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2010年11月14日

2010/11/7礼拝メッセージ

2010年11月7日礼拝のメッセージ要約です。
創世記18:1~15
「銀を精錬するように」

1. 神の民として
 19章以降は、以前の18章とは違う位置づけとなっています。この19章からアブラムであった名前はアブラハムとなり、一族は割礼を施された一族となりました。「神の民」としての新たな歩みが、この18章から始まったといってもいいでしょう(Ⅰペテロ2:10)。なんと18章で神である主が、アブラハムに現れたとあります。この三人の旅人とアブラハムとのやり取りを通して、私たちは以前とは異なる面があることに気がつきます。それは神様とアブラハムの距離が、より縮まっているということです。

2. 迎える姿勢
 三人の旅人がアブラハムの方へと近づいてきました。その三人を見ると、アブラハムはどうしたでしょうか。彼らを引き止めるべく、アブラハムはこの三人をもてなします。それも最大限のもてなしをするのです。ここでのアブラハムの姿には、神をどのように自分の家へ(内へ)お迎えするのか、その姿勢があらわされています。私たちもキリストを信じる者として、神の民、神の子として歩めることが約束されています。そして何よりも聖霊が内に住んでくださいます(Ⅰコリント6:19)。それはすばらしいことに間違いはありません。しかし同時に驚きと怖さを覚えることでもあります。ここでアブラハムは最大限のものをもって神をお迎えします。それは恐れることではなく、かえって喜びに満ちたものなのであることを、私たちはこのアブラハムの姿から教えられるのです。

3. 銀を精錬するように
 いよいよ神の約束が実行へと移されることを神は告げられました。ここで妻のサラにスポットライトが当たります。しかしサラにとって、この知らせは「喜び」とはなりませんでした。アブラハムと同様に失笑をもらしてしまったのです。一つ一つの障壁、壁が取り払われていくかのように、ここでもう一度「笑う」ということが取り上げられています。ここで神は丁寧に彼らの信仰を整えられています。決してサラを責めているのではありません。私たちの内側にある不信の思い、そのままにしてきている整理されなくてはならないところに、ここでも神は焦点を当てているのです。それは銀を精錬するようでもあります。しかし、そのプロセスを経て、神にある深い喜びを得ることが許されるのです(エレミヤ29:11~13)。

投稿者 mb-church : 08:23

2010/10/31礼拝メッセージ

2010年10月31日礼拝のメッセージ要約です。
創世記17:15~27
「励ましと応答」

1. 信じるということ
 「最初から最後まで信じ続けることができる」そう確信をもって言い切ることのできる人がいるでしょうか。私たちの側には「絶対」と言えるほど確かなものはありません。信仰は私たちが作り上げる熱心さではありません。信仰は神様が与えてくださる、それこそ賜物です。信頼関係を築き上げていくように、そこには時間がかかります。アブラハムは神から約束を頂きました。しかし、アブラハムがすぐに神様の言葉に信頼できたのか、といえばそんなことはありません。ここでアブラハムはひれ伏し、そして笑ったとあります。顔は伏せました。しかし、その顔は笑っていた、というわけです。敬虔な信仰者とはいえないようなアブラハムの姿です。

2. 信じきること
 神は、アブラハムを通して「全能なる神を信じるとはいかなることか」を示そうとされました。彼を通して示されたことの一つは「神の約束を信じきること」についてです。彼の内側の思いを神が知らないわけはありません。ここでのアブラハムは決して不信仰というわけではありません。神を信じていないわけではない。しかし、信じきることのできない現実は確かにあります。私たちの前にも現実が立ちはだかります。信じていないわけではありません。しかし、神のことばを信じきることのできない私たち。そんなアブラハムに神はどのような態度をとられるのでしょうか。

3. 励ましと応答
 すると神は続けて言葉をかけられます。約束の子「イサク」が与えられると。その名前の意味は「彼は笑う」というものでした。彼が信じ切れずに笑っていたことを神は知っておられました。しかし、神はその笑いを本当の笑みへと変えようとさらに語ってくださっています。私たちの生涯は、神のことばを聴き、励ましを受け続け、与えられた行程を走りぬいていくようなものです。ここにも神のことばを聴き続け、その励ましに奮い立って歩んでいく信仰者の姿があります。それ以上に私たちに迫るのは神のお姿です。神は、その言葉に従うと約束を交わされた人に、とことん伴走してくださる方なのです。そしてアブラハムは神に「割礼」を通して応答します。この割礼は神の民となるためのものではありません。神の民としてくださったことへの応答です。そしてその応答は、個人にとどまらず、一族へと広がっていくものでした。同じように神の祝福も周囲へと広がっていくものなのです。

投稿者 mb-church : 08:15 | コメント (0) | トラックバック

2010/10/24礼拝メッセージ

2010年10月24日礼拝のメッセージ要約です。
創世記17:9~14
「約束の印」

1. 割礼
 割礼はユダヤ人にとって最も重要な儀式です。それこそが他の異教の神々を信じる民と、まことの神を信じる民とを区別する印であったからです。割礼は神が与えた契約の印です。ですから全ての子孫が、この印を受け継ぐべく割礼を受けるようにと命じられています。割礼は人の側の義務のように読むことができます。ですから、イエス・キリストの救いを受け入れた初代教会が、この割礼に関して議論になったのは当然のことといっていいでしょう。しかし、ここで重要なことは割礼にあるわけではありません。この神の契約が、アブラハムとのどのようなやり取りを経て与えられ、そして契約の印である割礼の前提として、彼らに何が求められていたかを見落としてはならないのです。アブラハムに求められていたことは何だったのでしょうか。それはまことの神を神とし、神とともに歩むことを決心しなさいということでした。

2. その子にも
 さらにここで割礼が、生まれた子どもに施すということも命じられています。なぜなら子どもは神が与えたからです。その子どもも神との友情関係に導かれている、そのことを割礼を施す親が、しっかりと認識することが求められています。割礼を通して、親も、またその子も、そして周囲の人々も、神との契約を思い返すということ、それがこの割礼という儀式が負っている真の意味なのです。最も重要なのは、契約者が、その契約の内容を知っているかどうかなのです。今、その割礼が、キリストの教会では、新しい契約として洗礼へと移しかえられました。バプテスマは、私たちが古き自分を置き、新しく生まれることを意味しています。洗礼でなされる信仰告白と、水に自らの全身を沈めるということは、割礼以上に私たちの心が求められるものでもあります。

3. すべての人が
 アブラハムの家にいた全ての者が、この契約に入れられているということが語られています。教会もまた同様です。どんな人であっても、教会で生まれた子どもから、そうではない人でも、すべての人がこの契約へと導かれています。だからこそ、その民の一員として祈り育てていくことが必要です。洗礼は、キリストによって新しくされた者たちが、キリストの教会の一員となることを示すものです。割礼も、また洗礼もすべて神の業です。私たちが不完全であっても、神とともに歩むことを決心するならば、与えられる神の一方的な印なのです。

投稿者 mb-church : 08:12