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2010年01月27日

2010/1/10礼拝メッセージ

2010年1月10日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ3:7~11
「キリストとひとつにされ」

1. 喜びを失わせる現実
 この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれています。パウロが「喜び」を多く書かなくてはならなかった背景には、その逆の現実がありました。それは今も私たちを取り巻く現実です。パウロは、この手紙の中で「今与えられている喜び」を語ります。それは、私たちがキリストによって神のものとされているということであり、また救われている状態です。これは信仰によって見ることの赦されている私たちの目に見えない現実です。これこそ、聖書の語る「霊的」な私たちの側面です。霊的という言葉は、目に見えない、つまり神の領域ということになるでしょう。私たち自身の本質的な部分もまた霊的な部分です。それは、目に見えるものだけでは満たされることはありません。私たちが満たされ、平安や神の愛が与えられるのは、キリストによって救われたからです。

2. 産みの苦しみ
 律法による自分の義。これはユダヤ人の基準です。これは、神を抜きにした人間中心の価値観、正しさを表しています。そこには本当のいのちの望みはありません。真の望みは「神」から与えられるものです。パウロは「キリストのその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態」になっていると語ります。キリストにある信仰が与えられ、平安と満たしは与えられました。しかし、苦しみの現実は続きます。パウロや教会の現実の痛み、苦しみは増しているようにさえ見えます。しかし、信仰を持つパウロの目から見たその現実は、いままで見ていたものとは違いました。彼はその苦しみの現実が、キリストの十字架の苦しみと重ね合わさるものであることを知りました。やがて神がその痛み、苦しみを通して、完全に勝利してくださるものであることを、まさに霊的な目を持って受け止めたのです。

3. キリストと一つに
 救われたものはキリストのいのちと継ぎ合わされます。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」その視点から見たときに、パウロの置かれた状況も、また苦難の現実も、それは喜びを失わせるものでも、また失望に沈み行くものでもありませんでした。それは、復活のキリストの栄光に満ちた姿へとつなげられている現実だったのです。だから彼は、主イエス・キリストの復活の姿へと変えられることを切に願うのです。

投稿者 mb-church : 2010年01月27日 09:55

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