« 2011年05月 | メインページへ | 2011年08月 »
2011年07月05日
2011/6/12礼拝メッセージ
2011年6月12日の礼拝メッセージの要約です。
マルコ1:1~11
「天からの祝福の声」
1. ペンテコステ
ペンテコステはキリスト教会の誕生記念の日です。キリストは十字架にかかられて後、復活し、その後、多くの弟子たちにお会いになってから、天に上げられました。その10日後、ペンテコステ(五旬節)の日に、弟子たちに約束の聖霊がくだり、その日多くの人々がキリストを信じ、教会がスタートしました。では聖霊とは一体何でしょうか。キリストが聖霊について語られた箇所があります。ヨハネ4:16~17、ヨハネ15:26、ヨハネ16:13~14。またヨハネ7:37~39では、聖霊のことを生ける水の川と語っています。聖霊は、私たちの内面に働き、私たちの信仰の源となる、そのように言われています。私たちのうちに、心に働き、キリストを救い主、神の子と信じることのできるように働く方、それが聖霊なのです。聖書の語る信仰とは、私たちの力で勝ち取るのでも、信じ続けるのでもありません。聖霊の御力によって、私たちのうちに絶えず信仰が与えられ続けていくのです。
2. キリストの受洗
イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けました。ヨハネは、「罪の悔い改め」を意味する洗礼を授けていました。ヨハネや旧約の預言者は、イスラエルの民に向かって、神の前であなたがたはこのままであるならば、やがて滅びるだろうとのメッセージを語り続けました。それは単なる脅しではありません。今が神に立ち返るときである、その神の憐れみのメッセージでもあります。しかし、預言者やヨハネのメッセージの中に欠けたものがありました。それは、悔い改めた後、いかに神は私たちを救ってくださるのかという点でした。神はご自身に立ち返った人々に対して、どのような言葉をかけ、そして救い出してくださるのか、その救いの言葉を、ヨハネは持ち合せていなかったのです。その答えこそ、聖霊のバプテスマを授ける方イエス・キリストです。神に立ち返った後に、そこに、新しい心、新しい霊を注ぐ方、それがイエス・キリストなのです。私たちのうちに、聖霊による新しい心、キリストにある新たな歩みがないのだとするならば、それは再び古い、滅び行くものとなります。ここでキリストが洗礼を受けられた時、神からの祝福の言葉が語られました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」これはキリストに向けて語られた言葉であると同様に、今も神を信じ従う私たちに向けて語られている神の祝福の言葉でもあるのです。
投稿者 mb-church : 11:18
2011/6/5礼拝メッセージ
2011年6月5日の礼拝メッセージの要約です。
マタイ6:7~8、26~34
「新しい心」
1. 必要を知っておられる神
「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」主の祈りを開くたびに、私たちが学ばされてきたことは、神のみ思いに自分の思いを近くするための祈り、ということでした。神様と息を合わせるがごとく、主の祈りによって、私たち自身の思いが変えられていく、それが神のみこころである、そう言っても言い過ぎではないでしょう。イエスは、これまでの私たちの思いや考え、心のあり方、それら一新されようとしているのではないでしょうか。新しい心、新しい身分、新しい生き方、それらを私たちに指し示そうとしておられるのです。
2. キリストによって与えられたもの
キリストによって、私たちは義とされ、新しい身分が与えられました。そして神の民として新しい心、新しいいのち、新しい基準が与えられています。しかし、私たちはこれらの特権を十分に理解していません。私たちは、古い心に、古い基準に、古い身分に引きずられてしまいます。私たちは、この世界の罪深い現実を見つめつつ、それでもキリストによって義とされ、神の民であるという特権が与えられていることへの感謝と神への賛美を持って歩むのです。この特権に与った者たちにふさわしい祈り。それがこの主の祈りです。この主の祈りの直後に、キリストはとても現実的な話をされます。「人の罪の赦し」「人前での偽善」「欲や富のこと」「日常の必要のこと」。これらのことは「あなた」という一人称が主語になるようなことばかりです。しかし、「私」のことは、神が、天のあなたの父が、心から心配してくださるとキリストは教えてくださいました。私たちは、この与えられた特権を喜んで受け取らせていただきたいのです。
投稿者 mb-church : 11:17
2011/5/29礼拝メッセージ
2011年5月29日の礼拝メッセージの要約です。
マタイ6:13
「私たちの告白」
1. 教会の告白
主の祈りは、これからもその力を失うことはありません。われらの父との呼びかけにはじまり、神の御名、御国、みこころを求める祈り、そして「私たち」に必要な糧を求める祈り。罪の赦しを請い、他者を赦すことに生きる祈り、最後に、誘惑に陥らず、われらの救いを願う祈りへと、私たちは導かれてきました。キリストが教えてくださった祈りの言葉はここまでです。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです」という言葉は、後に加えられたものであると言われています。この言葉を持って、主の祈りにあわせて後のキリスト者たちが紡ぎだした教会の信仰の告白と言うことができるでしょう。
2. キリストの教えてださったこと
この世界の中で私たちは様々なものに忠誠を誓わされています。教会は何ものよりも前に神に忠誠を誓います。「国と力と栄え」をめぐって、私たちのこの世界は争い、闘争をしてきました。このような混乱の現状の中で、私たちはうめくように「主の祈り」を祈ります。そしてこの祈りによって私たち自身が問われ教えられます。この世界の真の王は、いったい誰なのか。私たちの基礎、基準はどこにあるのか。すべてを備え、必ず恵みを与えてくださる神に信頼をし、自らの罪を赦され、他者を赦す生き方へと進んでゆくこと。悪から離れ、神の救いをどんなときにも忍耐強く祈り求めること。これらは、すべてキリストが教えてくださったものです。
3. すべては神に
この祈りを通して、キリスト者たちが口にした言葉が「国と力と栄えが神にあるように」、そして「アーメン」です。国も力も栄えも、一歩間違えると私たちを罪へといざない、過ちを犯させるものです。だから私たちは注意しなくてはなりません。神の国は、力は、栄光は、どこにあらわされるのでしょうか。私たちは神の国を心から望んでいるのでしょうか。実際の私たちは、どこまでも利己的で、また区別や差別の思い、憎しみや恨みを抱き続けてしまいます。私たちは、慈愛とまことに満ちた神ではなく、別のものを神として崇めてしまいます。私たちは人の力や、富、権力そのものに救いを求めてしまいます。私たちは神の正しさや公正さではなく、私たちの基準で物事を見ています。私たちを神から引き離すものが罪であり、誘惑者です。そこから私たちが逃れるすべはただ一つしかありません。それが私たちに与えられた唯一の救いである主キリストなのです。
投稿者 mb-church : 11:14