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2011年05月25日

2011/5/22礼拝メッセージ

2011年5月22日の礼拝メッセージの要約です。
マタイ6:13
「救ってください!」

1. 救ってください!
 最後の祈り、それが「悪からお救いください」です。それは救ってください、という切実な祈りです。私たちは、いつも何から救われたいと願うのでしょうか。今の現状から救われたい、悲しみや良くないことから救われたい、そう思うものです。そのすべてを「悪」と言い表しても間違いではありません。ここでも私たちという主語で祈られています。この祈りの私たちとは誰か、そのことを忘れてはなりません。主イエスが、幸いであると語られた者たちこそ「私たち」です。私たちを悪から救ってくださいと祈るとき、その祈りの射程範囲はとてつもなく大きいものです。

2. 何を欲するのか?
 「悪」とは何でしょうか。私に敵対する人やものでしょうか。しかし、私に敵対するものを滅ぼしたまえ、とこの祈りは祈ってはいないことに注目しなくてはなりません。「悪から救ってください」とキリストは祈るようにと教えてくださいました。悪から救ってくださいと私たちは切実に祈っているだろうか、そう思わされます。悪い者を滅ぼす力を与えてくださいと、キリストは教えられませんでした。しかし、私たちが祈ってきたのは、「力」を欲するものばかりであったことを認めなくてはなりません。神は、この世界に、私たちに関わりを持って下さる方です。私たちに関心を持ち、私たちが神を信じ、神のみこころに生きるようにと願っておられます。教会の場で神を信じない者たちをのろい、滅びを願うように祈れとキリストは教えられたのでしょうか。キリストが「私たち」と祈れと教えられたのは、私たちとそれ以外とを分けるためではありません。「私たち」という言葉で祈るとき、それはここにいる私たちだけのことを祈るのでは決してないのです。

3. 連帯してくださる方
 キリストの姿には、苦しみを負う人々とつながる、連帯する姿があります。キリストは救い主です。キリストには私たちを救う力があります。そのキリストはどのようにして私たちを救われるのでしょうか。キリストは、私たちと同じ人となり、人と同じ苦しみと、死を通られることによって、私たちと連帯をしてくださいました。そして、神の御力によって、キリストは救われ、よみがえられたのです。キリストご自身が、人間とともに「私たち」と言って祈ってくださり、そして神がキリストとともに私たちを救ってくださるのです。私たちもキリストと同じ思いとなって、主の祈りを祈り続けてまいりましょう。

投稿者 mb-church : 16:51

2011/5/15礼拝メッセージ

2011年5月15日の礼拝メッセージの要約です。
マタイ6:13
「試練でも誘惑でも」

1. 試練か誘惑か
 ここには二つの祈りがあります。一つは「私たちを試みに会わせないでください」、そしてもう一つは「悪からお救いください」という祈りです。イエスが教えられた祈りの最後の文言は、勝利の言葉でも、感謝の言葉でもありませんでした。この試練という言葉は、誘惑という意味としても取ることができます。聖書において試練も誘惑も、どちらも記されています。試練にしても、誘惑にしても、必ず私たちが遭遇するものには違いありません。主イエスでさえ「誘惑」を受けられました。しかし、この祈りを祈れば、私たちの周りから誘惑や試練が消え去るのかと言えば、残念ながらそんなことはありません。むしろ、現実には誘惑や試練があるからこそ、なお祈るべきであると言われているのです。

2. 祈りなさい
 象徴的なシーンがあります。キリストのゲッセマネの祈りです。その時、そばに居た弟子たちは眠ってしまいました。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」と、キリストは弟子たちに諭されました。私たちは主イエス・キリストの歩みを見るようにと、絶えず促されています。キリストは、絶えず人の誘惑と向き合い、また人々のうそや欺瞞、偽善と対峙し、神のみこころを表すために、まっすぐに歩まれました。そこには絶えず衝突があり、戦いがあり、悩みがあったことを、私たちは知っているはずです。そのキリストでさえ、おそらく祈っていた言葉こそ今日の祈りです。この祈りこそ、この世にある戦いの現実の厳しさを本当に知っているものの謙遜な祈りなのです。この祈りは、決して逃げるための祈りの言葉ではありません。必ずある誘惑、試みに対して、その現実の痛み、苦しみをしっかりと見つめながら、そこになお神の御力とみこころ、そして何よりも神の救いを求めようとする祈りなのです。

3. 私たちという祈り
 そしてこの祈りは、個人の祈りで終わるものではないのです。「私たち」が誘惑に会わないように。この日本が、この世界が、まさに私たちが、誘惑に、試みに会わないように。耐え難い試みは必ず起きます。それでも、この祈りはむなしく地に落ちているのではないのです。必ず、神から希望が与えられている、それを私たちは忘れてはなりません。その希望をもって、私たちは祈り続けるのです。私たちを誘惑に陥らせないでくださいと。

投稿者 mb-church : 16:49

2011/5/8礼拝メッセージ

2011年5月8日の礼拝メッセージの要約です。
マタイ6:12
「神の赦しと私たちの赦し」

1. 赦しの条件
 文語訳では「われらに罪を犯す者を、われらがゆるすごとく、われらの罪をも赦したまえ」です。私たちが他の人の罪を赦すことを条件として、それゆえに、私たちの罪を赦してくださいと願っているかのように読むことができます。他の訳では次のようなものもあります。「私たちの負い目をおゆるしください。私たちも負い目をゆるし合います。」「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。」つまり、あなたが私たちの罪を赦してくださるゆえに、私たちも他の人を赦しますとなるわけです。しかし忠実に訳せば「私たちの負い目を赦してください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しましたように。」となるでしょう。キリストを通して、私たちに常々語られていることは「あなたを赦そう」という神のメッセージです。罪の赦しを願い求めるとき、キリストによってすでに私の罪は赦されていることを、私たちは思い出すことにもなります。その上で、私たちが祈らされるのは「他者の赦し」のことなのです。

2. 他者への赦し
 私たちが、キリストの十字架によって赦されているのはなぜでしょうか。それは、私という個人がただ罪赦されて、天国に行くということではありません。キリストの十字架によって罪を赦されたものとして、神のみこころを知って生きる・・・そこに十字架の赦しの意義があります。パウロはこのことをキリストの使節、和解の使者であると言い表しました。それが私たちに与えられた新たな役目です。「私たちに負い目のある人たちを赦しましたように。」ここで神の赦しと、私たちの赦しとが並べられています。主の祈りを祈るときに、私たちはキリストにある神の赦しを覚えます。そしてその大きな赦しと同時に、私たち自身の赦しが問われることになります。今私たちは他者を心から赦しているのだろうか。キリストによって私たちの罪は赦されました。しかし、その救いを受けてなお、私たちが神の民として、和解と赦しをもたらすものとなっていないのなら、やはりそれは神のみこころに生きようとしないおろかな罪人にしか過ぎないのです。「主の祈りの第五の願いは、この祈り全体の中で最も危険な願いである。われわれが祈りながら偽り、また偽りながら祈るという危険が、他の願いに比べて、この願いの中にはより身近に潜んでいる。(プフェンドザック)」キリストは、私たちに他者への赦しを迫る方なのです。

投稿者 mb-church : 16:47

2011/5/1礼拝メッセージ

2011年5月1日の礼拝メッセージの要約です。
マタイ6:11
「神のことばとパン」

1. 私たちとは誰か
 主イエスが教えて下った祈りには、「私」という言葉はありません。それでは「私たち」とはいったい誰をさしているのでしょうか。それは、天の神を私たちの父と呼び、主の名をあがめ、神の国が来ることを切に願い、そして主のみこころがこの地になることを心から祈る者たちのことです。そしておそらくこの主の祈りの「私たち」という言葉には、それだけではない響きがあります。それは山上の説教の冒頭に明らかにされています。そこには、イエスによって神の国の者たちに招かれている者たちの新たな定義が記されています。割礼を受けた者、律法を自分たちの基準で守る者、正しい行いをする者ではなく、心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のために迫害されている者、主イエスのために迫害される者たちのことです。私たちは自分の正しさや強さを、さも自分で得たかのように思いがちです。そして、弱さを得た人、痛みを負っている人、その人々もまた、それらが全てその人のせいでは決してありません。私の罪は私たちの罪であり、私たちの罪は私の罪でもあるのです。ここでキリストは「私たち」と祈るようにと教えられました。それは罪ある私たち、神の前にまったく打ち砕かれた人々のことです。

2. 神の意志に支えられて
 そして「日ごとの糧をきょうもお与えください」と祈ります。神のみこころがなるようにと祈ったその直後に祈る言葉、それが「今日の糧を与えてください」というものです。糧とは「パン」という言葉です。パンの背後に覚えなくてはならないのは、それを与える神のことばです。イスラエルは出エジプトのマナによってそのことを学びました。その日の命は、またそれを生かす食べ物さえも、神の意志によっているのだということを。「神のことば」が実現するというのは、そこに「神の意志がある」ということにほかなりません。私たちが今日生かされ、食べ物があるということも、そこに神の意志があるのです。この祈りが私たちに教えるのは、神の意志によって、私たちが今日生かされ、そして生きることができるのだという事実です。この事実に対して、私たちはどこまで目が開かれているのでしょうか。たとい満ち足りていようと、神にあるいのちに気がついていないならば、その人はすでにいのちの本質を失っていると言わざるをえません。かの地が、また私たちが、ただ物で満ちるのではなく、神の意志によって生かされ、生きていくということを知るようにと祈りたいのです。

投稿者 mb-church : 16:42