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2010年06月19日
2010/6/13礼拝メッセージ
2010年6月13日礼拝のメッセージ要約です。
創世記3:14~15
「蛇への宣告」
1. 狡猾な蛇
蛇とはどのような存在なのでしょうか。蛇は一見賢く、高貴な存在です。また妖しくも魅力的であったとでも言ってよいでしょう。創世記が読まれた時代の人々は、出エジプトをするイスラエルの民です。彼らにとって蛇で象徴される存在は「エジプト」であるといってもいいでしょう。確かに、この世界には神を信じるものと信じない者たちがいます。しかし、何が正義で何が悪かということは、そうそう単純なことではありません。聖書は私たちはすべて罪人であると言います。しかしそのような中でも不思議なことに、自分の罪を認め神を信じる人々がいます。その一方で残念ながら聞く耳を持たない人々がいるのです。この裁きの言葉は蛇に対する裁きの言葉であると同時に、今もなお神を信じようとしない人々への裁きの言葉ともなっています。私たちはまずこの裁きの宣告に耳を傾けなくてはならないのです。
2. 裁きの宣告
大きな権力や富など、今は栄えており、魅力的に見える姿を持っていたとしても、やがては地に腹ばいになり、立つことはできないと、神は宣告されます。私たちの周りに狡猾な蛇は多く存在します。私たちを神以外のものに目を向かせるものが確かにあります。しかし、それらはまことの神ではありません。それらは信頼に値するものではないのです。蛇は蛇でしかありません。それはあなたを救うものではないのです。
3. 希望のことば
神は、人間と蛇との間に「敵意」を置くとも言われました。これは最初の救い主の預言であると言われています。その敵意が蛇の頭を踏み砕き、蛇は彼のかかとにかみつきます。この描写が、キリストの十字架を指していると言われます。最初に神は蛇への裁きの言葉を語りました。この言葉が語られたのは、聞く者たちに裁きがあることを知って欲しいからです。ですから神に敵対する者に対する裁きの宣告だけではなく、その直後に神は救いの予告をも同時にされたのです。私たちの救いは、蛇にではなく、ただキリストにのみあることを覚えさせていただきましょう。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」使徒の働き4:12
投稿者 mb-church : 08:49 | コメント (0) | トラックバック
2010/6/6礼拝メッセージ
2010年6月6日礼拝のメッセージ要約です。
創世記3:7~13
「神の御顔を避けて」
1. 裸であることに気がつく二人
いまや、アダムとエバは、互いが裸であることを知り、隠すようになりました。今まで彼らがいたところは、何の不安もない、神への信頼と守りが与えられている、そのような状況でした。しかし、彼らは神との約束を守らず、誘惑に負けてしまいました。急速に彼らの存在が、創造のはじめの時とは変わり始めています。聖書は、罪の問題を犯してしまったこと大きさで語ることをしていません。あくまでも罪を神との関係において語るのです。それは、人が神との関係においてどこにいるのか?ということでもあります。近くにいるのか、それとも遠くにいるのでしょうか。神を求めているのか、それとも神を避け、無視しているのでしょうか。
2. 語りかける神
彼らの目が開かれたのは、真実に対してではありませんでした。彼らの目は、自らの犯した罪の結果を目の当たりにしたのです。神から離れた瞬間、自らの姿はなんと弱く、みすぼらしく、汚れているのか、そのことに目が開かれてしまったのです。その時に、神は近くに来られ、そして語りかけられました。神は、その日一日の出来事を語り合おうとして人のそばに来られました。しかし、この時、人は神を避けて、園の木の間に身を隠します。「あなたは、どこにいるのか?」神は声をかけました。この時の口調はどのようなものであったのでしょうか。ここに神との関係を失った人の姿、罪人の姿が表現されています。神の御顔を避ける人の姿です。この神の声の響きが、今の私たちにどのように聞こえるかが、私たちにとっても大事なことです。
3. 私たちはどこにいるのか
神との関係において、今私たちはどこにいるのでしょうか。これは聖書が私たちに語る大切な問いです。罪が問われるというのは、この点です。これは他の人と比べてのことではありません。あなたは神の御前を避けているのではないか。あなたは神の声を聞こうとしていないのではないか。この後の二人の姿は、実に情けないものです。互いに責任を転嫁する姿が出てきます。神が求めていた答えは何だったのでしょうか。神が求められているのは、私たちの神の前の「砕かれた心、悔いた心」です。そして神は私たちにキリストの十字架の贖いによる赦しを与えてくださるのです。
投稿者 mb-church : 08:48 | コメント (0) | トラックバック
2010/5/30礼拝メッセージ
2010年5月30日礼拝のメッセージ要約です。
創世記3:1~6
「境目にある物語」
1. 原罪
原罪という言葉を聴いたことがあるでしょうか。自分のことを神とすることという罪。この罪が及ぼす影響はかなり深刻です。これは私たちの力では乗り越えられないものであるからです。ここに「狡猾な蛇」が登場します。これは「蛇」によって象徴されている神から私たちを引き離そうとする「力」の存在です。蛇は女に語り掛けました。神のことばを巧みに使い、人の弱さに働きかけてきたのです。最初の神の命令が、神と人との信頼関係の中で語られた言葉であるとするならば、蛇の言葉に応えたエバの答えは何か他人事のようにも聞こえます。「あなたがたが死ぬといけないからだ」ではなく、神は「必ず死ぬ」といいました。それは神の約束の重さをあらわしています。しかし、人はその神のことばを自分の判断ですり替えてしまったのです。
2. アダムの罪
神への罪の責任は、女ではなくアダムにあると聖書は語っています。ここでのアダムはとても受け身です。この場面でもアダムは口は開きません。しかし、彼は確かにエバの横にいるのです。さらに妻が最初にその実をとって食べたときも、男は止めることをしませんでした。ここで男は思考することをやめ、意志と与えられた責任を放棄したのです。「あなたは神のようになる。」この誘惑にただ人は沈黙したのです。人は神のことばを勝手に解釈し、言い換えてしまったのです。ここに大きな罪の根があります。私たちは神のかたちとして、神のことばによっていのちに息が吹き込まれます。そこには神に対する絶対的な信頼と、神のこころを自らのこころとする人本来のあり方が与えられていました。しかし、今の私たちには、神に対する信頼はありません。たとえ神のことばが聖書によって示されていたとしても、それを後回しにするのが私たちなのです。
3. 罪からの解放
私たちは神のことばに耳を傾けているでしょうか。私たちは神ではないのに、自分のことを神であるかのようにしています。自由なようでいて罪の奴隷となっているのです。キリストは私たちを自由にしてくださるのです。その自由は私たち神にある永遠のいのちと朽ちない希望を与えることのできるものなのです。