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2011年11月26日

2011/11/20礼拝メッセージ

2011年11月20日の礼拝メッセージの要約です。
創世記34章
「神の側にある救い」

1. 創世記34章
 聖書には違和感が残るような、釈然としないそのようなストーリーが、私たちの前に突如提示されることがあります。私たちの人生も、そのような側面を持っています。なぜこのようなことが起きたのか?そのように神に思わず問わずにはいられないようなことが突如として起きます。この34章もそんな現実の物語です。ヤコブは、自身の誓いに従わず、シェケムの町の近くに宿営し、そしてそこで土地を買い祭壇を築きました。なぜここで留まってしまったのでしょうか。このことが悲劇を生むことになります。

2. 事件
 娘のディナが辱められるという事件が起きます。さらにシェケムの民は、ヤコブたちと近しい存在になることを望んできます。この事件そのものは「悲劇的」な結末で閉じることになります。結局、シメオンとレビが、その町の民の男子を殺戮し、そして略奪するという悲惨な結果となってしまうのです。ここに、私たちは何を見いだせばいいのでしょうか。ヤコブも何を考えているのか分かりません。どこをとっても、正しさのかけらもない、そんな事件です。この34章には神は出てきません。神は沈黙しておられます。34章では神が出てこないのです。

3. 神からの語りかけ
 35章でようやく神は語られます。まさにその通りのことが今も起きています。私たちも、日々の生活の中で神を締め出しています。神を待ち望むよりも先に、自分の思いに従い、神の望まれるあり方や手段よりも、自分たちが満足する方法を選び取ってしまいます。私たちは絶えず、神に救いを求める思いと、神を私たちの場から追い出そうとしてしまう自我との狭間で揺れ動いています。この一連の問題の中で、ヤコブはずっと問われ続けています。あなたはこの問題を解決することができるのかと。しかし、ヤコブは答えることができないのです。しかし、神は次のようにヤコブに語りかけました。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。」私たちは、現実に対してなかなか答えが出せずにいます。しかし、聖書が私たちに絶えず語りかけるのは、神はそれでも、私たちを憐れんでおられるということ。そして神の側から救いを与えてくださるという約束なのです。

投稿者 mb-church : 13:15

2011/11/13礼拝メッセージ

2011年11月13日の礼拝メッセージの要約です。
詩篇127篇
「主が建てるのでなければ」

1. 主が家を建てるのでなければ・・・
 この詩篇における「家」とは、「ダビデ王家」を指していると考えられます。イスラエルは、とてもユニークな使命を負わされた国です。他の国が、人を王にし、武力に頼り、むなしい人の手によって造られた偶像を神とし、その力を利用する中、イスラエルは、天地を造られた神を主とし、王とする国として歩みを進めました。

2. ともなる神
 私たちは困難ある現実を前にして生きています。それでも私たちは毎日起き上がります。そして労し、そして食を得る・・・。労苦し、そして悩み、時に病まで得て、この道を歩まざるを得ません。それは何のためなのでしょうか。イスラエルの民は、どの民よりも苦難を通らされ続けた民です。それでも、彼らはまことの神への信頼を止めず、神に感謝をささげ、神のみこころを行うことを第一のこととし続けてきました。その歩みは、私たち人間の歩みそのものを表すものでもあります。しかし、聖書は語り続けます。そのどの時でもあっても、神はあなたとともに歩んでいるのだと。そして神抜きで心配し、労苦することをやめよと語りかけます。

3. ともに歩む私たち
 一転して「こども」にフォーカスが当たります。国としても、こどもが多く与えられることそのものが神の豊かな祝福の表れであったことでしょう。こどもたちを祝福する、それはただこどもがかわいいからだけではありません。まさに主が与えてくださった私たち家族の一員だからです。神の国、神の家族の一員だから、ともに祝福するのです。いのちが与えられること、それは究極的に主の業にほかなりません。このこどもたちを大切にし、神のご支配へとともに歩んでいくことは、主の家にとって重要な働きです。私たち教会が語るべきは神と人との絆です。そしてその絆は、神とわたしたちの絆なのです。そしてそれはキリストにある絆です。私たちは、キリストのからだとして一つとされていること。キリストにある絆に結ばれていることを、互いに感謝してまいりましょう。

投稿者 mb-church : 13:13

2011/11/6礼拝メッセージ

2011年11月6日の礼拝メッセージの要約です。
創世記33章
「和解の福音」

1. 目を上げて見る
 「目を上げて」これは主がともにおられ、主とともに見ることを思わせる言葉です。ヤコブも今その時にありました。新しい名イスラエルを神からいただいたヤコブ。そのヤコブがここで見たものは何でしょうか。彼が見たのはエサウ率いる四百人の群れでした。昨日までの彼にとって400という数字は恐怖にしかすぎない存在でした。ヤコブは簡単にその恐れを克服できたわけではありません。彼はヤボクで、弱い自分のまま神と向き合い格闘しました。そしてついに、神からの約束の言葉を獲得することができたのです。ヤコブにとって大事なのは、神と向き合ったこの濃密な時間です。

2. へりくだるヤコブ
 ヤコブは以前に考えていた方法をすべて止めました。一番後ろに控えているはずのヤコブは、今群れの先頭に立って進んでいきます。エサウはただ自分に危害を加えるものではなくなっていました。必ず和解すべき、自らの命を懸けてでも赦され、和解すべき存在となっていたのです。ヤコブは、七回も地に伏しておじぎをしました。それは完全なるへりくだりを示しています。私たちは大概、自らの方に多くを願い、相手から奪いとる、そのような方法を考え、選び取ろうとしてしまうものです。ヤコブのこれまでの歩みは、図らずもそのことを示していたように思います。神の祝福を願ったそのことが、兄の恨みを買い、家族の分裂を引き起こしてしまいました。しかし、ヤコブは、ここで完全にへりくだり、そして自らを他者にささげきるのです。

3. 和解の福音
 へりくだる姿は、キリストの姿にも見出すことのできるものです。しもべの姿をとることは決して簡単なことではありません。エサウは彼を迎えに走って来て、ヤコブをいだき、首に抱きついて口づけし和解をしました。ヤコブはイスラエルとして神の選びにあずかったものであることは間違いがありません。しかし、それは何のための選びであったのでしょうか。それは主にある和解をもたらすためでした。ヤコブの謙遜は彼の恐れから出ているものではありません。これはすべてイスラエルとされたヤコブの喜びから出てくる行動なのです。神から赦され、さらにエサウの赦し、和解を得たその喜び。それはキリストのもたらす福音の響きにも含まれるものです。神の勝利は、相手を打ち負かし圧倒することではなく、相手に与え、そして和解をなしとげたという勝利だったのです。

投稿者 mb-church : 13:11

2011/10/30礼拝メッセージ

2011年10月30日の礼拝メッセージの要約です。
Ⅰコリント3:1~3
「十字架の主を見上げて」

1. コリントの町
 コリントの町は非常に栄えた町として知られています。ローマによって紀元前146年に侵略され廃墟となりました。紀元前44年になってから、ローマの植民地として再建されました。コリントの町は他民族の町で、商売、貿易、産業の町としても繁栄を誇り、人々は「競争社会」で生きていたといわれています。ある人はコリントの町は現代に近いものを持っているとも言います。コリントの教会の人々も、その町の影響を深く受けていました。「知恵」「霊的」「自由」そのような言葉を、彼らは自分たちに都合よく使っていました。しかし、彼らも自分たちがどのような状態であるのか、何が誤っているのかはよく分からなかったのです。

2. ただの人のように
 コリントの教会にパウロは「ただの人のように歩んでいるのではありませんか」と問いました。コリントの教会には対立がありました。ある人々は自分たちのことを高い次元にあると誇り、霊的であると言っていました。クリスチャンであることは力を得ること、それが彼らにとって信仰の確信のよりどころともなっていました。ここで問題となっているのは違いがあることではありません。むしろなぜこのような対立が起き、溝が深まっているのかということです。この対立はねたみや争いによって、それが引き起こり深まっていました。いかに霊的であるかのように見えようと、能力があり、社会的に成功しているかのように見えようとも、十字架が語られず、キリストが、その人から透けて見えない、そのような者であるならば、それのどこが御霊に満たされている人なのかとパウロは問います。

3. 十字架の主を見上げて
 十字架の主、キリストの姿とはどのようなものでしょうか。十字架は敗北の印です。それはコリント社会の持つ価値観とは相反するものでした。十字架によってコリントの教会はスタートしたことは間違いありません。しかし、気がつけばコリントの教会は、十字架を語らず、誇らず、むしろ力や弁論、富、豊かさ、目に見えるもの、それらを誇るようになっていきました。私たちは、どこに信仰の確信をおいているのでしょうか。なぜ十字架のイエス・キリストが、私たちの力となるのでしょうか。これは大事な出発点です。問題は、教会の中心である十字架が、キリストが、その中心からずれてしまうことにあります。だからこそ、私たちは絶えず十字架の主の前にへりくだることが求められているのです。

投稿者 mb-church : 13:10

2011/10/23礼拝メッセージ

2011年10月23日の礼拝メッセージの要約です。
創世記32:22~32
「新しく生まれる」

1. イスラエルという名
 この場面で、ヤコブは神から別の名前「イスラエル」をもらいます。その名前には、神と戦う者、神にある勝利、そのような意味があります。ここでヤコブは、群れを先に渡らせ一人ヤボクに残りました。なぜ彼は一人残ったのでしょうか。家族を先に渡らせたのも、一人後に残ったのも、それはヤコブが一人孤独に神と向き合うためでした。一人神の前に立つときが私たちにも必要です。ヤコブは、時間に余裕があったから一人の時を持ったのではありません。彼にとって、その時間が本当に必要であったのです。

2. 格闘するヤコブ
 すべての手は尽くしました。兄エサウも、そろそろ向こう岸に着くころです。しかし、もう一歩、ヤコブは神に近くあることが必要であると感じていました。そして彼は神と格闘します。文字通りの格闘です。神と全身全霊の死闘を繰り広げました。そして何と神の側のほうが、ヤコブに勝てないと思うに至ります。神はヤコブに勝てないわけではありません。ここで強調されているのは、ヤコブの神の力をも圧倒する粘りです。腿のつがいが外されてもなお、神にしがみつくヤコブのしつこさ。ここで神の側が根負けしている様子がよく分かります。ヤコブは神の「祝福」を切に求めます。しかし、すでに彼は以前、神の祝福を受けていたのではなかったでしょうか。

3. 最大の祝福
 神の祝福は確かな約束です。しかし、私たちはただ約束をもらったから、それでもうすべてが手に入ったというわけではありません。神を知り、そして信じてからこそ、本当の神への求めと祈りの生涯が始まっていきます。「人間の主な最高の目的は神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことです。(ウェストミンスター小教理問答)」私たちの生涯は神とともに歩む、そこに真の祝福があります。ヤコブにとって最大の祝福とは、神ご自身にありました。ヤコブもまた、自分自身の弱さ、愚かさ、小ささを思うときに、神の祝福に決して値しない自分であることを、痛感していたことでしょう。しかし、ヤコブは、そこからなお神に祝福を願ったのです。ヤコブは神の祝福を求め、そしてついには赦され、勝利の宣言を得ました。私たちも、神にあって新しいいのちを得なければなりません。ヤコブが神から新しい名をいただいたように、私たちもキリストにあって新しい歩みを得させていただきのです。

投稿者 mb-church : 13:08

2011/10/9礼拝メッセージ

2011年10月9日の礼拝メッセージの要約です。
創世記32:1~21
「ヤボクの前で」

1. ヤコブが直面したこと
 ヤコブが故郷へ帰るということ。それは兄エサウとの対面が待っているということでもありました。ヤコブは故郷の地へと入る、その手前までやってきました。ここで彼が渡らなくてはならない場所がありました。それがヤボクです。この場所は簡単に通れるような所ではなく、まさに格闘することが必要なそんな所でした。どのように兄と対面すればいいのだろうか・・・以前の自分とは違う・・・しかし、以前のままの自分でもある・・・そのような複雑な内面を抱えたまま、このヤボクを前にしたのです。そのとき、神の御使いたちが彼に現れました。彼を支えるのは神への信仰でした。そして、ヤコブは、この場所から兄に使者を送ることにします。それは、和解のために戻ってきたことを知らせるためでした。

2. ヤコブの最善
 使者が伝えたのは「あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます」という知らせでした。ヤコブはこのことに非常な恐れと心配を抱くことになります。しかし、引きえそうとは考えませんでした。ここで群れを二つのグループに分けることを考え付きます。この時にもヤコブは神の約束を信じ、武力によらず、平和的に事を進めようとしていることが分かります。そして彼は祈るのです。彼の祈りは真実なものです。そして彼は自分のことを告白します。彼は自分の弱さを自覚しています。何よりも兄エサウを恐れています。彼にとってこのことは自分では到底乗り越えることのできないものでした。神が共にいることは分かっています。しかし、それでも襲う不安、弱さ。そして彼は祈りつつ、備えるのです。ヤコブはエサウへの贈り物を準備します。これがヤコブの考えうる、できうるこの時点での最善でした。

3. 最後の砦
 しかし、それでも彼の力では乗り越えることのできない最後の砦がありました。それが自分自身の弱さでした。彼の中から出てくるものはヤコブそのものでしかありません。神への信仰を持って歩むということは、さらに大きな局面を乗り越えるものであることを、私たちはこの後のヤコブの経験から知ることになります。これらのことは、「ヤコブ」という人を神の器として完成へと導く、神の丁寧な取り扱いです。古い自分、自分自身の弱さとの対決がここにあります。私たちは神の取り扱いの中で、切に祈らされ、そして神の御思いを知り、神の御力に支えられ、押し出されていくのです。

投稿者 mb-church : 13:06