« 2011年08月 | メインページへ | 2011年11月 »

2011年10月09日

2011/10/2礼拝メッセージ

2011年10月2日の礼拝メッセージの要約です。
創世記31:17~55
「証の塚を前にして」

1. ヤコブの旅立ち
 心を決めた後の彼の行動は早いものでした。彼は逃げるようにしてこの地を去ります。しかし、ラバンが何もせずに行かせるわけはありません。ラバンに追いつかれてしまいます。ヤコブも容易にそのような事態は想定できたことでしょう。いずれにせよヤコブはラバンとの前面対決を避けます。ここにヤコブの信仰が働いています。現実を前にして、どの道が正しいのか分かりません。しかし、その中で祈り、考え、決断をし、そして必ずあなたと共にいると約束してくださった神のことばを信じる信仰を持って一歩を踏み出していくのです。

2. ラバンとの対峙
 ラバンはヤコブたちに追いつきました。ラバンは事前に「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ」と神から語られていました。しかし、ラバンは事の善悪を論じています。しかし、これらの言葉の背後にあるのはラバンの恐れです。その恐れは「神」に対するものでした。「なぜ、私の神々を盗んだのか?」これがラバンにとって一番大事なことでした。ラバンは表向きの態度と異なり、恐れと不安に心を満たされています。力はヤコブよりもあったかもしれません。しかし、彼が本当に信頼していたのは、小さな偶像の神でした。実体はないのに、何かそれが一番価値があり力を持っているかのように見える、それが偶像です。ラケルはこのテラフィムを密かに持ち出していました。この出来事によってラバンは、逆にヤコブにこれまでしてきたことの善悪を責められるということになります。ヤコブはこれまでの20年間のことをラバンに訴えるのです。

3. 証の塚を前にして
 ラバンはヤコブに契約を提案します。表向きは神を前にしての契約です。しかし残念ながら、ラバンの言葉の端々には偶像の神々への執着と、ただこの先のことへの「恐れ」が見えます。ラバンは神を見張り続けている恐ろしいものと捕らえています。さらに彼は複数の神々の名前を口にしています。ラバンは表面的には、まことの神の裁きを受け入れながら、まだ偶像の神々から完全に脱しきれないでいるのです。神が問題にされるのは、表面的な正しさではありません。また見せかけの言葉や信仰ではありません。心からの神への信頼と誠実です。しかしそのような中で、ヤコブはあくまでも信じるなる神の前に、厳かに誓います。ヤコブにとってこの石塚は、神が自分を解放してくださったこと、またともにいてくださることの証であり、神の恵みを覚える場所となったのです。

投稿者 mb-church : 08:32

2011/9/25礼拝メッセージ

2011年9月25日の礼拝メッセージの要約です。
創世記31:1~16
「決断の時」

1. 決断の時
 人生の岐路に立たされた時、どのように決断しているでしょうか。ヤコブは、叔父ラバンのもとから旅立つ決心をします。ラバンにヤコブは何と要求していたのでしょうか。「私を去らせ、故郷の地へ帰らせてください」と願っています。「もしあなたが私の願いをかなえてくれるのなら…」とラバンは答えていています。そして「あなたの望む報酬を申し出てくれ。私はそれを払おう」と言っています。結局、ヤコブの願いはうやむやになり、報酬のことだけが取り上げられ、契約として成立します。しかし、ヤコブはラバンの思惑以上のことをやり遂げます。その後ヤコブはラバンの態度が、以前のようではないのに気がつきました。このような現実に直面し、ヤコブはどう考えたのでしょうか。

2. 待ち望む時
 この20年間、神の前にある誠実さを学び、神とともに歩むことをヤコブは学んできました。しかし、現実は容易ではありません。そのような中で神は彼に語りかけます。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。」この言葉は、長い間の祈りに対する答えといえる言葉でしょう。ヤコブはこの20年間で、神の時を待つということを学ばされました。この間、ヤコブは神の前に誠実に歩もうとします。その彼を支え続けたのは、神が必ず救ってくださるという信仰でした。そしてついに彼は、神の救いの声を聞くのです。彼はその決断を、ラケルとレアに伝えます。ここでのヤコブの言葉は、ラバンの不誠実さに対する怒りに満ちています。聖書は、不正や不誠実に対して、大きな憤りを示しています。それは神を信じている者とそうでない者とを分ける分水嶺だからです。

3. 支えられる決断
 ヤコブが、しもべとして仕えてきた間も、その間の悩み、苦しんできたときも、神は彼とともにいてくださいました。ここでヤコブの決断を推し進めたのは、神のみ思いです。その神のみ思いは、ヤコブの思いと一致したのです。大事なことは、ヤコブの待つ姿勢です。神のみ思いを知るまで誠実に待つ姿勢。神のみ思いと自分の思いとが一致するまで求め続ける姿勢。神のみこころを知るには、神とともに歩む月日が必要です。そしてラケルとレアもまた、父ラバンのもとを離れる決断をします。みこころに沿った決断は、自分だけが納得し、自分だけのひとりよがりなものではありません。私たちはどのようにみこころを求めているのでしょうか。

投稿者 mb-church : 08:30

2011/9/18礼拝メッセージ

2011年9月18日の礼拝メッセージの要約です。
創世記30:25~43
「最善を尽くして」

1. 先が見えない中で
 どうにも先が見えない。しかし決断しなくてはならない。そんな状況にヤコブは直面しました。ラバンの下での約20年。決して短い時間ではありません。そこでさらけだされたのは、自らの足りなさ、弱さでもありました。しかし、時は経ち、彼はすでに一族の長になる、そのような年齢にも達していました。しかし彼には何の財産も保証もなかったのです。そこで、彼はラバンに思い切って提案します。「私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください。」彼は本当に、誠実にラバンに仕えてきたのでしょう。実直に、誠実に働いてきた彼の姿を、私たちは想像することができます。

2. 叔父ラバン
 ラバンはヤコブにこのように言いました。「まじないで知っている」と。ラバンは、ヤコブに「主」という共通の言葉を使いながらも、言っている内容はまるで見当違いのことを言っています。ラバンは、まことの神の名を知りながらも、その土地の偶像崇拝に深く傾いていた人物でした。その土地の神々に心が支配されているラバン。その一方で、誠実に歩もうとするヤコブの姿が対比されています。ヤコブは、今の繁栄は「主が祝福されたからだ」と答えています。そして、彼は「私自身の家を持ちたい」と嘆願します。ラバンとの交渉の中で、ヤコブは一つの提案をします。彼の報酬は「羊とやぎ」でした。それも、羊は黒毛で、やぎはぶち毛やまだら毛のものでした。この提案はラバンの目には有利なように思えました。しかし、ヤコブはここで主に信頼しつつ、彼の最善を尽くすのです。

3. 最善を尽くして
 ヤコブは当時の牧畜の知恵を尽くして、この局面に向かいました。このヤコブの姿は何を物語っているのでしょうか。ここでのヤコブは、20年近くにわたり得てきた知識と知恵を用いて、彼のなしうる最善を試みているのです。神を信じて歩むということは、ただ神頼みをすればよいのとは違います。神がともに歩まれていることに力を得、そして神が与えてくださっている力を用い、最善を尽くすのです。ヤコブは、この20年間で確かに学んでいました。神とともに誠実に、そして最善を尽くすときに、神はその信仰に、その信仰を土台とする行動に必ず応えてくださると。そして彼は神に感謝するのです。ここに私たちの生きるあり方があらわれてくるのです。

投稿者 mb-church : 08:28

2011/9/11礼拝メッセージ

2011年9月11日の礼拝メッセージの要約です。
創世記29:31~30:24
「愚かさをこえて」

1. 混乱の始まり
 ヤコブの結婚にまつわる混乱が今日の箇所に描かれています。ヤコブとエサウ、この二人の争いに続き、ラケルとレアの争いが起こります。夫に愛されていないレアにこどもが与えられます。夫の思いが自分に向く、それが彼女にとっての救いでした。こどもが与えられたのは、レアにとっては神の救いの御手そのものだったのです。ラケルにこどもが生まれない様子を見て、レアは彼女の上に立ちます。夫の愛を得るかわりに自分自身の価値を、彼女は見出したのでした。

2. ラケルの妬み
 その様子に、ラケルの妬みが燃え上がりました。彼女はヤコブに怒りをぶつけます。「私が神に代わることができようか。おまえの胎内に子を宿らせないのは神なのだ」とのヤコブの答えは、ラケルの怒りへの助けとはなりませんでした。するとラケルは女奴隷によってこどもを得ようとします。さらに争いは深化していきます。ここに出てくる人々は、みな「神」を知っています。言葉の端々に「神」の存在をにおわせてはいます。しかし、その使い方の何と身勝手なことか。ヤコブもそうです。ここでのヤコブも、この夫婦間の、また姉妹間の問題、争いに対してただ手をこまねいています。私たちは、神の存在を意識しながらも、神を自分のために、自分の都合にあわせて使いたいと考えてしまいます。問題はそのときには解決したかのように見えて実は解決していません。

3. 人の愚かさをこえて
 さらに争いは続きました。ルベンが、野で恋なすびを見つけてきます。そこで、ラケルはレアに交渉します。なんとここでラケルは、夫と恋なすびを引き換えにします。ヤコブの存在はいったい何なのでしょうか。すべてが手段となり、単なるモノと化しています。罪の行き着く先のなんと悲惨なことでしょうか。これが「疎外」の状態です。「疎外」とは、人間が作ったもの(商品・貨幣・制度など)が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような力として現れ、あるべき自己の本質を失う状態のことを指しています。ヤコブの家族も、本来の家族、夫婦の姿は失われています。しかし、神はここでも彼らに歩調をあわせます。最後にラケルが出産します。そしてその子が「ヨセフ」でした。この争いの勝者は一体誰だったのでしょうか。このような罪の現実でも、神はみわざをなし続けてくださいます。この兄弟たちが、後のイスラエルの12部族となります。そしてここに神は救いのみわざをなしてくださるのです。

投稿者 mb-church : 08:27

2011/9/4礼拝メッセージ

2011年9月4日の礼拝メッセージの要約です。
創世記29:1~30
「ヤコブの誠実」

1. 旅の果てに
 「私はあなたとともにあり、あなたを守り、あなたを捨てない」と神は約束されました。ハランまでの約1000キロにもわたる長旅の末、ある井戸に彼はたどり着きました。母リベカの結婚の物語のあの井戸を思い出させるような展開です。そこで三つの羊の群れを飼う、羊飼いたちと出会ったとき、彼は本当に安堵したことでしょう。羊飼いたちはヤコブに告げました。「御覧なさい。あの人の娘ラケルが羊を連れて来ています。」ヤコブは羊飼いたちを去らせようとしますが、彼の目論見は崩れ去ります。しかし、なぜ、ヤコブは彼らをここから去らせたかったのでしょうか。

2. ヤコブの内面
 なぜヤコブは羊飼いを去らせたかったのでしょうか。羊飼いを去らせることに、またラケルの群れに水をやるのに、彼は必死でした。さらにヤコブは、ラケルに口づけし、声をあげて男泣きをします。これまで崩れ落ちそうになりながらも、何とかここまでたどり着き、そして目指す人と出会えたという達成感、安堵、そのようなものが、すべて彼の内から思わず噴出しました。これまではこんな彼の内面を見ることはできませんでした。29章からのヤコブの物語は、本当の自分を見出す、いうなれば一人の大人になるプロセスが描かれています。建前ではなく、本音で。人を騙すのではなく、誠実に歩むこと、そのことを彼は学ばされていくのです。

3. さらなる試み
 さらに叔父のラバンにヤコブは騙されます。ここで取り扱われているのは、あのヤコブが騙されるということです。しかも、彼は14年もの間、自分の身をささげてラバンに仕えることになります。彼は自分がしたことの報いを受けている、そう言ってもいいのかもしれません。ここで彼は学ばされています。彼はこの14年間という中で、痛みを知らされることになるのです。思い通りにならない、しもべとしての14年間。私たちもまた、信仰の歩みをしていくときに練られる時があります。忍耐を要するときがあります。自分ではしたくないことをしなくてはならないときがあります。私たちにも、ヤコブと同様に乗り越えなくてはならない弱さがあるのではないでしょうか。私たちはそのような歩みの中で、神のあわれみを思い、私たちの精一杯の歩みをさせていただきたいのです。開き直るのではありません。弱さ、欠け、醜さ、そのような自分を知らされてもなお、キリストを信じて誠実に歩ませていただきましょう。

投稿者 mb-church : 08:25

2011/8/28礼拝メッセージ

2011年8月28日の礼拝メッセージの要約です。
創世記28章
「天からのはしご」

1. 天からのはしご
 ヤコブは一人旅立ちました。なぜこのような場所に一人さびしく野宿しなくてはならないのか・・・そう彼は思ったかもしれません。ただ一人、彼は真っ暗な荒野で固い、冷たい石を枕に寝るしかなかったのです。しかし、ここで、彼は神とはじめて人格的な出会いを経験します。しかも、それは彼のほうから求めたわけではないことでした。一つのはしごが地に向けて立てられています。そこに神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていました。ここには、神と私たちとの目には見えない関係が描かれています。それはどのようなものでしょうか。あなたが枕にしているその冷たい石、そこにも神は天からのはしごをかけているのだとヤコブは神から語られました。そのはしごは、天からの使いが上り下りしています。孤独なヤコブを支え励ましたのは、この天からのはしごでした。そして約束をされます。神がともにいてくださり、決して捨てないという約束。私たちは、この神からの語りかけを、祈りを通して、神との関係を通して受けとります。礼拝はまさに祈りの場、神からの語りかけの場です。私たちも、今ここに天からのはしごがかかっているのだということを、ぜひ信仰を持って見させていただきたいと思うのです。

2. 応答するヤコブ
 ヤコブは、ここですぐに神を礼拝します。枕にしていた石を取り、それを柱にして立て、油を注ぎました。彼は神に誓願を立てます。自らの持ち物の十分の一をささげることを誓いました。神にささげものをする、それはおそらくおこがましいことかもしれません。なぜなら、すべてのものは神がくださっているからです。しかし、これは神への応答なのです。祈り、そして礼拝は、私たちの応答へとつながるものです。私たちは目に見えない神に、目に見えるものをもって応答をします。ここで大事なことは、神が与えてくださるものすべてを、神にあってとらえなおすことにあります。それは私たち自身を神にあってとらえなおすことにもなります。神が私たちを生かしてくださり、神が私たちとともに歩んでくださる。神がすべてにいのちと意味を与えてくださる。その信仰が、私たちを真にいのちあるものとするのです。私たちも、神の約束とともに、この一週間の歩みをはじめてまいりましょう。

投稿者 mb-church : 08:24

2011/8/21礼拝メッセージ

2011年8月21日の礼拝メッセージの要約です。
創世記創世記27:26~45
「踏み出す信仰」

1. ありのままの姿
 エサウの怒りはもっともなものに見えます。自分をだまして、長子の権利を奪われてしまったかわいそうな兄。それにしてもずるい弟ヤコブの姿がここにあります。その背後には、理由はともかくしたたかなリベカの策略があります。そして一見、被害者にも見えるイサク。この家族は、いったい何をしているのでしょうか。聖書は人間の姿をありのまま映し出します。飛ぶ鳥の目から見るように、私たちは今、この家族を見ています。醜い部分も、またおろかな部分もあらわになっているのです。

2. 信仰の一歩
 ここで神は長子の権利を退けられました。それは「神中心」ということが明らかになるためです。人の基準ではない。すべてが運命ではない。生ける神が中心であるということ。このことが明らかになるために、神は長子の権利を退けられます。イサクやエサウは、ヤコブやリベカは、どのように神を信じていたのでしょうか。ある人はエサウのようになってしまうことでしょう。神を知っていても、神を軽んじ、自分の都合よい方へと歩みを進めてしまいます。ヤコブはどうでしょうか。ここでのヤコブも、信仰者としての歩みをしているとは決して言いがたいものです。彼の信仰は、まだ彼を生かすところまでは成熟していません。しかし、この後の歩みを通して、彼の信仰が築き上げられていくことになります。どんなにつたない信仰であっても、最初の一歩が必要なのです。「鳥瞰」すると、私たちの行動の一つ一つは決して正しいのでも、すべてに正当な理由があるわけでもないのは確かなことです。しかし、私たちがリベカやヤコブの姿に励まされるのは、そのような不完全な自分であっても、神を信じて前に向かうことのできる姿ではないでしょうか。

3. 踏み出す信仰
 この先に何が待っているのかは、ここに登場する誰も知りません。しかし、彼らは信じています。神の守りと約束は、決して変わることがないということを。希望の神が、神の祝福へと、約束の場所へと導いてくださるということを、彼らは信じているのです。私たちもまた未来のことは見えず、今も目の前にあることで四苦八苦しているかもしれません。しかし、私たちは、神にある最善へと一歩一歩、勇気をもって踏み出したいのです。

投稿者 mb-church : 08:22