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2011年02月06日

2011/1/9礼拝メッセージ

2011年1月9日礼拝のメッセージ要約です。
創世記19:1~29
「憐れみと甘え」

1. 変わらない罪の現実
 はるか昔の世界から今日に至るまで人間の罪の現実はあまりにも変わっていないのということに衝撃を受けます。人間の影の部分は昔から改善もしていないことに愕然とします。私たちはアブラハムよりも、ロトと似た立場におかれているのではないでしょうか。神を知りながらも、富める社会、病んだ社会の中で、ぎりぎりの線上で暮らしている…そんなロトの姿と私たちの姿とが重なります。ロトは神を知っていました。しかし、彼はソドムとゴモラに象徴される社会の影響の下にあったのです。

2. 自らの力によって
 彼は自分の力と知恵で困難な局面を乗り越えようとします。しかしそれは失敗に終わりました。いかに人間の知恵が浅はかで、おろかであるかがよく表されています。この時のロトは、本当に頼るべき神のみ使いが側にいたにもかかわらず、自分の力でこの場をどうにか切り抜けようとしています。ロトはソドムという地で、まことの神に信頼するということを見失っているのです。自分はまことの神を知っているという思いや自覚はあったのでしょう。しかし、実際の彼の姿はおろかさを露呈してしまっています。そしてこのことが、ロトの家族に暗い影を落とすことになってしまうのです。

3. 憐みと甘え
 神の使いは裁きを告げます。しかし、ロトはその言葉に全面的に従えません。彼の家族も同様です。それでも神は憐みを示します。しかし、ロトはなおこの町の近くに逃れたいと神に願います。そして彼の妻は塩の柱となってしまうのです。神は彼を導き続けています。しかし神への甘えがさらなる悲劇を招いてしまっているのです。私たちはいったいどうすれば、この世にあって、まことの神という中心点を失わずに生きることができるのでしょうか。神は私たちに一つの手がかりを与えられました。それが「安息の日を守る」という命令でした。神が私たちのために安息の日を備えてくださったのです。私たちの中心を礼拝によって神に置く、そのことによって私たちの価値観が形作られます。私たちに神は自由を与えられました。私たちはこの自由を、自らの手で失うことなく歩ませていただきたいと思うのです。礼拝への主の招きに応じつつ、主の言葉に聞き従ってまいりましょう。

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2011/1/2礼拝メッセージ

2011年1月2日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ人への手紙4:16~20
「神からの希望」

1. アブラハムの信仰
 アブラハムは信仰の父と呼ばれています。しかしそれはユダヤ人に限ったことではありません。「望み得ないときに、神に望みをおくもの」それがアブラハムの信仰です。私たちの目の前には、どうなるかわからない未来が広がっています。私たちは未来に不安や恐れをいだきます。しかし信仰はそれを超えるものです。旅立つ前、アブラハムには後を継ぐこどもが与えられていませんでした。そのときに彼は神のことばに聴き従いました。このときにアブラハムの信仰が単なる神に対する知識や願掛け以上の聖書の語る「信仰」になったのです。

2. パウロによる解説
 パウロはアブラハムの信仰について記しています。アブラハムは弱さを覚えずに神の約束を信じ続けたのでしょうか。彼はその歩みの中で、何度も神に問い、願い、祈り続けました。また時に弱さの中で失敗をも犯しました。しかしパウロはアブラハムの歩みを完全なものであるかのように記しています。なぜなのでしょうか。3章22節に「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」とあります。この言葉は「イエス・キリストの誠実さによる神の義」とも訳すことができます。それはイエスが不完全な私たちのかわりに地上の生涯を歩まれ、完全な人として神の前にささげられた誠実さのゆえに、私たちの罪は赦され、私たちの生涯が神に受け入れられたものとなるという意味です。つまり徹頭徹尾、信仰は神から与えられるものだということなのです。

3. アブラハムに与えられた信仰
 アブラハムもまたその生涯においては失敗や弱さがありました。しかし、その生涯の中で、神との関係を深めていきます。20節にはこうあります。「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことはせず」。この箇所は「彼は、神の約束において、不信仰により揺るがされず」と訳せます。また続く文章も「しかし、信仰によって強められ」と訳せます。アブラハムが自分で信仰を強めたのではありません。神に与えられた信仰によって、彼は強められていったのです。信仰は神が与えてくださるものです。私たちはただ神に信頼を置き続け、神との関係を失わずに歩み続けるものであり、希望を自分にではなく、神に置き続けるものたちなのです。

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