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2011年05月25日

2011/5/8礼拝メッセージ

2011年5月8日の礼拝メッセージの要約です。
マタイ6:12
「神の赦しと私たちの赦し」

1. 赦しの条件
 文語訳では「われらに罪を犯す者を、われらがゆるすごとく、われらの罪をも赦したまえ」です。私たちが他の人の罪を赦すことを条件として、それゆえに、私たちの罪を赦してくださいと願っているかのように読むことができます。他の訳では次のようなものもあります。「私たちの負い目をおゆるしください。私たちも負い目をゆるし合います。」「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。」つまり、あなたが私たちの罪を赦してくださるゆえに、私たちも他の人を赦しますとなるわけです。しかし忠実に訳せば「私たちの負い目を赦してください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しましたように。」となるでしょう。キリストを通して、私たちに常々語られていることは「あなたを赦そう」という神のメッセージです。罪の赦しを願い求めるとき、キリストによってすでに私の罪は赦されていることを、私たちは思い出すことにもなります。その上で、私たちが祈らされるのは「他者の赦し」のことなのです。

2. 他者への赦し
 私たちが、キリストの十字架によって赦されているのはなぜでしょうか。それは、私という個人がただ罪赦されて、天国に行くということではありません。キリストの十字架によって罪を赦されたものとして、神のみこころを知って生きる・・・そこに十字架の赦しの意義があります。パウロはこのことをキリストの使節、和解の使者であると言い表しました。それが私たちに与えられた新たな役目です。「私たちに負い目のある人たちを赦しましたように。」ここで神の赦しと、私たちの赦しとが並べられています。主の祈りを祈るときに、私たちはキリストにある神の赦しを覚えます。そしてその大きな赦しと同時に、私たち自身の赦しが問われることになります。今私たちは他者を心から赦しているのだろうか。キリストによって私たちの罪は赦されました。しかし、その救いを受けてなお、私たちが神の民として、和解と赦しをもたらすものとなっていないのなら、やはりそれは神のみこころに生きようとしないおろかな罪人にしか過ぎないのです。「主の祈りの第五の願いは、この祈り全体の中で最も危険な願いである。われわれが祈りながら偽り、また偽りながら祈るという危険が、他の願いに比べて、この願いの中にはより身近に潜んでいる。(プフェンドザック)」キリストは、私たちに他者への赦しを迫る方なのです。

投稿者 mb-church : 2011年05月25日 16:47