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2010年12月07日
クリスマスのご案内
2010年のクリスマスのご案内です。
ぜひ教会でクリスマスをともに過ごしましょう。
12月12日(日) 16:00~ ユースクリスマス会(青年層)
12月19日(日) 10:00~ クリスマス礼拝、祝会
12月23日(木) 13:00~ こどもクリスマス会
12月23日(木) 18:30~ キャンドルサービス(燭火礼拝)
投稿者 mb-church : 11:50
2010/12/5礼拝メッセージ
2010年12月5日礼拝のメッセージ要約です。
マタイの福音書1:18~25
「神は救いという名」
1. イエスという名
イエスという名前には「神は救い」という意味があります。「イエスとは誰なのか。」この話題は、初期の教会においてよく交わされた話題でした。そしてここから教会の混乱も始まることになります。マタイはそのような教会に対して、イエスとは誰なのかを明らかにしようとしています。系図を通してイエスが神のご計画の中でこの世界に来られたのかを高らかに宣言しました。そして話はイエス誕生のシーンへと移っていきます。マタイはここであえてマリヤではなくヨセフに焦点を当てています。なぜなのでしょうか。
2. マリヤの子
イエスの出世についてもあることが知られていました。それはマリヤの子という呼び名に表されています。つまり父親はヨセフではないということが広く知られていたのでしょう。ですから、ここでマタイは出生に関してはっきりと触れようとしています。当時のユダヤの結婚は、一年の婚約期間を経て一緒に暮らしはじめるというものでした。その婚約期間中にマリヤが妊娠しているということが明らかになります。当然ヨセフは悩みます。彼が取る事のできる方法は二つありました。一つはこの事実を明らかにし、婚約を破棄して慰謝料をもらうということ。もう一つは、この事実を隠し、彼女を内密に去らせ、身ごもったことは事故によるものとすることでした。マリヤの証言によれば、この妊娠は神の霊によるものだと言っています。とても信じられるものではありません。そのような中、ヨセフの夢に主の使いがあらわれて彼に告げるのです。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
3. 罪からの救い主
神は「この方こそご自分の民をその罪から救ってくださる方」と語られました。イエスは神であり、人である、それが教会が聖書から教えられ、そして信じ続けてきた信仰です。そしてそれを最初に理解し信じたのは、ヨセフであったと聖書は証言をしています。ここでいくつかの重要なことをヨセフは神様から受け取っています。この与えられる子どもが、私たちの罪からの救い主であること、そしてこの子は「神の霊」によって生まれるということ、さらに最も大事なこと、この方は「インマヌエル」なるお方であることでした。ここに示されているのは救いの現実です。私たちの救いは、罪そのものの闇の中からスタートするのです。神の救いは、私たちの現実の中で、私たちとともに歩んでくださる方イエス・キリストによるのです。
投稿者 mb-church : 11:47 | コメント (1)
2010/11/28礼拝メッセージ
2010年11月28日礼拝のメッセージ要約です。
マタイの福音書1:1~17
「希望の系図」
1. 系図
この系図を読み取るヒントは1節と17節にあります。14代が3回でてきます。実際には14代ずつではありません。しかし、それは誤りを記しているということとは違います。この系図によって伝えたいメッセージがあったということに注目しなくてはなりません。もっとも大事なことは、歴史の中に唐突にイエスが出現したのではないということです。神の御手が、あの選ばれた信仰者アブラハムの子孫に顕されたのだということをこの系図は明らかに示そうとしています。旧約聖書そのものをこの系図は包括しようとしています。そしてそれはアブラハムに約束されたことが実現するのだということです。
2. アブラハム契約
アブラハムに神が約束されたことそれは何だったでしょうか。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」人の罪は個人にだけとどまらず、多くの民族が、その罪の中で互いに傷つけ、互いに相容れずに生きる世界を引き起こしてしまいました。アブラハムに語られたのは全世界の救いです。神はイスラエルの民に何度も救い主メシアの予告をします。なぜなら私たちには救い主が必要だからです。私たちは罪から自分の力では自分たちを救い出すことができません。イエスの時代のユダヤ人も、神からずっと語られ続けてきたメシアを心から待ち望んでいました。しかし、彼らがいつのまにか待ち望んでいたのは、自分たちだけに益をもたらす救い主でした。この系図には、そのイスラエルの民の歴史が、うめきと叫びが込められています。そのような中で登場したのがイエスだったのです。
3. メシアの特質
しかし、それは人々が勝手に思い描いた王やメシアではありません。真の意味でこの世界の救い主、世界の王である方、それがイエスであることをこの系図は物語っています。それが何人かの女性の名前によって明らかにされています。その女性たちは「罪人」「異邦人」「弱さ」「貧しさ」の象徴であると言ってもいいでしょう。それが私たちの罪の現実でもあります。そしてそのような現実に救い主が来てくださったということをこの系図は思い起こさせるものです。そしてそれは同時に、神の私たちに対する忍耐と哀れみの歴史でもあるのです。イエスが、私たち一人一人のところに来てくださったのだということを、この系図を通して覚えさせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 11:45 | コメント (0)
2010/11/21礼拝メッセージ
2010年11月21日礼拝のメッセージ要約です。
創世記18:16~33
「神との対話」
1. 喜びと悲報
三人の使いはアブラハムと話し合うためにやってきたと言ってもいいでしょう。約束の成就とともに、彼らは「裁き」を告げ知らせました。ソドムとゴモラ。それはこの時代における人間の力と欲と繁栄の象徴でもある都市の名です。聖書は、神にある祝福とともに、私たちへの裁きの警告を聖書ははっきりと語ります。それが愛ゆえの警告であることを私たちは知る必要があるでしょう。神の前におけるその罪は極めて重いと言われています。この町のゆえに周囲の人々までもが苦しんでいる叫びまでもが神の前に上っていました。神はわけもなくその町に裁きをくだすというのではありません。正義をあらわそうとされているのです。
2. 神との対話
なぜ神はアブラハムにこのことを相談したのでしょうか。神は一方的に「裁き」を行うわけではありません。なぜこのような裁きがくだるのか、その意味をも伝えられようとしています。アブラハムは正義と公正について、神と対話を深めていきます。最初は50人の正しい者からはじまり、最後は10人の正しい者がいるならば、その町を見逃してくださいと交渉を続けます。アブラハムはここで執り成しをしています。そしてその姿は、神がアブラハムに期待していた姿でもありました。神は、ブラハムとその家族、また彼に連なるものに、正義と公正とを行うように導かれています。つまり神と同じ思い、考えを彼らに持って欲しいという願いを神は持っていたのです。
3. 神の答え
この問いに対する神の答えは「滅ぼすまい。その十人のために」というものでした。たとい少ない人数であろうとも、神にある正しさに立つものがいるということを神は願っておられます。しかし、ソドムとゴモラは、残念ながらこのアブラハムの執り成しもむなしく滅びることになります。厳しい現実です。決してすっきりと受け止められる結論ではありません。しかし、その中にも光が与えられています。ロトとその家族に救いの手が差し伸べられます。アブラハムが神の前に執り成した祈りは、町そのものは裁かれることになりますが、ロトとその家族の救いへと結ばれることになるのです。神の人への取り扱いは裁きという面においては、大きな警告をもって語られています。しかし、人の救いという面においては、実にきめ細かく語られているのです。私たちも神と同じ思いを持ちながら祈り続けてまいりましょう。
投稿者 mb-church : 11:39 | コメント (0)
2010/11/14礼拝メッセージ
2010年11月14日礼拝のメッセージ要約です。
マタイの福音書18:1~4
「向きをかえて」
1. だれが一番偉いのか?
別の訳では「天の御国では、いったい誰が最も大いなる者なのですか」となります。「誰が一番のお気に入りですか?」そんな思いが伝わるような質問です。なぜこのような質問をしたのでしょうか。あなたは特別だ、そういって欲しい、そんな弟子たちの気持ちもわからないでもありません。私たちの誰もが、神がほほえんでくださるような人生を送りたいと思うものです。神は本当に公正なお方なのだろうか、そんな疑問も一方ではあります。弟子たちの質問は、誰しもが抱く思いなのです。私は神様にとって特別なのだろうかと。
2. イエスの答え
ここでイエスは小さな子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせたのです。そして「悔い改めて子どもたちのように」と語られました。「悔い改めて」という言葉は「向き直る」という意味の言葉です。「子ども」のようになる。それは「自分を低くする者」という意味で用いられています。ここでキリストは子どもの性質を取り上げて言われたわけではありません。この場に引き出された、一人の何も持たない、弱い、小さな子どもの存在そのものを指して、「この子どものように」と言われました。キリストが語られているのは、そもそもの私たちのスタート地点です。あなたたちの目から見えれば、何も持たない、何の力ない、いやそもそも何もできない、この子どものようにならなければならない。この子どもは自分自身で自分を低くしているわけではありません。そもそも低くさせられている存在の象徴です。私たちはいつも神から与えられているものを、自分のものであるかのようにいつも考えてしまいます。信仰ですら、出発点は「与えられたもの」と聖書は教えています。
3. 真に信仰的であること
「救い」は、達成するものでも、報酬としてもらうものでもありません。ただ預かることなのです。ただこの呼び寄せられた子どものように、自分の力ではなく、ただ神の恵みに、神の導きに身をゆだねることだとキリストは語られます。それが私たちの出発点なのです。私たちの根本がここに定まるときに、私たちのいのち、また生き方は変えられていきます。キリストの御手がそばにあるという安心感と、すべては神に与えられているという感謝を持って歩むことこそ、信仰の歩みと言えるでしょう。私たちもまた、この弟子たちのように方向転換が必要なのです。