« 2010年02月 | メインページへ | 2010年04月 »

2010年03月27日

2010/3/21礼拝メッセージ

2010年3月21日礼拝のメッセージ要約です。
「再びよみがえる思い」
ピリピ4:10~17

1. 教会への感謝?
 パウロがこの手紙を記した動機の一つにピリピ教会がパウロに送った献金への応答ということがありました。しかし、ここで不思議なことがあります。パウロは手紙のはじめにそのお礼をしていないということです。手紙の最後にお礼の言葉が出てきます。しかしその言葉は何か含みのあるものでした。これまでにも、パウロを懸命に支援してきた教会がこのピリピの教会です。しかし、なぜパウロが率直なお礼ではない言葉をここに綴っているのでしょうか。

2. 教会の意識
 いったいどのような理由で、パウロへの支援が途絶えてしまったのでしょうか。教会の中にあった混乱というものが、その原因になっていた可能性があります。パウロはここでたとえ支援がなかったとしても、私は大丈夫であるとの言葉を書き送っています。パウロがここで取り上げようとしていることは、単なる献金への感謝ではありません。そうではなく、この献金に表されたピリピ教会の信仰、思い、考え、それらに対する賞賛でした。つまりそれは、ピリピ教会が、福音宣教の思いを再び持つにいたったということに他なりません。なぜ、これまでこの献金が途絶えてしまったのでしょうか。それは、教会の意識が内向きになってしまったということでしょう。パウロを具体的に支援することは、すべての人へ救いの道を開くこと、福音の宣教の広がりを示すものでした。

3. 霊的祝福
 ピリピの教会は、パウロの宣教の働きのはじめから、その働きの本質をつかんでいました。この働きこそ、自分たちが貧しくても支援すべてきものであることを、ピリピ教会は最初のころからよく知っていたのです。パウロは17節でこのように述べます。「私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」ピリピの教会は、パウロの言うあらゆる境遇における秘訣を知っていた教会です。ただの経済的な豊かさや余裕ではなく、キリストを知り、また信じているがゆえの豊かさと確かな守りを彼らは知っていました。そして今再び、この教会は、その霊的祝福に立つことができたのです。私たちもまた第一に分かちあうべきことは、キリストの思い、福音宣教の思いです。そこに私たちをどんなときでも立ち上がらせ、そしてどんな状況でも、満たし豊かにする秘訣があるのです。

投稿者 mb-church : 12:28 | コメント (0) | トラックバック

2010/3/14礼拝メッセージ

2010年3月14日礼拝のメッセージ要約です。
「真に正しいこととは」
ピリピ4:8~9

1. 正しいこと
 「すべての真実なこと、誉あること、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと」。ここに出てくる言葉の一つ一つは、当時のローマ社会の中でも大事にされていることばかりでした。それは社会的に正しいこと。また誰の目にもふさわしいことでした。キリスト教は広く認められています。しかし、それと同時に批判の対象ともなる宗教です。確かに歴史的にも多くの罪悪を犯してきました。このような現実を見るたびに、私たちは胸を痛めます。しかし、それは教会の現実以上に、この世の現実でもあります。人間の罪の根深さというものは、そう簡単なことではないのです。

2. 祈っていれば大丈夫?
 祈っていれば大丈夫?教会に来ていれば大丈夫?そうではありません。祈っていても、教会に来ていても・・・という現実が確かにあります。もし、それすらしなかったらどうなるのでしょうか。私たちは、真摯に神のことばに聞き続けなくてはなりません。パウロは語ります。他の人々からも賞賛を受ける教会になりなさい、人格的な成熟を求めなさい、そうパウロは語っています。まことの神を知り、キリストを信じている者たちとして、より正しい人間性や深い人間理解へと進んでいかなくてはならない、それが教会の使命でもあります。

3. 誰に学ぶのか?
 ここで問題となるのは、私たちが何に学んでいるのかということです。パウロは自分から学ぶようにと勧めます。もちろんこれは、信仰の完成者としてではありません。神のみこころに従い、神の国を求め、キリストを見あげ続ける信仰のトラックを走り続ける競技者パウロの姿です。何よりも私たちはキリストに学びたいと思うのです。

「気落ちせず、恐れもなく、キリスト者はどこにいても常に自らを視線にさらすべきだ。死が彼を疲弊させようとしても、それでも心を明るくもち、静かに落ち着いているべきだ。いかなる死も、われわれを殺すことはできず、むしろ幾千の困窮からわれわれの霊を切り離し、にがい苦しみの扉を閉じて道を開く。こうして天の喜びへ達することができる。」パウル・ゲルハルト

投稿者 mb-church : 12:26

2010/2/28礼拝メッセージ

2010年2月28日礼拝のメッセージ要約です。
「現実を越える力」
ピリピ4:4~7

1. 主にあって喜べ
 「主にあって喜びなさい」もう一度、ここで念をおすかのように、パウロは記しました。これはユウオデヤとスントケの二人に和解することをうながした後の言葉です。この手紙を受け取り、それを読んだ時、教会とこの二人の女性の心境はいかなるものであったのでしょうか。私たちは自らの過ちを指摘されたときに、心をすぐにかたくなにしてしまうものです。そのようなところに、パウロは「主にあって喜びなさい」と語りました。

2. 私たちの現実
 私たちは正しいことを教えられても、それを実現することができない弱さを抱えています。また認めることができない頑なさもあるでしょう。私たちの現実はそうたやすくはありません。しかし、だからこそ、今あなたの中にある主にある喜びに目をむけなさいと聖書は語ります。この主にある喜びなくしては、決して一致することも、心から仕えあうことも、相手を自らよりも優れたものと思うことなど到底できないことでしょう。ピリピの教会にとっても難しい局面の中、パウロが語ったのは、キリストにある喜びに目を向け、互いを赦しあい、仕えあうその心をすべての人に示しなさい、ということでした。これは裏を返せば、教会が抱えた問題は、主にある喜びを失わせることではなく、むしろ、主にある喜びを思い出させるものであり、寛容な心を失わせるような出来事ではなく、かえってキリストのこころをすべての人に示すよい機会なのだ、とパウロは訴えているかのようです。

3. 祈りをもって
 さらにパウロはここで三つ目の勧告をします。パウロはここで「祈り」について勧めています。不一致の現実の前で、苦難と苦しみの中で、そのようなあなたの力を超えた現実の只中、あなたがた教会は感謝をもって祈り願いなさい、とパウロは勧めるのです。そこには神の約束がともなっています。その先には神の平安が与えられるのです。なぜ思い煩いを横において、神に祈るのでしょうか。私たちは、自分で自分の心を支配するのではなく、神に支配していただくために祈りに向かうのです。私たち自身を神に明け渡すために神に向かって心を注いで祈るのです。そこに必ず主キリスト・イエスの守りと神の平安が与えられると、みことばは約束しているのです。

投稿者 mb-church : 12:24 | コメント (0) | トラックバック