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2011年01月13日

2011ハートフルコンサートのお知らせ

今年もハートフルコンサートを開催します!
寒い季節、そして教会ならではのコンサートです。

今年は柳瀬洋さんのクラリネットコンサート。
伴奏は奥様の柳瀬佐和子さんです。
ご夫妻による心あたたまる音色をご一緒に堪能いたしましょう。

ちらしはこちらです。

投稿者 mb-church : 09:45 | コメント (0) | トラックバック

2011/1/2礼拝メッセージ

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
2011年1月2日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ人への手紙4:16~20
「神からの希望」

1. アブラハムの信仰
 アブラハムは信仰の父と呼ばれています。しかしそれはユダヤ人に限ったことではありません。「望み得ないときに、神に望みをおくもの」それがアブラハムの信仰です。私たちの目の前には、どうなるかわからない未来が広がっています。私たちは未来に不安や恐れをいだきます。しかし信仰はそれを超えるものです。旅立つ前、アブラハムには後を継ぐこどもが与えられていませんでした。そのときに彼は神のことばに聴き従いました。このときにアブラハムの信仰が単なる神に対する知識や願掛け以上の聖書の語る「信仰」になったのです。

2. パウロによる解説
 パウロはアブラハムの信仰について記しています。アブラハムは弱さを覚えずに神の約束を信じ続けたのでしょうか。彼はその歩みの中で、何度も神に問い、願い、祈り続けました。また時に弱さの中で失敗をも犯しました。しかしパウロはアブラハムの歩みを完全なものであるかのように記しています。なぜなのでしょうか。3章22節に「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」とあります。この言葉は「イエス・キリストの信仰による神の義」とも訳すことができます。それはイエスが不完全な私たちのかわりに地上の生涯を歩まれ、完全な人として神の前にささげられた信仰のゆえに、私たちの罪は赦され、私たちの生涯が神に受け入れられたものとなるという意味です。つまり徹頭徹尾、信仰は神から与えられるものだということなのです。

3. アブラハムに与えられた信仰
 アブラハムもまたその生涯においては失敗や弱さがありました。しかし、その生涯の中で、神との関係を深めていきます。20節にはこうあります。「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことはせず」。この箇所は「彼は、神の約束において、不信仰により揺るがされず」と訳せます。また続く文章も「しかし、信仰によって強められ」と訳せます。アブラハムが自分で信仰を強めたのではありません。神に与えられた信仰によって、彼は強められていったのです。信仰は神が与えてくださるものです。私たちはただ神に信頼を置き続け、神との関係を失わずに歩み続けるものであり、希望を自分にではなく、神に置き続けるものたちなのです。

投稿者 mb-church : 09:35 | コメント (0) | トラックバック

2011年01月12日

2010/12/26礼拝メッセージ

2010年12月26日礼拝のメッセージ要約です。
「さあ目を上げて」
創世記13章14節

1. 神の選び
 新しい年に日本バプテスト教会連合で掲げた聖書の箇所がこの箇所です。ここからもう一度主の恵みを振り返る時、感謝をささげる時としてまいりましょう。ここでアブラハムは、ロトと袂を分かつ、そのような場面に神様が語られたことばが、今日の箇所の場面です。「神の選び」という視点から、もう一度この箇所を受け取らせていただきたいのです。この直前の12章では、アブラハムの旅の出発と到着が描かれていました。アブラハムの出発と最初の挫折です。そして13章ではロトと袂を分かつことになります。

2. アブラハムの問い
 このような中で、アブラハムは自らの資格について問い直したのではないでしょうか。神の声を聞き、導かれ、そして神が祝福してくださるという大いなる父としての資格などあるのだろうかと。この問いかけは、とても誠実な問いです。こんな罪深いものを、神は許し、導き、やがて祝福してくださる、そのようにはアブラハムはこの時思えなかったかもしれません。ロトとの別離を通して、アブラハムはもう一度、神ご自身と向き合うことになるのです。そして彼の目の前に開けていたのは、神が示された地でした。約束の地。彼に向けられていたのは、神の哀れみ深いまなざしでした。その時み言葉が語られました。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。」

3. 目を上げて
 彼はこの言葉に、また目の前にある神の憐みに、ひれ伏さざるをえなかったことでしょう。主の約束はまだ変わらないのだと。彼はもう一度、神の前にひれ伏し、悔い改めたことでしょう。神の選びは実に不思議なことです。私たちは神に対して誠実ではなかった自分を見出すかもしれません。それでも神は私たちに哀れみの目を向けてくださっている。しかし、問題は、なぜ私をお選びになったのかということです。アブラハムの生涯を通してこの問いは問われていくことになります。なぜこの私に、ほかの誰かではない、この私に神は声をかけてくださったのか。この答えは、それぞれの生涯によって表されていくものです。それぞれに神の憐みと恵みを思い返し、そこから目を上げて来る年に向かってまいりましょう。

投稿者 mb-church : 19:27 | コメント (0) | トラックバック

2010/12/19礼拝メッセージ

2010年12月19日礼拝のメッセージ要約です。
マタイの福音書3:1~12
「指し示された方」

1. 自己義認
 「そのころ」それはイエス・キリストの直前に、ユダヤ地方で突如としてあらわれた「預言者」バプテスマのヨハネの時のことです。ヨハネは悔い改めをその時代の人々に説きました。それは旧約の預言者たちのメッセージそのものでした。なぜこのヨハネの時代に、救い主イエスが誕生したのでしょうか。旧約聖書は、唯一の創造主なる神と、被造物である私たちの関係を教えています。その中で、私たちが本当に問題すべきことは「罪」です。その罪の問題、それを一言で言えば「自己義認」です。この時代のユダヤ人たちは、神によって与えられた律法を守ることによって、正しい者となれる、神に認められ、神の国に入ることができる、いえ、この世界での勝利者となれる、そう考えていました。それが「自己義認」です。聖書はこういいます。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、 みな、ともに無益な者となった。 善を行う人はいない。ひとりもいない。(ローマ3:10~12)。

2. ヨハネのメッセージ
 イエスの生まれた時代の直前は、神の預言者が与えらなかった時代です。その時に自己義認はピークに達します。その沈黙を破ってバプテスマのヨハネは叫びました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」真の問題はここからです。罪に気づいたときに、私たちはいったいどうすればいいのでしょうか。その鍵こそ、ヨハネが指し示したイエスにあります。神は、私たちに対して、弱さ、足りなさ、罪深さを迫るだけではありません。キリストが誕生したのは実にこの時のためなのです。私たちが、自分の罪に気づき、神に立ち返ろうと神の方へと向きなったそのときに、目の前に、神の救いが差し出されている。それがイエス・キリストです。

3. 差し出されているキリスト
 天の御国が近づいた・・・そこにヨハネが意識していたのは「裁き」でした。しかし、それだけではありません。それはキリストが目の前にあるということでもあります。キリストによって私たちに与えられたもの、それは神の前における罪の完全な赦しです。さらに私たちのいのちが、キリストによって、復活の、新しい神の国におけるいのちと変えられたという現実です。この救い主イエスによってもたらされた、神にある完全な赦しと、回復の希望と、神に愛されているという信頼を土台とする、新しい歩みへと私たちは導かれているのです。

投稿者 mb-church : 19:26

2010/12/12礼拝メッセージ

2010年12月12日礼拝のメッセージ要約です。
マタイの福音書2:1~12
「嘆きは聞かれている」

1. ユダの地ベツレヘム
 イエス・キリストの誕生した場所はベツレヘムでした。マタイはその時がいつであったかを、当時の人がすぐに分かるように記しています。ヘロデ大王と呼ばれるこの王はこの時代のユダの領主でした。その時代にマタイが書き残したイエス誕生にまるわるエピソードは、ある博士たちの話でした。彼らは占星術師であったとも言われています。詳細は不明です。星の導きによって、ユダヤの王が生まれたと聞いたとあります。実に不思議なことですが、この博士たちはその探求の中で、メシアの存在を確信し、そしてユダヤのイスラエルまでやってきたというのです。

2. 博士たち
 どこまでこの博士たちが救い主に関して理解していたのか、それは知る由もありません。しかし、確かなことは、この博士たちが「メシア」誕生の知らせを聞いてエルサレムにまでかけつけた、ということです。まだ人々は気がついていません。その時に異邦人の博士たちが、エルサレムにまでやってきて救い主の居場所を探したのです。聖書における「神の選び」をもう一度考えさせられます。私たちの考えをはるかに超えて、神は働かれ、そして人を導かれる・・・。彼らはこの世界の救い主を求め、そしてここまでたどり着いきました。それこそ彼らの上に働かれた神の導きを思わずにはいられません。しかし、その一方でそれに反する力が起こります。この場面では、実に悲惨な出来事が救い主の誕生に際して起こってしまったということが証言されています。

3. 嘆きを聞かれる方
 ヘロデ王によって幼子のいのちが奪われてしまうのです。幼子のいのちが、キリストの誕生に際して失われてしまうのです。それもまた人の罪が引き起こしたことであるのは間違いありません。しかし、このこともまた神の御手の中にある出来事でした。神はなぜこのような状況を許されたのでしょうか。救い主がこの世界に与えられた、その時にも悲惨な現実は起きてしまったのでした。しかし、神は決してこの出来事をただ許されたわけではありません。神はこの出来事を決して忘れはしないのです。「わたしは、エフライムが嘆いているのを確かに聞いた。(エレミヤ31:18)」この労苦には神からの報いがあるのです。この救いは、博士たちが示したように、全世界に広がる救いです。世界中に今もうめきが満ち溢れています。その世界にキリストは来てくださったのです。

投稿者 mb-church : 19:24 | コメント (0) | トラックバック