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2011年05月25日

2011/5/1礼拝メッセージ

2011年5月1日の礼拝メッセージの要約です。
マタイ6:11
「神のことばとパン」

1. 私たちとは誰か
 主イエスが教えて下った祈りには、「私」という言葉はありません。それでは「私たち」とはいったい誰をさしているのでしょうか。それは、天の神を私たちの父と呼び、主の名をあがめ、神の国が来ることを切に願い、そして主のみこころがこの地になることを心から祈る者たちのことです。そしておそらくこの主の祈りの「私たち」という言葉には、それだけではない響きがあります。それは山上の説教の冒頭に明らかにされています。そこには、イエスによって神の国の者たちに招かれている者たちの新たな定義が記されています。割礼を受けた者、律法を自分たちの基準で守る者、正しい行いをする者ではなく、心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のために迫害されている者、主イエスのために迫害される者たちのことです。私たちは自分の正しさや強さを、さも自分で得たかのように思いがちです。そして、弱さを得た人、痛みを負っている人、その人々もまた、それらが全てその人のせいでは決してありません。私の罪は私たちの罪であり、私たちの罪は私の罪でもあるのです。ここでキリストは「私たち」と祈るようにと教えられました。それは罪ある私たち、神の前にまったく打ち砕かれた人々のことです。

2. 神の意志に支えられて
 そして「日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈ります。神のみこころがなるようにと祈ったその直後に祈る言葉、それが「今日の糧を与えてください」というものです。糧とは「パン」という言葉です。パンの背後に覚えなくてはならないのは、それを与える神のことばです。イスラエルは出エジプトのマナによってそのことを学びました。その日の命は、またそれを生かす食べ物さえも、神の意志によっているのだということを。「神のことば」が実現するというのは、そこに「神の意志がある」ということにほかなりません。私たちが今日生かされ、食べ物があるということも、そこに神の意志があるのです。この祈りが私たちに教えるのは、神の意志によって、私たちが今日生かされ、そして生きることができるのだという事実です。この事実に対して、私たちはどこまで目が開かれているのでしょうか。たとい満ち足りていようと、神にあるいのちに気がついていないならば、その人はすでにいのちの本質を失っていると言わざるをえません。かの地が、また私たちが、ただ物で満ちるのではなく、神の意志によって生かされ、生きていくということを知るようにと祈りたいのです。

投稿者 mb-church : 2011年05月25日 16:42