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2010年02月27日
2010/2/21礼拝メッセージ
2010年2月21日礼拝のメッセージ要約です。
「本質に目を向けて」
ピリピ4:2~3
1. 具体的な問題
パウロがピリピ教会の現実に対して触れなくてはならなかったこと、それは何でしょうか。それは具体的な問題でした。ここでは二人の女性の名前が記されています。この手紙は、当時の教会が置かれていた苦難や問題を聞いたパウロが、キリストのからだである教会の助けになろう、主のみこころを伝えよう、その思いで書き送ったのではなかったかと想像します。ですから、パウロは具体的な諸問題に立ち入る前に、教会が知っておくべき信仰の本質的なことがらについてこれまで説明してきたわけです。その問題とは、二人の女性の対立でした。
2. 対立
ここに人名が出てきます。この女性二人に対して、パウロは「主にあって一致してください」と命じています。当時のピリピ教会で現実にあった不一致騒動です。その詳細はここには記されていません。しかし、彼女たちが教会の中で強い影響力を持っていたことは間違いないでしょう。教会内にあった二つのグループの対立ということが関連していた可能性もあります。当時の教会の文脈に立って考えてみると、この2、3節こそ、パウロが手紙を書く動機になった出来事であったとも言えるのかもしれません。さらにパウロは「真の協力者」にも懇願しています。つまり、彼女たちの一致は、二人だけの問題ではなく、教会全体が取り組み、祈るべき課題であったのだということです。対立の問題は、教会だけの問題ではありません。私たちの周囲にあふれている深刻な課題なのです。
3. 本質を見つめる
しかし、対立の最中におかれると、本質的なことよりも表面的なことで対立が深刻化することが多くあります。パウロもそのことをよく知っていました。これまでの3章分を用いて、パウロは対立の本質的な問題と、信仰者の基準、考え方を明らかにしてきました。それは次の三点です。まず一つは、すべてのことがキリストのゆえであり、キリストのためである、ということ。次にキリストにならうということ。三つ目に、私たちがなぜ救われ、またなぜ生かされているのか、そのことを思い出すこと、です。私たちはこれらの本質を見失うことによって、互いを受け入れあうことも、認め合うこともできなくなってしまうという事態が起きます。私たちは、本質的なところにこそまず目を留めなくてはなりません。教会は対立ではなく、キリストの一致があらわされるところなのです。
投稿者 mb-church : 11:50 | コメント (0) | トラックバック
2010/2/14礼拝メッセージ
2010年2月14日礼拝のメッセージ要約です。
この日は吉澤慎也神学生でした。
「バプテスマの意味」
ローマ6:1~14
1節:信仰義認の教えに納得できない人たちによる問題提起「恵みは結果的に罪を奨励してしまうのでは?」。同様の疑問は現代においてもある。
2節:「絶対にそんなことはありません」非常に厳しい言葉。2節以降は、1節の問題提起に対する応答。そのテーマは「罪からの解放」。すなわち罪はキリスト者において許容されない、ということ。
3-5節:バプテスマの意味について。キリスト者はキリストと1つにさせられた存在である。私たちはキリスト・イエスの中へバプテスマされたのである。そしてキリストと一つにさせられた者は、すなわちキリストの死と復活とにも与っている。それは私たちが「いのちにあって新しい歩みをするため」(4)である。
6-11節:「キリストと共に死ぬ」=「罪に対して死ぬ」と、「キリストと共に生きる」=「神に対して生きる」という2つの理解。この両者を切り離して考えることはできない。
①イエス・キリストは十字架で死に、三日目に復活した。
②キリストを信じるキリスト者は、キリストと一つにさせられ
た者である。それがバプテスマに象徴されている。
③キリストと一つにされたキリスト者は、キリストの死と復活
とも同じようになっている。
以上のことを自己認識することが大切である。このように考えるならば、キリスト者は罪の中に生きていられない。
12-14節:性的な罪が意識されているのかもしれない。罪の誘惑を退けること。
まとめ:キリスト者が罪の問題と取り組むときには、自分はキリスト者であるという自己認識が決定的に重要である。罪からの解放はキリスト者にとって切実な問題だが、その只中でバプテスマの意味が説かれている。
投稿者 mb-church : 11:47 | コメント (0) | トラックバック
2010/2/7礼拝メッセージ
2010年2月7日礼拝のメッセージ要約です。
「愛する教会へ」
ピリピ3:20~4:1
1. 与えられる特権
キリストを信じる信仰によって与えられる特権とは何でしょうか。イエスを救い主であると信じるときに、私たちに与えられるもの、それは「天の国籍」です。この国籍は「市民権」とも訳せる言葉です。ただキリストの十字架の血潮によってのみ、私たちの罪は赦され、神の国の市民としていただけるのです。この神の国の市民権は、お金を積んで得られるものでもありません。それはただ主イエス・キリストを救い主として信じるときに、私たちに与えられるものなのです。
2. 天から来られる方
さらにパウロは「そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」と言います。しかし、私たちはこの逆を考えます。私たちは、ここから天国へと行くことを待ち望んでいるようです。ここでのパウロは、そうは考えていません。天から、必ず私たちがいるこの世界にイエスが救い主として来てくださる。再び来られたイエスは、その神の御力で、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる・・・。すべてを完成させるためにイエスは再び来られるとパウロは語ります。
3. 未完成の世
私たちは、どうがんばっても、神の目にかなうような「良き人」「義人」には到達できないでしょう。私たちは罪人にしか過ぎないからです。またこの世界も完全な世になるとは考えがたいことです。だからといって、正しいこと、良きことをあきらめてはなりません。あきらめて天国を待ち望みなさいと聖書は語っていません。むしろその逆です。あなたには罪があり未完成の者ではあるが、神のみこころを知り、また主イエス・キリストの赦しと救いを受けたものとして、今いるその場所で、天の国の市民として歩みなさいと言われています。しかし、私たちが現実を襲う苦難や試練の中にあって、希望を失わないで生きるにはどうしたらよいのでしょうか。
4. 希望の光
そこに与えられた希望の光こそ、復活の主イエス・キリストです。復活の主が天からこの場所へとやがて来て下さり、すべてを完成してくださるのです。だからこそ、私たちは、今ここで前に向かって歩み続け、また神の思いにかなう良きことを求めて、力強く奮闘することができるのです。私たちもまた神の国の市民としてふさわしい歩みを続けてまいりましょう。
投稿者 mb-church : 11:44