« 2011/10/30礼拝メッセージ | メインページへ | 2011/11/13礼拝メッセージ »
2011年11月26日
2011/11/6礼拝メッセージ
2011年11月6日の礼拝メッセージの要約です。
創世記33章
「和解の福音」
1. 目を上げて見る
「目を上げて」これは主がともにおられ、主とともに見ることを思わせる言葉です。ヤコブも今その時にありました。新しい名イスラエルを神からいただいたヤコブ。そのヤコブがここで見たものは何でしょうか。彼が見たのはエサウ率いる四百人の群れでした。昨日までの彼にとって400という数字は恐怖にしかすぎない存在でした。ヤコブは簡単にその恐れを克服できたわけではありません。彼はヤボクで、弱い自分のまま神と向き合い格闘しました。そしてついに、神からの約束の言葉を獲得することができたのです。ヤコブにとって大事なのは、神と向き合ったこの濃密な時間です。
2. へりくだるヤコブ
ヤコブは以前に考えていた方法をすべて止めました。一番後ろに控えているはずのヤコブは、今群れの先頭に立って進んでいきます。エサウはただ自分に危害を加えるものではなくなっていました。必ず和解すべき、自らの命を懸けてでも赦され、和解すべき存在となっていたのです。ヤコブは、七回も地に伏しておじぎをしました。それは完全なるへりくだりを示しています。私たちは大概、自らの方に多くを願い、相手から奪いとる、そのような方法を考え、選び取ろうとしてしまうものです。ヤコブのこれまでの歩みは、図らずもそのことを示していたように思います。神の祝福を願ったそのことが、兄の恨みを買い、家族の分裂を引き起こしてしまいました。しかし、ヤコブは、ここで完全にへりくだり、そして自らを他者にささげきるのです。
3. 和解の福音
へりくだる姿は、キリストの姿にも見出すことのできるものです。しもべの姿をとることは決して簡単なことではありません。エサウは彼を迎えに走って来て、ヤコブをいだき、首に抱きついて口づけし和解をしました。ヤコブはイスラエルとして神の選びにあずかったものであることは間違いがありません。しかし、それは何のための選びであったのでしょうか。それは主にある和解をもたらすためでした。ヤコブの謙遜は彼の恐れから出ているものではありません。これはすべてイスラエルとされたヤコブの喜びから出てくる行動なのです。神から赦され、さらにエサウの赦し、和解を得たその喜び。それはキリストのもたらす福音の響きにも含まれるものです。神の勝利は、相手を打ち負かし圧倒することではなく、相手に与え、そして和解をなしとげたという勝利だったのです。
投稿者 mb-church : 2011年11月26日 13:11