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2010年05月23日

2010/5/23礼拝メッセージ

2010年5月23日礼拝のメッセージ要約です。
創世記2:15~25
「神と同じかたちをもつ人」

1. 三位一体の神
 キリスト教では、父なる神、子なるキリスト、聖霊、この三者は「神」と呼ばれ、信仰の対象となっています。しかし、聖書は「神はただ一人」とも言っています。このことを教会では「三位一体」と言います。「三位一体」という言葉は、聖書には出てきません。しかし、聖書が語るように受け留め、言い表すと「三位一体」ということになります。そして、この創世記において、神のかたちとして創られた人にも「一体」と記されている箇所があります。「一体となる」これこそ私たちが神のかたちとしてつくられた特徴でもあるからです。

2. 男と女
 三位一体の神と同じかたちを持つものとして「人」は創造されました。男だけで神のかたちではありません。男と女とで神のかたちである、そう語られています。神の前に罪を犯す前の人の姿こそ、神のかたち、神の似姿をあらわしています。神は、人をエデンの園におき、そこで仕事を与えました。さらに神と人との最初の約束ごとを定めました。その後で、人は神からこのように言われています。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」神はもともと三位一体の方であり、互いに愛し合い、尊重し、互いを生かす方、働きをともになす方です。互いに愛によって結び合い、離れがたく一体となっている姿がそこにあります。人も神のかたちとして同様の性質を持っています。人もひとりでは生きるようにできていません。そして本来人は、利己的に生きるためではなく、相手を生かすために、助け手となるために形作られてもいるのです。

3. ひとつとなる
 なぜ、男と女とで神のかたちなのでしょうか。夫婦は社会の最小の単位です。人間は孤独ではなく、ともに生きる存在です。しかし、その調和、平和を、人は踏みにじってしまいました。ともに生き、寄り添うのではなく、人を無理に従わせ、思い通りにしようとする・・・それが本来の神のかたちからそれた人の姿です。ではどうすればいいのでしょうか。その究極の答えはイエス・キリストにあります。イエス・キリストを信じ、また従うことによって、私たちは神に喜ばれる姿を取り戻していくことになるのです。キリストは私たちのために仕えられ、私たちのためにそのいのちを投げ出してくださいました。そのことを信仰によって受け留めるときに、私たちは神のかたちを取り戻す歩みへと導かれていくのです。

投稿者 mb-church : 16:20 | コメント (0) | トラックバック

2010/5/16礼拝メッセージ

2010年5月16日礼拝のメッセージ要約です。
創世記2:4~15
「アダムの物語」

1. 最初のよい知らせ
 神が自らの意思でことばを発し、それゆえに人やこの世界が存在するということ。またこの世界に、神は非常によいという最大級の賛辞を送っているのだということ。それは私たちにとって最初の福音と言ってよいものでしょう。創世記1章は良い知らせです。そして私たちは2章へと導かれていきます。ここからカメラのフォーカスが切り替わります。これまでは、この世界全体、つまり天と地に当たっていた焦点が、地と天という言い方によって、この地上に焦点が絞られることになります。そしてそのフォーカスは神のかたちである人へと絞り込まれていくのです。ここで重要なことが記されています。それは、神が人を形作るときに、そこにいのちの息を吹き込まれたという点です。

2. 神の息吹
 神は人にいのちの息を吹き込まれました。神の霊が、私たちの根本に影響をしているということです。そして人は生きもの、生きる魂となります。聖書は、人間の存在やいのち、人が生きるということと、神の霊、息吹、いのちということとが、はじめから密接に結び付けられているということを見事に言い表しています。聖書は肉体と精神ということを切り離して考えてはいません。肉体と心とが密接な関係を持つことも、私たちはよく知っています。しかし、今の私たちは創世記2章に記されている人間とは、異なる状況にあります。今の私たちは、残念ながらこの楽園にはいません。この時点では人は神に基準のすべてを置いていました。それが人の本来の姿でした。そこからずれていくこと、それが人の罪の現実です。そして、そこから私たちの肉体と心とのアンバランスが生じていくことにもなります。神の霊と人の魂とが遠くなり、私たちのいのちや生きるということが、本来の喜びを失ってしまうのです。

3. 神のことばによって
 聖書はエデンに帰りなさい、と命じてはいません。創世記の最初の良き人の状況を読むときに、私たちはもうそこには戻ることができないのだ、という悪い知らせをも読み取ることにもなります。しかし、神は私たちをそのままにはなさいませんでした。聖書は語ります。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と。私たちのいのちは、神の霊と深い関係があります。神のことばによって、そして神のことばそのものであるキリストによって、私たちは今本来のいのちを取り戻すことができるのです。

投稿者 mb-church : 16:17 | コメント (0) | トラックバック

2010/5/9礼拝メッセージ

2010年5月9日礼拝のメッセージ要約です。
創世記2:1~2:3
「安息日を覚えて」

1. 安息日規定
 創世記2章と十戒の第四戒「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」が、安息日を守ることの重要性を語っています。カルバンは、安息日の規定を神がイスラエルの民に与えた理由を三つあげています。第一に、第七日の安息日のもとに、神は「霊的安息」を象徴によって示そうとしたということ。第二に、神は信仰者たちがみことばに聞き、神を礼拝するために集められる特定の日を制定することを欲したということ。第三に、神は労働から解かれるための、休みの一日が許されることを望まれたということ。

2. 霊的安息
 「霊的安息」を安息日という象徴によって示そうとしたとありました。神のかたちに造られた人間の真の安息とは何でしょうか。イスラエルの人々は安息日を他の日と区別することによって、神にある安息を理解しました。しかし、教会の時代において、この規定はどのように変化したのでしょうか。旧約の時代は、救い主キリストが示される前の時代です。今は、救い主キリストが与えられた時代です。神にある安息は、イエス・キリストによって、実体をともなって与えられたのです。するともう、安息日は守らなくてよい、そうなるのでしょうか。

3. キリストの安息
 私たちは主イエスによって神の救いと、内なる導き手である聖霊をいただきました。しかし、私たちはまだすべての完成に至っているわけではありません。私たちはキリストが再び来られる神の国の完成の一歩前に置かれているのです。ですから今は、イエスによって与えられた罪の赦しと希望の約束に立って、この日を迎えるのです。安息日は、旧約では世界の完成を迎えた最後の日をさしていました。しかし、新約ではキリストの復活された日、救いが始まった日となったのです。私たちには真の安息が必要です。それは神の前に憩い、神のことばを聴き、赦しの宣言を聴くときなのです。

投稿者 mb-church : 16:13

2010/5/2礼拝メッセージ

2010年5月2日礼拝のメッセージ要約です。
創世記1:28~2:3
「神のことばを聞く」

1. 神のかたちである人間
 人間を創造し、使命を与えた時に、神の天地創造の業は一つの区切りを向かえることになります。神は、お創りになったすべてのものをご覧になりました。そしてそれは神の目に「非常に良かった」という最上級の評価を与えました。ここに大きな慰めがあります。この世界は、また私たち一人一人は神の目に高価で尊いとされています。この神の愛を失うところに多くの歪みが生じます。神の造られたこの世界の栄光や神のかたちである人間を、人間自らが踏みにじっている現実があります。しかし、神は最初も、また今の私たちも「高価で尊い」と思い続けてくださっています。神の栄光を損ない、神のかたちとして生きようとしない私たちに向けて、絶えず神様は叫び続けています。私たちは時に後悔し、また時につまずき、また神に対して罪を犯し、人を傷つけてしまいます。私たちの真実の姿は「非常によかった」とは決していえません。しかし、神はキリストによって、私たちを赦そうと言われています。それが神がイエス・キリストを通してくださる罪の赦し、義とされる救いの宣言です。今イエス・キリストを信じる信仰によって、もう一度私たちは、神から「非常によい」という言葉をまっすぐに受けることができるのです。

2. 安息の日
 第六日目が終わり、その次の日に神はすべての創造のわざを休まれます。この日は単なる休みの時ではありません。この日は創造の業を成し遂げられた神の日であるということです。神は私たちのためにこの世界を作られました。神は、そのほとんどすべての日を人間のものとしてくださり、私たちにその日を、またすべての物を、神の代理者として治めるようにと委ねてくださいました。しかし、その中で、唯一七日目だけ、この日だけ、御自分のものとされました。すべてを私たちのために備え与えてくださった方が、御自分のためには、この一日だけを取り分けられたのです。しかし、私たちはすべての時が人間のものだと思っています。この日は創造者、救い主を覚え、感謝する時です。またその時は魂の赦しと回復の時でもあります。礼拝を周毎にささげ、創造主なる神を覚えることによって、私たちは神のかたちを取り戻し、キリストによって与えられる真の希望を失うことなく歩むことができます。私たちに語られた「非常に良い」と言う言葉が、ますますはっきりと聞こえてくるのです。

投稿者 mb-church : 16:07 | コメント (0) | トラックバック

2010年05月15日

2010/4/25礼拝メッセージ

2010年4月25日礼拝のメッセージ要約です。
創世記1:24~31
「ご自分のかたちに」

1. さあ人を造ろう
 この地上の創造のすべてを人間のために備えてこられた神のみ業がここに結集します。「さあ人を造ろう。」舞台はようやく整いました。満を持して、神は人の創造へと進んで行かれました。神は、人間がいる世界を、私たちが存在する世界を創造されました。そして神は、私たちに存在の理由を与えてくださったのです。人は「支配せよ」と命じられています。しかし、それはこの世界の「神」として支配せよ、という意味では決してありません。その支配とは、神のかたちとして、神の代理者として支配せよ、という命令だったのです。

2. 神のかたちに
 神のかたち、神に似せて…それが人間の存在の根本であると聖書は語っています。これは見た目ではありません。それは神の持つ性質を表しているという表現です。この「性質」の重要なものは「愛」にほかなりません。私たちは神のかたちを持つ者として、神と「愛」という関係を結ぶ存在です。その関係は一方通行ではなく、相互の関係を持つことができるということでもあります。神に与えられた支配せよという命令は、相手を独占する支配ではありません。そこに「愛」が問われるように形作られたのです。

3. はじめのところへ
 私たちは神のかたちとしてつくられ、神のことばの中にいき、その愛を受け、愛に応えて生きるように造られているにもかかわらず、神のことばを聴かず、身勝手な愛に生きています。このような非人間が、支配するこの世界は暗くならざるをえません。そこに与えられた助け、救いこそイエス・キリストです。キリストは神の愛そのものです。この人間の創造の記事は、私たちにはじめの愛へと戻るようにと訴えかけています。非人間性を増すのではなく、キリストを受け入れ、神の愛を知り、神のかたちとしての「私」を回復させていただきましょう。

投稿者 mb-church : 12:22 | コメント (0) | トラックバック

2010/4/18礼拝メッセージ

2010年4月18日礼拝のメッセージ要約です。
創世記1:1~27
「闇に光を与えた方」

1. 天地創造
 神がこの世界のはじまりであった。それがこの聖書の第一の宣言でした。天地創造の記述は、目撃者がいないにも関わらず、現代においても耐えうる言葉で記されています。細かな点で、現代科学と整合性がとれないなどというのはナンセンスな話です。科学も目撃者もいない中で、これほどまでに世界の創造に関して本質をとらえた文章はないということにこそ目を留めたいと思います。この創世記の記述には、非常に多くの普遍的な概念が含まれています。この世界が段階を踏んで創造されたこと。一日、一日というサイクルがあるということ。そして何よりも、あらゆる被造物の創造には「神」が関わっているということ。それは存在への「答え」と言ってよいものでしょう。聖書は「あなたは偶然にそこにいるのではない」と、その冒頭から私たちにメッセージを語っています。

2. 世界のはじめ
 「地は茫漠として何もなかった。 」この言葉の意味は、「その地は何かを生み出すようなものではなかった」という意味です。「いのち」など自然に生まれるはずもないその場所。しかし、そこには「神の霊」がありました。いのちの兆しすらなかったところに、神の霊があったのです。いのちないところ、無味乾燥にも思える闇に、神はおられました。そしてそのような所から、すべてをはじめてくださったのです。

3. 夕と朝
 神はそこで「光があれ」と語られました。そして生み出されたものを「よし」としてくださいました。この地には、神における秩序があり、また思いを込めて神は世界を創造されました。私たち神を信じるものたちは、この世界をもっと知らねばなりません。この世界の一つ一つを創造された神のすばらしさを味わい受け取るのです。真の神中心の出発点がここにあります。そして夕があり、朝がありました。神は、闇の中で「光よあれ」と語られ、光が与えられました。まず神がことを起こし、そして成してくださいます。私たちの前を歩んで下さる方がおられるのです。物事が動いていないかのような時に、神は休まれているのではありません。神は、私たちの前にことをなしてくださり、いのちのない所にいのちを与え、闇に光を与え、私たちの一日が始まる前に、すべてを備えてくださるお方なのです。この創造主なる方に信頼をしてまいりましょう。

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