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2011年03月15日
2011/3/13礼拝メッセージ
2011年3月13日礼拝のメッセージです。
ルカの福音書21:25~28
「身を起して」
http://www.voiceblog.jp/masago_bc/
投稿者 mb-church : 15:09 | コメント (1)
2011/3/6礼拝メッセージ
2011年3月6日礼拝のメッセージ要約です。
創世記24:1~9
「信仰の継承」
1. イサクの結婚
息子イサクの結婚の逸話、それがこの24章に描かれています。それはまさに信仰継承の物語であると言えるでしょう。信仰の継承は「生きる信仰の上に成り立つ」ということが語られています。この時、アブラハムの地上での生涯の終わりが差し迫っていました。この時一つのことが彼の気がかりでした。それは息子イサクの結婚の相手ということです。「婚姻関係」によって、この時代より後のイスラエルの民も、たびたび神への信仰がふるいにかけられるということが起きました。イスラエルの民が、他の民族との婚姻関係を禁じていく背景には、ただ自分たちの民族の純潔を守るということ以上に、信仰そのものを保持するという目的が第一にありました。アブラハムが、イサクの結婚に関して考えたのも、この信仰の継承であったことは間違いないことでしょう。
2. アブラハムの条件
アブラハムは、カナン人からイサクの結婚相手を選ばないことを、第一の条件としました。そして、しもべにアブラハムの生まれ故郷にまで相手を探しにいかせます。この地で生きるためには、カナン人から相手を選んだほうが得策となることは分かっています。しかし、あえてアブラハムは遠い地から相手をと考えました。なぜなら、アブラハムは「神信仰」においてカナンの地の人々とは、一線を画さなくてはならないと考えているからです。つまりアブラハムの第一の基準は、「神信仰の継承」だったということです。
3. 生きた信仰
しもべはアブラハムに質問をしています。「もしかして、その女の人が、私についてこの国に来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」しかしアブラハムはイサクがここに留まることを優先しました。ここでも、アブラハムが最も大事にしていることが明らかにされています。それは「神の導き」です。イサクの妻となる人もまた、自分たちと同じ信仰に立つものでなくてはならないと考えていたのです。アブラハムが最も大事にしたこと、それはアブラハムの信仰の原点ともいえる故郷から、同じ神を信じ、同じように家を出て、ここまで来てくれる女性であったのです。ここに問われているのは、そこに「神への信頼と信仰があるのか」ということです。そこに生きた信仰があるならば、その信仰は後の世代にも引き継がれていくものとなるのです。
投稿者 mb-church : 15:00
2011/2/27礼拝メッセージ
2011年2月27日礼拝のメッセージ要約です。
創世記23:1~20
「アブラハムの道標」
1. 人生の終末を迎えて
22章において、アブラハムの神との信仰における格闘は一つの答えを得ることになります。神の前での罪の清算と、神がその責任の全てを負ってくださるとの答え。その答えを得、彼はモリヤの山をおりました。この最後の数章において、なすべきことをなし終えて、この地上での旅路を終えようとする一人の信仰者の姿を、私たちは見ることができるでしょう。その中の一つに妻サラとの別離ということがありました。
2. 深い悲しみ
これはアブラハムにとって大きな悲しみの出来事でした。神にある後々までの希望を抱いていたとしても、この別離の悲しみは大きなものです。奇しくもサラの死によって、アブラハムは神が約束された土地を手にいれることになります。生きている間、彼は寄留者であり旅人でしたが、彼はこの時土地を手にします。その場所は、やがて自分もそこに入ることをもちろん意図してのことです。約束の地。それは聖書では後に、神の国として語られる場所です。それは、やがて再びこの地上に来る、神の完全なる支配がなされる場所です。彼は、この時代にすでにあった「別の死後の世界への信仰」ではないものを受け取っています。神は最大の敵である罪と死とを滅ぼしてくださる、その信仰に彼は立っていました。ここでも彼は誠実に行動し、適切な方法でヘテ人から土地を取得します。
3. アブラハムの道標
正当な方法で、アブラハムは土地を取得します。この地は単に死者を葬る地ではなく、神の約束が必ず果たされる場所として、手にした場所でした。そしてその場所は、やがて彼の後に続く者たちの「道標」となる、その確信をもって、アブラハムはこの土地を手にします。聖書における信仰は、ただ一人の信仰ではありません。そこに連なる信仰です。その出発点にアブラハムは置かれた人でした。私たちもまた、この信仰に連なる者たちです。私たちが生涯で手に入れる以上のことを、神が後に用意してくださっている・・・必ず神が備えた約束の地での再会があり、そしていのちの完成がそこにある・・・その信仰がここにあるのです。その希望こそ、主イエス・キリストによって示された十字架の死と復活の希望であるといえるでしょう。別離の痛み、悲しみがなくなるのではありません。しかし、その先に必ず神が望みを備えてくださっている、その信仰に私たちも歩ませていただきましょう。
投稿者 mb-church : 14:59 | コメント (0)
2011/2/20礼拝メッセージ
2011年2月20日礼拝のメッセージ要約です。
創世記22:6~19
「罪と死の責任」
1. 神の御前を歩む
アブラハムは神の声が響いた時、即座の反応をしました。彼は常に神がすぐそばにおられるという意識を持っていたのです。なぜ神が全焼のいけにえとして息子イサクをささげよと命じているのか。それは神の前の罪ゆえであることを彼は理解します。神への信頼は彼の中にありました。しかし、罪の問題が彼の前には立ちふさがっていたのです。最後の壁が彼の前の前に立ちはだかります。それが「罪」という問題であり、それは「死」という最大の難問でもありました。しかし、神はその手がイサクに振り下ろされる直前に、アブラハムの手を止められました。
2. 神の宣言
このシーンでアブラハムが受け取った神からのメッセージは何でしょうか。それは第一に神からの「赦し」の宣言です。「あなたがどう思うかではない。わたしは確かにあなたを大いに祝福する」との神の宣言をかれは聞くことになります。さらに神はアブラハムに約束されました。あなたの子孫は「敵の門を勝ち取り、すべての国々は祝福を受けるようになる」と。敵とは誰でしょうか。この敵とは「罪」そして「死」のことです。そして祝福とは「神の民となり、神の国に住むこと」に他なりません。それはアブラハムは神の声に聞き従ったからです。神の声に聞き従ったときに私たちにはさらなる確信が与えられるのです。
3. 責任を取られる神
しかし、それでもなお根本的な問題は残されています。アブラハムの罪の代価はまだ支払われていないのです。それでは誰が最終的な責任を取ったのでしょうか。それを支払ったのは神ご自身です。そしてその代価こそイエス・キリストなのです。アブラハムが罪の代価としてイサクをささげようとしたとき、神は語られました。「もうあなたがささげなくてよい」と。本来は責任を取る必要のない神が、ひとり子であるイエスをささげてくださったのです。私たちは苦難を通るたびに、また自分の弱さや罪に気がつかされるたびに、この神の姿を思い起こしたいと思います。そしてアブラハムが得た祝福を、私たちも受け取らせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 14:58 | コメント (0)
2011/2/13礼拝メッセージ
2011年2月13日礼拝のメッセージ要約です。
創世記22:4~14
「見えないお方への信頼」
1. 神が示された地
アブラハムはいよいよ、息子イサクと二人で、神が示された地へと進んでいきます。神が初めにアブラハムに語ったのは「わたしが示す地へ行きなさい」という言葉でした。そして「私の示す地」は、このモリヤだったわけです。この地へと行くことには目的がありました。その目的とは、アブラハムが完全に神の民、神のものとなるということでした。アブラハムの人生の旅は、ただ目に見えるものを得る旅ではありません。目に見えない神、神ご自身を得る旅。それがアブラハムの旅路なのです。アブラハムが、神の言葉に全面的に従ったときに、そこに何があらわされ、そして何が彼に与えられるのでしょうか。
2. 問われていること
信仰がここで問われています。それだけではありません。あなたの信じる神は、どんな神なのか?そのこともまた問われています。アブラハムは息子イサクにこのように答えています。「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」この言葉にこそ、アブラハムの信仰が表されています。そしていよいよ、アブラハムが、その子に手をかける、その瞬間がやってきました。そのとき神はアブラハムの手を止められ声を掛けられました。「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」アブラハムの心と行為が一致していたということを、神が証言しています。この物語が今も私たちに告げるのは、私たちが目指すべき信仰の高みです。しかし、それはとても大変なことでもあります。
3. 備えてくださる主
キリストに問われた人がいました。ルカ18章の役人です。彼は全財産をささげるようにとイエスに問われます。すると彼は非常に悲しみ、去っていきます。手放すものが大きければ大きいほど、失いたくない、と私たちは思います。神にささげきることはとても難しいことでもあります。アブラハムの姿は、とても人間業ではありません。聖書は私たちにそのようになれと言っているのでしょうか。信仰は神が与えてくださるものです。アブラハムの根底にあったのは、神への全幅の信頼です。神は、その信頼に私たちが思う以上のことを持って応えてくださる方なのです。神に最も大事なものをささげ、そして神がそれに答えてくださるという、信仰者だからこそ経験することのできる証がここにあるのです。
投稿者 mb-church : 14:56 | コメント (0)
2011/2/6礼拝メッセージ
2011年2月6日礼拝のメッセージ要約です。
創世記22:1~4
「試練の最中に」
1. 神の試練
この22章は、アブラハムの晩年の物語です。この章に書かれているのは、彼の生涯の、特に信仰の歩みにおける集大成の出来事と言ってもいいものでしょう。一人の人の生涯の重みと、そこに関わり続けられた神様の物語がここに記されています。神がアブラハムに試練を与えた、とあります。それは大きな難問でした。息子イサクをささげなさいということ。「試練」という言葉では収まりきらない命令です。なぜこのような声がアブラハムにあったのでしょうか?「これらの出来事のあと」それはこれまでアブラハムの通ってきた数々の出来事の後、という意味でもあります。人生の総決算の時に、アブラハムに与えられた試練がこの命令だったのです。
2. 全焼のいけにえ
「あなた愛しているひとり子イサク」とあります。神はイサクを「全焼のいけにえ」としてささげなさいと言われました。全焼のいけにえは、すべてを神様にささげることを意味しています。その行為には、神への信頼、愛、忠誠、そのすべてが込められています。それだけではありません。この全焼のいけにえによって、神への罪が贖われる、つまり罪が赦されるということでもありました。なぜ、アブラハムの晩年に罪が問われているのでしょうか。彼は信仰の人でした。しかし、同時に弱さを抱えた人でもありました。神はそのどれをも守り支えてくださいました。しかし自分はどうだったのか、そのことを彼はここで振り返らされたことでしょう。そしてその時に問われ残ったのが、自分の罪の問題でした。神の約束と恵みは先行している・・・しかし、自分の歩みはそれに達していないのではないか。
3. 山を前にして
そして、彼は神の命じた山に向かいます。アブラハムにとって、この三日は、生きた心地のしなかった時間だったことでしょう。そして彼の目に映ったのは、はるかかなたに見えたモリヤの地でした。試練の、苦難の最中に置かれたアブラハムは、ここで一切、神に不平も不満も述べていません。彼の内にあったただ一つの確かなこと。それは、すべてのことに神の意志と神の御手は伸ばされているのだ、という確信です。これは安易に用いて口にするような言葉ではありません。しかし、真実に神に向き合い、また人生に向き合う時に、このアブラハムの確信の持つ力を私たちもまた経験することでしょう。
投稿者 mb-church : 14:54
2011/1/30礼拝メッセージ
2011年1月30日礼拝のメッセージ要約です。
創世記21:22~34
「与えられた務め」
1. 訪問者
イサクが生まれた後、アブラハムのところにアビメレク王がやってきました。友好的な関係を持つよう呼びかけに来たのです。アビメレクが恐れていたのはアブラハムではなく、アブラハムの「神」であったようです。この人物は、とても率直で実直に見えます。これまでのいきさつから、アブラハムに何かを感じ取り、友好的な関係を持つことが、自分にとって、また自分の治めている国にも益をもたらすと彼は判断したのでしょう。そしてアブラハムも彼と友好条約を結ぶことにします。周辺の国々や人々に、アブラハムの振舞いや言動を通して、どのような神なのかが知れ渡っていきました。
2. アブラハムの役目
アブラハムには神から与えられた役目がありました。それは神と人との間に立ちとりなす役目です。真の神の存在を、あり方、生き方を通して、周囲の人々が知るという役目。その役目がアブラハムに、後に続くイスラエルの民にも与えられていました。地上のすべての民族は、アブラハムによって祝福されるのです。ここでのアブラハムは神との間を取り持つ「祭司」のようです。そしてアブラハムは、アビメレクに対しある抗議をします。それは井戸の事件でした。これまでアブラハムはこのことを黙っていました。しかしアビメレクが友好関係を求めてきた時、つまり神との関係を持とうとした時、アブラハムはアビメレクに真実を告げる決心をしたのです。そして、アブラハムは7頭の子羊を取るようにとアビメレクに語りかけました。この子羊は誓約の印です。この誓いは、人と人との間で取り決めた約束ごとではなく、神を真ん中にして交わされた約束なのだということが、この印に表されています。
3. 神からの務め
この後、アブラハムは神に祈りをささげました。彼はいったい何を祈ったのでしょうか。アブラハムは自分のためだけに祈りをささげのではなかったのではないでしょうか。彼は、もう一度、アビメレクとその家のために、祈りをささげたのではなかったのでしょうか。実はこの平和の約束は彼らの子孫によって破られることになります。しかし、さらに後の時代、この祈りは人の力によってではなく、神の御力によって、十字架の主イエス・キリストにある和解と平和によってもたらされることになるのです。私たちも対立や、神と人との間に今も立たされています。そこで私たちは、何を願い、何を祈るべきなのかが問われています。
投稿者 mb-church : 14:53 | コメント (0)
2011/1/23礼拝メッセージ
2011年1月23日礼拝のメッセージ要約です。
創世記21:1~21
「主のあわれみの中で」
1. イサクの誕生
老夫婦に待望の息子が誕生します。なぜ神がここまで彼らを待たせたのでしょうか。それは「神の栄光が彼らに現されるため」でした。望み得ないときに神に望みをおき、そして神がそれに答えてくださったという事実。それがこの二人に現された神の御業でした。神の約束があまりにも非現実的であったことから、思わず笑ってしまったアブラハムとサラたちの「笑い」がここにあります。しかし、もう一つの笑いもあります。それは「喜び」の笑いです。現実に対してあきらめて笑うしかない状況であったにもかかわらず、神の御力のゆえに真の喜びがもたらされた笑いがここにはありました。
2. 彼らの目的地
イサクの誕生は最終的なゴールではありません。アブラハムのゴールは神が示された地へとたどり着くことでした。「神の示してくださる地へと行きたい」この問いこそが、彼の人生を前へと進ませたのです。私たちは神に祈ります。それが神の御手の中で導かれ、神のみこころに沿った形で実現をします。しかし、実際のプロセスはそんなに簡単で単純なことではありません。私たちの弱さや神の導きのゆえに、さまざまな局面を通されます。しかし、弱い私たちだとしても、神の忍耐と憐れみの中におかれているのです。その歩みの中で、アブラハムはイサクの誕生を通して、神の圧倒的な確かさを得ました。「神はわたしに笑いを与えてくださった。聞く者は皆、わたしとともに笑う(イサク)でしょう。」神は私たちを祝福して下さろうとしています。ここにある大きな喜びは、彼らの祈りとこれまでの神との旅路があったからです。
2. 悲しみの現実
しかし、ここでも悲しい現実が起きます。それがハガルとイシュマエルの物語です。アブラハムはハガルとイシュマエルを荒野へと追放します。しかし、ここでも神はとても憐み深くあります。この二人の出来事も、もとはアブラハムとサラの神への不信から生じたことでした。その責任を彼らはとることができません。しかし、それでも神はその御手の中で導いて下さいました。アブラハムのように誠実に歩んだとしても、私たちには欠けがあり、弱さがあります。私たちに欠けはあってもなお神に信頼し続け、従い続けていくときに、神は必ず導いて下さいます。私たちもまた、自らの罪深さを覚えつつ、それでもなお神に祈り求めたいのです。神のあわれみの御手の中に置かれていることを感謝しましょう。
投稿者 mb-church : 14:52 | コメント (0)
2011/1/16礼拝メッセージ
2011年1月16日礼拝のメッセージ要約です。
創世記20章
「与えられた務め」
1. 繰り返す過ち
私たちは同じ失敗を繰り返してしまうものです。アブラハムでさえ同様でした。妻サラを再度妹と偽って、異国の王に召しいれてしまうのです。それにしても、この事件がソドムとゴモラの裁きの後に記されていることは印象的です。それ以上に印象的なのが、次の章ではいよいよ神の約束が実現するということです。アブラハムの神への誠実さが、神の約束の実現をもたらしたのではありません。そうではなく神のアブラハムに対しての誠実さこそが、約束の実現をもたらしたのだということが、この一件でも明らかとなります。
2. 警告と慰め
「アブラハムでさえ」という響きの中に、「自分の力を過信するな」という警告が聞こえてきます。それにしても、神のアブラハムへの寛容さは半端ではありません。あくまでも神はアブラハムの側に立ち続けています。アブラハム以上に罪の自覚があったのはアビメレクでした。教会よりも、外にいる人の方が正しさに立っているということはよくあることです。神を信じているからその人が正しいわけではありません。私たちは弱く、罪深いことを知っているがゆえに、神に正しい方へと導いていただくのです。神は私たちの弱さを知っておられるにもかかわらず、それでもなお私たちの側に立ってくださる方です。アブラハムは罪の責任を取ることができないでいます。私たちも同様です。罪は神の責任ではありません。しかし、神は私たちの罪の責任を負ってくださる方です。神の名を汚してしまうのは、神を信じる人であるという皮肉な現実があるのを、私たちは忘れてはならないでしょう。
3. 与えられた務め
ここで神はアブラハムに一つの務めを与えられました。それは「とりなし」です。ここに私たちにも与えられている役目があることを知ります。私たちは神を信じ、赦されている者として、神を知らない者と神との間に立ちとりなす役目が与えられているのです。キリストのゆえに、今神との和解は完全なものとなっています。パウロは、私たちのことをキリストの使節であると言いました。それは私たちが、神の前に赦され続けているからこそできることです。私たちは神の正しさと憐れみ、そしてどんなときにも私たちの側に立っていてくださる方の存在を知らされています。そして私たちにもアブラハムと同じ役目が与えられているのです。