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2010年10月23日
2010/10/17礼拝メッセージ
2010年10月17日礼拝のメッセージ要約です。
創世記17:1~8
「わたしはあなたの神となる」
1. 神を信じること
もし神を信じないで生きるのなら、私たちの生涯はどのようなものとなるでしょうか。神を信じているか、いないかで人生はどのように変わるのでしょうか。大きく異なるのはいのちの受け止めかたでしょう。それによって生き方は大きく異なるものとなります。私たちは自分で神を選び取れると思っています。しかし聖書が語るのは、そんな私たちにとことん付き合おうとする神の姿です。アブラハムの生涯はその証です。ついに神がアブラハムへの約束を果たすその時がやってきました。
2. 神の選び
アブラハムは「信仰の父」として神が選ばれた人物です。彼が選んだのではありません。それは彼が堅固な信仰者であったからということではないようです。ある意味でアブラハムは器です。その器は決して美しい器ではありません。この年齢まで神に待たされた人です。これをすべての人に適応することはもちろんできません。しかし彼の姿を通して、まことの神を信じることの不思議さと、神を信じることそのものが奇跡であることを私たちは見出すことになります。ここで神様は、念をおすかのようにアブラハムに約束を語ります。思わず彼はひれ伏します。まだなお謙遜さを失わない彼の姿がここにあります。彼は自らの弱さを知る人でした。だからこそ神を礼拝し続けたと言ってもいいでしょう。神が彼を必要としたのではありません。彼が神を必要としていたのです。
3. 新しくされた名
この時、彼の名が新しくされました。これまでの「アブラム」という名から「アブラハム」という名となります。「多くの人の父」という神が彼に与えた新しい身分と言ってもいいでしょう。この約束の真の達成はやがてキリストによってもたらされます。すべての人が、キリストを信じる信仰によって罪ゆるされ神の民とされます。その最初の基が、このアブラハムへの約束です。ここで私たちがここで注目しなくてはならないのは、この約束に表された神の主体性です。この約束は、私たちが何かするならば、神はその約束を果たしてあげようというものではありません。神がアブラハムに求めているのは、ただ一つのことです。「私の前を歩み、まったき者であれ」ということ。その意味は「神とともに歩め」ということでした。神を信じる人は、神の約束がある限り、希望を失うことのない人です。私たちが神を神とするのではなく、神が私たちの神となってくださるのです。神の選びは永遠に変わることのないものなのです。
投稿者 mb-church : 16:55
2010/10/10礼拝メッセージ
2010年10月10日礼拝のメッセージ要約です。
創世記16:1~16
「それでも主は」
1. 神との友情
善なる神様は、私たちに良き物を備え与えて下さる方には間違いはありません。しかし、その「良き物」の基準は、私たちの思う通りではないのです。主なる神様が、与えようとしているものは神との友情関係です。単なる信心ではありません。この関係には「神の愛」という重要な要素があります。今日の箇所はアブラムの弱さが今一度顔をのぞかせた場面です。苦難の現実を前にして、それでもなお神の導きを求めるのか、それとも別の道で解決をしようと図るのか。もし誤っていたとしても、神は赦してくださり、守ってくださる、それはそれで正しい認識です。しかし、神がその時に求めておられたことは、決して状況に流されることではなかったということを、私たちは教えられているのです。
2. 現実を前に
アブラムは、神からの明確な約束を得ました。しかし現実に目を向けると、まだ跡継ぎが与えられていなかったのです。そんな時に彼は、妻の助言と当時の考え方に流されてしまうのです。この時のアブラムが取った行動を、誰が責めることができるでしょうか。むしろ、現実を前にしたら当然そのようにするべきだ、そのようにも言える場面でしょう。しかし、彼は大事なことを忘れていました。それは「神に問うこと」でした。ここで彼は神に聞こうとはしていません。ただ目の前の状況に対して受身の姿があります。そしてこの後、この家庭に混乱が生じることになるのです。
3. それでも主は
ここでのアブラムはどこまでも受身でした。しかし、これこそ私たち自身も抱えた弱さと言えるでしょう。目の前の状況に対して、何の力もなく、流されてしまう自分。神を信じていながらも、神に祈り、聞くということを後回しにする姿があります。それでも、この物語が伝えるのは、神の憐れみの御手が、そのような所にものばされるのだということです。しかし、私たちがここでその神の憐れみを覚える前に、しっかりと見つめなくてはならないことがあります。それは信仰と不信仰とは、紙一重であるということです。現実を前に神のことばに信頼し、聞くことをしているでしょうか。神は憐れみ深い方です。しかし神は正しく、そして聖なるお方ででもあるのです。今、主の心は、主の目はどこに注がれているのでしょうか。それでも主は導かれます。私たちは主の憐れみに感謝しつつ、そこに胡坐をかかない歩みをさせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 16:54 | コメント (0) | トラックバック
2010年10月06日
2010/9/26礼拝メッセージ
2010年9月26日礼拝のメッセージ要約です。
創世記15:7~21
「神が果たされる約束」
1. 神との友情
アブラハムと神との人格的な関係がはじまりました。それは神との「友情」と言い換えてもいいでしょう。アブラハムは、その関係の中で神のご計画やみ思いをどのように知ろうとしたのでしょうか。主イエス・キリストを信じた者は神の子という関係に置かれます。私たちに約束は先に与えられています。アブラハムも同様です。大いなる国民の父とすると、神は約束されました。しかし、彼はまだそれがどのような意味かはよく分かりませんでした。しかし、彼は神を信頼し、神に従う決心をするのです。その彼が神に問いかけます。「どのようにして知ることができましょうか。」これは不信仰から出ている問いではありません。もっとあなたのことを知りたい、その思いから出た言葉です。疑ってはいないけれども、確かなものがなくては、この先弱い自分は歩み続けることはできない・・・その素直なアブラハムの思いです。
2. 神の応答
神は、このアブラハムの問いかけをまっすぐに受けとめられました。そこで神は彼に一つの方法を教えられます。それがいけにえでした。そのいけにえを二つに裂きなさいという指示が与えられています。つまり、この契約を破るものはこのように二つに切り裂かれなければならない、という意味でもありました。この二つに引き裂かれたいけにえを、アブラハムは、ずっと一日中見つめていました。彼はここでも、自分の弱さを覚えたのではないかと思います。神は約束を下さったけれども、肝心の私は神を信頼し続け、従い続けることができるだろうか。そんなとき、彼は幻を見ます。その幻は、苦難だけではなく、希望もまた語られているものでした。
3. 神が果たされる約束
アブラハムは目を覚ましました。その時です。先ほどの二つに裂かれた動物の間を、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが通り過ぎました。これは、もしこの約束を破ったら、神ご自身が裂かれることになるという証でした。そして神はこう語られたのです。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。」それは、この約束は、神ご自身が必ず果たしてくださるという言葉でした。アブラハムに与えられたこの約束は、今の私たちに十字架で裂かれたキリストによって、より確かに与えられています。キリストは、時が至ってなされた確かな証なのです(Ⅰテモテ2:4~6)。 私たちはキリストによって、神の子として神と関係を結ばせていただいているのです。
投稿者 mb-church : 16:19
2010/9/19礼拝メッセージ
2010年9月19日礼拝のメッセージ要約です。
創世記15:1~6
「手をとってくださる方」
1. 出来事の後
一つの区切りの言葉です。神の言葉に信頼し歩み始めたアブラム。エジプトを旅し、自らの弱さを知り、また甥のロトとも袂を分かちました。そして、あの戦いの大勝利。ある意味では、この数年間は彼の人生の中で最も凝縮された数年間であったことでしょう。その彼に、ある夜神が幻のうちに語られるのです。「アブラムよ。恐れるな。」いったい彼は何を恐れることがあったのでしょうか。アブラムの本質は弱さではないでしょうか。強い信仰者や勝利する人がアブラムではありません。その逆です。その時の自分を見つめ、自らの弱さを知るもの、それがアブラムです。このときの彼は再び彼の深いところを探られています。
2. アブラムの恐れ
それは何への恐れだったのでしょうか。彼の応答にその葛藤を読み取ることができます。神は約束を下さった。しかし、どう考えてもその約束は果たされそうにない。アブラムは神に申し上げました。そしてここで神のことばが彼に臨みます。私たちの知恵や力からではなく、上からの神のことばが彼に来ました。アブラムのすばらしさは、ただ弱さを知っていただけではありません。彼はここで神に向かって声を上げたのです。これまでは一方的に神からの声を聞き続けてきたアブラムでしたが、ここで彼はついに声を上げます。しかし、神はこの言葉を受け止めるのです。ただ一方的に語られていた神との関係が、ここで相互に語り合うという関係となります。より親密さを増したといってもいいでしょう。
3. 手を引かれる主
ここで神はアブラムを外に連れ出されます。彼にとってはまるで神が手を取って連れ出してくださったとしか思えない・・・そのような姿がここにあります。何という距離感でしょうか。ここでのアブラムは神を遠く感じてはいません。そこで彼が見たものは「天にある無数の星」でした。それは神の御手の業そのものであり、また主の約束を確かに表すものでもありました。「目を天に上げなさい。神の御手の業に目を留めなさい。恐れがあなたにあるなら、なおさらのこと目を天に上げなさい。」そしてそのときのアブラムは「義」であると言われています。今アブラムは自分の手を引いてくださった神の手を、心をこめて握り返しました。この人格的な神との交わり、信頼関係こそが、神にある義の関係なのです。神が私たちに求めているのはこの人格的な信頼なのです。
投稿者 mb-church : 16:18
2010/9/12礼拝メッセージ
2010年9月12日礼拝のメッセージ要約です。
創世記14:1~24
「神が私たちの味方であるなら」
1. 勝利するアブラハム
14章はアブラハムの勝利のエピソードです。甥のロトの家族を救出するためにアブラムは立ち上がります。ここには東方の4人の王の名が記されています。この王たちは当時の世界の覇者です。さらに別の王たちの名が記されています。この5人の王たちは死海の周辺を治めていました。この5人の王が反乱を起こします。しかし圧倒的な戦力差の中、この死海沿岸の王たちは大敗を喫してしまいます。その戦いにロトは巻き込まれるのです。争いに負けた死海周辺の町々は、財産や人々を奪われました。そしてロトの一族も同様に略奪にあいました。アブラムはロトの話を耳にします。彼は、勇敢にも、ロトの家族、そして財産を奪還しに向かうのです。アブラムは強大な軍勢を数少ない人数で打ち破り、ロトの財産や捕虜を取り戻すことに成功します。この勝利は、当然カナンの地方でのアブラムの名声を高めることになりました。
2. 注目すべき点
アブラムは勝ち目のない戦いをただの勇敢さから戦ったのではありません。エジプトで見たように彼の本質は「勇敢さ」ではありません。彼にとって、この戦いは自分の家族を守る戦いでした。袂をわかったロトの家族であったとしても、ともに歩もうとした身内でした。いえ、むしろこの家族をもう一度取り戻そうとアブラハムは考えたのかもしれません。彼にとってこの戦いは、どんなに不利に見えても、神にあってなすべき正しいことであったのです。結果彼は勝利をします。しかし問題は、この勝利を彼がどのように受け止めたのかということです。それをアブラムに語っているのがメルキゼデクです。この勝利は、自分の力でも、また人からのものでもなく、ただただ神からのものであったということ。ここに神を信じる者の謙遜とぶれのなさを私たちは見出すことができます。
3. 神が味方であるなら
もしかすると、アブラムも、彼だけであれば、この勝利は自分の力であると過信したかもしれません。しかし、神はメルキゼデクをとおして語りかけられました。そして私たちは、今主イエス・キリストによって、神からの祝福を受け取ることが語られています。私たちは、自らの栄誉、自らの力を誇ってはいないでしょうか。弱さの中、強さの中、どちらの中にいても、私たちは、私たちを守り導かれる神を信じ、キリストによって歩むものとさせていただきたいのです。ご一緒に私たちの味方なる神とともに歩ませていただきましょう。
投稿者 mb-church : 16:16 | コメント (0)
2010/9/5礼拝メッセージ
2010年9月5日礼拝のメッセージ要約です。
創世記13:1~18
「祭壇を築き続ける」
1. 祭壇
アブラハムはことあるごとに「祭壇」を築いています。それは、神に応答する場、礼拝する場です。そこでは、この小さな人間である私に、あなたは目を留めてくださることへの喜びであり、また神への正しい恐れでした。神の前に罪を悔改め、何よりも、神への感謝がこの祭壇の上でささげられたのです。祭壇はそこにあるものではありません。祭壇はその人が築き上げいくものです。そして築き上げられた祭壇は、その人と神様との関係がそこで思い起こされるものとなります。
2. 最初の場所へ
アブラハムは、最初の場所へと戻ってきました。そこは初めに天幕を張った場所、そこは彼が以前に築いた祭壇の場所でした。彼は何を祈ったのでしょうか。ここで彼は思い返したでしょう。あの神様からの約束の言葉を。そして原点に戻されるのです。目に見えない神への信仰によって生きるということを。私たちも、日々の神への祈りやみことばを読むことを通して、また週ごとの礼拝を通して、神に感謝のいけにえをささげ、みことばの説教を聴くことを通して、神への祭壇を築き続けています。この祭壇は非常に大事なものです。この祭壇によって、神の前へと戻されるのです。
3. キリスト者の選択
ここで甥のロトとの問題が起きます。これからの生き方が問われる問題が含まれていました。アブラハムは「富」を得るために旅をしているのではありません。彼は生ける神の約束を信じ、神のことばに聴き従おうとして歩んでいます。しかし、一緒に旅をしてきたロトは違いました。彼は「富」のために生きようとしていました。この独立が意味しているのは、もうアブラハムと同じように生きては行かないということです。そこでアブラハムは提案をします。主導権をロトに委ねるのです。ロトは思ったとおりに豊かに見える地を選び取りました。アブラハムはこれでよかったのでしょうか?よかったのです。アブラハムに主が語られたのは、このカナンだったからです。アブラハムは、ここでも神の言葉に信頼しています。その彼に神はさらなる約束のことばを与えられました。「私が今見ているものは、あなたの考えをはるかに超えたものである・・・」神はそのようにアブラハムに語りかけているかのようです。私たちもまた、もう一度私たちが何を見ているのかを問い直しましょう。私たちの目に映る幸いではない。神が下さる幸いを得させてください、と祈るものとさせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 16:13 | コメント (0)
2010/8/29礼拝メッセージ
2010年8月29日礼拝のメッセージ要約です。
創世記12:1~20
「主はあなたを喜ばれる」
1. 神の声
聖書がない時代、人々が偶像を拝んでいた時代。そんな時代に、目に見えない神の声に耳を傾けた人、それがアブラハムです。いつ神が語られるかわからない、本当に目に見えない神様が語られているのか、それすら分からない、そんな状況の中、彼は神様の声を聞きます。そしてアブラハムはこの声に聞き従います。そして最初に目指したカナンにはすぐに到着します。しかし、その場所はすぐに彼の土地にはなりませんでした。神はここで約束しました。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」ここで彼はさらに待たされることになります。ここでアブラハムは問われています。「あなたはそれでも私を信じるのか」と。
2. エジプトへ
次にその土地に飢饉が起きます。彼らは仕方なくそこからエジプトの地に下ることになります。いきなりの困難です。そしてここでアブラハムは一つの過ちを犯します。自分の妻を「妹」と偽ってしまうのです。しかし、これが思わぬことを引き起こすことになります。彼のうそゆえにエジプトの王家に不幸が起きるのです。この事件を通して、アブラハムは何を教えられたのでしょうか。これは彼の弱さや罪にまつわる事件です。人の目はごまかせても、目に見えない神は自分の罪を知っておられる。知っているにもかかわらず、神のことば通りにされる方なのだ、そのことに彼は気がつかされます。神を信じる「私」を通して、周囲の人々に神ご自身を現される方であることを彼は知りました。
3. 生きておられる神
「神は生きておられる」ということをアブラハムは知ることになります。彼は、起こる一つ一つの出来事に「神」の存在や「神」のご計画、「神」の正しさをいつも見ていました。彼は、最初に何が待っているのかをまったく知りませんでした。また神がどのようなお方かもはっきりとはわかりませんでした。しかし、彼が求めたのは、生ける神ご自身を知るということです。神の声、それはじっとしていれば聞こえるものではありません。まず私たちが、神が今もここにおられるという現実に気がつくことから始まります。今ここに神様がいてくださるという現実とそこに語られている神のことばに耳を傾けること。私たちの歩みも、アブラハムに習うものとさせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 15:50 | コメント (0) | トラックバック
2010/8/22礼拝メッセージ
2010年8月22日礼拝のメッセージ要約です。
創世記11:27~12:3
「旅路の一歩」
1. 旅人
アブラハムという人の生涯もまた「旅」であると言うことのできるものです。この地上での旅をどう歩むかによって、私たちの行く先は全く異なるものになってしまうと聖書は語ります。私たち一人一人に与えられた旅路を真に豊かなものとすること。これは私たちにとって大きなテーマであるとも言えるでしょう。ノアの後の時代、まことの神ではなく、目に見える偶像を拝み、自らの手でこの旅路を歩もうとする人々の姿が出てきます。そのようなときにアブラハムが登場するのです。
2. アブラム
彼は民族のヒーローではありません。彼は一人の「人」として登場します。この時代に生きる人間として、家族を率いる家長として彼は登場します。彼に跡取りはいません。そしてこのときに、なぜか彼らは「カナン」という地に行こうとしていることが分かります。ここでの経緯の詳細は不明です。その大きな理由は12章に記されています。それは主からの約束のことばでした。この言葉が、どの時期に、どの時点でアブラムに語られたかは分かりません。しかし、これは彼の長きにわたる祈りの答えだったことはすぐに分かります。彼は自らの必要に答えるために造りあげられた偶像の神に祈ったのではありません。その逆のことが彼の中で起こっています。彼はまことの神が自らに何を欲しているのか、何を願っておられるのか、そのことをただ祈り求めていました。
3. 信仰の一歩
神から語られたのは、あなた自身の都合でも、また父親の意向でもなく、神ご自身が示す地へと行きなさい、というものでした。それは彼に「信仰」を求めるものでした。ここで彼が問われたのは、ただあなた自身の存在をすべて神にゆだねなさいということです。そして神は彼に壮大な計画を告げ知らせました。神を信仰に立つならば、あなたを通して主はこの世界を祝福されると約束されたのです。まだこのときの彼の信仰は幼いものです。しかし、ここで重要なことは、彼が神の言葉を聞いて実際に歩みだしたということです。安住していたその場所を離れて、神とともに歩む旅へと旅立った、そのことが重要なのです。私たちもまた神が導かれる導きが必ずあることを信じて「あなたとともに歩ませてください」と日々祈り生きることが求められています。その歩みに主は必ず祝福を持って応えてくださるのです。