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2010年01月27日

2010ハートフルコンサートのお知らせ

今年もハートフルコンサートを開催いたします。
寒い日がまだまだ続きますが、教会ならではのコンサートで、ご一緒にほっといたしましょう。

今年は上野有さん、直子さんご夫妻の音楽ユニット「JOIN」をお招きします。
フルートと歌、シンセサイザーによる心あたたまるひと時をお届けいたします。

そして今年はなんと二部構成!
一部はファミリーコンサート。こどもたちが主役のコンサートです。ご家族でぜひご一緒に。
二部はスタンダードコンサート。落ちついた雰囲気の中、JOINの音楽をゆっくりとご一緒に楽しみましょう。

ちらしはこちらになります。
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2010/1/24礼拝メッセージ

2010年1月24日礼拝のメッセージ要約です。
「互いを手本として」
ピリピ3:15~17

1. 良き手本
 これまでの歩みの中で、手本となるべき方と出会ったことがあるでしょうか。しかし、自分がお手本となるならばどうでしょうか。パウロは「私を見ならう者になってください」と言っています。パウロが偉大な教師であるから、こう述べたのでしょうか。しかし、この言葉はこう続きます。「また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに目を留めてください。」これは、「教会」または「他のクリスチャン」に目を留めるようにという言葉です。パウロは、自分のまた他の教会の何を見倣いなさいと言っているのでしょうか。

2. 現在のパウロ
 キリストを知る以前の彼は、当時のユダヤ人における正しい生き方を真剣に実践した人物でした。彼はそのような姿を「犬」「肉体だけの割礼の者」と言っています。これらの言葉は、本質のない者、うわべだけの者というような言葉です。では今のパウロはどのような歩みをしているのでしょうか。彼はキリストによって、「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない」者となりました。以前の彼は、自分の正しさや誇りのゆえに、神をほめたたえていました。いえ、神をほめたたえていたのではなく、自らが満たされ、他の人よりも自分が勝っていることを持って喜びを得ていたと言ってもいいでしょう。この姿は、キリストのたとえ(ルカ18:9~14)と重なります。パウロはキリストを知ったゆえに、自らの罪に気がつかされます。そして、自分自身を、その生涯を、神にささげていくことこそ、真の礼拝であると彼は確信しました。さらにその歩みは、自らの力で正しい者、力ある者となることではなく、キリストの姿にならい、神の前にへりくだり、神の御力、みことばによって生かされ、そして約束された復活のいのちにいたるためのものであるということを知りました。彼はゴールを見据えて、希望と喜びを告白しつつ歩む競技者のようであると述べています。その自分を見習ってほしい、とパウロは今日の箇所で勧めているのです。

3. 他の信仰者とともに
 さらに彼は他の信仰者に、ともに走り抜こうとしている他の教会にも目を留めなさいと勧めます。目を留めるのは外面的なことではありません。それぞれのうちにあるキリストに目を留めていくのです。喜びや苦難の中でも、強さや弱さの中でも、私たちの中心には十字架の、復活のイエス・キリストがいてくださるのです。その姿を、ともに見続けてまいりましょう。

投稿者 mb-church : 09:59 | コメント (0) | トラックバック

2010/1/17礼拝メッセージ

2010年1月17日礼拝のメッセージ要約です。
「ゴールを目指して」
ピリピ3:12~16

1. 求道者
 教会における「求道」の意味は「真理を求める」とういことにあります。もっと厳密に言えば、求道者とは「真理を求めるようにと導かれている人」のことです。パウロも自分は神によって導かれている、そうまっすぐに受け止めた人でした。確かにパウロは、神にある正しさを求め、追い続けています。しかし、それは自分からスタートしたことではなく、イエス・キリストが私を捕らえてくださったからだと告白しています。ここでの問題は、パウロが何を求め続けていたのか、ということです。

2. 何を求めているのか
 彼が求めているのは「死者からの復活」です。この言葉は「復活のキリスト」を示す言葉です。パウロが求めていたものは、復活のキリストと同じようになることでした。この言葉は人格的、肉体的な完成を示す言葉です。神の前に真にへりくだった愛、人ではなく神にある正しさこそ、ここでパウロが追い求めているものと言えるでしょう。とはいっても、そこまでのことを私は求めていない、そう思われるかもしれません。私たちの視点は、すぐに天ではなく、地に向かうものだからです。パウロはそのことをよく知っていました。13節にある「うしろのもの」とは、以前の価値観のことです。私たちは「うしろのもの」に、いつも引きずられてしまいます。うしろのものとは、キリスト抜きの世界であり、目に見えるもの、人の基準で生きることです。実のところ、真の問題は、うしろのものにではなく、前にあるものがはっきりと見えていないことにあります。

3. 前のもの
 パウロは信仰の歩みを競技にたとえています。Ⅰコリント9:24~25でも同様のたとえが出てきます。パウロは競技者の姿勢と、信仰者の姿勢とを重ねあわせています。競技者はゴールがない競技を走るわけはありません。ゴールを、そして栄冠を目指して走ります。パウロは、勝ち負けの話ではなく、競技者として純粋にゴールに向かうことや、その途上にあって奮闘し続ける競技者と、信仰者とを重ねあわせているのです。それぞれの走り方は違います。それぞれに時に苦しく、また倒れそうになりながらも、走りぬこうとしています。この先に見ている天におけるゴールは、すでにキリストによって約束されているものです。私たちは、今そのゴールを見据えているでしょうか。すべては復活のキリストの栄冠へと招きいれるためのものであるということを受け取らせていただきましょう。

投稿者 mb-church : 09:57 | コメント (0) | トラックバック

2010/1/10礼拝メッセージ

2010年1月10日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ3:7~11
「キリストとひとつにされ」

1. 喜びを失わせる現実
 この手紙は「喜びの手紙」と呼ばれています。パウロが「喜び」を多く書かなくてはならなかった背景には、その逆の現実がありました。それは今も私たちを取り巻く現実です。パウロは、この手紙の中で「今与えられている喜び」を語ります。それは、私たちがキリストによって神のものとされているということであり、また救われている状態です。これは信仰によって見ることの赦されている私たちの目に見えない現実です。これこそ、聖書の語る「霊的」な私たちの側面です。霊的という言葉は、目に見えない、つまり神の領域ということになるでしょう。私たち自身の本質的な部分もまた霊的な部分です。それは、目に見えるものだけでは満たされることはありません。私たちが満たされ、平安や神の愛が与えられるのは、キリストによって救われたからです。

2. 産みの苦しみ
 律法による自分の義。これはユダヤ人の基準です。これは、神を抜きにした人間中心の価値観、正しさを表しています。そこには本当のいのちの望みはありません。真の望みは「神」から与えられるものです。パウロは「キリストのその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態」になっていると語ります。キリストにある信仰が与えられ、平安と満たしは与えられました。しかし、苦しみの現実は続きます。パウロや教会の現実の痛み、苦しみは増しているようにさえ見えます。しかし、信仰を持つパウロの目から見たその現実は、いままで見ていたものとは違いました。彼はその苦しみの現実が、キリストの十字架の苦しみと重ね合わさるものであることを知りました。やがて神がその痛み、苦しみを通して、完全に勝利してくださるものであることを、まさに霊的な目を持って受け止めたのです。

3. キリストと一つに
 救われたものはキリストのいのちと継ぎ合わされます。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)」その視点から見たときに、パウロの置かれた状況も、また苦難の現実も、それは喜びを失わせるものでも、また失望に沈み行くものでもありませんでした。それは、復活のキリストの栄光に満ちた姿へとつなげられている現実だったのです。だから彼は、主イエス・キリストの復活の姿へと変えられることを切に願うのです。

投稿者 mb-church : 09:55 | コメント (0) | トラックバック

2010年01月13日

2010/1/3礼拝メッセージ

2010年1月3日新年礼拝のメッセージ要約です。
詩篇67篇
「神を知るために」

1. 詩篇67篇
 この詩篇は、旧約聖書にはめずらしいと思われる「宣教」の詩篇です。イスラエル民族は、選民思想を持つと言われています。しかし、旧約聖書を読むと、なぜ彼らが選ばれたのか、その理由が記されています。その理由は、この神を信じる民イスラエルを通して、この世界がはっきりと神を知り、そしてその神の救いと祝福に預かる道備えをするように、ということでした。この群れが、神のあわれみ、祝福、豊かさ、正しさを求めるのは、自分たちの都合ではありません。その理由は、神の御救いがすべての国々の間に知らされるためなのです。

2. 私たちの祈り
 これはとても大事な視点です。私たちもまた神の祝福があるようにと祈ります。私たちが神の前に祈るべきことは、第一に「神の栄光を多くの人が見るように」との祈りです。そして、そのために、私たち神を信じるものの上に神の祝福があり、また正しさと豊かさがあるようにと求めるのです。この世界に仕えるために、またこの世界が真の神を知り、そしてその栄光を見るために、私たちは祈り求めるのです。この一年の私たちの歩みを祝福してください。あなたの栄光を見せてください。そのことを通して、私たちではなく、神があがめられ、そしてまことの神を知り、信じる人々を起こしてください、そう大胆に祈るのです。

3. アブラハムの祝福
 アブラハムに与えられた約束もまた同様のものです。アブラハムを通して、すべての民が祝福されるのです。私たち教会も同じです。大胆に祈り、求めることは許されています。しかし、私たちは、それがなぜなのか、その理由を失ってはなりません。ともに、多くの人が神の栄光を見るように、そして、神ご自身が、この世界でほめたたえられるようにと私たちは祈り求めてまいりましょう。

投稿者 mb-church : 14:45 | コメント (0) | トラックバック

2009/12/27礼拝メッセージ

2009年12月27日礼拝のメッセージ要約です。
「キリスト-復活の希望-」
マタイ20:17~19
Ⅰコリント15:19~22

1. 復活の出来事
 キリストについて、学ぶときに大事なことが3つあります。第一に「受肉」です。それは、神が私たちと同じ人となられたということです。二つ目は「贖い」です。受肉されたキリストが、私たちの身代わりとして罪の罰を受けてくださったということです。このことはキリストの受難、十字架に最もよく表されています。そして三つ目。それが「キリストの復活」です。キリストは十字架上で死に、その三日の後にキリストはよみがえった、と聖書は証言しています。しかし、私たちにとって復活は受け入れることの難しいことでもあります。なぜなら、それは人間の範疇を超えているからです。しかし、だからこそ、そこにこそ大いなる神の御力が働いているということになります。復活のキリストへの信仰とは、神のひとり子イエス・キリストを私たちに与えた神、そして十字架の死からイエスをよみがえらせた「神」、その神への信仰ということになります。

2. キリストの見ておられたもの
 キリストは、ご自身の宣教の道すがら、復活のことを弟子たちに語っていました。イエスの奇跡を見て多くの人は殺到しました。今の自分を少しでも楽に、良くしてくれる可能性のあるところに多くの人は集まります。しかし、イエスが人々に常に語ってきたのは、神に立ち返るようにというメッセージでした。そして、ご自身の歩みは、まっすぐに十字架へと向かっていったのです。私たちの死の先にあるものをキリストは見ておられました。神に悔い改めた者の先には何があるのでしょうか。キリストは十字架の死の後、完全な肉体を持って復活をします。その後キリストは天に上げられます。これこそ、キリストが私たちに備えられた完全なる希望でした。復活のキリストが表すのは、完全なる勝利した人の姿です。

3. 復活の希望
 復活の主が与える希望は、私たちがたとえどのようなところを通らされたとしても、復活の主が、私たちの行く先を示す光となってくださる希望です。暗黒の闇はやがて消え去り、希望の光が必ず差し込む希望です。最大の私たちの敵である死はもはや私たちの脅威ではなくなったのです。この希望は、「あの世」のものではありません。この世を生き抜く力となる希望です。今私たちが生きているこの延長に、神の国の到来と、キリストにある完全な復活のいのちが与えられるのです。

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