます。問題はそのときには解決したかのように見えて実は解決していません。
3. 人の愚かさをこえて
さらに争いは続きました。ルベンが、野で恋なすびを見つけてきます。そこで、ラケルはレアに交渉します。なんとここでラケルは、夫と恋なすびを引き換えにします。ヤコブの存在はいったい何なのでしょうか。すべてが手段となり、単なるモノと化しています。罪の行き着く先のなんと悲惨なことでしょうか。これが「疎外」の状態です。「疎外」とは、人間が作ったもの(商品・貨幣・制度など)が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような力として現れ、あるべき自己の本質を失う状態のことを指しています。ヤコブの家族も、本来の家族、夫婦の姿は失われています。しかし、神はここでも彼らに歩調をあわせます。最後にラケルが出産します。そしてその子が「ヨセフ」でした。この争いの勝者は一体誰だったのでしょうか。このような罪の現実でも、神はみわざをなし続けてくださいます。この兄弟たちが、後のイスラエルの12部族となります。そしてここに神は救いのみわざをなしてくださるのです。
投稿者 mb-church : 08:27
メインページへ2011/9/4礼拝メッセージ
2011年9月4日の礼拝メッセージの要約です。
創世記29:1~30
「ヤコブの誠実」
1. 旅の果てに
「私はあなたとともにあり、あなたを守り、あなたを捨てない」と神は約束されました。ハランまでの約1000キロにもわたる長旅の末、ある井戸に彼はたどり着きました。母リベカの結婚の物語のあの井戸を思い出させるような展開です。そこで三つの羊の群れを飼う、羊飼いたちと出会ったとき、彼は本当に安堵したことでしょう。羊飼いたちはヤコブに告げました。「御覧なさい。あの人の娘ラケルが羊を連れて来ています。」ヤコブは羊飼いたちを去らせようとしますが、彼の目論見は崩れ去ります。しかし、なぜ、ヤコブは彼らをここから去らせたかったのでしょうか。
2. ヤコブの内面
なぜヤコブは羊飼いを去らせたかったのでしょうか。羊飼いを去らせることに、またラケルの群れに水をやるのに、彼は必死でした。さらにヤコブは、ラケルに口づけし、声をあげて男泣きをします。これまで崩れ落ちそうになりながらも、何とかここまでたどり着き、そして目指す人と出会えたという達成感、安堵、そのようなものが、すべて彼の内から思わず噴出しました。これまではこんな彼の内面を見ることはできませんでした。29章からのヤコブの物語は、本当の自分を見出す、いうなれば一人の大人になるプロセスが描かれています。建前ではなく、本音で。人を騙すのではなく、誠実に歩むこと、そのことを彼は学ばされていくのです。
3. さらなる試み
さらに叔父のラバンにヤコブは騙されます。ここで取り扱われているのは、あのヤコブが騙されるということです。しかも、彼は14年もの間、自分の身をささげてラバンに仕えることになります。彼は自分がしたことの報いを受けている、そう言ってもいいのかもしれません。ここで彼は学ばされています。彼はこの14年間という中で、痛みを知らされることになるのです。思い通りにならない、しもべとしての14年間。私たちもまた、信仰の歩みをしていくときに練られる時があります。忍耐を要するときがあります。自分ではしたくないことをしなくてはならないときがあります。私たちにも、ヤコブと同様に乗り越えなくてはならない弱さがあるのではないでしょうか。私たちはそのような歩みの中で、神のあわれみを思い、私たちの精一杯の歩みをさせていただきたいのです。開き直るのではありません。弱さ、欠け、醜さ、そのような自分を知らされてもなお、キリストを信じて誠実に歩ませていただきましょう。
投稿者 mb-church : 08:25
メインページへ2011/8/28礼拝メッセージ
2011年8月28日の礼拝メッセージの要約です。
創世記28章
「天からのはしご」
1. 天からのはしご
ヤコブは一人旅立ちました。なぜこのような場所に一人さびしく野宿しなくてはならないのか・・・そう彼は思ったかもしれません。ただ一人、彼は真っ暗な荒野で固い、冷たい石を枕に寝るしかなかったのです。しかし、ここで、彼は神とはじめて人格的な出会いを経験します。しかも、それは彼のほうから求めたわけではないことでした。一つのはしごが地に向けて立てられています。そこに神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていました。ここには、神と私たちとの目には見えない関係が描かれています。それはどのようなものでしょうか。あなたが枕にしているその冷たい石、そこにも神は天からのはしごをかけているのだとヤコブは神から語られました。そのはしごは、天からの使いが上り下りしています。孤独なヤコブを支え励ましたのは、この天からのはしごでした。そして約束をされます。神がともにいてくださり、決して捨てないという約束。私たちは、この神からの語りかけを、祈りを通して、神との関係を通して受けとります。礼拝はまさに祈りの場、神からの語りかけの場です。私たちも、今ここに天からのはしごがかかっているのだということを、ぜひ信仰を持って見させていただきたいと思うのです。
2. 応答するヤコブ
ヤコブは、ここですぐに神を礼拝します。枕にしていた石を取り、それを柱にして立て、油を注ぎました。彼は神に誓願を立てます。自らの持ち物の十分の一をささげることを誓いました。神にささげものをする、それはおそらくおこがましいことかもしれません。なぜなら、すべてのものは神がくださっているからです。しかし、これは神への応答なのです。祈り、そして礼拝は、私たちの応答へとつながるものです。私たちは目に見えない神に、目に見えるものをもって応答をします。ここで大事なことは、神が与えてくださるものすべてを、神にあってとらえなおすことにあります。それは私たち自身を神にあってとらえなおすことにもなります。神が私たちを生かしてくださり、神が私たちとともに歩んでくださる。神がすべてにいのちと意味を与えてくださる。その信仰が、私たちを真にいのちあるものとするのです。私たちも、神の約束とともに、この一週間の歩みをはじめてまいりましょう。
投稿者 mb-church : 08:24
メインページへ2011/8/21礼拝メッセージ
2011年8月21日の礼拝メッセージの要約です。
創世記創世記27:26~45
「踏み出す信仰」
1. ありのままの姿
エサウの怒りはもっともなものに見えます。自分をだまして、長子の権利を奪われてしまったかわいそうな兄。それにしてもずるい弟ヤコブの姿がここにあります。その背後には、理由はともかくしたたかなリベカの策略があります。そして一見、被害者にも見えるイサク。この家族は、いったい何をしているのでしょうか。聖書は人間の姿をありのまま映し出します。飛ぶ鳥の目から見るように、私たちは今、この家族を見ています。醜い部分も、またおろかな部分もあらわになっているのです。
2. 信仰の一歩
ここで神は長子の権利を退けられました。それは「神中心」ということが明らかになるためです。人の基準ではない。すべてが運命ではない。生ける神が中心であるということ。このことが明らかになるために、神は長子の権利を退けられます。イサクやエサウは、ヤコブやリベカは、どのように神を信じていたのでしょうか。ある人はエサウのようになってしまうことでしょう。神を知っていても、神を軽んじ、自分の都合よい方へと歩みを進めてしまいます。ヤコブはどうでしょうか。ここでのヤコブも、信仰者としての歩みをしているとは決して言いがたいものです。彼の信仰は、まだ彼を生かすところまでは成熟していません。しかし、この後の歩みを通して、彼の信仰が築き上げられていくことになります。どんなにつたない信仰であっても、最初の一歩が必要なのです。「鳥瞰」すると、私たちの行動の一つ一つは決して正しいのでも、すべてに正当な理由があるわけでもないのは確かなことです。しかし、私たちがリベカやヤコブの姿に励まされるのは、そのような不完全な自分であっても、神を信じて前に向かうことのできる姿ではないでしょうか。
3. 踏み出す信仰
この先に何が待っているのかは、ここに登場する誰も知りません。しかし、彼らは信じています。神の守りと約束は、決して変わることがないということを。希望の神が、神の祝福へと、約束の場所へと導いてくださるということを、彼らは信じているのです。私たちもまた未来のことは見えず、今も目の前にあることで四苦八苦しているかもしれません。しかし、私たちは、神にある最善へと一歩一歩、勇気をもって踏み出したいのです。
投稿者 mb-church : 08:22
メインページへ2011年08月20日
2011/8/14礼拝メッセージ
2011年8月14日の礼拝メッセージの要約です。
創世記27章
「リベカの信仰」
1. 他部族との関係
神の選びは、人の確かさによりません。このシーンは、ヤコブが卑怯な手を使って、神の祝福を奪い取ります。またそれに加担する母のリベカの姿があります。その直前に、エサウがヘテ人ベエリの娘たちを妻にめとったことが記されています。この結婚は、イサクとリベカの悩みの種となりました。旧約聖書において、他部族との婚姻は神信仰のゆがみをあらわすものとして扱われています。ここでの他部族との関係は、そこにアブラハムに示されたまことの神信仰ではないものが入ってくることを意味していました。
2. イサクの考え
イサクは、いざ信仰の継承をするときに、どのような考えで、そしてどのような行動をとったのでしょうか。彼は、信仰の継承を、自らの判断で長子エサウに継がせようと考えました。神に問うこともせず、神のことばを聴くこともせず、彼自身の考えのみでそのことを実行に移したのです。ここに出てくるのは、私の、私の、私の、というイサクの言葉です。ここには神が入る余地がありません。ここにおごり高ぶる人の姿が見え隠れしています。これは私たちの考え方、生き方にも見え隠れするものです。ここでリベカはヤコブに策略を与えます。本当にリベカは悪妻であったのでしょうか。むしろこれら一連の行動は、彼女の本来の純粋な信仰から来る行動ではなかったのでしょうか。ここでのイサクの姿は、なんとも頼りないものです。神ご自身を求め、また神の声に聞き従おうとする姿を見ることができません。そのような中、リベカは、神のことば、神の約束を信じて何とか歩もうとするのです。
3. リベカの信仰
リベカの信仰は、イサクの言葉の言い換えによって表されています。「私が死ぬ前に、主の前でおまえを祝福したいのだ。27:7」リベカの土台は神のことばにあります。しかしその結果、家族は崩壊することになります。なぜこのようなことを、神は備えられたのでしょうか。その真意は私たちにも分かりません。このシーンはまだゴールではありません。まだ途上です。神が導こうとされているのはこの先なのです。誰もが完全ではありません。しかし、リベカの姿を通して語られているのは、神の祝福を第一とする姿、神のみこころを求める姿、神のことばをその行動の中心におく一人の信仰者の姿です。この姿に目を留めてまいりましょう。
投稿者 mb-church : 15:56
メインページへ2011/7/31礼拝メッセージ
2011年7月31日の礼拝メッセージの要約です。
創世記26章
「イサクの誠実」
1. イサクの物語
イサクの物語は短くまとめられています。おそらく、彼の信仰の生涯の多くが、アブラハムと重なるものだったからでしょう。ある意味で二代目としての難しいポジションをイサクは歩みました。そこで取り上げられている出来事は大きく分けて三つのことです。一つは「飢饉」という危機的状況におけるイサクの信仰と神の約束。二つ目に語られるのは父と同様の「弱さ」とそれ以上の主の祝福について。三つ目は井戸をめぐる他部族との抗争。この三つの出来事を通じて、聖書は何を物語ろうとしているのでしょうか。
2. 神の誓い
イサクの生涯の中でアビメレクという人物が登場します。もう一度、父アブラハムの人生の再現をみているような、そんなイサクの歩みです。ここに表されているのは、神の約束の継続性、不変性ということと、もう一つは信仰の継承は、決して自動的に行われるものではないということです。神の誓いは決して途中で変わることはありません。イサクもまた過ちを犯し、失敗をします。彼も、父アブラハムと同様の過ちをしたことが記されています。しかし、それにもかかわらず、神は大きな祝福を与えられました。神の誓いは必ず果たされます。これは、私たちの信仰に大きく影響することです。変わらぬお方であるからこそ、私たちは信仰に立つことができるのです。
3. イサクの誠実
しかし、その一方で、信仰の継承は決して自動的に行われるものではないということを忘れてはなりません。ペリシテ人がすべての井戸を埋めてしまうという事件が起こります。イサクはどうしたでしょうか。彼は埋められた井戸を再び掘ることにします。そして、その一つ一つに、もう一度アブラハムの時代につけられた名前をつけていきました。そしてさらにそこに新たな井戸が加えられました。このことによって井戸を掘りつつ、イサクが神に祈り、問い、みこころを求めていたことがよく分かります。彼はベエル・シェバに上っていきます。もう一度、神の声を聞き、ここに新たにイサクは井戸を掘ることを決断しました。このときに、アビメレクが交渉をしにこの場所にやって来たのです。彼は「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見た」と証言しました。これまでのイサクの歩みを通して、アビメレクは神の姿を見出したのです。私たちもまた神の前に誠実に歩ませていただきましょう。
投稿者 mb-church : 15:55
メインページへ2011/7/24礼拝メッセージ
2011年7月24日の礼拝メッセージの要約です。
礼拝堂改修後の初礼拝の日でした。
エペソ人への手紙1:8~10、3:6
「一つに集められる民」
1. 会堂とは何か?
古く創世記では、礼拝の場で「祭壇」を築きました。モーセの時代に入ると幕屋を設置しました。この幕屋は礼拝をする場所というだけではありません。イスラエルの民全体が神を中心に置くことを示す、そのような場所でした。ダビデの時代に入ると、幕屋は神殿へと変わります。ここで大事なことは、決して幕屋や神殿に神が安置されているのではないということです。むしろそれは、罪ある人間が神と対峙することの困難さ、そこにある隔たり、それを意識させるものだといえます。そして神をこの地に迎えるための備え、あり方、それらを問うものでもあります。その神殿がユダヤ人のシナゴーグ(会堂)へと移り変わります。初期のキリスト教会も、会堂を中心に展開しました。その後、約2000年の間、会堂は様々な変遷をたどることになります。しかし時代や文化、それぞれの影響を受けつつも、その中心点は変わることはありません。
2. 四つの視点
会堂を私たちはどのように考えればよいのでしょうか。一点目。会堂は神を意識し、覚える場であるということ。会堂は、良い意味での神へのおそれと、神への純粋な思いを持つことができる空間です。二点目。会堂は、私たちが絶えず救われていることを確認し続ける場だということ。私たちは、キリストの十字架によって罪から救われ神の民とされています。そのことがこの会堂で絶えず語られ、覚え続けられます。主の聖餐はそのことを最もよく表しているものです。また教会における交わりも、主イエスとの再会と祝宴へとつながるものです。会堂はキリストにある豊かな交わりをも実現するものだと言えるでしょう。三点目。それは会堂で神のことばが開かれ、歌われ、聴かれるということ。このことも時代を超えて保持されていることです。四点目。それは在留異国人、異邦人を招く場であるということ。「地上のすべての民族は、あたなによって祝福される。」神のご計画は、すべての民をご自身の側へと招くことにあります。この会堂は、すでにキリストを信じ招かれている人と、今信じようとしている人、それだけではなく信じるよう導かれてくる人、そのすべての者たちのためにあります。会堂をただ見栄え良く、きれいにするのではありません。その一つ一つに私たちは神が教えてくださることを織り込み、そして建て上げて行くのです。キリストにあって一つに集められるのは後のことです。しかし、今ここに起こりつつあることでもあるのです。
投稿者 mb-church : 15:53
メインページへ2011/7/17礼拝メッセージ
2011年7月17日の礼拝メッセージの要約です。
創世記25:19~34
「エサウとヤコブ」
1. イサク
イサクの物語は、アブラハム、イサク、ヤコブという三代にわたる物語の中で、一番短い物語です。信仰の継承という課題が大きな彼の役目でした。彼の歩みは父のものと驚くほど似ています。彼にも子どもが長い期間与えられませんでした。しかし、イサクの歩みは、アブラハムとはもちろん異なるものです。彼には双子の息子が与えられました。彼が直面するのは「選び」の問題です。そしてここに語られているのは、人の選びと神の選びとが異なるということでした。
2. リベカ
ここでもヤコブとともに活躍するのはリベカです。彼女のおなかの中で、子供たちがぶつかりあいました。リベカにとって、この出来事は大きな不安となったことでしょう。そのとき彼女は、神にその不安を訴えます。「もしそうなら、なぜ私に?」彼女は、素直に神により頼みました。なぜ私にこのようなことが起きているのでしょうかと。私たちは、どこに神のみ思いがあるのかを祈りを通して聞くようにうながされています。そしてみことばを通して、そこにあるみ思いを知るようにと導かれているのです。リベカは神から語られました。「二つの国があなたの胎内にあり、 二つの国民があなたから分かれ出る。 一つの国民は他の国民より強く、 兄が弟に仕える。」 この後、神のことばが実現していくことになります。しかし、イサクの目にはエサウが優れているように見え、長子である兄を愛しました。その一方でリベカはヤコブを愛します。
3. エサウとヤコブ
さらにこの二人の兄弟のエピソードが語られます。ここで私たちが目を留めるのはこの言葉です。「こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。」エサウは長子の権利を食べ物と引き換えにします。それは神ご自身を軽んじる彼の本質でもありました。その一方でヤコブは神の祝福を重要視しています。ヤコブはずる賢い人物として登場しています。しかし、そこに表されているのは、神がそれでもその人を選び、憐れみ、そして、その人も、神の選び、神の憐れみに不恰好ながらも答えてようとする姿です。私たちは信仰者として、どのような態度を神の前に取っているのでしょうか。
投稿者 mb-church : 15:52
メインページへ2011/7/3礼拝メッセージ
2011年7月3日の礼拝メッセージの要約です。
創世記25:1~18
「その民に加えられる」
1. 晩年のアブラハム
信仰の父としてのアブラハムから私たちは学んできました。その生涯を通してあらわされたことは、そのまま信仰者としての私たちの生涯とも重なり続ける物語です。ここでアブラハムは、幸いな晩年を迎えていることが分かります。彼は晩年にもう一人の妻をめとり、さらに子供にも恵まれました。「平安な老年」「長寿」すばらしい言葉です。彼は75歳のときに、住み慣れた地を離れ、神の声を求め、神とともに歩む歩みを始めました。そしてそれから100年、信仰者として歩みをします。この間、彼が求めていたものとは何だったのでしょうか。それは神から与えられた約束でした。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
2. 神の約束
彼の生涯にあらわされているのは、神の約束の真実です。神ご自身を求め、神のみこころと聖さ、そして神への信頼をもって歩み続けるならば、必ずその人を神は導き、その生涯をまっとうさせてくださるという約束です。一人一人の生涯はもちろん異なります。しかし、私たちは神にあって完成する神の作品なのです。彼は「その民に加えられ」ます。これはとても大切な言葉です。私たちが神の民となる、それはアブラハムの生涯のテーマでもありましたし、またアブラハムの後に連なるイサク、ヤコブ、さらにはイスラエルの民、そして後にイエス・キリストにあって、すべての人々に開かれ、招かれている道でもあります。神は「すべての民」を祝福するために、アブラハムを選ばれ、またその後に続くイスラエルを選ばれました。教会も同様です。私だけが救われるため、神を信じて生きるのではありません。その先にあるのは、周囲の人々が、神の祝福へと招かれるためなのです。
3. その民となる
「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:3、4)」ここに、私たちがその生涯を通して目指すべき神の国が示されています。アブラハムもこの約束の地へと入ることを許されたのです。私たちもまた信仰の歩みに生きていくときに、「その民に加えられる」という言葉が、私たちに語られ続けるのです。
投稿者 mb-church : 15:50
メインページへ2011/6/19礼拝メッセージ
2011年6月19日の礼拝メッセージの要約です。
創世記24:10~27、54~67
「境界線を越えて行く」
1. しもべのかけ
井戸の傍でアブラハムのしもべはリベカと出会いました。その前から、このしもべは、神様に一つの「かけ」のようなことをしていました(創世記24:12~15)。もちろん、このような決め方をいつも彼は神様にしていたわけではないでしょう。それでも、このしもべにあるのは、必ず神様が備えを置いていてくださるはずだ、との確信です。このしもべ自身が考えていた、第一とする基準もここに表されているのだろうと思います。それは「隣人を愛する」というjことでした。このしもべが思い描いていた女性の姿に表されているのは、ある種の境界線を越えられるかどうかです。見ず知らずの自分だけではなく、連れている10頭のらくだにも水を与える女性、それがこのしもべが考えたことでした。しかし、ここでその基準にかなう女性がいたとしても問題は残ります。それは、その女性が果たしてカナンの地まで来てくれるか、ということでした。
2. リベカ
しかし、しもべが言い終わらないうちに、一人の娘がやってきます。リベカでした。そして、彼の考えた通りのことをしたのです。神はこのしもべの信仰に応えられました。信仰の継承には、アブラハムの信仰だけが関わっていたのではありません。このしもべの信仰も関わりを持つことになりました。このリベカという女性は、聖書の中に出てくる女性の中でも特筆すべき人です。リベカは神への信仰のゆえに、軽々と境界線を超えてゆく女性です。時にそれは常識さえも超えて行くことがあります。この時のリベカも、その決断の見事さ、また前へと進み行く姿には特筆すべきものがあります。彼女は、この出会いを神からのものとして受け止めます。そして見ず知らずの地へと行く決断を、まるでいとも簡単に下すのです。そして、イサクとついにリベカは出会うことになります。
3. 境界線を越えた方
リベカにおいて、私たちが見いだすのは彼女の持つ「境界線を越える力」です。向こう側へと行く決断力、そして行動力。信仰にはそのような力があります。人を愛するときに大事なことは、自分の領域を出て、相手の側にまで行くことでしょう。これは簡単なことではありません。しかし、私たちに神はキリストを与えてくださいました。私たちにキリストが与えられている。そこにやはり戻ってくるのです。私たちは境界線を越えてくださったキリストの姿が示されているのです。
投稿者 mb-church : 15:47
メインページへ2011年07月05日
2011/6/12礼拝メッセージ
2011年6月12日の礼拝メッセージの要約です。
マルコ1:1~11
「天からの祝福の声」
1. ペンテコステ
ペンテコステはキリスト教会の誕生記念の日です。キリストは十字架にかかられて後、復活し、その後、多くの弟子たちにお会いになってから、天に上げられました。その10日後、ペンテコステ(五旬節)の日に、弟子たちに約束の聖霊がくだり、その日多くの人々がキリストを信じ、教会がスタートしました。では聖霊とは一体何でしょうか。キリストが聖霊について語られた箇所があります。ヨハネ4:16~17、ヨハネ15:26、ヨハネ16:13~14。またヨハネ7:37~39では、聖霊のことを生ける水の川と語っています。聖霊は、私たちの内面に働き、私たちの信仰の源となる、そのように言われています。私たちのうちに、心に働き、キリストを救い主、神の子と信じることのできるように働く方、それが聖霊なのです。聖書の語る信仰とは、私たちの力で勝ち取るのでも、信じ続けるのでもありません。聖霊の御力によって、私たちのうちに絶えず信仰が与えられ続けていくのです。
2. キリストの受洗
イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けました。ヨハネは、「罪の悔い改め」を意味する洗礼を授けていました。ヨハネや旧約の預言者は、イスラエルの民に向かって、神の前であなたがたはこのままであるならば、やがて滅びるだろうとのメッセージを語り続けました。それは単なる脅しではありません。今が神に立ち返るときである、その神の憐れみのメッセージでもあります。しかし、預言者やヨハネのメッセージの中に欠けたものがありました。それは、悔い改めた後、いかに神は私たちを救ってくださるのかという点でした。神はご自身に立ち返った人々に対して、どのような言葉をかけ、そして救い出してくださるのか、その救いの言葉を、ヨハネは持ち合せていなかったのです。その答えこそ、聖霊のバプテスマを授ける方イエス・キリストです。神に立ち返った後に、そこに、新しい心、新しい霊を注ぐ方、それがイエス・キリストなのです。私たちのうちに、聖霊による新しい心、キリストにある新たな歩みがないのだとするならば、それは再び古い、滅び行くものとなります。ここでキリストが洗礼を受けられた時、神からの祝福の言葉が語られました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」これはキリストに向けて語られた言葉であると同様に、今も神を信じ従う私たちに向けて語られている神の祝福の言葉でもあるのです。
投稿者 mb-church : 11:18
メインページへ2011/6/5礼拝メッセージ
2011年6月5日の礼拝メッセージの要約です。
マタイ6:7~8、26~34
「新しい心」
1. 必要を知っておられる神
「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」主の祈りを開くたびに、私たちが学ばされてきたことは、神のみ思いに自分の思いを近くするための祈り、ということでした。神様と息を合わせるがごとく、主の祈りによって、私たち自身の思いが変えられていく、それが神のみこころである、そう言っても言い過ぎではないでしょう。イエスは、これまでの私たちの思いや考え、心のあり方、それら一新されようとしているのではないでしょうか。新しい心、新しい身分、新しい生き方、それらを私たちに指し示そうとしておられるのです。
2. キリストによって与えられたもの
キリストによって、私たちは義とされ、新しい身分が与えられました。そして神の民として新しい心、新しいいのち、新しい基準が与えられています。しかし、私たちはこれらの特権を十分に理解していません。私たちは、古い心に、古い基準に、古い身分に引きずられてしまいます。私たちは、この世界の罪深い現実を見つめつつ、それでもキリストによって義とされ、神の民であるという特権が与えられていることへの感謝と神への賛美を持って歩むのです。この特権に与った者たちにふさわしい祈り。それがこの主の祈りです。この主の祈りの直後に、キリストはとても現実的な話をされます。「人の罪の赦し」「人前での偽善」「欲や富のこと」「日常の必要のこと」。これらのことは「あなた」という一人称が主語になるようなことばかりです。しかし、「私」のことは、神が、天のあなたの父が、心から心配してくださるとキリストは教えてくださいました。私たちは、この与えられた特権を喜んで受け取らせていただきたいのです。
投稿者 mb-church : 11:17
メインページへ2011/5/29礼拝メッセージ
2011年5月29日の礼拝メッセージの要約です。
マタイ6:13
「私たちの告白」
1. 教会の告白
主の祈りは、これからもその力を失うことはありません。われらの父との呼びかけにはじまり、神の御名、御国、みこころを求める祈り、そして「私たち」に必要な糧を求める祈り。罪の赦しを請い、他者を赦すことに生きる祈り、最後に、誘惑に陥らず、われらの救いを願う祈りへと、私たちは導かれてきました。キリストが教えてくださった祈りの言葉はここまでです。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです」という言葉は、後に加えられたものであると言われています。この言葉を持って、主の祈りにあわせて後のキリスト者たちが紡ぎだした教会の信仰の告白と言うことができるでしょう。
2. キリストの教えてださったこと
この世界の中で私たちは様々なものに忠誠を誓わされています。教会は何ものよりも前に神に忠誠を誓います。「国と力と栄え」をめぐって、私たちのこの世界は争い、闘争をしてきました。このような混乱の現状の中で、私たちはうめくように「主の祈り」を祈ります。そしてこの祈りによって私たち自身が問われ教えられます。この世界の真の王は、いったい誰なのか。私たちの基礎、基準はどこにあるのか。すべてを備え、必ず恵みを与えてくださる神に信頼をし、自らの罪を赦され、他者を赦す生き方へと進んでゆくこと。悪から離れ、神の救いをどんなときにも忍耐強く祈り求めること。これらは、すべてキリストが教えてくださったものです。
3. すべては神に
この祈りを通して、キリスト者たちが口にした言葉が「国と力と栄えが神にあるように」、そして「アーメン」です。国も力も栄えも、一歩間違えると私たちを罪へといざない、過ちを犯させるものです。だから私たちは注意しなくてはなりません。神の国は、力は、栄光は、どこにあらわされるのでしょうか。私たちは神の国を心から望んでいるのでしょうか。実際の私たちは、どこまでも利己的で、また区別や差別の思い、憎しみや恨みを抱き続けてしまいます。私たちは、慈愛とまことに満ちた神ではなく、別のものを神として崇めてしまいます。私たちは人の力や、富、権力そのものに救いを求めてしまいます。私たちは神の正しさや公正さではなく、私たちの基準で物事を見ています。私たちを神から引き離すものが罪であり、誘惑者です。そこから私たちが逃れるすべはただ一つしかありません。それが私たちに与えられた唯一の救いである主キリストなのです。
投稿者 mb-church : 11:14
メインページへ2011年05月25日
2011/5/22礼拝メッセージ
2011年5月22日の礼拝メッセージの要約です。
マタイ6:13
「救ってください!」
1. 救ってください!
最後の祈り、それが「悪からお救いください」です。それは救ってください、という切実な祈りです。私たちは、いつも何から救われたいと願うのでしょうか。今の現状から救われたい、悲しみや良くないことから救われたい、そう思うものです。そのすべてを「悪」と言い表しても間違いではありません。ここでも私たちという主語で祈られています。この祈りの私たちとは誰か、そのことを忘れてはなりません。主イエスが、幸いであると語られた者たちこそ「私たち」です。私たちを悪から救ってくださいと祈るとき、その祈りの射程範囲はとてつもなく大きいものです。
2. 何を欲するのか?
「悪」とは何でしょうか。私に敵対する人やものでしょうか。しかし、私に敵対するものを滅ぼしたまえ、とこの祈りは祈ってはいないことに注目しなくてはなりません。「悪から救ってください」とキリストは祈るようにと教えてくださいました。悪から救ってくださいと私たちは切実に祈っているだろうか、そう思わされます。悪い者を滅ぼす力を与えてくださいと、キリストは教えられませんでした。しかし、私たちが祈ってきたのは、「力」を欲するものばかりであったことを認めなくてはなりません。神は、この世界に、私たちに関わりを持って下さる方です。私たちに関心を持ち、私たちが神を信じ、神のみこころに生きるようにと願っておられます。教会の場で神を信じない者たちをのろい、滅びを願うように祈れとキリストは教えられたのでしょうか。キリストが「私たち」と祈れと教えられたのは、私たちとそれ以外とを分けるためではありません。「私たち」という言葉で祈るとき、それはここにいる私たちだけのことを祈るのでは決してないのです。
3. 連帯してくださる方
キリストの姿には、苦しみを負う人々とつながる、連帯する姿があります。キリストは救い主です。キリストには私たちを救う力があります。そのキリストはどのようにして私たちを救われるのでしょうか。キリストは、私たちと同じ人となり、人と同じ苦しみと、死を通られることによって、私たちと連帯をしてくださいました。そして、神の御力によって、キリストは救われ、よみがえられたのです。キリストご自身が、人間とともに「私たち」と言って祈ってくださり、そして神がキリストとともに私たちを救ってくださるのです。私たちもキリストと同じ思いとなって、主の祈りを祈り続けてまいりましょう。
投稿者 mb-church : 16:51
メインページへ2011/5/15礼拝メッセージ
2011年5月15日の礼拝メッセージの要約です。
マタイ6:13
「試練でも誘惑でも」
1. 試練か誘惑か
ここには二つの祈りがあります。一つは「私たちを試みに会わせないでください」、そしてもう一つは「悪からお救いください」という祈りです。イエスが教えられた祈りの最後の文言は、勝利の言葉でも、感謝の言葉でもありませんでした。この試練という言葉は、誘惑という意味としても取ることができます。聖書において試練も誘惑も、どちらも記されています。試練にしても、誘惑にしても、必ず私たちが遭遇するものには違いありません。主イエスでさえ「誘惑」を受けられました。しかし、この祈りを祈れば、私たちの周りから誘惑や試練が消え去るのかと言えば、残念ながらそんなことはありません。むしろ、現実には誘惑や試練があるからこそ、なお祈るべきであると言われているのです。
2. 祈りなさい
象徴的なシーンがあります。キリストのゲッセマネの祈りです。その時、そばに居た弟子たちは眠ってしまいました。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」と、キリストは弟子たちに諭されました。私たちは主イエス・キリストの歩みを見るようにと、絶えず促されています。キリストは、絶えず人の誘惑と向き合い、また人々のうそや欺瞞、偽善と対峙し、神のみこころを表すために、まっすぐに歩まれました。そこには絶えず衝突があり、戦いがあり、悩みがあったことを、私たちは知っているはずです。そのキリストでさえ、おそらく祈っていた言葉こそ今日の祈りです。この祈りこそ、この世にある戦いの現実の厳しさを本当に知っているものの謙遜な祈りなのです。この祈りは、決して逃げるための祈りの言葉ではありません。必ずある誘惑、試みに対して、その現実の痛み、苦しみをしっかりと見つめながら、そこになお神の御力とみこころ、そして何よりも神の救いを求めようとする祈りなのです。
3. 私たちという祈り
そしてこの祈りは、個人の祈りで終わるものではないのです。「私たち」が誘惑に会わないように。この日本が、この世界が、まさに私たちが、誘惑に、試みに会わないように。耐え難い試みは必ず起きます。それでも、この祈りはむなしく地に落ちているのではないのです。必ず、神から希望が与えられている、それを私たちは忘れてはなりません。その希望をもって、私たちは祈り続けるのです。私たちを誘惑に陥らせないでくださいと。
投稿者 mb-church : 16:49
メインページへ2011/5/8礼拝メッセージ
2011年5月8日の礼拝メッセージの要約です。
マタイ6:12
「神の赦しと私たちの赦し」
1. 赦しの条件
文語訳では「われらに罪を犯す者を、われらがゆるすごとく、われらの罪をも赦したまえ」です。私たちが他の人の罪を赦すことを条件として、それゆえに、私たちの罪を赦してくださいと願っているかのように読むことができます。他の訳では次のようなものもあります。「私たちの負い目をおゆるしください。私たちも負い目をゆるし合います。」「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。」つまり、あなたが私たちの罪を赦してくださるゆえに、私たちも他の人を赦しますとなるわけです。しかし忠実に訳せば「私たちの負い目を赦してください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しましたように。」となるでしょう。キリストを通して、私たちに常々語られていることは「あなたを赦そう」という神のメッセージです。罪の赦しを願い求めるとき、キリストによってすでに私の罪は赦されていることを、私たちは思い出すことにもなります。その上で、私たちが祈らされるのは「他者の赦し」のことなのです。
2. 他者への赦し
私たちが、キリストの十字架によって赦されているのはなぜでしょうか。それは、私という個人がただ罪赦されて、天国に行くということではありません。キリストの十字架によって罪を赦されたものとして、神のみこころを知って生きる・・・そこに十字架の赦しの意義があります。パウロはこのことをキリストの使節、和解の使者であると言い表しました。それが私たちに与えられた新たな役目です。「私たちに負い目のある人たちを赦しましたように。」ここで神の赦しと、私たちの赦しとが並べられています。主の祈りを祈るときに、私たちはキリストにある神の赦しを覚えます。そしてその大きな赦しと同時に、私たち自身の赦しが問われることになります。今私たちは他者を心から赦しているのだろうか。キリストによって私たちの罪は赦されました。しかし、その救いを受けてなお、私たちが神の民として、和解と赦しをもたらすものとなっていないのなら、やはりそれは神のみこころに生きようとしないおろかな罪人にしか過ぎないのです。「主の祈りの第五の願いは、この祈り全体の中で最も危険な願いである。われわれが祈りながら偽り、また偽りながら祈るという危険が、他の願いに比べて、この願いの中にはより身近に潜んでいる。(プフェンドザック)」キリストは、私たちに他者への赦しを迫る方なのです。
投稿者 mb-church : 16:47
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2011年5月1日の礼拝メッセージの要約です。
マタイ6:11
「神のことばとパン」
1. 私たちとは誰か
主イエスが教えて下った祈りには、「私」という言葉はありません。それでは「私たち」とはいったい誰をさしているのでしょうか。それは、天の神を私たちの父と呼び、主の名をあがめ、神の国が来ることを切に願い、そして主のみこころがこの地になることを心から祈る者たちのことです。そしておそらくこの主の祈りの「私たち」という言葉には、それだけではない響きがあります。それは山上の説教の冒頭に明らかにされています。そこには、イエスによって神の国の者たちに招かれている者たちの新たな定義が記されています。割礼を受けた者、律法を自分たちの基準で守る者、正しい行いをする者ではなく、心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のために迫害されている者、主イエスのために迫害される者たちのことです。私たちは自分の正しさや強さを、さも自分で得たかのように思いがちです。そして、弱さを得た人、痛みを負っている人、その人々もまた、それらが全てその人のせいでは決してありません。私の罪は私たちの罪であり、私たちの罪は私の罪でもあるのです。ここでキリストは「私たち」と祈るようにと教えられました。それは罪ある私たち、神の前にまったく打ち砕かれた人々のことです。
2. 神の意志に支えられて
そして「日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈ります。神のみこころがなるようにと祈ったその直後に祈る言葉、それが「今日の糧を与えてください」というものです。糧とは「パン」という言葉です。パンの背後に覚えなくてはならないのは、それを与える神のことばです。イスラエルは出エジプトのマナによってそのことを学びました。その日の命は、またそれを生かす食べ物さえも、神の意志によっているのだということを。「神のことば」が実現するというのは、そこに「神の意志がある」ということにほかなりません。私たちが今日生かされ、食べ物があるということも、そこに神の意志があるのです。この祈りが私たちに教えるのは、神の意志によって、私たちが今日生かされ、そして生きることができるのだという事実です。この事実に対して、私たちはどこまで目が開かれているのでしょうか。たとい満ち足りていようと、神にあるいのちに気がついていないならば、その人はすでにいのちの本質を失っていると言わざるをえません。かの地が、また私たちが、ただ物で満ちるのではなく、神の意志によって生かされ、生きていくということを知るようにと祈りたいのです。
投稿者 mb-church : 16:42
メインページへ2011年04月24日
2011/4/24礼拝メッセージ
2011年4月24日イースター礼拝のメッセージ要約です。
Ⅱコリント1:4~10
「キリストの苦難とともに」
1. 勝利が宣言された日
イースターは主イエス・キリストが、死からよみがえられた日です。この日こそ「勝利」が宣言された日です。私たちの日常は、いまだ勝利が訪れていないようにも思えます。未解決の問題、痛み、悲しみ、死、私たちの前には、人の力ではコントロールできないような事柄が山積しています。「勝利」はどこにあるのでしょうか。絆を深め、がんばった先には何があるのでしょうか。私たち人には、その先にあるものを指し示すだけの力はありません。なぜなら、人間には、どこから来て、どこへ行くのか、その出発点とゴールをはっきりと示すことができないからです。その答えを持つ方が、私たちに示してくださった答え、それがイースターにはあります。
2. 苦難の中で
パウロのことを、私たちは偉大なる伝道者、情熱に満ちた働き人であると認めています。しかし、当時の教会はそのように見ていない人々もいました。実際に会った場合の彼は弱々しいとも記されています。もちろんパウロはその評価に一喜一憂していたわけではなかったでしょう。しかし、彼の中にあった苦しみはとても深いものでした。何よりも彼を苦しめたのは、キリストの福音に対しての間違った教えが教会を混乱させている、ということでした。力を尽くしても理解されず、思い通りに行かない・・・そんなことの繰り返し、それが彼の歩んだ生涯でした。彼の前に立ちふさがったのは、よりによって当時の教会だったのです。ここにも彼が圧迫を受けていたと証言されています。さらに彼は「生きることさえもあきらめた」とまで言っています。
2. 与えられた慰め
ここで「慰め」という言葉が繰り返されるのと同様に、「苦しみ」という言葉も数多く繰り返されます。パウロもまた福音宣教に奮闘する中で、彼自身の存在の危機を経験しました。しかし、彼はそこに最も偉大な意味を見出します。その時に、彼はキリストの苦しみの意味を深く理解することになるのです。「死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となる」と彼は告白しています。苦難の真っ只中で、その先にある神の救い、そしてキリストの復活へと、私たちは目を向けさせられるのです。苦難は十字架によって、やがて慰めと神の栄光に満ちたものとなることが約束されています。あなたの苦難は、キリストの苦難とともにあり、あなたの希望もまた、キリストの復活とともにある、そこに「神の慰め」があるのです。
投稿者 mb-church : 06:36
メインページへ2011/4/10礼拝メッセージ
2011年4月10日礼拝のメッセージ要約です。
マタイ6:10、ルカ19:5~10
「みこころが天と地で」
1. あなたのみこころが行われるように
第三の祈りにおいて、私たちがまず考えなくてはならないこと、それは神のみこころとは何かということです。神の意志、望まれること、喜ばれること、それは何でしょうか?みこころを、私たちはみことばを通して聴き続け、そして学び続けなくてはなりません。神は私たちに自由を与えられ、私たちの意志を働かせて、私たちに与えられた力や知恵をもって生きるようにと導かれています。聖書には「徳」と訳される言葉があります。これは「建てあげる」という言葉です。その人が何によって形作られ、教会が何を土台にして形成されているのでしょうか。みことばは私たちを形作るものでもあります。
2. ある役人
しかし、神のみおしえはいつのまにか「ルール」となってしまいます。神のみこころを行うということが建前になり、その実態は神の思いにまで人の心が及ばないということになってしまいます。最初は正しく良いこととして始めたことも、いつの間にかそこにある大事な土台を失ってしまうことがよくあります。ルカの福音書にはキリストとある役人との対話が記録されています(ルカ18:18~)。この人は悲しんでイエスの前を立ち去ることになりました。「みこころ」を口にするときに、私たちは考え抜かなくてはならないのです。何が神のみ思いなのだろかと。キリストが「全財産」をささげて、貧しい人に施せと言ったのは、そもそものあなたの出発点が違うのだと教えようとされているのです。
3. ある収税人
彼は周囲からは蔑まれた人でした。しかし、彼はイエスに出会います。彼はキリストから目に見える物は何一つ得ることはありませんでした。しかし、彼はキリストから最も大事なものを受け取った人です。それは「彼自身の全てが受け入れられた」という確信です。そして彼は神のみこころを命じられたからではなく、自由な自発的な行動によって行う人となりました。キリストを信じることによって、私たちのいのちの全てが、完全なる希望と救いに包まれます。そこから私たちは「建て上げて」いくのです。みこころがなるようにとの祈りは、天地という広大な範囲に及んでいます。しかし、その祈りは同時に、この私の上にという祈りでもあります。あのザアカイが確信し、そしてその思いに押し出されて新たな歩みへと踏み出したように、私たちも神のみこころに生きる歩みへと踏み出したいのです。
投稿者 mb-church : 06:35 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2011/4/3礼拝メッセージ
2011年4月3日礼拝のメッセージ要約です。
マタイ6:10
「御国がここに来ますように。」
1. 御国が来ますように
この祈りは真にキリスト教的な祈りです。「御国に行けますように」とはイエスは教えられませんでした。神はこの世界を良きものとして形作りました。私たちの中にもその残滓があります。しかし、私たちの住むこの世界は、すばらしいものだけで彩られた世界ではありません。人間も、大きな痛みを抱え、また悲しみを抱えながら歩み続けています。私たちのいるこの場所に神の御力と知恵によって、神の国が到来することを切に祈る祈り、それが「御国が来ますように」という祈りです。この祈りから三つのことが響き渡ります。
2. 現実と神の国
一つは、私たちの目の前にある神の国とは程遠い現実を見つめ続けるということです。この現実を直視する中で、切なる叫びとともに私たちは祈らされるのです。その祈りはうめくような祈りであるかもしれません。私たちの目が、今何を見ているのか、そのことが問われる祈りです。この場所に立ちつつ、ここに御国が来てくださいと祈るのです。
3. 神の国というゴール
第二に、この祈りは私たちのゴールを示すものです。神の国は私だけが幸いでいる国ではありません。神が完全に支配される国、正義と公正、愛と平和、死ではなくいのちにあふれたところです。これは抽象的なものでもなく、また非現実的なものでもありません。それらは私たちが今ここで切に願い欲しているものです。神の支配がありますようにと心から願う者たちが数多くおこされることが必要です。この現実を前に、父なる神の公正と義、愛と平和の支配する国が来る、そのことを切に祈るように私たちは今導かれています。
4. 道備えをする生き方
第三に、この祈りが神の国が来ることの道備えをする生き方へと導くということです。他の誰かではないあなたが、ここに神の国が来るようにと願い、そしてその願いに生きよ、と語られています。それは分離してしまっている神の側と私たちの側とをつなぐ祈りです。この地で御国が来るようにと祈るのは、ただこの場所が天国へと通じる通過点であるからではありません。この地は神の国が到来する場所です。この場所から、私たちは神の国へと進んでいくのです。その間をつなげる確かな鍵、それが十字架の主、復活の主イエス・キリストなのです。
投稿者 mb-church : 06:32 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2011年04月01日
2011/3/27礼拝メッセージ
2011年3月27日礼拝のメッセージ要約です。
マタイ6:9
「御名が崇められますように」
1. 私たちの天の父よ
このことばはとても親しい呼びかけのことばです。神とあなたは、親密な、それはたとえて言えば父と子の関係だと言うのです。それは、まるで私たちには到底入ることのゆるされない全世界の王の部屋のドアが目の前にあり、そのドアをたたくことが許されている、そんな扉を空けることば。これは呪文の出だしではありません。私たちに神への信頼を思い起こさせる言葉です。そしてその言葉を私たちにキリストが譲ってくれたとも言えるのが主の祈りです。あなたのことも、父なる神は私と同じようにしてくださるのだ、それが主の祈りのはじめの言葉の約束です。
2. 御名があがめられますように
この意味は「あなたの名が聖なるものとなるように」です。名前は単に区別する記号ではありません。その人そのものを表すもの、その人の存在が名前の持つ意味です。なぜこのことを祈れと言われているのでしょうか。なぜなら、神はこの世界で貶められ続けているからです。神のかたちである人間、そしてこの世界のすべてに神の手がほどこされ、表されています。私たちの行動によって、私たちの言動によって、この世界は変化し、私たち自身も時に傷つき、時に神のすばらしさを表すこともできます。私たちは、一方では神のかたちである人のすばらしさと、もう一方では神のかたちをゆがめてしまう人の姿を見出します。
3. 苦難のときに
苦難のときに、私たちは神のみこころをどのように受け取っているかが試されていると言ってもいいでしょう。「御名が崇められますように。」これは私たちの絶望的な現実に対して、私たち自身を、神から出発する見方へと連れ戻す祈りです。そしてそれと同時に、私たちの思いと力の出発点が、神から与えられるものであることを約束している言葉でもあるのです。天の父なる神の御力によって、この世界で、わたしという個人の中で、御名が崇められるという奇跡が起こりますようにと祈るようにと、キリストは教えられたのです。
投稿者 mb-church : 16:42 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2011/3/20礼拝メッセージ
2011年3月20日礼拝のメッセージ要約です。
マタイ6:5~9
「天の父よ」
1. 普通のあり方
今求められている「普通」とは何でしょうか。それは私たちの普通とは異なります。私たちは神を信じる者たちであり、神を信じようとする者たちです。神のみこころを行う、そのような者たちでありたいと願います。神の御思いを私たちの「普通」としたいのです。私たちにともに祈りの手を上げたいと思います。今日の箇所は、主のいのりの直前の箇所と祈りの第一節です。ここでまずイエスは、神の前にある人の内側にあるものを明らかにしようとしています。それは偽善です。
2. 神の前の偽善
偽善者たちは人に見られたくて、わざわざ会堂や通りの四つ角にたって祈る、とあります。イエスが問題にしたことは何でしょうか。問題は何を祈り求めているのか、そしてそれを誰に向かって祈っているのか、ということです。もちろん神に祈っていることでしょう。だとすると、その神はいったいどんな方なのでしょうか。人前ではなく、奥まった部屋に、そして、人の前で声にだして、自らの祈りを、神にではなく、人に対してする人々に対してイエスは語りかけます。あなたは祈ってはいるが、まったくその相手が見えていないと。「隠れたところにいる」それは、わざわざ神が隠れているのではなく、私たちが自分から見ようとしていない、ということを意味しています。自分たちの思いを先においてしまうがゆえに、神の姿を見失う、そのようなことが私たちにはあります。今、私たち自身の質が問われている、そう言ってもいいでしょう。
3. 異邦人のようではなく
ただ熱心に、ただ回数を多く祈ればそれで聞かれるのか、これもまた祈りの本質を失っていると言わざるをえません。イエスは「異邦人」のようだ、と言います。自分は神を信じているといいながら、自分の都合のよい神を作り上げているのではないか、そう問われています。神は祈る前から私たちの必要なものを知っておられる・・・では祈る必要がないのでは?この考え方の根底には、私の必要を知っていただいて、そして祈りを通して神に聞いてもらうためだ、という考えがあります。私たちは今、まさに問われています。自らを満たすためだけの祈りを捧げるのか、それとも苦しみ、痛みを連帯し、とりなすために祈るのか。現実の苦難が目の前にあります。だから、イエスは主のいのりを私たちに与えてくださいました。この祈りを祈り続けなさいと言われました。そしてまず私たちはこう祈るのです。「天におられる私たちの父よ」と。
投稿者 mb-church : 16:40 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2011年03月15日
2011/3/13礼拝メッセージ
2011年3月13日礼拝のメッセージです。
ルカの福音書21:25~28
「身を起して」
http://www.voiceblog.jp/masago_bc/
投稿者 mb-church : 15:09 | コメント (1)
メインページへ2011/3/6礼拝メッセージ
2011年3月6日礼拝のメッセージ要約です。
創世記24:1~9
「信仰の継承」
1. イサクの結婚
息子イサクの結婚の逸話、それがこの24章に描かれています。それはまさに信仰継承の物語であると言えるでしょう。信仰の継承は「生きる信仰の上に成り立つ」ということが語られています。この時、アブラハムの地上での生涯の終わりが差し迫っていました。この時一つのことが彼の気がかりでした。それは息子イサクの結婚の相手ということです。「婚姻関係」によって、この時代より後のイスラエルの民も、たびたび神への信仰がふるいにかけられるということが起きました。イスラエルの民が、他の民族との婚姻関係を禁じていく背景には、ただ自分たちの民族の純潔を守るということ以上に、信仰そのものを保持するという目的が第一にありました。アブラハムが、イサクの結婚に関して考えたのも、この信仰の継承であったことは間違いないことでしょう。
2. アブラハムの条件
アブラハムは、カナン人からイサクの結婚相手を選ばないことを、第一の条件としました。そして、しもべにアブラハムの生まれ故郷にまで相手を探しにいかせます。この地で生きるためには、カナン人から相手を選んだほうが得策となることは分かっています。しかし、あえてアブラハムは遠い地から相手をと考えました。なぜなら、アブラハムは「神信仰」においてカナンの地の人々とは、一線を画さなくてはならないと考えているからです。つまりアブラハムの第一の基準は、「神信仰の継承」だったということです。
3. 生きた信仰
しもべはアブラハムに質問をしています。「もしかして、その女の人が、私についてこの国に来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」しかしアブラハムはイサクがここに留まることを優先しました。ここでも、アブラハムが最も大事にしていることが明らかにされています。それは「神の導き」です。イサクの妻となる人もまた、自分たちと同じ信仰に立つものでなくてはならないと考えていたのです。アブラハムが最も大事にしたこと、それはアブラハムの信仰の原点ともいえる故郷から、同じ神を信じ、同じように家を出て、ここまで来てくれる女性であったのです。ここに問われているのは、そこに「神への信頼と信仰があるのか」ということです。そこに生きた信仰があるならば、その信仰は後の世代にも引き継がれていくものとなるのです。
投稿者 mb-church : 15:00
メインページへ2011/2/27礼拝メッセージ
2011年2月27日礼拝のメッセージ要約です。
創世記23:1~20
「アブラハムの道標」
1. 人生の終末を迎えて
22章において、アブラハムの神との信仰における格闘は一つの答えを得ることになります。神の前での罪の清算と、神がその責任の全てを負ってくださるとの答え。その答えを得、彼はモリヤの山をおりました。この最後の数章において、なすべきことをなし終えて、この地上での旅路を終えようとする一人の信仰者の姿を、私たちは見ることができるでしょう。その中の一つに妻サラとの別離ということがありました。
2. 深い悲しみ
これはアブラハムにとって大きな悲しみの出来事でした。神にある後々までの希望を抱いていたとしても、この別離の悲しみは大きなものです。奇しくもサラの死によって、アブラハムは神が約束された土地を手にいれることになります。生きている間、彼は寄留者であり旅人でしたが、彼はこの時土地を手にします。その場所は、やがて自分もそこに入ることをもちろん意図してのことです。約束の地。それは聖書では後に、神の国として語られる場所です。それは、やがて再びこの地上に来る、神の完全なる支配がなされる場所です。彼は、この時代にすでにあった「別の死後の世界への信仰」ではないものを受け取っています。神は最大の敵である罪と死とを滅ぼしてくださる、その信仰に彼は立っていました。ここでも彼は誠実に行動し、適切な方法でヘテ人から土地を取得します。
3. アブラハムの道標
正当な方法で、アブラハムは土地を取得します。この地は単に死者を葬る地ではなく、神の約束が必ず果たされる場所として、手にした場所でした。そしてその場所は、やがて彼の後に続く者たちの「道標」となる、その確信をもって、アブラハムはこの土地を手にします。聖書における信仰は、ただ一人の信仰ではありません。そこに連なる信仰です。その出発点にアブラハムは置かれた人でした。私たちもまた、この信仰に連なる者たちです。私たちが生涯で手に入れる以上のことを、神が後に用意してくださっている・・・必ず神が備えた約束の地での再会があり、そしていのちの完成がそこにある・・・その信仰がここにあるのです。その希望こそ、主イエス・キリストによって示された十字架の死と復活の希望であるといえるでしょう。別離の痛み、悲しみがなくなるのではありません。しかし、その先に必ず神が望みを備えてくださっている、その信仰に私たちも歩ませていただきましょう。
投稿者 mb-church : 14:59 | コメント (0)
メインページへ2011/2/20礼拝メッセージ
2011年2月20日礼拝のメッセージ要約です。
創世記22:6~19
「罪と死の責任」
1. 神の御前を歩む
アブラハムは神の声が響いた時、即座の反応をしました。彼は常に神がすぐそばにおられるという意識を持っていたのです。なぜ神が全焼のいけにえとして息子イサクをささげよと命じているのか。それは神の前の罪ゆえであることを彼は理解します。神への信頼は彼の中にありました。しかし、罪の問題が彼の前には立ちふさがっていたのです。最後の壁が彼の前の前に立ちはだかります。それが「罪」という問題であり、それは「死」という最大の難問でもありました。しかし、神はその手がイサクに振り下ろされる直前に、アブラハムの手を止められました。
2. 神の宣言
このシーンでアブラハムが受け取った神からのメッセージは何でしょうか。それは第一に神からの「赦し」の宣言です。「あなたがどう思うかではない。わたしは確かにあなたを大いに祝福する」との神の宣言をかれは聞くことになります。さらに神はアブラハムに約束されました。あなたの子孫は「敵の門を勝ち取り、すべての国々は祝福を受けるようになる」と。敵とは誰でしょうか。この敵とは「罪」そして「死」のことです。そして祝福とは「神の民となり、神の国に住むこと」に他なりません。それはアブラハムは神の声に聞き従ったからです。神の声に聞き従ったときに私たちにはさらなる確信が与えられるのです。
3. 責任を取られる神
しかし、それでもなお根本的な問題は残されています。アブラハムの罪の代価はまだ支払われていないのです。それでは誰が最終的な責任を取ったのでしょうか。それを支払ったのは神ご自身です。そしてその代価こそイエス・キリストなのです。アブラハムが罪の代価としてイサクをささげようとしたとき、神は語られました。「もうあなたがささげなくてよい」と。本来は責任を取る必要のない神が、ひとり子であるイエスをささげてくださったのです。私たちは苦難を通るたびに、また自分の弱さや罪に気がつかされるたびに、この神の姿を思い起こしたいと思います。そしてアブラハムが得た祝福を、私たちも受け取らせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 14:58 | コメント (0)
メインページへ2011/2/13礼拝メッセージ
2011年2月13日礼拝のメッセージ要約です。
創世記22:4~14
「見えないお方への信頼」
1. 神が示された地
アブラハムはいよいよ、息子イサクと二人で、神が示された地へと進んでいきます。神が初めにアブラハムに語ったのは「わたしが示す地へ行きなさい」という言葉でした。そして「私の示す地」は、このモリヤだったわけです。この地へと行くことには目的がありました。その目的とは、アブラハムが完全に神の民、神のものとなるということでした。アブラハムの人生の旅は、ただ目に見えるものを得る旅ではありません。目に見えない神、神ご自身を得る旅。それがアブラハムの旅路なのです。アブラハムが、神の言葉に全面的に従ったときに、そこに何があらわされ、そして何が彼に与えられるのでしょうか。
2. 問われていること
信仰がここで問われています。それだけではありません。あなたの信じる神は、どんな神なのか?そのこともまた問われています。アブラハムは息子イサクにこのように答えています。「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」この言葉にこそ、アブラハムの信仰が表されています。そしていよいよ、アブラハムが、その子に手をかける、その瞬間がやってきました。そのとき神はアブラハムの手を止められ声を掛けられました。「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」アブラハムの心と行為が一致していたということを、神が証言しています。この物語が今も私たちに告げるのは、私たちが目指すべき信仰の高みです。しかし、それはとても大変なことでもあります。
3. 備えてくださる主
キリストに問われた人がいました。ルカ18章の役人です。彼は全財産をささげるようにとイエスに問われます。すると彼は非常に悲しみ、去っていきます。手放すものが大きければ大きいほど、失いたくない、と私たちは思います。神にささげきることはとても難しいことでもあります。アブラハムの姿は、とても人間業ではありません。聖書は私たちにそのようになれと言っているのでしょうか。信仰は神が与えてくださるものです。アブラハムの根底にあったのは、神への全幅の信頼です。神は、その信頼に私たちが思う以上のことを持って応えてくださる方なのです。神に最も大事なものをささげ、そして神がそれに答えてくださるという、信仰者だからこそ経験することのできる証がここにあるのです。
投稿者 mb-church : 14:56 | コメント (0)
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2011年1月30日礼拝のメッセージ要約です。
創世記21:22~34
「与えられた務め」
1. 訪問者
イサクが生まれた後、アブラハムのところにアビメレク王がやってきました。友好的な関係を持つよう呼びかけに来たのです。アビメレクが恐れていたのはアブラハムではなく、アブラハムの「神」であったようです。この人物は、とても率直で実直に見えます。これまでのいきさつから、アブラハムに何かを感じ取り、友好的な関係を持つことが、自分にとって、また自分の治めている国にも益をもたらすと彼は判断したのでしょう。そしてアブラハムも彼と友好条約を結ぶことにします。周辺の国々や人々に、アブラハムの振舞いや言動を通して、どのような神なのかが知れ渡っていきました。
2. アブラハムの役目
アブラハムには神から与えられた役目がありました。それは神と人との間に立ちとりなす役目です。真の神の存在を、あり方、生き方を通して、周囲の人々が知るという役目。その役目がアブラハムに、後に続くイスラエルの民にも与えられていました。地上のすべての民族は、アブラハムによって祝福されるのです。ここでのアブラハムは神との間を取り持つ「祭司」のようです。そしてアブラハムは、アビメレクに対しある抗議をします。それは井戸の事件でした。これまでアブラハムはこのことを黙っていました。しかしアビメレクが友好関係を求めてきた時、つまり神との関係を持とうとした時、アブラハムはアビメレクに真実を告げる決心をしたのです。そして、アブラハムは7頭の子羊を取るようにとアビメレクに語りかけました。この子羊は誓約の印です。この誓いは、人と人との間で取り決めた約束ごとではなく、神を真ん中にして交わされた約束なのだということが、この印に表されています。
3. 神からの務め
この後、アブラハムは神に祈りをささげました。彼はいったい何を祈ったのでしょうか。アブラハムは自分のためだけに祈りをささげのではなかったのではないでしょうか。彼は、もう一度、アビメレクとその家のために、祈りをささげたのではなかったのでしょうか。実はこの平和の約束は彼らの子孫によって破られることになります。しかし、さらに後の時代、この祈りは人の力によってではなく、神の御力によって、十字架の主イエス・キリストにある和解と平和によってもたらされることになるのです。私たちも対立や、神と人との間に今も立たされています。そこで私たちは、何を願い、何を祈るべきなのかが問われています。
投稿者 mb-church : 14:53 | コメント (0)
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2011年1月23日礼拝のメッセージ要約です。
創世記21:1~21
「主のあわれみの中で」
1. イサクの誕生
老夫婦に待望の息子が誕生します。なぜ神がここまで彼らを待たせたのでしょうか。それは「神の栄光が彼らに現されるため」でした。望み得ないときに神に望みをおき、そして神がそれに答えてくださったという事実。それがこの二人に現された神の御業でした。神の約束があまりにも非現実的であったことから、思わず笑ってしまったアブラハムとサラたちの「笑い」がここにあります。しかし、もう一つの笑いもあります。それは「喜び」の笑いです。現実に対してあきらめて笑うしかない状況であったにもかかわらず、神の御力のゆえに真の喜びがもたらされた笑いがここにはありました。
2. 彼らの目的地
イサクの誕生は最終的なゴールではありません。アブラハムのゴールは神が示された地へとたどり着くことでした。「神の示してくださる地へと行きたい」この問いこそが、彼の人生を前へと進ませたのです。私たちは神に祈ります。それが神の御手の中で導かれ、神のみこころに沿った形で実現をします。しかし、実際のプロセスはそんなに簡単で単純なことではありません。私たちの弱さや神の導きのゆえに、さまざまな局面を通されます。しかし、弱い私たちだとしても、神の忍耐と憐れみの中におかれているのです。その歩みの中で、アブラハムはイサクの誕生を通して、神の圧倒的な確かさを得ました。「神はわたしに笑いを与えてくださった。聞く者は皆、わたしとともに笑う(イサク)でしょう。」神は私たちを祝福して下さろうとしています。ここにある大きな喜びは、彼らの祈りとこれまでの神との旅路があったからです。
2. 悲しみの現実
しかし、ここでも悲しい現実が起きます。それがハガルとイシュマエルの物語です。アブラハムはハガルとイシュマエルを荒野へと追放します。しかし、ここでも神はとても憐み深くあります。この二人の出来事も、もとはアブラハムとサラの神への不信から生じたことでした。その責任を彼らはとることができません。しかし、それでも神はその御手の中で導いて下さいました。アブラハムのように誠実に歩んだとしても、私たちには欠けがあり、弱さがあります。私たちに欠けはあってもなお神に信頼し続け、従い続けていくときに、神は必ず導いて下さいます。私たちもまた、自らの罪深さを覚えつつ、それでもなお神に祈り求めたいのです。神のあわれみの御手の中に置かれていることを感謝しましょう。
投稿者 mb-church : 14:52 | コメント (0)
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2011年1月16日礼拝のメッセージ要約です。
創世記20章
「与えられた務め」
1. 繰り返す過ち
私たちは同じ失敗を繰り返してしまうものです。アブラハムでさえ同様でした。妻サラを再度妹と偽って、異国の王に召しいれてしまうのです。それにしても、この事件がソドムとゴモラの裁きの後に記されていることは印象的です。それ以上に印象的なのが、次の章ではいよいよ神の約束が実現するということです。アブラハムの神への誠実さが、神の約束の実現をもたらしたのではありません。そうではなく神のアブラハムに対しての誠実さこそが、約束の実現をもたらしたのだということが、この一件でも明らかとなります。
2. 警告と慰め
「アブラハムでさえ」という響きの中に、「自分の力を過信するな」という警告が聞こえてきます。それにしても、神のアブラハムへの寛容さは半端ではありません。あくまでも神はアブラハムの側に立ち続けています。アブラハム以上に罪の自覚があったのはアビメレクでした。教会よりも、外にいる人の方が正しさに立っているということはよくあることです。神を信じているからその人が正しいわけではありません。私たちは弱く、罪深いことを知っているがゆえに、神に正しい方へと導いていただくのです。神は私たちの弱さを知っておられるにもかかわらず、それでもなお私たちの側に立ってくださる方です。アブラハムは罪の責任を取ることができないでいます。私たちも同様です。罪は神の責任ではありません。しかし、神は私たちの罪の責任を負ってくださる方です。神の名を汚してしまうのは、神を信じる人であるという皮肉な現実があるのを、私たちは忘れてはならないでしょう。
3. 与えられた務め
ここで神はアブラハムに一つの務めを与えられました。それは「とりなし」です。ここに私たちにも与えられている役目があることを知ります。私たちは神を信じ、赦されている者として、神を知らない者と神との間に立ちとりなす役目が与えられているのです。キリストのゆえに、今神との和解は完全なものとなっています。パウロは、私たちのことをキリストの使節であると言いました。それは私たちが、神の前に赦され続けているからこそできることです。私たちは神の正しさと憐れみ、そしてどんなときにも私たちの側に立っていてくださる方の存在を知らされています。そして私たちにもアブラハムと同じ役目が与えられているのです。
投稿者 mb-church : 14:50 | コメント (0)
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2011/1/2礼拝メッセージ
2011年1月2日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ人への手紙4:16~20
「神からの希望」
1. アブラハムの信仰
アブラハムは信仰の父と呼ばれています。しかしそれはユダヤ人に限ったことではありません。「望み得ないときに、神に望みをおくもの」それがアブラハムの信仰です。私たちの目の前には、どうなるかわからない未来が広がっています。私たちは未来に不安や恐れをいだきます。しかし信仰はそれを超えるものです。旅立つ前、アブラハムには後を継ぐこどもが与えられていませんでした。そのときに彼は神のことばに聴き従いました。このときにアブラハムの信仰が単なる神に対する知識や願掛け以上の聖書の語る「信仰」になったのです。
2. パウロによる解説
パウロはアブラハムの信仰について記しています。アブラハムは弱さを覚えずに神の約束を信じ続けたのでしょうか。彼はその歩みの中で、何度も神に問い、願い、祈り続けました。また時に弱さの中で失敗をも犯しました。しかしパウロはアブラハムの歩みを完全なものであるかのように記しています。なぜなのでしょうか。3章22節に「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」とあります。この言葉は「イエス・キリストの誠実さによる神の義」とも訳すことができます。それはイエスが不完全な私たちのかわりに地上の生涯を歩まれ、完全な人として神の前にささげられた誠実さのゆえに、私たちの罪は赦され、私たちの生涯が神に受け入れられたものとなるという意味です。つまり徹頭徹尾、信仰は神から与えられるものだということなのです。
3. アブラハムに与えられた信仰
アブラハムもまたその生涯においては失敗や弱さがありました。しかし、その生涯の中で、神との関係を深めていきます。20節にはこうあります。「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことはせず」。この箇所は「彼は、神の約束において、不信仰により揺るがされず」と訳せます。また続く文章も「しかし、信仰によって強められ」と訳せます。アブラハムが自分で信仰を強めたのではありません。神に与えられた信仰によって、彼は強められていったのです。信仰は神が与えてくださるものです。私たちはただ神に信頼を置き続け、神との関係を失わずに歩み続けるものであり、希望を自分にではなく、神に置き続けるものたちなのです。
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2011/1/2礼拝メッセージ
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
2011年1月2日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ人への手紙4:16~20
「神からの希望」
1. アブラハムの信仰
アブラハムは信仰の父と呼ばれています。しかしそれはユダヤ人に限ったことではありません。「望み得ないときに、神に望みをおくもの」それがアブラハムの信仰です。私たちの目の前には、どうなるかわからない未来が広がっています。私たちは未来に不安や恐れをいだきます。しかし信仰はそれを超えるものです。旅立つ前、アブラハムには後を継ぐこどもが与えられていませんでした。そのときに彼は神のことばに聴き従いました。このときにアブラハムの信仰が単なる神に対する知識や願掛け以上の聖書の語る「信仰」になったのです。
2. パウロによる解説
パウロはアブラハムの信仰について記しています。アブラハムは弱さを覚えずに神の約束を信じ続けたのでしょうか。彼はその歩みの中で、何度も神に問い、願い、祈り続けました。また時に弱さの中で失敗をも犯しました。しかしパウロはアブラハムの歩みを完全なものであるかのように記しています。なぜなのでしょうか。3章22節に「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」とあります。この言葉は「イエス・キリストの信仰による神の義」とも訳すことができます。それはイエスが不完全な私たちのかわりに地上の生涯を歩まれ、完全な人として神の前にささげられた信仰のゆえに、私たちの罪は赦され、私たちの生涯が神に受け入れられたものとなるという意味です。つまり徹頭徹尾、信仰は神から与えられるものだということなのです。
3. アブラハムに与えられた信仰
アブラハムもまたその生涯においては失敗や弱さがありました。しかし、その生涯の中で、神との関係を深めていきます。20節にはこうあります。「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことはせず」。この箇所は「彼は、神の約束において、不信仰により揺るがされず」と訳せます。また続く文章も「しかし、信仰によって強められ」と訳せます。アブラハムが自分で信仰を強めたのではありません。神に与えられた信仰によって、彼は強められていったのです。信仰は神が与えてくださるものです。私たちはただ神に信頼を置き続け、神との関係を失わずに歩み続けるものであり、希望を自分にではなく、神に置き続けるものたちなのです。
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2010/12/19礼拝メッセージ
2010年12月19日礼拝のメッセージ要約です。
マタイの福音書3:1~12
「指し示された方」
1. 自己義認
「そのころ」それはイエス・キリストの直前に、ユダヤ地方で突如としてあらわれた「預言者」バプテスマのヨハネの時のことです。ヨハネは悔い改めをその時代の人々に説きました。それは旧約の預言者たちのメッセージそのものでした。なぜこのヨハネの時代に、救い主イエスが誕生したのでしょうか。旧約聖書は、唯一の創造主なる神と、被造物である私たちの関係を教えています。その中で、私たちが本当に問題すべきことは「罪」です。その罪の問題、それを一言で言えば「自己義認」です。この時代のユダヤ人たちは、神によって与えられた律法を守ることによって、正しい者となれる、神に認められ、神の国に入ることができる、いえ、この世界での勝利者となれる、そう考えていました。それが「自己義認」です。聖書はこういいます。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、 みな、ともに無益な者となった。 善を行う人はいない。ひとりもいない。(ローマ3:10~12)。
2. ヨハネのメッセージ
イエスの生まれた時代の直前は、神の預言者が与えらなかった時代です。その時に自己義認はピークに達します。その沈黙を破ってバプテスマのヨハネは叫びました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」真の問題はここからです。罪に気づいたときに、私たちはいったいどうすればいいのでしょうか。その鍵こそ、ヨハネが指し示したイエスにあります。神は、私たちに対して、弱さ、足りなさ、罪深さを迫るだけではありません。キリストが誕生したのは実にこの時のためなのです。私たちが、自分の罪に気づき、神に立ち返ろうと神の方へと向きなったそのときに、目の前に、神の救いが差し出されている。それがイエス・キリストです。
3. 差し出されているキリスト
天の御国が近づいた・・・そこにヨハネが意識していたのは「裁き」でした。しかし、それだけではありません。それはキリストが目の前にあるということでもあります。キリストによって私たちに与えられたもの、それは神の前における罪の完全な赦しです。さらに私たちのいのちが、キリストによって、復活の、新しい神の国におけるいのちと変えられたという現実です。この救い主イエスによってもたらされた、神にある完全な赦しと、回復の希望と、神に愛されているという信頼を土台とする、新しい歩みへと私たちは導かれているのです。
投稿者 mb-church : 19:26
メインページへ2010/12/12礼拝メッセージ
2010年12月12日礼拝のメッセージ要約です。
マタイの福音書2:1~12
「嘆きは聞かれている」
1. ユダの地ベツレヘム
イエス・キリストの誕生した場所はベツレヘムでした。マタイはその時がいつであったかを、当時の人がすぐに分かるように記しています。ヘロデ大王と呼ばれるこの王はこの時代のユダの領主でした。その時代にマタイが書き残したイエス誕生にまるわるエピソードは、ある博士たちの話でした。彼らは占星術師であったとも言われています。詳細は不明です。星の導きによって、ユダヤの王が生まれたと聞いたとあります。実に不思議なことですが、この博士たちはその探求の中で、メシアの存在を確信し、そしてユダヤのイスラエルまでやってきたというのです。
2. 博士たち
どこまでこの博士たちが救い主に関して理解していたのか、それは知る由もありません。しかし、確かなことは、この博士たちが「メシア」誕生の知らせを聞いてエルサレムにまでかけつけた、ということです。まだ人々は気がついていません。その時に異邦人の博士たちが、エルサレムにまでやってきて救い主の居場所を探したのです。聖書における「神の選び」をもう一度考えさせられます。私たちの考えをはるかに超えて、神は働かれ、そして人を導かれる・・・。彼らはこの世界の救い主を求め、そしてここまでたどり着いきました。それこそ彼らの上に働かれた神の導きを思わずにはいられません。しかし、その一方でそれに反する力が起こります。この場面では、実に悲惨な出来事が救い主の誕生に際して起こってしまったということが証言されています。
3. 嘆きを聞かれる方
ヘロデ王によって幼子のいのちが奪われてしまうのです。幼子のいのちが、キリストの誕生に際して失われてしまうのです。それもまた人の罪が引き起こしたことであるのは間違いありません。しかし、このこともまた神の御手の中にある出来事でした。神はなぜこのような状況を許されたのでしょうか。救い主がこの世界に与えられた、その時にも悲惨な現実は起きてしまったのでした。しかし、神は決してこの出来事をただ許されたわけではありません。神はこの出来事を決して忘れはしないのです。「わたしは、エフライムが嘆いているのを確かに聞いた。(エレミヤ31:18)」この労苦には神からの報いがあるのです。この救いは、博士たちが示したように、全世界に広がる救いです。世界中に今もうめきが満ち溢れています。その世界にキリストは来てくださったのです。
投稿者 mb-church : 19:24 | コメント (0) | トラックバック
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2010/12/5礼拝メッセージ
2010年12月5日礼拝のメッセージ要約です。
マタイの福音書1:18~25
「神は救いという名」
1. イエスという名
イエスという名前には「神は救い」という意味があります。「イエスとは誰なのか。」この話題は、初期の教会においてよく交わされた話題でした。そしてここから教会の混乱も始まることになります。マタイはそのような教会に対して、イエスとは誰なのかを明らかにしようとしています。系図を通してイエスが神のご計画の中でこの世界に来られたのかを高らかに宣言しました。そして話はイエス誕生のシーンへと移っていきます。マタイはここであえてマリヤではなくヨセフに焦点を当てています。なぜなのでしょうか。
2. マリヤの子
イエスの出世についてもあることが知られていました。それはマリヤの子という呼び名に表されています。つまり父親はヨセフではないということが広く知られていたのでしょう。ですから、ここでマタイは出生に関してはっきりと触れようとしています。当時のユダヤの結婚は、一年の婚約期間を経て一緒に暮らしはじめるというものでした。その婚約期間中にマリヤが妊娠しているということが明らかになります。当然ヨセフは悩みます。彼が取る事のできる方法は二つありました。一つはこの事実を明らかにし、婚約を破棄して慰謝料をもらうということ。もう一つは、この事実を隠し、彼女を内密に去らせ、身ごもったことは事故によるものとすることでした。マリヤの証言によれば、この妊娠は神の霊によるものだと言っています。とても信じられるものではありません。そのような中、ヨセフの夢に主の使いがあらわれて彼に告げるのです。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
3. 罪からの救い主
神は「この方こそご自分の民をその罪から救ってくださる方」と語られました。イエスは神であり、人である、それが教会が聖書から教えられ、そして信じ続けてきた信仰です。そしてそれを最初に理解し信じたのは、ヨセフであったと聖書は証言をしています。ここでいくつかの重要なことをヨセフは神様から受け取っています。この与えられる子どもが、私たちの罪からの救い主であること、そしてこの子は「神の霊」によって生まれるということ、さらに最も大事なこと、この方は「インマヌエル」なるお方であることでした。ここに示されているのは救いの現実です。私たちの救いは、罪そのものの闇の中からスタートするのです。神の救いは、私たちの現実の中で、私たちとともに歩んでくださる方イエス・キリストによるのです。
投稿者 mb-church : 11:47 | コメント (1)
メインページへ2010/11/28礼拝メッセージ
2010年11月28日礼拝のメッセージ要約です。
マタイの福音書1:1~17
「希望の系図」
1. 系図
この系図を読み取るヒントは1節と17節にあります。14代が3回でてきます。実際には14代ずつではありません。しかし、それは誤りを記しているということとは違います。この系図によって伝えたいメッセージがあったということに注目しなくてはなりません。もっとも大事なことは、歴史の中に唐突にイエスが出現したのではないということです。神の御手が、あの選ばれた信仰者アブラハムの子孫に顕されたのだということをこの系図は明らかに示そうとしています。旧約聖書そのものをこの系図は包括しようとしています。そしてそれはアブラハムに約束されたことが実現するのだということです。
2. アブラハム契約
アブラハムに神が約束されたことそれは何だったでしょうか。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」人の罪は個人にだけとどまらず、多くの民族が、その罪の中で互いに傷つけ、互いに相容れずに生きる世界を引き起こしてしまいました。アブラハムに語られたのは全世界の救いです。神はイスラエルの民に何度も救い主メシアの予告をします。なぜなら私たちには救い主が必要だからです。私たちは罪から自分の力では自分たちを救い出すことができません。イエスの時代のユダヤ人も、神からずっと語られ続けてきたメシアを心から待ち望んでいました。しかし、彼らがいつのまにか待ち望んでいたのは、自分たちだけに益をもたらす救い主でした。この系図には、そのイスラエルの民の歴史が、うめきと叫びが込められています。そのような中で登場したのがイエスだったのです。
3. メシアの特質
しかし、それは人々が勝手に思い描いた王やメシアではありません。真の意味でこの世界の救い主、世界の王である方、それがイエスであることをこの系図は物語っています。それが何人かの女性の名前によって明らかにされています。その女性たちは「罪人」「異邦人」「弱さ」「貧しさ」の象徴であると言ってもいいでしょう。それが私たちの罪の現実でもあります。そしてそのような現実に救い主が来てくださったということをこの系図は思い起こさせるものです。そしてそれは同時に、神の私たちに対する忍耐と哀れみの歴史でもあるのです。イエスが、私たち一人一人のところに来てくださったのだということを、この系図を通して覚えさせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 11:45 | コメント (0)
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2010年11月21日礼拝のメッセージ要約です。
創世記18:16~33
「神との対話」
1. 喜びと悲報
三人の使いはアブラハムと話し合うためにやってきたと言ってもいいでしょう。約束の成就とともに、彼らは「裁き」を告げ知らせました。ソドムとゴモラ。それはこの時代における人間の力と欲と繁栄の象徴でもある都市の名です。聖書は、神にある祝福とともに、私たちへの裁きの警告を聖書ははっきりと語ります。それが愛ゆえの警告であることを私たちは知る必要があるでしょう。神の前におけるその罪は極めて重いと言われています。この町のゆえに周囲の人々までもが苦しんでいる叫びまでもが神の前に上っていました。神はわけもなくその町に裁きをくだすというのではありません。正義をあらわそうとされているのです。
2. 神との対話
なぜ神はアブラハムにこのことを相談したのでしょうか。神は一方的に「裁き」を行うわけではありません。なぜこのような裁きがくだるのか、その意味をも伝えられようとしています。アブラハムは正義と公正について、神と対話を深めていきます。最初は50人の正しい者からはじまり、最後は10人の正しい者がいるならば、その町を見逃してくださいと交渉を続けます。アブラハムはここで執り成しをしています。そしてその姿は、神がアブラハムに期待していた姿でもありました。神は、ブラハムとその家族、また彼に連なるものに、正義と公正とを行うように導かれています。つまり神と同じ思い、考えを彼らに持って欲しいという願いを神は持っていたのです。
3. 神の答え
この問いに対する神の答えは「滅ぼすまい。その十人のために」というものでした。たとい少ない人数であろうとも、神にある正しさに立つものがいるということを神は願っておられます。しかし、ソドムとゴモラは、残念ながらこのアブラハムの執り成しもむなしく滅びることになります。厳しい現実です。決してすっきりと受け止められる結論ではありません。しかし、その中にも光が与えられています。ロトとその家族に救いの手が差し伸べられます。アブラハムが神の前に執り成した祈りは、町そのものは裁かれることになりますが、ロトとその家族の救いへと結ばれることになるのです。神の人への取り扱いは裁きという面においては、大きな警告をもって語られています。しかし、人の救いという面においては、実にきめ細かく語られているのです。私たちも神と同じ思いを持ちながら祈り続けてまいりましょう。
投稿者 mb-church : 11:39 | コメント (0)
メインページへ2010/11/14礼拝メッセージ
2010年11月14日礼拝のメッセージ要約です。
マタイの福音書18:1~4
「向きをかえて」
1. だれが一番偉いのか?
別の訳では「天の御国では、いったい誰が最も大いなる者なのですか」となります。「誰が一番のお気に入りですか?」そんな思いが伝わるような質問です。なぜこのような質問をしたのでしょうか。あなたは特別だ、そういって欲しい、そんな弟子たちの気持ちもわからないでもありません。私たちの誰もが、神がほほえんでくださるような人生を送りたいと思うものです。神は本当に公正なお方なのだろうか、そんな疑問も一方ではあります。弟子たちの質問は、誰しもが抱く思いなのです。私は神様にとって特別なのだろうかと。
2. イエスの答え
ここでイエスは小さな子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせたのです。そして「悔い改めて子どもたちのように」と語られました。「悔い改めて」という言葉は「向き直る」という意味の言葉です。「子ども」のようになる。それは「自分を低くする者」という意味で用いられています。ここでキリストは子どもの性質を取り上げて言われたわけではありません。この場に引き出された、一人の何も持たない、弱い、小さな子どもの存在そのものを指して、「この子どものように」と言われました。キリストが語られているのは、そもそもの私たちのスタート地点です。あなたたちの目から見えれば、何も持たない、何の力ない、いやそもそも何もできない、この子どものようにならなければならない。この子どもは自分自身で自分を低くしているわけではありません。そもそも低くさせられている存在の象徴です。私たちはいつも神から与えられているものを、自分のものであるかのようにいつも考えてしまいます。信仰ですら、出発点は「与えられたもの」と聖書は教えています。
3. 真に信仰的であること
「救い」は、達成するものでも、報酬としてもらうものでもありません。ただ預かることなのです。ただこの呼び寄せられた子どものように、自分の力ではなく、ただ神の恵みに、神の導きに身をゆだねることだとキリストは語られます。それが私たちの出発点なのです。私たちの根本がここに定まるときに、私たちのいのち、また生き方は変えられていきます。キリストの御手がそばにあるという安心感と、すべては神に与えられているという感謝を持って歩むことこそ、信仰の歩みと言えるでしょう。私たちもまた、この弟子たちのように方向転換が必要なのです。
投稿者 mb-church : 11:37 | コメント (0)
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2010/11/7礼拝メッセージ
2010年11月7日礼拝のメッセージ要約です。
創世記18:1~15
「銀を精錬するように」
1. 神の民として
19章以降は、以前の18章とは違う位置づけとなっています。この19章からアブラムであった名前はアブラハムとなり、一族は割礼を施された一族となりました。「神の民」としての新たな歩みが、この18章から始まったといってもいいでしょう(Ⅰペテロ2:10)。なんと18章で神である主が、アブラハムに現れたとあります。この三人の旅人とアブラハムとのやり取りを通して、私たちは以前とは異なる面があることに気がつきます。それは神様とアブラハムの距離が、より縮まっているということです。
2. 迎える姿勢
三人の旅人がアブラハムの方へと近づいてきました。その三人を見ると、アブラハムはどうしたでしょうか。彼らを引き止めるべく、アブラハムはこの三人をもてなします。それも最大限のもてなしをするのです。ここでのアブラハムの姿には、神をどのように自分の家へ(内へ)お迎えするのか、その姿勢があらわされています。私たちもキリストを信じる者として、神の民、神の子として歩めることが約束されています。そして何よりも聖霊が内に住んでくださいます(Ⅰコリント6:19)。それはすばらしいことに間違いはありません。しかし同時に驚きと怖さを覚えることでもあります。ここでアブラハムは最大限のものをもって神をお迎えします。それは恐れることではなく、かえって喜びに満ちたものなのであることを、私たちはこのアブラハムの姿から教えられるのです。
3. 銀を精錬するように
いよいよ神の約束が実行へと移されることを神は告げられました。ここで妻のサラにスポットライトが当たります。しかしサラにとって、この知らせは「喜び」とはなりませんでした。アブラハムと同様に失笑をもらしてしまったのです。一つ一つの障壁、壁が取り払われていくかのように、ここでもう一度「笑う」ということが取り上げられています。ここで神は丁寧に彼らの信仰を整えられています。決してサラを責めているのではありません。私たちの内側にある不信の思い、そのままにしてきている整理されなくてはならないところに、ここでも神は焦点を当てているのです。それは銀を精錬するようでもあります。しかし、そのプロセスを経て、神にある深い喜びを得ることが許されるのです(エレミヤ29:11~13)。
投稿者 mb-church : 08:23
メインページへ2010/10/31礼拝メッセージ
2010年10月31日礼拝のメッセージ要約です。
創世記17:15~27
「励ましと応答」
1. 信じるということ
「最初から最後まで信じ続けることができる」そう確信をもって言い切ることのできる人がいるでしょうか。私たちの側には「絶対」と言えるほど確かなものはありません。信仰は私たちが作り上げる熱心さではありません。信仰は神様が与えてくださる、それこそ賜物です。信頼関係を築き上げていくように、そこには時間がかかります。アブラハムは神から約束を頂きました。しかし、アブラハムがすぐに神様の言葉に信頼できたのか、といえばそんなことはありません。ここでアブラハムはひれ伏し、そして笑ったとあります。顔は伏せました。しかし、その顔は笑っていた、というわけです。敬虔な信仰者とはいえないようなアブラハムの姿です。
2. 信じきること
神は、アブラハムを通して「全能なる神を信じるとはいかなることか」を示そうとされました。彼を通して示されたことの一つは「神の約束を信じきること」についてです。彼の内側の思いを神が知らないわけはありません。ここでのアブラハムは決して不信仰というわけではありません。神を信じていないわけではない。しかし、信じきることのできない現実は確かにあります。私たちの前にも現実が立ちはだかります。信じていないわけではありません。しかし、神のことばを信じきることのできない私たち。そんなアブラハムに神はどのような態度をとられるのでしょうか。
3. 励ましと応答
すると神は続けて言葉をかけられます。約束の子「イサク」が与えられると。その名前の意味は「彼は笑う」というものでした。彼が信じ切れずに笑っていたことを神は知っておられました。しかし、神はその笑いを本当の笑みへと変えようとさらに語ってくださっています。私たちの生涯は、神のことばを聴き、励ましを受け続け、与えられた行程を走りぬいていくようなものです。ここにも神のことばを聴き続け、その励ましに奮い立って歩んでいく信仰者の姿があります。それ以上に私たちに迫るのは神のお姿です。神は、その言葉に従うと約束を交わされた人に、とことん伴走してくださる方なのです。そしてアブラハムは神に「割礼」を通して応答します。この割礼は神の民となるためのものではありません。神の民としてくださったことへの応答です。そしてその応答は、個人にとどまらず、一族へと広がっていくものでした。同じように神の祝福も周囲へと広がっていくものなのです。
投稿者 mb-church : 08:15 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2010/10/24礼拝メッセージ
2010年10月24日礼拝のメッセージ要約です。
創世記17:9~14
「約束の印」
1. 割礼
割礼はユダヤ人にとって最も重要な儀式です。それこそが他の異教の神々を信じる民と、まことの神を信じる民とを区別する印であったからです。割礼は神が与えた契約の印です。ですから全ての子孫が、この印を受け継ぐべく割礼を受けるようにと命じられています。割礼は人の側の義務のように読むことができます。ですから、イエス・キリストの救いを受け入れた初代教会が、この割礼に関して議論になったのは当然のことといっていいでしょう。しかし、ここで重要なことは割礼にあるわけではありません。この神の契約が、アブラハムとのどのようなやり取りを経て与えられ、そして契約の印である割礼の前提として、彼らに何が求められていたかを見落としてはならないのです。アブラハムに求められていたことは何だったのでしょうか。それはまことの神を神とし、神とともに歩むことを決心しなさいということでした。
2. その子にも
さらにここで割礼が、生まれた子どもに施すということも命じられています。なぜなら子どもは神が与えたからです。その子どもも神との友情関係に導かれている、そのことを割礼を施す親が、しっかりと認識することが求められています。割礼を通して、親も、またその子も、そして周囲の人々も、神との契約を思い返すということ、それがこの割礼という儀式が負っている真の意味なのです。最も重要なのは、契約者が、その契約の内容を知っているかどうかなのです。今、その割礼が、キリストの教会では、新しい契約として洗礼へと移しかえられました。バプテスマは、私たちが古き自分を置き、新しく生まれることを意味しています。洗礼でなされる信仰告白と、水に自らの全身を沈めるということは、割礼以上に私たちの心が求められるものでもあります。
3. すべての人が
アブラハムの家にいた全ての者が、この契約に入れられているということが語られています。教会もまた同様です。どんな人であっても、教会で生まれた子どもから、そうではない人でも、すべての人がこの契約へと導かれています。だからこそ、その民の一員として祈り育てていくことが必要です。洗礼は、キリストによって新しくされた者たちが、キリストの教会の一員となることを示すものです。割礼も、また洗礼もすべて神の業です。私たちが不完全であっても、神とともに歩むことを決心するならば、与えられる神の一方的な印なのです。
投稿者 mb-church : 08:12
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2010/10/17礼拝メッセージ
2010年10月17日礼拝のメッセージ要約です。
創世記17:1~8
「わたしはあなたの神となる」
1. 神を信じること
もし神を信じないで生きるのなら、私たちの生涯はどのようなものとなるでしょうか。神を信じているか、いないかで人生はどのように変わるのでしょうか。大きく異なるのはいのちの受け止めかたでしょう。それによって生き方は大きく異なるものとなります。私たちは自分で神を選び取れると思っています。しかし聖書が語るのは、そんな私たちにとことん付き合おうとする神の姿です。アブラハムの生涯はその証です。ついに神がアブラハムへの約束を果たすその時がやってきました。
2. 神の選び
アブラハムは「信仰の父」として神が選ばれた人物です。彼が選んだのではありません。それは彼が堅固な信仰者であったからということではないようです。ある意味でアブラハムは器です。その器は決して美しい器ではありません。この年齢まで神に待たされた人です。これをすべての人に適応することはもちろんできません。しかし彼の姿を通して、まことの神を信じることの不思議さと、神を信じることそのものが奇跡であることを私たちは見出すことになります。ここで神様は、念をおすかのようにアブラハムに約束を語ります。思わず彼はひれ伏します。まだなお謙遜さを失わない彼の姿がここにあります。彼は自らの弱さを知る人でした。だからこそ神を礼拝し続けたと言ってもいいでしょう。神が彼を必要としたのではありません。彼が神を必要としていたのです。
3. 新しくされた名
この時、彼の名が新しくされました。これまでの「アブラム」という名から「アブラハム」という名となります。「多くの人の父」という神が彼に与えた新しい身分と言ってもいいでしょう。この約束の真の達成はやがてキリストによってもたらされます。すべての人が、キリストを信じる信仰によって罪ゆるされ神の民とされます。その最初の基が、このアブラハムへの約束です。ここで私たちがここで注目しなくてはならないのは、この約束に表された神の主体性です。この約束は、私たちが何かするならば、神はその約束を果たしてあげようというものではありません。神がアブラハムに求めているのは、ただ一つのことです。「私の前を歩み、まったき者であれ」ということ。その意味は「神とともに歩め」ということでした。神を信じる人は、神の約束がある限り、希望を失うことのない人です。私たちが神を神とするのではなく、神が私たちの神となってくださるのです。神の選びは永遠に変わることのないものなのです。
投稿者 mb-church : 16:55
メインページへ2010/10/10礼拝メッセージ
2010年10月10日礼拝のメッセージ要約です。
創世記16:1~16
「それでも主は」
1. 神との友情
善なる神様は、私たちに良き物を備え与えて下さる方には間違いはありません。しかし、その「良き物」の基準は、私たちの思う通りではないのです。主なる神様が、与えようとしているものは神との友情関係です。単なる信心ではありません。この関係には「神の愛」という重要な要素があります。今日の箇所はアブラムの弱さが今一度顔をのぞかせた場面です。苦難の現実を前にして、それでもなお神の導きを求めるのか、それとも別の道で解決をしようと図るのか。もし誤っていたとしても、神は赦してくださり、守ってくださる、それはそれで正しい認識です。しかし、神がその時に求めておられたことは、決して状況に流されることではなかったということを、私たちは教えられているのです。
2. 現実を前に
アブラムは、神からの明確な約束を得ました。しかし現実に目を向けると、まだ跡継ぎが与えられていなかったのです。そんな時に彼は、妻の助言と当時の考え方に流されてしまうのです。この時のアブラムが取った行動を、誰が責めることができるでしょうか。むしろ、現実を前にしたら当然そのようにするべきだ、そのようにも言える場面でしょう。しかし、彼は大事なことを忘れていました。それは「神に問うこと」でした。ここで彼は神に聞こうとはしていません。ただ目の前の状況に対して受身の姿があります。そしてこの後、この家庭に混乱が生じることになるのです。
3. それでも主は
ここでのアブラムはどこまでも受身でした。しかし、これこそ私たち自身も抱えた弱さと言えるでしょう。目の前の状況に対して、何の力もなく、流されてしまう自分。神を信じていながらも、神に祈り、聞くということを後回しにする姿があります。それでも、この物語が伝えるのは、神の憐れみの御手が、そのような所にものばされるのだということです。しかし、私たちがここでその神の憐れみを覚える前に、しっかりと見つめなくてはならないことがあります。それは信仰と不信仰とは、紙一重であるということです。現実を前に神のことばに信頼し、聞くことをしているでしょうか。神は憐れみ深い方です。しかし神は正しく、そして聖なるお方ででもあるのです。今、主の心は、主の目はどこに注がれているのでしょうか。それでも主は導かれます。私たちは主の憐れみに感謝しつつ、そこに胡坐をかかない歩みをさせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 16:54 | コメント (0) | トラックバック
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2010/9/26礼拝メッセージ
2010年9月26日礼拝のメッセージ要約です。
創世記15:7~21
「神が果たされる約束」
1. 神との友情
アブラハムと神との人格的な関係がはじまりました。それは神との「友情」と言い換えてもいいでしょう。アブラハムは、その関係の中で神のご計画やみ思いをどのように知ろうとしたのでしょうか。主イエス・キリストを信じた者は神の子という関係に置かれます。私たちに約束は先に与えられています。アブラハムも同様です。大いなる国民の父とすると、神は約束されました。しかし、彼はまだそれがどのような意味かはよく分かりませんでした。しかし、彼は神を信頼し、神に従う決心をするのです。その彼が神に問いかけます。「どのようにして知ることができましょうか。」これは不信仰から出ている問いではありません。もっとあなたのことを知りたい、その思いから出た言葉です。疑ってはいないけれども、確かなものがなくては、この先弱い自分は歩み続けることはできない・・・その素直なアブラハムの思いです。
2. 神の応答
神は、このアブラハムの問いかけをまっすぐに受けとめられました。そこで神は彼に一つの方法を教えられます。それがいけにえでした。そのいけにえを二つに裂きなさいという指示が与えられています。つまり、この契約を破るものはこのように二つに切り裂かれなければならない、という意味でもありました。この二つに引き裂かれたいけにえを、アブラハムは、ずっと一日中見つめていました。彼はここでも、自分の弱さを覚えたのではないかと思います。神は約束を下さったけれども、肝心の私は神を信頼し続け、従い続けることができるだろうか。そんなとき、彼は幻を見ます。その幻は、苦難だけではなく、希望もまた語られているものでした。
3. 神が果たされる約束
アブラハムは目を覚ましました。その時です。先ほどの二つに裂かれた動物の間を、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが通り過ぎました。これは、もしこの約束を破ったら、神ご自身が裂かれることになるという証でした。そして神はこう語られたのです。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。」それは、この約束は、神ご自身が必ず果たしてくださるという言葉でした。アブラハムに与えられたこの約束は、今の私たちに十字架で裂かれたキリストによって、より確かに与えられています。キリストは、時が至ってなされた確かな証なのです(Ⅰテモテ2:4~6)。 私たちはキリストによって、神の子として神と関係を結ばせていただいているのです。
投稿者 mb-church : 16:19
メインページへ2010/9/19礼拝メッセージ
2010年9月19日礼拝のメッセージ要約です。
創世記15:1~6
「手をとってくださる方」
1. 出来事の後
一つの区切りの言葉です。神の言葉に信頼し歩み始めたアブラム。エジプトを旅し、自らの弱さを知り、また甥のロトとも袂を分かちました。そして、あの戦いの大勝利。ある意味では、この数年間は彼の人生の中で最も凝縮された数年間であったことでしょう。その彼に、ある夜神が幻のうちに語られるのです。「アブラムよ。恐れるな。」いったい彼は何を恐れることがあったのでしょうか。アブラムの本質は弱さではないでしょうか。強い信仰者や勝利する人がアブラムではありません。その逆です。その時の自分を見つめ、自らの弱さを知るもの、それがアブラムです。このときの彼は再び彼の深いところを探られています。
2. アブラムの恐れ
それは何への恐れだったのでしょうか。彼の応答にその葛藤を読み取ることができます。神は約束を下さった。しかし、どう考えてもその約束は果たされそうにない。アブラムは神に申し上げました。そしてここで神のことばが彼に臨みます。私たちの知恵や力からではなく、上からの神のことばが彼に来ました。アブラムのすばらしさは、ただ弱さを知っていただけではありません。彼はここで神に向かって声を上げたのです。これまでは一方的に神からの声を聞き続けてきたアブラムでしたが、ここで彼はついに声を上げます。しかし、神はこの言葉を受け止めるのです。ただ一方的に語られていた神との関係が、ここで相互に語り合うという関係となります。より親密さを増したといってもいいでしょう。
3. 手を引かれる主
ここで神はアブラムを外に連れ出されます。彼にとってはまるで神が手を取って連れ出してくださったとしか思えない・・・そのような姿がここにあります。何という距離感でしょうか。ここでのアブラムは神を遠く感じてはいません。そこで彼が見たものは「天にある無数の星」でした。それは神の御手の業そのものであり、また主の約束を確かに表すものでもありました。「目を天に上げなさい。神の御手の業に目を留めなさい。恐れがあなたにあるなら、なおさらのこと目を天に上げなさい。」そしてそのときのアブラムは「義」であると言われています。今アブラムは自分の手を引いてくださった神の手を、心をこめて握り返しました。この人格的な神との交わり、信頼関係こそが、神にある義の関係なのです。神が私たちに求めているのはこの人格的な信頼なのです。
投稿者 mb-church : 16:18
メインページへ2010/9/12礼拝メッセージ
2010年9月12日礼拝のメッセージ要約です。
創世記14:1~24
「神が私たちの味方であるなら」
1. 勝利するアブラハム
14章はアブラハムの勝利のエピソードです。甥のロトの家族を救出するためにアブラムは立ち上がります。ここには東方の4人の王の名が記されています。この王たちは当時の世界の覇者です。さらに別の王たちの名が記されています。この5人の王たちは死海の周辺を治めていました。この5人の王が反乱を起こします。しかし圧倒的な戦力差の中、この死海沿岸の王たちは大敗を喫してしまいます。その戦いにロトは巻き込まれるのです。争いに負けた死海周辺の町々は、財産や人々を奪われました。そしてロトの一族も同様に略奪にあいました。アブラムはロトの話を耳にします。彼は、勇敢にも、ロトの家族、そして財産を奪還しに向かうのです。アブラムは強大な軍勢を数少ない人数で打ち破り、ロトの財産や捕虜を取り戻すことに成功します。この勝利は、当然カナンの地方でのアブラムの名声を高めることになりました。
2. 注目すべき点
アブラムは勝ち目のない戦いをただの勇敢さから戦ったのではありません。エジプトで見たように彼の本質は「勇敢さ」ではありません。彼にとって、この戦いは自分の家族を守る戦いでした。袂をわかったロトの家族であったとしても、ともに歩もうとした身内でした。いえ、むしろこの家族をもう一度取り戻そうとアブラハムは考えたのかもしれません。彼にとってこの戦いは、どんなに不利に見えても、神にあってなすべき正しいことであったのです。結果彼は勝利をします。しかし問題は、この勝利を彼がどのように受け止めたのかということです。それをアブラムに語っているのがメルキゼデクです。この勝利は、自分の力でも、また人からのものでもなく、ただただ神からのものであったということ。ここに神を信じる者の謙遜とぶれのなさを私たちは見出すことができます。
3. 神が味方であるなら
もしかすると、アブラムも、彼だけであれば、この勝利は自分の力であると過信したかもしれません。しかし、神はメルキゼデクをとおして語りかけられました。そして私たちは、今主イエス・キリストによって、神からの祝福を受け取ることが語られています。私たちは、自らの栄誉、自らの力を誇ってはいないでしょうか。弱さの中、強さの中、どちらの中にいても、私たちは、私たちを守り導かれる神を信じ、キリストによって歩むものとさせていただきたいのです。ご一緒に私たちの味方なる神とともに歩ませていただきましょう。
投稿者 mb-church : 16:16 | コメント (0)
メインページへ2010/9/5礼拝メッセージ
2010年9月5日礼拝のメッセージ要約です。
創世記13:1~18
「祭壇を築き続ける」
1. 祭壇
アブラハムはことあるごとに「祭壇」を築いています。それは、神に応答する場、礼拝する場です。そこでは、この小さな人間である私に、あなたは目を留めてくださることへの喜びであり、また神への正しい恐れでした。神の前に罪を悔改め、何よりも、神への感謝がこの祭壇の上でささげられたのです。祭壇はそこにあるものではありません。祭壇はその人が築き上げいくものです。そして築き上げられた祭壇は、その人と神様との関係がそこで思い起こされるものとなります。
2. 最初の場所へ
アブラハムは、最初の場所へと戻ってきました。そこは初めに天幕を張った場所、そこは彼が以前に築いた祭壇の場所でした。彼は何を祈ったのでしょうか。ここで彼は思い返したでしょう。あの神様からの約束の言葉を。そして原点に戻されるのです。目に見えない神への信仰によって生きるということを。私たちも、日々の神への祈りやみことばを読むことを通して、また週ごとの礼拝を通して、神に感謝のいけにえをささげ、みことばの説教を聴くことを通して、神への祭壇を築き続けています。この祭壇は非常に大事なものです。この祭壇によって、神の前へと戻されるのです。
3. キリスト者の選択
ここで甥のロトとの問題が起きます。これからの生き方が問われる問題が含まれていました。アブラハムは「富」を得るために旅をしているのではありません。彼は生ける神の約束を信じ、神のことばに聴き従おうとして歩んでいます。しかし、一緒に旅をしてきたロトは違いました。彼は「富」のために生きようとしていました。この独立が意味しているのは、もうアブラハムと同じように生きては行かないということです。そこでアブラハムは提案をします。主導権をロトに委ねるのです。ロトは思ったとおりに豊かに見える地を選び取りました。アブラハムはこれでよかったのでしょうか?よかったのです。アブラハムに主が語られたのは、このカナンだったからです。アブラハムは、ここでも神の言葉に信頼しています。その彼に神はさらなる約束のことばを与えられました。「私が今見ているものは、あなたの考えをはるかに超えたものである・・・」神はそのようにアブラハムに語りかけているかのようです。私たちもまた、もう一度私たちが何を見ているのかを問い直しましょう。私たちの目に映る幸いではない。神が下さる幸いを得させてください、と祈るものとさせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 16:13 | コメント (0)
メインページへ2010/8/29礼拝メッセージ
2010年8月29日礼拝のメッセージ要約です。
創世記12:1~20
「主はあなたを喜ばれる」
1. 神の声
聖書がない時代、人々が偶像を拝んでいた時代。そんな時代に、目に見えない神の声に耳を傾けた人、それがアブラハムです。いつ神が語られるかわからない、本当に目に見えない神様が語られているのか、それすら分からない、そんな状況の中、彼は神様の声を聞きます。そしてアブラハムはこの声に聞き従います。そして最初に目指したカナンにはすぐに到着します。しかし、その場所はすぐに彼の土地にはなりませんでした。神はここで約束しました。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」ここで彼はさらに待たされることになります。ここでアブラハムは問われています。「あなたはそれでも私を信じるのか」と。
2. エジプトへ
次にその土地に飢饉が起きます。彼らは仕方なくそこからエジプトの地に下ることになります。いきなりの困難です。そしてここでアブラハムは一つの過ちを犯します。自分の妻を「妹」と偽ってしまうのです。しかし、これが思わぬことを引き起こすことになります。彼のうそゆえにエジプトの王家に不幸が起きるのです。この事件を通して、アブラハムは何を教えられたのでしょうか。これは彼の弱さや罪にまつわる事件です。人の目はごまかせても、目に見えない神は自分の罪を知っておられる。知っているにもかかわらず、神のことば通りにされる方なのだ、そのことに彼は気がつかされます。神を信じる「私」を通して、周囲の人々に神ご自身を現される方であることを彼は知りました。
3. 生きておられる神
「神は生きておられる」ということをアブラハムは知ることになります。彼は、起こる一つ一つの出来事に「神」の存在や「神」のご計画、「神」の正しさをいつも見ていました。彼は、最初に何が待っているのかをまったく知りませんでした。また神がどのようなお方かもはっきりとはわかりませんでした。しかし、彼が求めたのは、生ける神ご自身を知るということです。神の声、それはじっとしていれば聞こえるものではありません。まず私たちが、神が今もここにおられるという現実に気がつくことから始まります。今ここに神様がいてくださるという現実とそこに語られている神のことばに耳を傾けること。私たちの歩みも、アブラハムに習うものとさせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 15:50 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2010/8/22礼拝メッセージ
2010年8月22日礼拝のメッセージ要約です。
創世記11:27~12:3
「旅路の一歩」
1. 旅人
アブラハムという人の生涯もまた「旅」であると言うことのできるものです。この地上での旅をどう歩むかによって、私たちの行く先は全く異なるものになってしまうと聖書は語ります。私たち一人一人に与えられた旅路を真に豊かなものとすること。これは私たちにとって大きなテーマであるとも言えるでしょう。ノアの後の時代、まことの神ではなく、目に見える偶像を拝み、自らの手でこの旅路を歩もうとする人々の姿が出てきます。そのようなときにアブラハムが登場するのです。
2. アブラム
彼は民族のヒーローではありません。彼は一人の「人」として登場します。この時代に生きる人間として、家族を率いる家長として彼は登場します。彼に跡取りはいません。そしてこのときに、なぜか彼らは「カナン」という地に行こうとしていることが分かります。ここでの経緯の詳細は不明です。その大きな理由は12章に記されています。それは主からの約束のことばでした。この言葉が、どの時期に、どの時点でアブラムに語られたかは分かりません。しかし、これは彼の長きにわたる祈りの答えだったことはすぐに分かります。彼は自らの必要に答えるために造りあげられた偶像の神に祈ったのではありません。その逆のことが彼の中で起こっています。彼はまことの神が自らに何を欲しているのか、何を願っておられるのか、そのことをただ祈り求めていました。
3. 信仰の一歩
神から語られたのは、あなた自身の都合でも、また父親の意向でもなく、神ご自身が示す地へと行きなさい、というものでした。それは彼に「信仰」を求めるものでした。ここで彼が問われたのは、ただあなた自身の存在をすべて神にゆだねなさいということです。そして神は彼に壮大な計画を告げ知らせました。神を信仰に立つならば、あなたを通して主はこの世界を祝福されると約束されたのです。まだこのときの彼の信仰は幼いものです。しかし、ここで重要なことは、彼が神の言葉を聞いて実際に歩みだしたということです。安住していたその場所を離れて、神とともに歩む旅へと旅立った、そのことが重要なのです。私たちもまた神が導かれる導きが必ずあることを信じて「あなたとともに歩ませてください」と日々祈り生きることが求められています。その歩みに主は必ず祝福を持って応えてくださるのです。
投稿者 mb-church : 15:44 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2010年09月22日
2010/8/1礼拝メッセージ
2010年8月1日礼拝のメッセージ要約です。
創世記9:1~17
「虹の約束」
1. 神の約束
箱舟を降りて後、ノアは神の約束のことばを聴きます。その言葉は大きく分けて三つの部分からなっていました。第一番目に人の役目について。第二番目に人のいのちについて。第三番目に神の約束について。今この三つのことが主イエス・キリストによって、恵みのうちに保証されているのです。
2. 人の役割
人の役割はアダムとエバに語られた言葉が原型にあります。しかし、ここでさらに神は多くの許しを与えてくださっていることが分かります。この9章は人の罪が明らかとなった後のことです。しかし、もう一度、神は人に生めよ、増えよと命じられました。さらに神は、人にこの世界のすべてを委ねられた、ともあります。その理由はノアの信仰にあります。人の罪という問題を神ご自身はもちろん認識しておられます。しかし、その罪を覆うものがあるのです。それが神への信仰です。
3. 人のいのち
ここで第二番目のことが出てきます。神は人のいのちについて詳しく語られます。神は全てを人に委ねられました。しかし、人のいのちは勝手に扱ってはならないと言われました。神は人を神のかたちに造られた、ゆえに人を損なうこと、それは神ご自身の尊厳を損なうに等しいのです。全ては神に出発点があり、存在の理由があることを忘れてはなりません。さらにこの血の価の要求は、私たち自身に課せられた罪の罰にまで通じています。私たちが神を無視し、自分のいのちは自分のものであると思いこみ、歩み続けること、その先にあるのは自分の命に対しての血の要求でもあります。
4. 虹の約束
私たちは自分の力で人間を、またこの世界を救うことはできません。ここで神が望みをかけておられるのは人の信仰です。そして、人が信仰を持つことができるように、神の側で一つの約束を与えられます。それが、この虹に象徴される神の契約でした。ノアとの契約は、神が一方的に義務を負ってくださるという内容です。あなたの生涯が終わるその時まで、この世界の終わりを迎えるその時まで、神のあわれみと忍耐、そして慈しみは変わることがありません。そのことを神は虹を通して約束されました。そして、今、私たちは、さらなる約束を、主イエス・キリストによって与えられています。ともに主の約束に生きてまいりましょう。
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メインページへ2010年07月31日
2010/7/25礼拝メッセージ
2010年7月25日礼拝のメッセージ要約です。
創世記8:1~22
「嵐の後に」
1. 嵐の終わり
水は150日の間、増え続けました。ただただノアとその家族は、箱舟の中でじっと待つ150日間を過ごしたのです。このような先の見えない苦難の中で、聖書が記しているのは、神がノアとその家族、そしてこの箱舟に乗るすべての生き物を、心に留められたということでした。この期間に彼らは何度、本当に神は私たちのことを覚えておられるのだろうかと思ったことでしょう。「信仰がある」というのは、全く不安がないということとは異なります。本当に神は私のこの現状を、この思いを知っておられるのだろうか。そう思うものです。それは私たちの弱さです。しかし、聖書はその思いを神に率直に述べることは赦されていることだと記しています。
2. 神の風
とうとう雨は止みました。それは神の御思いによって、神の御力によって、雨は止み、水は引き始めました。自分たちの力など到底及ばない状況の中で、確かに神は風を送り、雨を止め、そしてあの大水が引き始めました。ゆえに、神は彼らを心に留めておられたと言うことができたのです。それはただ強い信仰があって、何の不安もなかったから言える言葉ではありません。先は見えない。力も及ばない。不安もある。だからこそ、祈りつつそこを通らされるときに、私たちは、神の力強い御手を見出すことができるのです。これは信仰者の特権と言えるでしょう。
3. 礼拝する者
彼は神の許可を待ちました。その間、鳥を飛ばして現状を確かめました。箱舟に乗り込み、そして戸を閉められたのは神ご自身です。だから、この箱舟から出るのも、神の言葉がなくてはならないのです。ノアに私たちは聖書における最初の信仰者の姿を見出します。彼はこの間も主を礼拝する者でした。一週間の時を彼は刻んでいました。そしてついに神はノアに船から降りることを許可しました。神はさらに、この地をもう一度再生しなさいと語られました。彼らが船から降りて最初にしたこと。それは神への礼拝でした。その礼拝者であるノアの姿を見て、神は約束されます。この地をこのような形で滅ぼすことはしないと。神はこの苦難と罪に満ちた世界にあっても、神のことば求め、礼拝する者たちを求めておられるのです。
投稿者 mb-church : 14:50 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2010/7/18礼拝メッセージ
2010年7月18日礼拝のメッセージ要約です。
創世記7:1~24
「嵐の中で」
1. 神の厳粛な裁き
ノアは、彼の仕事を完成させました。そして7章では、いよいよ嵐が、大洪水が起こります。その嵐の一週間前、彼は神様の声を聞きます。彼の正しさ、それはただ道徳的に正しかったことを意味していません。彼が神のことばに聴き従い、神のことばを信じた、その信仰を神が正しいと見てくださいました。彼が建造した箱舟こそが、彼の信仰を指し示すものでした。そして、神様は、彼に、家族とともに、動物を集めて乗り込みなさい、と指示を与えます。神の厳粛な裁きが実行されるときがついにやってきたのです。終末の裁きと聞いても、私たちにとって、あまり身近に感じない出来事でしょう。しかし、終末の出来事は、私たちの現実の中にあることだと聖書は語るのです。
2. 箱舟の中へ
7章はまさに「苦難の最中」です。大洪水は40日間続き、周りの景色は一変します。すべての後悔など、この濁流に飲み込まれてしまいます。ノアたちも飲み込まれました。その彼らを支えたのはこの箱舟でした。この箱舟はノアの神への信仰そのものでした。またそれは神が与えてくださった救いそのものでもあったのです。ノアがこれまで神と歩んできた集大成、それがこの箱舟でした。そしてここでも「神の御手」の存在を見落としてはなりません。「それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」ここで最終的に彼がすべてのことをなし終えると、まるで、そのノアの背中を押すように、主が箱舟のうしろの戸を閉めるのです。神がどのような時もノアとともにおられたのです。
3. キリストにある救い
この場面は、新約聖書にも引用されています。Ⅰペテロ3:20です。このノアの箱舟が示しているのは、信仰による救いということでした。またそれは今の私たちにとって、イエス・キリストを信じるバプテスマを表しています。苦難の現実はなぜあるのでしょうか。それは、イエス・キリストを信じる信仰に私たち皆が預かるためです。ノアとその家族が信仰によって救われたように、私たちもキリストの十字架によって救われていくのです。神を近くに思いつつ、神のことばに聞き続け、日々の生活の中で、神への信頼を深める歩みを、キリストにあってさせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 14:48
メインページへ2010/7/11礼拝メッセージ
2010年7月11日礼拝のメッセージ要約です。
創世記6:9~6:22
「嵐の前に」
1. 洪水の前
もし神から、今この地は堕落し、暴虐に満ちているから、滅ぼそうと思っている・・・そんな言葉を聴いたら、どう思われるでしょうか。すぐに受け止めることができるでしょうか。神の前に人は堕落し、この地は人の身勝手な思いによって満たされていました。これは「神の前」での出来事です。私たちの目の前には「神」ではなく、一体何があるのでしょうか。私たちは何を見つめて生きているでしょうか。神は人を見て「滅ぼそう」と言われました。この言葉は「堕落している」という同じ言葉です。堕落と滅びとは密接な関係にあります。
2. 最初の終末
この言葉はまさに終末の知らせでした。しかし、まだここでは終末を予感させる出来事は起きていません。人々は、そのことを知らずにいます。知らずに日常を過ごし、今も神の目の前にあるにもかかわらず、神への意識を失い身勝手に歩んでいます。そのような時に、神はノアに終わりを見据えて生きるように語られました。そしてあることをノアに命じます。それが箱舟の建造です。箱舟が示しているものは、終末における神の裁きの現実とともに、神の救いが備えられるということでした。神は、ノアにこの箱舟を備えよと命じられるのです。
3. 神の約束
ここで明確な神と人との約束の言葉が語られることになります。「何事もないかのように見えるこのときに、神のことばに耳を傾け、そして箱舟を建造して備えなさい。そうすれば、私はあなたとあなたの家族を、そしてこの地を救い出そう。」そのように神はノアに語られました。そしてノアは神が命じられたとおりに行うのです。ここには信仰が求められています。何も先が見えないときに、神のことばを信じて歩むのです。ここには神への祈りがともなったことでしょう。「主よ、今はまだ分かりません。しかし、この手を守りささせえてください。」
投稿者 mb-church : 14:45 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2010年07月03日
2010/7/4礼拝メッセージ
2010年7月4日礼拝のメッセージ要約です。
創世記6:1~9
「神とともに歩む人」
1. ノア
ここに「ノア」という人が登場します。彼はアダムの二人の息子、カインとアベル、その二人から出た人ではありません。ノアは、カインとアベルの後に生まれた「セツ」の子孫です。神の前に罪を犯した人間は、それでも生かされ、増え広がることを許されました。町ができ、また文明や文化が発展していきます。神がデザインされたように人間は増え続け、そしてこの地を支配するものとなっていきました。しかし、それは残念ながら、神から離れた神なき世界に おいて、のことでした。神は、人の罪を知りながら、生かすという結論を下しました。なぜなら神のもとへと再び戻ってくるため、人に憐れみをかけたわけです。人にその生涯を神は与えましたが、それでも人は神に立ち返るという方向へとは進まなかったのです。
2. 罪に傾く人
神の視点から見ると、人の歩みは自然と神から離れていき、悪へと傾いてしまう、それがゆがんだ神のかたちを持つ人の姿であったのです。その本質は今も変わっていないでしょう。互いに傷つけあい、奪いあうことは後を絶ちません。病も、体だけではなく、心にまで及んでいます。孤独という問題もあります。私たちは、神の方にではなく、知らず知らずのうちに、悪へと、死へと、神の側と反対の方へと引き寄せられてしまうのです。神は、そのような人の姿を見て、どう思われたのでしょうか。神は悔やみ、心を痛められました。さらには、この世界そのものを造ったことを残念に思ったとまで口にされました。そして「裁き」の言葉を口にします。
3. 一人の正しい人
ノアの記事は、現実として起こる人への裁きと、神が与えてくださる救いに関しての、最初の雛形です。やがてキリストにおいてその救いが完成へと至ります。しかし、このノアの物語においては、その全貌はまだ見えません。このような状況の中、一筋の光が残されます。それがノアでした。ノアは主の心にかなっていました。そして、この一人の正しい人によって、この罪に満ちた地が救い出されていきます。もちろん私たちを立たせてくださるのは、神ご自身です。だからこそ、私たちにとって最も大事なこと、それは神のみ思いを知るということです。神の思いに私たちを合わせていくこと。それが神とともに歩むということにほかなりません。神とともに歩む人、そこから神はみわざをなしてくださるのです。
投稿者 mb-church : 17:52
メインページへ2010/6/27礼拝メッセージ
2010年6月27日礼拝のメッセージ要約です。
創世記4:1~16
「カインの物語」
1. カインとアベル
二人の兄弟が、ある時神にささげものをします。しかし、神はアベルの献げものに目を留められ、カインのものには目を留められませんでした。そのことに逆恨みしたカインが、弟アベルを殺害し、さらに住んでいた土地を追われるというストーリー。アダムとエバの罪が物語っていたのは、神と人との関係のゆがみ、信頼関係の消失、神のことばに対する不信でした。そこからさらに人間は、どのような存在へと落ちていってしまったのか、そのことをこの物語は私たちに教えています。急速に神から離れ、神のかたちを完全に損なう人の姿がここにあります。
2. カインのささげ物
なぜ神はアベルのささげ物にのみ目を留められたのでしょうか。注目すべきはアベルが何をささげたのかということです。アベルは、彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来ました。ささげ物で表されているのは、そのささげる者の心です。カインはどうであったのでしょうか。彼がささげたのは、形だけであり、そこには心がなかったと言えるでしょう。しかし、カインはこの結果をどのように受け止めたのでしょうか。彼はこの結果に怒り、顔を伏せることになります。そして神の忠告に聞かず、激情に身をゆだねることになります。
3. カインの訴え
カインは神の裁きの言葉に対し、ようやく神に訴え出ました。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。」しかし、これこそ彼の本音です。もっとも彼が恐れているのは神の守りがなくなるということでした。聖書は、アベルを主人公として語り継げていません。ここの主人公はカインです。罪人の物語。それこそ聖書が語ろうとしているものであり、私たちの物語でもあるのです。そのことを認めることによって、神のことばが私たちの内に響くようになります。そしてアベルの訴えに対して神はどうされたのでしょうか。神は彼を守ると約束されるのです。罪人に語られる神のあわれみを私たちも受け取らせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 17:51 | コメント (2) | トラックバック
メインページへ2010/6/20礼拝メッセージ
2010年6月20日礼拝のメッセージ要約です。
創世記3:16~24
「忍耐と生涯」
1. アダムとその妻へ
聖書は神の前の罪を、犯したことの大きさでは語りません。神とどのような関係にあるかということをまず私たちに問います。神が語られた妻の姿、男の姿。彼らへの神の言葉を通して、人に与えられた苦難の中にある生涯というものが見えてきます。罪の問題、また痛み、苦難、死の問題、それらを語るときに、神との関係においてまず語られるべきものであると、聖書は明らかに指し示しています。ここに人への裁きは語られているのでしょうか。記されている言葉は、神に罪を犯したものとして、それでもまず与えられたいのちを生きよ、というものでした。私たちは苦難の中を生きるために、生かされるというのです。なぜそのような生涯を神は私たちに与えたのでしょうか。
2. 苦難の生涯
私たちは限りあるいのちの中、苦難に満ちた生涯の中、生かされています。しかし、神が語りかけるのは、ただの絶望の言葉ではありません。聖書が語る私たちの生涯は「神の忍耐の時」であるということです。苦難の意味について、人間には語る力は持ち合わせていません。しかし、神の側には人に与えた苦難の理由があります。そして、神が人に与えた忍耐の期間は、神の赦しへの招きと言えるものなのです。私たちが造られたのは「キリストによる」とあります(コロサイ1:16~22)。苦難の答えは、すべてキリストに隠されています。私たちがこの苦難に満ちた生涯を送るのは、ただ救い主キリストを私たちが得、そしてキリストにあって完全に神の前に義なる者として差し出されるものとなるためなのです。
3. 皮の衣
私たちの生涯にある苦難や痛みは、キリストの十字架とともに、神にある永遠へと、神の赦しと和解へと結ばれていくものです。救い主キリストは、十字架の苦しみと痛み、その絶望に満ちた死のゆえに、私たちの罪、苦難、痛み、死を担うことができます。そしてついには神の前から迷い出た私たちを、再び神のもとへと導くことができるお方です。神は二人に皮の衣を与えます。神は二人を苦難の生涯へと放り出したのではありません。彼らが罪を負い、苦難と痛みの生涯を、それでも生きるようにと送り出されたのです。私たちも例外なく、このアダムとエバの物語を生きています。そしてそこに神の忍耐があることを覚えたいのです。そしてキリストにある慰めの生涯へと歩ませていただきましょう。
投稿者 mb-church : 17:50
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2010/6/13礼拝メッセージ
2010年6月13日礼拝のメッセージ要約です。
創世記3:14~15
「蛇への宣告」
1. 狡猾な蛇
蛇とはどのような存在なのでしょうか。蛇は一見賢く、高貴な存在です。また妖しくも魅力的であったとでも言ってよいでしょう。創世記が読まれた時代の人々は、出エジプトをするイスラエルの民です。彼らにとって蛇で象徴される存在は「エジプト」であるといってもいいでしょう。確かに、この世界には神を信じるものと信じない者たちがいます。しかし、何が正義で何が悪かということは、そうそう単純なことではありません。聖書は私たちはすべて罪人であると言います。しかしそのような中でも不思議なことに、自分の罪を認め神を信じる人々がいます。その一方で残念ながら聞く耳を持たない人々がいるのです。この裁きの言葉は蛇に対する裁きの言葉であると同時に、今もなお神を信じようとしない人々への裁きの言葉ともなっています。私たちはまずこの裁きの宣告に耳を傾けなくてはならないのです。
2. 裁きの宣告
大きな権力や富など、今は栄えており、魅力的に見える姿を持っていたとしても、やがては地に腹ばいになり、立つことはできないと、神は宣告されます。私たちの周りに狡猾な蛇は多く存在します。私たちを神以外のものに目を向かせるものが確かにあります。しかし、それらはまことの神ではありません。それらは信頼に値するものではないのです。蛇は蛇でしかありません。それはあなたを救うものではないのです。
3. 希望のことば
神は、人間と蛇との間に「敵意」を置くとも言われました。これは最初の救い主の預言であると言われています。その敵意が蛇の頭を踏み砕き、蛇は彼のかかとにかみつきます。この描写が、キリストの十字架を指していると言われます。最初に神は蛇への裁きの言葉を語りました。この言葉が語られたのは、聞く者たちに裁きがあることを知って欲しいからです。ですから神に敵対する者に対する裁きの宣告だけではなく、その直後に神は救いの予告をも同時にされたのです。私たちの救いは、蛇にではなく、ただキリストにのみあることを覚えさせていただきましょう。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」使徒の働き4:12
投稿者 mb-church : 08:49 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2010/6/6礼拝メッセージ
2010年6月6日礼拝のメッセージ要約です。
創世記3:7~13
「神の御顔を避けて」
1. 裸であることに気がつく二人
いまや、アダムとエバは、互いが裸であることを知り、隠すようになりました。今まで彼らがいたところは、何の不安もない、神への信頼と守りが与えられている、そのような状況でした。しかし、彼らは神との約束を守らず、誘惑に負けてしまいました。急速に彼らの存在が、創造のはじめの時とは変わり始めています。聖書は、罪の問題を犯してしまったこと大きさで語ることをしていません。あくまでも罪を神との関係において語るのです。それは、人が神との関係においてどこにいるのか?ということでもあります。近くにいるのか、それとも遠くにいるのでしょうか。神を求めているのか、それとも神を避け、無視しているのでしょうか。
2. 語りかける神
彼らの目が開かれたのは、真実に対してではありませんでした。彼らの目は、自らの犯した罪の結果を目の当たりにしたのです。神から離れた瞬間、自らの姿はなんと弱く、みすぼらしく、汚れているのか、そのことに目が開かれてしまったのです。その時に、神は近くに来られ、そして語りかけられました。神は、その日一日の出来事を語り合おうとして人のそばに来られました。しかし、この時、人は神を避けて、園の木の間に身を隠します。「あなたは、どこにいるのか?」神は声をかけました。この時の口調はどのようなものであったのでしょうか。ここに神との関係を失った人の姿、罪人の姿が表現されています。神の御顔を避ける人の姿です。この神の声の響きが、今の私たちにどのように聞こえるかが、私たちにとっても大事なことです。
3. 私たちはどこにいるのか
神との関係において、今私たちはどこにいるのでしょうか。これは聖書が私たちに語る大切な問いです。罪が問われるというのは、この点です。これは他の人と比べてのことではありません。あなたは神の御前を避けているのではないか。あなたは神の声を聞こうとしていないのではないか。この後の二人の姿は、実に情けないものです。互いに責任を転嫁する姿が出てきます。神が求めていた答えは何だったのでしょうか。神が求められているのは、私たちの神の前の「砕かれた心、悔いた心」です。そして神は私たちにキリストの十字架の贖いによる赦しを与えてくださるのです。
投稿者 mb-church : 08:48 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2010/5/30礼拝メッセージ
2010年5月30日礼拝のメッセージ要約です。
創世記3:1~6
「境目にある物語」
1. 原罪
原罪という言葉を聴いたことがあるでしょうか。自分のことを神とすることという罪。この罪が及ぼす影響はかなり深刻です。これは私たちの力では乗り越えられないものであるからです。ここに「狡猾な蛇」が登場します。これは「蛇」によって象徴されている神から私たちを引き離そうとする「力」の存在です。蛇は女に語り掛けました。神のことばを巧みに使い、人の弱さに働きかけてきたのです。最初の神の命令が、神と人との信頼関係の中で語られた言葉であるとするならば、蛇の言葉に応えたエバの答えは何か他人事のようにも聞こえます。「あなたがたが死ぬといけないからだ」ではなく、神は「必ず死ぬ」といいました。それは神の約束の重さをあらわしています。しかし、人はその神のことばを自分の判断ですり替えてしまったのです。
2. アダムの罪
神への罪の責任は、女ではなくアダムにあると聖書は語っています。ここでのアダムはとても受け身です。この場面でもアダムは口は開きません。しかし、彼は確かにエバの横にいるのです。さらに妻が最初にその実をとって食べたときも、男は止めることをしませんでした。ここで男は思考することをやめ、意志と与えられた責任を放棄したのです。「あなたは神のようになる。」この誘惑にただ人は沈黙したのです。人は神のことばを勝手に解釈し、言い換えてしまったのです。ここに大きな罪の根があります。私たちは神のかたちとして、神のことばによっていのちに息が吹き込まれます。そこには神に対する絶対的な信頼と、神のこころを自らのこころとする人本来のあり方が与えられていました。しかし、今の私たちには、神に対する信頼はありません。たとえ神のことばが聖書によって示されていたとしても、それを後回しにするのが私たちなのです。
3. 罪からの解放
私たちは神のことばに耳を傾けているでしょうか。私たちは神ではないのに、自分のことを神であるかのようにしています。自由なようでいて罪の奴隷となっているのです。キリストは私たちを自由にしてくださるのです。その自由は私たち神にある永遠のいのちと朽ちない希望を与えることのできるものなのです。
投稿者 mb-church : 08:46 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2010年05月23日
2010/5/23礼拝メッセージ
2010年5月23日礼拝のメッセージ要約です。
創世記2:15~25
「神と同じかたちをもつ人」
1. 三位一体の神
キリスト教では、父なる神、子なるキリスト、聖霊、この三者は「神」と呼ばれ、信仰の対象となっています。しかし、聖書は「神はただ一人」とも言っています。このことを教会では「三位一体」と言います。「三位一体」という言葉は、聖書には出てきません。しかし、聖書が語るように受け留め、言い表すと「三位一体」ということになります。そして、この創世記において、神のかたちとして創られた人にも「一体」と記されている箇所があります。「一体となる」これこそ私たちが神のかたちとしてつくられた特徴でもあるからです。
2. 男と女
三位一体の神と同じかたちを持つものとして「人」は創造されました。男だけで神のかたちではありません。男と女とで神のかたちである、そう語られています。神の前に罪を犯す前の人の姿こそ、神のかたち、神の似姿をあらわしています。神は、人をエデンの園におき、そこで仕事を与えました。さらに神と人との最初の約束ごとを定めました。その後で、人は神からこのように言われています。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」神はもともと三位一体の方であり、互いに愛し合い、尊重し、互いを生かす方、働きをともになす方です。互いに愛によって結び合い、離れがたく一体となっている姿がそこにあります。人も神のかたちとして同様の性質を持っています。人もひとりでは生きるようにできていません。そして本来人は、利己的に生きるためではなく、相手を生かすために、助け手となるために形作られてもいるのです。
3. ひとつとなる
なぜ、男と女とで神のかたちなのでしょうか。夫婦は社会の最小の単位です。人間は孤独ではなく、ともに生きる存在です。しかし、その調和、平和を、人は踏みにじってしまいました。ともに生き、寄り添うのではなく、人を無理に従わせ、思い通りにしようとする・・・それが本来の神のかたちからそれた人の姿です。ではどうすればいいのでしょうか。その究極の答えはイエス・キリストにあります。イエス・キリストを信じ、また従うことによって、私たちは神に喜ばれる姿を取り戻していくことになるのです。キリストは私たちのために仕えられ、私たちのためにそのいのちを投げ出してくださいました。そのことを信仰によって受け留めるときに、私たちは神のかたちを取り戻す歩みへと導かれていくのです。
投稿者 mb-church : 16:20 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2010/5/16礼拝メッセージ
2010年5月16日礼拝のメッセージ要約です。
創世記2:4~15
「アダムの物語」
1. 最初のよい知らせ
神が自らの意思でことばを発し、それゆえに人やこの世界が存在するということ。またこの世界に、神は非常によいという最大級の賛辞を送っているのだということ。それは私たちにとって最初の福音と言ってよいものでしょう。創世記1章は良い知らせです。そして私たちは2章へと導かれていきます。ここからカメラのフォーカスが切り替わります。これまでは、この世界全体、つまり天と地に当たっていた焦点が、地と天という言い方によって、この地上に焦点が絞られることになります。そしてそのフォーカスは神のかたちである人へと絞り込まれていくのです。ここで重要なことが記されています。それは、神が人を形作るときに、そこにいのちの息を吹き込まれたという点です。
2. 神の息吹
神は人にいのちの息を吹き込まれました。神の霊が、私たちの根本に影響をしているということです。そして人は生きもの、生きる魂となります。聖書は、人間の存在やいのち、人が生きるということと、神の霊、息吹、いのちということとが、はじめから密接に結び付けられているということを見事に言い表しています。聖書は肉体と精神ということを切り離して考えてはいません。肉体と心とが密接な関係を持つことも、私たちはよく知っています。しかし、今の私たちは創世記2章に記されている人間とは、異なる状況にあります。今の私たちは、残念ながらこの楽園にはいません。この時点では人は神に基準のすべてを置いていました。それが人の本来の姿でした。そこからずれていくこと、それが人の罪の現実です。そして、そこから私たちの肉体と心とのアンバランスが生じていくことにもなります。神の霊と人の魂とが遠くなり、私たちのいのちや生きるということが、本来の喜びを失ってしまうのです。
3. 神のことばによって
聖書はエデンに帰りなさい、と命じてはいません。創世記の最初の良き人の状況を読むときに、私たちはもうそこには戻ることができないのだ、という悪い知らせをも読み取ることにもなります。しかし、神は私たちをそのままにはなさいませんでした。聖書は語ります。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と。私たちのいのちは、神の霊と深い関係があります。神のことばによって、そして神のことばそのものであるキリストによって、私たちは今本来のいのちを取り戻すことができるのです。
投稿者 mb-church : 16:17 | コメント (0) | トラックバック
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2010年5月9日礼拝のメッセージ要約です。
創世記2:1~2:3
「安息日を覚えて」
1. 安息日規定
創世記2章と十戒の第四戒「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」が、安息日を守ることの重要性を語っています。カルバンは、安息日の規定を神がイスラエルの民に与えた理由を三つあげています。第一に、第七日の安息日のもとに、神は「霊的安息」を象徴によって示そうとしたということ。第二に、神は信仰者たちがみことばに聞き、神を礼拝するために集められる特定の日を制定することを欲したということ。第三に、神は労働から解かれるための、休みの一日が許されることを望まれたということ。
2. 霊的安息
「霊的安息」を安息日という象徴によって示そうとしたとありました。神のかたちに造られた人間の真の安息とは何でしょうか。イスラエルの人々は安息日を他の日と区別することによって、神にある安息を理解しました。しかし、教会の時代において、この規定はどのように変化したのでしょうか。旧約の時代は、救い主キリストが示される前の時代です。今は、救い主キリストが与えられた時代です。神にある安息は、イエス・キリストによって、実体をともなって与えられたのです。するともう、安息日は守らなくてよい、そうなるのでしょうか。
3. キリストの安息
私たちは主イエスによって神の救いと、内なる導き手である聖霊をいただきました。しかし、私たちはまだすべての完成に至っているわけではありません。私たちはキリストが再び来られる神の国の完成の一歩前に置かれているのです。ですから今は、イエスによって与えられた罪の赦しと希望の約束に立って、この日を迎えるのです。安息日は、旧約では世界の完成を迎えた最後の日をさしていました。しかし、新約ではキリストの復活された日、救いが始まった日となったのです。私たちには真の安息が必要です。それは神の前に憩い、神のことばを聴き、赦しの宣言を聴くときなのです。
投稿者 mb-church : 16:13
メインページへ2010/5/2礼拝メッセージ
2010年5月2日礼拝のメッセージ要約です。
創世記1:28~2:3
「神のことばを聞く」
1. 神のかたちである人間
人間を創造し、使命を与えた時に、神の天地創造の業は一つの区切りを向かえることになります。神は、お創りになったすべてのものをご覧になりました。そしてそれは神の目に「非常に良かった」という最上級の評価を与えました。ここに大きな慰めがあります。この世界は、また私たち一人一人は神の目に高価で尊いとされています。この神の愛を失うところに多くの歪みが生じます。神の造られたこの世界の栄光や神のかたちである人間を、人間自らが踏みにじっている現実があります。しかし、神は最初も、また今の私たちも「高価で尊い」と思い続けてくださっています。神の栄光を損ない、神のかたちとして生きようとしない私たちに向けて、絶えず神様は叫び続けています。私たちは時に後悔し、また時につまずき、また神に対して罪を犯し、人を傷つけてしまいます。私たちの真実の姿は「非常によかった」とは決していえません。しかし、神はキリストによって、私たちを赦そうと言われています。それが神がイエス・キリストを通してくださる罪の赦し、義とされる救いの宣言です。今イエス・キリストを信じる信仰によって、もう一度私たちは、神から「非常によい」という言葉をまっすぐに受けることができるのです。
2. 安息の日
第六日目が終わり、その次の日に神はすべての創造のわざを休まれます。この日は単なる休みの時ではありません。この日は創造の業を成し遂げられた神の日であるということです。神は私たちのためにこの世界を作られました。神は、そのほとんどすべての日を人間のものとしてくださり、私たちにその日を、またすべての物を、神の代理者として治めるようにと委ねてくださいました。しかし、その中で、唯一七日目だけ、この日だけ、御自分のものとされました。すべてを私たちのために備え与えてくださった方が、御自分のためには、この一日だけを取り分けられたのです。しかし、私たちはすべての時が人間のものだと思っています。この日は創造者、救い主を覚え、感謝する時です。またその時は魂の赦しと回復の時でもあります。礼拝を周毎にささげ、創造主なる神を覚えることによって、私たちは神のかたちを取り戻し、キリストによって与えられる真の希望を失うことなく歩むことができます。私たちに語られた「非常に良い」と言う言葉が、ますますはっきりと聞こえてくるのです。
投稿者 mb-church : 16:07 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2010年05月15日
2010/4/25礼拝メッセージ
2010年4月25日礼拝のメッセージ要約です。
創世記1:24~31
「ご自分のかたちに」
1. さあ人を造ろう
この地上の創造のすべてを人間のために備えてこられた神のみ業がここに結集します。「さあ人を造ろう。」舞台はようやく整いました。満を持して、神は人の創造へと進んで行かれました。神は、人間がいる世界を、私たちが存在する世界を創造されました。そして神は、私たちに存在の理由を与えてくださったのです。人は「支配せよ」と命じられています。しかし、それはこの世界の「神」として支配せよ、という意味では決してありません。その支配とは、神のかたちとして、神の代理者として支配せよ、という命令だったのです。
2. 神のかたちに
神のかたち、神に似せて…それが人間の存在の根本であると聖書は語っています。これは見た目ではありません。それは神の持つ性質を表しているという表現です。この「性質」の重要なものは「愛」にほかなりません。私たちは神のかたちを持つ者として、神と「愛」という関係を結ぶ存在です。その関係は一方通行ではなく、相互の関係を持つことができるということでもあります。神に与えられた支配せよという命令は、相手を独占する支配ではありません。そこに「愛」が問われるように形作られたのです。
3. はじめのところへ
私たちは神のかたちとしてつくられ、神のことばの中にいき、その愛を受け、愛に応えて生きるように造られているにもかかわらず、神のことばを聴かず、身勝手な愛に生きています。このような非人間が、支配するこの世界は暗くならざるをえません。そこに与えられた助け、救いこそイエス・キリストです。キリストは神の愛そのものです。この人間の創造の記事は、私たちにはじめの愛へと戻るようにと訴えかけています。非人間性を増すのではなく、キリストを受け入れ、神の愛を知り、神のかたちとしての「私」を回復させていただきましょう。
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メインページへ2010/4/18礼拝メッセージ
2010年4月18日礼拝のメッセージ要約です。
創世記1:1~27
「闇に光を与えた方」
1. 天地創造
神がこの世界のはじまりであった。それがこの聖書の第一の宣言でした。天地創造の記述は、目撃者がいないにも関わらず、現代においても耐えうる言葉で記されています。細かな点で、現代科学と整合性がとれないなどというのはナンセンスな話です。科学も目撃者もいない中で、これほどまでに世界の創造に関して本質をとらえた文章はないということにこそ目を留めたいと思います。この創世記の記述には、非常に多くの普遍的な概念が含まれています。この世界が段階を踏んで創造されたこと。一日、一日というサイクルがあるということ。そして何よりも、あらゆる被造物の創造には「神」が関わっているということ。それは存在への「答え」と言ってよいものでしょう。聖書は「あなたは偶然にそこにいるのではない」と、その冒頭から私たちにメッセージを語っています。
2. 世界のはじめ
「地は茫漠として何もなかった。 」この言葉の意味は、「その地は何かを生み出すようなものではなかった」という意味です。「いのち」など自然に生まれるはずもないその場所。しかし、そこには「神の霊」がありました。いのちの兆しすらなかったところに、神の霊があったのです。いのちないところ、無味乾燥にも思える闇に、神はおられました。そしてそのような所から、すべてをはじめてくださったのです。
3. 夕と朝
神はそこで「光があれ」と語られました。そして生み出されたものを「よし」としてくださいました。この地には、神における秩序があり、また思いを込めて神は世界を創造されました。私たち神を信じるものたちは、この世界をもっと知らねばなりません。この世界の一つ一つを創造された神のすばらしさを味わい受け取るのです。真の神中心の出発点がここにあります。そして夕があり、朝がありました。神は、闇の中で「光よあれ」と語られ、光が与えられました。まず神がことを起こし、そして成してくださいます。私たちの前を歩んで下さる方がおられるのです。物事が動いていないかのような時に、神は休まれているのではありません。神は、私たちの前にことをなしてくださり、いのちのない所にいのちを与え、闇に光を与え、私たちの一日が始まる前に、すべてを備えてくださるお方なのです。この創造主なる方に信頼をしてまいりましょう。
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2010/4/11礼拝メッセージ
2010年4月11日礼拝のメッセージ要約です。
創世記1:1
「すべてをはじめられた方」
1. はじめのことば
「初めに、神が天と地とを創造した。」まさにこれは天の声です。これは人類史上最も偉大な言葉の一つでしょう。聖書は、何の前触れもなく神がこの天と地を創造した、そう宣言します。すべてのはじめは神である。これは高らかな宣言文です。私たちが今ここに存在するのも、多くの出会いが与えられたのも、この世界の一つ一つが神によって始められたことなのです。これは驚くべき宣言と言えるでしょう。
2. 神のことば
聖書はそもそもなぜここにあるのでしょうか。なぜ数千年もの間、この文書が神のことばとして受け継がれてきたのでしょうか。それは、この書が語ろうとしていることが、人間にとって大いなる真理を物語っているからに他なりません。私たち人間の側からは、決して語ることも、聞くことも出来ない、神の側からの言葉、宣言の言葉として、この聖書が、私たちの目の前に置かれています。その聖書が、まず初めに私たちに語りかける言葉こそこの最初の言葉なのです。この世界が、すべて偶然でなく、またたわむれでもなく、神ご自身の思いがそこに込められ、また神の御手によって創られた世界であるという宣言。聖書私たちに教える神の第一の特徴は「創造主なる方」ということになります。
3. 人間という存在
神の創造の動機とはいったい何だったのでしょうか。神は、人間という存在を生み出すために、この世界を創造された、そういっても言い過ぎではありません。決してこれはおごりで言っているのではありません。人間の存在そのものが、この世界においてはユニークです。しかし、人間は決してすべての事始めをしたのではありません。それどころか創造の業の中でも後で生まれたのが私たちです。「あなた」という存在がいるこの世界を神は始められた、そう聖書は語ります。あなたがいる世界を始めてくださったのは、神ご自身です。もちろん罪という問題がこの後に語られ、世界の滅びが明らかにされます。しかし、まず聖書は「すべての創造主を知ること」から語り始めるのです。そしてこの方は、目に見えるものだけではなく、私たちの心も、また魂も、新しく作り変えてくださる方です。世界を創造した神の御手が、私たちの心にも触れてくださり、造り変えてくださるのです。
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2010/4/4礼拝メッセージ
2010年4月4日礼拝のメッセージ要約です。
使徒の働き17:22~34
「よみがえられた方」
1. アレオパゴスの説教
この説教は、現代と同じような状況が過去にもあったことを示す箇所です。多くの者は、パウロのこの説教を聞いて、その場を立ち去ったようです。しかし、その中の幾人かは、信仰へと導かれたことが記されています。そこではギリシャの神々がまつられ信仰の対象となっていました。それと同時にギリシャは哲学の都です。そこでパウロはこう切り出すのです。「この世界のすべてを形作った方がおられるのだ」と。そして人間の存在の意義をもパウロは語りました。なぜ人間はこの世界を感じ、また認識し、存在の意義を求めるのか。それは、創造主なる神を求めるためなのだ、そうパウロは語りました。
2. 存在の意義
存在の意義、これは哲学的な問いです。しかし、同時に神をどうしても意識せずにはおれない、神学的な問いでもあります。しかし、この問いに対して私たちは真正面から向きあおうとはしません。なぜなら私たちには完全に答えようがないからです。しかし、パウロはここで訴えかけます。神は、これまでそのような人間を見過ごしにされてきたが、今は違うと。今は、ある一人の人を通して、人間が歩むべき道を、神は指し示しているとパウロは教えました。この世界は、永遠ではありません。終わりの時が必ず来ます。一人一人、神の前にその存在の重さが計られるときがやってくるのです。
3. イエス・キリスト
神が送ったこの一人の人、イエス・キリストは、いったいどのようなお方だったのでしょうか。彼は、完全に神に信頼し、神の前に裏表がなく、神のみこころを求め、またみこころに従って生きた人でした。このキリストを通して、私たちは神の前に問われています。あなたは創造主なる神を心から愛しているのか。あなたはあなたの隣人を、心から愛しているのか。キリストは私たちに言われます。人はうわべを見るが、神はあなたの心を見ると。私たちの神の前の罪をイエスは背負われました。しかし、それで終わりではありませんでした。キリストはよみがえられます。死に渡されるいのちが神に受けいれられるときに、死からいのちへと必ず移される、そのことを神はキリストをよみがえらせることによって、明らかにしました。このイエス・キリストを信じるときに、やがて私たちもこの方と同じものと変えていただけるという望みが与えられます。復活の主には、苦しみや死の先にあるいのちの答えがあるのです。
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2010年3月28日礼拝のメッセージ要約です。
「聖徒たちへの祝福」
ピリピ4:18~23
1. 満ちあふれる
ピリピの教会はパウロに経済的な支援を送った教会です。彼ら自身も貧しい中、パウロを支えようとしました。パウロは「満ち溢れている」と書き送っています。それはパウロの心から感謝と賛辞の言葉でした。それは贈り物にこめられたピリピ教会の宣教への情熱のゆえでした。「宣教の業」とはいったいなんでしょうか。私たちを取り巻く状況は困難に見えるかもしれません。しかし、パウロたち初代の教会の状況を見ると、私たちは励まされます。なぜなら彼らの状況は、私たちの状況と限りなく近い面を持ち合わせているからです。彼らは現実の社会に何かをなす大きな力は持ってはいません。しかし、その教会には神のことばに聞く姿勢がありました。そして彼らが、キリストの姿にならい精一杯仕えていくその姿に、私たちは学ばなくてはならないでしょう。
2. 神を経験する
私たちが「神のすばらしさを経験する」時とはどのような時でしょうか。その時をまとめると三つあるのではないでしょうか。一つは何気ない日常の中に、神が与えてくださった多くの恵みを受け取る時。二つ目には、私たちには乗り越えることができない、そんな壁が目の間に立ちふさがった時。そして三つ目は、私たちが決断して一歩前に進み出る時。さらにこの身を、また私たちのもてるものを神に差し出す時。その時にこそ、実は深く私たちは神を経験します。パウロも、ピリピの教会も、このチャレンジの先にある神のすばらしさを経験した者たちと言ってもいいでしょう。その人々に神は、キリストにある栄光の富をもって応えてくださり、私たちの必要を満たしてくださるのです。
3. キリストにある聖徒たちへ
最後にパウロは聖徒たちと呼びかけ挨拶を送ります。そこには、すでに教会に加えられた者も、後から加わった者もいます。まったく会ったこともない、またもしかするとこれからも会うことはないローマのクリスチャンたちの姿がここにあります。教会の交わりの豊かさを感じさせる一文です。それは私たちの思いや力、そして時間をも超えた交わりです。この交わりに私たちが加えられていることを心から感謝し、ともに苦難を乗り越え、神のすばらしさをますます味あわせていただきましょう
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2010/3/21礼拝メッセージ
2010年3月21日礼拝のメッセージ要約です。
「再びよみがえる思い」
ピリピ4:10~17
1. 教会への感謝?
パウロがこの手紙を記した動機の一つにピリピ教会がパウロに送った献金への応答ということがありました。しかし、ここで不思議なことがあります。パウロは手紙のはじめにそのお礼をしていないということです。手紙の最後にお礼の言葉が出てきます。しかしその言葉は何か含みのあるものでした。これまでにも、パウロを懸命に支援してきた教会がこのピリピの教会です。しかし、なぜパウロが率直なお礼ではない言葉をここに綴っているのでしょうか。
2. 教会の意識
いったいどのような理由で、パウロへの支援が途絶えてしまったのでしょうか。教会の中にあった混乱というものが、その原因になっていた可能性があります。パウロはここでたとえ支援がなかったとしても、私は大丈夫であるとの言葉を書き送っています。パウロがここで取り上げようとしていることは、単なる献金への感謝ではありません。そうではなく、この献金に表されたピリピ教会の信仰、思い、考え、それらに対する賞賛でした。つまりそれは、ピリピ教会が、福音宣教の思いを再び持つにいたったということに他なりません。なぜ、これまでこの献金が途絶えてしまったのでしょうか。それは、教会の意識が内向きになってしまったということでしょう。パウロを具体的に支援することは、すべての人へ救いの道を開くこと、福音の宣教の広がりを示すものでした。
3. 霊的祝福
ピリピの教会は、パウロの宣教の働きのはじめから、その働きの本質をつかんでいました。この働きこそ、自分たちが貧しくても支援すべてきものであることを、ピリピ教会は最初のころからよく知っていたのです。パウロは17節でこのように述べます。「私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」ピリピの教会は、パウロの言うあらゆる境遇における秘訣を知っていた教会です。ただの経済的な豊かさや余裕ではなく、キリストを知り、また信じているがゆえの豊かさと確かな守りを彼らは知っていました。そして今再び、この教会は、その霊的祝福に立つことができたのです。私たちもまた第一に分かちあうべきことは、キリストの思い、福音宣教の思いです。そこに私たちをどんなときでも立ち上がらせ、そしてどんな状況でも、満たし豊かにする秘訣があるのです。
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2010年3月14日礼拝のメッセージ要約です。
「真に正しいこととは」
ピリピ4:8~9
1. 正しいこと
「すべての真実なこと、誉あること、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと」。ここに出てくる言葉の一つ一つは、当時のローマ社会の中でも大事にされていることばかりでした。それは社会的に正しいこと。また誰の目にもふさわしいことでした。キリスト教は広く認められています。しかし、それと同時に批判の対象ともなる宗教です。確かに歴史的にも多くの罪悪を犯してきました。このような現実を見るたびに、私たちは胸を痛めます。しかし、それは教会の現実以上に、この世の現実でもあります。人間の罪の根深さというものは、そう簡単なことではないのです。
2. 祈っていれば大丈夫?
祈っていれば大丈夫?教会に来ていれば大丈夫?そうではありません。祈っていても、教会に来ていても・・・という現実が確かにあります。もし、それすらしなかったらどうなるのでしょうか。私たちは、真摯に神のことばに聞き続けなくてはなりません。パウロは語ります。他の人々からも賞賛を受ける教会になりなさい、人格的な成熟を求めなさい、そうパウロは語っています。まことの神を知り、キリストを信じている者たちとして、より正しい人間性や深い人間理解へと進んでいかなくてはならない、それが教会の使命でもあります。
3. 誰に学ぶのか?
ここで問題となるのは、私たちが何に学んでいるのかということです。パウロは自分から学ぶようにと勧めます。もちろんこれは、信仰の完成者としてではありません。神のみこころに従い、神の国を求め、キリストを見あげ続ける信仰のトラックを走り続ける競技者パウロの姿です。何よりも私たちはキリストに学びたいと思うのです。
「気落ちせず、恐れもなく、キリスト者はどこにいても常に自らを視線にさらすべきだ。死が彼を疲弊させようとしても、それでも心を明るくもち、静かに落ち着いているべきだ。いかなる死も、われわれを殺すことはできず、むしろ幾千の困窮からわれわれの霊を切り離し、にがい苦しみの扉を閉じて道を開く。こうして天の喜びへ達することができる。」パウル・ゲルハルト
投稿者 mb-church : 12:26
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2010年2月28日礼拝のメッセージ要約です。
「現実を越える力」
ピリピ4:4~7
1. 主にあって喜べ
「主にあって喜びなさい」もう一度、ここで念をおすかのように、パウロは記しました。これはユウオデヤとスントケの二人に和解することをうながした後の言葉です。この手紙を受け取り、それを読んだ時、教会とこの二人の女性の心境はいかなるものであったのでしょうか。私たちは自らの過ちを指摘されたときに、心をすぐにかたくなにしてしまうものです。そのようなところに、パウロは「主にあって喜びなさい」と語りました。
2. 私たちの現実
私たちは正しいことを教えられても、それを実現することができない弱さを抱えています。また認めることができない頑なさもあるでしょう。私たちの現実はそうたやすくはありません。しかし、だからこそ、今あなたの中にある主にある喜びに目をむけなさいと聖書は語ります。この主にある喜びなくしては、決して一致することも、心から仕えあうことも、相手を自らよりも優れたものと思うことなど到底できないことでしょう。ピリピの教会にとっても難しい局面の中、パウロが語ったのは、キリストにある喜びに目を向け、互いを赦しあい、仕えあうその心をすべての人に示しなさい、ということでした。これは裏を返せば、教会が抱えた問題は、主にある喜びを失わせることではなく、むしろ、主にある喜びを思い出させるものであり、寛容な心を失わせるような出来事ではなく、かえってキリストのこころをすべての人に示すよい機会なのだ、とパウロは訴えているかのようです。
3. 祈りをもって
さらにパウロはここで三つ目の勧告をします。パウロはここで「祈り」について勧めています。不一致の現実の前で、苦難と苦しみの中で、そのようなあなたの力を超えた現実の只中、あなたがた教会は感謝をもって祈り願いなさい、とパウロは勧めるのです。そこには神の約束がともなっています。その先には神の平安が与えられるのです。なぜ思い煩いを横において、神に祈るのでしょうか。私たちは、自分で自分の心を支配するのではなく、神に支配していただくために祈りに向かうのです。私たち自身を神に明け渡すために神に向かって心を注いで祈るのです。そこに必ず主キリスト・イエスの守りと神の平安が与えられると、みことばは約束しているのです。
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2010/2/21礼拝メッセージ
2010年2月21日礼拝のメッセージ要約です。
「本質に目を向けて」
ピリピ4:2~3
1. 具体的な問題
パウロがピリピ教会の現実に対して触れなくてはならなかったこと、それは何でしょうか。それは具体的な問題でした。ここでは二人の女性の名前が記されています。この手紙は、当時の教会が置かれていた苦難や問題を聞いたパウロが、キリストのからだである教会の助けになろう、主のみこころを伝えよう、その思いで書き送ったのではなかったかと想像します。ですから、パウロは具体的な諸問題に立ち入る前に、教会が知っておくべき信仰の本質的なことがらについてこれまで説明してきたわけです。その問題とは、二人の女性の対立でした。
2. 対立
ここに人名が出てきます。この女性二人に対して、パウロは「主にあって一致してください」と命じています。当時のピリピ教会で現実にあった不一致騒動です。その詳細はここには記されていません。しかし、彼女たちが教会の中で強い影響力を持っていたことは間違いないでしょう。教会内にあった二つのグループの対立ということが関連していた可能性もあります。当時の教会の文脈に立って考えてみると、この2、3節こそ、パウロが手紙を書く動機になった出来事であったとも言えるのかもしれません。さらにパウロは「真の協力者」にも懇願しています。つまり、彼女たちの一致は、二人だけの問題ではなく、教会全体が取り組み、祈るべき課題であったのだということです。対立の問題は、教会だけの問題ではありません。私たちの周囲にあふれている深刻な課題なのです。
3. 本質を見つめる
しかし、対立の最中におかれると、本質的なことよりも表面的なことで対立が深刻化することが多くあります。パウロもそのことをよく知っていました。これまでの3章分を用いて、パウロは対立の本質的な問題と、信仰者の基準、考え方を明らかにしてきました。それは次の三点です。まず一つは、すべてのことがキリストのゆえであり、キリストのためである、ということ。次にキリストにならうということ。三つ目に、私たちがなぜ救われ、またなぜ生かされているのか、そのことを思い出すこと、です。私たちはこれらの本質を見失うことによって、互いを受け入れあうことも、認め合うこともできなくなってしまうという事態が起きます。私たちは、本質的なところにこそまず目を留めなくてはなりません。教会は対立ではなく、キリストの一致があらわされるところなのです。
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2010年2月7日礼拝のメッセージ要約です。
「愛する教会へ」
ピリピ3:20~4:1
1. 与えられる特権
キリストを信じる信仰によって与えられる特権とは何でしょうか。イエスを救い主であると信じるときに、私たちに与えられるもの、それは「天の国籍」です。この国籍は「市民権」とも訳せる言葉です。ただキリストの十字架の血潮によってのみ、私たちの罪は赦され、神の国の市民としていただけるのです。この神の国の市民権は、お金を積んで得られるものでもありません。それはただ主イエス・キリストを救い主として信じるときに、私たちに与えられるものなのです。
2. 天から来られる方
さらにパウロは「そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」と言います。しかし、私たちはこの逆を考えます。私たちは、ここから天国へと行くことを待ち望んでいるようです。ここでのパウロは、そうは考えていません。天から、必ず私たちがいるこの世界にイエスが救い主として来てくださる。再び来られたイエスは、その神の御力で、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる・・・。すべてを完成させるためにイエスは再び来られるとパウロは語ります。
3. 未完成の世
私たちは、どうがんばっても、神の目にかなうような「良き人」「義人」には到達できないでしょう。私たちは罪人にしか過ぎないからです。またこの世界も完全な世になるとは考えがたいことです。だからといって、正しいこと、良きことをあきらめてはなりません。あきらめて天国を待ち望みなさいと聖書は語っていません。むしろその逆です。あなたには罪があり未完成の者ではあるが、神のみこころを知り、また主イエス・キリストの赦しと救いを受けたものとして、今いるその場所で、天の国の市民として歩みなさいと言われています。しかし、私たちが現実を襲う苦難や試練の中にあって、希望を失わないで生きるにはどうしたらよいのでしょうか。
4. 希望の光
そこに与えられた希望の光こそ、復活の主イエス・キリストです。復活の主が天からこの場所へとやがて来て下さり、すべてを完成してくださるのです。だからこそ、私たちは、今ここで前に向かって歩み続け、また神の思いにかなう良きことを求めて、力強く奮闘することができるのです。私たちもまた神の国の市民としてふさわしい歩みを続けてまいりましょう。
投稿者 mb-church : 11:44
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2010/1/24礼拝メッセージ
2010年1月24日礼拝のメッセージ要約です。
「互いを手本として」
ピリピ3:15~17
1. 良き手本
これまでの歩みの中で、手本となるべき方と出会ったことがあるでしょうか。しかし、自分がお手本となるならばどうでしょうか。パウロは「私を見ならう者になってください」と言っています。パウロが偉大な教師であるから、こう述べたのでしょうか。しかし、この言葉はこう続きます。「また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに目を留めてください。」これは、「教会」または「他のクリスチャン」に目を留めるようにという言葉です。パウロは、自分のまた他の教会の何を見倣いなさいと言っているのでしょうか。
2. 現在のパウロ
キリストを知る以前の彼は、当時のユダヤ人における正しい生き方を真剣に実践した人物でした。彼はそのような姿を「犬」「肉体だけの割礼の者」と言っています。これらの言葉は、本質のない者、うわべだけの者というような言葉です。では今のパウロはどのような歩みをしているのでしょうか。彼はキリストによって、「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない」者となりました。以前の彼は、自分の正しさや誇りのゆえに、神をほめたたえていました。いえ、神をほめたたえていたのではなく、自らが満たされ、他の人よりも自分が勝っていることを持って喜びを得ていたと言ってもいいでしょう。この姿は、キリストのたとえ(ルカ18:9~14)と重なります。パウロはキリストを知ったゆえに、自らの罪に気がつかされます。そして、自分自身を、その生涯を、神にささげていくことこそ、真の礼拝であると彼は確信しました。さらにその歩みは、自らの力で正しい者、力ある者となることではなく、キリストの姿にならい、神の前にへりくだり、神の御力、みことばによって生かされ、そして約束された復活のいのちにいたるためのものであるということを知りました。彼はゴールを見据えて、希望と喜びを告白しつつ歩む競技者のようであると述べています。その自分を見習ってほしい、とパウロは今日の箇所で勧めているのです。
3. 他の信仰者とともに
さらに彼は他の信仰者に、ともに走り抜こうとしている他の教会にも目を留めなさいと勧めます。目を留めるのは外面的なことではありません。それぞれのうちにあるキリストに目を留めていくのです。喜びや苦難の中でも、強さや弱さの中でも、私たちの中心には十字架の、復活のイエス・キリストがいてくださるのです。その姿を、ともに見続けてまいりましょう。
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2010年1月17日礼拝のメッセージ要約です。
「ゴールを目指して」
ピリピ3:12~16
1. 求道者
教会における「求道」の意味は「真理を求める」とういことにあります。もっと厳密に言えば、求道者とは「真理を求めるようにと導かれている人」のことです。パウロも自分は神によって導かれている、そうまっすぐに受け止めた人でした。確かにパウロは、神にある正しさを求め、追い続けています。しかし、それは自分からスタートしたことではなく、イエス・キリストが私を捕らえてくださったからだと告白しています。ここでの問題は、パウロが何を求め続けていたのか、ということです。
2. 何を求めているのか
彼が求めているのは「死者からの復活」です。この言葉は「復活のキリスト」を示す言葉です。パウロが求めていたものは、復活のキリストと同じようになることでした。この言葉は人格的、肉体的な完成を示す言葉です。神の前に真にへりくだった愛、人ではなく神にある正しさこそ、ここでパウロが追い求めているものと言えるでしょう。とはいっても、そこまでのことを私は求めていない、そう思われるかもしれません。私たちの視点は、すぐに天ではなく、地に向かうものだからです。パウロはそのことをよく知っていました。13節にある「うしろのもの」とは、以前の価値観のことです。私たちは「うしろのもの」に、いつも引きずられてしまいます。うしろのものとは、キリスト抜きの世界であり、目に見えるもの、人の基準で生きることです。実のところ、真の問題は、うしろのものにではなく、前にあるものがはっきりと見えていないことにあります。
3. 前のもの
パウロは信仰の歩みを競技にたとえています。Ⅰコリント9:24~25でも同様のたとえが出てきます。パウロは競技者の姿勢と、信仰者の姿勢とを重ねあわせています。競技者はゴールがない競技を走るわけはありません。ゴールを、そして栄冠を目指して走ります。パウロは、勝ち負けの話ではなく、競技者として純粋にゴールに向かうことや、その途上にあって奮闘し続ける競技者と、信仰者とを重ねあわせているのです。それぞれの走り方は違います。それぞれに時に苦しく、また倒れそうになりながらも、走りぬこうとしています。この先に見ている天におけるゴールは、すでにキリストによって約束されているものです。私たちは、今そのゴールを見据えているでしょうか。すべては復活のキリストの栄冠へと招きいれるためのものであるということを受け取らせていただきましょう。
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2010年1月10日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ3:7~11
「キリストとひとつにされ」
1. 喜びを失わせる現実
この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれています。パウロが「喜び」を多く書かなくてはならなかった背景には、その逆の現実がありました。それは今も私たちを取り巻く現実です。パウロは、この手紙の中で「今与えられている喜び」を語ります。それは、私たちがキリストによって神のものとされているということであり、また救われている状態です。これは信仰によって見ることの赦されている私たちの目に見えない現実です。これこそ、聖書の語る「霊的」な私たちの側面です。霊的という言葉は、目に見えない、つまり神の領域ということになるでしょう。私たち自身の本質的な部分もまた霊的な部分です。それは、目に見えるものだけでは満たされることはありません。私たちが満たされ、平安や神の愛が与えられるのは、キリストによって救われたからです。
2. 産みの苦しみ
律法による自分の義。これはユダヤ人の基準です。これは、神を抜きにした人間中心の価値観、正しさを表しています。そこには本当のいのちの望みはありません。真の望みは「神」から与えられるものです。パウロは「キリストのその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態」になっていると語ります。キリストにある信仰が与えられ、平安と満たしは与えられました。しかし、苦しみの現実は続きます。パウロや教会の現実の痛み、苦しみは増しているようにさえ見えます。しかし、信仰を持つパウロの目から見たその現実は、いままで見ていたものとは違いました。彼はその苦しみの現実が、キリストの十字架の苦しみと重ね合わさるものであることを知りました。やがて神がその痛み、苦しみを通して、完全に勝利してくださるものであることを、まさに霊的な目を持って受け止めたのです。
3. キリストと一つに
救われたものはキリストのいのちと継ぎ合わされます。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」その視点から見たときに、パウロの置かれた状況も、また苦難の現実も、それは喜びを失わせるものでも、また失望に沈み行くものでもありませんでした。それは、復活のキリストの栄光に満ちた姿へとつなげられている現実だったのです。だから彼は、主イエス・キリストの復活の姿へと変えられることを切に願うのです。
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2010/1/3礼拝メッセージ
2010年1月3日新年礼拝のメッセージ要約です。
詩篇67篇
「神を知るために」
1. 詩篇67篇
この詩篇は、旧約聖書にはめずらしいと思われる「宣教」の詩篇です。イスラエル民族は、選民思想を持つと言われています。しかし、旧約聖書を読むと、なぜ彼らが選ばれたのか、その理由が記されています。その理由は、この神を信じる民イスラエルを通して、この世界がはっきりと神を知り、そしてその神の救いと祝福に預かる道備えをするように、ということでした。この群れが、神のあわれみ、祝福、豊かさ、正しさを求めるのは、自分たちの都合ではありません。その理由は、神の御救いがすべての国々の間に知らされるためなのです。
2. 私たちの祈り
これはとても大事な視点です。私たちもまた神の祝福があるようにと祈ります。私たちが神の前に祈るべきことは、第一に「神の栄光を多くの人が見るように」との祈りです。そして、そのために、私たち神を信じるものの上に神の祝福があり、また正しさと豊かさがあるようにと求めるのです。この世界に仕えるために、またこの世界が真の神を知り、そしてその栄光を見るために、私たちは祈り求めるのです。この一年の私たちの歩みを祝福してください。あなたの栄光を見せてください。そのことを通して、私たちではなく、神があがめられ、そしてまことの神を知り、信じる人々を起こしてください、そう大胆に祈るのです。
3. アブラハムの祝福
アブラハムに与えられた約束もまた同様のものです。アブラハムを通して、すべての民が祝福されるのです。私たち教会も同じです。大胆に祈り、求めることは許されています。しかし、私たちは、それがなぜなのか、その理由を失ってはなりません。ともに、多くの人が神の栄光を見るように、そして、神ご自身が、この世界でほめたたえられるようにと私たちは祈り求めてまいりましょう。
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2009年12月27日礼拝のメッセージ要約です。
「キリスト-復活の希望-」
マタイ20:17~19
Ⅰコリント15:19~22
1. 復活の出来事
キリストについて、学ぶときに大事なことが3つあります。第一に「受肉」です。それは、神が私たちと同じ人となられたということです。二つ目は「贖い」です。受肉されたキリストが、私たちの身代わりとして罪の罰を受けてくださったということです。このことはキリストの受難、十字架に最もよく表されています。そして三つ目。それが「キリストの復活」です。キリストは十字架上で死に、その三日の後にキリストはよみがえった、と聖書は証言しています。しかし、私たちにとって復活は受け入れることの難しいことでもあります。なぜなら、それは人間の範疇を超えているからです。しかし、だからこそ、そこにこそ大いなる神の御力が働いているということになります。復活のキリストへの信仰とは、神のひとり子イエス・キリストを私たちに与えた神、そして十字架の死からイエスをよみがえらせた「神」、その神への信仰ということになります。
2. キリストの見ておられたもの
キリストは、ご自身の宣教の道すがら、復活のことを弟子たちに語っていました。イエスの奇跡を見て多くの人は殺到しました。今の自分を少しでも楽に、良くしてくれる可能性のあるところに多くの人は集まります。しかし、イエスが人々に常に語ってきたのは、神に立ち返るようにというメッセージでした。そして、ご自身の歩みは、まっすぐに十字架へと向かっていったのです。私たちの死の先にあるものをキリストは見ておられました。神に悔い改めた者の先には何があるのでしょうか。キリストは十字架の死の後、完全な肉体を持って復活をします。その後キリストは天に上げられます。これこそ、キリストが私たちに備えられた完全なる希望でした。復活のキリストが表すのは、完全なる勝利した人の姿です。
3. 復活の希望
復活の主が与える希望は、私たちがたとえどのようなところを通らされたとしても、復活の主が、私たちの行く先を示す光となってくださる希望です。暗黒の闇はやがて消え去り、希望の光が必ず差し込む希望です。最大の私たちの敵である死はもはや私たちの脅威ではなくなったのです。この希望は、「あの世」のものではありません。この世を生き抜く力となる希望です。今私たちが生きているこの延長に、神の国の到来と、キリストにある完全な復活のいのちが与えられるのです。
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2009/12/20礼拝メッセージ
2009年12月20日礼拝のメッセージ要約です。
「キリスト-子とされる恵み-」
ルカの福音書15:11~24
テモテ第一の手紙2:5~7
1. 救い主の誕生
私たちに救い主イエス・キリストが与えられたことを神に心から感謝します。神はこの方を指して、あなたがたを罪から救う救い主であると告げ知らされました。神は、長い年月をかけてこのことを備えられました。誰もがよく調べれば必ずこの人こそ救い主だとわかるように、神はその方を与えてくださったのです。しかし、それにも関わらず、多くの人々はこの方の前を素通りしてきました。私たちを絶望へと、また死へと追いやる病である罪から救う唯一の方は、このキリストであると聖書は語り続けています。
2. 放蕩息子のたとえ
「放蕩息子」のたとえは、非常に有名なたとえです。このたとえは、人が自らを神に背いた罪人であることに気がつき、そして父なる神に立ち返るというものです。これは「悔い改め」ということを物語っています。父なる神は、その人を喜んで抱きとめます。傷ついた私たちが故郷に帰るような話です。しかし、私たちはこうも思います。そんなに私は愚かではない。しかし、これは神からの視点の話です。神の前で、私たちは、自分の生涯やいのちを自分勝手に使っていない、無為に消費していない、完全に計画通りである、そう言いきれるものでしょうか。
3. 子とされる恵み
なぜ弟はこうも簡単にゆるされたのでしょうか。なぜなら父と子の話だからです。しかし、神と私たちの関係はいかなるものでしょうか。私たちと神との関係は、神とその神に背く罪人の関係です。なぜイエスはこのたとえを語られたのでしょうか。なぜなら、その話を語ることのできる理由と権威がキリストにはあったからです。キリストによって、キリストを通して、あなたも神の子となることができるからです。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12)」イエスは、私たちの罪を背負い、その身代わりとして十字架で死なれます。私たちは罪人から神の子となるのです。キリストが私たちに与えられたのは、私たちが神の子となるためです。そして私たちは父なる神のもとへと帰ることができるのです。それは、私たちの本当の居場所に帰ることなのです。ともに帰るべき場所へと帰らせていただきましょう。
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メインページへ2009/12/13礼拝メッセージ
2009年12月13日礼拝のメッセージ要約です。
「キリスト-あなたを招く方-」
マタイの福音書11:25~30
イザヤ書46:1~4
1. 神のことばであるキリスト
イエス・キリストは、神のことばであると聖書には記されています。それは、神の意思を直接あらわす方であり、神のみおしえを語り、神の約束そのものであるという意味でもあります。「すべてのものは、この方によって造られた」ともあります。いのちはイエス・キリストにあってその意味が解き明かされるというのです。この方にこそいのちそのものがあり、この方に信頼すればするほど、私たちは希望のない所に希望を見出すことになるでしょう。
2. キリストのことば
「そのときイエスは、こう言われた。」この記事は、すでにイエスが神から遣わされたメシアとしての働きをしているときのことです。イエスは、メシアとしての姿を人々にあらわしていました。多くの人々の病を癒し、弱さを覚えている者、貧しい者たちに、神の希望が来たことを、イエスは宣言しました。しかし、人々は悔い改めませんでした。イエスは人々に真のいのちと希望を与えるために来られました。しかし、その希望を得るためには、どうしても人間が通らなくてはならない道がありました。それは、人間のおかれた悲惨さに気づくことでした。人間の罪深さを自覚しなくてはならないのです。しかし、その事の深刻さに私たちはなかなか気がつきません。実は、神が私たちのことを忍耐されている現実を私たちは知らないでいるのです。そこから神に向くことこそ、悔い改めることです。悔い改めに年齢は関係ありません。問題はどちらの方向を向いているか、ということなのです。
3. キリストの招き
信じるということは、声を聞き分けることです。自分に対して、語られている神の声に気がつき、そしてそちらの方へと向かっていく、それが信じるということです。信仰というのは応答です。神があなたを呼んでおられる、その呼びかけへの応答です。ここでキリストはこう招いておられます。「わたしのところに来なさい。」「わたしのくびきを負いなさい。」「わたしから学びなさい。」これはすべての人に語られた招きです。その招きに応えるときに、私たちに神からの平安と安らぎが与えられるのです。キリストが私たちの重荷を負ってくださり、また私たちはキリストによって示されて歩んでいく生涯が、信じる人に与えられるのです。
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2009年12月6日礼拝のメッセージ要約です。
「キリスト-インマヌエルの主ー」
イザヤ書7:14
イザヤ書8:22~9:2
ルカの福音書2:1~7
1. 私たちの存在
私たちの存在は、私たちが思うほどに安定していないのかもしれません。ふとした時に、自分の足元がぐらぐらと揺れ動くことがあります。聖書が語る神から離れた人間は、はかなさの中で生きなくてはならない存在となってしまったと教えます(創世記3:19)。私たちはちりに過ぎないと。しかし、私たちはちりに過ぎないものですが、ちりに帰るだけの運命を容易に受け入れることのできないものでもあります。なぜなら私たちの中には、「神のいのちの息」が吹き込まれているからです(創世記2:7)。私たちは神の作品であり、本来神と息を合わせて生きる存在なのです。しかし、私たちはあるべきところを失ってしまった状態なのです。
2. 人の悲惨
ただ生きて死に、ちりに帰る。それが人間のもつ悲惨さです。しかし、私たちは神について考え、また思いをめぐらせることもできます。私たちはこの世界にあって稀有な存在です。自らの悲惨を知りながら、天を思う存在です。聖書は私たちにこう語りかけます。「あなたがたは確かにちりに帰らなくてはいけない運命を持ちながら、それをただ受け入れなくてはならない悲惨さを持っている。しかし、その悲惨さを持ちながら、まことの神を知り救いを求めるならば、その悲惨さから救われる。」この人間の悲惨な現実と神が伸ばした救いの御手が交錯する地点こそが、イエス・キリストです。
3. インマヌエルの主
私たちは、この神の語りかけに気がつかない限り、神がどのような方を知ることはできません。神のことばの表れこそが「イエス・キリスト」です。イエスは神と等しい方であり、その存在とことばは、神ご自身をもっともよく表しています。それと同時に、イエスは私たちと変わらない人であったというのです。キリストを前にして問われるのは、私たち自身の本当の姿と神への信仰です。キリストの誕生シーンにおいても示されたのは、救い主が来た現実の悲惨さと、その現実をともに担おうとされる神の姿です。イエス・キリストは、私たちの悲惨をともに背負われようとしている「インマヌエル(神がともにおられる)の主」の御姿なのです。
投稿者 mb-church : 08:38
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2009/11/29礼拝メッセージ
2009年11月29日礼拝のメッセージ要約です。
「キリスト-ほふられた小羊-」
レビ記1:1~4
ペテロの手紙第一1:18~20
1. 私たちの存在
聖書は世の初めを記しています。私たちが神によって創造されたということ、そして私たちがその直後に、創造主にそむき、自分を神として人間が勝手に歩みをすすめているということが明らかにされています。つまり人間は、その存在の出発点を失い、本当に帰るべき故郷(ふるさと)を失ってしまった状態なのです。聖書の根本的なテーマは、私たちがこの生涯を通して、まことの神と再び出会い、神のもとへと帰る、本当の故郷へとたどり着くということにあります。
2. 神のかたちと罪
神は人間を「神のかたち」に創造しました(創世記1:27)。「かたち」とは、私たちの人格、性質、こころを指しています。神はなぜ人間を神のかたちとして創造されたのでしょうか。なぜなら、神はご自分の栄光を私たちに表し、すばらしい世界をともに分かち合おうとされたからです。しかし、私たちは神のものであることを忘れ、神のみこころに反し、自己中心へと陥ってしまいました。これこそが神に対する罪責なのです。私たちは神から離反してしまったがゆえに、苦痛と病と死の恐怖に苛むようになってしまったと聖書は語ります。私たちの求めは、神でなくては答えることのできないものです。しかし、私たちは、神を求めれば求めるほど、神から遠ざかる現実をも見出すことになります。なぜなら、私たちの中には、神と相反する「罪」があるからです。私たちの思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなってしまったのです(ローマ1:20,21)。神と私たちとの間には深い断絶があるのです。
3. 小羊イエス
旧約聖書には「いけにえ」の規定が記されています。ここに表されたのは、人と人との取り決めではありません。神の前に人が償うべき内容です。それは「いのち」そのものです。神と正しい関係を持つために、動物のいのちをささげることが指示されています。しかし、それは最良のいけにえであっても不完全なものです。私たち自身とはイコールではないからです。それゆえに神は、イエスを私たちに送ってくださいました。私たち以上の犠牲としてイエスが私たちに送られたのです。キリストは十字架に架けられ殺されます。それは、まさにほふられたいけにえそのものです。イエスを信じるということは、この方が私の身代わりに犠牲になってくださったということを信じることです。そのときに、私たちは、神に完全にゆるされ、神との新しい関係に入ることができるのです。
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2009年11月22日礼拝のメッセージ要約です。
「すべてキリストのゆえに」
ピリピ3:4~9
1. 終末
「はじめがあり、終わりがある」それが聖書の語る世界観です。私たちの世界は永遠ではありません。この事実から私たちは目をそらしてはなりません。大きな視野に立つならば、この世界のはじまりと終わりがあるということになります。もっと小さな範囲では、私たち自身のいのちのはじまりと終わりがあります。人間という存在は、はじまりと終わりを意識して生きる存在です。終末が問われる時に、私たちは自分という存在が量られることにもなります。今日の箇所で、パウロは自分自身のことを証言しています。ここで彼が言っていることを短く言い表すならばこうなります。自分はユダヤ人であれば非の打ち所のない生まれと実績である。しかし、彼はここで自らの存在を決めるのは、そのようなものではないと言います。終わりの時に、ものを言うのはこれらのものではないのです。
2. 存在の救い
今日の箇所が私たちに問いかけるのは、あなたの存在は何によって救われるのか、あなたは終わりの時に何によってしっかりと立つことができるのか、ということです。パウロはここで、昔の自分と、今の自分を比べています。昔の自分は、自らの生まれや能力、実績、評価、それによって自分は立っていたと証言しています。しかし、それらのことが自分を救ってくれるわけではないことに気がつくのです。私たちがいのちを問われるとき、つまり終末を迎えるとき、それは神の前に立つときであると聖書は言います。パウロはその存在の救いの鍵が「キリスト・イエス」にあると指し示しています。
3. 神の義
終わりのときに問われるのは、神の前の義であると聖書は語ります。神の前に正しいものとされる、それが義です。それは神との関係が正しいものとなるという意味です。神との関係が正しくなければ、私たちは自分の存在の意味を失い、またはじまりも終わりも見極めることができなくなります。聖書において、神の義と救いはセットとして語られます。神からの救い、また真の希望は、神との関係が正しくなることからもたらされる、それが私たちに与えられた道筋です。どうすれば、神と正しい関係を持つことができるのでしょうか。イエス・キリストはこのように語りました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)」。このイエス・キリストを知り、そしていのちを得させていただきましょう。
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2009/11/1礼拝メッセージ
2009年11月1日礼拝のメッセージ要約です。
「牧会者の思い」
ピリピ2:16~18
1. 牧会者
群れを導く者が牧会者です。その模範となる姿は、よき羊飼いである神ご自身の姿です(詩篇23)。またそれはキリストご自身の姿とも重なります(Ⅰペテロ2:25)。イエス・キリストこそ、教会の大牧者です。牧師もまたキリストにある羊の群れの一員です。しかし牧師はその群れの「牧会者」として立てられてもいます。パウロはこの時代における牧会者の代表です。パウロが牧会者として語ったことは次の三点です(使徒20:17~35)。一つは、最後までそれぞれに備えられた生涯を神の喜ばれるものとして歩んで欲しいということ。二つ目にそのためにみことばから正しい教え(教理)を学び、そこに立ち続けるようにということ。そして三つ目に、教会において「受けるよりも与えるものとなり」、「互いに仕えること」に生きるようにということ、この三点です。
2. パウロの思い
ピリピの手紙においてパウロは牧会者としてのありのままの言葉をつづっています。ピリピの教会の人々が、キリストの福音にふさわしく生きるように、また互いに仕えあい、互いにを尊重しあい、へりくだるように。自己中心から解き放たれ、互いに関心を持ち、キリストの姿に倣い、十字架の福音に立ち続けるように。そして、キリストの教会が、終わりの時まで、神のみこころにかなうものとなるように。教会の一人一人がこのように歩むことを、パウロは心から願っています。彼の喜びと目標はどこにあったのでしょうか?それは教会が大きくなることでも、また教会が経済的に豊かになることでもありませんでした。そうではなく、教会がみことばに堅く立ち、正しい教えを学び、またキリストのことばとキリストの姿にあらわされた互いに仕えあうものたちとして歩んで欲しいということだったのです。
3. キリストの願い
これは実はパウロの願いにとどまらないものです。これはキリストご自身の願いでもあります。私たちの周りには様々な決断が日々迫っています。何を着るか、何を食べるかからはじまり、どのように時間を使うか、何をなすか、どのようにお金を用いるか、究極的には与えられたこの生涯をどのように用いるか。そこには様々な決断が求められています。だからこそ、私たちは委ねられた決断を、神に喜ばれ受け入れられるものとしなくてはなりません。私たちも牧会者キリストともに、互いに喜びを分かち合い、歩んでまいりましょう。
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2009/10/25礼拝メッセージ
2009年10月25日礼拝のメッセージ要約です。
「つぶやかずに、うたがわずに」
ピリピ2:14~16
1. つぶやき
私たちはどんな時につぶやき、神を疑うのでしょうか?私たちは、願いどおりに事が運び、状況が好転した時には神に感謝できます。その逆の時にはつぶやくことになるでしょう。「つぶやく民」とは、まさにエジプトから脱出したイスラエルの民を思い出す言葉です。奴隷から救いだされ自由の民となったイスラエル。しかし彼らはその途上でつぶやきます。「救われた」という事実を忘れ、すぐに目の前の困難な状況に目を奪われてしまうのです。これは私たち自身の姿でもあるでしょう。しかし、パウロはここでこう言うのです。「つぶやかず、疑わずに行いなさい。」ピリピの教会もまた、思わしくない状況を前につぶやいていました。この言葉は実にはっとさせる言葉です。今つぶやいている只中にいる自分に気づかせることばです。みことばは、私たちに「つぶやき続けること」に対して警告を与えています。
2. 神の視野
「それは、曲がった邪悪な世代のただ中にあって、あなたがたが非難されるところのない純真な者となり、傷のない神の子どもとなるためです。あなたがたは彼らの間で、いのちの言葉をしっかり握り、世の光として輝いています。」これは神にあるゴールを示す言葉です。私たちの状況や社会は、決して楽なものではありません。また困難が伴うものでもあるでしょう。そのような中にあって、私たちにはゴールが指し示されています。それは「神の国」の到来です。私たちはキリストに贖われ、すでに神の国の国籍が与えられています。だからこそ、私たちはまだ神の国が完全には完成していない闇の世の中で、ゴールに向かって歩みを進めるのです。
3. 世の光である私たち
私たちはこの世の中で、いのちの言葉をしっかり握り、世の光として輝いていると言われています。これは未来のことではなく、今世の光として輝いているという言葉です。私たちは福音のことばを聴き、救いを得た今、もう世の光として輝いているのです。なぜ、私たちは「純真な者」「神の子ども」となることへと歩みを進めていくのでしょうか。到底これらのことは、努力や思いだけで到達できるものではありません。まさに十字架の恵みによって、これらのことは達成されるのです。これは神の約束であり、希望の言葉です。ここに私たちが目を留め続けるときに、つぶやき続ける者ではなく、希望を告白する者へと変えられていくのです。
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2009年10月18日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ2:12~13
「恵みに立ち続けるということ」
1. パウロの勧め
ピリピの教会に対してパウロは次のことを勧めて来ました。「福音にふさわしい生活をしなさい。」その具体的なあり方がへりくだり、互いに愛し合う生き方でした。その生き方をなすのは、自らの力ではなく、十字架のキリストにあることをパウロは示してきました。そのキリストの姿と神の救いをはっきりと覚えた今「そういうわけですから」とパウロはさらに筆を進めます。以前、ピリピの教会にパウロがいた時も、また不在の今はなおさらのこと従順でいなさいとパウロは勧めます。「従順」とは神に対するものです。ここでパウロは、神に対する誠実なあり方を教会の人々に求めています。
2. 救いの達成
問題はこの言葉です。「自分の救いの達成に努めなさい。」結局、救いは努力が必要なであるかのように受け取れる言葉です。しかしそうではありません。ここの「救い」は、個々人の救いではなく、むしろ教会の成熟と完成、神の国への到達を意味しています。教会が目指すゴールとして「救い」という言葉が用いられています。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」と記されています。「あなたがのうち」とは、心の中という意味ではなく、あなたがたの間、つまり教会のことです。それではこの志とは何でしょうか。これは、私たちが、キリストの福音にふさわしく生きたいと願うこと、そのものです。
3. よきわざ
ウェストミンスター信仰基準にはこうあります。「彼らがよきわざをする能力は、全然自分自身によるものではなくて、全くキリストのみたまからのものである。そして彼らがよきわざをすることができるためには、すでに受けている恵みのほかに、彼らのうちに働いて、み心のままに願いを起こさせ実現に至らせる同じみたまの実際の作用が必要である。しかし、みたまの特別な活動がなければ、何の義務も果たす責任がないかのように、ここで怠惰になってしまってはならない。むしろ彼らは、自分の中にある神の恵みをかき立てることに勤勉でなければならない。」私たちが「よきわざ」に向かうのは、決して私たちの力や能力によるものではありません。それは教会に働く聖霊のみわざです。私たちによきことへの思いを与え、励ましを与えてくださっているのは、まさに神ご自身なのです。ともにこの神の恵みに立って進んでまいりましょう。
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2009/10/11礼拝メッセージ
2009年10月11日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ2:6~11
「キリスト讃歌Ⅱ」
1. キリスト讃歌
キリスト賛歌の前半に歌われていたのは、神と等しい方であったキリストが、そのあり方を捨て、人となられ、しもべとなられ、そして十字架の死にまでも従われたことでした。この私のために、神がしもべとなられた・・・その姿こそ神の愛の顕れであることを見ました。その逆に私たちは、自分たちに与えられている様々な特権を簡単には捨てることはできないものたちです。しかし、その多くは、私たちの手で得られたものではないことに気がつかなくてはなりません。神の前に立つときに、私たちがどこから来て、そして今どこにいるのか、さらにどこへと向かうのかが問われます。キリスト讃歌の後半は、イエスがどこに行ったのかということが描かれています。
2. 高くあげられたイエス
イエスは、神から来て、地にくだり、そしてどこへ行ったのでしょうか。神はイエスを高く上げた、とあります。聖書に、特にキリストのことばの中には、小さい者、幼い者、力のないもの、弱いものこそが幸いであると語られています。明らかに神は低いものが高くされると言っています。「それゆえ神は、この方を高く上げて」とあります。これはキリストが十字架の死の後、復活し、そして天に上げられたことを歌ったものです。私たちは、この言葉をどう受け取るでしょうか?
3. 神の救い
キリストを私たちが見れば見るほど、そこに神のみこころを私たちは見出します。十字架の現場を見るときに、そこに何の救いがあろうかと人々は考えます。人間が考える救い、それは、目に見える形での勝利であり、平和であり、成功です。しかし、神が与える救いは何でしょうか。それは絶望の先にある神の御手の確かさ、です。神の子キリストが私たちのしもべとなられたがゆえに、神は、この方を最も高くされました。これが神がご覧になっているものです。ここに語られているのは、見せかけの謙遜さではありません。すべてを投げ打ち、神の御前にひざまずくしもべの姿です。私たちは、完全にこのキリストのようには、生きることはできないでしょう。しかし、このキリストの姿をまっすぐに見るときに、私たちは自らの高慢さ、愚かさを見せつけられます。そして神の前の真の謙遜へと導かれるのです。そのような者を神は引き上げられます。神の前にひざまずき、へりくだらせていただきましょう。
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メインページへ2009/10/4礼拝メッセージ
2009年10月4日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ2:5~11
「キリスト讃歌Ⅰ」
1. 私たちの課題
福音にふさわしいあり方。皆さんにとってそれはどのような生き方を指しているでしょうか。私たちが取り組む課題とは、私たちの生き方がキリストの福音にふさわしいものとなっているだろうか、という問いにあります。そしてそれは私たちの「動機」を問うものでもあります。あなたがキリストを救い主として信じたときに、自分を中心とする罪から解放され、キリストにあるものとなっている、その宣言こそが福音のことばです。しかし、私たちはその福音の中心からずれてしまう者たちです。ですからパウロは、キリストの姿をあなたがたのうちにはっきりと描くようにと勧めています。
2. キリスト讃歌
キリスト・イエスにあるものこそ、このような考えを持つべきであるとパウロは言います。キリストを中心とするときに、私たちに自分の力や知恵では得ることのできないことが与えられます。イエス・キリストにあるものたちが、常に思うべき私たちの主の姿がここで歌われています。それが「キリスト讃歌」です。この詩には明らかな対比があります。その対比は「キリストは神の御姿である方なのに、仕える者の姿をとった」ということです。神と等しい方が、そのことに固執されないで、つまりそれを捨てられました。ここにある賛美の言葉の一つは、キリストがご自分の立場を捨てられたということです。さらに自分を無にし、人間と同じところに降られたということ。十字架の死にまでも降っていたその姿。この詩を讃美するときに、彼の心は震えたことでしょう。
3. キリストの謙遜
なぜ神である方が、私たちのところに来られたのでしょうか。キリストの姿に現されたのは、神の愛のもっとも具体的なあらわれでした。キリストがその力を一度でも自分のために行使したことがあったでしょうか。すべては父なる神のため、そして私たちのためでした。このことはいったい誰のためであったのか。これが重要かつ重大なポイントです。ただこれを、キリストの高潔な生涯であるとしては意味がありません。それはまさに「この私」のためなのです。私たちがイエス・キリストを仰ぎ見るときに見出すのは、神は私のために大いなる犠牲を払われる方であるということです。つまりそれこそが神の愛なのです。私たちのいのちの原動力はここに見出されるのです。
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メインページへ2009/9/27礼拝メッセージ
2009年9月27日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ2:1~5
「キリスト者の心構え」
1. 「こういうわけですから…」
直前の箇所にはこうありました。「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい」という言葉がそこにはあります。それはただ倫理的、道徳的に正しい生活を指しているのではありません。ただ十字架のキリストによって罪許され、神の民となったものとしてふさわしいあり方、そのことをパウロは私たちに訴えかけたのでした。パウロはさらに教会の現状に踏み込んでいきます。ここは短いフレーズが連続して記されています。「もし、キリストにある励ましが、もし、愛の慰めが、もし、御霊の交わりが、もし、愛情とあわれみが、あなたにあるのなら・・・」キリストの福音を私たちが知るときに、励ましと慰めにあふれた神との交わりを経験することになるでしょう。
2. パウロの喜び
パウロは続けます。「私の喜びが満たされるように・・・」と。パウロは「神の喜びが満たされるように」とは言いませんでした。彼の喜びは自分を満足させるということにはありませんでした。彼の喜びは、教会が神の前に正しく、キリスの福音にふさわしく歩むことにあります。彼の喜びは、自己中心や虚栄にあったわけではありません。しかし、パウロに敵するものたちは「神の喜びが満たされるように」と言いながら、その実体は自らが賞賛されることを喜びとするというむなしいあり方でした。そのような言葉や表面的には正しそうなあり方をパウロは否定します。
3. 教会の一致
そしてパウロは教会に一致を勧めます。長く教会の課題となっている事柄です。一致を別の言葉にするならば「平和」という言葉になるでしょう。これは教会だけではなく、すべての人にとっての重要な課題です。パウロは言います。「あなたがたは同じことを思い、同じ愛を持ち、心を合わせて一つのことを思うために」と。平和の土台をどこに置くかが私たちの問題です。どちらかの側にその土台を置くのではありません。パウロが指し示したのは「イエス・キリスト」でした。パウロは、キリストにあるクリスチャンの態度をこのように記しています。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりも優れた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」すばらしい在り方です。私たちの弱さに根拠を置くのではなく、キリストに土台を置くときに、私たちの間に一致が与えられるのです。
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2009/9/20礼拝メッセージ
2009年9月20日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:27~30
「福音にふさわしく生きる」
1. 苦しみの意味
私たちは、苦しみの意味がどこにあるのか問うものです。なぜ私がこのような苦しみを負わなくてはならないのか。私だけがなぜ?私たちはそのことに何とか説明をつけようと思うものです。しかし多くの説明は一時的なものです。神のことばである聖書は、表面的な回避方法を与えるものではありません。
2. パウロの苦しみ
なぜパウロは投獄されているのでしょうか。なぜピリピの教会も苦境に立たされているのでしょうか。周囲の人はこのように言うでしょう。「律法を守り、正しい行いをすることによってのみその苦境から救われる。」しかし、パウロはここではっきりと語ります。「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」ここでパウロがすすめているのは、ただ正しい生活をすることではありません。キリストの福音にふさわしい生き方が勧められているのです。
3. キリストの福音にふさわしい生き方
福音にふさわしい生き方とはいったい何でしょうか。ただイエス・キリストのみを主と告白することによって、何事にもぶれずに立つということ。さらに、一つ心において主イエスを信じる信仰のために闘っていること。「信仰による救い」この点において、私たちは簡単にゆりうごかされます。何か自分が正しいことをすることが救いにつながる。何か自分が間違っているから、救いが遠くなっていく・・・そうではないのです。私たちの目の前に起こる一つ一つの出来事は、すべて神と無関係なことではありません。私たちは苦難や試練において、神への信仰と救い主キリストへの信頼が第一に問われるのです。神が私たちに求めているのは「信仰」です。あなたは何を神とし、何に信頼し、何に希望を置くのか、そのことが私たちには問われています。
4. キリストのための苦しみ
パウロは、なぜ自分が苦しみを負っているのか、そのことを知っていました。キリストの十字架の不思議はここにあります。あなたの生きる際の苦しみや試練は、ただの苦難ではもはやありません。「賜った」という言葉は、恵みとして与えられたという言葉です。パウロは、キリストの苦しみが、恵みとして与えられているのだと語ります。あなたの今受けている試練は苦しみは、神にあって意味のあるものなのです。
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メインページへ2009/9/13礼拝メッセージ
2009年9月13日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:20~26
「生きるにも死ぬにも」
1. 「私にとって生きることはキリスト、死ぬことも益です。」
パウロは、ここで生きることと死ぬことを天秤にかけているかのようです。この手紙を読み進めてくると、パウロのもどかしさも同時に伝わってきます。自由にならない状況や耳に入ってくる教会を取り巻く不穏な情報がありました。このようなすっきりとしない状況がパウロを取り巻いていました。なぜパウロはこの手紙を書いたのでしょうか。彼の執筆の動機は、教会が誤った立ち位置ではなく、キリストにある立つべき場所にしっかりと立って欲しいという思いでした。
2. 「死ぬことも益である」
パウロはここで自らのいのちは「キリスト」であると言っています。そして、さらに彼はこのように言い表します。「だから死ぬことも益であると。」ここでパウロが触れている「死」は、たとえもし死ぬことがこの先にあったとしても、ということです。パウロはこうも言います。「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。」片方では、いのちが続くのであれば、それはそれで豊かな実を結ぶことになる・・・しかし、もう片方の死という状況であったとしても、それはむしろ自分にとっては、世を去ってキリストとともにいることになる、ゆえにそれはさらにすばらしいことである・・・つまりパウロは「どちらでも大丈夫なんだ」と言っているのです。私たちの最も大事なアイデンティティはすでに神とともにあるとパウロは捉えています。神から喜びと平安が与えられ続ける、それがクリスチャンに与えられた特権の一つなのです。
3. 「今を生きる」
生きること、死ぬこと、そのどちらでも大丈夫なのだと語った後に、パウロが言うのは、だからこそ、今与えられているいのちを精一杯生きる、ということです。さらに付け加えるとするならば、誰のために生きるのか、ということです。ここで、パウロが求めているのは自分自身の利益ではありません。彼が求めているのは、教会にとってよいこととは何かでした。ただ自らの利益のために、彼は生きていたのではありません。ただキリストのためであり、その具体的なあらわれが「あなたがたのため」でした。「生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられること」に彼は立っていたのです。この言葉に私たちは聞き続け、それぞれの生き方の立ち位置を、確認し、修正してまいりましょう。
投稿者 mb-church : 14:10
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2009年9月6日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:18~20
「どんなときであっても」
1. いかなる時であっても
パウロが、どのような状況においても喜びを得ていた、その秘訣を私たちはともにこの手紙から学んでいます。パウロの喜びの第一番目の理由は、自分がたとい牢獄につながれていたとしても、キリストが宣べ伝えられている、そこに目を留めているからだ、と彼は言いました。それはいつでも、どこにおいても、神の大いなる御手を認めていた姿です。しかし、このパウロのことばを聴いて、おそらくこう言う人がいたことでしょう。「パウロは強がりをいっているに過ぎない。」
2. 喜びの源泉
パウロは、そのような人がいることをも知っていました。パウロはここで、さらに自らの喜びがどこから来るのかを明らかにしていきます。「というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。」「このこと」とは何を指しているのでしょうか。それはパウロの身に起こったことや困難です。それが私の救いとなる・・・?ある人は「解放される」ということだとする人もいます。問題はパウロにとっての救いとは何か?ということになります。根本的なことが問われる言葉です。皆さんが問われたら何と答えるでしょうか?現実的な問題が解決すること、そう思うことが悪いのではありません。しかし、ここでパウロは目の前にある困難から救われることだけを「救い」と言っているのではありません。
3. パウロの救い
パウロはここでこのように語ります。「生きるにも死ぬにも」つまりどんなときでも、どんな状態にあったとしても、私の身によってキリストがあがめられること、これこそが彼の願いなのです。キリストがあがめられる時、それはいつでしょうか?それは彼の行った奇跡ゆえではありません。それはキリストの十字架の犠牲のゆえです。十字架の死と復活、それは私たちの根源的な罪の赦しと、私たちが抱えた死という絶望をひっくり返す逆転する力です。どんなに目の前に困難な出来事が起きようとも、それがたとえ死ということであったとしても、キリストがその死に打ち勝ったように、やがては完全な救いへと導かれる・・・だからこそ、パウロは、ここでこう語るのです。「このことが私の救いとなることを私は知っている」と。そして、この信仰は、人の努力や知恵によって得られるのではありません。私たちは私たちのうちに働く聖霊の助けによって、キリストにある希望が与えられ続けていくのです。
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2009/8/23礼拝メッセージ
2009年8月16日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:12~18
「喜びの秘訣」
1. 喜びの人
この箇所のテーマは「どのような状況においても喜び続ける秘訣」です。聖書にはいかなる状況においても、喜ぶことのできた人が登場します。その代表者はパウロです。この箇所でパウロは言います。「私は喜んでいる。いや、これからも喜ぶだろう。」では、パウロはこのときに何を喜んでいたのでしょうか?
2. 獄中のパウロ
この手紙を書いているパウロの今は獄中です。これはパウロ自身も、ピリピの教会の人々も喜べる状況ではありませんでした。この箇所には、パウロの周囲にいた人々の反応が記されています。その反応は二つでした。一方の人々は、ねたみや争いが心を支配していました。また一方は善意、愛を動機としてキリストを宣べ伝える人々がいたと言っています。パウロはこのような人々がいることを牢獄の中で耳にしました。しかし、パウロはこんな境遇の時にあっても、別のものを見ていました。それはイエス・キリストが宣べ伝えられているという現実です。彼の力を超えたところで、神のことばは確かに語られていました。その現実をパウロは見ていたのです。
3. ピリピでのパウロ
ピリピの教会がスタートする時のきっかけの一つは、このパウロの投獄でした。ピリピの教会はいわば牢獄からはじまったのです。パウロもピリピの教会の人々も、人の考えを超えた神の計画が、一見困難に見える状況のうちにもあることを知っていました。パウロは投獄されていたときに、牢屋の中で祈り、賛美をしていました。彼はこの状況下で、神を礼拝していたのです。この礼拝者としてのあり方が、パウロの人格を形成していきました。
4. 喜び続ける秘訣
一つは、「主のみ手にゆだねる」ということです。二つ目に、何を一番にしているのかを問う、ということです。三つ目に、「キリストのゆえに」という信仰です。パウロはすべてのことを「キリストのゆえに」受け止めています。今、目の前に起こっていることすべては、「キリストのゆえ、主にあって」のことでした。目の前にある状況は、ただの不幸ではない、すべてがキリストのゆえのものであるとパウロは受け止めていました。この態度は、一日にして完成したものではありません。日々の神様との交わり、そして神礼拝こそが喜び続ける秘訣なのです。
[考えるために]
パウロの在り方は、どのような歩みの中で育まれたのでしょうか?
投稿者 mb-church : 10:17
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2009年8月16日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:9~11
「教会のための祈り」
1. 教会のための祈り
この箇所はパウロが祈った「教会のための祈り」です。それは主イエスが私たちのために祈った祈りと重なるものです。パウロは二つのことを神に祈り請い願います。一つ目は愛を求める祈りです。そして、二つ目は、愛に根ざした神の聖さ(義)を求める祈りです。
2. 愛を求める祈り
「あなたがたの愛」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。とかく愛は感情の問題であると捉える傾向があります。現代においてはヒューマニズムが強い影響力を持っています。しかし、パウロが祈りに覚えている「あなたがたの愛」はそのような愛ではありません。これは「アガペー」のことです。アガペーの愛は人間の側から自然に生まれるものではありません。アガペーの愛は、見返りを求めない無償の愛、「神の愛」のことです。「あなたがたの愛」とは、あなたがたに神が与えた愛、という意味です。まさにそれはキリストを通して示された無償の愛そのものです。さらにパウロは祈ります。愛が豊かになるということは、実は真の知識が問題であると。聖書における「知識」の源泉はどこにあるでしょうか。それは神のことばです。真の知識、それは聖書によって示された主イエス・キリストのことです。私たちは愛について、神抜き、イエス抜き、聖書抜きにしたときに、どれほどの知恵を手に入れることができるのでしょうか。神が私たちを形作り、キリストを私たちに下さった愛によって私たちを愛している・・・そこから私たちは出発しなくてはならないのです。
3. 聖さを求める祈り
さらにパウロは祈ります。義の実に満たされるように。義の実とは何でしょうか。「義」これは神の聖さや神の正しさ、よきこと、良き行い、それらすべてに関わる言葉です。神の義はどのように示されたのでしょうか。それは愛と同様です。やはりイエス・キリストその人です。パウロは、教会がまさにキリストご自身の生き方、ことば、あり方をあらわすものとなるようにと祈っています。義の実に満たされるとは、教会がキリストの姿をあらわすものとなることに他なりません。そしてそれこそが、教会に、そして私たちに与えられている使命でもあるでしょう。とてもハードルの高い、また目標の高い使命です。私たちはできるかできないかではなく、まず神の義を祈り願うことが求められているのです。私たちも願い、互いに祈りあってまいりましょう。
[考えるために]
パウロは何を神に祈り願ったのでしょうか?
投稿者 mb-church : 09:48 | コメント (0) | トラックバック
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2009年8月16日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:9~11
「教会のための祈り」
1. 教会のための祈り
この箇所はパウロが祈った「教会のための祈り」です。それは主イエスが私たちのために祈った祈りと重なるものです。パウロは二つのことを神に祈り請い願います。一つ目は愛を求める祈りです。そして、二つ目は、愛に根ざした神の聖さ(義)を求める祈りです。
2. 愛を求める祈り
「あなたがたの愛」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。とかく愛は感情の問題であると捉える傾向があります。現代においてはヒューマニズムが強い影響力を持っています。しかし、パウロが祈りに覚えている「あなたがたの愛」はそのような愛ではありません。これは「アガペー」のことです。アガペーの愛は人間の側から自然に生まれるものではありません。アガペーの愛は、見返りを求めない無償の愛、「神の愛」のことです。「あなたがたの愛」とは、あなたがたに神が与えた愛、という意味です。まさにそれはキリストを通して示された無償の愛そのものです。さらにパウロは祈ります。愛が豊かになるということは、実は真の知識が問題であると。聖書における「知識」の源泉はどこにあるでしょうか。それは神のことばです。真の知識、それは聖書によって示された主イエス・キリストのことです。私たちは愛について、神抜き、イエス抜き、聖書抜きにしたときに、どれほどの知恵を手に入れることができるのでしょうか。神が私たちを形作り、キリストを私たちに下さった愛によって私たちを愛している・・・そこから私たちは出発しなくてはならないのです。
3. 聖さを求める祈り
さらにパウロは祈ります。義の実に満たされるように。義の実とは何でしょうか。「義」これは神の聖さや神の正しさ、よきこと、良き行い、それらすべてに関わる言葉です。神の義はどのように示されたのでしょうか。それは愛と同様です。やはりイエス・キリストその人です。パウロは、教会がまさにキリストご自身の生き方、ことば、あり方をあらわすものとなるようにと祈っています。義の実に満たされるとは、教会がキリストの姿をあらわすものとなることに他なりません。そしてそれこそが、教会に、そして私たちに与えられている使命でもあるでしょう。とてもハードルの高い、また目標の高い使命です。私たちはできるかできないかではなく、まず神の義を祈り願うことが求められているのです。私たちも願い、互いに祈りあってまいりましょう。
[考えるために]
パウロは何を神に祈り願ったのでしょうか?
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2009年8月16日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:9~11
「教会のための祈り」
1. 教会のための祈り
この箇所はパウロが祈った「教会のための祈り」です。それは主イエスが私たちのために祈った祈りと重なるものです。パウロは二つのことを神に祈り請い願います。一つ目は愛を求める祈りです。そして、二つ目は、愛に根ざした神の聖さ(義)を求める祈りです。
2. 愛を求める祈り
「あなたがたの愛」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。とかく愛は感情の問題であると捉える傾向があります。現代においてはヒューマニズムが強い影響力を持っています。しかし、パウロが祈りに覚えている「あなたがたの愛」はそのような愛ではありません。これは「アガペー」のことです。アガペーの愛は人間の側から自然に生まれるものではありません。アガペーの愛は、見返りを求めない無償の愛、「神の愛」のことです。「あなたがたの愛」とは、あなたがたに神が与えた愛、という意味です。まさにそれはキリストを通して示された無償の愛そのものです。さらにパウロは祈ります。愛が豊かになるということは、実は真の知識が問題であると。聖書における「知識」の源泉はどこにあるでしょうか。それは神のことばです。真の知識、それは聖書によって示された主イエス・キリストのことです。私たちは愛について、神抜き、イエス抜き、聖書抜きにしたときに、どれほどの知恵を手に入れることができるのでしょうか。神が私たちを形作り、キリストを私たちに下さった愛によって私たちを愛している・・・そこから私たちは出発しなくてはならないのです。
3. 聖さを求める祈り
さらにパウロは祈ります。義の実に満たされるように。義の実とは何でしょうか。「義」これは神の聖さや神の正しさ、よきこと、良き行い、それらすべてに関わる言葉です。神の義はどのように示されたのでしょうか。それは愛と同様です。やはりイエス・キリストその人です。パウロは、教会がまさにキリストご自身の生き方、ことば、あり方をあらわすものとなるようにと祈っています。義の実に満たされるとは、教会がキリストの姿をあらわすものとなることに他なりません。そしてそれこそが、教会に、そして私たちに与えられている使命でもあるでしょう。とてもハードルの高い、また目標の高い使命です。私たちはできるかできないかではなく、まず神の義を祈り願うことが求められているのです。私たちも願い、互いに祈りあってまいりましょう。
[考えるために]
パウロは何を神に祈り願ったのでしょうか?
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2009年8月16日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:9~11
「教会のための祈り」
1. 教会のための祈り
この箇所はパウロが祈った「教会のための祈り」です。それは主イエスが私たちのために祈った祈りと重なるものです。パウロは二つのことを神に祈り請い願います。一つ目は愛を求める祈りです。そして、二つ目は、愛に根ざした神の聖さ(義)を求める祈りです。
2. 愛を求める祈り
「あなたがたの愛」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。とかく愛は感情の問題であると捉える傾向があります。現代においてはヒューマニズムが強い影響力を持っています。しかし、パウロが祈りに覚えている「あなたがたの愛」はそのような愛ではありません。これは「アガペー」のことです。アガペーの愛は人間の側から自然に生まれるものではありません。アガペーの愛は、見返りを求めない無償の愛、「神の愛」のことです。「あなたがたの愛」とは、あなたがたに神が与えた愛、という意味です。まさにそれはキリストを通して示された無償の愛そのものです。さらにパウロは祈ります。愛が豊かになるということは、実は真の知識が問題であると。聖書における「知識」の源泉はどこにあるでしょうか。それは神のことばです。真の知識、それは聖書によって示された主イエス・キリストのことです。私たちは愛について、神抜き、イエス抜き、聖書抜きにしたときに、どれほどの知恵を手に入れることができるのでしょうか。神が私たちを形作り、キリストを私たちに下さった愛によって私たちを愛している・・・そこから私たちは出発しなくてはならないのです。
3. 聖さを求める祈り
さらにパウロは祈ります。義の実に満たされるように。義の実とは何でしょうか。「義」これは神の聖さや神の正しさ、よきこと、良き行い、それらすべてに関わる言葉です。神の義はどのように示されたのでしょうか。それは愛と同様です。やはりイエス・キリストその人です。パウロは、教会がまさにキリストご自身の生き方、ことば、あり方をあらわすものとなるようにと祈っています。義の実に満たされるとは、教会がキリストの姿をあらわすものとなることに他なりません。そしてそれこそが、教会に、そして私たちに与えられている使命でもあるでしょう。とてもハードルの高い、また目標の高い使命です。私たちはできるかできないかではなく、まず神の義を祈り願うことが求められているのです。私たちも願い、互いに祈りあってまいりましょう。
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パウロは何を神に祈り願ったのでしょうか?
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2009/8/9礼拝メッセージ
2009年8月9日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:6~8
「完成させてくださる方」
1. イエスによる完成
ピリピ人への手紙は「喜び」の手紙と呼ばれています。何が喜びなのでしょうか。それは主イエス・キリストを信じているがゆえの喜び、です。ともに同じ希望を持ち、神へと、そして救いの完成へと歩みを進めていることへの喜びです。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日がくるまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」良い働きをはじめられた方は誰でしょうか。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)良い働きを始められた方はイエスです。イエス・キリストが、ご自身の日が来るまでに、それを完成してくださるというのです。良い働き(福音のコイノニア)を終わりの日まで、キリストご自身が完成し続けてくださる・・・何と力強い言葉なのでしょうか。
2. キリストにある信仰
信仰は何も難しいことではありません。聖書は救いに関して一人の方を示し続けています。イエス・キリストその方です。キリストはご自身のことをこうご自身のことばの数々をならべてみるとそれがよく分かります。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」なぜイエスなのでしょうか。大切なことは、この方が、私たちの生涯も、また教会の歩みも、そのすべてを完成し続けてくださると信じることです。
3. パウロの根拠
これまでのパウロの歩みに関して二つのことに触れています。投獄されているときと、福音を弁明し立証しているときです。そのときも、パウロとともに恵みあずかった人々が、あなたがたピリピの教会の人々であるとパウロは証言しています。ここにある恵みとは何でしょうか?「恵み」それは、主イエスを信じともに歩みだすことです。それゆえに、どのような困難な中に置かれたとしても、そこに主の守りとまたみわざを見出すことのできる者たちとなることでもあります。その恵みにパウロもまたピリピの教会も預かってきました。そのところどころにおいて、必ずキリストの福音の喜びが、完成に完成を重ねていくことになります。主イエスとともに歩みを進めるうちに、ともにおられる方の確かさを経験していくことになるのです。
投稿者 mb-church : 18:04 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2009/8/2礼拝メッセージ
2009年8月2日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:1~6
「喜びの手紙」
1. 獄中書簡
この手紙は獄中書簡と呼ばれています。この手紙はパウロが投獄されているときに記したものであるからです。この手紙を書くときに、パウロはピリピ教会の人々の顔を思い浮かべながら一字一字を記したことでしょう。実にその内容は、教会への愛にあふれていました。教会を建てあげるためのことばが、この手紙にはあふれています。時に励まし、時に叱咤し、そして何よりも、イエス・キリストをその都度思い起こさせる・・・。パウロは、この手紙の冒頭でこのように記しています。「私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り・・・」ここに祈る牧会者の姿があります。
2. 感謝の理由
パウロは言います。ピリピ教会のことを思い出すたびに神に感謝をし、そして、教会のために祈るごとに、喜びとともに祈ることができる、と。その理由が5節に記されています。「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来た」からだとパウロは言います。つまり、あなたがたのことを思うたびに神に感謝し、祈るごとに喜びを持つことができるのは、ピリピの教会が、最初の日から今に至るまで、福音を広めることにあずかって来たからだと言うのです。
3. 福音に預かる人々
ここにはコイノニアという言葉が用いられています。福音のコイノニア。これが教会の感謝であり喜びの源泉です。ピリピの教会の始めの日に目を向けるとこのことがよく分かります。使徒の働き16:11~40にピリピ教会の開拓の様子が記録されています。最初の日にルデヤという女性が救われます。ここには、主が彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた、とあります。そして彼女も、その家族もバプテスマを受けることになりました。さらにルデヤは自分の家をパウロたちに提供します。この教会は一人の女性から始まりました。最初の日から福音が分かち合われました。家をささげ、自らのできることをルデヤはささげました。教会はまさにコイノニアによって始まったのです。コイノニア、それは第一に福音が分かち合われることです。さらには、福音をさらに他の人へ分かち合うことへとつながります。そして、福音のために持てるものをささげることへと前進していくのです。
[考えるために]
福音のコイノニアとはどのようなことでしょうか?
投稿者 mb-church : 18:01
メインページへ2009/7/26礼拝メッセージ
2009年7月26日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ15:22~33
「上向きの信仰」
1. 教会の中にある緊張関係
パウロは異邦人宣教にその身を投じました。当時の教会は難しい問題を抱えていました。それはエルサレム教会を中心としたユダヤ主義に立つクリスチャンと、小アジアや地中海沿岸を中心とした異邦人社会に誕生した教会のクリスチャンたちとの間にあった緊張関係でした。その緊張関係の最前線にいたのがパウロでした。パウロは、全世界の人々が神の民となり、ともに教会において神を礼拝するということこそ、神が望まれてきたことであると確信していました。
2. エルサレムへ上ること
そのような緊張がある中、パウロはエルサレムへと上ろうとします。周囲の人々はパウロを止めました。なぜならパウロがエルサレムに上れば、ユダヤ主義者との間のトラブルに巻き込まれることは明らかであったからです。しかし、パウロは自分の身がたとえ危険にさらされようとも、教会の一致のためにエルサレムへと上っていく決断をしました。さらにパウロはその先のことを見ています。もしパウロがエルサレム教会において一致を見ることができたならば、今度は新たな宣教地へと赴く計画を持っているというのです。パウロの周囲の人々は今の状況に対して悲観的に見ていました。しかし、パウロはそのようには考えていません。ここに「ささげる人」パウロの信仰のあり方が示されています。「ささげること」に関して、神はそのことを必ず成し遂げてくださる、神が悪いようには決してなさらない、その確信がパウロにはあるのです。
3. 祈りの要請
そして、パウロはローマのクリスチャンたちに祈りを要請します。先の見えない中で、ローマの教会に「ともに祈ってください」と願います。パウロは自らの働きは、すべて教会の働きなのだと考えていました。それぞれの生き方を通して、仕事を通して、人に仕え、また社会に仕え、教会に仕え、何よりも神に仕える・・・そのことすべてが教会の働きなのです。それは一人ではなすことができないものです。だからパウロはここで教会に祈りを要請するのです。しかし、この祈りの課題は、その後すべてが聞かれたわけではありませんでした。パウロはローマに到着します。しかし囚人としてでした。祈りがすべてが聞かれたわけではありません。しかし、これはすべてを「良きこと」へと神が導いてくださった結果なのです。私たちの思いをはるかに超える神のみわざがなされるという確信。これこそ信仰者だけが得ることのできるものなのです。
投稿者 mb-church : 18:00 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2009/7/19礼拝メッセージ
2009年7月19日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ15:7~13
「キリストの教会を信ず」
1. ささげるということ
ローマ12章からここまで教会への勧告が多く記されていました。キリストによって贖われ、義とされた私たちが、どのように自らをささげていくのか、このことが大きなテーマとなっていました。これらのことは私たち教会に与えられた道しるべともなるでしょう。そして今日の箇所には、パウロ自身の「ささげるものの姿勢」が記されています。
2. 教会の主を信じること
パウロは「確信している」と言います。この手紙を読んでいる教会が、善意と知恵とを持って、互いに戒め合えることを信じている、そうパウロは記します。これは単に人を信じているという言葉ではありません。教会もまた多くの課題を抱えています。しかし、教会はキリストのもの、神の宮、聖徒の交わりです。パウロは「キリストの教会」を信じています。聖徒の交わりに働かれる主を信じているのです。教会もまたこの世の様々な問題を抱えます。しかし、まず私たちが信じるのは、人や目に見える支えではなく、教会の主「キリスト」なのです。
3. パウロの経験
パウロはこの手紙を送るにあたって、自分が「異邦人を導くもの」であると証しています。そしてパウロは「私はあなたがたにもう一度思い起こして欲しい」と言っています。パウロはこの手紙を通して、教会の主はキリストであり、教会は聖霊によって導かれ、聖霊によって悟り、そして教会は神の御前に傷のないものとして完成するのだと、いうことを伝えようとしています。パウロはそのために大胆に、また誰も通ったことのない道を歩んできました。そのパウロの働きや成果、それらはすべてキリストのものであり、聖霊の力によって成し遂げたものであると彼は書き送っています。何ももないところへと彼は歩みを進めて行きました。ただひたすら、自分に与えられた働きを、キリストのゆえに成していったのです。
4. ささげるところに
パウロが自らのささげる歩みに見出しているのは、キリストのことば、わざ、しるし、不思議、そして聖霊の力です。パウロは徹底的に、キリストを通して、すべての物事をとらえようとしています。キリストの神に仕えた姿、人に仕えた姿、みことばに仕えた姿。それがパウロの原動力であり、また教会の力です。神が私たち主の民をどのように扱ってくださるのか、そのことを思い起こさせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 17:58 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2009/7/12礼拝メッセージ
2009年7月12日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ15:7~13
「キリストにある望みの神」
1. 多様性
「互いに受け入れること」これは私たちにとって、とてもハードルの高いことです。初代教会の課題は、現在の私たちの課題でもあります。最初は異邦人が救われるということに対して、ユダヤ人は不安と同時に喜びを持っていたことでしょう。世界中の人々が、真の神の前にひれふす時が来たというすばらしい知らせに大きな喜びがあったことでしょう。しかし、異邦人が教会に増えてくると除々に変化が起こります。最初は「偶像に備えて汚れた物は避けるように」と言い伝えられていましたが、その取り決めも現実的ではなくなっていきました。教会はその現実に対し、悩み、祈り、そして聖書に答えを見出そうとしたのです。その答えを的確に導いた人がパウロでした。彼の結論は「偶像に捧げられた肉は食べてもよい」というものでした。しかし、問題は「納得」ではなく、感情的なレベルにありました。
2. キリストにある教会
聖書によって正しい神学は第一に議論されるべきことです。パウロもそのことを踏まえた上で話を進めています。しかし、感情的な衝突は非常に根深いものです。パウロは繰り返しキリストの姿を指し示します。神のひとり子であるキリストが罪ある私たちを受け入れてくださったその姿。神は本来受け入れることができない私たちをキリストのゆえに受け入れてくださっています。「キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者のしもべとなられました。」割礼のある者とはユダヤ人のことです。キリストはユダヤ人としてこられ、そして十字架の死にまで従われました。それはユダヤ人だけのためではありません。それは異邦人も含めたすべての人のためです。キリストは、ユダヤ人のみならず、すべての人のために、ご自身をささげられました。この真理に立たない限り、教会の中の不一致や、感情的な衝突はおさめることができません。
3. 望みの神
教会は「キリスト中心」です。キリストこそが基準であり、その中心です。私たちはキリストにあるときに、たとい痛みや苦しみがあろうとも、それが必ず希望と喜びへと変えられていくことを、キリストご自身の姿から教えられています。キリストにあるときに、私たちの神は確かに「望みの神」と信じることができるお方なのです。私たちも今キリストご自身の姿を、聖霊によって私たちの心にはっきりと映し出させていただきましょう。
投稿者 mb-church : 17:45 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2009年07月08日
2009/7/5礼拝メッセージ
2009年7月5日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ15:1~6
「忍耐と励ましの神」
1. 力のある者
「力のある者」への勧告が記されています。「力のある者」、これは肉を食べてよいと思っていた人のことです。その人々は主に「異邦人」が中心でした。その一方で「力のない人たち」とは、主にユダヤ人たちのことです。この箇所における力のある、ないということは、能力や意見の強さのことではありません。言い方をかえると、力のある者は、より新しい考えを持っている人、そして力のない者とは、これまでの考え方にとどまる人ということでしょう。このようなギャップは、今日の教会の中にもあるでしょう。最初は、自分の信仰から出ていることで、神様のためになると思っていたことが、気がつくと自分の正当性を主張し、自分が認められることが優先されている・・・そのようなことがあります。
2. 隣人を喜ばせる
「私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」ここには「強い」「弱い」という区別はありません。「私たち」「互いに」と語られています。この文章を直訳するとこうなります。「私たちは互いに、良きことのため、建てあげのために、隣人を喜ばせるべきです。」互いを喜ばせるのは、良きことのため、そして建て上げのためなのです。これは決して個人的に良いことや、個々人の成長を指すことばではありません。むしろその逆です。キリストのからだなる教会の良きこと、建て上げ、キリストのからだ全体の成長をパウロは思っています。「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。」主なるキリストでさえ、ご自身を喜ばせることはしなかった。これ以上の勧告はありません。キリストは「強い者」でした。しかし、キリストは「弱い者」のために十字架にまで従われたのです。
3. パウロの祈り
「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」私たちはどうしても、自分の狭い思いや考え、自己満足という枠から自由にはなれないでいます。そこから飛び立つためには、私たちの力ではなく、神ご自身のみ力によらなくてはならないのです。だからパウロはここで神に祈ります。「忍耐」と「励まし」の神に、パウロは願うのです。神のまなざしは、ユダヤ人にも異邦人にも、そして私たちにも注がれているのです。
[考えるために]
私たちは、自らの思いや満足という狭い枠にとどまっていないでしょうか。
パウロの祈りを自らの祈りとさせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 09:48 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2009/6/28礼拝メッセージ
2009年6月28日礼拝のメッセージ要約です。
この日は吉澤慎也神学生の説教でした。
ピレモンへの手紙
「キリスト者になるということ」
1. はじめに
もし自分がキリスト者にならなかったら、と考えてみる。自分にとって、キリスト者になるということは、どれほどの意味のある事柄だったか。ピレモンへの手紙に登場するオネシモは、クリスチャンになったことで、その人生が決定的に変えられた。
2. 内容
1:この手紙はパウロによって書かれた。この時パウロはローマの獄中にいたと言われている。この手紙は、使徒職に訴えるような公のものではなく、個人的な私信であった。パウロが書いた手紙の中では、このピレモン書は異色。非常に短く、内容が非常に個人的である。この手紙が残された唯一のパウロによる個人的な私信。
2:手紙の宛先はピレモン。この人はそれなりに裕福な人だったと考えられている。
4-7:パウロはピレモンのことをとても良く思っている。ピレモンにとってパウロは自分を信仰へ導いてくれた先生だった。
8-10:パウロはピレモンの愛に訴えてオネシモのことをお願いする。
11-12:オネシモはピレモンの奴隷だったが、そこから逃げ出した。当時の奴隷制度はそこまでひどいものではなかった。その後、オネシモはパウロによって導かれてクリスチャンとなり、今はパウロと共にいる。パウロはオネシモをピレモンの所へ戻そうとしてこの手紙を書いた。今のオネシモは役に立つ者へと変えられ、パウロはオネシモを非常に評価している。
13-20:パウロはピレモンにオネシモのことを積極的に迎え入れてほしいと訴える。もしオネシモが盗みを働いたのであれば、自分がそれを支払うとパウロは言う。パウロは二人の間の執り成し手として関わっている。
21-22:人間臭い手紙だが、この手紙には確かに愛がある。ピレモンとオネシモは和解したであろうことを期待する。
3. おわりに
オネシモの人生は、キリスト者になることで決定的に変えられた。私たちにとっても、キリスト者になるということは、大きな意味のあることだったと思う。それを今一度思い返して、確認し、感謝したい。
投稿者 mb-church : 09:45 | コメント (0) | トラックバック
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2009年6月21日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ14:13~23
「しもべへの約束」
1. 飲み食いの問題
今日の箇所の中心は、17節です。「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このように、キリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。」この箇所の背景には一つの問題がありました。それは「飲み食い」の問題です。これは律法に照らした時の様々な規定に関しての問題です。しかしパウロはこう言います。「神の国」というのは、そのような正しいあり方、正しい行いのことではなく、聖霊のうちにある「義と平和と喜び」なのだ、と。神の国、その支配や神のみこころは聖霊によってもたらされると言うのです。正しさと平和、喜びは神からもたらされるのです。
2. パウロの勧告
この箇所で、パウロは特に信仰の強いと言われている人々に、信仰の弱いと言われている人々に配慮しなさいと勧告しています。しかし、それと同時にパウロははっきりと言います。「すべての物はきよい」と。ここで問題となるのは、どちらの側につくのかということです。大概は考え方が正しい方へ、信仰の強い人へと皆がなればよいと考えるかもしれません。しかしそうではありませんでした。ここでパウロが見出すのはもう一つの道です。パウロが向かうのは、キリストにある平和と教会を建てあげることでした。キリストにあるときに、私たちにとって乗り越えがたく見える壁が崩れ去り、そこに神の国が表されるというのです。
3. キリストにある信仰
「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。」この「信仰」には「キリストにある」という言葉を補う必要があります。パウロはキリストにあって「すべてのものはきよい」ということを確信しています。それは物だけではなく、すべての人でもあります。何よりも、私たちは主のしもべなのです。主のしもべには、「神に喜ばれ、また人々にも認められる」という約束が与えられています。この言葉は、主のしもべに与えられた励ましの言葉なのです。
[考えるために]
主のしもべに与えられた約束とはどのようなものでしょうか。
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メインページへ2009/6/14礼拝メッセージ
2009年6月14日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ14:8~12
「主なるお方」
1. しもべである私たち
「主のしもべ」それがクリスチャンのもう一つの呼び名です。なぜ私たちは「神」を、また「イエス・キリスト」を「主」と呼ぶのでしょう。聖書の神は、私たちの「主」であると聖書には繰り返し記されています。その主なる神は、私たちを作られ、私たちを導き、この世界の支配者であり、また所有者だとあります。神に聞き従うものとして、人間は作られたと聖書は語ります。その関係はただの主従を越えたものとしても教えられています。神は、私たちを愛し、また私たちを哀れみ、私たちを信頼し、私たちに期待をもかけておられる。そしてその主人を「神」としてあがめ、最大限の栄誉と最大限の賛辞と最大限の信頼を置く方として敬うのが、私たち「しもべ」なのです。
2. 主である神
主である神は、キリストを通してご自身を明らかにされました。キリストは、すべての人の主となるために、死んで、また生きられたとあります。この言葉がキリストの十字架の死と復活を意味していることは明白です。この主人は、しもべである私たちのためにそのいのちをかけ、またさらには、私たちの最大の問題である死をも乗り越えてくださった、そのお方であるとこの箇所は証しています。私たちは、このまことの主を知るまでは、自分自身が自分の主(あるじ)でした。実のところ、私たちは、この世のしもべであったとも言えるでしょう。しかし、私たちは気がつかされます。「自分自身の主人は自分ではなかったのだ」ということに。
3. 主人の思いを自分のものとして
パウロは、ここで一つの問題から、いったい誰があなたの主人であるのか、そのことに気がつくようにと、この手紙の筆を進めています。私たちはみな神のさばきの座に立つようになる・・・すべての人が、神の前に、まことの主人の前に立つときがくるというのです。いったい誰があなたの主人なのでしょうか。さらには私たちの主人はどのような考えを持っているのでしょうか。イエスも主人としもべのたとえ(ルカ19:12~)からこのことを教えています。大事なことは、しもべが主人の性質や性格をよく理解しているのか、ということです。私たちはキリストのしもべとして、どのような考え方をし、どのように物事を見るのでしょうか。主人であるイエスであったらどうお考えになるのか、このことをもう一度問い直してまいりましょう。
[考えるために]
主なるキリストが何を望まれているのでしょうか。そのみ思いを思いましょう。
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2009年6月7日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ14:1~8
「キリストのしもべ」
1. 「信仰の弱い人」
信仰に強い、弱いがあるのでしょうか。そのような比較ができるのでしょうか。ここで、問題になっているのは「食べ物のこと」です。それは、当時のローマの町に出回っていた肉の問題でした。それが偶像に一度ささげられているということで、食べるのを拒否したクリスチャンがいたのです。このことに関して、教会の中でも意見が二つに分かれていました。その二つの立場を指して、「信仰の強い人」と「弱い人」と言っているのです。
2. 教会の混乱
このような悩みは、日本のクリスチャンたちも多く抱える問題でもあります。日本特有の文化や風習の中で、このような行為はやっていいんだろうか?それともいけないのだろうか?私たちは、自分たちの基準で、これは聖い、これは清くないと、分別しています。それに合わないものに対しては、攻撃的になってしまうものです。当時の教会の中にもこのような混乱がありました。パウロはここで「偽りなき愛」に生きる教会は、どのような判断をするべきか、その一つの見方を提示しています。パウロはこの二つの立場のどちらの味方でもありません。ここでパウロが見ているのは偽りなき愛によって一致する教会の姿です。
3. 神のしもべ
パウロはここでどちらの人々も神のしもべであると捉えています。そして、そのしもべが立つのも倒れるのも、そのしもべの力量や知恵ではなく、その主人次第だというのです。しもべはどのように物事を判断するものたちでしょうか。パウロはここでこのように物事を整理しています。すべての動機は主のためであると。おそらく、この部分を読み聞いた人々は、もう一度自分たちのあり方を問われたことでしょう。自分の本当の動機はどこにあるのだろうか。主のためと言いながら、実は自らの正しさのためではなかったのか。そしてパウロは私たちに真のしもべの姿をこう言い表し、問いかけるのです。「ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」どんな状況や状態であろうとも、私たちは主なる神のものであり、しもべである。神はそのしもべを必ず立たせてくださるのです。もう一度主のしもべであることを確認してまいりましょう。
[考えるために]
主は、そのしもべをどのように取り扱ってくださるのでしょうか。
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2009/5/31礼拝メッセージ
2009年5月31日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ13:11~14
「キリストを着る」
1. 今という時
今はどのような時でしょうか?それは「教会の時代」です。教会の時代は、「救いが明らかになった時代」であり、「救いが広く伝えられる時代」であり、「救いが完成へと向かう時代」でもあります。教会はこの三つの点をすべて担うべく存在しています。今は救いが明らかになり、救いが伝えられ、そして救いが完成へと向かう時であるからこそ、あなたがたは、古い罪に縛られることをやめ、自分自身を、あなたがた自身を、神へとささげる生涯を送りなさいとパウロは勧めます。今は眠っている時ではなく、眠りから覚め起き上がるときだとパウロは語ります。なぜなら、今は救いが私たちにもっと近づいているからであり、救いの完成へと向かっているその時に私たちが置かれているからです。
2. 昼間らしい歩み
今は終わりの時です。しかし、恐れの時ではありません。今の時は救いの時です。夜はふけて、昼が近づいているときです。だから、私たちがその時にふさわしく生きることを神は望まれています。恐れによってではなく、今が救いの時であるからこそキリストにならうものとして生きるように勧められているのです。やみを脱ぎ捨て、光を着るように命じられています。このような中で、私たちが注目しなければならないのは、昼間らしい、正しい生き方へと向かう意志です。その意志を形づくるためにこのように勧められています。「主イエス・キリストを着なさい」と。
3. キリストを着るということ
「主イエス・キリストを着る」という言葉は、イエスを救い主とする信仰と、さらにバプテスマを受けることにより、キリストと一つとなったその状態を指しています。神にある正しい歩み、偽りなき愛を示すことは、私たちの力では到底なしえないものです。だからこそここで、「主イエス・キリストを着なさい」と語られています。キリストを着るというのは、単なるキリストのふりをすることを超えて、キリストがこの私のうちで生きてくださり、そしてキリストがこの私を変え続けてくださる、その現実が語られている言葉です。私たちではなく、すでにキリストが私のうちで生きてくださっている、その確信の上に私たちの歩みが支えられていくのです。
投稿者 mb-church : 13:17
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2009年5月24日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ13:5~10
「神の与えた良心」
1. 神の与えた良心
私たちは神によって良きことを教えられます。私たちは神のことばによって、良きこととは何かを判断することができます。神を求め、神の良きことを求めるその思いを「良心」と言っていいでしょう。聖書における「良心」は、その人の中でも、とても価値の高いものであり、尊いものとして扱われています。パウロは非常に高い意識をもって「良心」という言葉を用いています。
2. 神の愛と聖さ
聖書において神の愛と聖さはとても大事な概念です。私たちが現実の社会においても、人間の持つすばらしい側面や高潔な生き方に触れるときに、神ご自身のすばらしさを知ることにもなります。教会では取り繕い、偽善的な態度をとる必要はありません。しかし、その逆に、自分たちがおろかで、罪深いことを強調し、いつまでも社会的にも未発達でいることも、聖書で語られているあり方では決してないでしょう。むしろ、神を信じた者たちは、神の愛や聖さを願い、また自らの生き方も日々神の前に悔い改めることが勧められています。このような良きことへとまっすぐに向かうときに、私たち自身が内面から整えられていきます。
3. むしろ愛し合うということ
パウロは言います。「誰に対しても、何の借りもあってはいけません。」そして続けてこう付け加えます。「ただし、互いに愛し合うことについては別です。」まるで借りを返すことと、愛し合うこととが同じようなこととして扱われています。互いに愛し合うということに関しては制限はいらない、ということになるでしょうか。しかし、ここで注意しなくてはならないのは「愛するだけでよい」と言ったのではないということです。神のみおしえ、律法は、愛するということによって動機付けられ、行われ、さらに完成すると語っているのであって、ただ愛するということを感情的に強調しているわけではありません。もし人間の持つ力だけを見ているならば、この言葉は何の実体も持たないものになることでしょう。しかし、パウロがここで見ているのは教会です。主イエスが愛を示され、愛を注がれた教会なのです。パウロはここで社会的な正しさを強調しています。神の愛がそうであるように、愛はただ感情的な問題では終わりません。私たちは、まず神との正しい関係に立ち、そして互いに愛し合う人との正しい関係へと進んでいくのです。
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2009/5/17礼拝メッセージ
2009年5月17日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ13:1~5
「神の権威のもとに」
1. 世の権威との関係
今日の箇所は、これまでの教会の歴史の中でも問題ともなってきた箇所です。この箇所はナチスの時代に悪用された箇所でもあります。権威はすべて神によって立てられたもの。この箇所はよく権力側に引用されました。しかし、聖書は文脈を無視して読み用いてはならないものです。パウロは権力側がこの箇所を使用するために、この箇所を記したわけではありません。権力を持つものに対して聖書はこう語ります。神の前にあらゆる権威、権力はひざまずかなければならない。ここでも権力は神のしもべであると語られています。
2. 時代の生き方
パウロがこの箇所を記した時は、ローマの支配する時代でした。パウロはここで何を教会に伝えたかったのでしょうか。神を信じる人々がその社会にあってどのような姿勢を保つべきか、そのことが扱われています。根底には「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい」という考えがあります。私たちは悪に対して悪で報いることを考えてしまうものです。力がほしい。自分に敵するものを打ち負かしたい!そのように私たちは思います。しかし聖書は言います。「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」ローマの皇帝でさえも神のしもべなのだ。だからこそ、私たちは彼らと同じ悪の力を持って対抗するのではなく、良い生き方を表すのです。
3. 誰の目にも
パウロが主張しているのは、誰からも責められるようなことはしないように、ということです。なぜこのような生き方ができるのでしょうか。その理由は、この世界にある神と神の権威を見ていたからです。ですから、権威や国家への盲従をここで推奨しているわけではありません。誰からも責められることなく生きなさい。それは神がそこに働かれているからだとこの箇所は私たちに教えます。戦争の時代、多くの教会は国家に盲従しました。神にある正しさよりも、目の前の権力に従ったのです。「すべての人の目に正しいことをするように」とは、「すべての人の前で神にある正しいことをする」という言葉です。この正しさは、すべての人の基準ではなく、神にある正しさです。私たちがこの良きことを見失ってしまうのは、神と神のことばから離れてしまうからです。私たちは聖書を通し、神を礼拝することを通し、自分たちが神によって造られた被造物であり、神にある正しさがあることが示されるのです。
投稿者 mb-church : 13:10
メインページへ2009/5/10礼拝メッセージ
2009年5月10日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ12:17~21
「すべての人と平和を保つ」
1. 目には目を
「偽りのない愛」これがこの箇所の根底に流れているテーマです。私たちはそのことを、身近なところからはじめるよう勧められています。自分のすぐ近くにいる人に対して愛を持って仕えること。しかし、それが自分とは敵対する人や、受け入れがたい人となると話は異なります。とたんに実行し難いことになります。パウロはこう言います。誰に対してでも悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。ここにも私たちに示されている神の基準があります。この教えは、実はここで初めて語られたものではありません。聖書の時代このような教えがありました。「目には目を、歯には歯を。」しかし、イエスはその考えに対してこのように言っています。「悪いものに手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」なぜ、こうもまったく異なることを、イエスは言われたのでしょうか。
2. 身勝手な考え
旧約聖書において「目には目を」と語られたのはどの人々にでしょうか。それは「イスラエルの民」でした。そこには本来、敵、味方は存在しないはずです。その内部の問題を正しく裁くために教えられたものが先ほどの教えなのです。しかし、それが外部との関係になったときにどうなるのでしょうか。当時の教会で言えば「迫害者」と言ってもいいでしょう。当然、人々は彼らに対して「目には目を」と考えるわけです。現代も同じです。いやそれ以上でしょう。
3. イエスの教え
そのような中で、イエスは何をもって、神の聖さ、正しさを示すようにとおっしゃったのでしょうか?それが「愛」です。「右の頬を打たれれば、左の頬を差し出しなさい」そんなことは通常は考えないことです。なぜ、そのようなあり方ができるのでしょうか?私たちにもそれが可能なのでしょうか。聖書ははっきりと語ります。あなた自身ではなく、神が報いる、神が正しさを示される、というのです。ここにクリスチャンに与えられた使命を見出すことができます。私たちの目の前に困難な状況があり、難しい課題があります。しかしそれは決してただ途方にくれ、気落ちしてしまう現実ではありません。むしろ、そこにこそ神が働かれ、そこにこそ神のすばらしさが表されるところなのです。私たちがそこには神などいない、自分にとっては困難なことやささいなこと、そこに神は目を留めておられるのです。
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メインページへ2009/5/3礼拝メッセージ
2009年5月3日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ人への手紙12:13~16
「神の価値基準」
1. キリスト教的生活の規範
ここにある言葉には、生活の規範が記されていると教会の歴史では受け止めてきました。しかし,それはただ聖書に記された良い事柄であるから実践するということではありません。そうではなく,ここに記されたことが神の民の喜びとなることだからこそ勧められているのです。イエスは、私たちに神のみこころを宣べ伝えました。その動機は偽りなき愛からでした。この箇所もイエス・キリストの教えがベースにあることは間違いありません。
2. パウロの強調点
ここでパウロは「誰に」ということに触れます。「聖徒」という言葉があります。これはともに教会の人々「私たち」を示しています。その一方で、ここに「敵対者」へのなすべきことが記されています。イエスの言葉にこのような言葉があります。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。」パウロの特徴として最初に受け入れやすいこと,実践しやすいことを述べ,その後に,特に強調すべき難しいと思われることを述べるという手法があるように思います。パウロはここで「聖徒の入用に協力し,もてなす」ことと、さらに「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい」と教えました。さらにパウロはこう続けます。「喜ぶ者と一緒に喜び,泣く者といっしょに泣きなさい。」この言葉をパウロは「互いに一つの心になる」ことと結び合わせています。ここでパウロが特に力を込めるのは「喜び」ではなく「悲しみ」の方です。ただ喜びをともにするのではなく、泣く者と一緒に泣くのです。これはただの悲しみではなく,罪ゆえの悲しみに触れている言葉です。
3. ひとつの心になる
パウロはここでこう勧めます。「高ぶった思いを持たず」、「自分こそ知者だなどと思ってはいけない。」私たちが心をひとつにできない理由はどこにあるのでしょうか。それは,高ぶった思いがあるからです。自分は大丈夫であるとの思い、これも神を神としないところからくる人間の傲慢であるといえるでしょう。ここでパウロは、私たちが困難を覚える人々に対して,むしろ祝福を祈り,ともに泣き、同じ思いを持ち,へりくだりなさい,そう教えているのです。これらのことは、戒律や規定として聖書が私たちに示しているものではありません。そうではなく,これこそ神様のみ思いであることを示したものです。私たちはここに立ち続けさせていただきましょう。それは自らの思いや力ではなく,神の霊によってなのです。
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メインページへ2009/4/26礼拝メッセージ
2009年4月26日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ人への手紙12:9~12
「真実の愛」
1. 真実の愛
「愛には偽りがあってはなりません。」力強い言葉です。この一文には主動詞がありません。「愛,偽善なきもの」という文の直後に,さらにこう記されます。「悪を憎み,よきことに結びつく」。これは神の「聖さ」について触れていると言ってもいいものでしょう。ここでパウロが触れている「愛」という言葉は,神に属するものであるという認識があります。真実の愛と聖さは,神の性質の重要な側面でもあります。「愛」は,神の聖さ,神ご自身とは切り離して考えてはならないのです。
2. 愛の実践
ここでパウロは3つの言葉を上げます。「兄弟愛」「尊敬」「勤勉」です。この3つのことが,真実の愛につながることであると述べられています。どれをとっても何か目新しいものではありません。むしろ私たちにとって身近なことと言ってもいいでしょう。それは即,私たちの教会のことでもあり,私たちの家族のこと,そして,私たちの置かれた場所,職場や学校,家庭のことでもあるでしょう。真実な愛とは,まず私たちの身近なところから始めよう,そう言っているようでもあります。
3. 霊に燃え,主に仕える
パウロは「霊に燃え,主に仕えなさい」と勧めます。この言葉こそ,先ほどの兄弟愛,尊敬,勤勉を集約した言葉です。聖霊によって燃やされ,そして主に仕える。聖霊によって燃やされるとは,ただの熱心さではありません。聖霊によって燃やされるというのは,私たちのうちにキリストの姿が映し出される,あの十字架の主の姿を見上げるということです。兄弟愛,尊敬,勤勉,それらの根底にあるのは,十字架にまで従われたキリストの姿です。その姿こそ,パウロが「兄弟愛」「謙遜」「勤勉」という言葉に見出しているものです。
4. 三つの言葉
さらにここに三つの言葉をパウロは付け加えます。「望み」「艱難」「祈り」。私たちがキリストの愛に生きるときに不可欠なもの,それがこの三つのことです。この三つはどれもが深い関係にあります。私たちに与えられた状況のすべてが,キリストにある信仰において,すべてが希望へと,すべてが喜びへと変えられていく・・・。ここにある祈りとは何でしょうか。それは主の祈りからも教えられるのは,神の国を願い,神のみこころがなることを第一に祈る祈りです。私たちはこれらの言葉によって,自らの歩みを点検してまいりましょう。
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2009/4/19礼拝メッセージ
2009年4月19日の礼拝メッセージの要約です。
ローマ人への手紙12:3~8
「信仰という基準」
1. 私たちのからだをささげるということ
私たちのからだを,神に受け入れられる,聖い,生きた供え物としてささげなさい,これこそ真の礼拝であると聖書は私たちに語ります(ローマ12:1,2)。「からだ」という言葉には,私たちの「すべて」という意味が込められています。「私たち自身」と言い換えてもいいでしょう。あなたは救い主イエスを信じており,あなたの罪をすでに神は赦している,その一人一人が,神に向かってどのように生きるのかということが12章以降に記されています。これは単なる命令ではありません。それは,私たちのあり方,考え方,物事の見方に触れる内容なのです。「ささげる」というのはその人の生き方なのです。
2. 慎み深い考えを持つということ
パウロは教会の一人一人に語ります。「だれでも,思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや,むしろ,神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて,慎み深い考え方をしなさい。」ここで言われているのは「あなたが何者であるかをわきまえなさい」ということです。パウロは「信仰の量りに応じて」と言います。この言葉は「信仰という基準」であり,神が私たちに等しく分け与えてくださった信仰という規準に応じて,節度のある考えを持つということです。信仰という基準とは,まさに「キリストにある基準」に応じて,私たちが考えていくということを示しています。パウロがこの言葉を記した背景を考えると,思うべき限度を越えて思い上がる人間の時代を超えたおろかな姿が見えてくるようです。
3. 互いに器官であるということ
パウロは教会にいる一人一人の姿を思いつつ語ります。教会は一つのからだであり,一人一人はその異なる器官であると言うのです。どれもが同じ働きはしないように,私たちもそれぞれに働きが与えられています。どれが重要で,どれかが不必要であるとは言いません。一人一人にはキリストの信仰がすでに等しく与えられているのです。「賜物」という言葉も一つの真理を伝えています。それは,あなたに与えられた能力も,意志も,機会も,それはすべて神があなたに与えたものであるということです。私たちは,自分が持っているものをどのように受け止め,扱っているでしょうか。何か特別な能力があるからささげるのではありません。すでに私たちには神の恵みが注がれ,それぞれに違う賜物が与えられています。私たちは自らをささげる生き方へと招かれているのです。
[考えるために]
私たちは,自分に与えられているものをどのように受け止め,扱っているでしょうか。
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2009/4/12礼拝メッセージ
2009年4月12日イースター礼拝でのメッセージ要約です。
ローマ6:8~11
「キリストのいのち」
1. 復活祭
花が咲き,緑が芽吹くこの季節に,キリストが復活されたイースターを迎えたことに感謝しています。キリストがよみがえられたことを聖書は私たちに伝えています。キリストを信じる者には,神とともに歩む永遠のいのちが与えられることを神は約束しています。クリスチャンになることは何も難しいことではありません。イエス・キリストを信じればよいのです。ではイエス・キリストを信じるとはどういうことなのでしょうか。
2. イエスは神である
イエスを信じるとは,復活のイエスを信じるということです。「人間が復活した」このことを信じることはあり得ない話です。十字架刑に処せられ,完全に息を引き取った人が,その数日後に生き返るなんてことは信じがたい話です。しかし聖書は証言します。イエスは神の子であり,神と等しい方であると聖書は証言します。復活のイエスを信じるというのは,第一にイエスを神であると信じることです。
3. イエスは救い主である
復活のイエスを信じるというのは,イエスを救い主だと信じることでもあります。イエスが十字架にかかったのは,私たち人間のためだと聖書は語ります。神を神とせず,自分勝手に生きる人間のために,私たちの受ける罰の身代わりとして,イエスは十字架にかかりました。身代わりとなるというのは,身代わりになる人と同じような,いえそれ以上の価値がないとだめです。その身代わりとなられたのがイエスなのです。復活のイエスを信じるというのは,第二にイエスが私の罪のために身代わりとなってくださったことを信じることです。
4. イエスはいのちである
「キリストとともに生きることにもなると信じます。」これが復活のイエスを信じる第三番目のことです。イエスは復活を通して私たちにまったく新たないのちを与えてくださいました。そのいのちこそ,「復活のいのち」です。復活のイエスを信じる第三番目のことは,キリストとともに生きるものとなっているという信仰です。これは信じるというよりも,約束として受け止めるべきことです。このことは,復活のイエスを信じる信仰を持ち,そしてその信仰に歩み始めるときに,実感をともなって私たちに与えられるものです。私たちのいのちは,復活の主にある逆転の恵みのいのちとなるのです。
[考えるために]
復活のイエスを信じる信仰における三つのこととは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 19:26
メインページへ2009/4/5礼拝メッセージ
2009年4月5日の礼拝メッセージの要約です。
ローマ12:1,2
「神のみおもいにたって」
1. 義とされたということ
12章は「そういうわけですから」という言葉ではじまります。11章までのことを踏まえてパウロは語ろうとしています。それをまとめると「イエス・キリストの十字架と,イエスを救い主と信じる信仰によって,あなたの罪は赦され,義とされた」となるでしょうか。しかし,「義とされた」ということが私たちにはよく分かりません。罪ある人間にとって「義とされた」ということは分かりづらいのです。その原因は,私たちの「神」理解の乏しさから来ているのでしょう。神理解が深まれば深まるほど,私たちが義とされた,という意味の重大さが明らかになってきます。その意味が分かると,12章1,2節の持つ意味が,豊かに私たちに迫ってくるようになるのです。
2. 強い勧め
パウロは神のあわれみのゆえに強く勧めます。今,あなたがキリストを信じて生きているのは,偶然ではなく,ただ神のあわれみによる・・・だからこそ,パウロは,私たちにこのように強く勧めます。「あなたがたのからだを,生ける,聖なる,神の喜ばれる供え物としてささげなさい。これがあなたがたの真の礼拝です。」「からだ」は単なる肉体のことをさしていません。私たちの「すべて」という意味です。なぜ,私たちが義とされたのでしょうか。それは,ただ単に私たち自身が救われるためだけではありません。それだけではなく,教会が神の栄光をあらわすものとなるために,あなたを救われたのです。
3. ささげなさい
問題は,神にささげるということが,具体的に何であるのかということでしょう。それを考える前に2節に目を向けなくてはなりません。「この時代と同じかたちにさせられてはいけません。そうではなく,あなたの思いを新たにし,形作りなおされることによって,何が神のみこころであり,よきことであり,神に喜ばれることであり,完全なことであるのかを,あなたが知るようになります。」私たちをささげるというのは,私たちを犠牲にするという意味ではありません。そうではなく,私たち自身が,根底から作り直され,神のみ思い,聖さ,完全さ,それを知るようになり,ついにはそれを喜んで行うようになるということです。ささげるということ,それは私たちが神のみこころを知って,生きるということに他なりません。そのために,私たちはまず,神を私たちの中心にお迎えする必要があります。そして,神ご自身に私たちを作り変えていただくのです。
[考えるために]
神に私たちは何をささげるのでしょうか。
投稿者 mb-church : 19:24 | コメント (0) | トラックバック
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2009/3/29礼拝メッセージ
2009年3月29日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書24:44~53
「すべては神によって」
1. ルカのテーマ
ルカの福音書は教会において広く読まれ,教えられてきました。この福音書が伝えている次の三つのことは重要です。第一に,イエスが「キリスト」であるということ。次に,イエスを信じる信仰によって,すべての人が罪から救われるということ。そして三つ目に,これらのことすべてが,神によって計画されたことであるということ。私たちは容易にこれらの土台を失います。キリストを信じる信仰以外によっても,救われるのだと考えてしまいます。今生きているのも,歩んでいるのも,神によってではないと考えてしまうのが私たちでしょう。これらのことには,私たちが抱えた罪の問題があると聖書は教えます。たからこそまず私たちは,神のご計画の深さと,一人一人に向けられた神の御思いに目を向けたいのです。
2. すべては神によって
イエスは弟子たちに教えられました。「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは,必ず全部成就する」。すべては人の意志を越えた神のご計画でした。そして「イエスの名によって,罪の赦しを得させる悔い改めが,エルサレムから始まってあらゆる国の人々にのべ伝えられる」のです。罪は人間にとって認めにくいものです。ルカの中にも自らの罪に目を向けたものと,そうでないものとのコントラストがありました。神の目に正しいとは,血筋や身分や地位でもなく,見かけ上のすばらしさでもありません。神の前の正しさとは,神の前に自らを低くする者,へりくだる者,また神に立ち返る者,自らの欠けを認める者たちであったのです。そしてその人々に与えられたのが十字架の赦しと復活の希望なのです。
3. 罪を認めて
自らの罪を認めるのは,その人の生き方を根底から変えるものです。これまで神の存在を無視し,祈りもせず,また神の意思など気にもかけずに歩んできた,そのことを根本から変革させることです。そして私たちの力では,その変革は起こりません。その変革はキリストを信じる信仰によって与えられるのです。その信仰によって,教会は始まり,そして建て上げられてきました。イエスは今も教会を祝福されています。私たちもキリストを信じ,キリストの祝福を受け続ける人生へと導かれてまいりましょう。
[考えるために]
ルカの福音書に一貫して流れる神の御手とキリストの救いが,私たちにも伸ばされていることを覚えましょう。
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メインページへ2009/3/22礼拝メッセージ
2009年3月22日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書24:33~43
「復活の希望」
1. 「死」というテーマ
「死」は私たちの大きな関心事でもあります。人間は死と向き合う存在です。みことばが私たちに与えるものは、その日の力だけではなく、全生涯を作り変え、私たちのいのちや死に対する答えをも与えるものです。この箇所で、聖書は私たちにイエスはよみがえられたということを宣言しています。聖書が語るのは、死に打ち勝った復活のキリストの確かな存在です。このキリストを信じるものは、復活のいのちが与えられていると聖書は私たちに約束しています(ローマ6:4~6)。
2. 復活のキリスト
復活のキリストが示すのは、罪の奴隷ではない、完全に救いが完成した人間の姿です。二人の弟子はイエスと出会った後に、エルサレムの弟子たちのもとへと戻りました。そこで弟子たちと自分たちの経験を分かち合いました。ここで驚くべきことが起こります。イエスご自身が彼らの真ん中に立たれたのです。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思います。彼らは、まだイエスが復活したということの意味も、またそのことが表す希望についても、まだ到底考えは及んでいませんでした。その彼らにイエスはご自身が実体であることを示されたのです。
3. 復活のいのち
さらに信じられずにいる彼らにイエスは食事をする姿を示されました。無事に死からいのちへと生還したということを示されたのです。キリスト教において「復活」は、信仰の中心に据えられるべきことです。それは、「復活」こそ私たちに与えられた希望のリアリティを表すものだからです。キリストが、人間の抱えた罪だけではなく、罪によって私たち人間が背負ってしまったものすべてに対して救いをもたらしたということを、復活は示しています。死や滅び、別離、悲しみ、痛み、差別・・・背負ったものは数限りなくあります。私たちは、気がつかないうちに、人や世界を傷つけ、またすぐに自己中心的に生きる存在であり、いつでも死と隣り合わせの存在です。しかし、イエスを復活の救い主であると信じるときに、私たちもまたキリストの復活と同じいのちが与えられるのです。この復活のいのちを得て歩むことこそ、私たちの生きるべき道なのです。
[考えるために]
キリストの復活は私たちに何をもたらしたのでしょうか。
投稿者 mb-church : 14:47
メインページへ2009年03月29日
2009/3/15礼拝メッセージ
2009年3月15日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書24:13~32
「ともに歩まれたイエス」
1. 二人の弟子
ルカは復活後の記録として,この二人の弟子たちの話を重要視しているようです。使徒の話や体験談は,初期の教会では誰もが直接聞きうることでした。しかし,その証言を聞くことができない時代に教会は入っていきます。見たことのないイエスの復活をいかに信じるのか,ということは非常に大きなテーマとなりました。そのよう中,この二人の弟子の話はとても大きな意味を持つことになります。「復活の主」を信じる信仰は,この二人にどのように与えられたのでしょうか。
2. エマオの途上
二人はエマオへの帰路にありました。二人はこれまでにの出来事について話し合っていました。そして二人の所に復活のイエスが追いつきます。しかし二人の目はさえぎられていて,その人がイエスだとは分かりません。彼らがイエスだと分からなかったのは,神ご自身が二人の目をさえぎられていたからです。まだそれは「時」ではなかったからでしょう。ここからイエスご自身が彼らに語りかけられたのです。クレオパはイエスにこれまでのことを話しました。それは彼らの間で理解されていた当時のキリスト理解であり,彼らの心情でした。彼らにとって,これまでのことは理解し難いことばかりでした。するとイエスはお答えになりました。「キリストは,必ず,そのような苦しみを受けて,栄光に入るはずではなかったのですか。」イエスの言葉の根拠は旧約聖書にありました。そしてその神のことばを解き明かされたのです。
3. 心は燃えていた
彼らはエマオに近づき,イエスに一緒に泊まって欲しいと願います。イエスは,彼らとともに食卓に着き,パンを取って祝福し,裂いて渡されました。この行為によって,目の前にいる方がイエスだということにようやく気がつきました。ここで二つのことに気がつかされます。一つは,聖書の言葉によって,イエスが救い主であることの意味を教えられるということ。そして次にイエスご自身がどのような方であるのかということ。この二つが合わさったときに,彼らの目は開かれ,目の前にいる方が復活の救い主イエスだということが分かったのです。彼らはこの時の心境をこう言い表しています。「私たちの心はうちに燃えていた。」イエスと分からなかい時でも,神は私たちに働き,導きを与え,心を燃やし続けてくださるのです。
[考えるために]
イエスはどのようにして二人の弟子たちにご自身のことを教えられたのでしょうか?
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2009/3/8礼拝メッセージ
2009年3月8日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:50~24:12
「キリストのことば」
1. アリマタヤのヨセフ
イエスの遺体を引き受け,その遺体を適切に葬ったのは,一人の「正しい人」でした。彼は,他のユダヤの議員に反対した人でした。何よりも彼は「神の国」を待ち望む人でした。彼は,苦しみの中にあっても,希望を失わず,自らの最善をなす人でした。彼の行動は実に適切でした。このような誠実な働きが,キリストの復活の知らせの確かな備えとなりました。彼の働きは貴重なものとなりました。
2. イエスの復活
ついに,イエスの復活が明らかにされるときが来ました。しかし,実に静かに,また小規模な形で復活は明らかにされることになります。このことにも神のご計画があるのだということを,私たちは受け止めたいと思います。ルカはここで「ことば」に焦点を当てます。女たちは,墓にイエスがいないという事実を知ると途方にくれます。その時女性たちの前に,み使いが現れます。み使いは「イエスがお話になったことを思い出しなさい」と語りました。その時,女たちはイエスの語られた「みことば」を思い出しました。さらに,彼女たちは墓から戻り,今度は弟子たちに今あった出来事を伝えました。しかし,彼らの反応は「信じられない」というものだったのです。
3. キリストのことば
使徒たちには「この話」はたわごとに思われました。使徒たちが信じられなかったのは,女性たちが話したことだけではなく,イエスの語られたことばそのものだったのです。なぜ信じられなかったのでしょうか。なぜ最初にこの事実を知らされたのが,女性たちだったのでしょうか。ことごとく神は,私たちの常識や順序,人間の勝手な思い込みや権威を退けられます。それは神のことば,キリストを信じる信仰によってのみ,私たちがこの事実を受け止めるようにという神の配慮があるからです。聖書において最も重要なのは,「キリストを信じる信仰」です。それは,聖書の神のことばに,絶対的な信頼を置く信仰と言ってもいいでしょう。この聖書を,私たちの常識や価値観,また勝手な思いで,弟子たちと同様に「たわごと」と思うのでしょうか。それとも,神のことば,救いのことばとして,信じ,受け取るのでしょうか。復活の根拠は,イエス・キリストが,はっきりとそのことを語ったということ,そして神がこのことを,聖書を通して私たちに語っているそこにあるのです。
[考えるために]
弟子たちはなぜイエスの復活を聞いたときに,信じることができなかったのでしょうか。
Ⅰペテロ1:23~25を読みましょう。
投稿者 mb-church : 07:30 | コメント (0) | トラックバック
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2009年3月1日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:44~49
「新しい生ける道」
1. イエスの最期
イエスが息を引き取るそのときが来ました。時刻は午後3時ごろであったことが記録されています。昼ごろから全地は暗くなり,太陽は光を失っていました。さらに神殿の幕が二つに裂けたということが記されています。神殿の幕は至聖所の前にかかっていました。この場所は,一年に一度大祭司だけがこの幕を通って中に入り,そこで神への犠牲をささげることになっていました。天変地異が起こり,幕が裂けた,まさに「一つの世界の終焉」の時が来たのです。イエスは「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と叫んで息を引き取りました。
2. 人々の反応
この姿を見て百人隊長はイエスの正しさを証言しました。彼だけではなくピラトやイエスと一緒に十字架についた犯罪人も,キリストには何の罪もないということを証言しています。この場にいた多くの人々にとって,イエスの死は一つの悲しい終わりにしか見えませんでした。群集は,胸をたたいて悲しみながら帰路につき,イエスの周りにいた人々はただ呆然と,イエスの死を見つめるほかなかったのです。私たちもまたこのような状態に陥ることがあります。何の希望も見出せないそのようなときが確かにあります。クリスチャンであれば,そのときどう行動するでしょうか。おそらくその答えの一つは「祈り」でしょう。イエスは「わが霊を御手にゆだねます」と祈りました。しかし,それは私たちが口にするあきらめのような言葉ではありません。それは神に対する確かな信頼から出る祈りでした(詩篇31篇)
3. 完成と新たな出発
ここで,イエスは無残な最期を迎えたかのように見えました。しかし,実はこのとき偉大な一つのことが成し遂げられ,そして大いなる希望の新しい時代へと突入したことを,聖書は語ろうとしています。何が成し遂げられたのでしょうか。成し遂げられたのは完全な罪の赦しの完成です(ヘブル9:12)。イエスはご自分の身をささげることにより,永遠の贖いを達成されたのです。そしてそれは大いなる希望の時代がスタートしたということでもあります(ヘブル10:19,20)。神殿の幕が二つに裂かれたことはこのことを表しています。古い方法が打ち破られ,新しい生ける神への道が開かれたのです。十字架を前に,人間は何も変わりませんでした。しかし,神の側から私たちに新しい道を開いてくださったのです。「新しい生ける道」これこそがイエスの十字架の死と復活によって開かれた道です。神があなたをわが子のように守り,導き,諭し,そして多くのものをゆだね,ともに歩もうと言ってくださっているのです。
[考えるために]
イエスの十字架によって成し遂げられたことは何でしょうか。
また何が開かれたのでしょうか。
投稿者 mb-church : 07:26
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2009/2/22礼拝メッセージ
2009年2月22日の礼拝メッセージの要約です。
この日は吉澤慎也神学生のメッセージでした。
ハバクク書1:1~2:4
「正しい人はその信仰によって生きる」
1. 歴史的背景
前721年:アッシリヤ、北イスラエルを滅ぼす
前621年前後:ヨシヤ王の宗教改革
前609年?:ヨシヤ王の死
前605年:バビロン、エジプトを破る
(カルケミシュの戦い)
前587年?:バビロン、エルサレムを征服
前539年:ペルシャ、バビロンを征服
2. ハバクク書アウトライン
1:1~4:ハバククの問いかけ1
1:5~11:神の応答1
1:12~2:1:ハバククの問いかけ2
2:2~4:神の応答2
2:5~20:悪者へのさばき
3:1~19:ハバククの祈り
3. メッセージ概要
南ユダ王国のハバククは、神に抗議した預言者。ハバククはまず、神はなぜ悪を見過ごされるのか、と問うた。これは現代の私たちにとっても大きな問題となる。当時の南ユダ王国は不安定な情勢の中にあった。神様は、その悪を罰するためにバビロンを起こす、と答えられた。ハバククは次に、残虐な異教徒バビロンによって契約の民イスラエルが滅ぼされるのはおかしい、と抗議した。
最終的な神様の答えは「正しい人はその信仰によって生きる」。揺るぎない信仰で神を待ち望む人こそが正しい人で、その人は生きる。神の義がそのような信仰に進ませてくださる(ローマ1:17)。また苦難は信仰を強めもする。私たちも「その信仰によって」生きたい。
投稿者 mb-church : 18:01 | コメント (0) | トラックバック
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2009年2月15日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:39~43
「今日という日に」
1. 知られざる真実
イエスと二人の犯罪人の知られざる真実がここに記録されています。今日の場面が人々に与えたインパクトは計り知れないものがあります。ルカは常にコントラストを意識していました。それは,「神に義と認められた人」と,もう一方は「自分で自分を義とする人」です。これは現代においても当てはまることでしょう。イエスは,私たちがもともと持ち,考えていることを大逆転させようとしています。私たちが大丈夫だと思い込んでいることや頼っていることでは,本当にはあなたは救われないと語るのです。この救われた強盗は,ただイエスを信じたがゆえに,救われたという驚くべき証人なのです。
2. 二人の強盗
強盗の一人はイエスに悪口を言い続け,イエスに要求します。「自分と私たちを救え!」彼は何の反省もないまま,私たちを救えとイエスに命令をします。この姿に表されているのは,自分で自分を義とする者の姿です。もう一方の強盗はこのように言います。「おまえは神をも恐れないのか。」この一言に聖書が私たちにつきつける大きな問いがあります。「あなたは神を恐れるのか,恐れないのか?」さらに彼はこう言います。「あなたの御国の位にお着きになるときには,私を思い出してください。」死が目の前に迫ってきた最後の瞬間に,彼はイエスへの信仰を告白したのです。彼は最後の最後で,キリストに出会い,神の前にへりくだり,そしてただ自分のことを覚えていてほしい,そうイエスに願ったのです。
3. イエスの応答
イエスの答えはこうでした。「あなたは今日,わたしとともにパラダイスにいます。」これは救いの宣言です。この言葉は「私とともに,神の前に義人と数えられる」という意味です。この強盗は,イエスをキリストと信じたがゆえに,義と認められたのです。彼は当時,決して神の国に入るとは考えられない人でした。その彼が,最後にキリストを信じたがゆえに,赦され神の国へと導かれました。これほどの逆転劇はありません。神の救いは私たちの考えるものとは異なります。私たちが思う秩序や優劣ではなく,神がご覧になっているのは,私たちの本当の姿です。この十字架上の強盗が,私たちに示しているのは,神の救いは,どのような状況にあっても,誰であっても,キリストを信じる人に与えられるということです。イエスを信じるときに,今,神に受け入れられるのです。
[考えるために]
十字架上の強盗の救いは,私たちに何を示しているでしょうか。
神の救いは,誰に与えられるのでしょうか。
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2009年2月8日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:32~38
「自己矛盾にある私たち」
1. 十字架刑
イエスは十字架にかけられました。通常,人々は十字架の苦しみを目の当たりにして罪の重さを見ます。このとき,イエスを真ん中にして,その両隣に二人の犯罪人がつくことになりました。十字架上で,イエスは七つの言葉を語ったと聖書は記述しています。その一つは「父よ。彼らをお赦しください。彼らは,何をしているのか自分でわからないのです」この祈りの言葉でした。「彼ら」とは誰のことなのでしょうか。
2. 詩篇22篇
この時の出来事は詩篇22篇を思い起こさせるものでした。この詩篇は「義人の苦しみ」が題材となっています。神を信じる者が受ける不当な苦しみ,そこから,神は救ってくださるという内容です。イエスもまたこの詩篇と同じ気持ちだったのでしょうか。そうではありませんでした。イエスはこう祈ったのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは,何をしているのか自分でわからないのです。」この言葉は,神の子として,神と人との仲介者として,祈られたとりなしの祈りです。
3. 自己矛盾を抱えた人々
何をしているのかわからない人々。正しい者,神の子を十字架にかける人々。しかし,それだけではありません。私たちは神にあって正しいことを求める人にもなりえるし,また,人を傷つけ,神のみこころを損なう罪人にもなりえてしまう者たちです。パウロもローマ7章でこう言い表しています。「私には,自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく,自分が憎むことを行っているからです。」私たちの存在は,まさに善と悪のどちらをも抱え込んでいるのです。イエスに対しても,救って欲しいと願う一方で,自分の思いにイエスが沿わないのであれば,イエスなどいらないという思いを持ってしまうのです。
4. 聞き続ける信仰
私たちはどうしたら,この自己矛盾の状態から脱することができるのでしょうか。どうしたら,神に喜ばれる歩みをすることができるのでしょうか。どうしたら罪の支配から自由になることができるのでしょうか。その答えこそ十字架にあるのです。私たちはその十字架にあらわされた神のあわれみと,神の赦しのことばを聴き続ける必要があるのです。
[考えるために]
私たちの抱えた矛盾から,どのようにしたら脱することができるでしょうか。
投稿者 mb-church : 17:56 | コメント (0) | トラックバック
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2009年2月1日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:26~32
「嘆くべきこと」
1. 嘆き悲しむ女たち
今日の箇所は,ルカだけが記している内容です。この箇所を読むとあることに気がつきます。それは民衆と女たちの群れという二つのグループが,この十字架の前にいたのだということです。当時のユダヤの指導者たちは男性によって構成されていました。イエスを十字架に掛けろと叫んだ民衆の大多数は「男性」であったと考えられます。では,女性たちはどうであったのでしょうか。女性たちはイエスの十字架刑を決定した当事者ではありませんでした。それでは十字架の贖いは,そこに関わっていなかった女性たちには関係はないのでしょうか。今の私たちも十字架の現場にいなかったから,十字架と私とは関係がないのでしょうか。今日の箇所で,改めて確認させられるのは,十字架と無関係な人は一人もいないのだ,ということです。
2. 目の前の嘆き
女性たちは,嘆き悲しんでイエスの後をついていきました。絶望的な悲しみがありました。当時の女性の地位はかなり低いものです。その彼女たちにイエスは声をかけられ,慰め,受け入れてくださいました。そのイエスが十字架刑に向かう…。女たちは十字架を前にして悲嘆にくれています。彼女たちは,激しく感情がゆさぶられて涙を流しています。しかし,この女性たちに向かってイエスはこのように声を掛けられました。「わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と,自分のこどもたちのことのために泣きなさい。」
3. 本当に嘆くべきこと
イエスは言います。あなたが嘆いていること以上のことが,あなた自身に起こるのだからと。自ら死を求めるほどの過酷で絶望的な状況が来るというのです。これをこの後のエルサレム崩壊のことと受け取ることもできます。そして私たち自身の末路を意味しているともいえるでしょう。イエスは,私たちに,起きている悲惨な現実,出来事にただ心を奪われ,悲しみに支配されるなと言われます。目の前にある嘆きや悲しみ,それ以上に,私たちが後に置かれる裁きの現実,本当の滅び,悲しみへと目を向けなさいと言われるのです。イエスがこう言われるのは,その先にあるキリストの十字架の救いを受け取って欲しいからこそ,語られているのです。「十字架の言葉は,滅びに至る人々には愚かであっても,救いを受ける私たちには,神の力(Ⅰコリント1:18)」なのです。
[考えるために]
なぜ聖書で裁きが語られるのでしょうか。
イエスは私たちに何を受け取って欲しいと思っているのでしょうか。
投稿者 mb-church : 17:54 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2009年02月13日
2009/1/25礼拝メッセージ
2009年1月25日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:17~25
「一人の罪人の身代わりに」
1. 人々の熱狂
危機的状況の中で,人々は優秀なリーダー,強力なリーダーを求めます。そして,そのような期待を抱かせる人物が登場すると,大勢の人々は期待をもって迎えます。しかし,もしその期待が裏切られることになるのだとするならば,どうなるのでしょうか。イエスもまた,熱狂的な期待の中,エルサレムに迎え入れられました。しかし,その期待は裏切られることになります。反対する者たちに,イエスは捕らえられます。もし力ある王ならば,そのような現状を打開することなど造作もないことでしょう。しかし,イエスはそうされなかったのです。その姿は,人々が期待し,また慕い従ってきた王の姿とはかけ離れたものでした。民衆の結論は「十字架」でした。
2. 罪人の身代わりに
「この人を除け。バラバを釈放しろ。」バラバは著名な犯罪人でした。この罪人と引き換えにイエスは十字架に架かったのです。そのような決断をさせたのは民衆の声でした。その民衆はごくごく普通の人々です。「イスラエルのすべての人々」がイエスを十字架につけたのです。すべての人,そこには例外となる人はいません。私たちもまた,あの現場にいたならば,イエスを十字架にかけろ!と叫ぶ民衆の一人なのだと聖書は私たちに問うのです。自分の罪を棚上げにし,決して自分こそが罪人だと認めない私たちの姿がそこにあります。イエスは,大勢の罪人によって十字架に掛けられました。そしてそれは奇しくも,たった一人の罪人のために十字架に掛けられるということになるのです。
3. 私のこととして
あなたはこの一人の罪人なのではないかと聖書は私たちに訴えかけます。このイエスの十字架とあなたとは決して無関係ではなく,あなたもまた罪人の一人であり,イエスが身代わりとならなくてはいけないのだ,そう聖書は私たちに問います。キリストは,罪ある人に向けられた神の怒りを,その裁きの全てを,その身に負ってくださいました。しかし,それは本来は神が負うべきものではありません。イエスは私の罪の身代わりにその刑罰を受けてくださった,そう信じ,告白するなら,私たちは神の赦しを受けることができます。そして,神の子としての生涯を歩むことができるのです。ともに神の前に悔い改め,キリストの犠牲に感謝いたしましょう。
[考えるために]
神の払った犠牲の大きさを,イエスを通して考えてみましょう。
投稿者 mb-church : 12:09 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2009年01月17日
2009/1/4礼拝メッセージ
2009年1月4日の礼拝メッセージの要約です。
使徒の働き18:9~11
「この町には,わたしの民がたくさんいる」
1. 第二回伝道旅行
「この町には,わたしの民がたくさんいるから。」この時パウロは2度目の伝道旅行の最中でした。第一回目の伝道旅行を通して示された異邦人の救いが,エルサレム会議を経て,正式に教会で認められ,そして全ての民が一致する教会の姿が与えられました。パウロは大きな希望抱き,夢を描き,第二回の伝道旅行に出発したことでしょう。しかし,それは彼の思い描いたものとは異なるものとなったようです。確かに訪れる町々で,イエスを信じる人は起こされます。しかし,ユダヤ人たちはパウロたちに反対しました。パウロは敵対する人々によって,町を追われてしまうという繰り返しに陥ってしまったのです。
2. コリントにて
パウロは目に見えるような成果がないまま,コリントへと導かれました。このコリントで彼は力強い同労者を得ます。同労者も得て,パウロ自身がみことばを教えることに専念できる環境も整い,これからという時に,またしてもユダヤ人たちの反発が起こったのです。パウロは激怒しました。パウロが願っていたのは,決してこのようなものではなかったはずです。イエスを信じる信仰によって,全ての人は神の民となる・・・みことばを伝え,イエスが救い主であることを教えれば,ユダヤ人も異邦人も一つとなって救われていく・・・イエスが望んだ神の国の姿が実現していくことをパウロは望んでいたことでしょう。しかし,現実は決して成功とはいえない宣教の結果でした。
3. 神の取り計らい
彼の言葉は,そのような中で思わず出てしまった悲痛な叫びです。このときのパウロはもうどうにもならない状態でした。なぜ同じことが繰り返されるのか,そのような苛立ちがパウロの悲痛な叫びには表されています。パウロはユダヤ人の会堂を離れ,テテオ・ユストの家へと宣教の拠点を移します。それが思わぬことを引き起こします。そこでも救われる人が起こされたのです。そして,ある夜,主から語りかけをパウロは聞きます。「この町には,わたしの民がたくさんいるから」と。パウロの目に映ったものとは異なり,神の目には,すでに多くの主の民がコリントにはいると映っていたのです。私たちもまた,この神の思いを知る者とさせていただきましょう。
[考えるために]
神の目には,私たちの周りはどのように映っているのでしょうか。
投稿者 mb-church : 15:35
メインページへ2008年12月19日
2008/12/14礼拝メッセージ
2008年12月14日の礼拝メッセージの要約です。
ヨハネ1:9~13
「神の子とされる特権」
1. まことの光
私たちは,太陽が光であることを疑わない人はいません。しかし,イエス・キリストこそまことの光であるという言葉に,すべての人がうなずくことができるかといえば,できないのが現実です。その現実をヨハネはここで表しています。確かにイエスはこの世界に来られましたが,世はこの方を受け入れませんでした。この言葉どおりのことが,今も起きているのです。
2. 真の知識
太陽が光であるという言葉と,イエスこそまことの光であるという聖書の言葉とは何が異なるのでしょうか。科学的な説明と聖書による説明とは何が違うのでしょうか。科学が発展する前は,聖書の権威は今よりもずっと確かで強いものでした。しかし,今は聖書の権威が低下しています。なぜなら「絶対的な神」「万物の創造主なる神」という存在が薄れてしまっているからです。しかし,神に対する信頼に基づくならば,私たちの聖書に対する姿勢は変わります。私たちはあまりにも物事を表面的に見ようとしてしまう傾向があります。しかし,聖書は,目に見えない神,そして私たちの人格における真の知識と知恵を扱っているのです。
3. 人という存在
聖書は私たち人のことを「神の似姿に造られた」存在であると教えています。私たちは他の動物とは明らかに違う存在です。ヨハネはそのことを,イエスを通して私たちが造られたと語りました。しかし,そのような特別な存在であるにもかかわらず,一番肝心な部分が私たちから抜け落ちていくことになります。それが「神」の存在です。私たちは自分自身が神であるという人間中心的に自らを変えてしまったのです。人の悲劇はここから生じ,その重大な欠損部分が広がってしまっています。私たちの周りには問題が山積しています。
4. 神の救い
私たちには救いが必要です。一時的な救いではなく,永遠の救いが必要なのです。イエスを救い主として受け入れるときに,私たちに一時的な救いではなく,永遠の救いが与えられます。神の子どもとされる特権を私たちは得るのです。もうあなたを神からの離反者,罪人とみなさず,あなたを受け入れ,あなたを守り,あなたを導く,神の子としての地位が与えられるのです。
[考えるために]
私たちにとって,本当に大切な知識,知恵とは何でしょうか。
神の子とされる特権は,私たちに何をもたらすでしょうか。
投稿者 mb-church : 19:15 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2008/12/7礼拝メッセージ
2008年12月7日の礼拝メッセージの要約です。
ヨハネ1:6~9
「光を指し示す声」
1. バプテスマのヨハネ
バプテスマのヨハネの存在は,当時のユダヤ人にとって決して無視することのできないものでした。彼の語ることに当時の人々は注目しました。その彼が生涯をかけて指し示した人。それがイエス・キリストです。バプテスマのヨハネは「この人こそ救い主である」とイエスを人々に紹介したのです。では,なぜヨハネの証言が重要なのでしょうか。
2. 聖書の語る光
今の時代,情報が数多く氾濫している時代です。今私たちは何を信じ,何に頼って生きているでしょうか。しかし,最も根源的でかつ,最も身近なこと,つまり,私はなぜここに存在し,何をすべきなのかという問いには,世の中に氾濫している情報は答えを与えることはできません。その一方で,聖書は語ります。あなたは神によって,イエスに関係するものとして創造されたと。あなたはイエスにあって,本当のいのちを得,本当の光を得ると。なぜイエスこそ真の光だと断定できるのでしょうか。
3. ヨハネの証言
私たちにとってヨハネは昔の人です。また,ユダヤ地方の一宗教家でしかありません。しかし,なぜこれだけ注目を集めるのでしょうか。その最大の理由は,ヨハネが神のことばをそのまま表した「声」だったということです。多くの情報の中で,何が真実なのか私たちは見極める必要があります。イエスとは誰なのか,そのことを見極めるためには,この聖書のことばが最も重用なものとなります。なぜなら,聖書こそ「神のことば」であるからです。そして,バプテスマのヨハネは,この神のことばである聖書を,その身にあらわした人だったのです。
4. 多くの証言
これは何もバプテスマのヨハネだけに限りません。教会の歴史の中で,数多くの信仰者たちが,指し示してきたこと,それは自分の成功や権威ではありませんでした。彼らが生涯をかけて指し示したのは,聖書の神こそ私の救い,イエスこそ私の光であるということなのです。イエスこそまことの光。皆さんは,どのようにこの言葉を受け取られているでしょうか。そして,皆さんの中には,まことの光があるでしょうか。この先,何が起ころうとも,ゆるがない土台はあるでしょうか。ともにこの光を抱いて歩ませていただきましょう。
[考えるために]
私たちのうちにゆるがない土台はあるでしょうか。
投稿者 mb-church : 19:13
メインページへ2008年12月06日
2008/11/30礼拝メッセージ
2008年11月30日の礼拝メッセージの要約です。
ヨハネ1:1~5
「神のことばなるイエス」
1. はじめに
「はじめに,ことばがあった。」これは,創世記の第一文が意識されています。ことばとは何でしょうか。ここで意識されているのは,ギリシャ哲学のロゴスではありません。これは神の思い,神のみこころ,神のご計画,そのようなものが含まれた,まさに神が人格を持って語ったことばそのものを表しています。このことばは神とともにあり,神であったと記されています。この「ことば」こそイエス・キリストを指しています。キリストこそ神のことばそのものであり,神である方であり,すべてのはじまりの時からおられた方であると語られています。ここで表されているのは,イエス・キリストの神性です。
2. 神のことば
キリストが神のことばであるということはどのようなことでしょうか。神のことばとは,「必ずなる」ものです。キリストそのものが,神の約束の成就であり,また神そのものを表しており,神のみ思いそのものなのです。ですから,私たちはキリストを見,知り,キリストのことばを聞くときに,神そのものを知ることになるのです。そしてすべてのものは,この方を通して造られました。キリストのために私たちは造られたのです。キリストは私たちの存在に関わっておられるのです。そしてそれは私たちにキリストが反映されるということでもあります。
3. この方にあるいのち
「造られたもので,この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。」しかし,ここはこのように訳すことができます。「この方によらずにできたものは一つもない。造られたものは,この方にあっていのちがあった。」すべてのものはキリストを通して造られました。そこには例外はありません。そしてすべてのものは,イエスにあっていのちがあるのです。つまり,キリストに私たちがなければ,そこにはいのちがないのです。さらに5節でこう宣言されます。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」キリストの光,そこにあるいのちは,この世の,私たちの闇を凌駕するものです。キリストにあるものは必ず真の光,永遠のいのちを得るのです。
[考えるために]
私たちは,誰にあって真のいのちを得ることができるのでしょうか。
投稿者 mb-church : 17:49 | コメント (0) | トラックバック
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2008/11/9礼拝メッセージ
2008年11月9日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:39~46
「みこころを求めて」
1. ゲッセマネの祈り
有名なイエスの祈りの場面です。しかし,ルカの福音書は他の福音書とは異なる描き方をしています。ルカは,ここでの出来事をとても簡潔に記しています。この個所は,私たちに対してシンプルにこう語っているようです。「これからおこるであろう苦難,信仰の試練に対し,霊的な備えをせよ。その備えこそ祈りであると。」この箇所で私たちが気づかされるのは「いつものように」という言葉です。私たちには,いつものように祈るとき,そして祈る場所が確保されているでしょうか。
2. 誘惑に陥らないように
この「誘惑」とはなんでしょうか。イエスは次のように祈られました。「父よ。みこころならば,この杯をわたしから取り除けてください。しかし,わたしの願いではなく,みこころのとおりにしてください。」この祈りの言葉は,神に祈られた言葉であると同時に,弟子たちに教えるための祈りでもあるでしょう。イエスはまず祈られます。できればこの苦難をわたしから取り除けてくださいと。しかし,ここで重要なのは次の言葉です。「しかし,わたしの願いではなく,みこころのとおりにしてください。」これこそがキリストの弟子の祈りであり,確かな備えの祈りなのです。
3. 悲しみの果てに
しかし,この祈りは,非常に祈るのが難しい祈りでもあります。ここでも,弟子たちは「悲しみの果てに,眠り込んで」しまいました。他の福音書では,疲れて眠ってしまったかのような記述になっています。しかしルカでは悲しみから彼らは眠ってしまったというのです。一方でイエスは,十字架の苦しみを前にして,いつものように,いつもの場所で祈られました。しかし,そのもう一方の弟子たちは,いつものように,いつもの場所で,試練を前にして,祈ることをせず眠ってしまったのです。私たちにイエスは語られます。くじけそうになる事柄を前にして,祈らず眠り込んでしまった弟子のようではなく,私のように絶えず祈りなさい,と。その祈りは,ただ熱心に祈ればよいわけではありません。「わたしの願いではなく,みこころのとおりにしてください」と祈るように導かれているのです。私たちは,祈る前からここでの弟子たちのように眠り込んでしまっています。私たちはみこころを求める祈りによって,目に見える剣よりも確かな武具を手にすることになるのです。
[考えるために]
私たちには,祈りの場所,祈りの時間が確保されているでしょうか。
また,その祈りは何を願う祈りなのでしょうか。
投稿者 mb-church : 09:43
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2008/11/2礼拝メッセージ
2008年11月2日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:35~38
「十分な備え」
1. イエスの問いかけ
「わたしがあなたがたを,財布も旅行袋も持たせずに旅に出したとき,何か足りない物がありましたか。」弟子たちを訓練するための宣教旅行のことをイエスは話に出しました。この旅行は,弟子たちにとっての成功体験でもありました。このように聞かれた弟子たちは「何も不自由はありません」と答えました。しかし,イエスは続けて今は持ち物をしっかりと持ちなさいと言われたのです。しかも,剣のない者は,着物を売ってまで剣を揃えなさいと言いました。
2. 誤解
以前の旅行で弟子たちは,イエスの名の偉大さ,すごさを知ることとなりました。それと同時に,彼ら自身が「力を得た」と感じたことでしょう。しかしその弟子たちにイエスはこう教えました。ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさいと。さらに今日の箇所で,イエスは持ち物をしっかりと持ちなさいと教えられました。さまざまな持ち物,刀なども比喩なのでしょう。しかし,弟子たちはその比喩に気がつきませんでした。弟子たちはまったくイエスの言葉を理解していなかったのです。いよいよイエスとともに戦いに赴く,そのような様子が見て取れます。
3. イエスの答え
イエスは続けてお語りになりました。「彼は罪人たちの中に数えられた」とは,イザヤ書53:12の言葉です。これは十字架の苦難の預言です。イエスはこれから十字架に向かうとはっきりと語られた上で,備えるべきものを備えよ,そう命じられたのです。イエスの備え,それは信仰における備えです。ここではその信仰における備えと,さらには信仰の自立をイエスは促しています。信仰における自立のために「霊的な備え」をしなさいと教えられました。ただ受けるだけのものではなく,備えなさい,と言われたのです。私たちが強いのではありません。また私たちは何もしないでいても大丈夫なのではありません。神が,主イエスが強いのであり,また,みことばにその力があります。私たちは神の真理に逆らい,神の正しさや聖さにではなく,自分の正しさや基準に立とうとしてしまいます。私たちは信仰の備えをしなくてはならないのです。祈りによって,またみことばを学ぶことによって,さらに主イエスに従うことによって,私たちは信仰の備えをしてまいりましょう。
[考えるために]
霊的な備えが十分にされているでしょうか。
そのために私たちは何をすべきなのでしょうか。
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2008/10/26礼拝メッセージ
2008年10月26日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:31~34
「あなたのために祈る主」
1. 苦しみの中で
「神はなぜこのような現実を許しておられるのか。」私たちは苦しみの中叫びます。神が自分を見捨てていると思うときが私たちの生涯の中でもあります。「サタンが,あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って」とイエスはペテロに語りました。「あなたがた」とあります。イエスを信じる全ての人に対して「あなたがた」と言っています。キリストを信じる歩みの中で信仰における試練を与えることを,神が許容されることがあるというのです。ペテロにもそのようなことが起こりました。「三度の否認」でした。自分の力でイエスに従えると思っていたペテロ。それなりに自信も持っていたことでしょう。その彼が,自分の弱さ,欠けをまざまざと知らされる出来事に遭遇するのです。イエスはこのことを知っていたにもかかわらず,この言葉通りになります。
2. 神の方法
分かっているならば回避してくれればよかったのに,と思います。しかし神の方法は違います。イエスは,「あなたの信仰がなくならないように,あなたのために祈りました」と言われました。ここで対比されているのは,サタンの願いと神の子キリストの祈りです。サタンの願いは,一時的に聞き届けられているかのように見えます。それは一時的であり,不変なものではありえません。しかし,イエスの祈りはどうでしょうか。イエスの祈りは完全で,圧倒的な力に満ちたものです。この祈りは,今もわたしたちに向けて祈られている祈りでもあります。わたしたちは何も守りのないなか,放り出されているわけでは決してありません。絶えず祈ってくださる主イエスのとりなしの祈りの中,わたしたちは導かれていると言えるのです。
3. 失敗の中から
ペテロは予告通り失敗をしました。しかしイエスはこのようにペテロに語りかけています。「だからあなたは,立ち直ったら,兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエスは知っていました。必ずペテロは試みにあうが,必ず立ち直ると。私たちが苦難を通るときに,私たちは同じように神から人生の歩みを与えられた人々を励ますことができるように整えられます。私たちに与えられた苦しみは,ただ自分だけの苦しみではありません。その苦しみは,すでに誰かが通った道であり,そしてこれから多くの人々が通るであろう苦しみなのです。主は今も祈ってくださっているのです。
[考えるために]
神のとられる方法は,私たちとは同じなのでしょうか。
今もイエスは私たちに何をしてくださっているのでしょうか。
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2008年10月19日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:22~30
「仕える者のように」
1. 聖書の原則
聖書の言葉は,書かれた時代の言葉として読まなくてはなりません。この箇所においてもイエスが最後の晩餐のその場で,弟子たちに語られた言葉として読むということが第一です。しかし,もう一つの視点があります。それは当時の教会に語られた言葉としての視点です。弟子たちに語られたこれらの言葉は,当時の教会の信仰者に対して語られたものでもあります。そしてそれはまさに今の私たちに対して語られている言葉であることを意識したいと思います。
2. 裏切り
聖餐の直後,イエスはこう言われました。「しかし,見なさい。わたしを裏切る者の手が,わたしとともに食卓にあります。」直接的にはユダのことでしょう。しかし,これは聖餐を受けたものがみな受けるべき自己吟味でもあります。これは教会の話でもあるのです。イエスはその上でこう言われました。「人の子は定められたとおりに去っていきます。」 誰が裏切るか,そのこともイエスは知っていました。しかし,それでも十字架に架かられたのです。私たちが罪人であるにもかかわらずそうなさったのです。そのことを知っていてなお,イエスを裏切るような人は「わざわい」なのです。
3. 比較を超えて
弟子たちは犯人探しをし始めました。それが発展して,とうとうこの中でだれが一番偉いのかという論議にいたるのです。これは私たちの悲しい罪の現実です。罪を自分のものとしてではなく,他者との比較の中でとらえてしまう私たちの愚かさが表わされています。しかし,そこで,イエスは教会に大きな知恵を与えてくださいました。神を信じ,キリストに従う者は,自分を誇るのではなく,一番年の若い者のようになり,仕える人のようでありなさいと勧められました。人との比較の中で,自分を正しい者とするのではなく,私たち自身が一番弱く,貧しく,むなしいものであることを自覚し,仕える人となること。それはまさにイエスの姿でした。自己正当化では,私たち自身の罪はどうにもなりません。自己正当化をすることによって,神の憐れみやキリストの十字架の恵みを取り逃してしまうことでしょう。たとい誰からも評価されなかったとしても,イエスが私たちの忠実な歩みをご覧になっています。そして,神の国での祝福を約束してくださっているのです。
[考えるために]
私たちの基準はどこにあるのでしょうか。自己正当化に陥ってはいないでしょうか。
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2008年10月12日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:7~22:23
「これを覚えなさい」
1. 最後の晩餐
十字架にかかる日が近づいてきました。異様な緊張感がこのときのエルサレムの町にはあったのではないかと思います。民衆の期待と祭司長たちの殺意。そのような中で「最後の晩餐」は開かれました。この食卓が聖餐式のはじめの時となります。この聖餐式はもともと「食事」でした。この食事は過ぎ越しの食事と呼ばれるものでした。この食事こそ,神の救いを思い起こすときであり,神との契約の証でもありました。
2. イエスの晩餐
この過ぎ越しの食事をイエスは新たなものとしました。十字架の贖い,そして救いの新しい契約・・・イエスは,これから起こる出来事を何度も思い起こすようにとこの食卓を弟子に用意しました。「神の国が完成するその時まで,過ぎ越しの食事はしない。」それは必ず私は神の国で,あなたとともに食事をするという約束の言葉です。この食卓は,神の家族の全員が招かれている食卓です。一人で飲み食いするのではなく,一つのパンと一つの杯を分かち合うようにと命じられています。
3. 教会の晩餐
過ぎ越しの祭りは一年に一度でした。しかし,聖餐式はいつでも開かれます。過ぎ越しの食事と違い,教会ではキリストの聖餐をいつも開きました。なぜなら,キリストの十字架の出来事が,今信じる者にとって,今まさに目の前で起きる出来事でもあるからです。イエスは「わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われました。聖餐の中心にあるのは「イエスを覚えること」そして「新しい契約」を私たち自身に絶えず刻みつけ,告白していくことにあります。それは儀式としてというよりも,みことばが語られ,イエスの教えが語られ,そして,十字架の死において流された血潮とささげられた体を覚えるときであり,さらには主の約束を思い返す時でもあるのです。
4. 私たちの晩餐
イエスは私たちと親しく食事をともにしてくださいます。イエスご自身を私たちに与えてくださいました。そして,神の国で杯を交わそうと約束してくださったのです。今は目の前にイエスはいないけれども,信仰を持ってこの食卓に着くときに,私たちの目の前にイエスはいてくださるのです。
[考えるために]
イエスが備えられた聖餐には,どのような意味があるのでしょうか。
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2008/10/5礼拝メッセージ
2008年10月5日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ21:37~22:6
「すべての人」
1. イエスの周囲
十字架を前にしたイエスの周囲には様々な人々がいました。まず「民衆」がいました。民衆はみな朝早くおきて,教えを聞こうとして,宮におられるイエスのもとに集まってきました。それは彼らの熱心さをあらわしています。それと同時に,イエスに対する彼らの期待の高さをも示しています。さらに過ぎ越しの祭りに入り,民衆の熱気は高まっていったことでしょう。その民衆の一方で,祭司長,律法学者たちは,イエスを殺すための良い方法を探していました。
2. 弟子たち
ここでは12弟子の一人の姿が記されています。それはユダです。ユダの裏切りは初期の教会で非常に大きな問題となったことでしょう。また彼を単純に悪者にはできない背景もあったのではないかと思います。他の福音書においてもユダの裏切りが取り上げられていますが,それぞれに特色があります。いずれにしてもユダの裏切りは衝撃的な出来事でした。これをどう教会は受け止めたのでしょうか。もう一つの問題はイエスが自ら十字架を予告していたということです。ユダの裏切もまたイエスは承知していたということも,弟子たちは知っていたのです。悪を神が誘発したのか,それとも神は悪を容認されたのか。ここでは「サタンが入った」と説明をしています。そうとしか言えないほどに私たち人間は弱いという現実があります。しかしそれだけではありません。そのことさえも神はご存知であるというもうひとつの側面があるのです。
3. すべての人
一見無害に見える群衆も,明らかにイエスに敵対していた祭司長たちも,さらにキリストの弟子たちも,裏切ったユダも,ここにいるすべての人が,イエスの十字架と無関係ではありません。群集は熱心にイエスの話に耳を傾けていました。しかし,彼らもまたイエスを十字架にかけることに賛同していきます。弟子たちも最後までイエスに従うことのできなかったものたちです。ここに登場する人すべてが罪人であり,それは私たちも同様です。しかし,主の名を呼ぶものは,みな救われる,これもまた聖書の語る真理なのです
[考えるために]
私たちの弱さとは何でしょうか。
神は私たちの弱さをどのように受け止めておられるでしょうか。
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2008/9/28礼拝メッセージ
2008年9月28日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ21:29~36
「神の約束を信じて」
1. 時を見極める
「この世界がいつまでも続くように」そう願うものです。私たちはイエスが口にされたその世界の悲惨な現状を見て祈ります。「どうか,ここに平和が,神の国が来ますように」と。イエスの宣教はこの言葉でスタートしました。「時が満ち,神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」イエスは時を見極めなさいと言われます。ここでそれをたとえを用いて説明しました。木が茂ることにより,季節の到来を知ると同じように,今がどのような時かを見極めなさいというのです。
2. 時の捉え方
イエスが語られた「その時」とは恐ろしい審判の時であるような気がします。よく耳にする最後の審判と呼ばれているものです。イエスも私たちを脅しているのでしょうか。この天地は滅びる,だから今信じなさいと言われているのでしょうか。全てが手遅れとなってしまうその前に神に立ち返りなさい,と勧めているのは確かなことです。しかし,ここでイエスは何か分からないけれど,恐ろしいから信じるようにと言っているのではありません。イエスは「本当の現実をしっかりと知りなさい」と仰っているのです。
3. 神の国の到来
神の国が来るとはどういうことでしょうか。それは,世界の終わりだけを意味しているのではありません。それは神の救いの完成の時です。あらゆる苦難や現実に対する神の完全なる回答が,「神の国の到来」です。イエスが教えられた「主の祈り」の中にもこの事が祈られています。これは「この世界を救ってください」という切実な祈りでもあります。神の国が来るということは2重の意味を持っています。それは「滅び」と「救い」です。滅びは罪の世の滅びです。そして救いは罪の世が過ぎ去り,そして神の国がここに到来することです。私たちの目に見えるものすべては崩れ去り,過ぎ去ります。しかし,神の言葉は決して滅びることはありません。つまり,神の約束が無に帰することはなく,神の救い,神の国は必ず来るということなのです。だからこそ,私たちは世に流され,落胆することなく,神の国が来ますようにと祈るものとさせていただきたいのです。
[考えるために]
主の祈りの意味をもう一度考えましょう。
私たちは何を祈っているのでしょうか。
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2008/9/21礼拝メッセージ
2008年9月21日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ21:20~28
「頭を上にあげて」
1. 世の終わり
「世の終わり」はいつの時代においても語られてきました。終末ということを,私たちは聖書から正しく知ることが必要でしょう。聖書は始まりがあり,終わりがあるということを語っています。始まりはこの世界の始まりであり,私たちのいのちの始まりでもあるでしょう。そして終わりは人の生涯の終わりであり,この世界の終わり,終末のことをも指しています。しかし,その「終わり」は同時に「神の国の完成」「神の国の開国」の時と言ってもいいものなのです。
2. 二つの終わり
イエスは「世の終わり」について2つの側面から語りました。一つは「エルサレムの終焉」ともう一つは「世界の終末」です。「エルサレムの終焉」これは歴史の中ですでに起こった出来事です。「滅亡」「逃亡」「痛み」「大きな苦しみ」「神の怒り」それは悲しい現実です。当時の人々は神を信じる者にはこのようなことは起こらないと考えていました。しかし,イエスの認識は違いました。なぜならそのこともまた神によって預言された現実の苦難だったからです。この苦難は神の知らないことではなく,神が報いる日でもありました。さらにこの苦難に終わりがあります。「異邦人の時の終わるまで」さらに「人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗ってくる」その時こそ終わりの時です。
3. 贖いの時
初代教会は実際にエルサレムの滅亡に直面しました。その現実を目の当たりにしたとき,彼らはイエスのことばを改めて現実のものとして受け取ったことでしょう。そして,身を引き締めたに違いありません。ここでイエスは言われました。「これらのことが起こり始めたなら,からだをまっすぐにし,頭を上げなさい。」苦難は起こる,しかしそのときこそ,頭を天に向け,神を見上げよとイエスは言いました。なぜなら「贖いの時」がいよいよ来たのです。つまり神の国がここに到来し,完成する・・・それが贖いの時です。私たちもまた苦難の先にある神の救いを,神の贖いの時を信仰によって見させていただきましょう。主イエスの十字架の苦難と死の先にある,復活の栄光と新しいいのちを見上げさせていただきましょう。
[考えるために]
私たちの苦難の先に,主イエスは何を約束されたのでしょうか。
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メインページへ2008年10月04日
2008/9/14礼拝メッセージ
2008年9月14日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書21:10~19
「忍耐によって」
1. イエスの預言
「恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。」すでにこれらのことが,私たちの時代において起こっていることを私たちは見ています。今の日本において,実感としては薄いものも中にはあるでしょう。しかし,潜在的に言い知れない不安や焦燥感があることも事実です。しかし,いつ何が起こっても不思議ではない中に私たちは生きています。このイエスのことばを聞いた人々も同様だったことでしょう。また弟子たちの期待は,イエスが,ダビデのような王として君臨してくださると期待していました。イエスが王位に着いてくだされば,決してそのようなことは起こらない,そう期待していたことでしょう。
2. イエスの認識
しかし,イエスの現実認識は異なりました。これから起こるのは,多くの痛ましい事柄と迫害であると言うのです。キリストを信じる信仰は安易な慰めの信仰ではありません。また現実から目を背けさせるようなものでもありません。この世界を生きるということは,苦しみの連続です。聖書はそのことを最初から記しています。「あなたはちりだから,ちりに帰らなければならない。」私たちのいのちには苦しみが付きまといます。
3. 慰めのことば
しかし,イエスは従うものに対する慰めと励ましの言葉を語ってくださいました。それは,苦しみの時,迫害の時,痛みの時,そこに必ず神の手が伸ばされるという約束でした。迫害のときも心配しなくてよい,なぜならそのときが「あかし」の時となるからだと言われました。また語るべきこともあなたがたに与えると約束されました。さらなる苦しみに会おうとも,あなたがたの髪の毛の一本も失われることはないとお語りになりました。なぜなら,イエスご自身が,十字架上でこれらの苦しみを受けてくださり,そしてそれゆえに,神がこの方を高くあげてくださったからです。イエスの忍耐の先にあったのは,復活のいのち,復活の主の栄光でした。私たちもまた苦しみのなかで忍耐を強いられることもあるでしょう。しかし主に従うものの忍耐は,キリストご自身の忍耐がそこに合わさり,キリストが受けた栄光と同じ栄光が,そこに完全にあらわされるのです。私たちをどんなときにも守られ,支えてくださる主の約束にとどまらせていただきましょう。
[考えるために]
イエスの忍耐の先にあったものは何でしょうか。
私たちの忍耐の先に約束されているものは何でしょうか。
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メインページへ2008/9/7礼拝メッセージ
2008年9月7日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書21:5~9
「警告と招き」
1. イエスとの対決
イエスは人々との対決を深められます。私たちも同じようなところがあります。私たちが聖書と,イエスと向きあうときに,私たちの内面が探られるということがあります。そのことを通して,私たちの信仰は自立していきます。最初から神のことがよくわかる人はいません。一人の人が練り上げられるのには相当な時間が必要なのです。ここでもイエスは人間と神との考えの違いを明らかにしています。
2. 身勝手なメシア像
イエスは民衆に語りました。「どうして,人々はキリストをダビデの子と言うのですか。」「ダビデの子」というのは,当時のメシアに対する称号です。この言葉だけを取れば正しい物の言いでした。しかし,問題は,この言葉を口にするときにどのような思いを抱いていたかということです。「ダビデの子」それは文字通り新しい王,ダビデのような王,そのような人を指していました。彼らにとっての救いとは何だったのでしょうか。自国の栄光,繁栄,地位の保障,勝利,平和,自由・・・これらをもたらす偉大なリーダー,カリスマ的な人物を彼らは待ち望んでいたのです。現代ではどうでしょうか。私たちはいかなる思いでキリストの名を口にしているのでしょうか。
3. イエスとは誰なのか?
イエスとは人なのか,それとも神なのでしょうか?イエスはここで詩篇110篇を引用しました。これは父なる神が,メシアであるダビデの主に語ったと記している箇所です。これをイエスはダビデがキリストを主と呼んでいるのだと解説しました。このことは同時にご自身がいったい何者かを示した言葉なのです。それは,この世の中で考えられている神でもなく,人間のレベルのカリスマでもないということ。この詩篇にある私の主とは,世界の全ての王であると同時に「祭司」であると歌われている方です。王であり,祭司である方こそ来るべきメシアです。王とは神の正しさを実現する者であり,神の民を導く方です。そして祭司とは,神と民とを仲介する役目を負っています。その方が私たちの救い主であるがゆえに,私たちは神の民であり続けることができるのです。最後の最後まで,神の前に赦されたものであり続けることができるのです。それゆえに神の愛から誰も私たちを引き離すことはできないのです。私たちの救い主は,ただの人間でもなく,ただの神でもないのです。
[考えるために]
詩篇110篇にあるメシアの姿とはどのようなものでしょうか。
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2008/8/31礼拝メッセージ
2008年8月31日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:45~21:4
「与えられているものによって」
1. 律法学者と金持ち
イエスは律法学者たちと対立しました。「律法学者には気をつけなさい。」教会の指導者である弟子たちにイエスは語られました。律法学者はどのような人々だったのでしょうか。イエスが語られたように彼らは長い衣をまとっていました。その姿は目に見える形での権威を示しています。また広場で特別な挨拶をしました。会堂や宴会の席でも特別な席があったようです。さらにイエスはやもめの家を食いつぶしているとか,長い祈りをすると指摘しています。イエスは目を上げて話を続けました。それは金持ちたちが献金している姿と,貧しいやもめがレプタ銅貨を二つ投げ入れている姿でした。そこで語られたのは,この貧しいやもめこそ,どの人よりも多く神にささげた人であるという話でした。
2. イエスの非難
私たちはイエスの言葉から何を受け取るでしょうか。律法学者や金持ちのようではなくというメッセージでしょうか。見るからに悪い人を悪く言うことは簡単なことです。しかし,ここでイエスは見るからに悪い人のことを取り上げているわけではありません。律法学者も金持ちも,彼らは悪人ではなく,むしろ神によって祝福された人と言ってもいいでしょう。律法学者になるためには,相当な努力が必要ですし,金持ちは,まさに神からの祝福を受けたものたちであると言えます。宮を支えていたのは,このような人々でもありました。しかし,イエスはその彼らのあり方を明らかに非難されたのです。
3. すべては神のために
私たちは目に見えるものに縛られます。あの人は立派であるとか,またしっかりしているということを重要視します。しかし大事なことは,私たちが持っているもの,努力も血筋も環境も,また地位もお金も名誉も,そのすべては誰のものであるのか,という根本的な問いかけがあります。多くのものを与えられた人には,多くの責任が持たされています。それらのものをもって,与えてくださった神のすばらしさを表し,さらに神が望まれていることを実現するために,一人一人に多くのものが与えられているのです。ここで非難しているのは,自分に与えられたものを,自分の栄光のためや神に感謝せずにささげている姿です。主がほめられたこのやもめの姿は私たちに何を示しているのでしょうか。
[考えるために]
私たちに与えられているものとは何でしょうか。それはなぜ委ねられているのでしょうか。
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メインページへ2008/8/24礼拝メッセージ
2008年8月24日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:41~44
「王であり祭司である方」
1. イエスとの対決
イエスは人々との対決を深められます。私たちも同じようなところがあります。私たちが聖書と,イエスと向きあうときに,私たちの内面が探られるということがあります。そのことを通して,私たちの信仰は自立していきます。最初から神のことがよくわかる人はいません。一人の人が練り上げられるのには相当な時間が必要なのです。ここでもイエスは人間と神との考えの違いを明らかにしています。
2. 身勝手なメシア像
イエスは民衆に語りました。「どうして,人々はキリストをダビデの子と言うのですか。」「ダビデの子」というのは,当時のメシアに対する称号です。この言葉だけを取れば正しい物の言いでした。しかし,問題は,この言葉を口にするときにどのような思いを抱いていたかということです。「ダビデの子」それは文字通り新しい王,ダビデのような王,そのような人を指していました。彼らにとっての救いとは何だったのでしょうか。自国の栄光,繁栄,地位の保障,勝利,平和,自由・・・これらをもたらす偉大なリーダー,カリスマ的な人物を彼らは待ち望んでいたのです。現代ではどうでしょうか。私たちはいかなる思いでキリストの名を口にしているのでしょうか。
3. イエスとは誰なのか?
イエスとは人なのか,それとも神なのでしょうか?イエスはここで詩篇110篇を引用しました。これは父なる神が,メシアであるダビデの主に語ったと記している箇所です。これをイエスはダビデがキリストを主と呼んでいるのだと解説しました。このことは同時にご自身がいったい何者かを示した言葉なのです。それは,この世の中で考えられている神でもなく,人間のレベルのカリスマでもないということ。この詩篇にある私の主とは,世界の全ての王であると同時に「祭司」であると歌われている方です。王であり,祭司である方こそ来るべきメシアです。王とは神の正しさを実現する者であり,神の民を導く方です。そして祭司とは,神と民とを仲介する役目を負っています。その方が私たちの救い主であるがゆえに,私たちは神の民であり続けることができるのです。最後の最後まで,神の前に赦されたものであり続けることができるのです。それゆえに神の愛から誰も私たちを引き離すことはできないのです。私たちの救い主は,ただの人間でもなく,ただの神でもないのです。
[考えるために]
イエスとはどのようなお方であると聖書は語っているでしょうか?
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2008/8/17礼拝メッセージ
2008年8月17日の礼拝メッセージの要約です。
この日は吉澤慎也神学生がご奉仕くださいました。
ヨナ書1:1~17
「ヨナと神様と私」
1. ヨナ書アウトライン
①海におけるヨナ
A. ヨナの最初の召命(1:1-3)
B. ヨナと水夫たち(1:4-16)
C. 救出に対するヨナの感謝(1:17-2:10)
②ニネベにおけるヨナ
A. ヨナの第二の召命(3:1-3)
B. ヨナとニネベの人々(3:4-10)
C. ニネベの救出に対するヨナの怒り(4:1-11)
2. 海に投げ込まれたヨナ
アッシリヤ帝国の首都ニネベに行くようにという主の言葉に対して、預言者ヨナは主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとする。船は激しい暴風に襲われるが、ヨナは祈らない。ヨナは自暴自棄になっていたと思われる。海に投げ込まれたヨナは、ようやく神様の方を向き始め、魚の中から感謝の祈りをする。
ヨナの態度は中途半端で、ゆっくりとした成長しか見られないが、それでも神様はヨナをあわれまれた。神様は、ヨナと同じような私たちにもあわれみを示してくださる。
3. ヨナの怒りと神様のあわれみ
ヨナの働きにより、ニネベは滅びを免れるが、そのことでヨナは怒る。ヨナは正義感が強く、ニネベのような悪の町は滅びるべきだと考えていた。それはヨナが最初にタルシシュへ逃れようとした理由でもある(4:2)。ヨナでさえも理解できない神様の深いあわれみが、ヨナ書の中心メッセージ。しかし最もあわれみを受けたのはヨナ自身であろう。ヨナは必ずしも模範的な信仰者として描かれていないが、神様はヨナに対して大きなあわれみを示した。ヨナと同様の私たちにもまた、神様の永遠の愛が注がれていることを覚えたい。その神様の愛を覚える時に、私たちの心にも他人に対する寛容さが生まれるのではないか。
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2008/8/10礼拝メッセージ
2008年8月10日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:27~40
「生きている者の神」
1. サドカイ派
サドカイ派は祭司職についていたユダヤの貴族階級に支持されていました。彼らは義人の復活を否定しました。彼らは「レビラート」と呼ばれる制度を用いて質問をしました。それは規定通りに行った場合,もし復活があるならば復活後妻は誰の妻となるのか?という質問でした。
2. 質問の真意
レビラート婚の制度は「相続」ということがその根底にあります。それは真の神に対する信仰の継承が,神が与えてくださった財産を継承することと固く結びついていたからに他なりません。それほど,この世におかれた神の民の使命が重要なものであったことを,この規定は表しています。しかし,サドカイ派はその点は問題にせず,ただ表面的な規定を取り上げてイエスに質問しました。一見,夫婦の問題であるかのように見えます。しかし,この質問で問われているのは夫婦の愛ではありません。復活の時に妻は誰のものとなるのか,さらには,結局,財産は誰のものになるのかという問題なのです。彼らは律法を取り上げながら,その根底には世俗的な考えがあることがわかります。しかし,私たちもまた,神の国と義を求めているようで,その実態はこの世の現実や心配で頭の中がいっぱいになっているのではないでしょうか。
3. 復活の子
イエスは答えられました。「義人が復活したならば,そのような人はめとることも,とつぐこともない。」神の国ではもう財産の相続など関係はありません。なぜなら,そこは神の完全なる支配が完成に至った「国」だからです。さらにイエスは言います。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは,神に対しては,みなが生きているからです。」つまり,神は過去のお方でもなく,また死んでしまった者の神ではありません。今,生きている者の神であり,それはアブラハムの時代から,今に至るまで同様であるということ。そして,今,神を信じ,神に従うということは,神がこれから先,永遠に至るまで,私たちを心に留めてくださるということです。イエスにあって神の国に入る,そして永遠のいのちを持つということは,私たちの想像をはるかに超えたことであり,この世の尺度では決して測ることができない大きなものです。その約束はアブラハムや過去の信仰者のものではなく,今生きている者に与えられてもいる約束であるということなのです。
[考えるために]
私たちはどこに向かって生きているのでしょうか。この世,目に見えるものに対してでしょうか。
それとも,神に向かって生きるものでしょうか。
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メインページへ2008/8/3礼拝メッセージ
2008年8月3日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:19~26
「神の肖像」
1. 律法学者たちの反発
たとえ話を聞いて,律法学者たちは自分たちのことであると気がつきました。しかし,彼らは神に立ち返りイエスを受け入れようとはしませんでした。反発の度合いを強め,義人を装った間者を送りました。イエスの言葉尻を捕まえて,理由をつけ総督の下へと引き出そうと考えたのです。自分たちの手を汚さずにイエスを葬り去ろう,それが彼らの狙いでした。
2. 間者の罠
彼らは税金に関する質問をイエスにしました。「私たちがカイザルに税金を納めることは,律法にかなっていることでしょうか。」この質問は,答え次第ではローマ総督へ引き出すか,もしくは民衆がイエスから離れていくきっかけになるものでした。イエスは答えました。「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。」銀貨にはカイザルの肖像が彫られていました。そこでイエスはこのように言います。「カイザルのものはカイザルに。そして神のものは神に返しなさい。」イエスは税金を納めることを否定しませんでした。しかし,献げることの本質的な議論に入っていったのです。
3. 誰のものか
「神のものは神にかえしなさい。」問題はここです。「神のもの」これは一体何か。ここで注目すべきは「肖像」という言葉です。この言葉は「かたち」という言葉です。つまり,神のかたちとは何かという問いをイエスは投げかけているのです。神の「かたち」それは人間の創造のときに神が語った言葉です。神のかたちであるものは何でしょうか。それは「人」です。神のかたちでが刻まれている人間,そうあなた自身を神に返しなさい,神にささげなさい,と語られたのです。
4. 神のものは神へ
私たちの目線はどこに向けられているでしょうか?「神のものは神に返す」ということはどの範囲をさしているのでしょうか?旧約の規定である10分の1でしょうか。表向きは正しく行っているかのように見えて,全てをご存知で,全てを下さった方に何をお返ししていたのでしょうか。私たちは何よりも大きなものを神からいただいています。それが十字架の主イエス・キリストなのです。この十字架に対して,わたしたちは何を神にお返しすることができるでしょうか。
[考えるために]
あなたにはどなたの肖像が刻まれているのでしょうか。
何を神にお返しすることができるでしょうか。
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2008/7/27礼拝メッセージ
2008年7月27日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:9~18
「砕きの石」
1. 主人と農夫
ある人がぶどう園を造り,農夫たちに貸して長い旅にでます。季節になりぶどう園の収穫の分け前をもらうことにしました。そこで一人のしもべを遣わします。ところが農夫たちは,このしもべを袋叩きにし送り返したのです。そのようなことが三度繰り返されます。このたとえ話は,イスラエルと神,人間と神との関係が描かれています。しもべは旧約の預言者です。神は預言者を通して,この世界の真の主人が誰であるかを語ってきました。しかし,その預言者を,神のことばである聖書を私たちはどのように扱ってきたのでしょうか。このたとえのように,そのことばを受け止めず,軽んじ,無視してしまっているような現実があるのではないでしょうか。
2. 主人の忍耐
この主人は,三度もしもべを農夫たちに送りました。これこそイエスが語る神の姿なのです。神は寛容にこの世界を私たちにゆだねておられます。そのような中で,何度も神は私たちに語りかけておられます。「今,神に立ち返りなさい,あなたは神から離れてしまっている。神は悔い改める民をあわれみ深く扱ってくださる」と語りかけてくださっている。しかし,私たちはその言葉に耳を傾けず,自分の考え,自分の悟りによって歩んでいるのです。しかし,神は三度目を越えて,とうとう彼の愛する息子を遣わすことにしました。しかし農夫たちは,その息子を殺すという暴挙に出るのです。当然,ぶどう園の主人はこの農夫を打ち滅ぼしてしまいました。
3. 和解の使者
人々は,この話を聞いてそんなことがあってはならないと言います。この主人は農夫たちに望みを置きました。何とか分かって欲しいと期待したのです。しかし,残念ながらその思いは農夫たちに届きませんでした。この息子は礎の石であり,その石によって私たちが神の前に問われているのだとイエスは語ります。この息子こそイエス自身です。イエスが来られたのは決して私たちを裁くためだけではありません。神が御子を世に遣わしたのは、御子によって世が救われるためなのです。愛する息子を送ったのは,そこに最後の希望を置くためでした。私たちは,その和解の使者をどのようにお迎えするのでしょうか。神の前に悔い改め,イエスを信じるならば必ず神との和解が与えられるのです。
[考えるために]
私たちと神様との関係を考えて見ましょう。
どれだけ多くのものが私たちの手に委ねられているのでしょうか。
投稿者 mb-church : 14:36 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2008/7/20礼拝メッセージ
2008年7月20日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:1~8
「誰の権威の下で」
1. 宮きよめで語られたこと
「宮きよめ」のメッセージの本質は,神の前の悔い改めを迫ったということにあります。あなた自身が,神の前にささげられているのか,そうイエスは問われました。これまでのあり方を神の前に悔い改め,キリストをお迎えしなさい・・・神はそのあなたを救ってくださる。これが救いのメッセージです。
2. 何の権威の下に
私たちはどこに基準を置いているのでしょうか。どの尺度で物事を計り,他の人を値踏みしているのでしょうか。ユダヤ人たちはイエスに問いました。「何の権威によって?」これは実に根本的な「問い」です。私たちが人間である限り,どこかに基準(権威)を置き,この世界と関わっていることでしょう。しかしイエスは人々の目に見える基準を否定されました。そしてこの行動は,この時代の権威の下にあった人々を震え上がらせ,恐れさせました。なぜ彼らは恐れたのでしょうか?
3. イエスの行動の前に
なぜなら,イエスの言動は,人による権威を無効化した行為だったからです。その前に私たちが立たせられるならば,たちまち人間的な取り繕った正しさや正義ではなく,神の前に素の私たちの姿があらわになってしまいます。ですから,祭司長,律法学者,長老たちはイエスの前に恐れました。彼らは表向き正しさを保っているように見えます。しかし,その正しさは人の権威によって築き上げられたものでした。彼らだけではありません。私たちの世界もまた,何らかの権威によって成り立っています。それは個人においても同様です。
4. 天からか人からか
彼らは問いました。しかし,イエスは問いを彼らに返されました。ヨハネのバプテスマは天からなのか?しかし,彼らの結論は「どこからか知りません」というものでした。それは,ただプライドと人を恐れての結論でした。彼らが恐れているのは神ではなく,「多くの人の目」また彼らが築き上げてきたものを失うことへの恐れだったのです。イエスは言われます。「あなたがたに話すまい。」この答えは,彼らの頑なさゆえです。人の目を恐れず,正しさに固執しなければ答えを出せたはずです。イエスが答えてくださらないのではなく,私たちの方で本心を隠し,答えを避けてしまうことがあるのです。
[考えるために]
私たちは考えや行動の基準をどこに置いているのでしょうか?
投稿者 mb-church : 14:19
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2008/7/13礼拝メッセージ
2008年7月13日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書19:45~48
「祈りの家」
1. 宮清め
イエスはエルサレムで最初に宮清めをしました。イエスは人の罪と悲惨を思われ涙されました。罪から自分の力で抜け出せないことにこそ人の悲惨があります。当時,エルサレムの宮で認められて人々は商売をしていました。イエスはその人々を追い出しました。なぜイエスはこのような行為に及んだのでしょうか。「わたしの家は,祈りの家でなければならない」「あなたがたはそれを強盗の巣にした」これらは旧約聖書の言葉です。一つはイザヤ書56章です。この箇所の中心テーマは「異邦人(罪人)の救い」です。ここでの「祈り」とは神に私たち自身を受け入れていただくことを願う祈りです。しかし,私たちの祈りは,自身の欲することを願う祈りに終始します。私たちがまず祈らなくてはならないことは何でしょうか。それは,主が罪人の私を受け入れ,ご自分の民としてくださることを願う神の前に立つ祈りなのです。
2. 真の神を信じる信仰
真の神を信じる信仰とは何でしょうか?私たちは祈ったので主は聞いてくださるとか,祈っていないので聞いてくださらないと思いがちです。しかし,神は悔い改め,主に立ち返り,自分自身を主にささげたものを,ご自分の民と言ってくださいます。私たちをご自分のものとされたがゆえに,主は必ず祝福してくださるということ,これこそ真の神信仰です。キリストの体なる教会もまた祈りの家と呼ばれます。その祈りの中心にあるのは,真の神を信じる信仰です。主に対して私自身をささげる礼拝がその中心にあります。「強盗の巣」はエレミヤ書7章にある言葉です。表向きの言葉と,内なる信仰との分離が語られています。それは偽りの信仰です。イエスは,表向きは神をあがめているようで,その実は神ご自身を求めていない私たちと真正面から向き合おうとされています。
3. ご自身をささげられたイエス
イエスはなぜ,十字架の直前に宮を清められたのでしょうか。それは,これから十字架上でささげられる犠牲の大きさに目を向けさせるためです。私たちの罪のために,ご自身を神の前でささげようとされているからです。イエスの十字架の犠牲によって,私たちの祈りが神に受けいれられるものとなります。私たちはこの宮を清められたイエスの姿を思い,この礼拝に集い,私たち自身を神にささげてまいりましょう。
[考えるために]
私たちが第一に祈るべき祈りとは何でしょうか?
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2008/6/29礼拝メッセージ
2008年6月29日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書19:11~28
「主のみ思いはどこに」
1. 私たちと主の考えの違い
イエスがエルサレムに近づくと,人々は神の国がすぐに実現すると考えていました。人々の思い描く理想と,イエスが考える神の国とが異なっていました。カルバンはこう記しています。「われわれに良きものがあるとすれば,それは御霊の実にほかならず,これなしでは我々のものとしては精神の暗黒と心情の倒錯しかない。」私たちはどこかで自分は正しいものであるという思いを持ってしまいがちです。しかし,ここで一つのたとえ話を通してそのような考えを退けられました。
2. ある身分の高い人
ある身分の高い人はイエスのことを指しています。イエスが十字架の後に天にあげられ再び戻ってこられる,その間の時を指してたとえを話されました。この人は10人のしもべを呼んでお金を手渡して命じます。「私が帰るまで,これで商売しなさい。」イエスは王位を得て戻ってきます。そしてしもべたちがどのようにすごして来たかを聞くのです。お金を有効に運用したものには良い評価を与えられました。しかし,ある人が主人の前にやって来ました。彼はお金を包みにしまいこんで取っておきました。なぜなら,彼の目にこの主人は「計算の細かい厳しい方」「すべてを奪い取る方」として写っていたからです。主人はこの人に厳しい応答をしました。「その一ミナを彼から取り上げて,10ミナ持っている人にやりなさい。」
3. しもべの不理解
厳しい話です。しかし,私たちが一番に注目すべきことは,このしもべがまったく主人のことを理解していなかったということです。私たちもまた,イエスのことを理解しているでしょうか。ある人は,この方を王と認めません。また,ある人は,イエスを神の子と認めていながらも,イエスのことを理解しようとしていません。私たちの目にイエスはどのように映っているのでしょうか。儲けた人々は,預けられたものを最大限に用いようとしました。失敗するか,成功するかが問題ではありません。それよりも,彼らは主人に言われたことを忠実に実行し,必ず主がほめてくださると信じていました。主は私たちに恵みに生きるように,そして,必ず将来さらに私たちに与えてくださることを信じて生きるようにと,私たちに語ってくださっているのです。ただし忘れてはなりません。主イエスが望まれていることは何であるかを。
[考えるために]
主イエスの望まれていること,命じられていることは何でしょうか?
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メインページへ2008/6/22礼拝メッセージ
2008年6月22日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書19:1~10
「義人ザアカイ」
1. ザアカイ
今日の結論はこうです。「救いは神の招きにこたえること」。イエスの呼びかけにこたえる時に,そこに救いがもたらされます。その招きにこたえた人がザアカイでした。ザアカイとは「義人」という意味の名前です。彼はその名とは異なる人物でした。人からも,また自分でも救いようがないと見なされたこのザアカイはどのように救いに預かったのでしょうか。それはある奇跡が起こったからです。
2. 奇跡
どのような奇跡が起こったのでしょうか。それは一見すると小さなものでした。しかしその意味するところは計り知れない大きさを持つものでした。その奇跡は「神との出会い」という奇跡です。ザアカイは神の子イエスと出会ったのです。彼はイエスが来られると聞いて走り出します。彼はイエスを間近で見たいとの思いから,木に登りました。しかし,そこで予想していなかったことが起きました。イエスが突然上を見上げ彼に声をかけられ,彼の家に泊まることになったのです。
3. ザアカイの喜び
彼はこの申し出を喜んで受け入れました。彼はイエスを「私の主,神の子」としてへりくだりつつ迎えたのです。彼はイエスとの出会いを求めていました。そして,イエスはそのザアカイのところに「ちょうど」来て下さったのです。彼が喜んでイエスを迎えると,ザアカイには大きな変化がもたらされます。彼の心を本当に満たすものが与えられたのです。
4. 真の宝
本当の宝は私たちが探し出して手に入れるのではありません。宝とは,私たちを探しておられるイエスを迎え入れるということです。ザアカイの奇跡は,神の御子イエスがザアカイの前に来てくださったこと,そしてザアカイがイエスを救い主として迎え入れたということでした。救いは,すでに私たちを探して下さったイエスを私の内に招きいれるということです。その時にザアカイと同様に,大きな喜びが私たちに沸き起こります。私たちは本当の宝を手に入れることができるのです。
[考えるために]
本当の宝とは何でしょうか。
私たちを真に満たすものは何でしょうか?
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メインページへ2008/6/15礼拝メッセージ
2008年6月15日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:35~43
「信仰によっていやされる」
1. エリコに近づいたイエス
イエスはエリコという町に近づかれました。そこには,ある盲人が道端に座り,物乞いをしていました。その日はいつもとは違いました。大勢の人々がこの人の前を通りすぎようとしていました。ナザレのイエスが通る・・・この盲人は,それを聞いて即座の反応を示します。彼は大声で叫びはじめました。ダビデの子のイエス,これはまさにイエスこそメシアであると彼が告白している言葉と言えるでしょう。あの役人とは正反対の姿がここにあったのです。
2. 役人との対比
彼は,盲目で物乞いをせざるを得ない状況にありました。あの役人は自分でイエスの目の前にやってきました。そして自分からイエスに「永遠のいのち」を得るためにはどうしたらいいかを聞きました。彼の目にはイエスはただの人,偉い教師でしかありませんでした。また弟子たちにもイエスの真の姿は隠されていました。しかしこの盲目の人はどうでしょうか。彼はイエスを救い主と認め,そしてイエスにあわれみを求めた人でした。
3. 叫ぶ人
彼の見えない目にうつったのは,人としてのイエスではなく,神が約束してくださったメシアの姿でした。周りの人は彼を黙らせようとします。しかし,彼はますます大きな声で信仰を告白しました。これは信仰の叫びです。今を逃してしまったら,イエスは自分に気がつかずに通りすぎてしまう。この叫びにイエスは目を留められました。
4. 信仰による救い
イエスは彼に尋ねます。「わたしに何をして欲しいのか?」自分では見ることができない。自分には何もできない。ただあなたに願い叫び,求めるだけ・・・。そのことを彼はよく知っていました。この人は自分は本当に神の前に貧しく,弱く,何もないものであることを知っていたのです。そしてイエスこそ,この私を救ってくださる方であることを信じ,告白しました。「見えるようになれ,あなたの信仰があなたを直したのです。」あなたの信仰があなたを直した,この言葉は「救い」という意味の言葉です。イエスを信じる信仰だけが,私たちに救いをもたらすのです。
[考えるために]
癒された人の目には,イエスはどのような方として映ったのでしょうか?
投稿者 mb-church : 13:10 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2008/6/8礼拝メッセージ
2008年6月8日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:28~34
「その手に握り締めたもの」
1. 救いの真髄
役人とのやり取りの中でイエスは言いました。「人にはできないことが,神にはできるのです。」これこそ救いの真髄です。神に委ね,イエスを信じるとき,救いは必ず与えられます。ところがイエスの弟子は,この話しの後にこのように言いました。「私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」役人が悲しそうに出て行ったのとは対照的な言葉です。イエスに評価を求める姿がここにあります。ここに役人と同じような匂いを感じます。「名誉」と「賞賛」です。この弟子の言葉に,イエスはどのように答えられたのでしょうか。
2. イエスの答え
イエスは「神の国のために,家,妻,兄弟,両親,子どもを捨てた者で,だれひとりとして,この世にあってその幾倍かを受けない者はなく,後の世で永遠のいのちを受けない者はありません」と言いました。イエスが語られたのは,「この時に何倍も多くを,来たる時に永遠のいのちを受けないものはない」という内容です。イエスは,直接に弟子のことを賞賛しいません。それではイエスは何をお語りになったのでしょうか。
3. あなたの手に何があるのか
家,妻,兄弟,両親,子どもを捨てた者とイエスは言いました。また役人とのやりとりでは,財産を捨てて従いなさいと命じられました。これらの言葉の意味するところは,「あなたが頼りにし,誇りにしているものは何か?あなたのその手に握り締めて,離せなくなっているものは何か?」という問いかけではないでしょうか。自分のものとして握り締めてしまっているものを手放し,神の前にへりくだり,神にすべてを預けなさいとイエスは語られているのです。
4. 神の祝福
今のこの時,私たちが自分の手に握りしめているものを手放していくときに,それをすべて主が祝福してくださる・・・終わりの時には,必ず神の国を,永遠のいのちを私たちに与えてくださる,その約束がここにあります。この祝福は,自分だけが何倍も得るということではありません。家,夫婦,兄弟,両親,子ども,そのすべてにおいて,神の守りと祝福が及ぶと言ってもいいでしょう。神は私たちに必要なものを,あの空を飛ぶ鳥,野にさく花のように,いえ,それ以上に私たちに与えてくださるのです。
[考えるために]
私たちの手から離すことのできなくなっているものは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 13:03
メインページへ2008年06月18日
2008/6/1礼拝メッセージ
2008年6月1日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:18~27
「欠けたところ」
1. 神の国,永遠のいのち
ある役人がイエスに問います。「何をしたら永遠のいのちを得ることができるのか」と。彼は明らかに「何かをすれば」永遠のいのち,神の救いを受けることができると考えています。確かに力を尽くして歩むときに,そこに神の祝福が与えられるのは,世の摂理と言ってもいいでしょう。しかし,この世界は人の「罪」によってゆがんでしまっています。その罪は,私たちの力では克服することはできないのです。
2. 罪からの救い
「救い」は,ただ私たちが成功した人生を送り,不幸を避けるという意味ではありません。聖書の「救い」とは,罪からの救いです。この救いは,個々人から全世界にまでおよぶものです。役人は,救いが何かをわかってはいません。ただ,彼は自分の人生に栄誉や正しさを加えようと,イエスの前にやってきました。彼はイエスを人間の教師と考え,その答えを求めました。彼は神に求めようとはしませんでした。その役人の考えをイエスは否定されます。確かに役人は,十戒も他のイスラエルの人々と同様に,幼い時から守ってきたこでしょう。イエスは彼の目を本質的な問題に向けさせます。彼に全財産を売り,貧しい人に与え,そして従いなさいと語られました。
3. 欠けたところ
なぜ,イエスは不可能なことを口にされたのでしょうか。なぜなら,この問いこそ彼の本質的な罪を明らかにするものだったからです。彼の価値基準はどこにあったのでしょうか。それは「富」と「名声」です。それは人の評価であり,また物によって自分を高めようとする生き方です。さらにイエスは問われます。天に宝を積む,つまり,あなたは本気で神を信じ認めているのか,と。私たちは誰でも,神を認めることのできない罪を抱えています。その生涯の中で,何か自分の力ですべてをなしているかのような錯覚に陥っているのです。それこそが「罪」であるとイエスは私たちに語られています。
4. 救いはどこから
ただ神により頼むものに救いは与えられます。罪からの救いは,ただただ神による,イエスの十字架によるのです。私たちに欠けていることは何でしょうか。それは神以外による救いはないと,心から認めることなのです。
[考えるために]
私たちの内にある錯覚とは何でしょうか?あなたの生涯は誰から与えられたものでしょうか?
投稿者 mb-church : 09:37
メインページへ2008年05月31日
2008/5/18礼拝メッセージ
2008年5月18日の礼拝メッセージの要約です。
申命記31:6~8
「これからという時」
1. 先の見えない今を生きる私たち
「これからどうなるのか?」これはとても大きな関心事です。特に今の多様化,複雑化の時代にあって,未来に対する明快な答えは誰も持っていません。現実からは決して目を背けてもいけませんし,できるだけしっかりとした情報を得,また考えを持つべきなのはいうまでもありません。しかし,私たちには聖書が与えられています。私たちは聖書が教える,神の目線を教えられる必要があるのです。
2. 本当の今を生きる私たち
私たちにとって本当の「今」は,主イエスを救い主として信じるときから始まります。主イエスを信じ従うときに,私たちは本来の「自分」になるのです。それは,出エジプトのイスラエルの民と重なります。彼らは約束の地を目指して歩みを進めました。その旅路を通して,彼らは自分たちを救うお方こそ神であり,他には神はないことを教えられ続けたのです。モーセは繰り返しこう語ります。「あなたの神,主の御声に聞き従い,きょう,あなたに命じる主の命令とおきてとを行いなさい。」この命令が語られたのは,約束の地に入った後こそ,神に選ばれた民としての歩みが始まるからに他なりません。神が与えてくださる救いの完成の時は未だ来ていません。私たちは既に救われているけれども,未だ完成していない時代に生きているのです。
3. 遣わされる私たち
イスラエルの民が約束の地に入るということは,カナンの地へと遣わされるということをも意味していました。そこは,多くの異民族がすでに住み,真の神でない神々が入り乱れた世界でした。だからこそ,神とみ言葉に中心を置くように繰り返し言われています。私たちにも同様のことが起こっています。キリストの十字架によって,私たちは罪の奴隷から解放され,自由が与えられました。さらに,私たちはイスラエルの民と同様に,この世へと遣わされています。私たちはこの世にあって,神の国を待ち望むものたちです。遣わした者たちに神は語られます。主ご自身があなたの先に進み,ともにおられると。私たちも遣わされたものとして,主に信頼して歩ませていただきましょう。
[考えるために]
あなたは今,どこに遣わされているのでしょうか。また,与えられている使命とは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 18:20 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2008年05月22日
2008/5/11礼拝メッセージ
2008年5月11日の礼拝メッセージの要約です。
Ⅱコリント6:1~10
「いまという時を見つめて」
1. 恵みの時
パウロは「いま」という時をどのようにとらえているでしょうか。イザヤ書を引用して,いまは恵みの時,救いの日であると記しています。「救いの日」とは実のところ神のみこころの時でもあります。「救い」は,私たちにはコントロールすることはできません。救いは,ただ神のみ思いによってもたらされるものです。それはただイエス・キリストの十字架と復活によって,神から与えられたのです。
2. いまという境
恵みの時,救いの日は,イエス・キリストがその境にあります。キリスト以降はすべて「恵みの時,救いの日」なのです。このことは一人の人の生の中でも起こります。キリストを救い主として信じる前と後。イエスを救い主として信じる私たちが生きているのはまさに恵みの時である「いま」です。キリストにあるいまを自覚したときに,いったい私たちの中に何が湧き上がってくるのでしょうか?
3. 真のアイデンティティー
イエスとの出会いによって,私たちの中に真のアイデンティティーの確立が与えられます。私たちが何者なのかということがはっきりするのです。そのことをパウロはこのように表現します。「あらゆることにおいて,自分を神のしもべとして推薦している・・・」彼はキリストを信じるすべての人を,神のしもべであると推薦しています。キリストを信じて生きるとはどういうことでしょうか?それは,「いま」という時をどのようにとらえるかにかかっています。
4. 逆転の恵み
パウロも彼を取り囲む「いま」を見つめます。さらに彼の内面に起こった「いま」も記しています。これらはキリストを信じたことによって得たものであり,引き起こされた出来事です。良い評価も悪い評価ももちろんあります。しかし,彼の中にはキリストによってもたらされた救いが確かにあります。私たちは神のしもべなのです。神のしもべは逆転の恵みに生き続ける者たちです。そしてその逆転を可能にするものこそ,キリストの十字架なのです。
[考えるために]
「いま」はキリストにあって,どのような時と言えるのでしょうか。
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メインページへ2008年05月14日
2008/5/4礼拝メッセージ
2008年5月4日の礼拝メッセージの要約です。
申命記4:32~40
「きょうに至るこれまで」
1. 申命記とは
申命記は,モーセの遺言と言われる書です。イスラエルの40年もの荒野を彷徨う旅の終着の時,そこで語られたメッセージが申命記です。モーセは,これまでの40年の彷徨いの歴史を振り返ります。そこにある過ちの歴史。しかしそれは神の憐れみと確かな守りの歴史でもありました。
2. イスラエルの失敗
もし彼らが失敗しなかったら,誰もがそう思うことでしょう。しかし,聖書における人間の前提は,人は必ず失敗する罪深い存在だということです。ただの成功神話が聖書に記されているわけではありません。約束の地を前にして主への信頼を失った者たちは,生きて約束の地に入ることはかないませんでした。しかし,彼らの子孫は約束の地に入ることを許されました。なぜなら,イスラエルの民は荒野を歩む中で,神とともに歩むことを学び,み教えを受け,それを子供たちに教え伝えたからです。このようにしてイスラエルの民全体が神の救いに与かりました。
3. 過ぎ去った時代に聞く
この40年の月日を振り返ってみなさいと神はいわれます。その時,不信仰に陥いりながらも,神が確かに導き守ってくださった神の姿を認めることができます。なぜ,この40年の間,失敗に始まった神の民の歩みが守られ導かれてきたのでしょうか?それは,主だけが神であることを知るためであり,あなたを訓練するためであり,主があなたを選ばれたからだと,神は言われたのです。
4. 私たちの歩み
教会の歩み,そして神を信じる私たちの歩みも,まさにイスラエルの民と同様です。イスラエルの民と同じように,過ぎ去った時代を振り返るとき,そこに神の守りと赦しが確かにそこにあることを私たちは見出すのです。そのことを覚えつつ,私たちは「今日」という時に立つのです。私たちも今日という日に,主だけが神であり,そして主が命じた教えと約束を心に留めたいと思います。これこそ,私たちが,この地上を歩むときの大切な心得なのです。
[考えるために]
過ぎ去った日をもう一度振り返りましょう。
今日という日に,神様はあなたに何を語ってくださっているのでしょうか?
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メインページへ2008/4/27礼拝メッセージ
2008年4月27日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:15~17
「幼子のように」
1. 連れてこられた幼子たち
イエスから祝福を受けようと,人々がその幼子たちをみもとに連れて来ました。彼らは,当時の慣例にしたがって,子どもたちに祝福を祈っていただこうとして,イエスのそばまで,子どもたちをつれてきたのです。その多くは乳飲み子であったことでしょう。この幼子たちは,「連れてこられた」子どもたちです。しかし,この微笑ましい光景も弟子たちに遮られました。しかし,この時代において,弟子たちの行為は常識的な行動でもありました。子どもの順番は,一番最後だったからです。しかし,イエスは幼子たちを呼び寄せます。イエスはここで当時の常識を覆して言いました。神の国はこのような者たちのものだと。神の基準は一体どこにあるのでしょうか。
2. 神の国にふさわしいもの
イエスは言われました。子どもたちのように神の国を受け入れる者,それこそが神の国に入るものである,と。では「こどものように」とはどういうことでしょうか。子どものように「素直に」「疑うことをせず」ということでしょうか。この当時の子どもは「低い者」でもあります。そして,この子どもたちはイエスの前に連れてこられた者たちです。この子どもたちは受動的な存在です。子どものように神の国を受け入れるとは,子どものように素直に,疑わずに信じるということだけではありません。親に連れられて,またイエスに呼ばれたときに,そこに連れ出された最も謙った存在としての子どもたちの姿。その姿こそ,神の国に入るにふさわしいのです。
3. 謙遜
真に謙るとはどのようなことなのでしょうか。それは,見せかけの謙遜さとは違います。また,逆に自分を卑しめることとも違います。この幼子たちは,そのようなどちらの謙遜さとも無縁の存在です。そして,神の国に入るには,子どものようにそこまで連れていってもらう存在でなければなりません。いったい誰に連れていっていただくのでしょうか。そう,それは神になのです。私たちは子どものように,全面的に神にゆだねる者とさせていただきましょう。
[考えるために]
幼子のようになるとは,どのようなことでしょうか?
神の国にはどのように入るのでしょうか?
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メインページへ2008年05月02日
2008/4/20礼拝メッセージ
2008年4月20日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:9~14
「自己義認という課題」
1. 自己正当化と他者との比較
イエスは神にある本当の救い,罪の赦しは,決して人の目に見えるものによってではないことを明らかにされました。私たちには神の救いが必要なのです。しかし,私たちは自己正当化によって,自分は罪人ではないと思い,神の救いは必要のないものだと考えてしまうのです。また,私たちは他の人との比較によって,自分の正当性を保とうとします。比較とは他者との違いだけではありません。人と同じだから安心することも比較に入るでしょう。そして私たちは自分とは違う人に対して赦すことのできない者でもあるのです。
3. ふたりの人
パリサイ人と取税人がたとえに登場します。パリサイ人は自己正当化と他人との比較を祈ります。まさに自己義認の祈りです。自分の行動や言動は正しい,自分は正しい側にいるとこの人は考えています。しかし彼の基準は神にはありません。彼の基準は人の作り出した基準です。その一方で取税人は何を祈ったのでしょうか。取税人は遠く離れて立ち,目を天に向けようともせず,自分の胸をたたいて祈りました。「こんな罪人の私をあわれんでください。」この祈りの中には,他の人は登場しません。彼は目を天に向けようともしていません。なぜなら,それは今目の前にいる「神」を意識しているからです。そこには聖なる神を前にした「恐れ」や「おののき」があります。
4. 義とされたのは・・・
イエスは取税人が義と認められたと語りました。私たちが自分の正しさや基準,またプライドなどにしがみついている限り,私たちはパリサイ人でしかありません。私たちが義と認められ,高く上げられるのは神のあわれみのゆえです。そして,救いを可能にしたのは,十字架の贖いのみ業なのです。私たちは根本的に自己義認の弱さを持っています。だからこそ,私たちはキリストの十字架の赦しを見続けることが必要です。神のあわれみを受けた者として,いつでも神の前に謙らせていただきましょう。
[考えるために]
私たちの中に潜む自己義認の弱さは,どのようにして乗り越えられるのでしょうか。
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2008/4/13礼拝メッセージ
2008年4月13日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:1~8
「いつでも失望しないで」
1. いつでも祈る必要
ここは17章とつながりを持って読むべき箇所です。私たちが,神の国へと歩み始めたのならば,後ろのものを振り返らずに,神の国へと歩みを進めていきなさいとイエスは語られました。そして,私たちが後ろを振り返らないために,私たちは「いつでも祈る必要がある」のです。
2. 不正な裁判官
不正な裁判官でさえ,ひとりのやもめの絶え間ない訴えを聞くとのたとえをイエスは語りました。それでは正しい神はどうなのでしょうか。神は不正な裁判官とは比べようもないほど,正しく,愛にあふれ,知恵に満ちています。その神が,あなたの祈りを聞かれないだろうか?当然,神はその祈りを聞かれるのです。
3. 何を祈るのか?
この祈りは,たとい苦難が目の前にあろうとも,神の国へと歩みを進めるための祈りです。ここでの祈りは,「御名があがめられ,御国が来ますように」との祈りでもあります。しかし,そうは言っても,そのような祈りは,私たちの日常とはかけ離れているように感じるのではないでしょうか。しかし,神の国はどこから始まるのでしょうか?それは多くの場合,病人や罪人からであり,やもめや貧しい人,痛みを知る人,放蕩した弟,迷い出た羊からです。私たちのほんの些細な日常の中で,絶え間なくやってくる困難や苦悩,なすべき仕事,人間関係,そのような中で,私たちはイエスが言われるようにいつでも祈るべきなのです。どんな些細なことにおいても,主は必ずそこにご自身の正しさを,またご栄光を表してくださるのです。
4. 人の子が来たときに
イエスは最後に言われました。「しかし,人の子が来たとき,はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」これは,私たちに対する問いかけと同時に,希望の言葉でもあります。イエスが再び来られるときに,神にあって,地上に信仰は見出すことができるでしょう。私たちの望みは,私たち自身にではなく,神にあるのですから。
[考えるために]
神の国はどこから始まるのでしょうか?
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2008/4/6礼拝メッセージ
2008年4月6日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書17:22~37
「前へと向かって」
1. 人の子の日
人の子の日,神の国の完成の時を見たいと願っても見れない時が来るとイエスは弟子たちに言われました。イエスは,神の国が来るその前に,教会は苦しみ,悲しみに直面するということを教えられたのです。事実,キリストの弟子たちは苦難を通りました。そして,その時には誤った教えも次々と出てくるようになります。しかし,イエスが再び来られるときは,すべてを輝き照らす「いなずま」のように来ると語られています。必ずイエスの栄光が照り輝く日がやがて来るのです。
2. 必ずそこにある苦難
しかし,その栄光の時の前に,苦しみの時がやってきます。そして,そのときのことを,旧約にあるノアとロトの物語からさらに明らかにされています。救いの完成に向かう間,それもまた救いの時であると言えますが,それは同時に苦しみの時でもあります。しかし,ここで重要なことは,ロトの妻のように後ろのものを振り返ってはならないということです。それは,救いの言葉を聞いた後の私たちの生き方の問題でもあります。人の子の現れる日がいつかは,はっきりと分かりません。しかし,その日は必ず来ます。しかし,その日を迎える前に,私たちは必ず苦しみを通らされ,さらに救いの言葉を見失わせるような現実や言葉を聞くことになるのです。
3. 前に向かって
私たちは救いの完成へと向かうこの時代にどのように歩んでいるのでしょうか?後ろを振り返らずに,神の方へと歩みだしているでしょうか?苦しみを前にしてもなお,救いの完成の時を待ち望んで歩んでいるでしょうか?私たちが大事にするべきことは,どんなときでも,やがて来る神の国の完成の時を見つめて,十字架に完全な希望を置いて歩むということです。今目の前に苦しみ,痛ましい現実があったとしても,私たちは救いの完成の時に向かって着実に進んでいるのだということを覚えさせていただきましょう。
[考えるために]
あなたは何を望みに歩んでいるのでしょうか?
投稿者 mb-church : 13:30
メインページへ2008/3/30礼拝メッセージ
2008年3月30日の礼拝メッセージの要約です。
ローマ人への手紙12:12
「ともに祈る祈り」
1. 第一の奉仕
私たちの第一の奉仕は,主の日に時間をささげ,身体をささげ,心をささげ,聖霊にうながされて集い,ともに父なる神を覚え,イエス・キリストの十字架に感謝する礼拝をささげることです。また,神の民である私たちの歩みは,恵みの神が先行し,私たちは主に心から従うという歩みです。
2. 両輪
恵みの神が先行し,主に心から従う。この単純なあり方に,なぜ私たちは向かうことができないのでしょうか。その原因のひとつは「恵みの神の姿」をはっきりと捉えていないことにあります。もうひとつの原因は,私たちの側に主に従う備えがないということです。その現状への打開策とは何でしょうか?それは「みことばと祈り」です。これが信仰生活の両輪なのです。
3. 祈り
祈りは,神の恵みにお応えすることです。神の語りかけに応えるという循環こそ,私たちの信仰を生き生きとしたものにする秘訣です。祈りとは何でしょうか?祈りとは,私たちの願いであり,叫びともいえます。祈りにおいて重要なことは,祈りにあなた自身をささげているか,ということです。祈りの中で,深くみことばをめぐらせ,神のみこころを求める。それは神と呼吸をあわせていくことでもあります。しかし,それでも問題は残ります。しかし,真の問題は個人の問題ではないのです。
4. ともに祈る
「祈り」は個人だけのものではありません。聖書において祈りとはともに祈ることをも指しています。私たちは,ともに神のみこころを求めて祈っているでしょうか。この世と神の国の狭間である教会において,私たちはいつでもともに祈るものとさせていただきましょう。私たちがともに祈るそこに主はおられるのですから。
[考えるために]
ともに祈るときをもっているでしょうか?
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2008/3/16礼拝メッセージ
2008年3月16日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書17:20~21
「神の国はどこに」
1. 人々の関心
「神の国はいつ来るのか?」これは当時の人々の関心事でもありました。彼らはメシアの到来を待ちわびていました。しかし,彼らにとっての神の国は王国の復興を意味していたのです。その王国はどのようにして到来するのでしょうか。パリサイ人の結論は,神の命令を守ることでした。つまり律法を守ることによって,神の王国が自分たちの手にもたらされると信じたのです。
2. 律法の意味
しかし,もともと律法は神の民としての契約のしるしということでした。神の民として神の基準に生きるようにと神が与えてくださったみ教えでした。しかし,パリサイ人は,それを単なる手段に貶めてしまったのです。ですから,神の国はいつ来るのかという問いは,彼らにしてみれば自然に出てきた疑問だったのです。
3. イエスの答え
しかし,イエスの答えは彼らの思いとは異なりました。神の国は,人の目で認められるようにして来るものではないというのです。神の国はあなたがたのただ中にあると答えられました。それは人の心ということだけを意味してはいません。これは,神の国はあなたがたの間に「今」あり,そして,これからもあり続けるという言葉です。もう,神の国は来ているというのです。
4. 神の国
イエスが来られたときに,神の国は近づきました。そして,イエスが十字架で死に渡され,そして復活したときに,すでに神の国は私たちのところに到来したのです。私たちはキリストを信じる信仰によって,神の国の民とせられます。私たちは,神の国の民として生きるようにと導かれているのです。私たちが,この神の恵み,十字架の恵み,神のみ思いに目が開かれ続けていくときに,私たちは今ここに,この教会に神の国があることを信仰によって見ることができるのです。
[考えるために]
神の国はどなたによってもたらされるのでしょうか。
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2008/3/9礼拝メッセージ
2008年3月9日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書17:11~19
「9人と1人」
1. サマリヤとガリラヤの間
10人のツァラアトに冒された人の話です。この場面,イエスはエルサレムへと向かっていく途上にありました。イエスはサマリヤとガリラヤの境を通られたとあります。実際のところここがどこであったのかは明確に示されてはいません。しかし,この表現も,当時の教会を意識しているのではないかと思わせるものです。正しさの尺度の違う人々が集う群れの真ん中を通られるイエスの姿。教会は常にイエスのことば,イエスの歩まれた姿に根拠をおいてきたのです。
2. 10人のいやし
ある村の十人のツァラアトに冒された人がイエスを見かけます。彼らはイエスと出会い,そしてこう声をかけられました。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」その10人は,祭司のところに行く途中できよめられました。しかし,問題はこの後です。10人のうち,すぐにイエスの元に引き返してきたのは,ただ一人だけでした。そして,その一人は,サマリヤ人だったのです。
3. 正しさを求めて
祭司に癒されたことを認めてもらうことは,当時の人々にとって正しい行為でした。しかし,癒されたことを知ったときに,この9人は何を優先したのでしょうか。彼らは正しい行いを優先しました。しかし,サマリヤ人はどうだったのでしょうか。彼は,イエスのみわざにふれた時に,神をほめたたえ,イエスの足元にひれ伏し礼拝することを選びとったのです。
4. 真のいやし
10人すべてがきよめられました。しかし,神との正しい関係を持つことができたのは,ただ一人のサマリヤ人だったのです。このサマリヤ人は,イエスから救いの宣言を聞きます。それだけではなく,彼はここから遣わされていったのです。私たちも,イエスを信じる信仰によって,神とのあるべき関係を持ち続けてまいりましょう。
[考えるために]
この一人の人は,何に気がついたのでしょうか?
投稿者 mb-church : 13:54
メインページへ2008年03月19日
2008/3/2礼拝メッセージ
2008年3月2日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書17:7~10
「しもべの姿」
1. 役にたたないしもべ
「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」謙遜さの極地と言ってもいいすぎではありません。この箇所から,奉仕のあるべき姿を教えられることでしょう。しかし,それだけで,ここを読むわけにもいきません。なぜなら,この箇所も前節とつながりのある箇所だからです。それは「誤った教え」,つまり「行いによる救い」という人の作り上げた枠から,私たちをその外に置くということでもありました。救いは,イエスを信じる信仰による救い以外にはありません。そこには,一切の妥協も,一切の混ぜ物もしてはならないのです。
2. しもべのたとえ
しもべが野に出て仕事をしてきました。主人は,その働きに対して,過度に感謝するでしょうか?いいえ,しないでしょう。そのしもべは言いつけられたことをしたに過ぎません。つまり,このしもべが正しいことをしたからといって,主人からしもべが受けるである待遇以上のものを得るわけではありません。正しい行いによって,このしもべは,主人である神から特別待遇をされるわけではないのです。
3. 私たちの務め
私たちは,神がデザインし,生かし,守ってくださらなければ存在し得ない者たちです。私たちは,ただ神によって与えられた務めを果たしているにすぎません。しかし,いつでも,私たちは与えられた救いや(神の子としての)身分に,混ぜ物をする危険性があります。しかし,イエスが語られたのは,主の前にへりくだる者,自分を罪人とし,ただ神のあわれみにより頼み,神の救いを待ち望む者に救いを与えるのだということでした。私たちは,救いを与えてくださる十字架を絶えず見続けなくてはなりません。その時に,私たちは,与えられた生涯,働き,能力,財産,そのすべてが神が私たちに与え,ゆだねてくださったものだと理解することができるでしょう。そして私たちは自分は役に立たないしもべですが,喜んで,その務めをさせてください,と口にすることでしょう。私たちは,与えられた務めに対し,希望と勇気を持って向かい続けてまいりましょう。
[考えるために]
私たちの救いの根拠はどこにあるのでしょうか。
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メインページへ2008年03月13日
2008/2/17礼拝メッセージ
2008年2月17日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書17:1~6
「つまずきと赦し」
1. つまずきを起こす者
この箇所は,直接教会に語られている箇所です。テーマは「つまずきと赦し」です。イエスは,教会において「つまずきが起こるのは避けられない」と言いました。つまずきとはいったい何でしょうか。ここでは「誤った教え」のことを指しています。「誤った教え」。それは教会において数多く起こってきたことです。ここまで,イエスが解き明かした救いとは,「罪人の悔い改めとその赦し」です。そして,その救いは,主イエスを信じる信仰によって与えられるものです。その対角にあるものこそ,つまずき,誤った教えなのです。その代表的なものこそ「行いによる救い」です。私たち全ての人は罪人です。だからこそ私たちは神のあわれみを受け,素直に,悔い改めなくてはなりません。信仰による義ではなく,行いによる救いが教会の中に起こるのは避けられません。しかし,一番の問題は,あなた自身がその誤った教えに留まってはいないか,ということなのです。
2. 赦しを与える者
では,もし兄弟が罪を犯したのならば,どうすればいいのでしょうか?当時の教会ならば,もし律法に背く者がいるならばどうすればいいのか,ということになるでしょう。その人を,教会から排除するのでしょうか。しかし,イエスはこう言いました。「赦してやりなさい」。ここでイエスが強調しているのは,相手を「赦しなさい」ということ。なぜなら,私たち自身こそ,行いによってではなく,ただ信仰によってのみ赦され続けているからです。だからこそ,私たちは何度でも相手を「赦しなさい」と迫られているのです。
3. からし種の信仰
しかし,これは容易なことではありません。そして,またこのことは,信仰の大きさや強さによってなるものでもありません。本物の神が与える信仰があれば,たといからし種ぐらい小さなものであっても,神の正しさと赦しを表すことができる,そうイエスは言われました。私たちは,信仰による義ということを,恐れをもって,また,深い感動を持って受け止めさせていただきましょう。この信仰こそが,私たちの立つべき所なのです。
[考えるために]
イエスが教えられた信仰とは何でしょうか?
私たちが救われるために必要なことは何でしょうか?
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メインページへ2008/2/10礼拝メッセージ
2008年2月10日の礼拝メッセージの要約です。
この日は,吉澤慎也神学生にメッセージをしていただきました。
ハガイ書1:1~15
「神殿再建」
1. テキスト
[時代背景]
B.C.586 エルサレム陥落。バビロン捕囚。(Ⅱ列王記25章)
B.C.538? ペルシャ王クロスによる解放令。ゼルバベルの帰還。(エズラ1章)
B.C.537? 神殿再建着手。その後中断。(エズラ3,4章)
B.C.520 神殿再建事業再開。(ハガイ書)
B.C.516 第二神殿完成。(エズラ6:15)
イスラエルの民は「主の宮を建てる時はまだ来ない」(2節)と言って、神殿再建工事に取り掛かろうとしなかった。経済的困難が民の言い訳だったが、主は「それは、廃墟となったわたしの宮のためだ」(9節)と言い、神殿をそのままにしておいたために経済的に苦しい状況を招いたのだと指摘する。実際に民は、神殿再建よりも自分の生活のことに関心があった。そこで主は宮を建てるよう言われる。「そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう」(8節)。民は悔い改め、「彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった」(14節)。
2. 神殿再建
神殿とは神を礼拝する所。そこには神の臨在と神との交わりがある。それでは、今の自分にとって神殿再建とは具体的に何を意味するだろうか。自分と神様との関係において、再建しなければならない何かがあるだろうか。
①現状考察(5,7節)
自分の現状をよく考えることは意味がある。それによって、自己中心の罪が示されるかもしれない。自己犠牲の中にこそ主の栄光が示される(8節)。
②再出発(12~14節)
やり掛けの仕事に再び取り組むことは、より大変なことである。けれども主は、宮を建てよと言われた(8節)。その主の約束は「わたしは、あなたがたとともにいる」(13節)。たとえ挫折の連続でも、イエス様は決して私たちをあきらめない。高齢のハガイの姿勢にも励まされる。私たちも神殿再建のために再出発させていただきたい。
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2008/2/3礼拝メッセージ
2008年2月3日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書16:19~31
「大きな淵」
1. ある金持ち
このたとえの「ある金持ち」とは,イエスの話を笑った「金の好きなパリサイ人」たちのことでしょう。彼らは自分で自分を正しいとする人々でした。それは,神という存在を抜きにした時の,人間の姿そのものです。絶対的な存在である「神」を無視したとき,人間は,神以外のものを絶対化する傾向があります。目に見えるものや権力,富,それらを私たちは「神」とすりかえてしまうのです。
2. 平等に訪れる死
貧しい人の名はラザロ。名前の意味は「神が助けてくださる」。彼は,「罪人」の代表であり,神の救いを待ち望んでいた人であることが名前によって物語られています。この二人にも平等に死がやってきました。この箇所は,死後の世界をイエスが説明したものではありません。ここは,当時のユダヤ人が信じていた死後の世界を土台として,イエスがメッセージを伝えようとしている箇所です。当時の人々は,死後魂がハデス(陰府)に置かれると考えていました。そしてそれは天にある幾つかの層の一つと考えていました。パリサイ人は,自分だちが天で上の層に行くと考えていたのです。これでは天でも上下があり,この世とあまりかわらないようです。
3. 金持ちの願い
金持ちはアブラハムに,ラザロを自分のところに送るように願いました。しかし,答えは冷たいものでした。ラザロをそこに送ることはできない。ここでイエスは,「死んだ後では,その生き方を訂正することはできない」そう言っておられるかのようです。金持ちは,これを聞いて違うリクエストをし始めます。それは,まだ生きている兄弟に,警告をしたいということでした。しかし,アブラハムはこう答えるのです。彼らには旧約聖書,つまり神が語り続けてきたみことばがあるではないか,と。
4. 聞き入れるということ
金持ちはねばります。死者の警告を聞くならば,彼らは悔い改めるに違いない。最終的なイエスの答えはこうでした。もし,神の言葉に耳を傾けなければ,誰かが死人の中から生き返っても聞き入れはしない。自分の正しさから抜け出すことができなければ,神のことばを聞き入れることはできない。すでに必要なことは神から十分に語られているのです。
[考えるために]
私たちは,神のことばを聞き入れているでしょうか?
聞かない者やただ聞くだけのものになっていないでしょうか?
投稿者 mb-church : 01:17
メインページへ2008/1/20礼拝メッセージ
2008年1月20日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書16:14~18
「神は心を知っておられる」
1. 不正な管理人のたとえ
不正な管理人のたとえをイエスは人々に話しました。あなたは,神を信じ仕えているようでいて,その実際は別の主人に仕えているのではないか,そう問いかけられました。その問いに対して,パリサイ人たちはイエスをあざ笑いました。彼らにイエスは言われました。あなたがたは,人の前で自分を正しいとする者だ,と。
2. 心を知るお方
神はあなたがたの心をご存知であると,イエスは言われました。神が,この私の心を知っておられ,今何を一番としているのか,私の心の奥底まで知っておられる・・・。このことを私たちが受け止めるとすると,安心以上に恐れを感じるのではないでしょうか。イエスはこう言われました。「人間の間であがめられるものは,神の前で憎まれ,きらわれます。」神が最も憎まれるものは「偽善」です。この偽善は,容易に私たちの内にも入り込んでくるものです。偽善は私たちが神を侮ることから始まります。
3. 神のことばの本流へ
バプテスマのヨハネ以降,イエスによって,神の国の福音は述べ伝えられ,多くの人が救いへと招かれています。その一方で,パリサイ人たちは,イエスは律法を壊すものだと感じていました。しかしイエスは言います。「律法の一画が落ちるよりも,天地の滅びるほうがやさしい」と。そして,イエスは離婚に関する問題を取り上げて,人々に誤りを気付かせようとしました。当時,様々に解釈された離婚を正当化する教えに対し,神が定めた秩序と権威へと,人々をイエスは導こうとされたのです。私たちの罪の根はどこにあるのでしょうか。それは,私たちが安易に,神のことばを言い換えてしまう所から始まるのです。神はあなたの心を知っておられます。私たちの心を知るお方の前に,私たちはへりくだらせていただきましょう。
[考えるために]
偽善は私たちのどのような態度から生じるのでしょうか?
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メインページへ2008年01月18日
2008/1/13礼拝メッセージ
2008年1月13日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書16:1~13
「抜け目ない管理人」
1. 難解なたとえ?
不正な管理人が主人から解任されるとの宣告を受けます。そこで,この管理人は,次の職を得るために策を講じることにしました。債務者たちに貸しをつくり,次の職を得ようとしたのです。これは決して誉められた行動ではありません。しかし,この不正な管理人は,主人から誉められるのです。このたとえは難解なものなのでしょうか。
2. 全てのものは神のもの
明らかに,イエスはここでも不正な管理人のことをほめているように見えます。しかし,このたとえは,言わば「皮肉」というスパイスがきつくかかったたとえ話です。ですから,10節以降が重要です。不正の富,小さい事,これはこの世の富のことを指しています。そしてまことの富,これは大きな事のことです。私たちは,ふたりの主人に仕えることはできないのです。神にも仕え,また富にも使えるということはできません。私たちは,神から多くのものをゆだねられています。そして,全てのもの,それは小さい事も,大きな事も神に属することです。しかし,私たちは,どこかで自分勝手に区切りをつけ,与えられたものを自分のものだと思ってしまうのです。
3. イエスに問われていること
このたとえは決してほめられた内容ではありません。しかし,この管理人は,最後の場面で,一番大切なことに気がつきます。それは,お金ではなく自分自身のいのちです。そして彼は何とかしようとするのです。イエスは,決してこのような管理人の行動を肯定しているわけではありません。そうではなく,本当に大事なことは一体何なのか,という問題提起をしているのです。あなたは,表面的に取り繕ってはいないか?実は,この不正な管理人よりも,私たちは何もしていないのではないか。神の前に,全ての人はこの不正な管理人のようではないだろうか?それなのに,まだ,あなたは表面を取り繕い,そのままの生き方をするのか?そう問われているかのようです。小さい事も,大きな事も,全ては神のものなのです。
[考えるために]
神があなたに与えているものは何でしょうか?あなたはそれを適切に管理しているでしょうか?
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メインページへ2008年01月09日
2008/1/6礼拝メッセージ
明けましておめでとうございます。
今年も神への礼拝から,与えられた日々を始めてまいりましょう。
2008年1月6日の礼拝メッセージの要約です。
民数記13:30
「必ずそれができるから」
1. 主の約束
「必ずそれができる」この言葉は,どのような場面で語られたのでしょうか。この言葉は民数記にあります。この書では,特に重大な事件が取り扱われています。それは,イスラエルの大いなる挫折です。エジプトの脱出の始まりは「わたしは,アブラハム,イサク,ヤコブに与えると誓ったその地に,あなたがたを連れて行き,それをあなたがたの所有として与える」との主の約束でした。
2. 主の命令
エジプトを脱出して,いよいよカナンを前にした時,主は命じました。その土地に入る前に斥候を送れ,というのです。選ばれたのは民の族長でした。彼らの報告は,すばらしい知らせとともに,とても残念なものでした。土地はすばらしい,しかし,そこに住む人々はかなり手強そうだったのです。この報告を聞き,民は揺れ動きます。そのような時,カレブによって口にされた言葉が「必ずそれができるから」でした。それと反対に,他の族長,そして民は,主への不信へと陥ってしまうのです。
3. 神への信頼
この不信が,神の怒りを招きます。彼らはこの後40年という歳月,荒野をさ迷うことになるのです。「必ずそれができるから。」この言葉は,それが必ず成功するという約束の言葉ではありません。この言葉は信仰告白です。神の約束に対する絶対的信頼。それは,自分たちの力がそれを可能にするか,どうかを見つめていては出てきません。ただ,神の言葉の確かさを彼は見つめていたからこそ,この言葉を口にすることができたのです。
4. 神のくださるもの
私たちに神が約束してくださったものはなんでしょうか。神が聖書を通して啓示した約束は,私たちが天の御国,神の国へと導きいれられるということです。「必ずそれができるから。」この言葉は,私たちの生涯をかけて,口にし続ける信仰告白の言葉です。この年も,主を信頼していきましょう。
[考えるために]
神が私たちにくださる約束とは,何でしょうか?
投稿者 mb-church : 10:13
メインページへ2007年12月24日
2007/12/23礼拝メッセージ
2007年12月23日の礼拝メッセージの要約です。
マタイの福音書2:1~12
「一歩一歩たどりつく旅」
1. イエス誕生の時代
イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。人口500人足らずの田舎町ベツレヘムにイエスは誕生しました。東方の博士たちはそこにやってきます。博士たちは,魔術師,占星術師であり,彼らは異教徒中の異教徒でした。しかも,どこの国から来たかも書いていません。しかし,彼らは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を一目見ようと旅してきたのです。
2. ユダヤ人の王
「ユダヤ人の王」この言葉には意味があります。この時の王はヘロデでした。しかし,博士たちは「ユダヤ人の王」が別にいると言っています。当時各地に離散していたユダヤ人たちは,メシア(救い主)をさして「ユダヤ人の王」と呼んでいました。博士たちは「ユダヤ人の王」つまりメシアを探しにやってきたのです。
3. 根拠はどこに
彼らの根拠は何であったのでしょうか?それは,彼らの信じていた宗教,知恵,思想に基づいた結論でした。しかし,彼らは,そのお方がどこにいるのかまではわかりませんでした。しかし,エルサレムにやってきて,この博士たちは新たな情報を得ます。それが「聖書のことば」でした。そして,博士たちは幼子イエスにまでたどり着き,そこで礼拝をささげました。
4. 私たちもまた
ある者はイエスを恐れ否定し,ある者はこの世の権威にひれ伏します。しかし,心から真理を求める者に神は応えてくださるということを,博士たちを通して私たちは知ります。彼らは,救いを,そして神ご自身を求めたのです。しかも,彼らは求めるだけでは終わりませんでした。彼らは求めて旅立ったのです。さらに,一歩一歩真理へと,キリストへと近づいていきました。神は真理を求める者には,聖書をもって教えられます。そして,その真の光こそ,イエス・キリストなのです。
[考えるために]
あなたは心から神を求め,救いを求める者でしょうか?祈るものでしょうか?
投稿者 mb-church : 13:34
メインページへ2007/12/16礼拝メッセージ
2007年12月16日の礼拝メッセージの要約です。
マタイの福音書1:18~25,イザヤ書7:1~14
「神がともにいてくださる」
1. イザヤの時代
「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは,イザヤ書に記されている預言です。イスラエルが北王国と南王国とに分裂していた時代,アハズ王の時代でした。敵対するアラムと北王国イスラエルとが,エルサレムにのぼってきて,ユダを攻めてきました。アハズ王と国の民は非常に動揺します。そこでイザヤが神のことばを語ったのです。
2. アハズの不信仰
イザヤは,アハズに神があなたがたを守られると告げます。そして,「あなたの神,主から,しるしを求めよ」と語られました。しかし,アハズはその主のことばに応えなかったのです。「私は求めません。主を試みません。」しかし,それはアハズの不信仰から出たものでした。彼はアッシリアに助けを求めました。このアハズの行動が,ユダ王国の崩壊を加速させることとなりました。そのような中でイザヤはキリストの預言を語ったのです。
3. 罪ある人間の姿
アハズの姿は,一人の人の姿というだけではなく,ユダの国全体の,さらには,私たち人間の堕落した姿でもあります。外見は取り繕い,あなたに従います,と形だけは見せる。しかし,実際に取る行動は,目に見えるものにより頼み,それによって,現状を打開しようとするおろかな人間の姿です。いつも聖書が私たちに語りかけるのは,主なるまことの神にゆだねなさいということです。
4. 私たちに与えられたしるし
「主みずから,あなたたにひとつのしるしを与えられる」神みずからがひとつのしるしを与えるという,これが,主が下した結論でした。イエスは「インマヌエル」と呼ばれます。それは「神は私たちとともにおられる」という意味です。神は,私たちが不完全であることを承知の上で,自らがひとつのしるしを私たちに送ってくださいました。それが,私たちに与えられたこの唯一のしるし,イエス・キリストそのお方なのです。
[考えるために]
私たちとアハズの共通点はどこにあるのでしょうか。
投稿者 mb-church : 13:30 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2007/12/9礼拝メッセージ
2007年12月9日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書15:25~32
「父と兄」
1. もう一人の主人公
放蕩生活を送ったすえに,父のところに戻ってきた弟。その弟が帰ってきた喜びの宴の途中で,兄は仕事から戻ってきます。彼は,この宴の様子を聞いて怒りだします。彼はすっかりふてくされて家に入ろうとはしませんでした。この兄のところにも父は来ました。しかし,兄は父の言葉を受け入れませんでした。この兄は,弟とのことを,名前でも,また「私の弟」とも呼びません。彼は今や弟を自分の弟とは認めてはいないのです。
2. 兄の怒りと父の思い
兄が怒っているのなぜでしょうか?それは当然の怒りなのでしょうか。しかし,大事な点が見落とされています。それは,父の思いです。この兄は,まったく父の思いを見てはいません。これまでの兄を支えてきた動機は何だったのでしょう。兄は父と一緒にいました。しかし,この兄は父の思いを,願いを知ろうとしていたのでしょうか?もし,彼が父の思いを知っていたのなら,どのような言動をとったのでしょうか?
3. 父の答え
父の答えは,「私のものは,全部おまえのものであり,弟もおまえの弟だ」というものでした。これこそが,私の心だ,そう父は兄に語りかけたのです。私たちもまた,父なる神のみ思いに心を寄せているでしょうか?すべての人が救われ,すべての人が真理を知ること,これこそ,父なる神の願いです。父の近くにいたにもかかわらず,兄は父の心を知りませんでした。知ろうとしていなかったのです。私たちも,失われた弟を探そうとしている父の思いを知り,そして,見つかった弟を喜んで迎え入れる者でありたいと思います。もう一度,この父なる神のみこころを私たち自身の心とさせていただきましょう。
[考えるために]
父なる神の思いと願いは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 13:23 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2007年12月09日
2007/12/2礼拝メッセージ
2007年12月2日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書15:11~24
「父と弟」
1. 二人の息子
ここには二人の主人公がいます。前半は弟が主人公です。ある日,弟が父に財産の分け前をもらいます。そして,弟は遠い国へ出かけていき,そこで放蕩の限りをつくし,分け前をすべて使ってしまうのです。しかし,その生活は長くは続きません。大飢饉がおこり,彼は食べるものにも困り始めます。とうとう,彼は豚の世話をするようになり,みじめな状態に陥るのです。
2. われに返る弟
そして,とうとう彼はわれに返ります。自分がいったい何者で,どこから来た者なのかを思い出すのです。彼が思い出したのは,遠く離れた父の家のことでした。そして,彼は家に帰ります。この弟は,神から遠く離れた私たちのことです。私たちは,神から多くのものを与えられているにも関わらず,神から遠く離れたところで,自分勝手に生きています。しかし,そこに不測の事態がやってくるのです。私たちの力や考えをはるかに超えた困難。そして,ようやく自分の力ではどうしようもないことに気がつくのです。
3. われに返る私たち
「われに返る」とはどういうことでしょうか。私たちがわれに返るとは,この私はどこから来て,そして誰のものなのか?ということに気がつくことです。あなたは,神が形作り,神の所有のものであり,神のために生きるのだということ。彼はもう息子となる資格はない,と思います。しかし,それと同時に,あの父の家に帰りたいと強く願うのです。
4. 迎える父
彼が家に帰ると,父は遠くに息子の姿を認め,走りよって彼を抱き,口づけをします。それは毎日遠くへ行ってしまった息子を思う父の姿でした。父は待っていたのです。父からこれまでのことを責めるような言葉を,彼は一言も聞きませんでした。あなたがもし神に立ち返るなら,必ず,神は抱きとめてくださるお方なのです。一人の人が神に立ち返るときに,天で,そして教会で喜びの宴がはじまります。帰るべき所を見出した人は幸いなのです。
[考えるために]
「われに返る」とはどのようなことでしょうか?私たちの帰るべき場所はどこにあるのでしょうか?
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2007/11/18礼拝メッセージ
2007年11月18日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書15:1~10
「よい羊飼い?」
1. 慰めに満ちた羊飼い
失われた一匹の羊をかつぐイエスの姿。この姿にどんなにか,私たちは慰められてきたことでしょう。ここでも,一人の罪人が救われることの天にある喜びが語られています。しかし,ルカの福音書においては,ここでもコントラストを意識して読むべきでしょう。つまり,一人の罪人と99人の正しい人との対比です。
2. 残される99匹
100匹の羊を持っている人が,その群れに羊が一匹足りないということに気がつきます。その人は,どのような行動をとったのでしょうか?何と彼は99匹を残して,一匹を探しにいくことにしたのです。これは果たして賢明な方法なのでしょうか?この人は,99匹を残して,一匹を探しにいきました。つまり,この人にとっては失った一匹の方が,99匹よりも重い価値があったのです。この人のとった行動は,現実的にはあまり懸命なものではないでしょう。
3. 見つかった喜び
この人は,失われた羊が見つかると,大宴会を開いて人々と共に喜びます。もう一つのたとえ話でも同じです。一枚の銀貨を見つけた女性もまた,近所の人を招いて喜びを分かちあうのです。どちらのたとえ話も失われた物が見つかったときの大きな喜びについて,私たちに教えています。
4. 神の愛
残された99匹はどうなってしまったのでしょうか。イエスは言います。「ひとりの罪人が悔い改めるなら,悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」悔い改める必要のない正しい人,とは誰のことでしょうか。この99人の正しい(と思い込んでいる)人とは,自分は救いを必要としていない,イエスを必要としていない,自分は大丈夫だと思う人のことでしょう。そして,その人々をイエスはどうするのでしょうか。厳しいようですが,イエスは彼らを野原に残すのです。しかし,悔い改める一人の人に対しては,イエスは,どんなことをしても探し出すと言われるのです。
[考えるために]
神の愛とは誰に向けられるのでしょうか?
投稿者 mb-church : 10:06 | コメント (0) | トラックバック
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2007/11/11礼拝メッセージ
2007年11月11日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書14:25~35
「私たちが支払うもの」
1. 厳しいことば
大勢の人々が,イエスについてきました。しかし,イエスはその人々に対して,気休めを語ろうとはしませんでした。イエスが語ったのは厳しい内容でした。家族をまた自分のいのちを憎むということ,そして,自分の十字架を負ってイエスについていくということ。私たちはこのことを実行できるのでしょうか。
2. 自分の十字架を負うこと
自分の十字架とは,運命や定めということではありません。自分の十字架とは,第一にこの私の「罪」のことです。さらには,その罪がキリストの十字架によって赦されたという第二の意味をも受け取ることができるでしょう。それは,救いの「恵み」です。それでは,家族や自分のいのちを憎むとはどのようなことでしょうか。この時代の人々の考えていた救いの根拠やいのちの価値観はどこに置かれていたのでしょうか。それは,「血筋」であり,また「内と外」という価値観であり,さらには自己義認という問題でした。しかし,イエスが語られたのは,信仰の根拠はそれらのものではなく,十字架にあるということだったのです。
3. まったく足りていない現実
さらにイエスはたとえを話されました。それは,搭を建築する人と戦いに赴く王の話です。そのどちらも私たちは十分に持っていないということが分かります。そして,結論は「自分の財産を全部捨てる」ということでした。私たちは,あなたの周りの全ての自分を支えるもの,自分を支配するもの,自分の価値を作り出していると思われるもの,そのようなものに中途半端により頼むべきではありません。イエスが語られたことは,私たちのいのちの根拠は,ただ十字架の救いにのみある,ということなのです。
4. 塩が塩であるには
キリストの弟子としての塩気とは何でしょうか?正しい言動?また家族?血筋?キリスト者の塩気とは,ただ主の恵みによって私は救われているのだ,という信仰なのです。
[考えるために]
キリストの弟子であり続ける秘訣とは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 13:29
メインページへ2007年11月07日
2007/11/4礼拝メッセージ
2007年11月4日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書14:15~24
「神の国の食卓」
1. 線を引く
安息日におけるイエスの話は続きます。直前にイエスは「誰を食卓に招くべきか」というたとえ話をしました。そこで,パリサイ人たちの内と外とを区別する信仰を非難したわけです。さらにイエスはたとえを語りました。それは,招かれた人々ではなく,招いていない人々を祝宴に招く主人の話でした。
2. 断る理由
それには理由がありました。なぜなら招いた人々が,ことごとく理由をつけてその招きに応じなかったのです。ひどい話です。そして,その理由は人々の勝手な都合でした。事前にすばらしい宴会の時があると知らされていたにもかかわらず,この招かれた人々は自分たちの都合を優先させたのです。彼らは,この主人の誘いを,第一の優先順位とはしませんでした。なぜ,この人々は誘いを断ったのでしょうか?それはまさに「身勝手な思い」としか言うほかありません。
3. 招きに応じた人々
結局,誰がこの主人の宴会へと招かれたのでしょうか。貧しい人,体の不自由な人,目の見えない人,足の不自由な人,そして,さらには通りにいる人々でした。これらの人々は,事前に招かれていない人々です。結局,神の国の食卓につく人々は,身勝手な理由で断る人々ではなく,罪人とみなされた人々であり,異邦人であり,神の前に真にへりくだる者たちなのです。本当に,神の前にへりくだる人,悔い改める人とはどのような人のことでしょうか。イエスによって,神の国への招待状は,すでに私たち一人一人に届けられています。私たちは,神の国の宴会がはじまる時までに,自分の都合を優先させる生き方から,神様のみこころを第一とする生き方へと,方向転換をするように教えられているのです。
[考えるために]
神の招きに応じる生き方とは,どのような生き方でしょうか。
投稿者 mb-church : 20:53 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2007年10月28日
2007/10/21礼拝メッセージ
2007年10月21日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書14:7~14
「引き上げてくださる方」
1. 謙遜
パリサイ人の家での食事は続きます。イエスは続けて教えられました。それは「謙遜」ということでした。婚礼の席に招かれたならば,上座にすわってはならない。なぜならば,その後,もっと身分の高い人がきたときに,あなたは恥をかくことになるからだ・・・。日本人にとって,これほどわかりやすい話はないでしょう。とにかくあなたは末席につきなさい,ということがイエスの回答でした。
2. もうひとつのたとえ
「なぜなら,だれでも自分を高くする者は低くされ,自分を低くする者は高くされるからです。」この謙遜さは,私たちが思い描くものと一緒なのでしょうか。ここにはもう一つのたとえばなしが記されています。こちらは「招かれた人」ではなく「招く人」の話です。ここでは,誰を招くかということが問題になっています。貧しい者,からだの不自由な者,足のなえた者,盲人たちを招きなさい,と教えられています。その見返りは,「復活の時」であると語られます。
3. 動機はどこに?
これらのことは明らかに,今ここでの報いではなく,神から与えられる報いをその動機としなさい,ということを意味しています。神の前に立つときに,私たちは自分を誇るものでしょうか,それとも神の前の謙遜さが私たちのうちに見られるでしょうか?
4. 私たちのゴール
いったい誰が低くて,誰が高いものなのでしょうか。神の前で,いったい誰が身分の高いものだと自分のことを主張できるのでしょうか。教会における基準は常に「神」にあります。謙遜な者を高くしてくださるのは「神」です。私たちは,いつも今,自分を高くしたい,今,見返りがほしいと願い求めてしまうものです。しかし,それは,神の国の民,教会の歩むべき心構えとしてはふさわしくありません。私たちはゴールを,今ここに設定してはならないのです。私たちの帰るべきところは神の国にあるのです。
[考えるために]
私たちの基準はどこにあるのでしょうか?
投稿者 mb-church : 18:48
メインページへ2007年10月14日
2007/10/14礼拝メッセージ
2007年10月14日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書14:1~6
「安息日に求めること」
1. 家を訪れたイエス
再び,イエスはパリサイ人の家へとやってきました。イエスは「招かれざる客」であったかもしれません。ここでは,さまざまな視線が交錯しています。みんながじっとイエスを見つめていました。そこに注がれていたのは,疑いやねたみのようなものかもしれません。人々の視線の中で,イエスご自身の視線は,どこに注がれていたのでしょうか。
2. イエスの前
イエスの真正面には病の人がいました。水腫のあったこの人のことは,深く「罪」とかかわりのあるものとして受け止められていたことでしょう。その病にかかった人の前にイエスはいました。この人は,偶然にイエスの前にいたのでしょうか?自らここに入ってきたのか,それともパリサイ人たちに連れてこられたのか?しかし,重要なことは,今,この人はイエスの前にいる,それが重要なのです。
3. 安息日問題
イエスは人々の前で問われます。「安息日に病気を直すことは正しいことですか?」なぜ,この議論が福音書に頻繁に出てくるのでしょうか。それは,当時の教会で,律法を守るとはどのようなことかが,重要な課題であったからです。イエスが取り扱われたのは,律法をいかにうまく守るか?ではありません。イエスが教えたのは,律法の持つ本質,律法を与えた神のみこころそのものでした。
4. 安息日に覚えるべきこと
イエスの問いに,なぜ彼らは黙っていたのでしょうか?彼らは自分たちでつくりあげた壁を,自分で乗り越えることができませんでした。しかし,イエスはこの壁をみごとに打ち壊します。イエスは,この病の人を抱いていやされました。ここに神の私たち罪人に対する変わらぬあわれみ,愛の姿を私たちは見ます。神のみこころはは,ただ安息日を守ることにあるのではありません。神の愛,赦し,救いがあらわされることに,安息日の本質があるのです。この日こそ,この水腫が直ったこの人のように,イエスに抱かれる日なのです。
[考えるために]
安息日にあらわすべきことは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 15:06 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2007/10/7礼拝メッセージ
2007年10月7日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書13:31~35
「幾度も集めようとされた神」
1. 二つのポイント
一つは,神は必ず成し遂げられるということ。そしてもう一つは,イエスを受け入れるということ,です。ここで,何人かのパリサイ人がイエスに近寄ってきました。その理由は忠告でした。ヘロデ王が,イエスを殺そうとしている,それをわざわざパリサイ人たちは伝えにきたのです。
2. 神のご計画
このような圧力に対して,イエスは神のご計画の確かなことを示されました。イエスの宣教の生涯,悪霊を追い出し,病を癒す・・・それは,つまり罪に打ち勝つ救い主としての姿でした。さらに三日目に全うされる。これは十字架の死と復活を通してもたらされる完全な贖罪と救いの成就をさし示しています。これこそ神のご計画にほかなりません。
3. 必ず成し遂げられること
その神のご計画は,どのような圧力があろうとも,成し遂げられます。時の為政者がそれを止めようとしても,人間が否定しようとも,必ず完成へと向かうのです。それは神のご計画な確かさを示すと同時に,神の,イエスの決意の強さをも示しています。主は,ご自分の民を必ず救われるのです。
4. イエスの嘆き
その決意の強さと同時に,ここでイエスは深く嘆かれます。それは人々が,その救いに対して,応答しようとしないからです。預言者を殺し,自分に遣わされた人を石で打つ者。それは,神のことば,神のみこころを無視する人のことです。
5. 幾たびも集めようとされる方
そのような人々の態度の一方で,神はめんどりがひなを翼の下にかばうように,私たちを幾たびも集めようとされます。何度もあきらめずに,神は語りかけ,そのみ手を伸ばしているのです。私たちはこの招きにどのような応答をしているでしょうか?神により頼もうとしないものたちでしょうか?それとも,イエスを私の救い主として迎え入れる者でしょうか?
[考えるために]
主のみ手を拒み続けていく時の結末は,どうなるのでしょうか?
投稿者 mb-church : 15:03 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2007年09月25日
2007/9/23礼拝メッセージ
2007年9月23日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書13:22~30
「狭い門から入りなさい」
1. 努力しなさい?
「狭い門から入りなさい。」格言としても有名なこの言葉。ルカでは「努力して」と記されています。キリスト教でも努力が必要なんだ・・・そう思われるかもしれません。しかし,ここで大事なことは,私たちはどのような努力をするべきなのか,ということです。救われるために頑張りなさいとイエスは仰ったのでしょうか?イエスが強調されたのは,神に対する悔い改めとイエスご自身への信頼でした。
2. 門か戸か?
この「門」という言葉は,「戸」という意味です。この戸の特徴は「後で入ろうとしても,入れなくなる」ということです。最後の時が来る。そしてこの戸は,一度閉まってしまうと,いくらたたいても,いくら願っても,もう手遅れになります。家の主人は,手遅れになった人に向かって「私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい」と言います。なんという厳しい言葉でしょうか。この戸は明らかに「神の国」へと通ずるドアです。
3. 神の国に入るために
神の国とは,今ここに実現していくものであり,後に神の国は完成し,私たちは神の民として,そこに永遠に住まうことが明らかにされています。しかし,人々は「神の国」に入るためには,律法を自分の力や知恵によって守ることによるのだと考えていました。つまり自分たちで勝手に戸口を広げていたのです。自分に都合のいい解釈,自分たちを中心とした平和,利益を優先していたのです。
4. イエスの宣言
しかし,ここでイエスは宣言します。神の国には,あなたがたではなく,世界中から,そして,しんがりと思われている者が入ると。私たちの努力はどこに向けられるべきでしょうか。私たちは絶えず,キリストによって明らかにされた神の国と,そして神のみこころを第一とすることへと心を配らなくてはなりません。それは,自分の都合や自分の思いを優先する生き方から,神の前にへりくだる生き方への転換とも言えるでしょう。私たちはキリストの十字架によって示された「狭い戸」を選び,そこを通る者とならせていただきましょう。
[考えるために]
「狭い戸」とは何によって示されているのでしょうか?
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メインページへ2007/9/16礼拝メッセージ
2007年9月16日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書13:18~21
「神の国とは?」
1. そこで・・・
直前にすばらしい出来事が起きました。一人の罪深いと思われた女性を通して,神の栄光があらわされたのです。この女性に対して,会同管理者は非難をしました。しかし,イエスはその偽善を見抜き,神のみこころを指し示したのです。直後にこの二つのたとえ話は語られました。
2. 神の国とは?
イエスは,人々に「神の国」について明らかにされました。「神の国」はいわゆる「天国」ではありません。「神の国」という言葉は,この「地」つまりこの世界と密接に結びついています。「神の国」は私たちのうちにきます。それだけではありません。神の国は,今ここにあります。そして,神の国は後に完成の時を迎えます。「あの世」で完成するのではなく,この地に神の国の完成が訪れるのです。
3. 神の国の性質
この女性の癒しと救いに関するやり取りを通して,イエスは神の国の性質について明らかにされています。その性質こそ「からし種」と「パン種」のたとえに語られているのです。それは,目にも留まらぬ小さなものが,大きくなり,周囲に広がるということです。ここで注目すべきことは,小さなものが大きくなり,周囲に広がるという点です。
4. 取るに足りない者
あの女性こそ,取るに足りない者の代表です。それだけではありません。自分でも取るに足りない存在であることを自覚していたことでしょう。しかし,その一人にイエスは目を留められました。そして,この人を通して神のみわざがあらわされ,神のみこころと栄光があらわされました。一人の何もない無力な女性を通して,イエスは神の栄光をあらわされたのです。神の国は,このような取るに足りない,目にも留まらない小さなものからはじまるのです。
[考えるために]
私たちは,神の前にどのような存在でしょうか?
イエスはどこから神の国がはじまると言ったのでしょうか?
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メインページへ2007年09月15日
2007/9/9礼拝メッセージ
2007年9月9日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書13:10~17
「解き放たれる主」
1. コントラスト
イエスは,さらに「罪人」と「偽善者」というコントラストを明確にしていきます,罪人には救いを,偽善者には警告をという明確な語り口の違いです。ここでの罪人とは誰でしょうか?18年も病の霊につかれた女性が罪人の代表です。
2. 「病の霊につかれ」
これが,当時の人々の病に対する考え方でした。なぜこの人に病の霊がついているのでしょうか?それはこの女性の犯した罪のため,もしくは,家族の中に罪を犯した人がいた,そのように受け止められていました。この女性は,救われるには遅い人,後の人であったのです。
3. 罪人を招かれる方
イエスは,会堂に集まった人々の中で,真っ先にこの女性を呼び寄せました。そして,高らかに宣言するのです。「あなたの病気はいやされました。」これは,「あなたは痛み,弱さから解放された」という宣言です。この女性にしか分からない18年の間続いた痛み。その痛みからイエスは女性を解放されました。
4. 偽善を暴くイエス
イエスはこの女性に手を置きました。安息日に手を置き,この罪人を癒されたのです。イエスは,一人の罪人のところに来られ,手を置き,癒しを,救いの宣言をするために来られました。しかし,ここには「偽善者」が登場します。その代表が「会堂管理者」です。この人は直接イエスを非難せず,女性を非難しました。神のみ教えを用いながら,この罪人を非難したのです。それは全く神のみこころを,み教えから汲み取らない人の姿と言うことができるでしょう。私たちは,イエスの前に,自らの偽善を恥じ,御前にへりくだらせていただきましょう。
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メインページへ2007/9/2礼拝メッセージ
2007年9月2日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書13:1~9
「例外なき招き」
1. 人々の反応
イエスの主張は単純明快でした。しかし,思わずガリラヤで起こった悲劇を口にした人々がいました。これまでのイエスの語られたことが自分のことではなく,ガリラヤのあの人々こそ,神とすぐに和解しなかった結果ではないか,そう人々は応答したのです。ここに,人間の罪深い姿があります。私たち自身に語られているのにも関わらず,他の事柄を挙げることによって,さも自分はわかっているのだ,そういいたい罪人の姿がここに描かれています。
2. イエスの答え
これは決して他人ごとではありません。イエスの答えは,「あなたがたも悔い改めないなら,みな同じように滅びます」というものでした。また,エルサレムで起きた事件も同じように例に出します。あの人々も例外ではない。みな悔い改めないなら,同じように滅びる,とイエスは明言されたのです。
3. 死の先にある滅び
イエスの視点は,単なる地上での死だけを見てはいません。神からの永遠の別離,完全な滅びに焦点が当てられています。私たちの人生,生涯は,神から与えられた一度限りのものです。しかし,それ以前に,神にあるいのちでなければ,本当に神に喜ばれるものにはなりえないと,聖書は語るのです。
4. 待たれるお方
イエスは,ここで「ぶどう園に植えられたいちじくの木のたとえ」を語られます。このいちじくは,本来のところには植えられていませんでした。それでも実がなることを期待されていました。しかし,残念ながら実はなりませんでした。しかし,その園の番人は,もう一年まって欲しいと園の所有者に願うのです。この願いこそ,イエスの願いです。そして,今,神は私たちが悔い改めの実を結ぶことを待っていてくださるのです。
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メインページへ2007年09月04日
2007/8/26礼拝メッセージ
2007年8月26日の礼拝メッセージの要約です。
ローマ人への手紙7:15~8:2
「恵みに帰る信仰」
[ハイデルベルグ信仰問答]
問い3:何によって,あなたは、あなたのみじめなことを,認めることができるのですか。
答え:神の律法によるのです。
問い4:神の律法は、私たちに,何を要求するのですか。
答え:キリストは,律法の内容を,マタイによる福音書22章の中に。おまとめになりました。「『心を尽くし,思いを尽くし,知力を尽くして,あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも,それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが,この二つの戒めにかかっているのです。」
問い5:あなたはこれら全てを,完全に守ることができますか。
答え:できません。なぜならば、うまれつき,神と隣人とを憎む傾向にあるからです。
1. わたしの罪とわたしの悲惨
私たちが,神の慰めに生きるためには,「わたしの罪とわたしの悲惨とが,どんなに大きいかということ」を知らなくてはなりません。悲惨さをつきつめていくと,私たちは自分を守るために自己防衛することでしょう。しかし,聖書はその自衛本能に対し,罪と悲惨に向き合うようにと語りかけています。
2. みじめさ
パウロはその悲惨さをこう記しています。「私は,ほんとうにみじめな人間です。」私たちもみじめさを感じることがあります。しかし,本当にはそのみじめさに向き合おうとはしていません。自分のみじめさを認めようとはしていないのです。
3. 恵みに生きる
みじめさから私たちを救い出すことのできるお方は,イエス・キリストだけです。私たちが,自分の罪深さを知れば知るほど,神の赦しが恵みであることに気がつかされます。この逆説的な恵みの経験に,私たちは絶えず生きなくてはならないと聖書は教えるのです。そして,私たちは神の律法(み教え)によって,真の罪の深さを知ることができるのです。
[考えるために]
あなたは自分の,また人間の悲惨さ,みじめさ,罪深さをどのようにとらえているでしょうか?
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メインページへ2007/8/19礼拝メッセージ
2007年8月19日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:54~59
「和解する熱意」
1. 前兆
イエスはミカ書から引用されました。それは,そこにご自身の預言と,イスラエルの民への悔い改めの勧告が確かに記されていたからです。すでに,イスラエルの人々には,神からの預言が与えられていました。しかし,人々はそれでも神に立ち返らず,イエスを受け入れようとしなかったのです。ですから,イエスは「あなたがたは地や空の現象見分けることを知りながら」と言われているのです。
2. 偽善者
イエスは,ここで人々を「偽善者たち」と非難します。どうして今のこの時代を見分けることができないのか?そして,自分から進んで,何が正しいかを判断しないのか?と容赦のない言葉を人々に投げつけました。なぜ,これだけの神からの警告,預言があるのにもかかわらず,あなたがたは,頑ななのかとイエスは訴えかけられたのです。
3. 告訴する者
どうして,これだけのことが語られているのに心を開こうとしないのか・・・人々の頑なさに対し,イエスはたとえを語られました。それはあなたを告訴する人に対し,手遅れになる前に和解しなさいというものでした。私たちは聖なる神の前に,みな罪人です。最後の一レプタを支払うまで,完全に赦されません。ですから,手遅れになる前に,それに気がついたその時に,神と和解しなさいと,イエスは言われます。何よりも,イエスこそ,私たちの負った罪の負債の代価となり,身代わりとなってくださったお方なのです。私たちは今この時に,イエスにある救いを受け取らせていただきましょう。
[考えるために]
私たちは「前兆」をしっかり見ているでしょうか。
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メインページへ2007年08月16日
2007/8/12礼拝メッセージ
2007年8月12日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:49~53
「主の警告」
1. ご自身が来られた意味
ここで,イエスはご自身が来た意味を強調しました。「わたしが来たのは,地に火を投げ込むためです。」この言葉はとても厳しいものです。しかし,この厳しさは,本当の愛から出たものでもあります。この火は,すべてを焼き尽くし,本当のものだけをあらわにする「火」のことです。隠れされた罪をあらわにし,本当の神への信仰のみ,そこに明らかにする火。その火を,投げ込むために,イエスは来られました。
2. 受けるべきバプテスマ
私たちは,自分の罪があらわになればなるほど,そのような自分をどうすることもできなくなります。しかし,イエスはこの世界に来られ,私たちの弱さ,罪深さという現実に向き合ってくださいました。そして,イエスは私たちの罪ゆえに十字架にかかるのです。それが,イエスが受ける「バプテスマ」でした。その十字架の死によって私たちの罪が贖われ,私たちの罪がすっかり洗い清められるのです。その罪の苦しみは,私たちの基準で計れるものではありません。イエスがどんなに苦しまれたのか,そのことを,深く理解するときに,私たちの罪の重さを私たちは捉えることができるのです。
3. 分裂を与えるために
私たちが求めるのは,「この世(地)」での平和です。それは,自分たちの都合のよい平和でしょう。しかし,イエスが私たちに与えてくださる平和は違います。それは「神の国」そのものです。しかし,この神の国を前にして,私たちは分かれてしまうという現実をイエスは教えられます。これは最も厳しい現実をあらわしています。しかし,その厳しい現実をくつがえすお方もまた,イエスご自身なのです。
[考えるために]
イエス様はあなたに,何を知って欲しいと思っているのでしょうか?
投稿者 mb-church : 16:20
メインページへ2007/8/5礼拝メッセージ
2007年8月5日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:41~48
「忠実な賢い管理人」
1. ペテロの質問
なぜ,ペテロはこの質問をしたのでしょう。私たちか。それともみなのためか。ペテロの語る「私たち」「みな」とはいったい誰を指しているのでしょうか。この場面から,推測できるのは「弟子」と「群集」でしょう。これまでのたとえは,自分たちに向けてなのか,それとも,群集に対してのものなのか。自分は,群集とは違う,そのような思いがペテロにはあったのかもしれません。
2. イエスの答え
このようなペテロに対して,イエスはさらなるたとえ話で答えられました。それはしもべの中でも,主人から全財産を預けられる管理人のたとえでした。管理人と言ってもしもべです。このたとえも,前のたとえと中心テーマは同じです。ここでもこの主人は,しもべの思いもよらない時に帰ってきます。そして,主人は自分が不在であっても,しもべが忠実であったかどうかを評価するのです。
3. 異なる点
ここに前のたとてとは異なることが付け加えられています。それは,もし,しもべが不忠実であったらどうなるのか,という点です。そのようなしもべは,主人によって厳しく罰せられ,鞭打たれます。なぜなら,このしもべは主人の思い,考えを知っていながら,それを行わなかったからです。
4. キリストから与えられたもの
主人から,多く与えられた者は多く求められ,多く任された者は多く要求されます。責任を持たされていないしもべは,打たれても少しですむ,これは当然の結論です。では,多く与えられた者とは誰を指しているのでしょうか。与えられたものとは,個人個人の能力や資質のことではありません。キリストを信じるときに,すでに私たちは多くのものを受けています。何よりも,キリストのいのちそのものが,与えられているのです。
[考えるために]
与えられたものとして,私たちは,どのような歩みをもって神に応えることができるでしょうか。
投稿者 mb-church : 16:16 | コメント (0) | トラックバック
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2007/7/29礼拝メッセージ
2007年7月29日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:35~40
「仕える主人」
1. 二つのたとえ
この短い箇所は,二つのたとえ話が組み合わされています。最初のたとえが35~38節。二つ目が39~40節です。まずはじめのたとえ話を見ましょう。このたとえは主人の帰りを待つしもべの話です。主人の帰りを待つしもべの姿に,私たちのあり方をイエス様は写し出しています。そのあり方とは「よく準備をしている」ということです。
2. 主人の帰りのために備える
「主人の帰り」が直接意味しているのは「イエスが再び来られるとき」です。再臨の時を,私たちはどのような状態で迎えるでしょうか。私たちは,すぐに以前の基準を持ち出します。つまり,私たちは,何をしてきただろうか・・・?しかし,イエスの基準はそうではないのです。
3. 仕える主人
しもべが,忠実にいつ帰るかわからない主人の帰りを待つということは,大変なことです。単なる義務感でできることではありません。そして,この主人は,しもべの忠実さとしもべの主人に対する思いも,よく知っています。なぜなら,この主人は,忠実なしもべに,逆に仕えることによって報いる,というのです。主は,その忠実さをしっかりとご覧になり報いてくださるのです。
4. 当たり前の話
家の主人が,泥棒の入る時刻を知っているのであれば,自分の家に押し入られることはなかったことでしょう。これは当たり前の話です。この話のように,もしイエスが再び来られるということを知っているとするならば,この家の主人のように当然備えることでしょう。私たちもまた,この再び来られる方を知るときに,私たちたちがどう生き,備えるかは明らかなこと,なのです。私たちの備えはできているのでしょうか?。
[考えるために]
二つのたとえ話のポイントは何だったでしょうか?
私たちがすべき備えとはどのようなものでしょうか?
投稿者 mb-church : 10:10
メインページへ2007/7/22礼拝メッセージ
2007年7月22日の礼拝メッセージの要約です。
この日の説教者は,吉澤慎也神学生(元KGK主事)でした。
オバデヤ書1~21
「オバデヤの幻」
理解が困難だと思われがちな旧約聖書の小預言書の一つ,オバデヤ書。オバデヤは預言者であり,オバデヤ書のテーマは「エドムに対する裁き」。エドム人とはエサウの子孫であり,元々双子の兄弟だったヤコブの子孫であるイスラエル人とは良好な関係ではなかった。
1. アウトライン
1~4節:エドムに対する裁きの知らせ
5~9説:エドムが滅ぼされる様子
10~14節:エドムが滅ぼされる本質的な理由
15~16節:主の日の預言
17~21節:イスラエルの回復
2. 傍観者であってはならない
エドム人は,兄弟に値するイスラエル人が苦難のときに,それをただ傍観していた。それだけでなく,イスラエル人の敵に手を貸すことすらした。それゆえに神に裁かれた。私たちにとっての兄弟とは,①家族や親戚,②クリスチャンの兄弟姉妹,③隣人としての兄弟姉妹,の3つのレベルが考えられる。兄弟の捉え方は人によって異なって良いが,自分にとって「兄弟」と呼べる存在が誰にでもいるだろう。その兄弟が困難を覚えている時に,ただ眺めるだけであってはならない,ということをチャレンジとして受け止めたい。
3. 主の日の希望
やがて主の日が来る。主に敵対する諸々の悪は必ず討ち滅ぼされ,「王権は主のものとなる」(21節)。主に敵対する者は最後には必ず滅び,主に付き従うものは最後には必ず救われる,という希望の約束を受け止めたい。私たちの目には,悪がはびこり,罪深い世の中に見えたとしても,必ず最後には主の勝利が来る。オバデヤはその希望の約束を,廃墟となったエルサレムの只中において預言した。私たちも荒廃しているかのように見える現代の社会の只中にあって,主の日の希望の約束を信じて歩んでいきたい。
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2007年7月15日の礼拝メッセージの要約です。
エペソ人への手紙2:3~6
「私たちが知るべきこと」
[ハイデルベルグ信仰問答より]
問い2
「それならば,あなたがその慰めの中に,祝福されて,生きたまま死ぬことができるためには,あなたは,いくつのことを,知らねばならないのですか。」
答え
「三つのことです。第一には,わたしの罪とわたしの悲惨とが,どんなに大きいかということ,第二には,わたしが,どのようにして,わたしのあらゆる罪とわたしの一切の悲惨から,救われるか,ということ,第三には,わたしが,どんなに,この救いに対して,神に,感謝すべきか,ということであります。」
第一の問いは,「生きている時も,死ぬ時も,あなたのただ一つの慰めは何ですか」というものでした。
「わたしが,身も魂も,生きている時も,死ぬ時も,わたしのものではなく,わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります」という答えは,信じ記憶するに値する言葉でしょう。しかし,この慰めの中に生かされ続けるためには,私たちは深く知り続けるべきことがあります。そのことをこの信仰問答は,私たちに教えています。また,そのことは,聖書が今日も,私たちに向かって語り続けているメッセージそのものなのです。
パウロは,これらのことを覚えるときに,神の恵みが自分に与えられ,神の愛が,この私に向けられていることを,強烈に自覚していたようです。それこそが,どんな時にも希望を失わず,感謝に生きたパウロの生涯の秘訣だったのです。
[考えるために]
あなたが知るべき三つのこととは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 10:01
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2007/7/8礼拝メッセージ
2007年7月8日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:32~34
「恐れることはない」
1. 聖霊にゆだねること
今日のポイントは,「聖霊に期待するということは,私たちの今から後を,自分や他のものではなく,主に期待してゆだねる」ということです。聖霊の働きにゆだねるということは,何を意味しているのでしょうか。それは,私たち自身の悟り,私たち自身の力,またこの世の権力,この世の富によらず,私たちの内に働かれるお方に,すべて期待し,ゆだねることを意味しています。
2. これから向ける困難
イエスは,ここで弟子たちがこれから迎えるであろう困難に言及します。しかし,そのような困難を前にしても,イエスを認める者を,神は認めてくださると約束しています。しかし,その逆に,イエスを知らないと言うものを,神もまた知らないと言うとも語られています。私たちはどうでしょうか?
3. 聖霊の働き
聖霊の働きは人の内に働き,救いを得させるよう導くことです。ですから,イエスをそしるような者であっても,聖霊に導かれ,悔い改めるならば,その人は赦されます。しかし,内なる聖霊の働きを拒否する者は,イエスを主と認めることができません。つまり,その人は赦されないのです。イエスを主と認めるのは,私たちの力や努力や意志の強さによるのでしょうか。そうではありません。その人のうちに働く聖霊の力によるのです。
4. 私たちのなすべきこと
私たちのなすべきことはいったいなんでしょうか。それは,内なる聖霊の働きに期待し,ゆだねることです。私たちの「今から後」を主に期待してゆだねること,これこそ,私たちが今なすべきことなのです。
[考えるために]
私たちは,聖霊を,日生活常の中で,認めているでしょうか?
あなたは,聖霊に期待して歩んでいるでしょうか。
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2007/7/1礼拝メッセージ
2007年7月1日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:22~31
「心を配るところ」
1. 心配ごと
イエスは,弟子に,そして私たちに言われます。「心配するのはやめなさい」私たちは,多くのことに気を使い,心配しています。なぜ私たちは心配をしてしまうのでしょうか。それは,私に心配を消すだけの力がないからです。私たちは容易に心配で心が満たされてしまうのです。
2. 本質なるもの
私たちの心を満たす心配ごとは,私たちが求めるべき「本質なるもの」ではありません。その心配ごとのために,私たちは生きているのではないのです。今あなたの心を満たそうとしているものは何でしょうか?そのために,あなたは神に造られ,いのちが与えられたのでしょうか?
3. 烏とゆり
ここで烏とゆりが,何も心配せずに生きている姿が語られます。これらの言葉は,主がすべてを与えてくださるから,あなたは何もしなくてよい,という意味ではありません。烏もゆりも,生きること,着飾ることに関して全く心配していません。それは,とても軽やかで自然な姿です。
4. 第一とするもの
それでは,本質的なるものとは何でしょうか?あなたが今,第一としているものは何でしょうか。私たちにとって,いのちを延ばすこと,今日の食や必要なものを得ること,暮らし向きを豊かにすることは,小さなことではありません。しかし,神は,すでに何が最善であるかをご存知です。だからこそ,私たちは,本質なることに,心を向けるべきなのです。それが「神の国」なのです。
5. 神の国
神の国とはいったい何でしょうか?それは,神のすべてにおける支配のことであり,神の栄光であり,神のみこころ,み思いそのもののことです。私たちはまず神の喜ばれることが何かを求め,私たち自身を通して,神の栄光をあらわすものとさせていただきましょう。
[考えるために]
あなたには今,心配事があるでしょうか?
まずどこに私たちは目を止め,心を配るべきでしょうか?
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2007/6/24礼拝メッセージ
2007年6月24日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:13~21
「あなたのいのちの場所」
1. 遺産問題
群集の中の一人が遺産問題について,イエスの助けを求めにきました。彼は何を期待してイエスのところに来たのでしょうか?しかし,イエスは「いったい誰が私をあなたがたの裁判官や調停者に任命したのか」と答えました。この当時,律法の教師は,このような問題の調停もしていましたが,イエスはその立場とは異なることを明らかにしています。
2. どんな貪欲にも注意しなさい
私たちもまた,何をイエスに願っているのでしょうか?この群集の一人は,イエスに問うだけの正当な理由もあったのでしょう。しかし,イエスの口から出た言葉は,おおよそ,その人の思いとは異なるものでした。「どんな貪欲にも注意して,よく警戒しなさい。」そのように,この人に,また群集に教えられたのです。
3. いのちの場所
「いくら豊かな人でも,その人のいのちは財産にあるのではない」とイエスは言いました。「財産」とは何を指しているのでしょうか。この群集の一人がイエスに求めたものは,「私の持ち分」でした。しかし,イエスは,あなたのいのちは持ちものにはないと言われたのです。
4. 「私の」という思い
イエスはたとえを語ります。その中に出てくる人は,作物も倉も穀物も財産も,さらには魂もすべて「私のもの」であると考えていました。しかし,最終的に,神はこの人のことを「愚か者」と言われ,さらに自分の魂そのものも,神に取り上げられてしまう結末を迎えます。イエスの言う貪欲とは,あなた自身をも自分の所有と考えることです。真に富む者とは,すべてが神のものであると知っている人のことなのです。
[考えるために]
イエスとはあなたにとって,どのようなお方なのでしょうか?Ⅰペテロ2:25を読みましょう。
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メインページへ2007年06月21日
2007/6/17礼拝メッセージ
2007年6月17日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:8~12
「聖霊に信頼するということ」
1. 聖霊にゆだねること
今日のポイントは,「聖霊に期待するということは,私たちの今から後を,自分や他のものではなく,主に期待してゆだねる」ということです。聖霊の働きにゆだねるということは,何を意味しているのでしょうか。それは,私たち自身の悟り,私たち自身の力,またこの世の権力,この世の富によらず,私たちの内に働かれるお方に,すべて期待し,ゆだねることを意味しています。
2. これから向ける困難
イエスは,ここで弟子たちがこれから迎えるであろう困難に言及します。しかし,そのような困難を前にしても,イエスを認める者を,神は認めてくださると約束しています。しかし,その逆に,イエスを知らないと言うものを,神もまた知らないと言うとも語られています。私たちはどうでしょうか?
3. 聖霊の働き
聖霊の働きは人の内に働き,救いを得させるよう導くことです。ですから,イエスをそしるような者であっても,聖霊に導かれ,悔い改めるならば,その人は赦されます。しかし,内なる聖霊の働きを拒否する者は,イエスを主と認めることができません。つまり,その人は赦されないのです。イエスを主と認めるのは,私たちの力や努力や意志の強さによるのでしょうか。そうではありません。その人のうちに働く聖霊の力によるのです。
4. 私たちのなすべきこと
私たちのなすべきことはいったいなんでしょうか。それは,内なる聖霊の働きに期待し,ゆだねることです。私たちの「今から後」を主に期待してゆだねること,これこそ,私たちが今なすべきことなのです。
[考えるために]
私たちは,聖霊を,日生活常の中で認めているでしょうか?
あなたは,聖霊に期待して歩んでいるでしょうか。
投稿者 mb-church : 14:11
メインページへ2007年06月20日
2007/6/10礼拝メッセージ
2007年6月10日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:1~7
「恐れをなくすお方」
1. 今日の結論
「本当に恐れなくてはならない方が,あなたの恐れをなくしてくださる」ということがここでの結論です。ここで,群集が再びイエスのまわりに集まってきました。この大勢の群集の中で,本当にイエスご自身を求めた人は何人いたのでしょうか?そのような中で,イエスは,まず弟子たちに語り始めました。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。」
2. パリサイ人の偽善
ここで,イエスは「パリサイ人に気をつけなさい」ではなく,「パリサイ人のパン種,偽善に気をつけなさい」と言われました。パリサイ人の「偽善」は,神のことばを無にし,神よりも自分の正しさを優先させたことにありました。それゆえに,自分が罪人であることを認めようとはしなかったのです。しかし,イエスは,すべての偽善,隠されたもの,罪が,後に明らかになると言われました。
3. 友であるあなた方は・・・
そこで,イエスは弟子たちを「わたしの友」とした上で話を続けられました。偽善の根本的な原因である「人への恐れ」を優先するのではなく,「神を恐れなさい」とイエスは語られました。なぜなら,肉体の死だけではなく,私たちの存在そのものを握っているのは,神であるからです。ここで,イエスは,神の偉大さ,権威,その力に目を向けさせています。
4. だから・・・
イエスは,取るに足りない雀,そして髪の毛でさえ,神は忘れず,数えていると言われました。それは,ただ知っているだけではなく,大きな関心を持って,いつも私たちのことを覚えているということであり,私たちの知らないことさえも,ご存知であるということです。イエスは私たちのことを友と呼んでくださいました。このことを覚える時に,偉大なる神の存在が単なる恐れではなく,すべてに勝る平安となるのです。だから,私たちは,もはや何者をも恐れなくてよいのです!
[考えるために]
神はあなたのどこまでをご存知なのでしょうか?
神の偉大さを覚えるときに,私たちに何が与えられるのでしょうか?
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メインページへ2007年06月09日
2007/6/3礼拝メッセージ
2007年6月3日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書11:45~54
「聞いているようで聞いていない人」
1. 律法学者への非難
パリサイ人への非難は,律法学者への非難の言葉としても響きました。そこで,律法学者も黙っているわけにはいかなくなりました。しかし,彼らは,イエスの言葉を「侮辱」としてしか受け止めることができませんでした。イエスは,ここで単なる非難ではなく,「人の罪」の問題を取り扱っています。「あなたがたは,人々には負いきれない荷物を負わせるが,自分は,その荷物に指一本もさわろうとしない。」まず,ここで指摘されているのは,律法学者のした聖書解釈についてです。それは,丁度,律法を自分の基準にあわせて解釈することによって,自己正当化をする姿でした。しかも,自分ではリスクを負わず,その正当性を人々に押し付けていたのです。
2. 神のことばを無にする
さらにイエスは言いました。「あなたがたは預言者たちの墓を建てている。」実際に彼らが預言者を殺したわけではありません。それは神の言葉を無にしているということでしょう。預言者のメッセージは,生ける神を恐れよ,神に立ち返れ,神をあがめよ,というものでした。預言者は,いつも律法の本質に目を向けていたといってもいいでしょう。そもそも律法とは,守れば自分は正しくなるというものではありません。律法とは,神に従うものたちに示された,神ご自身の聖さや愛,公正さを示すものであり,律法によって,自分の罪が教えられ,また,律法によって,神ご自身を知ることのできるものです。十戒をあなたなりに守れば救おうというものではありません。あなたは私のものだから,私の命令に従わなくてはならない,と神は語られたのです。この順番が大切なのです。
3. 人々の妨げとなる者
律法学者の大きな罪は,人々を妨げたことにあります。私たちは,教会はどうでしょうか。神を求める人の妨げとなってはいないでしょうか。私たちも神の前にへりくだり,聖書にあらわされた神のことばの本質を受け止めてまいりましょう。
[考えるために]
私たちは神のことばを「無」にしていないでしょうか?人々の妨げとなっていないでしょうか?
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メインページへ2007年06月02日
2007/5/27礼拝メッセージ
2007年5月27日のペンテコステ礼拝メッセージの要約です。
ヨハネの福音書14:16~17
「われらのうちに住むお方」
1. ペンテコステ
ペンテコステは,イエスが弟子たちに約束したことが成就した日です。その約束は,イエスが天にのぼられた後,弟子たちに助け手である聖霊を与えるというものでした。聖霊が弟子たちにくだった時,教会がこの世界に誕生しました。
2. 「あなたのただ一つの慰めは何ですか?」
「聖霊によりわたしに永遠の命を保証し,今から後,この方のために生きる事を心から喜び,またそれにふさわしくなるように,整えてもくださるのです。」私たちに内住する聖霊は,第一に永遠の命を保証する方です。永遠の命とは,私たちの死んで滅ぶべき運命が取り除けられ,永遠に神とともに生きることです。永遠の命を得るのは,私たちの努力でもなく,信心深さでもありません。ただ,キリストへの信仰によってのみ与えられるものです。
3. 信仰という奇跡
イエス・キリストが救い主であることを,どんなに理論的に話をしたところで,十分な説明にはならないでしょう。なぜなら,イエスへの信仰そのものが,いわば奇跡であるからです。私たちがイエスを救い主であると信じ,告白するには,聖霊の働きが不可欠です。聖書を開くこと,みことばに聞き,理解すること,また多くの出会い,すべての事象,それらは決して偶然ではありません。そこに,必ず,神の霊が,聖霊が働いているのです。
4. 永遠のいのちの保証
永遠の命の保証は,一度限りの保証ではありません。どのような事態に直面しようとも,制限なく保証を与えてくれるものです。聖霊は,不完全で,身勝手な私たちと,ともに歩んでくださるお方です。私たちに絶えずイエスが主であることを分からせ,神への思いを強めてくださる存在です。イエスを信じた時から後,私たちには聖霊が与えられています。私たちの生涯は,御霊に導かれている今という時の積み重ねなのです。私たちは,この聖霊が与えられ,今,私の内に住み,語ってくださっていることを,絶えず覚えましょう。来る朝ごとに,自分自身にこう語りましょう。助け手であり,導き手であり,慰めぬしなる聖霊が,今,私の内に住んでくださっています!と。
[考えるために]
ハイデルベルグ信仰問答の問い1を,聖霊の働きを覚えつつ黙想しましょう。
問い「生きるにも死ぬにも、あなたのただ1つの慰めは何ですか。」
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メインページへ2007年05月22日
2007/5/20礼拝メッセージ
2007年5月20日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書11:37~44
「うちからのきよめ」
1. 食卓に招かれたイエス
イエスが語られた後,一人のパリサイ人がイエスを食事に招きました。おそらくそれは純粋な招きではなく,さらにイエスが誰であるかを確かめようとしたのでしょう。この人は,決して,自分が「悪い時代」の一員であるとは思ってはいませんでした。そして,彼は驚くことになります。なぜなら,イエスが,食事の前の洗いきよめの慣習をしなかったからでした。
2. 信じられない行動
これは単なる手洗いの習慣ではありません。まるで,外のものはすべて汚れたものであるかのように考え,儀式的に身を洗い清めることを彼らはしていたのです。しかし,あえて,イエスはそのことをしませんでした。なぜでしょうか。それは彼らの持っていた内と外との区別に挑戦をするためでした。彼らは内の汚れを取り扱うことを避け,外側のみを問題としていたのです。
3. すべてを造られた神
「おろかな人たち。外側を造られた方は,内側をも造られたのではありませんか」とイエスは語られました。内と外を分けるということは,まことの神をよく知らない者たちのすることです。私たちにかかわるすべての領域において,神は「神」なのです。ですから,私たちは,まず内のものをささげなくてはなりません。自分がいかにも正しい人のように振舞い,他の人との比較の中で安心したとしても,それはまことの神の思いからかけ離れた姿であり,愚かな者なのです。
4. 内のものを施す
私たちの内にあるものは何でしょうか。私たちの弱さも,愚かさも,足りなさも,そのすべてをまず神の前に差し出すことを,神は求めています。私たちも,内と外とを区別し,神の前にその内を隠してはいないでしょうか。神の前に自分を誇れる人などいないということを私たちは忘れてはなりません。
[考えるために]
私たちのすべては神によって創られました。
そのすべて(心も)は,誰のものとなっているでしょうか?
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メインページへ2007年05月12日
2007/5/13礼拝メッセージ
2007年5月13日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書11:33~36
「暗やみにならないために」
1. あかり
このあかりは,神の啓示と言ってもいいでしょう。この直前の箇所にあるように,すでに示され,そして今やイエスご自身によって示された「裁きと,神からの救いのしるし」のことです。つまり,神は,ご自身のこと,また,私たちの救いのことを隠してはおられなかった。むしろ多くの人々に分かるようにしてくださいました。神は,イエス・キリストを通して,私たちに光を見せてくださったのです。
2. からだのあかり
「あかり」の役割とは何でしょうか。それは「ガイド」ということです。何があるのかを示し,暗闇を照らすもの。それがあかりです。からだ全体をガイドするものは,目であるとあります。そして,その目が健全であるならば,全身も明るくなります。しかし,目が悪ければ,全身が暗くなるのです。私たちの目の前にある物にかわりはありません。しかし,それを知覚し,受け取る目そのものが健全かどうかで,風景そのものが変わってしまうのです。私たちは,そこにある光を受け取っているのでしょうか。
3. だから・・・
だから,私たちは,光そのものを見続けなくてはなりません。私たちの目が健全になり,からだ全体が明るくなるためには,どうしたらいいのでしょうか。だからこそ,私たちは,神の光を,キリストを,啓示の光であるみことばを見続けるのです。
4. あかりとなるということ
私たちがキリストを,またみことばを見続けるならば,私たち自身があかりとなると言われています。キリストの光が,私たちを照らし導いてくださったように,今度は私たち自身が,世の光,人々へのあかりとなります。私たちの力であかりとなることはできません。しかし,キリストの光に,みことばの光に照らされ,その光を見続けるならば,私たち自身が神の栄光を反映させるものとなるのです。
[考えるために]
今あなたは何を見続けているでしょうか?
投稿者 mb-church : 21:29 | コメント (0)
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2007年5月6日の礼拝メッセージの要約です。
ペテロの手紙第一1:5,18~19
「神の御力による守り」
ハイデルベク信仰問答より
問い「生きるにも死ぬにも,あなたのただ一つの慰めは何ですか?」
答え「わたしがわたし自身のものではなく,体も魂も,生きるにも死ぬにも,わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。この方は,ご自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い,悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また,天にいますわたしの父のみ旨でなければ,髪の毛一本も落ちることができないほどに,わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。」
1. 償い
私たちは,実は,償わなくてはならない存在であることに,自覚しているでしょうか?私たちの多くは被害者意識を持っています。しかし,聖書ははっきりと語ります。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て,みな,ともに無益なものとなった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」つまり誰もが加害者であり,罪人であると聖書は語ります。
2. 悪魔の力
「悪魔」とは何でしょうか?悪魔とは,私たちから,神に対する思い,善に対する思いを阻むもの,さらには,その逆の思いへと私たちを導く力です。そう考えるとこの世界には「悪魔」が数限りなくいます。私のうちにも「悪魔」がいることになります。それは「呪い」と言ってよいほどに,逃れることのできない力とも言えるでしょう。この状態から解放されるにはどうしたらいいのでしょうか。
3. 救い
私たちは,神に対して償わなくてはならない存在です。それだけではなく,負の力から解放されなくてはなりません。私たちにこの代償を払う能力はあるのでしょうか?この償いを私たちの身代わりにしてくださった方,それがイエス・キリストです。ここに真の希望があります。救いの原点である十字架があるのです。
4. 全生涯に渡る守り
さらにこの救いは,私たちの全生涯に渡るものです。キリストによって私たちが神のものとなっているならば,万事がわたしの救いのために働きます。この「わたし」は,個人の幸せを述べているのではありません。神を愛する人々,さらにはこの世界の救いへとつながっているのです。
[考えるために]
キリストによってあなたが神のものとなっているときに,与えられるものとは何でしょうか?
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2007/4/29礼拝メッセージ
2007年4月29日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書11:29~32
「ヨナのしるし」
1. しるし=奇跡?
イエスがここで問題にしたのは,人々が「しるしを求めている」ということです。しかし,彼らが求めていたのは,単なるしるし=奇跡ではありませんでした。イエスが指摘したしるしとは「さばきと救い」のことです。人々は,裁きなどない,そう考える人々が多くいました。今はまだ大丈夫,また,自分は大丈夫だと考えていたのです。
2. 悪い時代
イエスは,ここで「この時代は,悪い時代」と評します。なぜなら,しるしが示されているのに,気が付こうとしないからです。そして「ヨナのしるしのほかには,しるしは与えられない」と語ります。つまり,預言者ヨナの時にしるしはすでに示されているではないか,そう言っているのです。
3. ヨナのしるし
ヨナのしるしとは何でしょうか。それは,ヨナの口を通して,異邦人の国ニネベに,神の裁きの近いこと,そして神に立ち返れとのメッセージでした。そして,ニネベの人々は神に立ち返ったのです。そして,イエスは,ご自身をヨナ以上の者であると語られました。さらに,イエスはソロモン以上であるとも言われたのです。
4. すべてにまさった者
イエスは,神の子,神の力,神のことばそのものです。さらに,預言者ヨナよりも,王ソロモンよりもまさる者です。なぜなら,イエスは私たちの側まで来てくださり,へりくだられ,十字架にかかり,救いへと私たちを導かれました。王の座から降り,神であるにもかかわらず,私たちと同じ罪人の姿をとってくださいました。今,この時こそ,神に立ち返る時なのです。
[考えるために]
なぜこの時代は悪い時代なのでしょうか?
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2007/4/22礼拝メッセージ
2007年4月22日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書11:24~28
「初めよりよくするには」
1. 出て行った汚れた霊
口をきけなくする悪霊。その霊を追い出されたイエス。そして,その姿を見ていた群衆,ユダヤ人たち。いったいイエスとは誰なのか?イエスと会った人々は,その後どうなるのでしょうか。イエスは一つの例えばなしを語られました。追い出された霊は,水のない所をさまよいながら,休み場を探します。この描写は,当時のユダヤ人の悪霊理解をよく表しています。その霊は,「出てきた自分の家に」帰ります。帰ると,家は掃除してきちんとかたづいていました。そしてそこに他の霊を連れてきたので,初めより悪くなってしまったのです。
2. 何もない家
この人の状態はよい状態なのでしょうか?この人の家(内側)は,汚れた霊から見れば,掃除をして片付いていた魅力的な場所でした。汚れた霊からみて魅力的ということは,裏をかえせば,神様から見て最悪の状態である,とも言えるでしょう。つまり,その人の中には何もなかったということなのです。そこで,霊は戻ってくることができました。それでは,そこに何があればよかったのでしょうか?
3. 神の支配がそこに
その人の中に「神の国」があれば,汚れた霊は戻ってくることはありませんでした。「神の国」が私たちの中にあるには,どのようにしたらよいのでしょうか。それには,まずキリストが主であり,神の子,救い主であると私たちが信じることです。さらには,「神のことばを聞いてそれを守る人」に神の国は到来するのです。まず第一に,私たちは神のことばを聞かなくてはなりません。そして,さらには神の支配を認め,神のことばに従うことです。その時に,私たちは初めの状態から,より良くなるのです。
[考えるために]
あなたの中に神の国は来ているでしょうか?
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2007年4月15日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書11:14~23
「わたしの味方」
1. ベルゼブル論争
この箇所は,悪霊やベルゼブルということに目が向きがちです。しかし,そのこと以上に,この箇所は「あなたはどちらの側か?」という問題を扱っています。あなたは,キリストの側か,それとも人間の側かという問題です。悪霊と罪とは密接な関係があります。ここで,イエスは悪霊を追い出し,罪を赦す救いの業を示しました。しかし,それを見て人々のうちには様々な意見が出ました。それは,イエスが神なのか,人なのか,ということでもあったのです。
2. イエスのことば
パリサイ人たちは,イエスの力や権威が,神ではなく,ベルゼブルから来ているのだと説明しました。しかし,イエスは,彼らの言葉に対し,自己矛盾をしているのはあなたがたであるとしました。イエスは,彼らの自己義認の問題,そして,キリストを信じない,さらには神の言葉を受け入れない頑なさを非難したのです。
3. さらに大きなもの
私たちは,自分たちの正しさや,自分たちの基準で歩もうとします。それは,自分では強い,十分に武装しているとして,自分の家を守っている姿であると言っていいでしょう。しかし,そこに,もっと強いものが襲ってきてとしたらどうなるのでしょうか?私たちは,自分自身の弱さ,おろかさ,狭さ,堅くなさを認めなくてはなりません。それらのものが,イエスを神の子,キリストとすることを妨げるものとなるのです。
4. わたしの味方
私たちは,自分の正しさや悟り,プライド,それらのものに固執するときに,キリストに逆らう者となります。しかし,キリストの赦し,福音に生きるときに,私たちは,キリストの味方となるのです。キリストに逆らい,平和を乱すものとならず,和解をもたらすものとならせていただきましょう。
[考えるために]
あなたは誰の側につくのでしょうか?
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2007/4/8礼拝メッセージ
2007年4月8日イースター礼拝のメッセージの要約です。
ローマ人への手紙6章3~9節
「ただ一つの慰め」
[ハイデルベルグ信仰問答]
問い「生きるにも死ぬにも,あなたのただ一つの慰めは何ですか?」
答え「わたしがわたし自身のものではなく,体も魂も,生きるにも死ぬにも,わたしの真実な救い主,イエス・キリストのものであることです。」
1. あなたの慰めは?
私たちが生きていくときに,慰めとなるものは数多くあるでしょう。みなさんを元気にしてくれるものはいったいなんでしょうか?あらゆることに対する慰め,普遍的な慰めなどあるのでしょうか?人間は,死を自覚できる存在です。いつかその死がくることを知りつつ生きる存在です。多くの宗教が,死で人間は終わらない,と語ります。私たちは,死ということに対して,何らかしらの説明をしないと落ち着かないのです。当然,聖書もそのことにふれています。
2. 大きな違い
しかし,聖書には大きな違いがあります。多くの宗教では,死がなぜあるのか?ということには答えようとはしません。死は運命なのですから。しかし,聖書は違います。聖書は,その終わりの時が来る事を,人の罪ゆえであると明確に指し示します。そして,それは裁きの時でもあると。しかし,それで聖書は終わりません。聖書は,私たちに死の宣告をするのと同時に,その死の宣告を取り下げる手続きをも示します。それが,イエス・キリストの十字架の死,そして復活なのです。
3. ただ一つの慰め
移ろいやすい限りあるものでもなく,生きる上でのその時々の慰めでもない。死に対しての気休めでもない。私たちにとってのただ一つの慰め,生きるにも死ぬにも失われることのない希望こそ,十字架を通して示された赦しと復活のいのちなのです。
[考えるために]
あなたの失われることのない慰め,希望は何でしょうか?
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2007/4/1礼拝メッセージ
2007年4月1日のメッセージの要約です。
ルカの福音書11章5~13節
「大胆な祈り」
1. 祈りについて
私たちの現実,そして信仰は不確かなものであると感じることが多くあります。私には救いの確信があるのだろうか?その思いに答えるかのように,イエスは祈りについてさらに解き明かされます。最初のたとえでは,祈る際の態度について語られました。この人が頼んでいる要求は友人でも聞けないものでしたが,図々しく,大胆に頼み続けるときに,必要なものが与えられるだろうと,イエスは語られました。「ましてや神だったらどうか?」だからこそ,私たちも求め,探し,たたき続けるようにと励まされています。
2. 祈りの内容
しかし,その祈る内容は,「主の祈り」に表されたものです。つまり,私たちの存在すべてを神のものとしてください,罪を赦し,この身も心も神のそばにいつまでもいさせてくださいとの祈りです。そして,神はその祈りに,父親がこどもの要求に的確に応える以上に,応えてくださるのです。
3. 私たちの真の要求
私たちの真の要求とは何でしょうか?いえ,真に要求するべきことは何でしょうか?それは私たちが「神のもの,イエス・キリストのもの」となることです。ここにゆるがない平安,慰めがあります。私の身も魂も,罪赦されて,あなたのものとしてください。あなたのそばにおらせてください。この祈りに,主は必ず答えてくださいます。そして,それは,私たちの思い込みで得られるものではなく,神が私たち一人一人にくださる聖霊の働きによらなくては,なしえないものです。そして,天の父は,その聖霊を私たちに必ず与えてくださると約束してくださっているのです。ですから,私たちもまた,大胆に,そして執拗に,天の父に祈り続けてまいりましょう。「私をあなたのものとしてください」と。
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2007/3/25礼拝メッセージ
2007年3月25日のメッセージの要約です。
ルカの福音書11章1~4節
「主の弟子の祈り」
1. 祈り方がわからない!?
弟子の一人が,祈りを教えてくださいとイエス様に願いました。よく,祈り方が分からない,人前で祈るのが難しい,という人がいます。私たちは祈ることによって,祈りを学びます。ですから,主イエスが教えられた祈りをよく理解し,実際に祈ることこそ,最良の祈りの訓練であるといえるでしょう。
2. 父よ!
「父よ。」この言葉は「お父さん」という一般的な語です。偉大なる神,全能なる神,恐るべき神を,私たちは父と呼ぶことが許されています。すでにここに計り知れないほど大きな神の恵みが示されています。そして,最初に祈ることは,神ご自身への賛美と,神のみこころを求めることです。それは,誰かにではなく,この私,私たち教会こそが,主の名をあがめ,主のみこころがなる者となるように,との祈りです。
3. 3つの祈り
この祈りは,私たちの身に主の栄光が表されるための具体的な祈りの言葉へとつながっていきます。ここには3つの祈りが記されています。第一は,私たちの日ごとの糧をお与えください,というもの。つまり,全てのもの,私のいのちは,神から発し,神抜きには成り立たないことを覚える祈りです。二番目の祈りは,罪の赦しと人との和解についてです。聖なる神の前に,罪を言い表し,赦され,そして人を赦すものとなる。それは,まさに福音の祈りといっていいでしょう。そして三番目の祈りは,「私たちを試みに会わせないでください」というものです。罪赦された私たちは,いまや主のものです。しかし,いまだ,その救いは完成していません。この世界を神の民として歩まなくてはならないのです。この三番目の祈りは,私たちの新たなアイデンティティから出てくる祈りです。神から私たちを引き離そうとする力に対して,私たちは「神から離れたくない!」と願うものでしょうか。この願いこそ,「私たちを試みにあわせないでください」との祈りへと導くものなのです。そして,この思いこそ,私たちの信仰生活を形作るものとなるのです。
[考えるために]
「神,あなたから離れたくない」との切なる祈りが,私たちの内にあるでしょうか?
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2007/3/18礼拝メッセージ
2007年3月18日のメッセージの要約です。
ルカの福音書10章38~42節
「よい方をえらぶ」
1. マルタとマリヤ
この二人のうち,私はどちらだろうか?そのようによく問われる箇所です。しかし,ここでのイエスのメッセージは,どちらか,という話ではありません。マリヤのあり方がよしとされていると言っていいでしょう。ここで,マルタはマリヤのことをひがんでいるようにも見えます。しかし,この箇所は,単なるこの二人の女性の話では終わりません。
2. マルタの背後にあるもの
この箇所は,当時の社会常識と対立する話です。マルタの主張の根拠は,当時の女性のあり方と深く結びついています。当時,主に女性が労働を担っていました。ですから,男性の前に,女性が来るということはありえないことでした。マリヤの行動は,このようなあり方に反するものでした。それは決して見過ごしにされるべき事柄ではなかったのです。
3. イエスの答え
しかし,イエスはマルタの訴え,当時の常識に対して,別の回答を与えました。マリヤのあり方をよしとされたのです。この答えは,マルタはもちろんのこと,ユダヤ人や異邦人にも,大きなインパクトを与えるものだったことでしょう。この集団の中では取るに足りないマリヤを,ほめられたのです。
4. マリヤ
マリヤの行動は,当時の人々の考えや常識を打ち破ったものです。それは,マリヤのどうしてもイエスの御許に行きたい,おことばを聞きたいとの信仰がもたらしたものでした。周囲の人々の目や考えを知っていても,なお彼女はイエスの足元へその身を置いたのです。イエスは何よりも大事なものがある,と言われています。全ての人は,まず主の御許に行かなくてはなりません。私たちもマルタのように,多くのことを心配し,気を使っています。しかし,本当に大事なことは,ただひとつなのです。
[考えるために]
今,まず,私たちがするべきことは何でしょうか?
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2007/3/11礼拝メッセージ
2007年3月11日のメッセージの要約です。
ルカの福音書10章29~37節
「あなたの隣人」
1. 律法の専門家の質問
イエスの返答から,律法の専門家は「私の隣人とは誰ですか?」と質問をしました。しかし,これは自分の正しさを示そうとした質問だったのです。自分は律法をよく知っていますし,また同胞に対してすでにそのことを実行しています。そう彼は主張したかったのでしょう。
2. イエスの語ったたとえ
しかし,イエスが示した隣人とは,誰が隣人であったか,ではなく,誰が隣人となったか,というものでした。そのたとえ話で語られたその隣人となった人は,ユダヤ人の忌み嫌うサマリヤ人だったのです。たとえ話に出てくる祭司もレビ人も,瀕死の人のところに行かなかった言い訳を考えることはできるでしょう。しかし,このサマリヤ人は,その言い訳を知っていたとしても,この瀕死の人のもとへと駆け寄ったのです。
3. 神のことばの真意
律法が示そうとしているのは,表面的な問題や正しさではありません。神のみこころを理解し,そして神の示す聖さ,愛へと私たちが向かおうとしているかどうか,です。サマリヤ人はユダヤ人から見れば,救われるはずのない人々でした。しかし,神の考えはどうではありませんでした。神を愛する人とはどのような者でしょうか。それは,神のことばを守る人のことです。しかし,それはあくまでも,神のことばに表された神の真意に従う者のことです。神がご覧になるのは,人からの評価ではありません。私たちが,今,神のことばを聞き,そして従っているかが問題なのです。イエスは今も私たちにこう語られます。「あなたも行って同じようにしなさい」と。
[考えるために]
あなたは隣人となっているでしょうか?
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2007/3/4礼拝メッセージ
2007年3月4日のメッセージの要約です。
ルカの福音書10章25~28節
「そうすれば,いのちを得る」
1. 「賢い者」からの反応
これまでの大きなポイントは,第一に,キリストの弟子たちは平和をのべ伝えるということ。そして第二に,福音が「幼児」に知らされているということでした。そこで,ある律法の専門家が質問をします。「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」永遠のいのちは,聖書において大変意義深い言葉の一つです。「いのち」という言葉で語られるその意味の深さ,豊かさを,私たちは知る必要があるでしょう。それは22節でイエスが示されたように,神との特別な関係で語られるものだからです。
2. 自らの正しさと神のみこころ
自らの正しさを律法の専門家は示そうとしましたが,イエスは,神にあるいのちのあり方を示されました。それは,律法によって示されてきたことでした。神を愛すること,そして隣人を愛すること。律法の専門家は,そこに示された神のみこころに生きるのではなく,自分の正しさのために律法を引用しました。そこでイエスは,こう言われました。「それを実行しなさい。」なぜ,イエスはこのようにお答えになったのでしょうか。
3. 律法の役割
律法には二つの役割があります。第一に,律法には,神のみこころ,神の聖さ,神の基準が表されています。律法によって私たちは自分の不完全さ,罪を示され,イエス・キリストのもとへと導かれていくのです。しかし,それだけではありません。それは,新しいいのちの生き方を示すという役割です。イエスが与えてくださる神との平和,人との和解という生き方そのものを,律法は指し続けています。律法は,新しいいのちを得た者,つまり,神の子とされた者の生きる基準でもあるということなのです。これこそ「永遠のいのち」の生き方へと通じる道です。罪赦された者の生きる道は,神を愛し,与えられた隣人を愛することです。それがキリストの示された足跡であり,まことのいのちを燃やす生なのです。
[考えるために]
律法の役割とは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 18:46
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2007/2/25礼拝メッセージ
2007年2月25日のメッセージの要約です。
ルカの福音書10章21~24節
「明らかにされたこと」
1. 幼き者に
これまでのことが,どれほどすばらしいことかを,イエスは語られています。それでは誰に示されたのでしょうか。それは,賢い者,知恵のある者ではありませんでした。そうではなく,幼子に,つまり,神の前に愚かである人,小さき者に示されたのです。どんなにこの世の知恵を得ようとも,どんなにこの世の富を得ようとも,神の前の謙遜さこそ,信仰を得るのにもっとも必要なことです。ここに神の選びの不思議さと,神聖さがあります。
2. 父なる神と子なるキリスト
ここで,イエスは神とご自身の密接な関係を口にしています。これは,父なる神と,子なるイエスの分離することのできない関係を示しています。イエスと父なる神の特別な関係。その一体性。そして,さらには,その関係が,私たちにまで及んでいるとイエスは言われます。私たちは,神を「知る」ことが許されているのです。「知る」という言葉は,単なる知識を得ることを意味しません。深い関係を持つことを示しています。そして,神を知ることとは,神に全信頼をおくことから始まります。この神との関係こそ,私たちの宝なのです。
3. すばらしいこと
イエスは,この真理が,預言者や王たちすら得られなかったものであると言います。多くの特権を与えられた人々でさえ,与えられなかった真理が今,イエス・キリストを通して,名もなき者たちに明らかにされたのです。私たちは,今,イエス・キリストによって,神を知ることが許されています。イエス・キリストの贖いによって,私たちは神を知り続ける,永遠への歩みが与えられたのです。それは神の憐れみと恵みによるものなのです。
[考えるために]
神が欲しているのは,あなたの何でしょうか?
投稿者 mb-church : 15:25
メインページへ2007年02月22日
2007/2/18礼拝メッセージ
2007年2月18日のメッセージの要約です。
ルカの福音書10章17~20節
「ただその名がしるされていることを」
1. 帰還した弟子たち
70人が喜んでイエス様のもとに帰ってきました。彼らが,イエスに命じられたように,町々へと行き,イエスの名にある平安と赦しを宣言するときに,罪の赦しと解放が与えられました。罪によって,この世界が苦しみ,痛み,ゆがめられている。悪霊の働きを何もオカルトの世界だけで捉えてはなりません。悪霊の働き,それはつまり罪に支配されている状態のことを指し,そこには,神にある平安はありません。そこにあるのは,絶えず分裂と争い,比較,ねたみ,不安…です。それは御霊によって与えられるものと正反対のものと言っていいでしょう。
2. 勝利したイエス
神は,この世界と人間をよきものとして創造しました。しかし,人間の罪ゆえに,それはゆがみ,汚れたものとなってしまいました。しかし,イエスの名によって,その罪からの解放が与えられます。イエスの前でサタンはもはや権威者ではなく,罪の支配は終焉したのです。私たちに致命傷を負わせる敵はいないのです。イエスの名にあるならば,私たちはすでに神のもの,神の民となっているのです。
3. 当たり前ではない恵み
しかし,イエスはここで弟子たちに注意を与えます。イエスにある権威が与えられたからといって,思い上がってはならないと戒められます。それは,つまり罪赦されているからといって,それを自分の力でなしえた,自分はもう大丈夫,自分は達成したと思ってはならない,ということでしょう。私たちが救われたのは,神の側の一方的な選びと恵みによるものなのです。私たちは世を裁くものではなく,キリストにある救いを証するものとして,この世に遣わされているのです。
[考えるために]
神の側の驚くべき恵みとは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 17:42 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2007年02月14日
2007/2/11礼拝メッセージ
2007年2月11日のメッセージの要約です。
ルカの福音書10章3~16節
「信仰からくる朗らかさ」
1. 信仰からくる朗らかさ
日本の教会にないものとは何でしょうか?会堂もあります。礼拝もあります。聖書もあります。しかし,主にある開かれた雰囲気というものに欠ける場合が多いのではないでしょうか。来た人だれもがここに居てよいのだ,という雰囲気。これは信仰からくる朗らかさということに起因するのではないでしょうか。
2. 神の平安,平和を宣言するもの
私たちは,「平安があるように」と語るように導かれています。これは,福音の中心にあるメッセージです。神のとの和解,罪の赦しがここにあります。また,私たち人間の平安,平和の鍵がここにあります。キリストの十字架によって,罪ののろいが取り除かれ,神の国の民として歩むことが許されるという祝福が,私たちに与えられています。
3. 裁きを宣言するもの
しかし,多くの人々が,この福音を拒否します。当時の人々も,また現代に生きる私たちも,同様にこの福音を拒否する者が多くいます。イエスは,そのような人々に対し,裁きの言葉を宣告しています。しかし,この言葉は「裁き」の宣言であると同時に,「招きの言葉」でもあることに気がつかなくてはなりません。
4. 罪びとのかしらとして
イエスは,私たちを遣わされます。私たちは,裁きとともに,十字架にある赦しの福音をのべつたえます。そのときに,私たち自身もまた,罪人の一人であり,神の憐れみを受けた一人であることを,忘れてはなりません。私たちが人を裁くのではありません。私たちは,キリストの招きを,キリストにある和解を人々に伝えるのです。信仰にある朗らかさは,自分が救われないものであるのに,一方的な恵みによって救われた,という信仰から生じるものなのです。私たちもまた,神の愛を知ったものとして,遣わされてまいりましょう。
[考えるために]
イエスはなぜ嘆き,厳しいことばを伝えられたのでしょうか?
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メインページへ2007年02月08日
2007/1/28礼拝メッセージ
だいぶ更新が滞っていました。
すみません。
ちょっとハワイ(!)まで,セミナーのため喜んで出張していました。
一枚写真をご紹介。
2007年1月28日のメッセージの要約です。
ルカの福音書10章3~16節
「キリストの大使として」
1. この世と私たち
この箇所は,主に従う者とこの世界との関係について述べている箇所です。3つの点を確認しましょう。第一に,私たちは「この世界に遣わされているのだ」ということです。私たちはキリストの大使としてそれぞれの場へ送り出されています。しかし,その場所は,たとえそれぞれよく知っていた場所だとしても,用心することが必要な場所でもあります。狼の中に子羊を送り出す,それほどに相容れない関係が,主に従う者とこの世にはあります。私たちを,神から引き離そうとする力は,この世に多くあることを覚えなくてはなりません。私たちはそのような世界に遣わされているという自覚を持ち,羊飼いなる主の声を,絶えず聞いていかなくてはならないのです。
2. 私たちの使命
第二に,私たちの使命とは何かを忘れてはならない,ということです。私たちの使命は「神の平安」を宣言することです。それは,神との和解であり,同時に人々との平和でもあります。私たちは,キリストの十字架によって神と和解することができます。そしてその和解は,一個人の平安に留まらず,周囲の人々にももたらされる平和となるものです。キリストの十字架は,この世界に和解を,平安を,そして平和を与えるものなのです。私たちの使命は,このすばらしい和解をこの世に宣言することです。
3. 私たちを支えるもの
第三に,私たちの中心は常に神の国に向けられているということです。私たちが,この世を歩むときに,生活をし糧を得るということを無視してはできません。しかし,私たちが福音を述べ伝えるのは,決して報酬のための働きではありません。私たちの人生の中心は,信仰によってただ自分だけが豊かになり,報酬を受けることにはありません。私たちの中心は,神との和解に生き,神の平安を述べ伝え,神の平和を人と結ぶことにあります。私たちの中心は,この世ではなく,神の国とその義に向けられているのです。
[考えるために]
私たちは何のために(ゆえに),それぞれの場所に遣わされているのでしょうか?
投稿者 mb-church : 17:00 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2007年01月17日
2007/1/14礼拝メッセージ
今週,土曜日,ハートフルコンサートが開催されます。
お近くの皆様(遠くてももちろんOKですよ),どうぞ心温まりにお越しください。
14時開演です。
2007年1月14日のメッセージの要約です。
ルカの福音書10章1~3節
「働き手となるために」
1. 実りは多い
以前,遣わされた弟子たちが,ここでは70人に増えています。その70人が,イエスご自身が行くつもりのすべての町や村へ,先に遣わされることになりました。ここで,イエスは実りは多いと言われています。しかし,イエスはこう続けます。「働き手が少ない」働き手とはいったいどのような人のことなのでしょうか?収穫者なのでしょうか。
2. 働き手となる人
「実り」は,イエスを信じ,神に立ち返った人々のことです。しかし,神へ立ち返るその次に問われるのは,その立ち返った人々が,主に従う働き手となるかどうか,ということです。当時も今も,多くの人がイエスを信じ,まことの神を信じます。しかし,その先が問題です。働き手となるかどうか。あくまでも収穫の主権者は主です。主が与えてくださる大きな実りの中で,真に主に従う応答のする者が起こされるかどうか,それが問題なのです。
3. 祈りなさい
主の収穫のときに,働き手が起こされるように切に祈りなさい,とイエスは勧められました。主が働いて,多くの人が主に立ち返ります。しかし,その豊かな実りの中で,そこからさらに主に従う働き手が起こされなければなりません。ここでイエスは,働き手を育成しなさいとは言われませんでした。イエスこのように言われました。働き手を送ってくださるように,神に祈りなさいと。私たちはどれだけそのような祈りをしているでしょうか。さらに,この祈りを通して私たちは問われています。それは,この祈りがこの私を働き手としてください,という祈りでもあるということです。収穫の主に,働き手を送ってください,いえ,私をお遣わしくださいと切に祈る者とさせていただきましょう。
[考えるために]
働き手とはどのような人のことでしょうか?
私たちは誰に期待するのでしょうか?
投稿者 mb-church : 10:01 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2007年01月10日
2007/1/7礼拝メッセージ
2007年1月7日のメッセージの要約です。
イザヤ書60章1~3節
「あなたの光」
1. 闇の時代
この預言が語られた時代は,やみが地を覆っていた時代です。しかし,私たちはこうも思います。一体,いつ,どこでこの地にやみがなかった時代などあったのだろうか。聖書が私たちに語りかけているのは,どの時代であっても,どこであってもこの世にやみはあったのだ,ということです。いつの時代でも,神から離れた人間は,闇の中にいると言えるのです。
2. 神の命令
「起きよ。光を放て。」しかし,そのやみの中にあってなお,神は私たちに輝け!と命じられます。この根拠はどこにあるのでしょうか。それは,私たちの上に,光が,神の栄光が到来したからです。これを新約の光に照らし出すときに,まことの光であり,神の栄光である方,イエス・キリストを指していることは容易に理解できるでしょう。私たちが光の元なのではありません。主イエス・キリストが私たちのいのちの光なのです。
3. 照らし出す光
しかし,それでも神は私たちに語られます。その光をすべての人々の前で輝かせなさいと。イエスも言われました。「あなたがたは,世の光です。」主イエス・キリストを知った私たちは,世の光なのです。しかし,この光の輝きは,私たちの成果や力を指しているのではありません。生き生きとした生き方でもありません。そうではなく,私たちがやみにあるときに,主イエスにあって神とともに生きることこそ,光を輝かせることなのです。私たちの悔い改めに,私たちの主にある誠実な歩みの中に,主の栄光は表されます。それぞれの主にある生涯を通して,まことの光は照り輝くのです。
[考えるために]
聖書の信仰者たちは,何によって光を放ったのでしょうか?
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2006/12/31礼拝メッセージ
新年,明けましておめでとうございます。
神様の祝福が,そして平和がこの地にあることをお祈りいたします。
2006年12月31日のメッセージの要約です。
詩篇4篇
「夕べの祈り」
1. ダビデの祈り
この詩篇はダビデが苦難にあるときの祈りです。どのような苦難にあろうとも,時は過ぎていきます。日は沈み,日はまた昇る。しかし,真に闇を抜けるためには,ただ自分に,明日もいい日が来ると言い聞かせるだけでは,足りないでしょう。現実が苦しければ苦しいほど,私たちはそこから逃れようとするものです。苦しみを紛らわせるために,様々なことで心を満たそうとします。しかし,それで根本的な解決や平安が得られるわけではないのです。
2. 応えてくださる神
「私に答えてください。」私たちは答えを求めます。この答えは「結果」です。しかし神が下さるのは,神の応答です。神を信じていても,神を見失う時があります。そこに,平安が失われる根本的な原因があります。神が揺らいだのではなく,私たち自身が揺らいでいるのです。私たちはどこに救いを求めようとしているのでしょうか。生ける神ではなく,「むなしい,まやかしのもの」ではないでしょうか。
3. 神のみ姿
ここでダビデは,神のみ姿を心に映し出します。神は,必ずご自身の義を示す神であり,神を信じるものを特別に扱われるお方であるということ。そして,何よりも応えてくださる神であるということ。ダビデは自分が何をなすべてきかをはっきりと知ります。「静まれ。悔い改めよ。」私たちもまた,この一年の最後の時に,自分自身に語り掛けたいと思います。私たちの神はどのようなお方なのか?そして私たち自身にも命じたいのです。「静まれ。悔い改めよ。」
4. 与えられた平安
ダビデに平安が与えられます。それは,目に見えるもの以上の喜びです。生ける義なる神,主だけが,私たちを安らかに住まわせてくださるのです。
[考えるために]
私たちの信頼はどこに置かれているのでしょうか?
それぞれの心に,神のみ姿を映し出させていただきましょう。
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2006/12/24礼拝メッセージ
2006年12月24日のメッセージの要約です。
ヨハネの福音書1章9~13節
「まことの光」
1. 光が来た!
歴史からいえば,すでに,まことの光であるイエス・キリストはこの世に来られました。しかし,ここでヨハネは,そのことを,過去の出来事として語ろうとはしていません。今,私たちの前で起こることとして,この言葉を記しています。今,まさに,このみことばを開く私たちの中に,まことの光が出現しようとしているのです。
2. 光とは何か?
この光は,すべての人を照らすまことの光です。否応なしにすべてを照らしてしまう光。この光の前では,暗いところはひとつもありません。また,この光である方を通して,この世界は創造されました。つまり,この光とともに歩むように世界は創造されたのです。しかし,この世界は,このまことの光を失ってしまいました。私たちは,やがては死,痛み,孤独,苦しみという深い闇に飲み込まれてしまう存在となってしまったのです。
3. この地上において
この光は私たちの闇の世界,この地上に来てくださいました。そのお方こそイエス・キリストです。しかし,この方を私たちは受け入れようとはしませんでした。そして,キリストは十字架に架かられたのです。私たちが闇から抜け出し,まことの光である方と歩むことのできるようにと,私たちの罪をその身に背負われたのです。
4. 神の子となる特権
私たちは,このイエス・キリストを信じることによって,神のこどもとされる特権が与えられます。イエスを救い主,私の光であると信じるというだけで,その特権を回復しよう,そう神は約束しています。これは,私たちの血筋や意欲,力によるものではありません。ただイエス・キリストを通してなされた神のわざによってなのです。クリスマスは,このまことの光が私たちのところに来てくださったことを,私たちに告げ知らせる大きな出来事なのです。
[考えるために]
神の子となる特権とは何でしょうか?あなたはこの特権を得ていますか?
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2006/12/17礼拝メッセージ
2006年12月17日のメッセージの要約です。
ヨハネの福音書1章1~9節
「世の光」
1. 序文
このヨハネの福音書の序文は,とても有名です。「初めに,ことばがあった。」この言葉を聞いて,当時の人々がすぐに思い浮かべたのは,創世記の第一章一節です。神が神であること。それはこの天地創造に完全に表されています。この世界を作り,そしてあらゆる命を生み出し,人間を形作ったその神のみわざ。その神のみわざは,神のことばによって形作られ,そして動き出しました。
2. 神のことば
「ことば」とはいったい何でしょうか?ことばは「伝達手段」です。私たちの考えや感情をことばによって表現します。また,ことばが新たなものをも生み出します。人間にとって,ことばはとても大事なものです。しかし,神のことばはさらに大きく,深い意味を持つものです。すべてを生成し,すべてを支配し,すべてを動かすことばです。そして,神のことばは,必ずその通りになるものです。
3. キリスト
ヨハネは,その神のことばの真実を新に明らかにしました。それは,そのことばこそ,イエス・キリストであるということです。ことばはキリストであり,そして,そのことばは神とともにあった。神の意志,神の思い,神のみこころ,そのすべてがキリストであり,キリストとともにあるということ。この意味は深遠で大きなものです。そして,何よりも,この世界は,また私たちは,神のことばであるキリストなくしては,本来のいのちを得ることができない存在であることが,ここで明らかにされています。
4. 世の光
この世界は,神を失い,いのちそのものがやみに閉ざされた状態です。私たちの力ではそのやみに打ち勝つことはできません。しかし,聖書は語ります。キリストこそ,世の光であると。この世のやみは,この光には打ち勝つことができません。私たちもまた,キリストを得るときに,決してやみの中で絶望することなく,光の内を歩むことができるのです
[考えるために]
この世界のやみを変えることのできるお方とは誰でしょうか?私たちのやみとは何でしょうか?
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2006/12/10礼拝メッセージ
2006年12月10日のメッセージの要約です。
ルカの福音書9章57~62節
「枕するところもなく」
1. イエスに従うということ
三人の人がイエスと対話をします。その中心テーマは「イエスに従うこと」です。最初の人はこう言います。「私はあなたのおいでになる所なら,どこにでもついて行きます。」なぜこの人は,人々の前でこのように言ったのでしょうか?自分の正しさや認められたいとの思いからだったのでしょうか。しかし,イエスの答えは,その歩まれる道の困難さでした。
2. わたしについてきなさい
次の人にイエスは言われました。「わたしについて来なさい。」それに対しこのような言葉が返ってきました。「私の父を葬ることを許してください。」当時,家族の死は最優先されるべき事柄でした。しかし,イエスはこの答えに対して,「あなたは出て行って,神の国を言い広めなさい」と告げられました。イエスが語られたその道の困難さを聞いた上で,この人は従うことを,家族を理由に拒みました。自分が思い描いているメシアとは違うと考えたのでしょうか。待ち受ける困難を前にして,この人はイエスを第一とすることができなかったのです。
3. 従うその前に
三番目の人もイエスに従い続けると口にすることができませんでした。「ただその前に,家の者にいとまごいに帰らせてください。」この人もまた,すでにイエスに従ってここまで来た一人でした。イエスのみわざ,ことば,そしてイエス自身の姿を見て従って来たにもかかわらず,いよいよエルサレムへと向かわれるその途上にきて,帰らせてください,と彼は願ったのです。
4. 後ろではなく
私たちもまたイエスに従う中で,様々な選択を迫られます。このような中で私たちもまた,この三人の人のように,自らを飾ったり,言い訳をすることがあるかもしれません。しかし,私たちはそのような古い,罪に縛られた自分を見続けるのではなく,前を見るようにと言われています。エルサレムへと顔をまっすぐに向けられたイエス。その十字架のイエスを見続けるときに,私たちはイエスに似せられて新しくされていくのです。
[考えるために]
今,イエスは「わたしについて来なさい」と問われています。あなたは何と答えるでしょうか?
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2006/12/3礼拝メッセージ
千葉も寒くなってきました。
それでも暖かい方なのでしょうが・・・。
皆様,風邪などひかぬよう,お気をつけください。
2006年12月3日のメッセージの要約です。
ルカの福音書9章51~56節
「御顔を上げられたイエス」
1. 御顔を上げられたイエス
ガリラヤでの宣教活動を終え,いよいよイエスはエルサレムへと顔を向けられました。イエスが,ヨセフとマリアのもとに幼子として,この世に来られたのはなぜでしょうか?「神の国が近づいたことを宣言するため」「悔い改めをこの世界に促し,神に立ち返る者たちを起こすため」「人々を癒し,罪を赦し,神の救いを人々に告げ知らせるため」そのどれもがその理由に当たるでしょう。しかし,何よりも最大の目的は「十字架」でした。これこそイエスにしかできない働きだったのです。
2. イエスの決意
イエスにしかできない働きである十字架へと向かうため,イエスは顔を上げられました。ここにイエスの決意の深さを見ることができます。しかし,多くの人々や弟子たちはそのイエスのみこころを理解していませんでした。イエスを拒んだサマリアの人々に対して,ヤコブとヨハネは「天から火を呼び下して,彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言います。ここでも,彼らは自分たちの正しさや力に頼み,イエスのこころを理解しようとはしていません。私たちもまた,自分たちの価値観やあり方を,自分の力ではなかなか捨てることができないのです。
3. 神の熱心
私たちは,自分の力や知恵で歩めているかのように錯覚してしますものです。人々の不理解の中でも,イエスは顔を上げられ,あの十字架に向かわれました。私たちのどうしようもない愚かさ,罪深さ,弱さを知りながら,イエスは,それでも顔を上げられ,エルサレムへと向かわれたのです。私たちの救いの確かさは,私たちの力や知恵によるものではありません。私たちの救いは,唯この神の熱心さによらなければならないのです。
[考えるために]
私たちの救いは何故,確かなものとなるのでしょうか?
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2006/11/26礼拝メッセージ
2006年11月26日のメッセージの要約です。
ルカの福音書9章46~50節
「一番ちいさい者」
1. 「謙遜」
「謙遜」はクリスチャンの価値観の中でも,大事なテーマです。この箇所は,イエスのガリラヤ宣教の最後にあたる箇所です。その最後が,弟子たちの論争であったということは,なんとも皮肉なものです。しかし,その現実から,聖書は目をそらしません。この現実から私たちはスタートしなくてはならないのです。弟子たちは,ここで自分たちの中で,だれが一番偉いかという議論をしています。他の人との比較は,私たちの根源的な問題です。周りを見て,私たちは自分の立ち位置を確かめているのです。
2. 私たちの視点
私たちは,狭い自分だけの視点から解放されない限り,この根源的な問題を乗り越えることはできません。そして,イエスも弟子たちに語ります。「だれでも,このようなこどもを,わたしの名のゆえに受け入れる者は,わたしを受け入れるものです。」当時,こどもを受け入れることは,ほとんど価値のないことでした。しかし,イエスは,まったく異なる次元の視点へと目線を向けられました。イエスのことばは,弟子たちの価値観を逆転させてしまうものでした。私たちは,自分たちの価値観から,神の視点へと変えられる必要があるのです。
3. 「わたしの名のゆえに」
私たちは,イエスの名において,罪の奴隷から,神の基準に生かされている神の民となることが許されます。イエスの名こそ私たちの中心におくべきことです。私たちは,十字架の死にまで従われたイエスの姿を忘れてはなりません。ご自身を無にしたイエスの姿。私たちは自分という狭い視野から抜け出し,真の「謙遜」を求めたいと思います。私たちが第一に求めるのは,この世界がイエスが救い主であると知り,神様が礼拝され,ほめたたえられることなのです。
[考えるために]
私たちの根源的な問題は何でしょうか?
ピリピ2:3~11を読みましょう。
投稿者 mb-church : 14:09
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2006/11/19礼拝メッセージ
2006年11月19日のメッセージの要約です。
ルカの福音書9章37~45節
「イエスの嘆き」
1. イエスの嘆き
イエスの栄光の姿が現されたすぐ次ぎの日。イエスは,再度,人々の前でその偉大なわざを示されました。しかし,この場面でイエスは焦燥感すら漂わせるような言葉を口にしています。「いつまでがまんしなくてはならないのでしょう―」なぜ,イエスはこのような嘆きを口にしたのでしょうか。既にイエスは,ガリラヤ伝道を通して,ご自身の姿を現し,みことばを語り,十字架の予告までしました。そして,その栄光の姿をはっきりと示されました。しかし,依然として,イエスと弟子たちの間には,大きなギャップがあったのです。
2. ひとり息子のいやし
そのような中で,弟子たちには癒すことのできなかった人がやってきます。弟子には人を癒すだけの力が足りなかったのでしょうか?イエスはこのように人々に言われます。「ああ不信仰な,曲がった今の世だ。」弟子たちが癒せなかったのは,力不足でも,信心が足りなかったからでもありません。それは,人々のみこころの不理解,さらには頑なさが原因だったのです。不信仰とは,神のみこころを正しく把握していないことからくるものなのです。
3. イエスのみこころ
イエスが考えておられる救いは,人々が考えるものとはまったく異なるものでした。もう一度イエスは,ご自身の歩まれる道を指し示しました。私たちの目には,愚かにも思える十字架の道。しかし,これこそ私たち自身から出てくるものではなく,神が与えてくださる救いの道なのです。イエスは救いを与えようとしておられる。しかし,私たち自身が頑なために,その恵みを受けられずにいるのです。私たちの救いは,主イエスのみ名にあるのです。
[考えるために]
「不信仰」はどこから来るのでしょうか?
投稿者 mb-church : 09:57 | コメント (0) | トラックバック
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2006/11/05礼拝メッセージ
2006年11月5日のメッセージの要約です。
ルカの福音書9章23~27節
「いのちを救う者」
1. 十字架を背負う
ペテロの「神のキリストです」という告白の後,イエスは「自分の十字架を負いなさい」という命令を与えました。この言葉だけを見ると,自分のエゴを捨て,自分の運命を背負いなさい,という命令に聞こえます。しかし,この十字架を「運命や重荷」と読み取るのは,イエスの言葉の意図から離れた読み取り方となるでしょう。「自分を捨てる」とはいかなることでしょうか。自分を捨てるとは,自分が思う救い,自分が考える正しさを捨てるといことです。まず私たちは,十字架を背負う前に,自分を捨てなくてはならないのです。
2. 十字架を掲げる
十字架を負うとは,運命や義務を負うのではなく,十字架を掲げるということです。つまり,十字架を背負うとは,あなたに与えられた十字架の救い,恵みを掲げるということです。これこそ,自分の十字架を負うということの意味です。私たちは,自分を掲げるのではなく,一人一人に与えられるキリストの十字架を日々掲げるのです。
3. がんばるのではなく
「自分のいのちを救おうと思う者は,それを失い,わたしのために自分のいのちを失う者は,それを救うのです。」自分で自分のことを救おう,よくしようとがんばっている限り,イエスの十字架を感謝を持って受け取ることはできません。私たちは,自分の力で歩み続けている限り,十字架の福音の本質を知ることはできないでしょう。しかし,その一方で,自分を捨てることも努力ではできないものです。だからこそ,私たちは,圧倒的な十字架の恵み,十字架のすばらしさを,絶えず知らなくてはなりません。そのときに,私たちは自分を捨てることへと導かれるのです。あなたを救うという神の約束により頼んでいきましょう。
[考えるために]
あなたに与えられた十字架の恵みとは何でしょうか?
あなたは自分の力で自分を救おうとする者でしょうか,それともイエスの十字架に生きる者でしょうか。
投稿者 mb-church : 15:26 | コメント (0) | トラックバック
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2006/10/29礼拝メッセージ
2006年10月29日のメッセージの要約です。
ルカの福音書9章18~22節
「あなたはわたしを誰と」
1. 当時のうわさ
当時の人々の間で,イエスが誰であるかが,人々の関心事になっていました。領主ヘロデもその例外ではありません。しかし,まだ人々はイエスをキリストであるとは受け止めていませんでした。しかし,イエスは,5千人の給食を通して,ご自身をさらに証されたのです。
2. ペテロの反応
人々は,イエスのことを,バプテスマのヨハネやエリヤ,さらには昔の預言者であるとうわさしていました。イエスは,そのような中,ペテロにこのように問いかけます。「それでは,あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペテロの答えは明確でした。「神のキリストです。」すばらしい告白です。しかし,このときのペテロが何を思って,イエスをキリストと告白したのかは定かではありません。イエスは自らの口で,自分をメシアであるとは宣言しませんでした。イエスは,弟子たち自らが真理に気がつくことを求めているかのようです。
3. あなたは何と言うのか?
人々が考える答えではなく,あなたはどうなのか?しかし,この時点では,ペテロは「キリスト」の本当の意味を知りません。彼の理解していたメシア像とイエスとは一致していなかったのです。ですから,ペテロを戒め,そのことを口にしないように命じられました。人間が,自分で思い描く理想郷の実現のために,イエスは来られたのではない。そうではなく,神の栄光のため,神の義のために,そして神の愛ゆえに,イエスは来られた。このことをペテロたちが真に理解し,そしてキリストを宣べ伝えるようになるのは,まだ先のことです。しかし,私たちもまた,みことばによってイエスが誰なのかを正しく理解し,信じることができるようになります。求める者には必ずイエスは答えてくださるお方なのです。
[考えるために]
聖書はイエスを誰であると証言していますか?
あなたはイエスを誰であると証言しますか?
投稿者 mb-church : 09:56
メインページへ2006年10月25日
2006/10/22礼拝メッセージ
2006年10月22日のメッセージの要約です。
ルカの福音書9章7~17節
「わずかなものでも」
1. 5つのパンと2匹の魚
ここにある食べ物は,わずか5つのパンと2匹の魚。この群衆は,「もたざる人々」「病んだ人々」「弱き人々」だったことでしょう。しかし,彼らは,イエスを心から求め,イエスのもとに集まってきた人々でした。この時の経験は,おそらく初期の教会の基ともなったのではないでしょうか。その人々の多くは「貧しい人々」でした。しかし,彼らはイエスを心から求め,付き従った人々だったのです。
2. 弟子への問いかけ
イエスは,彼らを迎え,福音といやしを与えました。しかし,時は過ぎ,終わりを迎えます。弟子たちはイエスに群衆の解散を提案します。しかし,これは現実的なものではありませんでした。提案は常識的であるけれども,現実にはそぐわないものでした。私たちにはこの群集を養う力がない,ということです。しかし,イエスはこう命じます。「あなたがたで,何か食べる物をあげなさい。」しかし,弟子の答えは,わずかなものしかない,とのものでした。
3. イエスの奇跡
しかし,イエスは奇跡を行います。この群衆を豊かに養うのです。イエスが神の子であることの明らかな証しとともに,何も持っていないかのように見える教会が,イエスによって豊かに祝福される姿がここにあります。イエスは,何も無から食物を生じさせたのではありません。何も持たざる人々の中から,それでもささげられた,たった5つのパンと2匹の魚。それが元手だったのです。
4. 教会の姿
私たちの目にはわずかなもの,取るに足らないようなものであっても,それがささげられた時に,イエスはそれを祝福し,用いてくださる。まさに教会の姿です。何よりも,この奇跡の始まりは,イエスに付き従った群衆にあります。彼らは持たざる人々でした。しかし,彼らは,イエスにただ期待して,付き従た人々でした。わずかしか持っていないとしても,私たちに与えられているのは,救い主イエスの名なのです。
[考えるために]
私たちもイエスに従っているでしょうか?
私たちもイエスにささげているでしょうか?
私たちはイエスに制限をつけていないでしょうか?
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メインページへ2006年10月18日
2006/10/15礼拝メッセージ
2006年10月15日のメッセージの要約です。
ルカの福音書9章1~6節
「弟子の派遣」
1. 弟子の派遣
この派遣は訓練のためでした。ルカはこのことを特に簡潔にまとめています。イエスは,弟子にご自身と同様の力と権威を授けて送り出されました。その目的は,「神の国を宣べ伝えるということ」「病を直す」ということでした。この二つのこともイエスの働きの本質であるといってもよいでしょう。イエスが弟子たちに命じられたのは,イエスの宣伝をしなさいということでも,多くの人々を私のもとまで連れてきなさい,ということでもありませんでした。彼らに託したのは,弟子たち自らが,神の国をのべ伝え,病を直す,ということだったのです。
2. 私たちの使命
イエスは彼らに何も持たずに出て行きなさいと言われました。ただ彼らに与えられたのは,イエスの力と福音の言葉であったのです。それでは,今,私たちに与えられているものは何でしょうか。それは,「聖書」であり,「聖霊」です。この当時,悪霊を追い出し,病をいやすということが意味していたことは,「罪」ある生活からの解放です。私たちもまた,「罪」からの解放,神を中心としない生活からの脱却,主を礼拝する生活への転換という使命が与えられています。私たちが真に変えられるのは,神のみことばを中心とした生活へ向かうことから始まるのです。
3. どんな家であっても
イエスは弟子たちに,「どんな家に入っても,そこにとどまり,そこから次の旅に出かけなさい」と命じられました。どんな家でも,そこで,福音を語り,罪からの癒し,解放をときなさいと,イエスは言われました。福音が語られる対象は「すべての人」なのです。しかし,イエスはそれと同時に,受け入れない人がいることも承知しています。そして,そのような人々に対しては,厳しい態度で臨むようにと言われています。私たちもまた,その現実を直視するとともに,それ以上にすばらしい福音の持つ希望,癒し,喜び,恵みをしっかりと携えて遣わされてまいりましょう。
[考えるために]
私たちそれぞれが遣わされている場所はどこでしょうか?
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2006/10/8礼拝メッセージ
2006年10月8日のメッセージの要約です。
ルカの福音書8章49~56節
「イエスの時」
1. 最悪の知らせ
長血をわずらった女性とのやり取りに,どれぐらいの時間を要したのでしょうか。私たちは再びヤイロへと視点が戻されます。長く癒されることのなかった女性の病は癒されました。しかし,ここで,最悪の知らせが届きます。娘の死の知らせでした。この言葉を聞いた時の,ヤイロの気持ちはどうだったのでしょうか。
2. なぜ?
私たちにもこのような瞬間があります。なぜあの時,神は助けてくれなかったのか?私の祈りになぜ応えてくれなかったのか?ここに来るまでに,すでにイエスは多くの癒しの奇跡を行ってきました。病をいやし,悪霊を追い出し,さらには,死者をもよみがえらせた。しかし,この絶望を前にして,そのような知識や情報など何の役にもたたなくなってしまったのです。すべての希望が失われてしまいました。この時のヤイロに誰がことばをかけることができたでしょうか。
3. イエスのことば
イエスはこのときに,「恐れないで,ただ信じなさい。そうすれば娘は直ります」と声をかけられました。絶望に満たされたこの家に,救いを宣言することのできるお方こそ,イエス・キリストその人でした。この言葉どおりに,ヤイロの家族に希望が与えられます。
4. あなたに語られる福音
私たちにはどうすることのできない「死」,「時」をも,イエスの手にあります。この時,イエスはごく限られた人々しか現場に招きいれませんでした。それは,福音が,不特定多数の人に語られたのではなく,イエスの目の前にいる人,ヤイロやその家族に直接語られたからです。私たちの目には,どうしよもなく映るその状況も,イエスはその手に治めておられます。私たちもまた,イエスの約束を信じ,どのような時にも希望を与えられる者とさせていただきましょう。
[考えるために]
イエスはどのようなお方でしょうか。イエスの与えてくださるものは,何でしょうか?
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メインページへ2006年10月03日
2006/10/1礼拝メッセージ
2006年10月1日のメッセージの要約です。
ルカの福音書8章40~48節
「イエスへの信仰」
1. ヤイロの娘と病の女
ヤイロはその娘の癒しを求めて,イエスのもとに来ました。そして,イエスに来て欲しいと懇願します。しかし,話はスムーズには進みません。そこに長血をわずらった女性の事件が起きてしまったのです。この女性は,おそらく汚れた人,罪人として扱われていたことでしょう。先を急いでいたイエスでしたが,この女性のために立ち止まったのです。
2. 女とイエス
人々の前に出ることのできないこの女は,「お着物にさわることでもできれば,きっと直る」と考え,決死の覚悟でイエスの着物のふさに触りました。そして,彼女の病は癒されます。しかし,この話はこれで終わりませんでした。イエスは,その触った人を探し出そうとされたのです。イエスは,本当に誰が触ったのかわからなかったのでしょうか?おそらく,イエスは自分の着物に触ったのが誰であるか,そして何が起こったのかを知っていたことでしょう。知っていながら,イエスは,あえて誰かと問われたのです。この言葉の向けられた先は,長血をわずらっていたこの女性でした。彼女は,恐れに満たされながらイエスの前にひれ伏し,すべての民の前で事の次第を話すことになりました。これこそイエスが求めていたことだったのです。イエスは,この女性に,信仰の告白をさせ,さらには救いの確信を与えようとされたのです。
3. 私たちの応答
ここから私たちは三つのことを教えられます。まず第一に,イエスにはいつでも与える準備があるということです。また第二に,イエスはその信仰をはっきりとさせる,ということです。そして第三に,キリストへの信仰は私たちを送り出す,ということです。私たちもまた,イエスを信じる信仰によって,安心して歩みをすすめてまいりましょう。
[考えるために]
イエスを信じるときに,イエスはあなたに何と声をかけて,送り出されるでしょうか?
投稿者 mb-church : 10:40 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2006年09月24日
2006/9/24礼拝メッセージ
2006年9月24日のメッセージの要約です。
ルカの福音書8章26~39節
「救われた次第」
1. 待ち受けていた人
湖の向こう岸へと到着した一同を待ち受けていたのは,一人の悪霊につかれた人でした。ここで,その悪霊がどのような類のものであったかということは問題ではありません。問題なのは,この人が,例えようもない大きな苦しみを負っていたということです。
2. 絶望の淵で
この絶望に支配された男の前に,イエスはお立ちになります。これまで彼を助けようとする人などいませんでした。誰も近づかない。誰も同情などしない。しかし,イエスは彼の前にやってきました。しかし,この男の反応は「恐れ」でした。悪霊が語っていることが,人の罪の性質が語っていることであるとするならば,私たちもまた,イエスを前にしたとき恐れを抱くことでしょう。イエスによって,心の内が照らされ,内面がさらけ出されたとき,私たちもまた,これ以上苦しめないで欲しいと叫ぶことでしょう。
3. イエスのみ手
しかし,イエスはこの「恐れ」をしっかりと受け止められます。そして,悪霊は彼から出て豚の大群に入り,湖で溺れ死にます。ここに示されているのは,イエスの持つ罪,悪に対する圧倒的な権威と,この一人の罪人が,その長い間の束縛から解き放たれ,きよめられたという事実です。イエスは,彼の絶望,そして彼を縛ってきた古いものを完全に断ち切られたのです。
4. 人々の反応
しかし,そこに居合わせた人々は,その光景を見てイエスを拒否します。ここに,イエスを前にして,二つに分かれてしまった人々の姿が記されています。一方はこの狂人。そしてもう一方はこの目撃者たちです。私たちは,イエスを,私たちの罪の縄目から解き放つ救い主として受け入れるでしょうか。それとも,私たちを脅かす存在として拒否してしまうのでしょうか。イエスを受け入れる時に,私たちもまたこの一人の罪人と同様に,「正気」に戻ることができるのです。
[考えるために]
イエスの目には,この一人の男はどのように写っていたのでしょうか?
あなたの罪を断ち切るお方は誰でしょうか?
投稿者 mb-church : 15:18
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2006/9/17礼拝メッセージ
2006年9月17日のメッセージの要約です。
ルカの福音書8章22~25節
「向こう岸」
1. イエスの誘い
イエスは弟子たちに「湖の向こう岸へ渡ろう」と誘われます。「なぜか」という理由はここに書き記されていません。しかし,イエスの方から,弟子たちをお誘いになったことは確かなようです。ことの始まりは,イエスの側からでした。
2. 湖上
弟子たちは,イエスの言葉に従います。その船の上で,イエスは弟子たちにすべてをゆだねているようです。ここでイエスは,全面的に私たちに舵取りをまかせています。しかし,そこに困難が起きたのです。突然の嵐。彼らの力では,どうすることもできない状況に見舞われます。すると,弟子たちは,慌ててイエスのもとに行きました。「先生。先生。私たちはおぼれて死にそうです。」
3. 信仰はどこにあるのか?
すると,イエスは起き上がり,風と荒波をしかりつけられました。驚くべきことに,嵐はすぐに止み,なぎになります。イエスはここで弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と問いかけられました。もちろん彼らは神を信じ,イエスをも信頼していたことでしょう。しかし,彼らの目には,目の前の状況しか映っていませんでした。実は,最初のことを起こしたのもイエスであり,委ねられたのもイエス,ともにいたのもイエスであり,ことを治められたのもイエスでした。最初から最後まで,振り返るならば,そこにイエス,神の存在を認めることができたのです。
4. さあ向こう岸へ!
向こう岸へ渡るには,嵐の待つ湖を渡らなくてはなりません。しかし,その湖をイエスとともに渡るならば,私たちはさらに深い神理解,イエス理解へと進むことができるでしょう。私たちもまた向こう岸へと渡らせていただきましょう。
[考えるために]
私たちの信仰はどこにあるのでしょうか?
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2006/9/10礼拝メッセージ
久しぶりに土曜日に掲載します。
2006年9月10日のメッセージの要約です。
ルカの福音書8章19~21節
「わたしの家族」
1. イエスの言動
ここを読むと,私たちはイエスのその家族に対する態度に驚きを感じます。マルコの福音書にはこうあります。「わたしの母とは誰のことですか。また,兄弟たちとは誰のことですか。」イエス様のこの言動は,私的,個人的な行動ではありません。これは意図されたものであり,弟子や群集に向けたメッセージがそこに含まれています。特にルカでは,「神のことばを聞いて行う」ということに焦点が当てられています。
2. 神の家族とは誰か?
神の家族とは,神のことばを聞いて行う人のことだと語られます。家族という言葉は,当時のイスラエルにおいて,今以上に重い意味を持つ言葉です。それは彼らのアイデンティティーに深く関わりがありました。現代の私たちも同様の構造を持っています。自分がいったい何者なのか。それを規定し,特定しているのは,その人の家族や社会,仕事,また所有物などです。また他の人をもそのような視点で見ているでしょう。しかし,イエスはそのような基準とは異なる基準を示しました。神のことばを聞いて行う人。これがその基準です。
3. 神のことばを聞いて行うということ
みことばに聞いて,それを行う。限りなくシンプルですが,奥の深いことでもあります。そのために,私たちは神のことばである聖書に絶えず聞く必要があるでしょう。私たちは聖書を通して,神ご自身を教えられるときに,神のみこころを行う者へと変えられていきます。聖書を知れば知るほど,私たちは神を教えられ,そして神との関係は深まります。さらに,私たちは「祈り」へと開かれています。神ご自身を知ると同時に,祈りを通して,私たち自身のことを神に語り,委ねることが許されています。私たちはそのときに,すでにイエスの家族の一員となっているのです。
[考えるために]
イエスの家族とはどのような者たちのことでしょうか?
投稿者 mb-church : 18:19 | コメント (0) | トラックバック
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2006/9/3礼拝メッセージ
2006年9月3日のメッセージの要約です。
ルカの福音書8章16~18節
「圧倒的なひかり」
1. みことばの光
良い地である人が,どのように歩みを進めるのか,そのヒントがここにあります。「あかり」とは「みことば」のことでしょう。「あかりをつける」というのは,正しい,良い心でみことば聞くということを指しています。私たちが,イエスを主とし,神のことばをまっすぐに受け取ること,それがあかりをつける,ということでしょう。
2. あかりをどうするのか?
みことばに生きるとは,どういうことでしょうか?私たちは,何を支えに生きているでしょうか,また,何を指針としているのでしょうか?私たちが日々の歩みを進めるときに,もしみことばの灯火がなければどうなってしまうのでしょうか?私たちは,みことばを高く掲げて歩むときに,それが本物の光であることを知ります。私たちは,この光を掲げる必要があるのです。
3. 真の光
光を輝かせるのは,私たちの努力ではありません。みことばの真理は,かならず明らかになります。知られるようになり,現れます。神の約束は必ず達成される。それは何よりもイエスご自身のことを指しています。イエスの宣教が進められ,十字架にまでたどり着く中で,必ず明らかにされる。そのみことばの光,福音の光は決して覆い隠せるものではありません。圧倒的な光なのです。
4. 聞き方への注意
ここでイエスは,聞き方への注意を与えています。みことばの真理を持つものは,さらに与えられ,持たないものは,いのちそのものを損じてしまう。それは4つの土地のたとえ話の結論と同じです。実がならずに終わる生涯となる。だからこそ私たちは,神のことばの現れであるイエス自身を求める聞き方を,聖書を前にしてさせていただたいのです。
[考えるために]
あなたはみことばを高く掲げているでしょうか?
投稿者 mb-church : 20:10 | コメント (0) | トラックバック
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2006/8/27礼拝メッセージ
2006年8月27日のメッセージの要約です。
ルカの福音書8章1~15節
「良い地」
1. 4つの土地
イエスの宣教活動はさらに続きました。かし,神の国,そしてイエスご自身のことを耳にしたときの人々の反応はさまざまでした。その人々に対して,イエスはここでメッセージを語っています。あなた方は,4種類の土壌の内のどれか,というメッセージです。
2. 道端
最初のたとえは道端です。周囲の人々,または現実の社会や世界の価値観によって,みことばがその人の中に響かない状況にある人のことです。みことばが語られたとしても,自分の罪を認めることができず,関係ないと思うならば,信仰の芽すら出ない状況となるのです。
3. 岩の上
二番目は岩の上です。聖書を最初は受け入れ,信じるが,自分を変えようとは思わなかった人のことです。なので,自分に不都合な時,また試練がやってくると,信仰に立つことができなくなります。
4. いばらの中
三番目はいばらの中です。信仰と同様に,その他のものも一緒に自分の中で大きな存在としてしまうことが,私たちにはできます。しかし,それらの順番を間違えてはなりません。私たちはいついかなる状態であったとしても,神のみ手があることを認めなくてはなりません。私たちが第一に覚えるのは,全能なる方に対する恐れ,信仰です。
5. 良い地
最後は良い地です。これは,単なる道徳心ではありません。神の前における正しさ,良い心こそ「良い地」です。困難や試練に会うのは,かえって私たちが神の前に正しい歩みをしているから,とも言えます。しかし,私たちは神のみこころ,神の約束に立つことができます。神は必ずあなたを祝福すると約束しています。しかし,私たちはまず困難や苦難を通して,練られ,神との関係を整えられるのです。みことばを聞く者とならせていただきましょう。
[考えるために]
あなたはどの土地でしょうか?
イエスの言う正しさ,良い心とはなんでしょうか?
投稿者 mb-church : 10:07
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2006/8/13礼拝メッセージ
2006年8月13日のメッセージの要約です。
ルカの福音書7章36~50節
「多く赦された者」
1. ひとりの罪深い女性
この女性が,どのような女性であったかは他に情報がありません。ただ分かるのは,周囲の人々から,忌み嫌われるような立場にあったということです。その女性が,パリサイ人の家で食卓に着いていたイエスのもとにきました。なぜ,この女性はイエスのもとにひざまずいたのでしょうか。
2. シモンの反応
この女性は,自らの罪をイエスの前に悔い改め,神の赦しをいただこうと思い来たに違いありません。しかし,この家の主人であるパリサイ人シモンは,イエスに対して不満を抱きました。ある意味,彼は正直な男です。また,この考え方は,当時の常識的な考えでもあったことでしょう。
3. イエスの応答
イエスはシモンにたとえを持って答えられました。それは,赦すものと赦された者との関係でした。そして,シモンに対して,実際にイエスご自身をどのように迎えたのかを問いました。ただの客人としてなのか,それともメシアとしてなのか。
4. 多く赦された者
神の前には,どのような人であっても払いきれない負債があります。それは罪の負債です。誰一人としてその負債を払いきれる人はいません。しかし,その払いきれない物を,イエスの前に差し出したとき,イエスは代わりに支払ってくださいます。この女性は自分の罪深さを知る人でした。そして,イエスはその負債を帳消しにしてくださったのです。そして,イエスは「あなたの信仰が,あなたを救ったのです。安心して行きなさい」と,この女性を送り出されました。私たちもまたイエスによって多く赦された者の一人なのです。
〔考えるために〕
あなたは神の前に罪人であることを認めるでしょうか?
その罪の負債を誰が支払ってくださるのでしょうか?
投稿者 mb-church : 06:38 | コメント (0) | トラックバック
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2006/8/6礼拝メッセージ
2006年8月6日のメッセージの要約です。
ルカの福音書7章24~35節
「あなたは何を見に行ったのか」
1. ヨハネの何を見たのか?
ヨハネはいったい誰なのか。バプテスマのヨハネは,当時の人々の関心を集めていました。何かが起こるという期待感,神の国が近づいたとのメッセージ。そして,今,イエスの前にも集まりつつある人々に対し,イエスはかなり手厳しい言葉を投げかけます。あなたはヨハネの何を見たのか?風に揺れる葦,やわらかい着物,きらびやかな着物。それは,まるでバプテスマのヨハネとは異なる姿でした。しかし,人々はヨハネの言葉の本質を受け取ってはいなかったのです。
2. 「わたし」とは?
ヨハネは「預言者よりもすぐれた者」「その人こそ,見よ,わたしは使いをあなたの前に遣わし,あなたの道を,あなたの前に備えさせよう」と聖書に書かれている人だと,イエスは言いました。この中の「わたし」とは,万軍の主,つまり神を指している言葉です。ここで,イエスはご自身を,神と等しい存在として示すと同時に,そのメシアを指し示す人物こそヨハネであると解き明かしています。
3. 神の国
イエスによってもたらされる神の国は,イエスによって罪が赦され,神の前に義と認められる,そこから始まるものです。ヨハネは,血筋や地位や人の力ではなく,神の前に悔い改め,神に立ち返ることを解き明かしました。これだけのことが語られていたのに,当時の人々はそのメッセージの本質を受け取ってはいなかったのです。バプテスマのヨハネ,そしてイエス・キリストが目の前に来て,メッセージを語っているにも関らず,それを聞こうとはしない人々,見ようとはしない人々。しかし,イエスは,わたしのメッセージに耳を傾けなさい,そしてわたしを見なさい,と語っています。私たちも,自分の勝手な思いに留まらず,神のことばをまっすぐに受け取り,イエスを救い主として迎えましょう。
〔考えるために〕
教会は何を明らかにすべきなのでしょうか?
私たちはイエス様に何を見出すのでしょうか?
投稿者 mb-church : 08:27
メインページへ2006/7/30礼拝メッセージ
2006年7月30日のメッセージの要約です。
ルカの福音書7章11~23節
「おいでになる方」
1. 問い
とても大事な問いがあります。それは,バプテスマのヨハネが質問した問い「おいでになるはずの方は,あなたですか。それとも,私たちはほかの方を待つべきでしょうか」という問いです。この質問の前に,ルカは一つの出来事を記録しています。それがナインでの出来事でした。
2. 神と等しい方
死人を生き返らせるというとてつもない奇跡が起こります。この出来事は人々にエリヤを思い起こさせました。しかし,ここでのイエスとエリヤとを比べると,大きな違いがあることが明らかになります。ここでもイエスはたった一言で,青年にいのちを戻します。イエスの一言で,悲しみが喜びへと変えられました。エリヤが神に願い求めたのとは異なり,イエスは確信に満ちた言動によって,この悲しみの状況を一変させます。ここでもイエスは神の権威を持つことを示しているのです。
3. バプテスマのヨハネ
その場にいた群衆たちは,イエスを大預言者である言います。しかし,その時バプテスマのヨハネが再び登場するのです。彼は,ここでもその与えられた役割を果たします。それは,イエスがキリスト(メシア)であることを指示す役割です。彼は「おいでになるはずの方は,あなたですか」と問いかけます。ヨハネはイエスが単なる預言者ではなく,神が旧約において約束されたメシアであることを,人々の前に明らかにしようとしたのです。
4. つまずかない者
イエスは「わたしにつまずかない者は幸いです」と言います。私たちがこの方の真の姿を捉え損ねるときに,つまずきは起こります。イエスは,私たちをただ打ちのめそうとしてこられたのではなく,私たちが神に立ち返り,罪の悲惨な状況から救われるために来てくださったのです。おいでになるはずの方は,この方以外にはないのです。
〔考えるために〕
バプテスマのヨハネが示したことは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 08:22
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2006/7/23礼拝メッセージ
2006年7月23日のメッセージの要約です。
ルカの福音書7章1~10節
「立派な信仰」
1. りっぱな信仰とは?
皆さんが考える立派な信仰者とはどのような姿でしょうか。この百人隊長は,イエス様がその信仰を見て,立派だと言った人です。彼は異邦人でした。そして,彼はユダヤの長老たちからも信頼されていたことが分かります。しかし,なぜ,彼は自らイエスの前に来て,懇願しなかったのでしょうか?その理由は,彼の謙遜さにあったことが,その言葉から分かります。ユダヤ人の指導者たちは,来てくださいとお願いしたにもかかわらず,彼は来なくてよいとイエスに伝えたのです。
2. 百人隊長の考え
なぜユダヤの指導者たちは,来てくださいと頼んだのでしょうか?百人隊長は,おそらく「イエスのことばを聞いてきてください」と彼らに頼んだことでしょう。しかし,長老たちは,イエスの言葉よりも,実際に来てもらおうことを重く見ていたようです。その考えの違いは,どこから生ずるのでしょうか。
3. 権威の所在
百人隊長は,イエスの「権威」をはっきりと意識していました。イエスの権威。すでにここに来るまでに行われていた癒しの業によって,圧倒的なイエスの権威は示されていました。しかし,周囲の人々は,まだイエスが誰なのか,どこから来た方なのかを正確には悟ってはいませんでした。しかし,百人隊長は,イエスの権威がどこから来るものか,そして自分にとって,イエスがどのような存在であるかをはっきりと知っていました。彼は,イエスをこう呼んでいます。「主よ。」 百人隊長は,主イエスの言葉だけで十分であると確信していました。彼はイエスの言葉は必ず成ると信じ,そしてその信仰を実行に移した人だったのです。
[考えるために]
あなたはイエスを誰だと告白しますか?
あなたはイエスの言葉を受け取っていますか?
あなたはイエスの言葉を大胆に求めていますか?
投稿者 mb-church : 10:09
メインページへ2006年07月20日
2006/7/16礼拝メッセージ
2006年7月16日のメッセージの要約です。
ルカの福音書6章43~49節
「わたしのことばを行う者」
1. あなたは実行する者ですか?
今日のテーマは「あなたは実行していますか?」ということです。しかし,聖書では,信仰による義が明らかにされています。この真理には混ぜ物はゆるされません。私たちが罪赦され,救われるのは,行いによるのではなく,十字架の贖いを信じる信仰のゆえに,義と認められます。しかし,私たちに新たな課題が与えられます。それは,赦され義とされた者として,どう生きるのか,という課題です。
2. 新たな課題
救いは,与えられた新たないのちを,神とともに生きるという新たな課題へと私たちを向かわせます。ですから,私たちに与えらた信仰は,それを実践し,発揮していくときに,そのすばらしさがより明らかになっていきます。私たちの信仰が,口先だけのことになってはいないでしょうか?神に願いはする。しかし,キリストの言う事を,真剣に実行しない者となっていないでしょうか?
3. 実行する者となるために
しかし,ここで見落としてはならないのは,イエスのことばです。それは,ただ実行するだけではなく,重要なことは,私たちの信仰の土台をどこに,そしてどのように置くのか,ということだと言うのです。私たちの土台をしっかりと据えるために,私たちは地面を深く掘り下げる必要があります。そのために,みことばをしっかりと私たちの内に息づかせる必要があります。みことばをただ読むのではありません。みことばをしっかりと聞き,悟り,与えられた福音の恵みを深く知る。私たちは,絶えず福音の恵みを,自分自身に宣言していく必要があります。私は,すでに罪に死に,そこから離れ,福音の恵みに生きるものであると宣言するのです。そのために,私たちは絶えず,聖書のみことばに聞き,学び,そして生きる訓練へと向かっていくのです。
[考えるために]
あなたはキリストのことばを実行するものでしょうか?
あなたの土台はどこに,そしてどのように据えられているでしょうか?
投稿者 mb-church : 15:26
メインページへ2006年07月11日
2006/7/9礼拝メッセージ
2006年7月9日のメッセージの要約です。
ルカの福音書6章39~49節
「十分な訓練」
1. 人を愛すること
私たちは,敵対する人を愛するように,と導かれています。その具体的な姿はいかなるものでしょうか。それは「裁かない」ということに集約されています。私たちは人を裁きやすいものです。それは行きつくところ「自分」にしか基準がないからでしょう。ここでイエスは私たちに命じています。あなたは自分だけを基準にしてはならないと。
2. たとえ
私たちの現実の滑稽な姿がたとえを通して語られています。盲人に盲人の手引きができるだろうか?自分の目にある梁には気がつかないのはなぜか?神の視点から見るならば,私たちの姿はこのたとえのようなものです。いずれにせよ私たちが,もし人を裁いているのであれば,それはイエスの姿とは到底離れたものであると言わざるを得ないのです。
3. 十分な訓練
このような裁かないものとなるには,つまり神の視点を持つには,十分な訓練を受けなくてはなりません。訓練とはどのようなものでしょうか。それは「自分の目から梁を取り除けること」です。私たち自身の目から梁を取り除けることから,その訓練は始まります。
4. 二つのこと
そしてその訓練は,次の二つにまとめることができます。第一に「私たちの心を良くする」ことです。それはただ良い人になるのではなく。キリストを中心にして生きる,イエスの心を持って生きることです。第二に「キリストの言うことを行う」ことです。できるかできないかではなく,キリストの教え-あなたの敵を愛しなさい-を実行することです。信仰者としての訓練とは,キリストの心を持って,キリストが命じてくださったことを実行すること。私たちの前提は訓練されていない者です。しかし,私たちは,この訓練を受けるとき,キリストの大使として成長していくのです。
[考えるために] キリストの訓練とは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 16:53
メインページへ2006年07月06日
2006/7/2礼拝メッセージ
更新したつもりで忘れてました。
2006年7月2日のメッセージの要約です。
ルカの福音書6章31~38節
「自分のしてもらいたいとおりに」
1. 黄金律
「あなたのしてもらいたいことを,他の人にする」という教えは,黄金律とよばれるものです。よくこれをこのように言い換えて理解することがあります。「自分のして欲しくないことは相手にもしない。」しかし,イエスが言っていることは,このあり方とはちょっと異なるようです。「して欲しくないことをしない」というのは,他者との消極的なあり方です。何もしないなら,しなくてもいい,ということにもなるでしょう。このような人間関係は,暖かい雰囲気や赦しあう雰囲気を持つことができません。
2. 神のあり方
私たちは,本来,他者と消極的な関係を持つように創造されてはいません。なぜなら,私たちは「神のかたち」に創造されているからです。三位一体の神,父なる神,子なるキリスト,聖霊なる神の互いの関係は,消極的な関係で結ばれているのでしょうか。キリストは,いつでも父と結び合い,聖霊に導かれて歩まれました。互いに深く関わりあうとき,他では得ることの出来ない深い満足と喜び,安心が私たちに与えられます。しかし,その一方で,罪ある私たちは,人間関係から深く傷つきもします。その罪ゆえに,積極的なあり方へと向かうことができないでいるのです。
3. キリストのすすめ
キリストは,私たちに積極的な関係の中で生きるようにすすめています。それが,あなたのしてもらいたいことを,他の人にしなさい,ということです。この積極的な関係の前提は,私たちが,キリストによって赦され,神と和解していることの確信がなければなりません。私たちが,神によって赦されているだけではなく,相手もまたキリストの十字架によって解決が与えられるのだ,という信仰が私たちの立つ所なのです。神が私たちに与えているあふれるばかりの恵みに気がつくならば,私たちは与える者へと変えられていくことでしょう。
[考えるために]
私たちの他者との関係は積極的なものでしょうか?
投稿者 mb-church : 12:35
メインページへ2006年06月26日
2006/6/25礼拝メッセージ
2006年6月25日のメッセージの要約です。
ルカの福音書6章27~35より
「敵を赦すということ」
1. 高い基準
あなたの敵を愛しなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。敵とは,自分をのろう者であり,侮辱する者のことです。そして,その敵対する人に対して,愛しなさい,祝福しなさい,祈りなさい,とすすめられています。これは簡単なことではありません。さらに,イエスはこのように命じておられます。すべて求める者には与えなさい。私たちは,自分に敵対する人に,与えることができるのでしょうか?
2. あなたの敵
ここで,意図されているのは「敵」との和解です。イエスが弟子たちに命じたのは「博愛主義者になりなさい」ということではありません。キリストの大使として遣わされることの意味を解き明かしたのです。それは,私たちの間にある敵対的な関係を修復することです。私たちの中にあるいいようもない「怒り」。この「怒り」は私たちに深刻な影響を及ぼしています。私たちは本当のところ,人を赦すことができてはいない者たちなのです。
3. 赦されているのは誰なのか?
私たちのうちにはこのような相手を赦せない罪があります。その罪は,自分だけに止まらず,相手にまで影響してしまうものです。このような罪は,表面に出てくるものだけではなく,私たちの気がつかない心の奥底,深層にまで及んでいます。しかし,イエスは私たちに言います。「あなたの敵を愛しなさい」と。この言葉を実現するためには,まず私たちが赦されるべき者であり,そして赦されているということを知らなくてはなりません。鍵は「十字架の赦し」です。私たちは,十字架によって,神に敵対するものから,神に赦されたものへと変えられます。この私こそ神に赦されなければならない人であり,さらには既に赦されているということ。だからこそ,私たちは相手を赦すものとして,キリストの大使となることができるのです。
〔考えるために〕
あなたは神に赦されていることを信じますか?
あなたには和解すべき人が,今いるでしょうか?
投稿者 mb-church : 15:36 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2006年06月11日
2006/6/11礼拝メッセージ
2006年6月11日のメッセージの要約です。
ルカの福音書6章20~26より
「幸いな者,哀れな者」
1. 平地での説教
この箇所は山上の説教を彷彿させます。しかし,ここは山上ではありません。また,幾つかの違いもあります。当然,どちらも同じ説教者であるイエスが語っているわけですから,同じような内容であることは,不思議ではありません。むしろ,繰り返し,重要なことを,人々に伝えていたと考えることができるでしょう。ここでは,特にイエスは弟子たちに語りかけています。
2. 幸いな者,哀れな者
ここでは,幸いな者が4つあげられています。その一方で,哀れな者も4つあげられています。ここにも,ルカの福音書の特徴であるコントラストが見られます。5章でも,同様に二つの者が対比されていました。それは「正しい者」と「罪人」です。そして,この箇所の対比の中心は22節と26節です。つまり,人の子のため,つまりキリストの名のゆえに,私たちが苦難を通り,迫害を受けるそのとき,私たちは幸いである,と語られているのです。
3. キリストのゆえに
私たちは,キリストの真理に立ち,その義を求めるときに,この世とは異なるスケールを持つことになります。預言者たちもまた,神のみこころ,神の義を,人々に指し示す役割を与えられた人々でした。そのために,かえって人々からうとまれ,除外され,命の危険にさらされました。彼らは,イスラエルの民の中に巣くう偶像礼拝や,神を神としない生き方,偽りを告発したのです。私たちもまた,キリストの前に,二つの道を問われています。私たちは,まことの神を失い貧しい者,飢えた者,悲しむ者か,それとも,まことの神を失っているのにもかかわらず,富んでいる,満ち足りている,幸せだと,思い込んでいる哀れな者,そのどちらなのでしょうか?私たちが,変わらずに信頼を置くべき所は,まことの神,キリストなのです。
[考えるために]
私たちが,もしキリスト抜きで生きるとしたら,どのような人生になるのでしょうか?
投稿者 mb-church : 16:44
メインページへ2006年06月04日
2006/6/4礼拝メッセージ
2006年6月4日のメッセージの要約です。
ルカの福音書6章12~19より
「使徒の任命」
1. 使徒
ペンテコステは教会の誕生日だと言われています。イエス・キリストはもういません。しかし,弟子たちは,内に働く聖霊とともに新たなスタートを切りました。彼らは「使徒」と呼ばれました。,この箇所には,12人が「使徒」として任命された時のことが記されています。ここは,教会にとって歴史的な箇所なのです。
2. イエスの任命
この12名は,イエスの代理者という意図がありました。彼らに関しては,情報が多く残っている者と,ほとんどない者とが混ざっています。そのバックグラウンドも様々でした。そして,その多くがガリラヤ出身という名もない人々でした。イエスは,いったいどのような考えで,12人を選び出したのでしょうか。イエスは,祈りの中で決断し,そして,彼らを自ら呼び寄せ,使徒として任命されました。
3. 任命から派遣まで
使徒として行動するのは,ペンテコステの日を待たなくてはなりませんでした。しかし,イエスは,この12人を選ばれ,働きを託すために,彼らを訓練しました。キリストは生きている間,伝道者として成功をしたわけではありません。神の国を説き,ご自身がその礎石として十字架に架かるまで,イエスは,弟子に対して,彼らに十分な訓練を与えました。そして,イエスは「使徒」という,すばらしい成果を残したのです。
4. 弟子からキリストの大使へ
私たちは,キリストに従うときに,キリストの弟子となります。その選びの基準は,私たちにあるわけではありません。しかし,この先があります。私たちは,キリストの弟子として,キリストの教えの上に,しっかりと訓練を受けているのだろうか,ということです。12弟子たちは,イエスとともに歩むなかで,幾つもの挫折や痛みを通して訓練され,キリストの大使として遣わされるまでに成長します。私たちも,使徒たちと同様に,訓練され,遣わされてまいりましょう。
[考えるために]
あなたはキリストにある成長を求めているでしょうか?
投稿者 mb-church : 16:42 | コメント (0) | トラックバック
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2006/5/28礼拝メッセージ
2006年5月28日のメッセージの要約です。
ルカの福音書6章6~11より
「安息日の主Ⅱ」
1. 安息日のイエス
キリストは,宣教活動に出られてから,いったい何回の安息日を守ったのでしょうか?ここまでの記述で気がつくのは,イエスが安息日に宣教活動をしている,ということです。これまでの安息日とは,別のことが起こりつつあることを,人々は感じとっていたことでしょう。そして,律法学者,パリサイ人たちもまた,そのことが何であるかを見極めようと,イエスの前に集まってきたのです。
2. 安息日の主
前回,イエスは,神のみこころが何であるかを,ダビデの姿を通して明らかにしました。そして,キリストはさらにそのことを「右手のなえた人」の手をいやすことによって,具体的に公に示そうとされます。安息日の主のこころは,神に従う哀れな人に向けられました。しかし,敵対者たちは,イエスを訴える口実を,ここに見出しました。安息日には,すべてを止めなければならない,彼らはそれこそが神にある最善と考えていたのです。
3. 真によいこと
イエスは彼らに問いかけます。「安息日にしてよいことは,善を行うことなのか,それとも悪を行うことなのか。」ここでイエスの見ている最善と,敵対者たちの見ている最善とが,異なっていることに気がつきます。イエスの視線は,自分のことばに従い,自分の前に来た,このあわれな手のなえた人に注がれていました。しかし,律法学者,パリサイ人たちの視線は,この手のなえた人にではなく,自らの正しさを示すことにのみ注がれていたのです。私たちの視線は,どこに向けられているのでしょうか。そして,最善は,どちらの側にあるのでしょうか。
[考えるために]
安息日の主のみこことは何でしょうか?
神にある最善とは,どのようなものでしょうか?
投稿者 mb-church : 10:40 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2006年05月17日
2006/5/14礼拝メッセージ
昨日まで大阪に出張していました。
お好み焼きも食べましたよ。
遅くなりましたが,礼拝メッセージを更新します。
2006年5月14日のメッセージの要約です。
ルカの福音書5章33~39より
「古い?新しい?」
1. 比較
ここでイエスは非難を受けています。このような非難は,私たちの最も得意とするところです。つまり人との比較です。ここで,彼らが比較しているのはイエスとバプテスマのヨハネです。ここで問題なのは,パリサイ人たちは,なぜヨハネの弟子たちは正しいと判断しているか,です。その根拠は,自分たちの正しさにありました。
2. キリストを前にして
彼らは,真に正しい方を前にして,自分たちの正しさを証明しようとしています。一見,彼らの主張は正しいように見えます。しかし,イエスのたとえ話は,彼らの欺瞞を明らかにします。目の前に花婿である救い主がいるにもかかわらず,彼らの目は曇ったままだったのです。結局のところ,彼らは,イエスをキリストだと認めることができなかったのです。
3. 古い物と新しい物
彼らは目の前にある真実に,目を向けようとはしませんでした。そのことをイエスは,別のたとえ話によって明らかにしました。彼らの心は「古いまま」であると。この箇所にある「新しい」とは,見た目の新しさではありません。この新しい物とは,キリストご自身のことであり,神ご自身の基準です。それは単なる古い新しいの問題ではありません。問題は,あわない入れ物に,無理に新しい物を注ぎ込もうとすることです。つまり,自分たちの基準に,イエスを,神を閉じ込めようとすること。キリストが目の前にいるにもかかわらず,彼らは自分たちの考えをまげようとはしなかったのです。私たちが,自分の基準,自分の正しさに固執するならば,私たちは救い主イエス・キリストが目の前にいるにもかかわらず,そこを素通りしてしまうことになるのです。
[考えるために]
あなたは,キリストを前にして,心をかたくなにしてはいないでしょうか?
内に働く聖霊によって,新しい皮袋を持たせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 13:01
メインページへ2006年05月08日
2006/5/7礼拝メッセージ
2006年5月7日のメッセージの要約です。
ルカの福音書5章27~32より
「罪を赦す権威」
1. レビとの出会い
今日のテーマは,イエスは誰を招こうとしているのか?ということです。しかし,この箇所を読むと,このテーマとは逆のことが起きています。なぜなら,ここではイエスが招かれているからです。イエスは一人の収税人に目を留めて,「わたしについて来なさい」と声をかけられました。すると,彼は全てを捨ててイエスに従いました。この時が,彼の信仰の出発でした。そして,レビは,自分の家にイエスを招いて大盤振る舞いをし,多くの人々を招きました。
2. 多くの人々
招かれた人々は,収税人仲間であり,当時,罪人だと認識されていた人々でした。彼らの人柄や人格は関係なく,その表向きの職業,血筋から,罪人と認識されていた人々です。その状況を見て,パリサイ人たちはつぶやきました,内側よりも,外側から人は汚れる,と考えていたのが,パリサイ人たちでした。
3. イエスの招き
しかし,イエスは,その彼らにこう答えます。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく,病人です。」イエスは,病人,罪人のところに来ました。しかし,ここで問題なのは,誰が丈夫な人なのか,ということです。ここにはこの言葉を添えて理解する必要があります。それは,自分が丈夫だと思っている人,自分で正しい人だと思っている人。イエスは,自分は病人だ,医者を必要としているのは私だ,私は本当に神の赦し,あわれみが必要だ,そう思っている人のところに来られました。聖書は私たちにこう語ります。「医者を必要としない人はいない。」神の前に正しいと立つことの出来る人は一人もいません。イエスは,今日も私たちにレビのように目を留めて,そして声をかけてくださっています。これがイエスの招きです。あなたはこの招きにどう応えるのでしょうか?
[考えるために]
聖書は私たちのことをどう語っているでしょうか?
あなたはこのことをどう受けとめるでしょうか?
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2006/4/30礼拝メッセージ
2006年4月30日のメッセージの要約です。
ルカの福音書5章17~26より
「罪を赦す権威」
1. 論争の火種
彼らの信仰を見て,イエスは病人に「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。このことばが論争のきっかけとなります。「罪を赦す」ということは,神以外にその権限はないと,当時の宗教家は考えていたのです。
2. 内なる矛盾
しかし,これはおかしな話です。というのも,律法学者,パリサイ人たちは,心の内において(外側においても),この病人は罪人だと判断し,また自分は罪人ではないと自分たちで考えていたからです。神以外には,罪を赦す権威がないと考えながら,誰が罪人かは,自分たちで決めていたのです。神と言いながら,基準は自分にあり,,また他者との比較の中で,その基準を定めていたのです。
3. イエスの挑戦
ここで,イエスは彼らに挑戦します。「あなたの罪は赦された」というのと,「起きて歩け」と言うのとどちらがやさしいか?「あなたの罪は赦された」というのは理屈から言えば不可能なことです。しかし,これをことばにして言うことはできるでしょう。また一方の「起きて歩け」も理屈から言えば不可能なことです。重病人に対して,起きて歩けということも無理な注文です。しかし,この問いは,そのことばが現実となるかどうかは,誰が見ても分かることでした。
4. 権威の証明
イエスはなぜこのような挑戦をしたのでしょうか。それは,ご自身が,神と等しく,罪を赦す権威を持っていることを明らかにするためでした。そして,イエスは中風の人を立たせました。イエスは病をいやす権威を持っていることを,人々に証明したのです。しかし,イエスが示されたのは,それ以上のことです。イエスが持っているのは,神と等しい権威,人の罪を赦す権威なのです。
[考えるために]
キリストの持つ権威とは何でしょうか?
クリスチャンに与えられる歩みとは,どのようなものでしょうか?
投稿者 mb-church : 16:39 | コメント (0) | トラックバック
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2006/4/23礼拝メッセージ
2006年4月23日のメッセージの要約です。
ルカの福音書5章17~26より
「彼らの信仰」
1. 状況
イエスはとある一人の病の人を癒します。これもカペナウムでのことでした。大勢の人々が集まってきていたようですが,この中にパリサイ人と律法学者も混じっていました。すると事件はおこります。何とイエスがいた家の中に,突如,病人が運び込まれたのです。それも屋根のかわらをはがして。しかし,なぜ人々は重病人が入れるように,どいてあげなかったのでしょうか?
2. 行動
癒しを必要としている人が,中に入ることができませんでした。この病の人も,「罪人」として扱われていたのでしょうか。しかし,この4人は,何とかイエスの前にこの人を連れて行こうとして,屋根に穴をあけるという行動に出るのです。常識外れかもしれません。しかし,彼らにはそれ以上の熱意と信仰がありました。彼らは行動に出たのです。
3. 彼らの信仰
イエスは彼らの信仰を見て,このように宣言しました。「友よ。あなたの罪は赦されました。」病の人を連れてきた人々の反対側にいるのは,パリサイ人,律法学者です。そのパリサイ人,律法学者は,理屈を言い始めます。この病の人のことなど,彼らの目には入っていないようです。それよりも,自分の考えや,自分の正しさの方が,彼らにとっては重要なことでした。すぐそばに病の人がいたにもかかわらず,その人を入れようともしなかったのです。イエスはこの彼らの信仰を見て,罪の赦しをあたえたのです。
4. あなたにとって
イエスの前に愛する家族,愛する友を連れて行くときに,その人々を,イエスは必ず救ってくださいます。この箇所からその励ましを私たちは受け取ることができるでしょう。そして,今,私たちは,どうしてもイエスの前に連れて行きたい,そう願う人がいるでしょうか。
[考えるために]
屋根をはがしてまで,イエスの前に連れて行く,そのようなキリストへの信仰があるでしょうか。
投稿者 mb-church : 15:17 | コメント (0) | トラックバック
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2006/4/16礼拝メッセージ
2006年4月16日のイースター礼拝のメッセージです。
ルカの福音書5章12~16より
「死人にいのちを与える方」
1. 全身ツァラアトに冒された人
全身がツァラアトに冒された人。これは相当インパクトのある書き方です。現代のことばで直すとどうなるでしょうか。それは最も死に近い人,と言ってもいいでしょう。神に見捨てられた死。最も人々が嫌う死の姿がそこにありました。しかし,この人は,その姿を隠すことができませんでした。全身がツァラアトに冒されていたのですから。
2. 告白
そこに,イエス・キリストが来られました。彼は,ひれ伏してお願いします。「主よ。お心一つで,私をきよくしていただけます。」生きながら死んでいると言っても過言ではないこの人は,イエスを主と告白し,自分自身を明け渡します。いったいどのよう人が,神の前に義とされるのでしょうか。誰が真にいのちあるものなのでしょうか。この名前も記されない病の人に,イエス様は御手をのばされました。
3. 死者をよみがえらせる方
ツァラアトに冒された人を癒すということは,死者をよみがえらせるに等しいことです。全身が汚れていることは,誰が見ても分かることでしたが,さらにこの人は,自分の全てをイエスの前に投げ出しました。このような人こそ,神が義と認めてくださる人です。イエスは,彼に手を伸ばし,触れ,そして宣言されました。「私の心だ。きよくなれ」と。
4. 新しいいのちへ
私たちが自分の罪を認め,そしてキリストの前に全てをさらけ出し,ゆだねるときに,イエスの方から,私たちがきよめられることを望んでくださいます。この人は完全に癒されました。しかし,私たちに神が与えようとしているのは,単に病が癒されることではありません。神が望まれているのは,神を礼拝するものとして生きることです。この人に与えられたのは,ただの癒しではなく,救われた者として,神に感謝をささげて歩む生涯が開かれたのです。
[考えるために]
キリストが望まれているのはどのような態度でしょうか?
生きる死者であったこの人は,どのようにかえられたのでしょうか?
投稿者 mb-church : 16:48
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2006/4/9礼拝メッセージ
2006年4月9日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書5章1~11より
「おことばどおりに」
1. ペテロ
イエスは最初の弟子を呼び寄せました。イエスの最初の弟子がどのように決断したのか,それは最初の教会においても大きな関心ごとの一つでした。この出来事は,カペナウム伝道の最中のことです。イエスは悔い改めと,ご自身を通して実現していく「神の国」を語っていたことでしょう。シモン・ペテロもこのメッセージを耳にしました。
2. 信仰の第一歩
シモンにとって,イエスは「先生」の一人でした。まだこの時点では,自分の人生に関わり始めてはいるが,まだそれ以上の存在ではありません。しかし,そのシモンに対して,イエスご自身から関わろうとされます。「深みに漕ぎ出して,網をおろして魚をとりなさい。」シモンにとっては,この言葉は驚くべき言葉でした。ここで,私たちはシモンの驚くべき行動の一端を垣間見ます。彼は,自分の誇り,考え,常識,それらを脇において,「でもおことばどおり,網をおろしてみましょう」と言うのです。ここに,シモンの信仰の第一歩を見ることができます。
3. 神への恐れ
信仰の第一歩は,聖書にある言葉どおりに私たちが受け止め,行うところから出発します。そしてこの第一歩にイエスはすばらしいみ業を持って応えられました。ここで,「先生」という呼びかけから,「主よ」という言葉へと変わっていることがわかります。ペテロは,イエスが単なる教師ではなく,自らのすべてを持って応えなくてはならない主であるということに気付かされたのです。そして,彼が抱いたのは,「恐れ」と「自らの罪深さ」でした。私たちが,信仰の一歩を踏み出していくときに,次に気付かされるのは,神への恐れと罪深さなのです。
4. イエスの導き
神を恐れない人,神を神と思わない人は,自分の罪を知ることはありません。しかし,神を信じ,恐れを抱いたシモンに対して,イエスはこのように語りかけられました。「こわがらなくてもよい。これから後,あなたは人間をとるようになるのです。」イエスは,恐れなくてもよい,あなたには使命があるのだ,あなたは私とともに行くのだ。そうイエスはペテロに語りかけられました。私たちが信仰の一歩を踏み出すときに,シモンと同じように必ずイエスは励ましと,導きを与えてくださるのです。
[考えるために]
シモンにとっての信仰の一歩とは何だったのでしょうか?また次に彼が気付かされたこととは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 23:06 | コメント (0) | トラックバック
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2006/4/2礼拝メッセージ
2006年4月2日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書4章38~44より
「どうしても」
1. 助けを請う人々
「黙れ」という一言で,イエスは悪霊につかれた人をいやしました。続いて,イエスはシモン(ペテロ)の家に向かいます。そこに到着するとペテロのしゅうとめが熱で苦しんでいました。あの権威を持ってすれば,このひどい高熱も何とかなるのではないかと人々が思うのは当然のことしょう。するとイエスは高熱をしかりつけられた,というのです。そして悪霊と同様に,高熱は退散し,女性はいやされました。
2. 人々の驚嘆
この数時間のうちに起こった出来事は,人々を驚嘆させるには十分なものでした。日が暮れると,人々は,病人や悪霊につかれた人々をイエスの前へと連れてきました。救いを必要としている人々を,イエスのもとへと連れてくるという素朴な教会の姿を,ここに見ます。イエスは一人一人に手を置きいやされます。これこそ教会,伝道の原点と言えるでしょう。救いを必要としている一人一人を,イエスの前に連れて行き,イエスに手を置いていただくのです。
3. 群衆
朝になると群衆がやって来ます。一人一人を連れてきた人々が,今度は群集となっておしよせてきました。彼らは,イエスが自分たちから離れていかないように,引きとめにきました。しかし,イエスはこのことをよしとはしませんでした。なぜならイエスは「どうしても」行かなくてはならなかったからです。イエスはただ現世的な幸福を与えに来たのではなく,神の国の福音を伝えるために来ました。何よりも私たちを救うために,どうしても十字架にまで向かわなくてはならなかったのです。キリストは,ただ一人の罪人のために来られたのです。
[考えるために]
なぜイエスは「どうしても」と言ったのでしょうか?イエスが来られたのは誰のためですか?
投稿者 mb-church : 17:56 | コメント (0) | トラックバック
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2006/3/26礼拝メッセージ
2006年3月26日の礼拝メッセージです。
使徒の働き2章46, 47より
「喜びと真心をもって」
1. 初代教会の姿
初代教会の様子が記されています。神への恐れ,不思議としるし,一切のものを共有すること,分かち合うこと,ともに集い,パンを裂き,食事をし,賛美をし,そして次々に教会に人々が加えられていったこと・・・。ここから新年度に向けて,2つの大事なポイントを見ることにしましょう。
2. 神への恐れ
まず第一に教会には「神への恐れ」がありました。この恐れは,ペテロの説教を聞いて,「心を刺された」人々の抱いたものでした。彼らは,イエスを十字架につけたのは自分たちであることに気付き,神の前に罪人であることをはっきりと自覚したのです。初代の教会は,形式こそユダヤ教と同様のものだったことでしょう。また,資産や持物を売って共有していたことも,特に珍しいことではありません。しかし,本当に重要なことは,彼らが何に揺り動かされて,このことを実行したのか,ということです。彼らは,神を恐れる人々だったのです。
3. 交わり
第二に,彼らは交わりをもっていた,ということです。彼らは,毎日集まっていました。彼らは集まって何をしていたのでしょうか。彼らは,宮に集まり礼拝をしたことでしょう。さらには家々でも交わりを持っていました。そこではキリストの十字架を覚えるパン裂きが行われました。イエスの十字架の恵みを絶えず共有していたのです。そしてともに「喜びと真心をもって」食事をしました。「真心」とは何でしょうか。この言葉には,純真さや気取りのなさという意味があります。ともに食事をするときに,弟子たちはともに食したイエスの姿を思い起こしていたことでしょう。イエスにある喜びと気取りのなさ。これこそイエスにある交わりの姿です。
4. 人々の目に
この教会の姿は,周囲に好意を持って受け入れられました。さらに毎日救われる人々が加えられていきました。なぜならそこには赦しがあり,励ましがあり,何よりもイエスがおられたからです。私たちも生きたイエスの姿を宮から家々へと,そして互いへと分かち合っていきましょう。
[考えるために]
教会の基礎は何でしょうか。喜びと真心からなる交わりとはどのようなものでしょうか。
投稿者 mb-church : 00:23
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2006/3/19礼拝メッセージ
久しぶりの更新です。
2006年3月19日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書4章31~37節より
「イエスの権威」
1. 汚れた霊
イエスは,カペナウムで汚れた悪霊につかれた人を癒します。悪霊?なんて非科学的!と思う方もいるかもしれません。聖書は,悪霊の存在を否定していません。それは,神から私たちを引き離す力が確かにこの世界にあることを,はっきりと示しているからでしょう。しかし,聖書は当時の人々の感性にしっくりくるように書かれてもいます。当時,病は,悪霊によるものと民衆には説明され,また理解されていました。この現代では,また別の説明を加えることができるかもしれません。しかし,本質的に,神から私たちを引き離す力があるということには,変わりはありません。
2. この世界をどう見るか?
それでは,私たちは病や不幸をどのように説明し,受け止めているでのでしょうか。当時の人々は,ほとんどのことを悪霊やサタン,そして神々のなせる業であると考えていたことでしょう。しかし,聖書はそのような見方とも,異なる見方をしています。聖書は,圧倒的に神が,そしてイエスが全てのものの上にある,と語っています。聖書は,私たちの力の及ばないところ,いえ,私たちの力が届く,届かないにかかわらず,全ての面において,神の権威と力が及んでいることを,私たちに教えているのです。
3. イエスの権威
神は,科学的,非科学的という枠組みを超えています。この箇所に繰り返されているのは,イエス(のことば)の持つ権威です。私たちを神から引き離す力は確かにあります。すでに私たちはその力に取り込まれているかもしれません。しかし,イエスはそれらの力を一言で静まらせます。「黙れ。その人から出て行け。」ここにイエスの権威が凝縮されています。それは全てのものの上に立つ権威なのです。私たちもこの方によって,神へと向かうことができるのです。
[考えるために]
私たちは,イエスの権威,ことばに,全服の信頼を置いていきましょう。
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2006/3/5礼拝メッセージ
2006年3月5日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書4章21~30節より
「会堂での教え-2-」
1. 二つに分かれた人々
イエスを前にして私たちは問われます。この箇所でも,人々の反応が二つに分かれたことがわかります。あのヨセフの息子が,神の救いを語っている。ここで多くの人がつまづきました。目の前にいるイエスは,ただの人ではないか。この反応は,とても素直なものでしょう。しかし,ここでイエスはこのことを問題にしているわけではありません。問題にしているのは,神の言葉を聞いたときの私たちの反応です。
2. 内と外
ここでの問題は「内と外」という問題です。自分は,内にいるのか,それとも外にいるのか。イエスにとって,それが郷里であろうが,なかろうが,ご自身の力を発揮するのに支障はないでしょう。しかし,人々がもし,自分は既に神の内におり,悔い改めなど関係ないとするならば,真の悔い改めに至ることはないでしょう。つまり,自分たちは神の内の者であり,だから神は自分たちを救うべきだ,と人々は考えていたということです。その実例が旧約聖書にもありました。
3. 救いはどこから?
いったい誰が神にとっての内なのでしょうか。私たちは,何によって救われるのでしょうか。それは,ただ神の前にひざまづき,自分の罪を悔い改め,神に助けを求めることによってです。誰も真に神の郷里の者ではありません。しかし,神の赦しによって,私たちは家族となることができるのです。しかし,多くの人々は,そうではなく,イエスを私たちの外に追い出してしまいます。キリストにあって,私たちは神の子となり,神の家族とされるのです。このすばらしい知らせをぜひ受け取りましょう。
[考えるために]
異邦人,外の人とはどのような人のことでしょうか。神の民,内の人とはどのような人のことでしょうか。
投稿者 mb-church : 16:22 | コメント (0) | トラックバック
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2006/2/26礼拝メッセージ
2006年2月26日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書4章14~22節より
「会堂での教え」
1. 貧しい人のもとに
イエスはナザレの会堂で,イザヤ書を朗読しました。そこにイエスが来られた目的が記されていました。第一に,イエスは「貧しい人々に福音を伝える」ために来ました。ここでの貧しさとは,経済的な面だけをさしているのではありません。貧しさとは,神への飢え渇きのある人のことでしょう。貧しい人々,神なき人々,希望のない人々に,福音を伝えるために,キリストは来て下さったのです。
2. 捕らわれ人のもとに
第二に,キリストは「捕らわれ人には赦免を」与えるために来られました。私たちの存在が,何かに捕らわれています。神のみこころではなく,自分を正しいとするための律法に捕らわれている人。お金や欲に捕らわれている人。恐れや怒りに捕らわれている人。私たちは,この世に鎖をつながれた囚人です。自分ではどうすることもできないそれらの鎖を解き放ち,自由にするためにキリストは来て下さったのです。
3. 目の見えない人のもとに
第三に,「盲人には目の開かれることを告げるために」イエスは来られました。目が見えないことは,肉体的というよりも,私たちの状態をさしています。私たちが陥っている,神なき,望みのない状態。「罪」によって,私たちの目は曇っているのです。聖なる神の前に立ったとき,誰一人罪はないと言える人はいません。しかし,キリストは,その私たちのところに来て下さり,見えない目を開けるために来て下さったのです。
4. しいたげられている人のもとに
第四に,「しいたげられている人々を自由にするために」イエスは来られました。しいたげられるという言葉と,試練や苦しみは密接な関係があります。なぜ?と問わずにはいられないようなことが,世界には満ち溢れています。その試練,苦しみ,そして死を打ち破るために,キリストは来られました。そして,イエスは私たちを裁くことよりも先に,私たちに「主の恵みの年」を告げ知らせるために来られたのです。
[考えるために]
イエスは,なぜこの世界に来られたのでしょうか?
投稿者 mb-church : 09:36 | コメント (0) | トラックバック
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2006/2/12礼拝メッセージ
2006年2月12日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書3章21~22節より
「キリストのバプテスマ」
1. イエス,キリスト
イエスがキリストたる所以は何でしょうか?それは,もちろん神であること,です。そしてそれと同様に重要なのは,正真正銘の人である,ということでしょう。だからこそ,キリストの歩みは,私たちの歩むべき模範でもあるのです。
2. キリストのバプテスマ
イエスは,メシアとしての歩みをスタートさせるときに,ヨハネからバプテスマを受けることが,ふさわしいことであるとしたようです。それは,これからキリストのあゆまれる歩みが,十字架に向かい,人間の罪と死を乗り越える復活までの歩みであるという宣言でもあるでしょう。キリストご自身が,私たちの手本となって,バプテスマを受けてくださいました。そして,キリストは,バプテスマが示すとおりに歩んでくださったのです。
3. 私たちのバプテスマ
バプテスマとはまず,悔い改めのしるしです。さらにそれは,キリストのいのちが,私のいのちとなることを私たちに確信させるものです。そして,バプテスマを受けた後の私たちのいのちは,キリストに全てならっていくのだ,ということも示します。そこにまた,神の祝福と守りがあることを,キリストのバプテスマに私たちは見ることができます。
4. キリストの祈り
キリストは,バプテスマを受けたあと祈っておられました。そして,その祈りにともない,聖霊がそこにくだり,神の祝福が与えられました。これもまた,私たちがならうべきことです。私たちが祈るのは天の父であり,そして,その祈りは私たちのうちに働く「聖霊」に導かれます。私たちは,私たちの救い主であるキリストの祈りにあわせて祈りをささげることができるのです。キリストが受けられた神の祝福,その祝福を受け取る幸いな道へと,私たちも踏み出してまいりましょう。
[考えるために]
なぜキリストはバプテスマを受けられたのでしょうか。
投稿者 mb-church : 22:39 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2006年02月04日
2006/2/5礼拝メッセージ
2006年2月5日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書3章15~20節より
「聖霊と火とのバプテスマ」
1. 水のバプテスマ
ヨハネは「罪の悔い改め」のバプテスマを授けていました。バプテスマは,ユダヤ教の改宗の儀式であると言われています。しかし,ヨハネはキリストの授けるバプテスマが,これまでのものとは異なるということを示しました。
2. 聖霊のバプテスマ
キリストのバプテスマは「聖霊と火とのバプテスマ」であるとヨハネは言います。キリストはバプテスマに新たな意味を与えました。このバプテスマには二つの側面があります。第一に,バプテスマには聖霊がともなう,ということです。私たちがイエスを救い主として信じて歩みだすとき,聖霊が与えられます。これは私たちに与えられた約束です。その聖霊は私たちをキリストの証人として導く方です。それは,もはや私たちが古い基準や動機で歩まなくて良いことを示しています。自分自身で自らを義とせず,神のみこころを求め,神の計画に生き,悔い改めにふさわしい実をならせてくださる方こそ,聖霊です。これはバプテスマを通して与えられる最大の特権です。
3. 火のバプテスマ
バプテスマの第二の側面は「火」です。この火は,裁きの象徴です。私たちはキリストにおいて,明確に二つに分けられます。一方には,約束の聖霊がともない,もう一方は「火」です。赦しと裁きがそこにあります。「麦を倉に納める」とは,私たちが聖霊によって導かれていくということを示していますが,「殻を消えない火で焼き尽くされる」とは,裁きを示しているでしょう。神は,私たちに聖霊を与えようとしています。私たちは,いくら頑張っても自分を救うことはできません。あなたは,キリストが与えてくださる二つのうち,どれを受け取りたいのでしょうか?
[考えるために]
私たちに与えられた特権とは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 22:53 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2006年02月01日
2006/1/29礼拝メッセージ
2006年1月29日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書3章1~17節より。
「私たちはどうすればよいのか?」
1. 荒野の声
神の計画が歴史を通して動きはじめました。バプテスマのヨハネが,再び表舞台へと登場してきます。ヨハネが語った神のことばとはなんでしょうか。それは,罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説くこと,でした。
2. すべての人に
ルカの福音書での焦点は,「あらゆる人が,神の救いを見るようになる」という点です。ヨハネを通して明確にされているのは,「救い」のメッセージそのものです。神は,どのような人を救いに導こうとしているのでしょうか。神の救いを見るのは「すべての人」です。そこには分け隔てはないのです。
3. 問題
しかし,ここからが問題です。それではいったい誰がその救いを受け取ることができるのでしょうか。ヨハネは,ここで群集に語ります。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と。ヨハネは,必ず来る神の裁きを宣告します。誰一人神の前に正しいものはいません。これは,人間の価値基準では計ることのできない問題です。私たちは神の前の自分の姿を直視しなくてはなりません。
4. どうすればいいのでしょうか?
群集は「私たちはどうすればよいのでしょう」と聞きます。私たちにとって大事なことは,この姿です。私たちは,すぐに神への願いが先行してしまいます。しかし,まず神の前に,「いったいどうすればいいのでしょう?」とありのままで出なくてはなりません。そして,私たちはキリストを受け入れる準備をするのです。本当に私たちは,神の前に正しい歩みをしたい,そう心から願っているでしょうか。むなしい生き方から離れたいと思っているのでしょうか。それぞれの心を神の前に差し出しましょう。
[考えるために]
イエス・キリストを迎える準備とは,いったい何でしょう。
あなたの今,内にある願いは何でしょうか?
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2006/1/22礼拝メッセージ
2006年1月22日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書2章41~52節より。
「探す人は誰?」
1. 幼少のエピソード
この箇所は,おそらくマリヤが回想したキリストのエピソードの一つでしょう。イエスは,どちらかといえば貧しい家に属する家庭に育ち,ごくごく普通に育てられたようです。イエスは神であるにもかかわらず,目立つ存在としてではなく,影に隠れたような形で歩んでくださいました。このことも大きな私たちへのメッセージでもあるでしょう。
2. 事件
それは,イエスの両親が「過ぎこしの祭り」のために,エルサレムに上っていった際に起こりました。イエスが12歳のときです。帰路についた一行の中に,イエスがいなかったのです。両親は,このことに気がつくと,懸命に探しながらエルサレムまで引き返していきました。しかし,探し出したイエスは,なんと宮で教師たちの真ん中に座って,彼らと話しをしているではありませんか。当然,両親は驚き,イエスを戒めます。イエスは,神の子としての片鱗を見せていたのですが,そんなことは両親にとっては関係ありません。自分たちが,どれだけイエスを失って心配したか。そのことの方が,ここでは大事なことでした。
3. イエスのことば
しかし,イエスは両親をいさめます。「わたしが必ず自分の父の家にいることを,ご存知なかったのですか。」通常であれば,イエスの行為は許されないものです。しかし,マリヤもヨセフも,イエスの言葉に対して何ともいえない説得力を感じたようです。イエスは生まれたときから,神の子キリストでした。そして,この出来事を通して,イエスは成人する前に,両親に対してご自身が神の子であるとの予告をされました。そして何より,イエスは,ご自分を探し出すということの意味をここで示されました。私たちが懸命に探し出そうとしておられる方は,父の家で待っていてくださっているということ。あなたの探している方はどのような方なのでしょうか?
[考えるために]
キリストはどこであなたを待っておられるでしょうか?
投稿者 mb-church : 19:07 | コメント (0) | トラックバック
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2006/1/15礼拝メッセージ
2006年1月15日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書2章21~40節より。
「正しい人々」
1. シメオンとアンナ
バプテスマのヨハネがそうであったように,キリストもユダヤの慣習に従って育てられました。そして,このキリストの出発点に,シメオンとアンナという二人の老人が登場します。彼らは,キリストを待ち望んで生きてきた「正しい」人々でした。羊飼いに続いて,ここで用いられているのは,名もなき年老いた人々でした。
2. 「正しさ」
この名もなき人々がここに取り上げられているのは,その「正しさ」ゆえです。しかし,正しさと言っても,パリサイ人や律法学者たちとは異なる正しさです。それは,神のことばをどのように理解しているか,ということにかかっていました。彼らは,旧約聖書をまっすぐに受け止め,そして神を待ち望んできた人々の代表者です。彼らのこの姿,信仰は,旧約聖書をまっすぐに受け取るときに,実は,神のみこころ,神の救い,そしてキリストの意味をはっきりと受け取れることを物語っています。
3. 誰に与えられた救いか
シメオンが語っているように,この救いは,すべての民のためのものでした。イスラエルだけではなく,異邦人にまで及ぶ光です。しかし,当時の人々はこのようには考えていませんでした。その正しさは,名目上の血筋によるものであり,また,律法を自分たちの方法で守ることに固執してきた人々の正しさです。神を敬っているようでそうではない姿がここにあります。分たちで自分のことを救おうとする人々。また,自分たちで他の人々をすぐに裁いてしまう私たち。そして,そのことがキリストを前にしたときに問われます。私たちは,キリストの前に立ったときに,神の前の自分を映し出されるのです。私たちを救うのは,すべての人を照らすまことの光,キリストなのです。
[考えるために]
シメオンとアンナが示す正しさとは,どのようなものでしょうか。キリストの救いは誰のためのものでしょうか。
投稿者 mb-church : 09:02
メインページへ2006年01月08日
2006/1/8礼拝メッセージ
2006年1月8日の礼拝メッセージです。
ルカの福音書2章8~20節より。
「最初の祝福」
1. あの夜の知らせ
私たちは,まだあの夜にとどまっています。キリストが生まれたあの夜。すばらしい知らせは,誰に最初に知らされたのでしょうか。喜びの知らせは,キリストが来られたところに最も近い人々に伝えられました。それは羊飼いです。ここで,飼い葉桶の印の意味がもう一度確認されます。飼い葉桶は私たちへの印です。しかし,この印は第一に彼らのものでした。誰のためでもない,ただ彼らのためだけにこのことを用意なさる神。そして,彼らのために,天の軍勢までもが備えられます。ここに私たちの基準では計ることのできない,神の配慮を見ることができるのです。
2. 神の選び
神の意思は自由です。神は私たちの思いや基準に従うお方ではありません。何を選択するのか,何をお決めになるのかは,神の自由です。そして,神はこの羊飼いたちをお選びになりました。彼らの言うことなど,いったい誰が信じることでしょう。しかし,彼らは喜び勇んで,そのみどりごに会いに急ぎます。神はこのようなお方です。 決して神は難しくはありません。まず私たちは神の前にへりくだり,自分の貧しさ,自分のおろかさを認めるときに,神は私たちを御子キリストの前に導いてくださるのです。
3. 神の前にへりくだるということ
私たちは神の前で高慢になりすぎているのではないでしょうか。このみどりごを前にして,私たちが問われるのはこの点です。私たちの生の一分一秒でさえ,神の赦しなくては生きることはできません。このことを私たちは謙虚に受けとめ,この羊飼いたちのように,急いでキリストに会いに行き,その前にひざをかがめましょう。確かにキリストはこの私の所に来てくださったのですから。
[考えるために]
あなたの基準と神の基準とは異なるのでしょうか。
あなたは神の前にへりくだる者でしょうか。
投稿者 mb-church : 00:58
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2006/1/1礼拝メッセージ
2006年1月1日の礼拝メッセージです。
ゼカリヤ書4章6節より。
「あなたの霊によって」
1. 私たちの立ち位置
文語では「いきおいによらず,ちからによらず,わが霊によるなり」と訳されています。この箇所は,「神殿再建」の時代に,預言者に語られた神のことばです。「いきおいによらず,ちからによらず」とありますが,それらを用いてはならないと言っているわけではありません。実際に,神殿再建には,多くの力が必要とされ用いられました。それらは適切に使われるべきです。しかし,神は,いつでも私たちの第一の場所,立つべき位置を指し示します。私たちは,「この私の力,私の手の力こそが,これらのことを成し遂げたのだ」と思う傾向があります。もしくは,その逆に劣等感や自己憐憫の思いに支配されることも多いでしょう。しかし,神は私たちに多くの物を与えています。それは,私たちが神を覚え,神をほめたたえるためなのです。
2. 教会の時代に生かされる私たち
私たちが築きあげているものは何でしょうか。今,私たちは教会の時代に生かされています。キリストの体なる教会を建てあげるためにそれぞれは召されています。存分にそれぞれの賜物や能力を用いるべきでしょう。しかし,そのときに,私たちはこう告白するべきです。それはすべて「あなたの霊」によるものだ,と。
3. 「あなたの霊によって」
第一に,「あなたの霊によって」と告白するときに,私たちは,何よりもまず,あなたがこの私を救ってくださった,ということを覚えることでしょう。誰の力でもなく,ましてや自分の力や努力ではなく,神の霊によって,私は救われたということ。次に,私たちは,そこに自分自身の願い以上の願いを見出すことになるでしょう。それは,私たちの思いをはるかに越える,神の愛を見出すことになります。さらにその告白によって,私たちは神の民としてのアイデンティティを確認します。十字架のキリストに従って行くときに,私たちをあらゆるものから解き放つ真の自由を得る立ち位置があるのです。
[考えるために]
私たちはどこに立つべきなのでしょうか。
私たちはいかなる時代に生かされているのでしょうか。
投稿者 mb-church : 07:43 | コメント (0) | トラックバック
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2005/12/25礼拝メッセージ
2005年12月25日の礼拝メッセージです。
今日はクリスマス礼拝でした。
多くの方々とともに礼拝をささげることができ,心から神様に感謝しています。
ルカの福音書2章1節から7節。
「人となった神」
1. イエスの誕生
マリヤは年の頃からいって10代。ヨセフも年若く社会的な立場はなかったことでしょう。そして,マリヤは妊娠します。そこに人口調査という命令がくだりました。身重な幼い妻をつれて,ナザレからベツレヘムへの旅を強いられます。臨月の妊婦を抱えて旅をするには過酷すぎる旅と言えるでしょう。そして,ようやくの思いでたどり着いたベツレヘムで待ち受けていたのは,「宿屋には彼らのいる場所がなかった」という現実でした。さらに,救い主が生まれたのは「飼い葉おけ」だったのです。
2. 救い主は,どこにやって来たのか?
「宿屋には彼らのいる場所がなかった。」 これが,私たちを救うと預言された方の置かれた状況です。イエスが生まれたのは,あの葬られた墓と同じような場所でした。薄暗く,何もない,冷たい岩や土の上。人を救うと約束された方は,まったく人の目につかない,誰も気がつきはしない,そんな場所にお生まれになりました。このイエスが,この赤子が,なぜ,私たちの救い主になりえるでしょうか。
3. 我らを救う方
何の権威もなく,富もなく,確かなものなどない状態で生まれたイエス。だからこそ,私たちは確信することができます。この方だからこそ,私たちの罪をあがない,この暗い世界の光となることができる!私たちの本当の現実は,神から離れ,暗く,決して誰にもみせることのできないものでしょう。しかし,私たちを救う方は,まさにその真っ只中に来られたのです。ですから,キリストは誰も目もとめない,隠された場所,冷たく,そして卑しく,蔑まれた飼い葉おけに生まれてくださったのです。イエスが来られたのは,私たちを神から引き離す罪を打ち滅ぼすために来られました。イエスが生まれた飼葉おけこそ,私たちのすぐそばに来られたことの最大の証なのです。
[考えるために]
イエス・キリストはどこに来られたのでしょうか?
私のために来られたイエス・キリストに,もう一度心から感謝しましょう。
投稿者 mb-church : 15:11 | コメント (0) | トラックバック
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2005/12/18礼拝メッセージ
2005年12月18日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「時が満ちて」
ルカの福音書1:57~80より
1. 救い主の到来
とうとう,バプテスマのヨハネは誕生しました。「月が満ちて」と書かれています。まさにすべての時が満ちる瞬間が訪れようとしていました。これはすばらしい幕開けの言葉です。まずみ使いの予告どおりに,キリストを指し示すヨハネの誕生をついに迎えます。
2. ヨハネの指し示したこと
キリスト以上に注目を浴びてヨハネは誕生しました。その父,ザカリヤはヨハネの誕生の際に,こう預言しました。これから生まれる方は,「救い主」であると。それでは,その方は何から私たちを救ってくださるのでしょうか。私たちの敵,憎むべきものとはいったい何を意味しているのでしょうか。
3. 真の敵
皆さんにとって敵とはいったいなんでしょうか?人でしょうか?社会でしょうか?私たちは,単純に自分をよい方に位置づけ,自分に相対する人やものを,敵に仕立て上げます。しかし,私たちの真の敵とは,人間が持ってしまった「暗黒と死」にほかなりません。私たちの誰にでもある暗黒,闇,暗い部分。そして,すべての人には,死が待ち構えています。私たちが打ち滅ぼすべき真の敵は,死であり,その死を招く,私たちのうちにある罪です。
4. 救いとは
私たちは,その敵を自分の力で打ち破ることができるのでしょうか。私たちは自分の力では,この敵を打ち滅ぼすことはできません。それには,神のあわれみが必要なのです。そして,そのあわれみの光こそ,ヨハネが指し示すお方,イエス・キリストなのです。神のあわれみ,ひかり,そして救いこそ,このイエスによって私たちに与えられるものなのです。
[考えるために]
私たちの真の敵とは何でしょうか?私たちはその敵にどのようにしたら打ち勝つことができるのでしょうか?
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2005/12/11礼拝メッセージ
2005年12月11日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「マリヤの賛美」
ルカの福音書1:39~56より
1. マリヤの賛美
「マリヤは言った」とあります。実際に,マリヤがすぐにこの賛美を歌ったのかはわかりません。この滞在期間中にこの賛美を歌った,とも考えられます。マリヤは,この驚くべきみ告げをどのように受け止めていったのでしょうか。神を信じている。それでもなお,私たちは不安を感じ,思い悩むことがあります。この賛美を通して,マリヤがいかに神をほめたたえるに至ったかを知ることができるでしょう。
2. このはしために
マリヤは,何よりもまず,自分が「卑しいはしため」であると告白しています。このような小さな者に,大いなる神のご計画が及んでいるということ。彼女が頼りにできるのは「神」のみでした。そのことを,マリヤは旧約聖書のことばや信仰者の姿からよく教えられ,理解していったようです。マリヤが,ここで確信したのは,小さな自分に臨む,大いなる神のことば,神のご計画でした。
3. 友の存在
そして,さらにエリサベツの存在がありました。頼りになる信仰の友の存在は,私たちの信仰生活にかかすことができません。私たちがいかなる時にも信頼しうるのは聖書のことばです。そして,さらに励まし支えるために与えられている信仰の友が,私たちには備えられているのです。
4. みこころへの理解
マリヤはひとつの確信を得ます。それは,心の高ぶるものを神は退け,低いものを高く引き上げるのだということです。マリヤは自分の身になぜこのようなことが起きたのかをよく考え,祈ったことでしょう。そして確信したのは,自分のような弱い者を通して,神の力強い救いが現されていくということでした。神の救いは,自らを高くするもの,自らを正しいとするもののところにではなく,自らを低く,そして,神の前にへりくだる者のところにこられるのです。
[考えるために]
私たちは神の前でいかなる者でしょうか?
私たちに与えられている約束,助けは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 22:12 | コメント (0) | トラックバック
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2005/12/4礼拝メッセージ
2005年12月4日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「驚くべき祝福」
ルカの福音書1:26~38より
1. コントラスト
いよいよキリストの誕生へと話は進みます。ルカはコントラストの効いた聖書記者です。そのコントラストは,人と人の対比ではありません。神と人とのコントラストといったほうが適切です。神の考えと人の考えの違い。それこそが,私たちがまず知らなくてはならないことです。ここでも私たちの考えと神の考えの違いを見ることができます。
2. 乙女マリヤへのお告げ
乙女マリヤへの驚くべき知らせは,バプテスマのヨハネの予告以上のものでした。年端のいかない片田舎の少女。そしてダビデの家系であったヨセフの婚約者。そこに御使いが来て,あなたの胎に救い主が宿ると告げられます。これを信じるのは難しいことです。このような微かな印。それがキリストの誕生の始まりです。神の計画は,決して人の価値観や,人の決定に従うものではないのです。
3. 大きな困難の予感と祝福
取るに足りない一人の少女に神は目を留めました。これから持ち受けている困難は目に見えています。しかし,御使いは祝福のことばをマリヤに告げます。なぜこのことが祝福となるのでしょうか。ここで,神はマリヤに「あなたがこの子をキリストに育て上げなさい」などとは言いませんでした。神は,最初から生まれるこどもはキリストであり,神ご自身が,その子に王位を与えると語られています。さらには,聖霊があなたに臨むのだという約束,そしてエリサベツのことを告げます。これから起こるであろう困難さや重圧はあったかもしれません。しかし,それ以上に,神のことばの確かさが,マリヤに迫ってきたのです。ここでも,神が,聖霊が,そしてキリストが,人に先立って働かれる姿を,私たちは見出すことができるのです。
[考えるために]
私たちもマリヤと同じ信仰の告白してまいりましょう。
「ほんとうに,私は主のはしためです。どうぞ,あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
投稿者 mb-church : 00:24
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2005/11/27礼拝メッセージ
2005年11月27日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「アドヴェント」
ルカの福音書1:5~25より
1. その時は・・・
時は,ユダヤの王ヘロデの時代。これが本文のスタートです。ルカがこれから試みようとしていることは,旧約聖書の預言を成就した方,キリストの正確な事実を順序だてて記すことです。その最初の記事は,「バプテスマのヨハネ」の誕生でした。
2. キリストを指し示す印
ルカはキリストを指し示す確かな印として,旧約聖書の預言である「荒野で叫ぶ声」であったバプテスマのヨハネに注目します。さらにルカは,このことが確かな歴史上の出来事であったことを,その出生から辿っていくのです。そしてそこに,小さな名もなき人々に臨んだ大きな神の御手を見ることになるのです。
3. ザカリヤとエリサベツ
ザカリヤとエリサベツ,この老夫婦の子供が,バプテスマのヨハネでした。この二人は,神の御前に正しく,すべての戒めと定めを批判されることなく行っていました。しかし,彼らには子供が与えられませんでした。神の前では恥を受けるところのない二人が,人々の前では恥を受けていたのです。しかし,いかなる現実があろうとも,彼らは神の前に忠実に歩んできた夫婦でした。その夫婦に神はヨハネをお与えになります。かならず神のことばは,時が来れば実現することを人々に深く刻みこんだのです。
4. この出来事から
ここから,私たちは,まず第一に「神の時がある」ということを覚えることができます。この時,この人に,この場所で。人間には時ではないように見える時であっても,神にとっては時だったのです。そして第二に「時を実現する人々は,神の前に正しい人々である」ということです。人の前ではなく,神の前に忠実な人々を,神は覚えてくださり,そして神は用いてくださるのです。
[祈り]
神の時を忠実に待つ者とならせてください。
投稿者 mb-church : 18:15 | コメント (0) | トラックバック
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2005/11/20礼拝メッセージ
2005年11月20日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「すでに教えられたこと」
ルカの福音書1:1~4より
1. ルカの福音書
ルカはパウロの宣教に同行していたと考えられています。使徒の働きもまたルカが記したものです。教会はすでにスタートしていました。そのような中で,彼はこの福音書,そして使徒の働きを書こうと決意したのです。
2. すでに確信されていること
すでに確信されている,成就したこととは,もちろんキリストご自身のことでしょう。旧約聖書で預言され,救いを達成したイエス・キリスト。そのキリストについて,すでに多くの人がそれを記事にし,伝えていたことが分かります。しかし,あえてルカはもう一度,それらのものを整理し,そして順序だてて書き記す必要を感じていました。キリストはただの伝説ではない。そうではなく,実際にこの歴史のただ中に存在し,私たちと同様に生き,そして十字架にかかり死なれた。そして復活された。彼は歴史を強く意識しています。
3. テオピロへ
歴史に生きたキリストを,何とか多くの人々に伝えたい・・・。それでは,ルカは誰にあててこの福音書を書いたのでしょうか。テオピロが実在した人物かどうかは多くの議論がなされてきました。テオピロという語が,「神の友」「神を愛する人」という意味であることから,クリスチャンを指しているという説もあるようです。いずれにせよ,この福音書はキリストを知っている,信じている人々に対して,もう一度,キリストを伝えようとしています。なぜその必要があったのでしょうか?
4. 知っていただきたいこと
すでに教えを受け,信仰の歩みをしていた人々に対して,キリストが事実であり,それが真実であることを知って欲しいとルカは願っています。ルカはもう一度,私たちの信仰の土台は何であるかを伝えようとしているのです。私たちの信仰は,キリストの事実,キリストの真実の上に建てられるのです。どれだけ,私たちは,キリストご自身のことを知っているのでしょうか?
[祈り]
「私に,イエス・キリストをよくわからせてください。あなたの真実を私に教えてください。」
投稿者 mb-church : 08:24 | コメント (0) | トラックバック
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2005/11/13礼拝メッセージ
2005年11月13日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「生きることはキリスト」
ピリピ人への手紙1:20~26より
1. 人生の障害
私たちの人生には,うまくいかないことがおきてきます。それを私たちはどのように受けとめているでしょうか?私たちは,この肉体の死が訪れるその時まで,その困難と向き合っていかなくてはなりません。なぜ困難があるのでしょうか?
2. クリスチャンの確信
神を信じていても困難な状況は変わりありません。しかし,クリスチャンはこのような確信をもつことができます。「私にとっては,生きることはキリスト,死ぬことも益です。」パウロの状況はいかなるものであったのでしょうか。恐らく「砂をかむような思い」を持っていたことでしょう。しかし,パウロはそれでもなお,神が働かれているということ,福音が宣べ伝えられていること,そこに目をとめることができたのです。
3. なぜこのようなことが?
なぜこのように信じることができたのでしょうか。その鍵は「キリスト」にあります。1章でパウロは何度も「キリスト」という言葉を用いています。困難や苦難は「キリスト」を通してでなければ理解することはできません。キリストは,私たちのすべての罪,咎,罰を受けてくださいました。私たちの全ての弱さ,欠け,そして困難をも受けてくださったのです。私たちの前には依然として困難や罪,弱さがあります。しかし,それはもはや敗北ではありません。キリストの十字架以降,悲しみは喜びに,死は永遠のいのちへと続く扉となったのです。
4. どんな場合にも
パウロの状況は,ただ投獄されて身動きがとれないというものではありませんでした。そこには死の危険も当然ありました。しかし,彼は知っていたのです。キリストを信じる者が,困難や苦しみにあうとき,そして死に面したとき,そこに希望といのちを与えられるキリストがはっきりと示されることを。私たちが苦しみを通されるのは,このキリストと出会うため,このキリストが示されるためなのです。キリストの十字架,キリストのいのちを信じるときに,すべてが変えられていくのです。
[考えるために]
どんな時でも希望を失うことのない生涯の鍵は何でしょうか?
投稿者 mb-church : 17:28
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2005/11/6礼拝メッセージ
2005年11月6日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「喜びの秘訣」
ピリピ人への手紙1:12~21より
1. 「喜びの手紙」
パウロが,唯一経済的支援を受けていた教会が,このピリピ教会と言われています。この手紙には「喜び」という言葉が数多く出てきます。今日のテーマは「喜び続ける秘訣」。この秘訣が分かれば,どんなに素晴らしいことでしょうか。聖書には喜ぶことのできた人が登場します。喜びを持ち続けることのできた人の一人はこのパウロでした。
2. パウロの今
パウロは「私は今喜んでいる」と語っています。パウロの今は牢屋の中でした。そして,その状況の中,周囲の反応は二つでした。一方の人々は、ねたみや争いが心を支配していました。また一方は善意、愛を動機・モチベーションとしてキリストを宣べ伝える人々がいたと言っています。パウロはこのような人々がいることを牢獄の中で耳にしました。これを聞いたパウロの心中はおだやかなものではなかったことでしょう。
3. パウロの目線
しかし、パウロの目は別のものを見ていました。それはこのような状況の中でも,イエス・キリストが宣べ伝えられているという現実でした。たとえ自分は身動きが取れなくても,牢獄の中にいようとも,身内のなかに敵対する者がいたとしても,イエス・キリストが宣べ伝えられているという現実。この現実こそパウロの「今」の喜びにつながっているのです。
4. 二つのこと
喜びを持ち続けているパウロから2つのことを確認しましょう。まず一つは,「主のみ手にゆだねる」ということ。「わたし」の手にゆだねるのではなく,主の手にゆだねるときに,いかなる現状を前にしても喜びは失われることはありません。そしてもう一点。それは何を喜びとしているか,ということ。パウロにとっては,「キリストが述べ伝えられる」ということが第一でした。自らを喜ばせることが第一であるときに,容易に私たちの喜びは失われることでしょう。私たちもパウロの姿から,喜び続けることのできる生涯へと歩ませていただきましょう。
[考えるために]
喜びを持ち続ける生涯を歩んでいるでしょうか?
投稿者 mb-church : 17:58
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2005/10/30礼拝メッセージ
2005年10月30日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「神による働き」
ピリピ人への手紙1:1~11より
1. 最初の日
皆さんの始めの日を思い返してください。それぞれにキリストのとの出会いは違うでしょう。それは,私たちにとって,聖書や教会に関わり始めた時や人との出会いと言うことができるでしょうし,この手紙では,パウロがピリピの教会に福音を伝えた時,とも言えるでしょう。つまり,歴史上,いわば無数の出発点があったと言えます。
2. コイノニア
「福音を広めること」にはコイノニアという語が用いられています。福音を広めるとは,ただ伝えるというだけではなく,私たちの間で,その福音が分かち合われているということです。福音が広められていくことは,福音にある交わりへと人々を招くことなのです。
3. 誰が始めた働きなのか
この働きは「よい働き」であると書かれています。では,この働きをはじめたのは誰なのでしょうか。パウロでしょうか,使徒たちでしょうか。パウロは,この働きを始めたのは,彼自身ではなく神であると語っています。パウロとピリピの人々との出会いは使徒の働き16章に詳しく記されています。彼がピリピに行くことになったのは神による導きでした。またピリピでの人々との出会い,またそこで経験した奇跡も神の業でした。そして,今,またパウロはこの手紙をローマの獄中で書き記しています。パウロは,身動きのとれない状況であっても,そこに神の導きを見出していましたし,また働きが,神によって完成に向かっているということを確信していたのです。
4. 私たちの基準
パウロは祈っています。ピリピの人々が,信仰において自立し,そしてキリストの義の実に満たされ,神の栄光が現されることを。私たちの基準はどこにあるのでしょうか。パウロは最初から完成の時まで,そこに神を見ています。だからこそ,パウロの基準も,自分や人にではなく,神にのみあります。私たちも同様に,最初から終わりまで確かに導かれる方,ともに歩まれる神を覚えて歩みを進めていきましょう。
[考えるために]
ことを始められるのは誰でしょうか?また完成させてくださる方は誰でしょうか?
投稿者 mb-church : 07:59 | コメント (0) | トラックバック
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2005/10/23礼拝メッセージ
2005年10月23日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「何を祈るのか?」
ネヘミヤ記1:4~11より
1. ネヘミヤの祈り
a)神へ
b)罪の告白
c)神のみことば/約束
b’)信仰告白
a’)神へ。
2. 誰に祈るのか?
私たちは大いなる神に祈ります。ネヘミヤが言うように,天の神,大いなる恐るべき神,そのお方に祈ります。現在もこの神の姿はかわりません。その一方で,神は主を愛し,主の命令,主のことばを守るものに対しては,契約を守り,いつくしみを賜る方です。神はただ一方的なお方ではないのです。
3. 何を祈るのか?
ネヘミヤが祈ったのは罪の告白でした。それは特に異教との混合,まことの神を神としないこと,それら不信の罪でした。その中に,ネヘミヤは自分自身をも置いています。現状に対して徹底的に嘆いたネヘミヤは,そこからさらに徹底した罪認識へと進みます。彼は,この状況の原因を,自分たちにあると告白しています。そして,徹底的な神の聖さを意識すると同時に,彼は神の誠実さ,真実さに希望を置いています。この祈りの核にあるのは神のみことば,神の約束です。ネヘミヤは希望の根拠を神のことばに置いているのです。
4. 私たちは誰なのか?
神の約束に私たちが土台をすえるとき,それは同時に,私たちが神を中心とすることへの決断が求められます。神が約束を通して私たちに求めておられるのは,神への信頼であり,神への服従だからです。そのとき,ネヘミヤはこの祈りを通してもう一度知らされます。自分は神の民であるということを。神のみことばを信じ,神の名を喜んで敬い,神に従うしもべであることを。私たちが神ご自身を喜び,神の所有であるという認識に立つならば,神は決してその約束を破らず,愛する民を捨ててはおきません。この祈りからネヘミヤは出発したのです。
[考えるために]
私たちはどのような方に向かって祈るのでしょうか?
私たちは誰なのでしょうか?
投稿者 mb-church : 23:33 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2005年10月15日
2005/10/16礼拝メッセージ
2005年10月16日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「ことのはじまり」
ネヘミヤ記1:1~6より
1. ネヘミヤ記
ネヘミヤ記は,旧約聖書の終わりの時代,キリストの前に位置する書物です。またエズラ記とネヘミヤ記は1巻の書物であり,3つのエルサレムへの帰還が描かれています。ネヘミヤ記は3つ目の帰還にあたります。神殿再建,共同体の律法による再建,城壁再建が語られています。
2. 出発点
それぞれの帰還の出発点はどのようなものでしょうか。エズラ記の冒頭には,まず神がペルシャ王を動かされたということが記されています。神は,全ての者の主であり,想像をはるかに越えて働かれるということを見ることができます。一方で,ネヘミヤ記の冒頭は,「嘆き」と「祈り」であることに注目したいと思います。彼は,エズラの時代に帰還した民の現状を聞きました。そこで彼が耳にしたのは,大きな困難とそしりを受けている民の現状でした。
3. 3つの問い
ここから,3つの問いかけを受け取りたいと思います。①私たちの現状はどうか?②現状をどう受けとめているか?③何を祈るのか? 今日は2つのことを確認します。それは私たちを取り囲む現状とそれに対する認識です。まず。私たちの現状はどうでしょうか?家庭は?夫婦は?親子は?職場は?学校は?社会は?よい状態にあるのでしょうか?ネヘミヤは,民の現状を知ります。「城壁は崩され,その門は火で焼き払われたまま。」私たちの現状もまた,この状況と同じではないでしょうか。
4. 嘆き
この状況を見て,ネヘミヤは嘆き悲しみました。そして,それが死を意味していることを知っています。私たちは,自分たちの現実を直視したときに,どのように受けとめているのでしょうか。ネヘミヤの姿から私たちは,徹底した現状認識の上に立つ嘆きを知ります。彼は,遠くにいた民の現状が,自分とは無関係だとは思っていません。この嘆きの上に,神の国は立てあげられていくのです。
[考えるために]
私たちの現実はどのような状態でしょうか。その現実をどのように受けとめているでしょうか。
投稿者 mb-church : 22:22
メインページへ2005年10月08日
2005/10/9礼拝メッセージ
2005年10月9日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「最後のあいさつ」
ペテロの手紙第一5:12~14より
1. シルワノ
いよいよ私たちはこの手紙を閉じようとしています。ここに,シルワノという名前が記されています。別の箇所ではシラスと呼ばれている人ですが,ペテロに協力しともに心をあわせて,当時の教会のためにこの書簡を書き綴りました。ここに二人の熱い祈りが込められているのです。
2. 神の真の恵み
この手紙の総まとめが短いことばで記されています。それは,神の真の恵みについてであり,そして,この恵みにしっかりと立つという勧めと励ましでした。神は,私たちに多くのことを与えてくださっています。目に映るすべてのものが神様からの贈り物です。しかし,私たちはそのことに気がつかず,すべてが自分のもの,いや自分のものにしたいと考えてしまいます。目に映るものは,やがて失われてしまうものでもあります。神は,私たちにさらなる恵みを与えてくださいました。それは朽ちることのないキリストによる新しいいのち,そして生ける望みです。
3. 恵みに立つ歩み
この真の恵みをペテロは人々にもう一度思い起こして欲しかったのです。目の前には苦しみがあり,死という問題がある。しかし,この真の神の恵みに目をとめるときに,苦しみも死をも正面から受けとめ,前進することができるのです。恵みの中にしっかりと立つということ。これこそ,この世界を生き抜く,最大の秘訣なのです。
4. キリストの平和を祈る者として
当時,離れていてもキリスト者は互いに祈りあっていました。ただ苦難がなくなるようにではなく,神にある真の恵みに立つことができるようにと祈っていたことでしょう。互いへのあいさつが最後に勧められています。私たちはキリストの恵みに生きるものとして,互いの存在を感謝し,励まし,支援することを喜びとして歩んでいきましょう。
[考えるために]
互いの歩みの上に,キリストの平和を祈りましょう。与えられている神の恵みに感謝しましょう。
投稿者 mb-church : 22:40
メインページへ2005年10月01日
2005/10/2礼拝メッセージ
2005年10月2日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「謙遜」
ペテロの手紙第一5:6~11より
1. 謙遜
ペテロは最後に重要な一つの勧めをしています。それは「謙遜」です。なぜなら,謙遜さこそ,私たちを苦難から救い出す鍵となるものだからです。日本語の辞書で謙遜は「控えめな態度で振舞うこと,へりくだること」と説明されています。聖書の謙遜とは,このような意味で用いられているのでしょうか。
2. 苦難を前にして
ここで語られている「謙遜」は,苦難を前にしたときに私たちに問われるものです。苦難や心配事を前にした時,私たちはどのように振舞っているでしょうか。楽天的にとらえているでしょうか。それとも不安で心を満たしているでしょうか。ここで大事なことは,どちらの態度でいることがよいかということではありません。いずれにせよ,神がすべてに関与し,支配し,導くということを認識しているか,ということが重要です。だからこそ,私たちは神に祈り,心から神の前にゆだねるのです。謙遜とは,神の存在を認め,その神の前に平伏し,ゆだねることであり,身をもって信仰を告白することなのです。
3. 警告と約束
ペテロは続けて私たちに警告しています。現実を目の前にするときに,確かに私たちを神から引き離そうとするものがあります。その現実の中で,私たちが神の側に堅くたつとき,私たちを待つのは神の栄光です。愛する人との別れ,他人から受けてしまう傷,病,あらゆる苦しみ,痛み。それはすべての人が通ってきた道です。しかし,ここにこそ約束があります。私たちは必ずキリストの栄光へと導かれるという約束です。私たちは一時の苦難の後に,計り知れない神の栄光へと導かれるのです。
[考えるために]
あなたは苦難を前にした時に,神の前の謙遜さを失わずにいるでしょうか。
心から神の前にへりくだりましょう。
投稿者 mb-church : 17:42 | コメント (1)
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2005/9/25礼拝メッセージ
2005年9月25日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「幸いな人」
詩篇1篇より
1. 詩篇を詠む
詩篇は「詩」です。韻を踏み,対句や反復,比喩などの詩の技法を随所に見ることができます。詩篇1篇もとても美しい詩の形式をとっています。日本語で読む時にも,詩篇が詩であることを意識し,深く味わいましょう。
2. 幸いな人
この詩篇は,最初の3節,次の2節,最後の1節という3つのパートに分けることができます。最初の3節では「幸いな人」について歌われています。幸いな人とは,悪者,罪人,あざける者ではありません。本当に幸いな人とは,「主のおしえを喜びとし、そのおしえを口ずさむ」人のことであると歌い手は言います。その人はまるで水路のそばに植わった木のようだ,と歌われています。
3. 悪者の姿
それと対極的に描かれるのが悪者の姿です。それはまるで「もみがら」です。神のことばを持たず,神の思いを知らず生きる姿。それはおろかな人間の姿そのものです。私たちは神の被造物であり,神が私たちを覚えてくださらなければ,私たちの歩みなど「もみがら」にすぎないということを私たちは心に覚えるべきです。
4. 幸いな歩みへ
歌い手は,この詩を実感を込めて詠んだことでしょう。彼自身が,これまでの歩みを振り返った時,そこに神の恵みが満ち溢れていたことを実感したことでしょう。単なるラッキーでもなく,またアンラッキーでもない。そうではなく,自分の生涯に神を認め,語りかけてくださる神に耳を傾ける姿がこの詩篇にはあります。もみがらのような者であった自分が,神のみことばにより,水路に植わった木のようになる。神は,信じる者の道を知っていてくださり,私たちを幸いな歩みへと導きいれてくださるのです。
[考えるために]
あなたの歩みは水路のそばの木のようでしょうか。それとももみがらのようでしょうか?
投稿者 mb-church : 08:08 | コメント (3)
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2005/9/18礼拝メッセージ
2005年9月18日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「ひとりひとりへ」
ペテロの手紙第一5:1~5より
1. 長老とはいったい誰か?
長老とは,年齢的なことでしょうか。それとも群れのリーダーということでしょうか。ここでは,そのどちらも当てはまるのではないでしょうか。この手紙では,その中でも特にキリストの苦難の生き証人たちを指していることでしょう。それはまた先に福音を知ったものたちのことでもあります。
2. 長老たちへの勧め
長老たちにペテロは「神の羊を飼いなさい」と勧めています。それは,強制されたものでもなく,ましてや名誉のためでもありません。それは,キリストの心,神の熱意によって動かされて,なされる自発的なものです。相手を支配するのではなく,群れの模範になることが勧められています。そして模範の中の模範こそ,苦難を通られたキリストご自身の姿なのです。模範となるということは,そこにキリストにある真実さを映し出すことであり,言葉だけのものではありません。
3. 若い人たちへ
同様に若い人々への勧告も記されています。長老以外の人々に対して,ペテロは長老たちに従うようにと勧めています。その勧告の中心にあるのは「神にある謙遜さ」です。そしてこの謙遜さもまた,キリストの姿に見られるものなのです(ピリピ2:6~8)。十字架の死にまでも従ったキリストの低さを覚えるときに,私たちは表面的な偉さや権威を求めるのではなく,相手に仕えることが最も大切なことであることを思い返すことができます。今一度,私たちはキリストの証人として,キリストの姿をしっかりと焼き付けさせていただきましょう。
[考えるために]
私たちの目には,はっきりと十字架上のキリストの姿が映っているでしょうか。
投稿者 mb-church : 18:02 | コメント (0) | トラックバック
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2005/9/11礼拝メッセージ
2005年9月11日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「キリスト者の苦しみ」
ペテロの手紙第一4:12~19より
1. 火のような試練
この手紙のテーマは「苦難」。キリストを信じてもなお苦しみを受け,なぜ?と問わずにはいられない出来事がおきます。それは,まるで火のような試練。このような苦難は,まさに私たちの信仰に対する「試み」であると述べられています。なぜならば,私たちの真実は「すべてが自分の思い通りになる時,私たちは再び神を見失う」という現実だからです。
2. 喜びなさい
さらに,ここには「喜んでいなさい」と記されています。この言葉は,試練を積極的にとらえている表れです。しかし,これは「苦難そのものを」喜ぶというよりも,神が苦難を通して,私たちに関わってくださるといういことへの積極的な姿です。悪いことをするならば,その報いは必ず来ます。最後には,神が公正にすべてを裁かれます。私たちは悪いことへと向かうために創造されたのではなく,神に向かって生きるようにと創造されたのです。
3. キリストの苦しみへの連帯
苦しみを受けるそのときに,私たちはキリストの苦難へと思いが向けられます。私たちはキリストを通して苦しみの意味を知ります。その苦しみは,人の罪ゆえであるということ。そして,またキリストもその苦しみをともに担ってくださったということ。さらに私たちもまた,キリストの苦しみをともにしているのだということです。キリスト者の幸いの一つは,苦難を生涯の中でしっかりと受け止めることができることです。
4. 苦しみとともに
18節は箴言11:31の引用です。この引用から理解できることは,神に従うものたちは,苦しみとともに救われるのだということです。神は苦難の中にいる私たちを力強い御手をもって,必ず救い出してくださいます。この苦しみは永遠ではありません。一人一人の苦しみを神は覚えており,やがては神の栄光と誉れへとかえられます。今,私たちが苦しむときに,そこに苦難をともにしてくださるイエス・キリストがおられる幸いをもう一度覚えさせていただきたいのです。
[考えるために]
なぜ苦しむものは幸いなのでしょうか。あなたは神の約束をつかんでいるでしょうか。
投稿者 mb-church : 17:58 | コメント (0) | トラックバック
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2005/9/4礼拝メッセージ
2005年9月4日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「互いに,互いに,互いに」
ペテロの手紙第一4:7~11より
1. 万物の終わり
イエス・キリストから約2000年の間,万物の終わりはまだ来ていません。しかし,教会はいつの時代も絶えず「万物の終わり」を意識して歩んできました。始まりがあり,終わりがある。これは聖書が語る世界の姿です。やがて目に見えるものには終わりが来るのです。
2. 祈りのために
ペテロは終わりが来るからこそ,祈りのために心を整え,身を慎みなさいと,命じています。私たちは,目に見えるものにではなく,神のご計画,みおもいへと目を向けるために,祈りなさいと勧められています。私たちは,目に見える周囲の状況や人に流されてしまうものです。神とともに歩むとは,どのような時であっても,神がおられることを認め,キリストの赦しのうちに歩むことです。
3. 互いに
神へと目を向ける中で,私たちが導かれるのは,互いに愛しあうということです。私たちはそのままでは,罪の連鎖を引き起こしてしまう存在です。しかし,互いに愛しあうことによって,その連鎖を断ち切ることができます。また愛しあうということは,互いに受け入れるということです。相手の存在を受け入れ,犠牲を払う。それは決して自己満足のためではなく,キリストに赦された者としての愛ゆえなのです。
4. 神の栄光のために
これらのことをなしうるのは,すべて神が与えてくださった賜物,力によるものです。私たちの力ではありません。もし,私たちの力でなしうるのならば,私たちは再び自分の栄光,自己満足のために生きる道へと逆戻りすることでしょう。私たちは神から多くのものを与えられた管理者です。ですから,私たちは与えた下さった神の栄光のために愛に生かされ,愛に生きていくのです。
[考えるために]
私たちは今どのような時代に生きているのでしょうか。私たちは何のために生きているのでしょうか。
投稿者 mb-church : 18:04 | コメント (0) | トラックバック
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2005/8/28礼拝メッセージ
2005年8月28日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「もう十分です」
ペテロの手紙第一4:1~6より
1. 周囲との摩擦
私たちがキリストの福音に生きるときに,どうしても周囲との摩擦は避けられないものです。それは,周囲とだけではなく,私たちの内側においても,古い価値観に縛られるという現実があります。しかし,聖書は私たちが世捨て人のように生きることを勧めてはいません。私たちはこの世界に生きるように導かれているのも事実なのです。
2. キリストと同じ心構え
この世を生きるときに,私たちにとって肝心なことは,「キリストと同じ心構えで自分自身を武装する」ことです。これが私たちに求められている姿勢です。私たちの心構えの秘訣は,「もはや人間の欲望のためではなく,神のみこころのために過ごす」ということにあります。しかし,これは,「できるか」「できないか」という問題ではありません。神は,人間が,この世界を喜び,そして受け取ることを否定してはいません。いや,むしろ感謝して受け取るように,と神様は言うことでしょう。では,どういうことでしょうか。それは,欲望の自動機械に飲み込まれるな,ということです。つまり,私たちの内にある自分中心,自己満足,「もっと,もっと」という思いを自動的に生み出すシステムに陥らないようにということ。そして,それ以上に自分以外のことに無関心でいること,これらのことこそ本来の私たちの姿を見失わせるものなのです。
3. 「もう十分です」
私たちはそのシステムを破壊しなくてはなりません。その自動機械の支配から,神の支配へと,私たちはシフトしなくてはならないのです。クリスチャンとして生きることの意味はここにあります。私たちはどこかで「それは過ぎ去った時で,もう十分です」と決断しなくてはなりません。私たちの心構えが,罪に支配された自分自身にあるのか,それとも神に祈り,聞き従うという心構えへと移り変わっているのか,ということこそが問題なのです。
[考えるために]
私たちもこう告白させていただきましょう。「それは過ぎ去った時で,もう十分です」と。
投稿者 mb-church : 20:07
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2005/8/14礼拝メッセージ
2005年8月14日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「今を生きるすすめ」
ペテロの手紙第一3:18~22より
1. 捕らわれの霊とは?
この箇所は,キリストの死者への宣教の根拠とされている箇所です。なぜ,このような解釈が提唱されたのでしょうか。これは私たちが素朴に持つ疑問から生じてきたものです。福音を聞くチャンスがなかった人々の救いはどうなるのか?そこからこの考えが生まれたのです。しかし,「捕らわれ霊」は死後の人間を指しているわけではありません。そうなると,先ほどの問いはどうなるのでしょうか。これは容易な問いではありません。なぜなら聖書に明確な答えが書かれていないからです。しかし,幾つかの明らかなこともあります。一つは,人類の全てが神の怒りのもとにあるということです。全ての人が罪を犯した,と聖書は語ります。ここには一切の妥協も,見逃しもないのです。
2. 誰の責任?
神は聖であり,罪を見逃しにはならない。これは,聖書の原則です。しかし,福音を聞くチャンスがなかったのは,その人の責任ではないのでは?おそらくこれも正しい見方でしょう。しかし,この逆もまた然りです。福音を聞き,信じたということ。これもまた私たちの力で到達したことではありません。ここで,一つ明らかなことがあります。私たちは神ではなく,裁き主ではない,ということです。私たちには,人を裁く力も,権利も,いのちを救う力もないのです。そして,死後のこと,これも私たちが背負うことのできる問題ではないのです。
3. 今,生きている神
聖書は死後の世界についてあまり詳しく触れていません。当時の聖書以外の書物には,死後の世界について多く書き記されています。しかし,聖書は,あえてその問題を取り上げようとはしていません。それは聖書が「生ける神」を私たちに提示し,「あなたは今どう生きるか?」を問いかけているからです。福音を聞かずに死んだ者がどうなるのか?これは,私たちの側の問題ではありません。これは神の側の問題です。神は,私たち以上に,正しい見方をなさる方です。そして何よりも,神は福音を聞き,今,生きている者に対して語っています。私たちはあの人はどうか,この人はどうか,と問いがちです。しかし,神はこのように私たちに語ります。今,このことを知ったあなたはどう生きるのか?今,このことを知らない人々に,どのようにあなたは語るのか?神が与えてくださった恵みに,私たちはどう応えて生きるのでしょうか。
[考えるために]
福音はあなたに「今どのように生きるべきか」問いかけています。
投稿者 mb-church : 16:59 | コメント (0) | トラックバック
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2005年8月7日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「復活による希望」
ペテロの手紙第一3:18~22より
1. 罪のために死なれたイエス
キリストはただ一度だけ死なれました。その理由は「罪のため」です。これは教会の最も大事な事柄です。私たちは「罪」ということの重大さをまず理解しなくてはなりません。神の前にあなたは正しいのか?この罪ゆえに,私たちは大きな苦しみを負ってしまいました。死で終わるいのち,他人を傷つけずにはいられない存在である自分,社会。私たちはどうすればいいのか。キリストは,私のために十字架にかかり,身代わりとなりました。それは私たちが神のもとに行くためです。神から離れてしまった私たちが,神のものとなるために,キリストは十字架にかかられたのです。聖書の語る救いとは何でしょうか?
2. 「捕らわれの霊」
この箇所には,当時の人々であれば,一読してすぐに分かることが書いてあったようです。当時のユダヤ人たちの記した書物に,エノク書があります。その中に,世界の終わりのこと,終末が記されています。そこに「捕らわれの霊」が出てきます。それは,神に敵対する存在,手紙の中にも出てくるクリスチャンと敵対する者達と同じような存在として,考えることができる存在です。エノク書では,終わりの日に,全ての神に敵対する者達が,大水によって一掃されることが記されています。つまり,救いとは,神の大きな怒りによって,敵対する者達が滅びることが教えられていたのです。
3. 真の救いとは
ペテロが言おうとしたことはエノク書とは異なります。私たちの救いとは,敵対するものたちが,今,目の前から消え去ることではなく,十字架による贖いと復活による勝利である,とペテロはここで主張しています。キリストを信じるとは,単なる肉体の汚れを取り,目に見える形でご利益があるようなものではなく,私たちがキリストと同様のものとなるという希望そのものです。私たちの罪深いこの体が,最後には,キリストと同様に,神のみもとに導かれ,そしてそこで真の勝利を得るということを,ペテロはここで私たちに教えようとしています。真の救いは,罪の贖いを成し遂げられたイエス・キリストにあり,そして希望は復活にあるのだ,と聖書は私たちに語りかけているのです。
[考えるために]
私たちの救いとは何でしょうか?そこにある希望とは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 16:54 | コメント (0) | トラックバック
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2005/7/24礼拝メッセージ
2005年7月24日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「見よ。それは非常によかった」
創世記1:26~2:3より
1. 礼拝とは何か?
礼拝は何よりも神をあがめ,たたえる行為です。礼拝に向かう理由の一つは,私たちが神によって作られた被造物であるということです。人間以外の被造物は神を礼拝しません。神を礼拝することは,人間にしかできない行為です。創世記には人が「神のかたち」であることが記されています。私たちの原点は,この「神のかたち」という言葉にあります。
2. 神のかたち
「神のかたち」から私たちは幾つかのことを知ります。第一番目に,神が人間のかたちをとっているわけではないということ。第二番目に「神のかたち」というときに,それが神の性質を持ち,神と共有できる資質を持つものであるということでしょう。神のかたちであるがゆえに,私たちは神と思いを共有することができるのです。人間は神の刻印をおされた神の作品であり,だからこそ,神を知るときに,神のかたちである人間自身をも知ることができます。そして何よりも,神のかたちである私たちは,神に向かって生きる存在なのです。
3. なぜ礼拝をするのか?
なぜ神を礼拝するのでしょうか。その一つの答えが,「神のかたち」にあります。私たちは,神に向かうとき,神と思いを一つとするときに,私たちに真の充足が与えられます。創世記を読むときに,私たちは神の圧倒的な力を見ることができます。それと同時に,この世界がすばらしい神の作品であることにも気がつかされます。私たちは,被造物でありながら,この感動を神と共有することが許されているのです。
4. 安息日
しかし,私たちは神を見失いがちです。それゆえに,神は私たちに安息日を与えてくださいました。ただ単に休むだけの日が安息ということではありません。神の創造のみわざを繰り返し覚え,感謝する。私たちが神のかたちであるからこそ,安息日が備えられています。私たちが神と親しく交わり,コミュニケーションをとる。その日が安息日であり,礼拝なのです。私たちを生かすのは,礼拝のある生活なのです。
[考えるために]
あなたが「神のかたち」であることは,あなたにとってどのような意味をもたらすのでしょうか。
投稿者 mb-church : 21:51 | コメント (0) | トラックバック
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2005/7/17礼拝メッセージ
2005年7月17日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「たとい苦しみの中にあっても」
ペテロの手紙第一3:13~17より
1. 苦難の手紙
Ⅰペテロには,教会の周囲に起こる不穏な動き,苦難の前触れ・・・不安な中に置かれているクリスチャンたちへの確かな希望の再確認やエール,そのような要素がふんだんに盛り込まれています。なぜ,キリストに忠実に従っていても,このような苦難を通らなければなならいのでしょうか。
2. 終末にたって
この手紙には終末的な視点があります。世の終わり,と言うと何か物騒な気がしますが,聖書において終末とは,神の国の完成,救いの完成の時をさしています。キリストに従ってもなお苦難の中にある教会に対して,ペテロは終末を見据えて励ましているのです。
3. 苦しみは幸い?
「義のために苦しむことがあるにしても,それは幸いです」と語られています。キリストも同様の言葉を山上の説教において語りました。なぜ幸いだと言えるのでしょうか。ペテロは試練を通して,私たちの信仰が練られ,そして救いの完成の時に,賞賛と光栄と栄誉へと至ることを,この手紙で明らかにしています(1:6~7)。しかし,現実だけを見てしまうと,そのように思えないことが多々あるのではないでしょうか。
4. 二つの勧め
ここで二つのことが勧められています。一つ目は「人や状況を恐れない」ということです。私たちは困難な状況に遭遇するときに,何を恐れるのでしょうか?人や状況の困難さでしょうか?私たちが唯一恐れなくてはならないのは,真の神です。それを見失ってしまうときに,私たちは現実にのみ囚われてしまうことでしょう。二つ目は「心の中でキリストを主としてあがめる」ということです。心の中でとは,心から,心の底からキリストを主としてあがめることです。キリストは,私たちの欠け,苦しみ,苦難を通して,ご自身を現してくださいます。そして,私たちもまたキリストと同じ歩みへと導かれることこそ,私たちの希望です。このことを通して,神は私たちを決して希望を失うことのない歩みへと導かれるのです。
[考えるために]
イエス・キリストによってあなたに与えられた希望とは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 18:36
メインページへ2005年07月10日
2005/7/10礼拝メッセージ
2005年7月10日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「祝福を受け継ぐために」
ペテロの手紙第一3:8~12より
1. 最後に
「手紙の最後」というわけではありません。ここでこれまでの人と人との関係についての総まとめが書かれています。それは次の5つのことです。①心を一つにすること,②同情すること,③兄弟愛を示すこと,④あわれみ深いこと。⑤謙遜であること。
2. ハーモニー
心を一つにすることは「調和」という意味の言葉です。これは,無理やりに一つになることを表してはいません。互いの違いを認め合い,尊重する・・・ここにハーモニーが生まれます。心を一つにすることと,謙遜であることとは深い関係にあります。相手を尊重し,相手に仕えるということを通して,神にあるハーモニーが生まれるのです。
3. 兄弟愛
同情することとあわれみ深いことは表裏一体のものです。これは人間的な感情だけではありません。どちらか一方が高い所に立ってあわれむのではなく,互いに,神に赦され,神のあわれみを受けている者たちであることが,その出発点となります。このような関係から生じるものこそ,教会に与えられた兄弟愛なのです。そしてこの愛の中心はキリストです。キリストにあって罪を互いに赦された存在として,同じ天への旅路を歩むものたちであるという認識を持って,互いに認め合い,励ましあうのです。
4. 祝福を受け継ぐために
このような兄弟愛は,さらに私たちの周囲へと広がっていきます。私たちは,敵対するために救われたのではありません。そうではなく,祝福を受け継ぎ,その祝福を周囲に与えるために置かれているのです。私たちはキリストに示された神の義を求めて積極的に生きるようにと導かれています。主の目は,そのような歩みに目を留めてくださっているのです。
[考えるために]
あなたと周囲の関係において,5つのことはどのように示されているでしょうか。
投稿者 mb-church : 08:48 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2005年07月02日
2005/7/3礼拝メッセージ
2005年7月3日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「わたしたちの誇り」
ペテロの手紙第一3:1~7より
1. 「同じように」
この箇所の直前を見ると,私たちはそこにキリストの姿を見出すことができます。苦しみにあっても,理不尽な状況にあろうとも,正しく裁かれる方に委ねる姿がありました。そのキリストと同様に,妻に対して夫に服従しなさい,と勧められています。従うことの目的に私たちは目を留めたいと思います。その目的はただ一つです。それは,夫を得るためです。
2. 夫を得るということ
みことばに従わず,理解しない夫が,神のものとなるために妻は夫に従いなさい,と勧めています。その方法はいかなるものであったでしょうか。それは,神を恐れかしこむ清い生き方を,夫に従うことによって,彼らが見るという方法でした。ここには,人や権威への恐れや義務感からではなく,神にある自由人として,夫に従う妻の姿が示されています。
3. 何が中心にあるのか?
人の機嫌をとるような行為ではなく,神を恐れ,神に信頼して歩む妻の姿に,夫は神を見出します。つまり,何がその人の中心にあるのか,何を誇りとしているのか,そのことを一番近くにいる夫は見出すのです。外面的な敬虔さ,正しさではなく,神は人の本質を見ています。そして,周囲の人々もその本質によって変えられていくのです。これは女性のみならず男性にも当てはまることです。続いて,夫の本質にも迫っています。夫に対して,妻をいのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい,と勧めています。とかく男性は尊敬を受けたいと願う存在です。しかし,男性に対して妻を自分と同等に,いやそれ以上の存在として認めなさいということによって,男性の本質に迫っているのです。
4. 私たちの基準はどこに?
これらの箇所に一貫して流れているもの,それは,私たちの基準はどこにあるのか?という問いかけです。私たちの基準が時代や文化,自分の正義感や価値観,そこにあるのではないでしょうか。しかし,私たちの生きる基準は,キリストの姿にあります。ここに自由人としての,何にもとらわれないキリストを誇りとする生き方の秘訣があるのです。
[考えるために]
あなたの誇りとするものは何でしょうか?
周囲との関係を見つめなおしてみましょう。
投稿者 mb-church : 23:09 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2005年06月26日
2005/6/26礼拝メッセージ
2005年6月26日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「礼拝のある生活」
詩篇100篇より
1. 礼拝と私たち
私たちの教会では5月からこどもからおとなまでともに礼拝をささげています。礼拝は全ての人にとっていつの時代もとても大切なこととして位置づけられてきました。礼拝は教会になくてはならないものです。そしてそれは,神を信じる者たちの第一の特徴でもあるのです。しかし,それは神が礼拝されることを必要としているからではありません。そうではなく,私たちこそが,神さまを礼拝することを必要としているのです。
2. 礼拝の本質
詩篇100篇は4つの詩から構成されています。その最初のパートには礼拝の本質が示されています。その礼拝を特徴づけているものは「喜び」です。喜びを携えて,私たちは神に叫び,平伏し,神の前へと進み出ます。私たちは礼拝にどのような思いで,どのような姿で臨んでいるでしょうか。
3. 喜びの源
喜びの源は何でしょうか。それは,主こそ神なのだということ。そして,神は私たちを創造されたお方であるということ。さらに,私たちは神のものであり,神が養い,守り,導いてくださるのだということ。これこそ何にもかえがたい私たちの喜びの源となります。そして,互いの存在もまた,ともに神に慶びをささげるためにあるということを忘れてはなりません。「来たれ」や「入れ」という言葉に表されているように,神はさらに私たちを身元へと招き入れてくださっています。神との親しい交わりが,私たちに,生き生きとしたいのちを与えるのです。
4. 神はよい!
礼拝を通して私たちが知るのは,「主はよい」ということです。様々な形容詞は必要ありません。私たちはシンプルに「主はよい」と告白することができます。神のあわれみ,神の限りない愛,そして真実。そのどれをとっても「主はよい」ということへと帰着します。土曜日の夜,皆さんはどのように過ごしているでしょうか。明日は教会に行く日であるという前に,明日はともに神を礼拝する喜びの日である,そのように覚えているでしょうか。私たちは礼拝を通して,ますます神様のすばらしさを賛美するものとさせていただきましょう。
[考えるために]
あなたは礼拝に何をたずさえて集っているでしょうか。
投稿者 mb-church : 00:12 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2005年06月18日
2005/6/19礼拝メッセージ
2005年6月19日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「ひつじと牧者」
ペテロの手紙第一2:21~25より
1. キリストの姿
「キリストは罪を犯したことがなく,その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても,ののしりかえさず,正しく裁かれる方にお任せになりました。」この短い一文に,キリストの歩みの濃縮されたエッセンスを私たちは見出します。この「キリスト」というところに,私たちの名前を入れることができるでしょうか。もしかしたら,恥ずかしくていうことができないかもしれません。
2. イザヤ書53章
この箇所の土台になっているのはイザヤ書53章です。キリストの姿をペテロは間近で見ました。十字架上への歩み,受難,それこそイザヤ書に描かれたメシアの姿でした。イエスが成し遂げようとしておられたのは,国の復興ではなく,私たちの罪を担い,贖うためであったのです。
3. 羊のように
私たちは神の作品としてのすばらしさの裏に,自分勝手に生きようとする罪があることを認めざるをえません。聖書はそのような私たちをさまよえる羊だと指摘しています。私たちのいのちは,その罪ゆえに損なわれてしまったのです。
4. キリストが十字架で死なれたゆえに
しかし,キリストが十字架で私たちを贖ってくださったゆえに,私たちはその罪に死に,義に生きることができます。私たちは罪に定められないだけでなく,義に向かって,神に向かって,生きる道が開かれました。私たちの真の出発点はここにあるのです。自らさまよう羊となった私たちは,キリストの十字架の死によって,真の牧者であり,監督者である神のもとに帰るのです。私たちはなおも羊です。しかし,さまよえる羊,孤独な羊ではありません。十字架の主に信頼して歩んでまいりましょう。
[考えるために]
あなたは,さまよえる羊であることを認めることができますか?
私たちの牧者であり,監督者である方は,誰でしょうか?
投稿者 mb-church : 17:41 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2005年06月04日
2005/6/5礼拝メッセージ
2005年6月5日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「実にそのためです!」
ペテロの手紙第一2:18~25より
1. しもべたち
ここで主人から不当な苦しみを受けている奴隷へと話しが展開していきます。奴隷と主人の関係は,私たちの社会では既に見られない制度ですが,このような社会的な状況は,私たちの周囲にも当てはまることが多くあります。
2. 不当な扱い
正当な扱いを受けないということは,私たちの実際の日常においても,また,歴史の中でも数多く起きています。しかし,ここでペテロはそのことを「実にそのためです」と書き記しています。つまり,私たちは「不当な苦しみをうけ,耐えるためにこそ」召されていると言うのです。
3. 逆転の力
なぜこのように言い切れるのでしょうか。不当な苦しみがキリストにあって変えられる―ここにこそ私たちは,キリストの十字架のすばらしい逆転の力を見出すことができます。キリストの受難は,不当な苦しみの極地にあります。しかし,この不当の苦しみを神が私たちのために受けてくださったがゆえに,私たちは,そこに希望の光を見出すことができるのです。その苦しみが,この私のためであったと知るならば,私たちは苦しみのその先へと足を踏み出すことができるでしょう。
4. 二つの事実
私たちが不当な苦しみを「実にこのことです」と受け止めるときに,二つの事実が私たちに示されます。まず一つは,神がそれを喜ばれるという事実です。二つ目は,私が受けている苦しみを通して,キリストご自身の姿が現されるという事実です。私のすばらしさではなく,私の苦しみを通してキリストの姿が指し示されていくのです。
[考えるために]
「あなたがたが召されたのは,実にそのためです」ということばを,どのように受けとめますか?
投稿者 mb-church : 23:44 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2005年05月29日
2005/5/29礼拝メッセージ
2005年5月29日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「自由人として」
ペテロの手紙第一2:13~17より
1. この時代
この手紙の執筆時期がAD60年ごろであるならば,当時の主権者はローマ帝国の皇帝ネロのことを指します。時代はキリスト者に対する逆風がまさに吹き荒れようとする直前でした。この頃の教会は,社会の中で弱い立場に立たされていたようです。このような状況が手紙の背景にあります。
2. 異邦人社会の中で
皇帝と総督に従いなさい。つまり,自分たちが置かれている社会制度の中にあって誠実に,そして神に忠実に生きなさい,と語られています。あのペテロがこの勧告をしているのです。以前のペテロであれば,このような考え方は選択しなかったことでしょう。キリストはローマの総督のもとで十字架刑に処せられたのです。しかし,ペテロは「人の立てたすべての制度に,主のゆえに従いなさい」と勧めています。この言葉の重さを私たちは重く受け止めなくてはなりません。
3. 善を行うこと
社会の一員として責任を果たすようにペテロは勧めています。それはただ制度や王に従いなさい,と言ってはいません。社会において神の目にかなう生き方をしなさいと勧めているのです。教会は社会の中に置かれています。私たちは,十字架によって罪赦され自由であるからこそ,神に自ら従うものとして行動することができます。だからこそ,ペテロも神にある自由人として,ローマ帝国の支配下にあってもなお希望を失わず,前を向き,神と人に対して誠実に生きていくことができたのです。
4. すべての人を敬うこと
この世界を愛するということ-それは奴隷も自由人もなく,人種の区別もなく,全ての人々を敬うということです。そして,神を恐れるということ。為政者や制度,社会,人々を恐れるのではなく,ただ私たちの主である神を恐れるのです。王に従い,制度に従うのは,権威への恐れからではなく,主のゆえであるということ。神がそのように望んでおられるからこそ,私たちはこの世界の制度に従い,その中で神の善を指し示すのです。この立ち位置を,私たちは忘れてはなりません。そこには,神にある自由人としての誇りがあるのです。
[考えるために]
主にある自由人として,神に従う者としての誇りがあなたにはあるでしょうか。
あなたは神を恐れていますか?
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2005/5/22礼拝メッセージ
2005年5月22日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「異邦人の中にあって」
ペテロの手紙第一2:11~12より
1. ペテロのすすめ
「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざける」。たましいとは,精神的なことだけを指しているのではありません。この言葉は,私たちの存在そのものを指していると言ってよいでしょう。私たちの存在に対して,戦いをいどんでくる肉の欲とは,私たちを神から遠ざけるものです。
2. 神から遠ざけるもの
私たちを神から遠ざけるもの,その一つは,私たち自身の価値を自分で高めようとすることがあげられるでしょう。名誉,富,仕事,生活・・・それらへと私たちが集中してしまうときに,神を第一としない生き方へと私たちは陥ってしまいます。また,その一方で,自分自身の存在を損ねるような行為-欲望のまま,快楽のままに生きること-も,同じように私たち自身を神から遠ざけます。これらは神を知る前の古い価値観に生きることになります。
3. 異邦人の中で
このような古い世界観を持つ異邦の世界で,私たちはどのように生きるべきなのでしょうか。「りっぱにふるまいなさい」とペテロはすすめています。この言葉は「よい行い」という意味です。神を信じない世界の真ん中で「よい行い」に生きる・・・それは,ただ善行をすることや偽善とは異なります。この言葉は,「神がよし」とすることを,私たちが指し示すことを意味しています。聖書に示された世界観に生きることが,私たちに求められているのです。
4. 大胆にそして誠実に
私たちは,ぜひここに示された生き方を,「大胆にそして誠実に」させていただきたいと思います。神がともにいる民として「大胆に」,そして主イエスにあって「誠実に」日々の生活を生きることこそ,私たちに求められていることではないでしょうか。神を礼拝し,人々とともに生きることへと歩みだしましょう。
[考えるために]
たましいに戦いを挑んでいるものは何でしょうか。
あなたにとって「よい行い」とは何でしょうか。
投稿者 mb-church : 18:17
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2005/5/15礼拝メッセージ
2005年5月15日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「わたしたちの名」
ペテロの手紙第一2:9~10より
1. 選ばれた種族
教会は「選ばれた種族」「王である祭司」「聖なる国民」「神の所有とされた民」であると言われています。まず第一番に,私たちは,「選ばれた種族」と呼ばれています。ここには「神の側の選び」が語られています。私たちの生は多くの制約の中にあります。時代,人種,文化,家族・・・私たちは多くを選択しているようで,最初から大きな制約の中にあります。そこに神の導き,神のご計画を見出す者たちこそ,キリスト者なのです。
2. 王である祭司
「王である祭司」とは,「祭司の王国」と旧約聖書で呼ばれています。王国とは,神が王である国のことです。唯一の神のみが王であり,その王に仕え,礼拝をささげる者たちの国が「祭司の王国」と言えるでしょう。それが可能であるのは,大祭司イエス・キリストのゆえです。教会の中心は,神を王とし,そして拝することにあるのです。
3. 聖なる国民
私たちは「聖なる国民」であると言われています。その理由はただ一つです。それは,私たちが「神の所有である」からです。私たちが聖いのではありません。キリストの刻印をおされたがゆえに,私たちは聖なる神のものであり,聖なる国民と呼ばれるのです。私たちは,神の所有として,神のみこころ,聖さを第一に求めていく生き方へと導かれているのです。
4. 宣べ伝えるために
私たちがこのような名を持つ理由は,神のすばらしいみわざを宣べ伝えるためです。十字架のわざによって,私たちは光のうちを歩むことができるようにされています。私たちになされた,神の驚くべきみわざに目をとめさせていただきましょう。
[考えるために]
私たちに与えられた名は,どのような意味を持つのでしょうか。
キリストの十字架のみわざを思い返しましょう。
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2005/5/8礼拝メッセージ
2005年5月8日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「我は永遠のいのちを信ず-使徒信条10-」
ヨハネの福音書3:16~17,17:3より
1. 永遠のいのち
永遠のいのちとは,ただ長い間生きるという無味乾燥な意味ではありません。「いのち」と聞くと,そこに神秘的な何かを私たちは感じ取ります。ヨハネ17:3には,永遠のいのち=神を知ることであるとあります。それは,「永遠のいのち」という言葉で表されているものが,生き生きとした神との関係を物語っているものだからです。
2. 神との関係
永遠のいのちから,まず第一番目に教えられることは,神との関係がそこに息づいているということです。私たちは,単なる土くれに過ぎない存在ですが,そこに神が息吹を吹きかけられいのちの鼓動が始まりました。神の息吹が息づく命,それが人間です。そのいのちが,イエス・キリストによって,死ではなく,永遠へと向かうのです。
3. 今,生きているいのち
永遠のいのちは,今,すでに始まっているいのちでもあります。永遠のいのちは,後に与えられるものではありません。すでに永遠のいのちは始まっているのです。福音を信じたその時に,神との関係が以前とは異なったものとなりました。イエス・キリストによって,私たちと神との関係は,今,父と子の関係へと導き入れられたのです。永遠のいのちは,すでに私たちのうちに息づき,内から変革し続けているのです。
4. 永遠という喜び
永遠のいのちは私たちの根源的な喜びにつながっています。私たちの内には,全てはむなしいという思いがあります。しかし,キリストにあって,私たちは,永遠なる存在として,神との関係を築くことができると聖書は語っています。神とともに生き,神との関係を築いていく時に,その喜びが私たちの実感として与えられていくことでしょう。
[考えるために]
永遠のいのちは,私たちに何を教えているのでしょうか。
永遠のいのちの約束は,私たちに何をもたらすのでしょうか。
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2005/5/1礼拝メッセージ
2005年5月1日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「我は身体の復活を信ず-使徒信条9-」
ペテロの手紙第一1:3~5より
1. 身体のよみがえり
身体のよみがえりとは,来世やあの世ではなく,また再びここで会う,ということです。私たちの生涯は様々な人々との出会いで彩られています。私たちが今ここにいること,そこには誰かの存在がなくてはなりません。私たちはそのような世界の一員として存在しています。その私たちにとって,この地上での一時の魂のやすらぎ,幸せが救いとなるのでしょうか。またこのことで,私たちは本当に勝利したと言えるのでしょうか。今この時が消え去ってしまうならば,それはむなしいものではないでしょうか。
2. 現実と非現実
聖書は,この地上での歩みが,一時的なもので旅のようなものであると語っています。しかし,それは,何かこの世界が本当ではなく,非現実で,そして別の世界に,本当の私たちの世界があるということではありません。それは,現時点が最終的な到達点ではなく,永遠にいるべき場所ではないということを意味しています。この「世」が,もし,非現実で,また完全にあやふやなものであるならば,今,ここで,生きていることの意味が薄れることでしょう。しかし,この世界,私たち全てを神が創られたのです。
3. 真の希望
神の創造を見るときに,畏敬の念を抱かずにはいられません。しかし,この世界は痛んでいます。また私たちの内にも,様々な痛み,苦しみがあります。すばらしい時はいつまでも続きません。聖書は,そこに罪があることを示しています。しかし,確かな希望をも指し示しています。その希望は,罪の世界の終わりが確かにあるということと,神がこのすばらしい世界,そして私たちの回復を予定しているということです。からだのよみがえりとは,この私の,身体が,痛んでしまったこの世界が,もう一度,よみがえり新しく再生するということを意味しています。この希望は,まさにイエス・キリストを通して示された希望なのです。
[考えるために]
私たちに示された希望とはどこまで及ぶのでしょうか。
このことは,あなたにどんな意味をもたらしますか。
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2005/4/24礼拝メッセージ
2005年4月24日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「我は罪の赦しを信ず-使徒信条8-」
ローマ人への手紙3:19~24より
1. 罪と死
罪の赦しは,キリスト教信仰の中心です。それを教えるということは,同時に私たちの置かれた立場をも明確にしなくてはなりません。つまり私たちは罪人であり,死を負ってしまっているということを。人間のすばらしさと悲惨さとが入り混じる世界・・・これが私たちの世界です。私たちはその理由を懸命に探し,何とか説明しようとします。誰かの(先祖の)責任にし,神を恨み,運命を呪う。しかし,聖書はその理由を,私たちが抱えてしまった「罪」によるものであると教えています。
2. 罪とはなにか
聖書の語る罪とはいったいなんでしょうか。その一つとして,自分のいのちや生涯を,自分のものであるかのようにとらえ,そして生きることです。つまり,自分の好きに生きること,これが「罪」なのです。それは一見もっともなことのようですが,ここには落とし穴があります。それでは,自分のいのちや人生に対して,過小評価していることになるからです。聖書は,私たちの存在は,自分の好きなように生きるためにあるとは語っていません。あなたのいのちは,あなただけのものではなく,あなたを創造した神のものであるのです。そして,あなたのいのちは,自分自身の範囲にとどまらず,家族や周囲の人々へと,そのすばらしさが広がっていくものだ,と私たちに教えています。私たちは創られた初めから,孤独の中ではなく,人々と,そして神とともに歩むように形作られました。自分の好きなように生きることは,私たちを本当に満たす生き方ではないのです。罪とは,私たちの本質からはずれることです。孤独の中では生きることのできない私たち,ましてや,創造主である神のもとを離れては,本来の自分の姿,目的を失ってしまうにもかかわらず,そこから離れ,その存在を無視してしまうことこそ「罪」なのです。
3. 罪の赦し
この罪は私たちの力ではどうすることもできないものです。しかし,十字架によって,私たちの罪が赦され,キリストの復活の希望と聖霊の助けによって,私たちはこの罪から解き放たれたのです。私たちが本質である神から離れてしまうかわりに,神の側から私たちのところまで来てくださいました。私たちは,罪赦された者として,歩むことが許されているのです。神は,私たちの罪深い性質をもはや覚えようとはなさらないということを心に留めて歩ませていただきましょう。
[考えるために]
罪とはいったい何でしょうか?罪の赦しはあなたのいのちに,そして生涯に何をもたらすのでしょうか。
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2005/4/17礼拝メッセージ
2005年4月17日の真砂バプテスト教会の礼拝メッセージの要約です。
「我は聖なる教会を信ず-使徒信条7-」
ピリピ人への手紙1:3~6より
1. 我は教会を信ず
「信じる」という言葉が出てきます。しかし,教会を信じるということと,神を信じるということは,同じ言葉でも,その内容は異なります。神は信仰の対象ですが,教会は信仰の対象ではありません。ここでは,教会は信仰を持つ者たちの集まりであるという意味で用いられています。
2. 公同の教会
教会は,父なる神,イエス・キリストの救い,そしてうちに働かれる聖霊によって,そこに確かに「ある」ものとなります。教会とは何でしょうか?聖徒の交わりとは何でしょうか?私たちが,今,ここにいること,それは,創造主である神を信じ,私たちの内に働かれる聖霊を信じるときに,決して偶然ではなくなります。公同の教会とは,普遍的,一般的という意味です。人間の違い,年齢や性別,教養,財産,国籍,民族の違いは,本質的な問題ではありません。その普遍性は,キリストにあってのみ実現します。私たちがキリストにつかなければ,聖徒の交わりなど見ることができない,ということになります。教会は,神によってキリストにあって呼び出された者たちのことを指しています。
3. 聖なる教会
教会は「聖」であることが求められています。聖とは,倫理的,道徳的に正しいことを含んでいます。しかし,神は,見せかけだけの聖さも,口だけの聖さも求めていません。聖書における「聖さ」とは,神の前にすべてが明らかなこと,です。隠すこと,神の前に認めないこと,これこそ神が忌み嫌われるものです。教会はキリストを示す役目を負っています。世にあって,世と向き合いながら,私たちは神の聖さを示さなくてはならないのです。私たちは,この世の正しさにおいても,問われています。そして,さらにもう一つの視点からも問われているのです。それは,神の前に隠してはいないか?神の聖さがそこにあったのかと,問われているのです。
[考えるために]
私たちの一週間の歩みを振り返って見ましょう。
すべてにおいて私たちは神を認めることができるでしょうか。
神の前に隠していることはないでしょうか。
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2005/4/10礼拝メッセージ
2005年4月10日の礼拝メッセージの要約です。
「我は聖霊を信ず-使徒信条6-」
ヨハネの福音書16:7~16より
1. 我は聖霊を信ず
聖霊とはいったい何でしょうか。何か目に見えない霊的な,幽霊のようなもの?もしくは,私たちの内側を熱く熱く燃やす力?聖霊を語るときに,案外と私たちの主観を強調して語ることが多いのではないかと思います。しかし,もう一度,聖書に,そしてこの使徒信条に目を向けると,あることに気がつかされます。それは,聖霊も神であるということです。だからこそ,聖霊に対しても「信じる」という信仰の告白がされています。
2. 聖霊について
イエスは聖霊について,十字架にかかる前に弟子たちに必要なことを語られました。その中で,聖霊について私たちが知ることのできることは次のことです。それは,聖霊はキリストの栄光を示すということ,そして聖霊は私たちに「語られる」ということです。聖霊は,イエス・キリストを証しするものであり,自らが前に出てくるというよりは,むしろ父なる神とイエスを,前へ前へと押し出そうとするお方です。そして何よりも,十字架の福音を私たちの内に形成してくださるお方が,聖霊なる神なのです。
3. 語られる方
私たちは,神を,そしてそのみこころを,聖書を通して教えられ,知ります。それは,私たちの能力や力によるものではなく,語られる聖霊によって私たちは教えられます。私たちが内に語られる方を認めるときに,今ともにおられ,働き,慰め,励まし,神とともに歩むことを支えてくださる方がおられることを,はっきりと知ることができます。キリストは,私たちに聖霊を残してくださいました。それは,私たちをご自身と同様のものとして,遣わしてくださるということでもあります。聖霊は,私たちを助け,私たちを励まし,私たちを通して,イエスの,神のご栄光を,福音そのものを指し示してくださるお方なのです。
[考えるために]
聖霊の働きとは何でしょうか。
御霊の実とは,抽象的なものでしょうか,それとも具体的なものなのでしょうか。
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2005/4/3礼拝メッセージ
2005年4月3日の礼拝メッセージの要約です。
「我は裁きの主を信ず-使徒信条5-」
ヘブル人への手紙9:24~28より
1. イエスは今どこにおられるのか。
私たちの前を歩まれる方,私たちの歩むべき道を指し示す方,イエスは今どこにおられるのでしょうか。十字架にかかり,私たちの罪の現実,死をその身に受けてから,イエスは一体どこに行かれたのでしょうか。イエスは,十字架の死と復活の後,天にのぼられました。それでは,なぜイエスは天にのぼられたのでしょうか?
2. 神のご計画
イエスが地上に留まることは,神のご計画ではありませんでした。神のご計画は,さらに先を見ていたのです。私たちは,この地上での生涯しかないように思います。しかし,神の視点ははるか先を見ています。イエスが天にのぼられたことが,このことを物語っています。つまり,地上の生涯で終わりではないということです。しかし,それはイエスを境にして二つに分けられます。イエス・キリストに従うときに,私たちはイエスと同様のものへと導かれますが,イエス・キリストを失ってしまうならば,私たちは抱えた罪の深さゆえに,神を,そしていのちを完全に失うという結果に終わるのです。
3. 裁き主イエス
ですから,イエスは裁き主でもあります。その裁きはゴールであると同時に出発点でもあります。これまでの人間の罪,そこから生じるあらゆる不正,不平等,不条理,悪,苦痛,悲しみ・・・それらのものの終わりであると同時に,再び,この世界が,神の秩序へと,神の国へと再創造されるその出発点こそが,このイエスの裁きの時なのです。その裁きの時に,神の正しさ,神のわざ,神ご自身が最後に示されます。そしてそれによって,罪の現実,神と敵対する力,そのものが最後にその力を失うのです。しかし,イエスを信じるものは,決してこの裁きを恐れる必要はありません。恐れるのではなく,完全に神のみこころが示され,そして,神との和解が完成し,救いが完成する,その時であると信じることができるのです。
[考えるために]
なぜイエスは天にのぼられたのでしょうか。
あなたはイエスに従いますか?それともその逆ですか?
投稿者 mb-church : 23:33
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2005/3/27礼拝メッセージ
2005年3月27日のイースター礼拝におけるメッセージの要約です。
「我は復活の主を信ず-使徒信条4-」
マタイの福音書28:1~10より
1. イースター
一年で一番喜ばしい日。イエスが私たちの最後の敵である「死」を制圧した日。約2000年前のこの日を境に,クリスチャンにとってのお墓,死の意味が変わりました。イエスの復活により,お墓は,ただの葬りの場所ではなくなり,神との約束の場所,記念の場所となったのです。
2. 死にて葬られ,よみに降り
十字架の苦しみをすべてイエスはその身に受けられました。私たちが受けるべき,その苦しみです。そして,完全にイエスは死に渡され,愛する父なる神から離されました。イエスは確かに,私たちと同じように死に,葬られたのです。
3. 新しいいのち
十字架の死によって,私たちは赦されました。しかし,そこで終わらずにさらに神は,私たちに「永遠のいのち」というまったく新たなものを与えてくださいました。死で終わるいのちが完全にその時を終え,新しいいのちが生きはじめる・・・それがこの復活です。天地を創造した父なる神にしかできない創造のみわざが,もう一度そこに現されたのです。
4. 新しい神との関係
復活のイエスを信じるときに,私たちに新しいいのちが与えられます。それは見た目の問題ではありません。そうではなく,神と私たちの関係が,主人としもべという関係を越え,イエスと同様に父と子の関係へ,そして友としての関係へと変えられていきます。「復活」ほど,私たちにとって信じ難いことはありません。しかし,だからこそ神のわざであるのです。このことは歴史上に起こりました。イエスは,私たちの先に立ち,歩んでくださっているのです。もうイエスはお墓にはいません。復活のイエスに焦点をあわせて,歩んでまいりましょう。
[考えるために]
復活のイエスにある希望とは何でしょうか。
神との関係がどのように変えられているのでしょうか。
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メインページへ2005年03月19日
2005/3/20礼拝メッセージ
2005年3月20日の礼拝メッセージの要約です。
「我は十字架の主を信ず-使徒信条3-」
マルコの福音書8:27~31,10:32~34より
1. ポンテオ・ピラト
使徒信条には,ローマ帝国のユダヤ総督の名が記されています。この名が刻まれることにより,イエスが歴史に生きたことは,まぎれもない事実であると私たちは告白します。この総督のもとで,ひとりのユダヤ人が裁判にかけられ,十字架刑に処せられました。この事実を使徒信条は淡々と告白しています。
2. 十字架につけられ
使徒信条において,出生の次には,すぐに死の苦しみが続きます。その間のイエスの生涯については何一つふれることはしません。イエスは十字架の苦しみと死へと一直線に進むために生まれてくださった,そういっても差し支えないほどに,この告白は十字架の死を中心においています。イエスは,その生涯の中で,私たちと同じように,生き,悩み,苦しまれたことが証しされています。しかし,その苦しみは,十字架の苦しみの序曲にすぎないとといってもいいかもしれません。それほどまでに,十字架の苦しみは極限の苦しみでした。私たちの苦しみを負う。言葉にするのは簡単です。しかし,私たち,人の苦しみは,恐ろしいほどに多様で,また深く,痛ましいものでもあります。何よりも「死」という敵!すべてを無にし,すべてを終わりにし,すべてを飲み込んでしまう死。どんなに死を美化しようとも,死の現実は私たちの前に不気味に横たわっているのです。
3. 死へと向かう歩み
イエスは確かにこの世界に生きてくださいました。私たちと同じように歩まれました。しかし,その道は,十字架へと続く道であったのです。イエスは「必ず」という言葉を用いて,そのことを予告しています。聖書は人間が負ってしまった死を,それが人間にとって最も憎むべきものであると言っています。そしてイエスも,人の死の運命に対して涙を流されました。イエスは,私たちの負ってしまった死,そして苦しみをその身に受けるために,十字架へと自ら向かって行ったのです。
4. 十字架の主
この一人の死が歴史に与えたインパクトは計り知れません。なぜなら,イエスは神の子であり,その神である方が,私たちに担いきれない死そのものを十字架の上で負ったからです。まったく死や苦しみがふさわしくないお方が,極刑である十字架を受けられた。受けさせられたのではなく,自らそこに向かわれたのです。神がそこまでしなくてはならないほど,人間の抱えた罪の痛手は大きいのです。苦しみをもたらし,関係を破壊し,死をもたらす致命傷。その傷をいやすために,イエスは十字架の上に行かなくてはならなかったのです。
5. 最後の棘
私たちには「死」が必ず待っています。いつかは終わりがきます。しかし,イエスは,死という最後の棘を抜くために来られました。誰一人として失いたくない,だから私は必ずあの十字架につく・・・イエスはそのように歩まれたのです。これは他の誰かではできません。十字架の主のみが成しえるのです。
[考えるために]
十字架の苦しみと死は,あなたに何をもたらしますか。
投稿者 mb-church : 16:17 | コメント (0) | トラックバック
メインページへ2005年03月12日
2005/3/13礼拝メッセージ
2005年3月13日の礼拝メッセージの要約です。
「我はイエスを信ず-使徒信条2-」
ヨハネの福音書11:25~27より
1. イエスへの信仰
使徒信条の告白は,父なる神への信仰告白に続いて,父,子,御霊なる神の「子」である方,イエス・キリストへの信仰を告白します。キリストとは,「救い主,メシア」という意味です。イエス・キリストという呼び名そのものが,わたしは救い主なるイエスを信じます,という告白でもあるのです。
2. イエスとは誰か?
ナザレのイエスとはいったい誰なのか。当時の人々に突きつけられた問いでした。しかし,この問いは現代においても変わらず私たちの前に置かれています。ただの人なのか,それとも預言者か,狂人か,善人か,いったい誰なのか。イエスは自らのことをよみがえりであり,いのちであると言いました。もしこのことが真実であるならば,私たちは,イエスが誰なのかを真剣に考えなくてはならないでしょう。
3. 神のひとり子
神のひとり子,それこそがイエスご自身が主張されたことでした。イエスは神のひとり子であるにもかかわらず,人の罪,悲惨,死そのものを背負うために,私たちと同じひとりの人となりました。イエスという名で,神のひとり子である方が,実際に歴史の中に存在したのです。この方は,完全に神でありながら,完全に人でもありました。それゆえに,私たちの完全な身代わりとなることができたのです。
4. 人であるイエス
イエスは神であることが聖書によって証されています。それと同時に全くの人であることも記されています。このイエスをキリスト,私の救い主と信じるときに,私たちは神の義を得ることができます。このイエスがキリストであると信じるか信じないか。この分岐点に私たちは立たされているのです。
5. 私たちの主
神がもし,そのひとり子イエスを送ってくださらなければ,神は私たちと何の関係もないことになるでしょう。しかし,イエスが私たちの側に,私たちの住む場所にまで来てくださったがゆえに,イエスは私たちの主となられたのです。この方を通して,私たちは神のご計画を知らされ,そしてそこに生きることができるのです。
[考えるために]
イエスとは誰なのでしょうか。あなたとどのような関係があるのでしょうか。
投稿者 mb-church : 12:12
メインページへ2005年03月05日
2005/3/6礼拝メッセージ
2005年3月6日の礼拝メッセージの要約です。
「我は神を信ず-使徒信条1-」
ローマ人への手紙10:9~13,詩篇19篇より
1. 信仰告白
使徒信条の原型は2世紀頃からすでに告白されていました。キリスト教は告白の上に立つ信仰を持っています。それは聖書によって自己を啓示された神に応答するゆえです。ですから信条は洗礼の際に告白したことがよく知られています。告白が信仰の原点となるのです。
2. 問いと答え
使徒信条は三位一体の神への信仰告白です。
「もし神が存在しても,答える必要はありません。しかし,人間が存在するならば,耳を澄ます義務があります。」(ギドン)
私たちが人間として生き,考え,感じ,行動しているならば,なぜこのような「人間」としてここにいるのかを考えざるを得ません。神がいるか,いないかではなく,この私が偶然存在しているのか,否か。この問いに対して,神は聖書を持って確かに答えています。
3. 「天地の造り主」
天と地-私たちの目に入るもの全て,という意味です。人間は無から創造することはできません。全てを創造したお方,それが神です。目に見えない心,人格,存在そのものを形作ったお方です。そして神は全ての創造物を「よい」としました。神を信じるということは,この世界やいのちをすばらしいとすることです。そこに神の栄光のみ業を見るのです。
4. 「全能なる神」
全てが可能であり,全てが実現していく-それだけではありません。全地を創造した方は,私たちの心の内側に至るまでご存知であり,全てのものがこの方の影響を受けています。天地の創造主は,世界を放置し人間を野放しにはしていません。今もこの世界に影響を与えているのです。
5. 「父なる神」
御子キリストとの関係のゆえに,父なる神と告白されています。そしてさらに御子キリストの十字架のゆえに,私たちもまた神を父と呼ぶことが許されています。神は私たちの父であることを否んではいません。この時代は傲慢な時代です。神を信じるとは,私たちのあらゆるところに,神を認めていく,いや認めざるを得ないことを知ることなのです。
[考えるために]
聖書に示された神はどのような方なのでしょうか。また神を信じて生きるとはあなたにどのような意味を与えるでしょうか。
投稿者 mb-church : 19:22 | コメント (0) | トラックバック
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2005/2/27礼拝メッセージ
2005年2月27日の礼拝メッセージの要約です。
「あなたの手をとる御手」
詩篇73篇より
1. アサフの悩み
この詩篇には,他人との比較において苦しみ,痛んでいる人の姿があります。この詩篇の著者は生きる中での不条理に心を奪われています。著者は「悪者」を神に告発していきます。「神など関係がない。私は健康であるし,全てがうまくいっている。神などいてもいなくても同じだ」と悪者は言う。しかし,悪者は相変わらず「いつまでも安らかで,富を増している」かのよう・・・ここに著者の悩みの極みがあるのです。
2. 悩みの発端
彼はなぜこのような自己憐憫に陥っているのでしょうか。彼は精神的にも肉体的にも痛んでおり,病を負っていたようです。なぜ神を信じ,従っている私は苦しまなければならないのか。私たちの目の前にも同じようなことが起こっています。この世界を見渡すときにあふれている悪の支配,暴力,死,戦争,なぜなのか。神などいるのか?いっそのこと,悪者と同じように「このままを述べよう」と彼は思います。そのほうがこの苦役から解放される。その方が楽になれる。そのぎりぎりのところで彼は葛藤します。
3. 大転換
彼はついに神の御前に出ます。彼が見たのは,人の行く末でした。人の行く末。それは神の裁きの前に立つこと。どんなにこの地上で栄えようと,満ち足りようと,神の裁きの前に立ちおおせるものはいないことに気がつきます。そして何よりも彼は自身の愚かさを知ることになりました。神は沈黙していたのではなく,ただひたすら私の右の手をつかまえていたということを知ります。私の手を以前からつかんでいた力強いみ手の確かさを知るのです。
4. 神との距離
神との距離,これを縮めることのできる人は一人もいません。その間には人間の罪があることを聖書は語っています。イエスの十字架は,神自らがこの距離を縮めてくださった証です。神は十字架を通して,私たちの右の手をしっかりと握っておられるのです。
〔考えるために〕
あなたと神様とは,今どのような距離にあるでしょうか?
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2005/2/20礼拝メッセージ
2005年2月20日の礼拝メッセージの要約です。
「主のいのり-4-」
マタイの福音書6章9~15節より
1. 「私たち」の祈りとして
ルカの福音書では,弟子たちが「ヨハネが弟子たちに教えたように,私たちにも祈りを教えてください」と願っています。主の祈りには,「個人的な祈り」以上のものが祈られています。聖書の中では,個人的な祈りだけではなく,共同体の祈りもとても重要な祈りとしてとりあげられています。
2. 教会に与えられた祈り
主の祈りは,教会に与えられた祈りです。この祈りを祈ることによって,私たちは「祈り」そのものを教えられます。また,互いに祈りあえる特権が与えられています。しかし,その一方で,この祈りはあまりにも頻繁に,無自覚に,そして惰性的に唱えられてきました。だからこそ,今日,この主の祈りを,自覚的にともに祈りたいのです。この祈りが,何よりも「私たちの」と言っていることに目を留めさせていただきましょう。
3. 「私たちの」
「私たち」とはいったい誰でしょうか。「私たち」が全人類であるとの指摘もあります。確かに,この祈りは,今日まで全世界の教会で祈られてきました。私たちは,誰かに祈られ,そして誰かのためにも祈ることが求められている・・・私たちは,決してひとりで生きているのではありません。この祈りにあるように,「私たち」と言える人々とともに祈りあいながら生きることが赦されているのです。
4. 共同の祈り
マタイの福音書には複数で祈る祈りが語られています。「私たち」という祈りは,大きなうなりのような祈りです。その中心にはイエス・キリストがいます。神に赦されたものとして互いに赦しあう和解は大きな広がりを持つものです。十字架の赦しの大きさは,他の人の罪を赦すほどの大きな力となります。そして,赦された者たちの共同の祈りもまた,大きな力が与えられているのです。
〔考えるために〕
「私たち」という言葉をあなたはどのように受けとめているでしょうか。
ともに祈る友が私たちに与えられています。心をあわせて祈りをささげていきましょう。
投稿者 mb-church : 18:47 | コメント (0) | トラックバック
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2005/2/13礼拝メッセージ
2005年2月13日の礼拝メッセージの要約です。
「主のいのり-3-」
マタイの福音書6章11~13節より
1. 四つ目の祈り
私たちは,何でも神様に祈ることが赦されています。しかし,キリストは「天の父は,あなたがたがお願いする先に,あなたがたに必要なものを知っておられる」とも言っています。当時の人々は「日ごとの糧」から出エジプトにおけるマナを思い出したことでしょう。この祈りは,日常のあらゆる事柄にまで,私たちを生かす方,全てを備え,与えてくださる方を覚えるためのものです。この祈りを通して,私たちは神に生かされているのだということに,気付かされるのです。
2. 五つ目の祈り
私たちは神に負い目があります。神を神とせず,自分本位に生きています。「我らの罪をお赦しください」という祈りは,本当は切実なものなのです。しかし,多くの人がここから目を背ける祈りでもあります。この祈りは,キリストにあって真実に聞き入れられます。そして,神にある赦しは,個人的なものでは終わりません。罪の深刻な影響下に私たちは置かれています。しかし,キリストにあるときに,私たちの内にはまったく違うものが生れます。その新しいいのちは,罪と同様に,いや,それ以上の影響力をもって,私たちの周囲へと広がっていくのです。「私たちも,私たちに負い目のある人たちを赦しました」という告白は,罪赦された者の言葉です。私たちはキリストにある和解をもたらすものとなるのです。
3. 六つ目の祈り
罪赦された私たちの生涯は,まだ神の国が完成する一歩手前にある苦しみが確かに存在するこの世に置かれています。私たちが神の国の民として歩むときに,この祈りは切実な祈りとなります。ここで,悪に対して打ち勝つことができるように力をください,と祈っていないことに気がつきます。この祈りは,神が全ての出来事を支配し,救い出してくださる方であることを確信している祈りです。誘惑,試みすら,神の御手にあり,そして何よりも悪そのものから救い出してくださるのは,神ご自身であるとの信仰があります。「国と力と栄とは,とこしえにあなたのものだからです」との言葉をもって,主の前にへりくだりましょう。
〔考えるために〕
この祈りを通して示される,神が私たちに求めておられることとは,どのようなことでしょうか。
投稿者 mb-church : 11:37
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2005/2/6礼拝メッセージ
2005年2月6日の礼拝メッセージの要約です。
「主のいのり-2-」
マタイの福音書6章9~10節より
1. 天の父よ
私たちが祈る相手はどのような方でしょうか。それは私たちを創造し,愛し,今ここにおられる方。その方に対して私たちは祈ります。その方は私たちにどのような関係を開いておられるでしょうか。それが「私たちの父」「天におられる」との呼びかけに表されています。偉大な神から,父と子の親密な関係を開いてくださっているのです。
2. 一つ目の祈り-御名があがめられますように-
この祈りは「あなたの名が聖なるものとなるように」とも訳せます。神の名は,聖書においてとても重要なものとして扱われてきました。それは単なる記号ではなく,その方自身を表すもの,それが神の名でした。なぜ神の名が聖なるものになるように祈るのかと言えば,私たちの方こそ,神を聖なるものとして意識しなければならないほど罪深い者たちだからです。この方こそ真の神であり,私たちの唯一の神であることを,私たち自身がまず覚えるのです。
3. 二つ目の祈り-御国が来ますように-
御国,神の国。それは,神の計画と切り離すことのできないことばです。エペソ書で語られていた神の計画を思い返すことができます。それは,キリストにあって全てのものが一つとなり,神の前にひれ伏すという計画。これこそ,私たちがまず祈るべきことです。神の国,和解,平和・・・御国が来ますように。それらが,今,この身に起こりつつあり,そしてそのご計画が完成するように,と祈る祈りです。
4. 三つ目の祈り-みこころが行われますように-
詩篇143篇には「あなたのみこころを行うことを教えてください」という祈りがあります。私たちの力ではなく,キリストにあって,私たちは義とされ,恵みによってあらゆる事柄から守られると,詩篇の著者は告白しています。みこころが行われますようにとは,私,そして教会を通して,神のみこころこそが優先されるように,そう祈る祈りなのです。
〔考えるために〕
この3つの祈りは,私たちに何をもたらすでしょうか。
私ではなく,神,あなたを中心に置くことができますように。アーメン
投稿者 mb-church : 18:00 | コメント (1)
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2005/1/30礼拝メッセージ
2005年1月30日の礼拝メッセージの要約です。
「主のいのり-1-」
マタイの福音書6章5~8節より
1. 偽善者のように
ここで,偽善者の祈りが取り上げられています。彼らは,神を知りつつも,自分のために,自分の都合で祈りをしています。ここで,イエスが問題にしているのは,なぜ祈るのか,誰に祈っているのか,ということです。偽善者に対し,イエスはあえて逆のこと,人前ではなく奥まった部屋で,隠れておられる神に祈りなさい,と言います。自分自身を先行させることのゆえに,神を見失う姿がここにあります。
2. 異邦人のように
異邦人の祈りもまた同じように取り上げられています。熱心に,ただ回数を多く祈ればそれで聞かれるのでしょうか?これもまた祈りの本質を見失っている姿です。このようにイエスは言います。神は私たちが祈る前に必要なものを知っておられる。それでは祈る必要がない!そう思ってしまうことこそ,私たちの根本的な間違いをあらわにしています。この根底には,祈るのは私の必要を知っていただくためだという考えがあるのです。
3. 祈りとは?
祈りについてここから二つのポイントをあげることができます。一つは,神は祈りを通して「あなた」と「わたし」の関係を大事にしようとしているということです。私たちが祈るのは,自分を高めるためでも,義務でもありません。祈りを通して神との親しい関係が与えられます。そして二点目は,神は私たちと呼吸を合わせようとしておられる,ということです。神の側にはすでに用意はあります。しかし,私たちの方が神との呼吸があっていないのです。私たちは自分のタイミングばかりを気にして,神と呼吸をあわせようとしていないのです。祈りを通して,神との呼吸をあわせ,その御腕に飛び込んでいきましょう。
〔考えるために〕
あなたの祈る相手はどのようなお方ですか?
祈るときに大事なことは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 17:09 | コメント (2) | トラックバック
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2005/1/23礼拝メッセージ
2005年1月23日の礼拝メッセージの要約です。
「祝福のいのり」
エペソ人への手紙6章23,24節より
1. 祝福の祈り
日本において祝祷というと,祝福の祈願と考える方も多いのではないでしょうか。しかし,礼拝における祝祷は異なる意味を持っています。礼拝の最初には「招詞」があります。これは,神様の側の招きです。そして,礼拝の最後には祝祷があります。これは「派遣」の性質を持っています。それは,人が与える祝福の祈りではなく,神による派遣のことばです。私たちは,神様によって召され,そして遣わされていくのです。
2. 平和と愛
23節を直訳すると,「兄弟たちにある平和,そして信仰とともなる愛が,父なる神と主イエス・キリストから」となります。平和と愛・・・それは,この手紙における主題です。キリストにある平和,ひとつに集められるということと,それを実現にいたらしめる神の愛,そして互いへの愛が最後に求められています。私たちがキリストによって救われたのは,平和と愛のためです。福音の大使として遣わされているのです。
3. 恵み
24節を直訳すると,「恵みが,私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人々と共に,朽ちることなく」となります。つまり,神の恵みが,主イエス・キリストを愛するすべての人々とともに,朽ちることなくあるように,ということになります。この恵みこそ,私たちが忘れることのできない原点です。神のご計画の中に呼ばれ,そして入れられている。この恵みを心から喜びましょう。この恵みは,決して朽ちることがありません。そこに,変わらぬ神の約束と愛,そして必ず成し遂げられる神のご計画があるのです。平和と愛と恵み,これらを携えて,私たちはそれぞれの場所へと出て行きます。私たちは,この世において,神のご計画に従って遣わされていることを信じて歩ませていただきましょう。
〔考えるために〕
祝祷とは何でしょうか。
あなたはどこに遣わされているのでしょうか。