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2010年07月31日
2010/7/25礼拝メッセージ
2010年7月25日礼拝のメッセージ要約です。
創世記8:1~22
「嵐の後に」
1. 嵐の終わり
水は150日の間、増え続けました。ただただノアとその家族は、箱舟の中でじっと待つ150日間を過ごしたのです。このような先の見えない苦難の中で、聖書が記しているのは、神がノアとその家族、そしてこの箱舟に乗るすべての生き物を、心に留められたということでした。この期間に彼らは何度、本当に神は私たちのことを覚えておられるのだろうかと思ったことでしょう。「信仰がある」というのは、全く不安がないということとは異なります。本当に神は私のこの現状を、この思いを知っておられるのだろうか。そう思うものです。それは私たちの弱さです。しかし、聖書はその思いを神に率直に述べることは赦されていることだと記しています。
2. 神の風
とうとう雨は止みました。それは神の御思いによって、神の御力によって、雨は止み、水は引き始めました。自分たちの力など到底及ばない状況の中で、確かに神は風を送り、雨を止め、そしてあの大水が引き始めました。ゆえに、神は彼らを心に留めておられたと言うことができたのです。それはただ強い信仰があって、何の不安もなかったから言える言葉ではありません。先は見えない。力も及ばない。不安もある。だからこそ、祈りつつそこを通らされるときに、私たちは、神の力強い御手を見出すことができるのです。これは信仰者の特権と言えるでしょう。
3. 礼拝する者
彼は神の許可を待ちました。その間、鳥を飛ばして現状を確かめました。箱舟に乗り込み、そして戸を閉められたのは神ご自身です。だから、この箱舟から出るのも、神の言葉がなくてはならないのです。ノアに私たちは聖書における最初の信仰者の姿を見出します。彼はこの間も主を礼拝する者でした。一週間の時を彼は刻んでいました。そしてついに神はノアに船から降りることを許可しました。神はさらに、この地をもう一度再生しなさいと語られました。彼らが船から降りて最初にしたこと。それは神への礼拝でした。その礼拝者であるノアの姿を見て、神は約束されます。この地をこのような形で滅ぼすことはしないと。神はこの苦難と罪に満ちた世界にあっても、神のことば求め、礼拝する者たちを求めておられるのです。
投稿者 mb-church : 14:50 | コメント (0) | トラックバック
2010/7/18礼拝メッセージ
2010年7月18日礼拝のメッセージ要約です。
創世記7:1~24
「嵐の中で」
1. 神の厳粛な裁き
ノアは、彼の仕事を完成させました。そして7章では、いよいよ嵐が、大洪水が起こります。その嵐の一週間前、彼は神様の声を聞きます。彼の正しさ、それはただ道徳的に正しかったことを意味していません。彼が神のことばに聴き従い、神のことばを信じた、その信仰を神が正しいと見てくださいました。彼が建造した箱舟こそが、彼の信仰を指し示すものでした。そして、神様は、彼に、家族とともに、動物を集めて乗り込みなさい、と指示を与えます。神の厳粛な裁きが実行されるときがついにやってきたのです。終末の裁きと聞いても、私たちにとって、あまり身近に感じない出来事でしょう。しかし、終末の出来事は、私たちの現実の中にあることだと聖書は語るのです。
2. 箱舟の中へ
7章はまさに「苦難の最中」です。大洪水は40日間続き、周りの景色は一変します。すべての後悔など、この濁流に飲み込まれてしまいます。ノアたちも飲み込まれました。その彼らを支えたのはこの箱舟でした。この箱舟はノアの神への信仰そのものでした。またそれは神が与えてくださった救いそのものでもあったのです。ノアがこれまで神と歩んできた集大成、それがこの箱舟でした。そしてここでも「神の御手」の存在を見落としてはなりません。「それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。」ここで最終的に彼がすべてのことをなし終えると、まるで、そのノアの背中を押すように、主が箱舟のうしろの戸を閉めるのです。神がどのような時もノアとともにおられたのです。
3. キリストにある救い
この場面は、新約聖書にも引用されています。Ⅰペテロ3:20です。このノアの箱舟が示しているのは、信仰による救いということでした。またそれは今の私たちにとって、イエス・キリストを信じるバプテスマを表しています。苦難の現実はなぜあるのでしょうか。それは、イエス・キリストを信じる信仰に私たち皆が預かるためです。ノアとその家族が信仰によって救われたように、私たちもキリストの十字架によって救われていくのです。神を近くに思いつつ、神のことばに聞き続け、日々の生活の中で、神への信頼を深める歩みを、キリストにあってさせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 14:48
2010/7/11礼拝メッセージ
2010年7月11日礼拝のメッセージ要約です。
創世記6:9~6:22
「嵐の前に」
1. 洪水の前
もし神から、今この地は堕落し、暴虐に満ちているから、滅ぼそうと思っている・・・そんな言葉を聴いたら、どう思われるでしょうか。すぐに受け止めることができるでしょうか。神の前に人は堕落し、この地は人の身勝手な思いによって満たされていました。これは「神の前」での出来事です。私たちの目の前には「神」ではなく、一体何があるのでしょうか。私たちは何を見つめて生きているでしょうか。神は人を見て「滅ぼそう」と言われました。この言葉は「堕落している」という同じ言葉です。堕落と滅びとは密接な関係にあります。
2. 最初の終末
この言葉はまさに終末の知らせでした。しかし、まだここでは終末を予感させる出来事は起きていません。人々は、そのことを知らずにいます。知らずに日常を過ごし、今も神の目の前にあるにもかかわらず、神への意識を失い身勝手に歩んでいます。そのような時に、神はノアに終わりを見据えて生きるように語られました。そしてあることをノアに命じます。それが箱舟の建造です。箱舟が示しているものは、終末における神の裁きの現実とともに、神の救いが備えられるということでした。神は、ノアにこの箱舟を備えよと命じられるのです。
3. 神の約束
ここで明確な神と人との約束の言葉が語られることになります。「何事もないかのように見えるこのときに、神のことばに耳を傾け、そして箱舟を建造して備えなさい。そうすれば、私はあなたとあなたの家族を、そしてこの地を救い出そう。」そのように神はノアに語られました。そしてノアは神が命じられたとおりに行うのです。ここには信仰が求められています。何も先が見えないときに、神のことばを信じて歩むのです。ここには神への祈りがともなったことでしょう。「主よ、今はまだ分かりません。しかし、この手を守りささせえてください。」
投稿者 mb-church : 14:45 | コメント (0) | トラックバック
2010年07月03日
2010/7/4礼拝メッセージ
2010年7月4日礼拝のメッセージ要約です。
創世記6:1~9
「神とともに歩む人」
1. ノア
ここに「ノア」という人が登場します。彼はアダムの二人の息子、カインとアベル、その二人から出た人ではありません。ノアは、カインとアベルの後に生まれた「セツ」の子孫です。神の前に罪を犯した人間は、それでも生かされ、増え広がることを許されました。町ができ、また文明や文化が発展していきます。神がデザインされたように人間は増え続け、そしてこの地を支配するものとなっていきました。しかし、それは残念ながら、神から離れた神なき世界に おいて、のことでした。神は、人の罪を知りながら、生かすという結論を下しました。なぜなら神のもとへと再び戻ってくるため、人に憐れみをかけたわけです。人にその生涯を神は与えましたが、それでも人は神に立ち返るという方向へとは進まなかったのです。
2. 罪に傾く人
神の視点から見ると、人の歩みは自然と神から離れていき、悪へと傾いてしまう、それがゆがんだ神のかたちを持つ人の姿であったのです。その本質は今も変わっていないでしょう。互いに傷つけあい、奪いあうことは後を絶ちません。病も、体だけではなく、心にまで及んでいます。孤独という問題もあります。私たちは、神の方にではなく、知らず知らずのうちに、悪へと、死へと、神の側と反対の方へと引き寄せられてしまうのです。神は、そのような人の姿を見て、どう思われたのでしょうか。神は悔やみ、心を痛められました。さらには、この世界そのものを造ったことを残念に思ったとまで口にされました。そして「裁き」の言葉を口にします。
3. 一人の正しい人
ノアの記事は、現実として起こる人への裁きと、神が与えてくださる救いに関しての、最初の雛形です。やがてキリストにおいてその救いが完成へと至ります。しかし、このノアの物語においては、その全貌はまだ見えません。このような状況の中、一筋の光が残されます。それがノアでした。ノアは主の心にかなっていました。そして、この一人の正しい人によって、この罪に満ちた地が救い出されていきます。もちろん私たちを立たせてくださるのは、神ご自身です。だからこそ、私たちにとって最も大事なこと、それは神のみ思いを知るということです。神の思いに私たちを合わせていくこと。それが神とともに歩むということにほかなりません。神とともに歩む人、そこから神はみわざをなしてくださるのです。
投稿者 mb-church : 17:52
2010/6/27礼拝メッセージ
2010年6月27日礼拝のメッセージ要約です。
創世記4:1~16
「カインの物語」
1. カインとアベル
二人の兄弟が、ある時神にささげものをします。しかし、神はアベルの献げものに目を留められ、カインのものには目を留められませんでした。そのことに逆恨みしたカインが、弟アベルを殺害し、さらに住んでいた土地を追われるというストーリー。アダムとエバの罪が物語っていたのは、神と人との関係のゆがみ、信頼関係の消失、神のことばに対する不信でした。そこからさらに人間は、どのような存在へと落ちていってしまったのか、そのことをこの物語は私たちに教えています。急速に神から離れ、神のかたちを完全に損なう人の姿がここにあります。
2. カインのささげ物
なぜ神はアベルのささげ物にのみ目を留められたのでしょうか。注目すべきはアベルが何をささげたのかということです。アベルは、彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来ました。ささげ物で表されているのは、そのささげる者の心です。カインはどうであったのでしょうか。彼がささげたのは、形だけであり、そこには心がなかったと言えるでしょう。しかし、カインはこの結果をどのように受け止めたのでしょうか。彼はこの結果に怒り、顔を伏せることになります。そして神の忠告に聞かず、激情に身をゆだねることになります。
3. カインの訴え
カインは神の裁きの言葉に対し、ようやく神に訴え出ました。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。」しかし、これこそ彼の本音です。もっとも彼が恐れているのは神の守りがなくなるということでした。聖書は、アベルを主人公として語り継げていません。ここの主人公はカインです。罪人の物語。それこそ聖書が語ろうとしているものであり、私たちの物語でもあるのです。そのことを認めることによって、神のことばが私たちの内に響くようになります。そしてアベルの訴えに対して神はどうされたのでしょうか。神は彼を守ると約束されるのです。罪人に語られる神のあわれみを私たちも受け取らせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 17:51 | コメント (2) | トラックバック
2010/6/20礼拝メッセージ
2010年6月20日礼拝のメッセージ要約です。
創世記3:16~24
「忍耐と生涯」
1. アダムとその妻へ
聖書は神の前の罪を、犯したことの大きさでは語りません。神とどのような関係にあるかということをまず私たちに問います。神が語られた妻の姿、男の姿。彼らへの神の言葉を通して、人に与えられた苦難の中にある生涯というものが見えてきます。罪の問題、また痛み、苦難、死の問題、それらを語るときに、神との関係においてまず語られるべきものであると、聖書は明らかに指し示しています。ここに人への裁きは語られているのでしょうか。記されている言葉は、神に罪を犯したものとして、それでもまず与えられたいのちを生きよ、というものでした。私たちは苦難の中を生きるために、生かされるというのです。なぜそのような生涯を神は私たちに与えたのでしょうか。
2. 苦難の生涯
私たちは限りあるいのちの中、苦難に満ちた生涯の中、生かされています。しかし、神が語りかけるのは、ただの絶望の言葉ではありません。聖書が語る私たちの生涯は「神の忍耐の時」であるということです。苦難の意味について、人間には語る力は持ち合わせていません。しかし、神の側には人に与えた苦難の理由があります。そして、神が人に与えた忍耐の期間は、神の赦しへの招きと言えるものなのです。私たちが造られたのは「キリストによる」とあります(コロサイ1:16~22)。苦難の答えは、すべてキリストに隠されています。私たちがこの苦難に満ちた生涯を送るのは、ただ救い主キリストを私たちが得、そしてキリストにあって完全に神の前に義なる者として差し出されるものとなるためなのです。
3. 皮の衣
私たちの生涯にある苦難や痛みは、キリストの十字架とともに、神にある永遠へと、神の赦しと和解へと結ばれていくものです。救い主キリストは、十字架の苦しみと痛み、その絶望に満ちた死のゆえに、私たちの罪、苦難、痛み、死を担うことができます。そしてついには神の前から迷い出た私たちを、再び神のもとへと導くことができるお方です。神は二人に皮の衣を与えます。神は二人を苦難の生涯へと放り出したのではありません。彼らが罪を負い、苦難と痛みの生涯を、それでも生きるようにと送り出されたのです。私たちも例外なく、このアダムとエバの物語を生きています。そしてそこに神の忍耐があることを覚えたいのです。そしてキリストにある慰めの生涯へと歩ませていただきましょう。
投稿者 mb-church : 17:50