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2012年01月26日

2012/1/22礼拝メッセージ

2012年1月22日の礼拝メッセージの要約です。
マルコの福音書1:16~20
「イエスの招き」

1. キリストの招き
 今日の箇所は、ペテロたちがイエスに声をかけられ、そして応答する場面です。当時、律法の教師たちが、弟子を取るということがありました。しかし、多くはこのような方法を取りませんでした。しかも、当時は家業を継ぐということが一般的でもありました。そのような彼らが、すぐに自分たちの職と家を捨て、イエスの言葉に従いました。なぜなのでしょうか。詳細な理由は書いていません。ただ彼らは従ったのです。この時のペテロたちが、イエスのことを正確に理解し、先のことを分かっているのかといえば、全く分かっていなかったことでしょう。それでは、ペテロがこの場面で教会に、また私たちに語ろうとしたことは何だったのでしょうか。

2. ペテロの驚き
 一つは、漁師であった自分たちに声をかけたという驚きです。なぜ私たちであったのか。その理由はよく分かりません。しかし、ここで注目すべきはイエスの言葉です。「私について来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」ここには難しい言葉はありません。ただ漁師であった彼らにとって、とても気になる一言だったのは確かです。人間をとるということが何を意味するのか。またそれが自分たちにできるのか。しかし、その言葉は彼らの心を捉えてしまったのです。結果、ペテロたちはどのような道をたどることになったでしょうか。彼らは後の教会の基礎、信仰者の代表となっていくことになります。彼らはただの漁師です。何か特別な能力があったのではありません。しかし、彼らはイエスが約束されたように、人をとる漁師へと変えられていくことになるのです。

3. 即座の応答
 それはペテロひとりの話ではありませんでした。シモン・ペテロと兄弟アンデレ、またヤコブとその兄弟ヨハネという漁師四人であったのです。ここに教会の息吹を感じることができます。キリストが言葉どおりに、いえ、自分たちの思いをはるかに越えた形で導いてくださったという証がここにあります。アブラハムにも最初の一歩がありました。神を信頼しての一歩です。彼らは即座の応答をしています。私たちにもキリストは呼びかけています。それぞれにその呼びかけは違うことでしょう。しかし、ここで彼らは、自らの頼みを即座に脇に置いたのです。そこから彼らの新たな歩みは始まりました。私たちもその一歩を踏み出してまいりましょう。

投稿者 mb-church : 14:04

2012/1/15礼拝メッセージ

2012年1月15日の礼拝メッセージの要約です。
マルコの福音書1:14、15
「時は満ちて」

1. キリストは何を伝えられたのか
 これは大切な、そしていつも私たちが戻らなくてはならないテーマの一つです。イエスが伝えられたことの中心はいったいなんだったのでしょうか。キリストは、荒野での試みを退けられた後、公の宣教活動を始められます。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」イエスは言いました。時がついに満ちたと。それでは、いったい何の時が満ちたのでしょうか。この時とは、神の約束の成就の時を指しています。それは旧約聖書に語られている神の救いの約束です。長い年月をかけ、神が示し、民に教え続けられたことが、遂に実現へと至るそのときが来たのです。

2. 時が満ちる
 時が満ちたことは、異邦人である私たちにとっても無関係ではありません。神のかたちに創造された人である限り、神にある祝福に預かる必要があるのです。私たちは普段、物事の根本を問わずに生きています。しかし、聖書は、私たちにその根本を問いかけてきます。あなたは一体誰なのか。そして、それと同時に気がつかされるのです。いかに、人が始めの場所を失って歩んできてしまったかということを。それは私たちの中に「神」という絶対者が不在となっている現実です。そのような私たちに、神は救い主を与えてくださるのです。そしてキリストはついにこのように語られました。「時は満ちた」と。

3. 悔い改めるということ
 そしてキリストはこのように次に教えられました。「神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」もし、私たちのところに、今神が来られるのだとするとどうでしょうか。また神が本当に、私たちと一緒に歩まれるということであれば、皆さんはどのように思われるでしょうか。聖書の語る悔い改めとはどのようなことでしょうか。それは神の前で自分には隠すところがないだろうかと問うことです。つまり神から出発して自分たちを見つめなければ、真の悔い改めには至らないのです。「悔い改めなさい。そして神のご支配の中で、イエスを信じなさい。」私たちは真に悔い改めて、神のご支配の中で、イエスを信じて歩みだしてまいりましょう。

投稿者 mb-church : 14:02

2012/1/8礼拝メッセージ

2012年1月8日の礼拝メッセージの要約です。
マルコの福音書1:9~13
「たとい荒野にあったとしても」

1. マルコの福音書
この福音書は福音書の中でも早い時期に記されたものです。紀元60年代にローマで執筆されました。著者はマルコと言われています。この書の執筆に関しては主にペテロからその情報を得たのではないかと考えられています。これらのことに関して確かな証拠はありません。しかし、明らかなことは、この福音書が初期の教会において大切に読まれ、そしてキリストを証するものとして重要な役割を担い、この書から教会の人々がともに聴いたということです。私たちも、今、目の前でこの書が開かれ、読まれ、ともにキリストの言葉を、キリストの姿をともに聞き、見ているのだということを意識したいと思います。

2. イエスのバプテスマ
 「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」この神の祝福の宣言は、キリストに従う者すべてに与えられた宣言でもあります。すでに天の扉はキリストによって開かれています。私たちの目にはすべてを見ることはかないませんが、神の祝福のことばは響き渡っています。バプテスマは、このことの確かな印です。マルコは、イエスのバプテスマの直後に、イエスが荒野に追いやられたことを記しています。神の祝福の直後のことです。出エジプトの出来事を連想させます。荒野での出来後は、さまざまなことを私たちに物語ります。それは私たちの生涯でもあり、通る苦難でもあるでしょう。イエスも祝福を受けられた後に荒野へと向かうのでした。

3. 荒野でのイエス
 神は、荒野でのイスラエルの歩みを支えられるための備えを十分にしてくださいました。しかし、民は目の前の状況に飲み込まれてしまうのです。そして民は嘆きます。私たちもまた、何度も、その生涯の中で、嘆き、また目の前の試練に打ち倒れそうになります。まるで荒野にいて、身を守るものもなく、野の獣に囲まれているようなそんな絶望的な状況にいるかのように思うときがあります。しかし、私たちはここでのキリストの姿をともに見ることができるのです。キリストもまたサタンの試みを受け、さらに野の獣と隣あわせになります。しかし、その時であっても、御使いたちがイエスに仕えていました。今も私たちのことを神はご自身の愛する子として、支え守り続けてくださいます。私たちの周りには、神の御守りがあり、御使いもまたそこにいるのだということ、私たちは信仰によって見ることが許されています。私たちは、このキリストの姿をともに見させていただきたいのです。

投稿者 mb-church : 14:00

2011/12/25礼拝メッセージ

2011年12月25日の礼拝メッセージの要約です。
マルコの福音書1:4~11
「ともに歩んでくださるお方」

1. クリスマスおめでとう!
クリスマスおめでとう、という言葉はいったい誰に向けられた言葉でしょうか。私たちの救い主キリストを送ってくださった神にむけて、私たちは感謝をします。しかし、感謝であれば、クリスマスおめでとうではなく、クリスマスありがとうということになるでしょう。クリスマスおめでとう、それは私たちに向けて言われていることばです。クリスマスは、救い主が、私たちに与えられた日です。その喜びの言葉、それがクリスマスおめでとうなのです。

2. キリストはどこに来られたのか?
キリストは、どこに生まれてくださったのでしょうか。それは最も悲惨な場所でした。何もない、闇しかない、また冷たく、汚れた場所でした。本当にさびしい場所に、キリストは生まれてくださった。それはとても象徴的なことなのです。救い主が、最初に降り立った場所、それは紛れもなく、私たちのこの世界のもっとも日の当たらない場所でした。そこに小さな光がともされたのです。私たちが考えうる希望とは何でしょうか。それはいつでもともに歩んでくださる方がいることではないでしょうか。この世界は、また私たちはうめきながら歩んでいます。そのような世界に、私たちの現実に、キリストは来てくださったのです。

3. イエスのバプテスマ(洗礼)
キリストはその宣教のはじめに、バプテスマのヨハネから悔い改めのバプテスマを受けられました。なぜならそれが私たち人の歩むべき道にあるからです。キリストは、この先、十字架へといたるその道々で、多くの困難、悩み、痛みを負うことになります。しかし、決してその歩みをそらすことも、またその歩みが無為に終わることもありませんでした。そして最終的に、復活と栄光の神の右の座へと上られていきます。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」この言葉は、イエスご自身に神が語った言葉でもあり、また私たち一人一人がキリストと、ともなる歩みをするときに、私たち一人一人にも語られている言葉なのです。

投稿者 mb-church : 13:58