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2011年08月20日
2011/8/14礼拝メッセージ
2011年8月14日の礼拝メッセージの要約です。
創世記27章
「リベカの信仰」
1. 他部族との関係
神の選びは、人の確かさによりません。このシーンは、ヤコブが卑怯な手を使って、神の祝福を奪い取ります。またそれに加担する母のリベカの姿があります。その直前に、エサウがヘテ人ベエリの娘たちを妻にめとったことが記されています。この結婚は、イサクとリベカの悩みの種となりました。旧約聖書において、他部族との婚姻は神信仰のゆがみをあらわすものとして扱われています。ここでの他部族との関係は、そこにアブラハムに示されたまことの神信仰ではないものが入ってくることを意味していました。
2. イサクの考え
イサクは、いざ信仰の継承をするときに、どのような考えで、そしてどのような行動をとったのでしょうか。彼は、信仰の継承を、自らの判断で長子エサウに継がせようと考えました。神に問うこともせず、神のことばを聴くこともせず、彼自身の考えのみでそのことを実行に移したのです。ここに出てくるのは、私の、私の、私の、というイサクの言葉です。ここには神が入る余地がありません。ここにおごり高ぶる人の姿が見え隠れしています。これは私たちの考え方、生き方にも見え隠れするものです。ここでリベカはヤコブに策略を与えます。本当にリベカは悪妻であったのでしょうか。むしろこれら一連の行動は、彼女の本来の純粋な信仰から来る行動ではなかったのでしょうか。ここでのイサクの姿は、なんとも頼りないものです。神ご自身を求め、また神の声に聞き従おうとする姿を見ることができません。そのような中、リベカは、神のことば、神の約束を信じて何とか歩もうとするのです。
3. リベカの信仰
リベカの信仰は、イサクの言葉の言い換えによって表されています。「私が死ぬ前に、主の前でおまえを祝福したいのだ。27:7」リベカの土台は神のことばにあります。しかしその結果、家族は崩壊することになります。なぜこのようなことを、神は備えられたのでしょうか。その真意は私たちにも分かりません。このシーンはまだゴールではありません。まだ途上です。神が導こうとされているのはこの先なのです。誰もが完全ではありません。しかし、リベカの姿を通して語られているのは、神の祝福を第一とする姿、神のみこころを求める姿、神のことばをその行動の中心におく一人の信仰者の姿です。この姿に目を留めてまいりましょう。
投稿者 mb-church : 15:56
2011/7/31礼拝メッセージ
2011年7月31日の礼拝メッセージの要約です。
創世記26章
「イサクの誠実」
1. イサクの物語
イサクの物語は短くまとめられています。おそらく、彼の信仰の生涯の多くが、アブラハムと重なるものだったからでしょう。ある意味で二代目としての難しいポジションをイサクは歩みました。そこで取り上げられている出来事は大きく分けて三つのことです。一つは「飢饉」という危機的状況におけるイサクの信仰と神の約束。二つ目に語られるのは父と同様の「弱さ」とそれ以上の主の祝福について。三つ目は井戸をめぐる他部族との抗争。この三つの出来事を通じて、聖書は何を物語ろうとしているのでしょうか。
2. 神の誓い
イサクの生涯の中でアビメレクという人物が登場します。もう一度、父アブラハムの人生の再現をみているような、そんなイサクの歩みです。ここに表されているのは、神の約束の継続性、不変性ということと、もう一つは信仰の継承は、決して自動的に行われるものではないということです。神の誓いは決して途中で変わることはありません。イサクもまた過ちを犯し、失敗をします。彼も、父アブラハムと同様の過ちをしたことが記されています。しかし、それにもかかわらず、神は大きな祝福を与えられました。神の誓いは必ず果たされます。これは、私たちの信仰に大きく影響することです。変わらぬお方であるからこそ、私たちは信仰に立つことができるのです。
3. イサクの誠実
しかし、その一方で、信仰の継承は決して自動的に行われるものではないということを忘れてはなりません。ペリシテ人がすべての井戸を埋めてしまうという事件が起こります。イサクはどうしたでしょうか。彼は埋められた井戸を再び掘ることにします。そして、その一つ一つに、もう一度アブラハムの時代につけられた名前をつけていきました。そしてさらにそこに新たな井戸が加えられました。このことによって井戸を掘りつつ、イサクが神に祈り、問い、みこころを求めていたことがよく分かります。彼はベエル・シェバに上っていきます。もう一度、神の声を聞き、ここに新たにイサクは井戸を掘ることを決断しました。このときに、アビメレクが交渉をしにこの場所にやって来たのです。彼は「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見た」と証言しました。これまでのイサクの歩みを通して、アビメレクは神の姿を見出したのです。私たちもまた神の前に誠実に歩ませていただきましょう。
投稿者 mb-church : 15:55
2011/7/24礼拝メッセージ
2011年7月24日の礼拝メッセージの要約です。
礼拝堂改修後の初礼拝の日でした。
エペソ人への手紙1:8~10、3:6
「一つに集められる民」
1. 会堂とは何か?
古く創世記では、礼拝の場で「祭壇」を築きました。モーセの時代に入ると幕屋を設置しました。この幕屋は礼拝をする場所というだけではありません。イスラエルの民全体が神を中心に置くことを示す、そのような場所でした。ダビデの時代に入ると、幕屋は神殿へと変わります。ここで大事なことは、決して幕屋や神殿に神が安置されているのではないということです。むしろそれは、罪ある人間が神と対峙することの困難さ、そこにある隔たり、それを意識させるものだといえます。そして神をこの地に迎えるための備え、あり方、それらを問うものでもあります。その神殿がユダヤ人のシナゴーグ(会堂)へと移り変わります。初期のキリスト教会も、会堂を中心に展開しました。その後、約2000年の間、会堂は様々な変遷をたどることになります。しかし時代や文化、それぞれの影響を受けつつも、その中心点は変わることはありません。
2. 四つの視点
会堂を私たちはどのように考えればよいのでしょうか。一点目。会堂は神を意識し、覚える場であるということ。会堂は、良い意味での神へのおそれと、神への純粋な思いを持つことができる空間です。二点目。会堂は、私たちが絶えず救われていることを確認し続ける場だということ。私たちは、キリストの十字架によって罪から救われ神の民とされています。そのことがこの会堂で絶えず語られ、覚え続けられます。主の聖餐はそのことを最もよく表しているものです。また教会における交わりも、主イエスとの再会と祝宴へとつながるものです。会堂はキリストにある豊かな交わりをも実現するものだと言えるでしょう。三点目。それは会堂で神のことばが開かれ、歌われ、聴かれるということ。このことも時代を超えて保持されていることです。四点目。それは在留異国人、異邦人を招く場であるということ。「地上のすべての民族は、あたなによって祝福される。」神のご計画は、すべての民をご自身の側へと招くことにあります。この会堂は、すでにキリストを信じ招かれている人と、今信じようとしている人、それだけではなく信じるよう導かれてくる人、そのすべての者たちのためにあります。会堂をただ見栄え良く、きれいにするのではありません。その一つ一つに私たちは神が教えてくださることを織り込み、そして建て上げて行くのです。キリストにあって一つに集められるのは後のことです。しかし、今ここに起こりつつあることでもあるのです。
投稿者 mb-church : 15:53
2011/7/17礼拝メッセージ
2011年7月17日の礼拝メッセージの要約です。
創世記25:19~34
「エサウとヤコブ」
1. イサク
イサクの物語は、アブラハム、イサク、ヤコブという三代にわたる物語の中で、一番短い物語です。信仰の継承という課題が大きな彼の役目でした。彼の歩みは父のものと驚くほど似ています。彼にも子どもが長い期間与えられませんでした。しかし、イサクの歩みは、アブラハムとはもちろん異なるものです。彼には双子の息子が与えられました。彼が直面するのは「選び」の問題です。そしてここに語られているのは、人の選びと神の選びとが異なるということでした。
2. リベカ
ここでもヤコブとともに活躍するのはリベカです。彼女のおなかの中で、子供たちがぶつかりあいました。リベカにとって、この出来事は大きな不安となったことでしょう。そのとき彼女は、神にその不安を訴えます。「もしそうなら、なぜ私に?」彼女は、素直に神により頼みました。なぜ私にこのようなことが起きているのでしょうかと。私たちは、どこに神のみ思いがあるのかを祈りを通して聞くようにうながされています。そしてみことばを通して、そこにあるみ思いを知るようにと導かれているのです。リベカは神から語られました。「二つの国があなたの胎内にあり、 二つの国民があなたから分かれ出る。 一つの国民は他の国民より強く、 兄が弟に仕える。」 この後、神のことばが実現していくことになります。しかし、イサクの目にはエサウが優れているように見え、長子である兄を愛しました。その一方でリベカはヤコブを愛します。
3. エサウとヤコブ
さらにこの二人の兄弟のエピソードが語られます。ここで私たちが目を留めるのはこの言葉です。「こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。」エサウは長子の権利を食べ物と引き換えにします。それは神ご自身を軽んじる彼の本質でもありました。その一方でヤコブは神の祝福を重要視しています。ヤコブはずる賢い人物として登場しています。しかし、そこに表されているのは、神がそれでもその人を選び、憐れみ、そして、その人も、神の選び、神の憐れみに不恰好ながらも答えてようとする姿です。私たちは信仰者として、どのような態度を神の前に取っているのでしょうか。
投稿者 mb-church : 15:52
2011/7/3礼拝メッセージ
2011年7月3日の礼拝メッセージの要約です。
創世記25:1~18
「その民に加えられる」
1. 晩年のアブラハム
信仰の父としてのアブラハムから私たちは学んできました。その生涯を通してあらわされたことは、そのまま信仰者としての私たちの生涯とも重なり続ける物語です。ここでアブラハムは、幸いな晩年を迎えていることが分かります。彼は晩年にもう一人の妻をめとり、さらに子供にも恵まれました。「平安な老年」「長寿」すばらしい言葉です。彼は75歳のときに、住み慣れた地を離れ、神の声を求め、神とともに歩む歩みを始めました。そしてそれから100年、信仰者として歩みをします。この間、彼が求めていたものとは何だったのでしょうか。それは神から与えられた約束でした。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
2. 神の約束
彼の生涯にあらわされているのは、神の約束の真実です。神ご自身を求め、神のみこころと聖さ、そして神への信頼をもって歩み続けるならば、必ずその人を神は導き、その生涯をまっとうさせてくださるという約束です。一人一人の生涯はもちろん異なります。しかし、私たちは神にあって完成する神の作品なのです。彼は「その民に加えられ」ます。これはとても大切な言葉です。私たちが神の民となる、それはアブラハムの生涯のテーマでもありましたし、またアブラハムの後に連なるイサク、ヤコブ、さらにはイスラエルの民、そして後にイエス・キリストにあって、すべての人々に開かれ、招かれている道でもあります。神は「すべての民」を祝福するために、アブラハムを選ばれ、またその後に続くイスラエルを選ばれました。教会も同様です。私だけが救われるため、神を信じて生きるのではありません。その先にあるのは、周囲の人々が、神の祝福へと招かれるためなのです。
3. その民となる
「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:3、4)」ここに、私たちがその生涯を通して目指すべき神の国が示されています。アブラハムもこの約束の地へと入ることを許されたのです。私たちもまた信仰の歩みに生きていくときに、「その民に加えられる」という言葉が、私たちに語られ続けるのです。
投稿者 mb-church : 15:50
2011/6/19礼拝メッセージ
2011年6月19日の礼拝メッセージの要約です。
創世記24:10~27、54~67
「境界線を越えて行く」
1. しもべのかけ
井戸の傍でアブラハムのしもべはリベカと出会いました。その前から、このしもべは、神様に一つの「かけ」のようなことをしていました(創世記24:12~15)。もちろん、このような決め方をいつも彼は神様にしていたわけではないでしょう。それでも、このしもべにあるのは、必ず神様が備えを置いていてくださるはずだ、との確信です。このしもべ自身が考えていた、第一とする基準もここに表されているのだろうと思います。それは「隣人を愛する」というjことでした。このしもべが思い描いていた女性の姿に表されているのは、ある種の境界線を越えられるかどうかです。見ず知らずの自分だけではなく、連れている10頭のらくだにも水を与える女性、それがこのしもべが考えたことでした。しかし、ここでその基準にかなう女性がいたとしても問題は残ります。それは、その女性が果たしてカナンの地まで来てくれるか、ということでした。
2. リベカ
しかし、しもべが言い終わらないうちに、一人の娘がやってきます。リベカでした。そして、彼の考えた通りのことをしたのです。神はこのしもべの信仰に応えられました。信仰の継承には、アブラハムの信仰だけが関わっていたのではありません。このしもべの信仰も関わりを持つことになりました。このリベカという女性は、聖書の中に出てくる女性の中でも特筆すべき人です。リベカは神への信仰のゆえに、軽々と境界線を超えてゆく女性です。時にそれは常識さえも超えて行くことがあります。この時のリベカも、その決断の見事さ、また前へと進み行く姿には特筆すべきものがあります。彼女は、この出会いを神からのものとして受け止めます。そして見ず知らずの地へと行く決断を、まるでいとも簡単に下すのです。そして、イサクとついにリベカは出会うことになります。
3. 境界線を越えた方
リベカにおいて、私たちが見いだすのは彼女の持つ「境界線を越える力」です。向こう側へと行く決断力、そして行動力。信仰にはそのような力があります。人を愛するときに大事なことは、自分の領域を出て、相手の側にまで行くことでしょう。これは簡単なことではありません。しかし、私たちに神はキリストを与えてくださいました。私たちにキリストが与えられている。そこにやはり戻ってくるのです。私たちは境界線を越えてくださったキリストの姿が示されているのです。
投稿者 mb-church : 15:47