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2009年12月26日
2009/12/6礼拝メッセージ
2009年12月6日礼拝のメッセージ要約です。
「キリスト-インマヌエルの主ー」
イザヤ書7:14
イザヤ書8:22~9:2
ルカの福音書2:1~7
1. 私たちの存在
私たちの存在は、私たちが思うほどに安定していないのかもしれません。ふとした時に、自分の足元がぐらぐらと揺れ動くことがあります。聖書が語る神から離れた人間は、はかなさの中で生きなくてはならない存在となってしまったと教えます(創世記3:19)。私たちはちりに過ぎないと。しかし、私たちはちりに過ぎないものですが、ちりに帰るだけの運命を容易に受け入れることのできないものでもあります。なぜなら私たちの中には、「神のいのちの息」が吹き込まれているからです(創世記2:7)。私たちは神の作品であり、本来神と息を合わせて生きる存在なのです。しかし、私たちはあるべきところを失ってしまった状態なのです。
2. 人の悲惨
ただ生きて死に、ちりに帰る。それが人間のもつ悲惨さです。しかし、私たちは神について考え、また思いをめぐらせることもできます。私たちはこの世界にあって稀有な存在です。自らの悲惨を知りながら、天を思う存在です。聖書は私たちにこう語りかけます。「あなたがたは確かにちりに帰らなくてはいけない運命を持ちながら、それをただ受け入れなくてはならない悲惨さを持っている。しかし、その悲惨さを持ちながら、まことの神を知り救いを求めるならば、その悲惨さから救われる。」この人間の悲惨な現実と神が伸ばした救いの御手が交錯する地点こそが、イエス・キリストです。
3. インマヌエルの主
私たちは、この神の語りかけに気がつかない限り、神がどのような方を知ることはできません。神のことばの表れこそが「イエス・キリスト」です。イエスは神と等しい方であり、その存在とことばは、神ご自身をもっともよく表しています。それと同時に、イエスは私たちと変わらない人であったというのです。キリストを前にして問われるのは、私たち自身の本当の姿と神への信仰です。キリストの誕生シーンにおいても示されたのは、救い主が来た現実の悲惨さと、その現実をともに担おうとされる神の姿です。イエス・キリストは、私たちの悲惨をともに背負われようとしている「インマヌエル(神がともにおられる)の主」の御姿なのです。
投稿者 mb-church : 2009年12月26日 08:38
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