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2009年12月26日
2009/12/20礼拝メッセージ
2009年12月20日礼拝のメッセージ要約です。
「キリスト-子とされる恵み-」
ルカの福音書15:11~24
テモテ第一の手紙2:5~7
1. 救い主の誕生
私たちに救い主イエス・キリストが与えられたことを神に心から感謝します。神はこの方を指して、あなたがたを罪から救う救い主であると告げ知らされました。神は、長い年月をかけてこのことを備えられました。誰もがよく調べれば必ずこの人こそ救い主だとわかるように、神はその方を与えてくださったのです。しかし、それにも関わらず、多くの人々はこの方の前を素通りしてきました。私たちを絶望へと、また死へと追いやる病である罪から救う唯一の方は、このキリストであると聖書は語り続けています。
2. 放蕩息子のたとえ
「放蕩息子」のたとえは、非常に有名なたとえです。このたとえは、人が自らを神に背いた罪人であることに気がつき、そして父なる神に立ち返るというものです。これは「悔い改め」ということを物語っています。父なる神は、その人を喜んで抱きとめます。傷ついた私たちが故郷に帰るような話です。しかし、私たちはこうも思います。そんなに私は愚かではない。しかし、これは神からの視点の話です。神の前で、私たちは、自分の生涯やいのちを自分勝手に使っていない、無為に消費していない、完全に計画通りである、そう言いきれるものでしょうか。
3. 子とされる恵み
なぜ弟はこうも簡単にゆるされたのでしょうか。なぜなら父と子の話だからです。しかし、神と私たちの関係はいかなるものでしょうか。私たちと神との関係は、神とその神に背く罪人の関係です。なぜイエスはこのたとえを語られたのでしょうか。なぜなら、その話を語ることのできる理由と権威がキリストにはあったからです。キリストによって、キリストを通して、あなたも神の子となることができるからです。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12)」イエスは、私たちの罪を背負い、その身代わりとして十字架で死なれます。私たちは罪人から神の子となるのです。キリストが私たちに与えられたのは、私たちが神の子となるためです。そして私たちは父なる神のもとへと帰ることができるのです。それは、私たちの本当の居場所に帰ることなのです。ともに帰るべき場所へと帰らせていただきましょう。
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2009/12/13礼拝メッセージ
2009年12月13日礼拝のメッセージ要約です。
「キリスト-あなたを招く方-」
マタイの福音書11:25~30
イザヤ書46:1~4
1. 神のことばであるキリスト
イエス・キリストは、神のことばであると聖書には記されています。それは、神の意思を直接あらわす方であり、神のみおしえを語り、神の約束そのものであるという意味でもあります。「すべてのものは、この方によって造られた」ともあります。いのちはイエス・キリストにあってその意味が解き明かされるというのです。この方にこそいのちそのものがあり、この方に信頼すればするほど、私たちは希望のない所に希望を見出すことになるでしょう。
2. キリストのことば
「そのときイエスは、こう言われた。」この記事は、すでにイエスが神から遣わされたメシアとしての働きをしているときのことです。イエスは、メシアとしての姿を人々にあらわしていました。多くの人々の病を癒し、弱さを覚えている者、貧しい者たちに、神の希望が来たことを、イエスは宣言しました。しかし、人々は悔い改めませんでした。イエスは人々に真のいのちと希望を与えるために来られました。しかし、その希望を得るためには、どうしても人間が通らなくてはならない道がありました。それは、人間のおかれた悲惨さに気づくことでした。人間の罪深さを自覚しなくてはならないのです。しかし、その事の深刻さに私たちはなかなか気がつきません。実は、神が私たちのことを忍耐されている現実を私たちは知らないでいるのです。そこから神に向くことこそ、悔い改めることです。悔い改めに年齢は関係ありません。問題はどちらの方向を向いているか、ということなのです。
3. キリストの招き
信じるということは、声を聞き分けることです。自分に対して、語られている神の声に気がつき、そしてそちらの方へと向かっていく、それが信じるということです。信仰というのは応答です。神があなたを呼んでおられる、その呼びかけへの応答です。ここでキリストはこう招いておられます。「わたしのところに来なさい。」「わたしのくびきを負いなさい。」「わたしから学びなさい。」これはすべての人に語られた招きです。その招きに応えるときに、私たちに神からの平安と安らぎが与えられるのです。キリストが私たちの重荷を負ってくださり、また私たちはキリストによって示されて歩んでいく生涯が、信じる人に与えられるのです。
投稿者 mb-church : 08:40 | コメント (0) | トラックバック
2009/12/6礼拝メッセージ
2009年12月6日礼拝のメッセージ要約です。
「キリスト-インマヌエルの主ー」
イザヤ書7:14
イザヤ書8:22~9:2
ルカの福音書2:1~7
1. 私たちの存在
私たちの存在は、私たちが思うほどに安定していないのかもしれません。ふとした時に、自分の足元がぐらぐらと揺れ動くことがあります。聖書が語る神から離れた人間は、はかなさの中で生きなくてはならない存在となってしまったと教えます(創世記3:19)。私たちはちりに過ぎないと。しかし、私たちはちりに過ぎないものですが、ちりに帰るだけの運命を容易に受け入れることのできないものでもあります。なぜなら私たちの中には、「神のいのちの息」が吹き込まれているからです(創世記2:7)。私たちは神の作品であり、本来神と息を合わせて生きる存在なのです。しかし、私たちはあるべきところを失ってしまった状態なのです。
2. 人の悲惨
ただ生きて死に、ちりに帰る。それが人間のもつ悲惨さです。しかし、私たちは神について考え、また思いをめぐらせることもできます。私たちはこの世界にあって稀有な存在です。自らの悲惨を知りながら、天を思う存在です。聖書は私たちにこう語りかけます。「あなたがたは確かにちりに帰らなくてはいけない運命を持ちながら、それをただ受け入れなくてはならない悲惨さを持っている。しかし、その悲惨さを持ちながら、まことの神を知り救いを求めるならば、その悲惨さから救われる。」この人間の悲惨な現実と神が伸ばした救いの御手が交錯する地点こそが、イエス・キリストです。
3. インマヌエルの主
私たちは、この神の語りかけに気がつかない限り、神がどのような方を知ることはできません。神のことばの表れこそが「イエス・キリスト」です。イエスは神と等しい方であり、その存在とことばは、神ご自身をもっともよく表しています。それと同時に、イエスは私たちと変わらない人であったというのです。キリストを前にして問われるのは、私たち自身の本当の姿と神への信仰です。キリストの誕生シーンにおいても示されたのは、救い主が来た現実の悲惨さと、その現実をともに担おうとされる神の姿です。イエス・キリストは、私たちの悲惨をともに背負われようとしている「インマヌエル(神がともにおられる)の主」の御姿なのです。
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2009年12月15日
2009/11/29礼拝メッセージ
2009年11月29日礼拝のメッセージ要約です。
「キリスト-ほふられた小羊-」
レビ記1:1~4
ペテロの手紙第一1:18~20
1. 私たちの存在
聖書は世の初めを記しています。私たちが神によって創造されたということ、そして私たちがその直後に、創造主にそむき、自分を神として人間が勝手に歩みをすすめているということが明らかにされています。つまり人間は、その存在の出発点を失い、本当に帰るべき故郷(ふるさと)を失ってしまった状態なのです。聖書の根本的なテーマは、私たちがこの生涯を通して、まことの神と再び出会い、神のもとへと帰る、本当の故郷へとたどり着くということにあります。
2. 神のかたちと罪
神は人間を「神のかたち」に創造しました(創世記1:27)。「かたち」とは、私たちの人格、性質、こころを指しています。神はなぜ人間を神のかたちとして創造されたのでしょうか。なぜなら、神はご自分の栄光を私たちに表し、すばらしい世界をともに分かち合おうとされたからです。しかし、私たちは神のものであることを忘れ、神のみこころに反し、自己中心へと陥ってしまいました。これこそが神に対する罪責なのです。私たちは神から離反してしまったがゆえに、苦痛と病と死の恐怖に苛むようになってしまったと聖書は語ります。私たちの求めは、神でなくては答えることのできないものです。しかし、私たちは、神を求めれば求めるほど、神から遠ざかる現実をも見出すことになります。なぜなら、私たちの中には、神と相反する「罪」があるからです。私たちの思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなってしまったのです(ローマ1:20,21)。神と私たちとの間には深い断絶があるのです。
3. 小羊イエス
旧約聖書には「いけにえ」の規定が記されています。ここに表されたのは、人と人との取り決めではありません。神の前に人が償うべき内容です。それは「いのち」そのものです。神と正しい関係を持つために、動物のいのちをささげることが指示されています。しかし、それは最良のいけにえであっても不完全なものです。私たち自身とはイコールではないからです。それゆえに神は、イエスを私たちに送ってくださいました。私たち以上の犠牲としてイエスが私たちに送られたのです。キリストは十字架に架けられ殺されます。それは、まさにほふられたいけにえそのものです。イエスを信じるということは、この方が私の身代わりに犠牲になってくださったということを信じることです。そのときに、私たちは、神に完全にゆるされ、神との新しい関係に入ることができるのです。
投稿者 mb-church : 16:48 | コメント (0) | トラックバック
2009/11/22礼拝メッセージ
2009年11月22日礼拝のメッセージ要約です。
「すべてキリストのゆえに」
ピリピ3:4~9
1. 終末
「はじめがあり、終わりがある」それが聖書の語る世界観です。私たちの世界は永遠ではありません。この事実から私たちは目をそらしてはなりません。大きな視野に立つならば、この世界のはじまりと終わりがあるということになります。もっと小さな範囲では、私たち自身のいのちのはじまりと終わりがあります。人間という存在は、はじまりと終わりを意識して生きる存在です。終末が問われる時に、私たちは自分という存在が量られることにもなります。今日の箇所で、パウロは自分自身のことを証言しています。ここで彼が言っていることを短く言い表すならばこうなります。自分はユダヤ人であれば非の打ち所のない生まれと実績である。しかし、彼はここで自らの存在を決めるのは、そのようなものではないと言います。終わりの時に、ものを言うのはこれらのものではないのです。
2. 存在の救い
今日の箇所が私たちに問いかけるのは、あなたの存在は何によって救われるのか、あなたは終わりの時に何によってしっかりと立つことができるのか、ということです。パウロはここで、昔の自分と、今の自分を比べています。昔の自分は、自らの生まれや能力、実績、評価、それによって自分は立っていたと証言しています。しかし、それらのことが自分を救ってくれるわけではないことに気がつくのです。私たちがいのちを問われるとき、つまり終末を迎えるとき、それは神の前に立つときであると聖書は言います。パウロはその存在の救いの鍵が「キリスト・イエス」にあると指し示しています。
3. 神の義
終わりのときに問われるのは、神の前の義であると聖書は語ります。神の前に正しいものとされる、それが義です。それは神との関係が正しいものとなるという意味です。神との関係が正しくなければ、私たちは自分の存在の意味を失い、またはじまりも終わりも見極めることができなくなります。聖書において、神の義と救いはセットとして語られます。神からの救い、また真の希望は、神との関係が正しくなることからもたらされる、それが私たちに与えられた道筋です。どうすれば、神と正しい関係を持つことができるのでしょうか。イエス・キリストはこのように語りました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)」。このイエス・キリストを知り、そしていのちを得させていただきましょう。
投稿者 mb-church : 16:46 | コメント (0) | トラックバック
2009年12月02日
2009/11/15礼拝メッセージ
2009年11月15日礼拝のメッセージ要約です。
「主にあって喜べ!」
ピリピ3:1~3
1. 喜べという命令
「喜べ」とここで命じられています。普通「喜ぶ」ことは命じられてできることではありません。しかし、この命令は、私たちを立ち上がらせ、前進させるための言葉です。この手紙は、ピリピ教会の苦難の時、また同時にパウロの苦難の時に書き記されたものです。「私の兄弟たち。主にあって喜びなさい」これはパウロの命令であると同時に、パウロ自身もまた神様から語られていることでもあります。このような状況に置かれている、だからこそ「主にあって喜びなさい」と。
2. 主にあって
この言葉の中で重要なのは「主にあって」という言葉です。この言葉が意味しているのは、この喜びがむなしく終わる一時的なものではないということです。主イエスにあって喜ぶということ。この短い言葉であらわされていることこそ、聖書で語られている私たちに与えられる約束の一つです。パウロが命じる「喜び」は、自分で言い聞かせて喜べというものでは決してありません。主イエスにあって私たちは喜ぶことができる。いえ、今信じる者には喜びがすでに与えられている、そう私たちに語りかけている言葉なのです。パウロはこの喜びについて「あなたがたの安全のためにもなること」であると言っています。主にあって喜ぶときに、私たちは堅く立つことができる、そうパウロは私たちに教えています。
3. 真の喜びを得る
キリストにある信仰とはご利益ではありません。この信仰は真の喜びを得させるものです。パウロはここで誤った教えへの警告を記しています。本当の喜び、キリストにある信仰を失わせるものに気をつけるようにとパウロは言います。それは、正しい行いや目に見える正しさによって救いを得ようとする「律法主義的」な、また「ご利益主義的」なあり方でした。パウロは自らのことをこう言い表しています。「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」真の喜びを得、主にあって喜びを持つものとは、どのような人でしょうか。それは、神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない者です。なぜなら、神が私たちに与える救いは、私たちの側に根拠はなく、ただ神からのみ与えられるものだからです。だからこそ、この救いと喜びは失われることがないのです。
投稿者 mb-church : 12:19 | コメント (0) | トラックバック
2009/11/8礼拝メッセージ
2009年11月8日礼拝のメッセージ要約です。
「キリストを追い求める者」
ピリピ2:19~30
1. 二人の同労者
パウロは、ここで二人の人をピリピ教会の人々に紹介します。その二人は「テモテとエパフロデト」です。この二人はパウロの同労者と伝えられています。なぜパウロはここで、この二人のことに触れたのでしょうか。おそらくそこにはパウロの牧会者としての配慮からであったのではないかと思います。
2. エパフロデト
この手紙を持ってピリピの教会を訪れたのはエパフロデトでした。教会の人々は、彼の姿を見たときにどのように思ったのでしょうか。エパフロデトはピリピ教会から、パウロを支援するようにと派遣された人であったようです。そのように使命を持って渡ったエパフロデトが、何とパウロの手紙を持って戻ってきました。エパフロデトからすると、使命を果たことができなかった、そんな思いであったかもしれません。この病のことも、どのように教会に伝わっていたのか分かりません。ピリピの教会が待ち望んでいたのは、パウロが戻ってくることでした。しかし、ピリピ教会の目の前に現れたのはエパフロデトだったのです。この手紙を受け取った教会の暗雲はまた断ち切られていません。パウロさえ戻ってきてくれれば、そんな声が聞こえてきそうです。
3. 主キリストの姿
パウロが、この手紙を通して示そうとしていることは「パウロ自身」ではありません。彼が渾身の力を込めて描き出したのは「キリスト・イエスの御姿」でした。この手紙はエパフロデトが、次にはテモテを送らざるを得ない、そのような状況ゆえにパウロはこの二人のことに触れています。この二人は、あり方も、働きも違いました。しかし、この二人の歩みに共通するのはキリストの姿です。パウロはもちろん彼自身が教会へと戻ることを熱望していました。しかし、一番大事なことは主キリストの姿にそれぞれが生きているかということでした。エパフロデトは病を負いました。それは彼の望んだことではありません。また周りの人々もそれを望んだわけではありませんでした。しかし彼こそ、この手紙を託すのに最もふさわしい人物であったのに間違いはありません。彼を通して、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたキリストの姿が教会の人々にも迫ってきたのではないか、そう思うのです。キリストの力は弱さのうちに完全に現れるのですから。
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2009/11/1礼拝メッセージ
2009年11月1日礼拝のメッセージ要約です。
「牧会者の思い」
ピリピ2:16~18
1. 牧会者
群れを導く者が牧会者です。その模範となる姿は、よき羊飼いである神ご自身の姿です(詩篇23)。またそれはキリストご自身の姿とも重なります(Ⅰペテロ2:25)。イエス・キリストこそ、教会の大牧者です。牧師もまたキリストにある羊の群れの一員です。しかし牧師はその群れの「牧会者」として立てられてもいます。パウロはこの時代における牧会者の代表です。パウロが牧会者として語ったことは次の三点です(使徒20:17~35)。一つは、最後までそれぞれに備えられた生涯を神の喜ばれるものとして歩んで欲しいということ。二つ目にそのためにみことばから正しい教え(教理)を学び、そこに立ち続けるようにということ。そして三つ目に、教会において「受けるよりも与えるものとなり」、「互いに仕えること」に生きるようにということ、この三点です。
2. パウロの思い
ピリピの手紙においてパウロは牧会者としてのありのままの言葉をつづっています。ピリピの教会の人々が、キリストの福音にふさわしく生きるように、また互いに仕えあい、互いにを尊重しあい、へりくだるように。自己中心から解き放たれ、互いに関心を持ち、キリストの姿に倣い、十字架の福音に立ち続けるように。そして、キリストの教会が、終わりの時まで、神のみこころにかなうものとなるように。教会の一人一人がこのように歩むことを、パウロは心から願っています。彼の喜びと目標はどこにあったのでしょうか?それは教会が大きくなることでも、また教会が経済的に豊かになることでもありませんでした。そうではなく、教会がみことばに堅く立ち、正しい教えを学び、またキリストのことばとキリストの姿にあらわされた互いに仕えあうものたちとして歩んで欲しいということだったのです。
3. キリストの願い
これは実はパウロの願いにとどまらないものです。これはキリストご自身の願いでもあります。私たちの周りには様々な決断が日々迫っています。何を着るか、何を食べるかからはじまり、どのように時間を使うか、何をなすか、どのようにお金を用いるか、究極的には与えられたこの生涯をどのように用いるか。そこには様々な決断が求められています。だからこそ、私たちは委ねられた決断を、神に喜ばれ受け入れられるものとしなくてはなりません。私たちも牧会者キリストともに、互いに喜びを分かち合い、歩んでまいりましょう。