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2011年04月24日
2011/4/24礼拝メッセージ
2011年4月24日イースター礼拝のメッセージ要約です。
Ⅱコリント1:4~10
「キリストの苦難とともに」
1. 勝利が宣言された日
イースターは主イエス・キリストが、死からよみがえられた日です。この日こそ「勝利」が宣言された日です。私たちの日常は、いまだ勝利が訪れていないようにも思えます。未解決の問題、痛み、悲しみ、死、私たちの前には、人の力ではコントロールできないような事柄が山積しています。「勝利」はどこにあるのでしょうか。絆を深め、がんばった先には何があるのでしょうか。私たち人には、その先にあるものを指し示すだけの力はありません。なぜなら、人間には、どこから来て、どこへ行くのか、その出発点とゴールをはっきりと示すことができないからです。その答えを持つ方が、私たちに示してくださった答え、それがイースターにはあります。
2. 苦難の中で
パウロのことを、私たちは偉大なる伝道者、情熱に満ちた働き人であると認めています。しかし、当時の教会はそのように見ていない人々もいました。実際に会った場合の彼は弱々しいとも記されています。もちろんパウロはその評価に一喜一憂していたわけではなかったでしょう。しかし、彼の中にあった苦しみはとても深いものでした。何よりも彼を苦しめたのは、キリストの福音に対しての間違った教えが教会を混乱させている、ということでした。力を尽くしても理解されず、思い通りに行かない・・・そんなことの繰り返し、それが彼の歩んだ生涯でした。彼の前に立ちふさがったのは、よりによって当時の教会だったのです。ここにも彼が圧迫を受けていたと証言されています。さらに彼は「生きることさえもあきらめた」とまで言っています。
2. 与えられた慰め
ここで「慰め」という言葉が繰り返されるのと同様に、「苦しみ」という言葉も数多く繰り返されます。パウロもまた福音宣教に奮闘する中で、彼自身の存在の危機を経験しました。しかし、彼はそこに最も偉大な意味を見出します。その時に、彼はキリストの苦しみの意味を深く理解することになるのです。「死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となる」と彼は告白しています。苦難の真っ只中で、その先にある神の救い、そしてキリストの復活へと、私たちは目を向けさせられるのです。苦難は十字架によって、やがて慰めと神の栄光に満ちたものとなることが約束されています。あなたの苦難は、キリストの苦難とともにあり、あなたの希望もまた、キリストの復活とともにある、そこに「神の慰め」があるのです。
投稿者 mb-church : 06:36
2011/4/10礼拝メッセージ
2011年4月10日礼拝のメッセージ要約です。
マタイ6:10、ルカ19:5~10
「みこころが天と地で」
1. あなたのみこころが行われるように
第三の祈りにおいて、私たちがまず考えなくてはならないこと、それは神のみこころとは何かということです。神の意志、望まれること、喜ばれること、それは何でしょうか?みこころを、私たちはみことばを通して聴き続け、そして学び続けなくてはなりません。神は私たちに自由を与えられ、私たちの意志を働かせて、私たちに与えられた力や知恵をもって生きるようにと導かれています。聖書には「徳」と訳される言葉があります。これは「建てあげる」という言葉です。その人が何によって形作られ、教会が何を土台にして形成されているのでしょうか。みことばは私たちを形作るものでもあります。
2. ある役人
しかし、神のみおしえはいつのまにか「ルール」となってしまいます。神のみこころを行うということが建前になり、その実態は神の思いにまで人の心が及ばないということになってしまいます。最初は正しく良いこととして始めたことも、いつの間にかそこにある大事な土台を失ってしまうことがよくあります。ルカの福音書にはキリストとある役人との対話が記録されています(ルカ18:18~)。この人は悲しんでイエスの前を立ち去ることになりました。「みこころ」を口にするときに、私たちは考え抜かなくてはならないのです。何が神のみ思いなのだろかと。キリストが「全財産」をささげて、貧しい人に施せと言ったのは、そもそものあなたの出発点が違うのだと教えようとされているのです。
3. ある収税人
彼は周囲からは蔑まれた人でした。しかし、彼はイエスに出会います。彼はキリストから目に見える物は何一つ得ることはありませんでした。しかし、彼はキリストから最も大事なものを受け取った人です。それは「彼自身の全てが受け入れられた」という確信です。そして彼は神のみこころを命じられたからではなく、自由な自発的な行動によって行う人となりました。キリストを信じることによって、私たちのいのちの全てが、完全なる希望と救いに包まれます。そこから私たちは「建て上げて」いくのです。みこころがなるようにとの祈りは、天地という広大な範囲に及んでいます。しかし、その祈りは同時に、この私の上にという祈りでもあります。あのザアカイが確信し、そしてその思いに押し出されて新たな歩みへと踏み出したように、私たちも神のみこころに生きる歩みへと踏み出したいのです。
投稿者 mb-church : 06:35 | コメント (0) | トラックバック
2011/4/3礼拝メッセージ
2011年4月3日礼拝のメッセージ要約です。
マタイ6:10
「御国がここに来ますように。」
1. 御国が来ますように
この祈りは真にキリスト教的な祈りです。「御国に行けますように」とはイエスは教えられませんでした。神はこの世界を良きものとして形作りました。私たちの中にもその残滓があります。しかし、私たちの住むこの世界は、すばらしいものだけで彩られた世界ではありません。人間も、大きな痛みを抱え、また悲しみを抱えながら歩み続けています。私たちのいるこの場所に神の御力と知恵によって、神の国が到来することを切に祈る祈り、それが「御国が来ますように」という祈りです。この祈りから三つのことが響き渡ります。
2. 現実と神の国
一つは、私たちの目の前にある神の国とは程遠い現実を見つめ続けるということです。この現実を直視する中で、切なる叫びとともに私たちは祈らされるのです。その祈りはうめくような祈りであるかもしれません。私たちの目が、今何を見ているのか、そのことが問われる祈りです。この場所に立ちつつ、ここに御国が来てくださいと祈るのです。
3. 神の国というゴール
第二に、この祈りは私たちのゴールを示すものです。神の国は私だけが幸いでいる国ではありません。神が完全に支配される国、正義と公正、愛と平和、死ではなくいのちにあふれたところです。これは抽象的なものでもなく、また非現実的なものでもありません。それらは私たちが今ここで切に願い欲しているものです。神の支配がありますようにと心から願う者たちが数多くおこされることが必要です。この現実を前に、父なる神の公正と義、愛と平和の支配する国が来る、そのことを切に祈るように私たちは今導かれています。
4. 道備えをする生き方
第三に、この祈りが神の国が来ることの道備えをする生き方へと導くということです。他の誰かではないあなたが、ここに神の国が来るようにと願い、そしてその願いに生きよ、と語られています。それは分離してしまっている神の側と私たちの側とをつなぐ祈りです。この地で御国が来るようにと祈るのは、ただこの場所が天国へと通じる通過点であるからではありません。この地は神の国が到来する場所です。この場所から、私たちは神の国へと進んでいくのです。その間をつなげる確かな鍵、それが十字架の主、復活の主イエス・キリストなのです。
投稿者 mb-church : 06:32 | コメント (0) | トラックバック
2011年04月01日
2011/3/27礼拝メッセージ
2011年3月27日礼拝のメッセージ要約です。
マタイ6:9
「御名が崇められますように」
1. 私たちの天の父よ
このことばはとても親しい呼びかけのことばです。神とあなたは、親密な、それはたとえて言えば父と子の関係だと言うのです。それは、まるで私たちには到底入ることのゆるされない全世界の王の部屋のドアが目の前にあり、そのドアをたたくことが許されている、そんな扉を空けることば。これは呪文の出だしではありません。私たちに神への信頼を思い起こさせる言葉です。そしてその言葉を私たちにキリストが譲ってくれたとも言えるのが主の祈りです。あなたのことも、父なる神は私と同じようにしてくださるのだ、それが主の祈りのはじめの言葉の約束です。
2. 御名があがめられますように
この意味は「あなたの名が聖なるものとなるように」です。名前は単に区別する記号ではありません。その人そのものを表すもの、その人の存在が名前の持つ意味です。なぜこのことを祈れと言われているのでしょうか。なぜなら、神はこの世界で貶められ続けているからです。神のかたちである人間、そしてこの世界のすべてに神の手がほどこされ、表されています。私たちの行動によって、私たちの言動によって、この世界は変化し、私たち自身も時に傷つき、時に神のすばらしさを表すこともできます。私たちは、一方では神のかたちである人のすばらしさと、もう一方では神のかたちをゆがめてしまう人の姿を見出します。
3. 苦難のときに
苦難のときに、私たちは神のみこころをどのように受け取っているかが試されていると言ってもいいでしょう。「御名が崇められますように。」これは私たちの絶望的な現実に対して、私たち自身を、神から出発する見方へと連れ戻す祈りです。そしてそれと同時に、私たちの思いと力の出発点が、神から与えられるものであることを約束している言葉でもあるのです。天の父なる神の御力によって、この世界で、わたしという個人の中で、御名が崇められるという奇跡が起こりますようにと祈るようにと、キリストは教えられたのです。
投稿者 mb-church : 16:42 | コメント (0) | トラックバック
2011/3/20礼拝メッセージ
2011年3月20日礼拝のメッセージ要約です。
マタイ6:5~9
「天の父よ」
1. 普通のあり方
今求められている「普通」とは何でしょうか。それは私たちの普通とは異なります。私たちは神を信じる者たちであり、神を信じようとする者たちです。神のみこころを行う、そのような者たちでありたいと願います。神の御思いを私たちの「普通」としたいのです。私たちにともに祈りの手を上げたいと思います。今日の箇所は、主のいのりの直前の箇所と祈りの第一節です。ここでまずイエスは、神の前にある人の内側にあるものを明らかにしようとしています。それは偽善です。
2. 神の前の偽善
偽善者たちは人に見られたくて、わざわざ会堂や通りの四つ角にたって祈る、とあります。イエスが問題にしたことは何でしょうか。問題は何を祈り求めているのか、そしてそれを誰に向かって祈っているのか、ということです。もちろん神に祈っていることでしょう。だとすると、その神はいったいどんな方なのでしょうか。人前ではなく、奥まった部屋に、そして、人の前で声にだして、自らの祈りを、神にではなく、人に対してする人々に対してイエスは語りかけます。あなたは祈ってはいるが、まったくその相手が見えていないと。「隠れたところにいる」それは、わざわざ神が隠れているのではなく、私たちが自分から見ようとしていない、ということを意味しています。自分たちの思いを先においてしまうがゆえに、神の姿を見失う、そのようなことが私たちにはあります。今、私たち自身の質が問われている、そう言ってもいいでしょう。
3. 異邦人のようではなく
ただ熱心に、ただ回数を多く祈ればそれで聞かれるのか、これもまた祈りの本質を失っていると言わざるをえません。イエスは「異邦人」のようだ、と言います。自分は神を信じているといいながら、自分の都合のよい神を作り上げているのではないか、そう問われています。神は祈る前から私たちの必要なものを知っておられる・・・では祈る必要がないのでは?この考え方の根底には、私の必要を知っていただいて、そして祈りを通して神に聞いてもらうためだ、という考えがあります。私たちは今、まさに問われています。自らを満たすためだけの祈りを捧げるのか、それとも苦しみ、痛みを連帯し、とりなすために祈るのか。現実の苦難が目の前にあります。だから、イエスは主のいのりを私たちに与えてくださいました。この祈りを祈り続けなさいと言われました。そしてまず私たちはこう祈るのです。「天におられる私たちの父よ」と。