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2009年10月21日

2009/10/11礼拝メッセージ

2009年10月11日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ2:6~11
「キリスト讃歌Ⅱ」

1. キリスト讃歌
 キリスト賛歌の前半に歌われていたのは、神と等しい方であったキリストが、そのあり方を捨て、人となられ、しもべとなられ、そして十字架の死にまでも従われたことでした。この私のために、神がしもべとなられた・・・その姿こそ神の愛の顕れであることを見ました。その逆に私たちは、自分たちに与えられている様々な特権を簡単には捨てることはできないものたちです。しかし、その多くは、私たちの手で得られたものではないことに気がつかなくてはなりません。神の前に立つときに、私たちがどこから来て、そして今どこにいるのか、さらにどこへと向かうのかが問われます。キリスト讃歌の後半は、イエスがどこに行ったのかということが描かれています。

2. 高くあげられたイエス
 イエスは、神から来て、地にくだり、そしてどこへ行ったのでしょうか。神はイエスを高く上げた、とあります。聖書に、特にキリストのことばの中には、小さい者、幼い者、力のないもの、弱いものこそが幸いであると語られています。明らかに神は低いものが高くされると言っています。「それゆえ神は、この方を高く上げて」とあります。これはキリストが十字架の死の後、復活し、そして天に上げられたことを歌ったものです。私たちは、この言葉をどう受け取るでしょうか?

3. 神の救い
 キリストを私たちが見れば見るほど、そこに神のみこころを私たちは見出します。十字架の現場を見るときに、そこに何の救いがあろうかと人々は考えます。人間が考える救い、それは、目に見える形での勝利であり、平和であり、成功です。しかし、神が与える救いは何でしょうか。それは絶望の先にある神の御手の確かさ、です。神の子キリストが私たちのしもべとなられたがゆえに、神は、この方を最も高くされました。これが神がご覧になっているものです。ここに語られているのは、見せかけの謙遜さではありません。すべてを投げ打ち、神の御前にひざまずくしもべの姿です。私たちは、完全にこのキリストのようには、生きることはできないでしょう。しかし、このキリストの姿をまっすぐに見るときに、私たちは自らの高慢さ、愚かさを見せつけられます。そして神の前の真の謙遜へと導かれるのです。そのような者を神は引き上げられます。神の前にひざまずき、へりくだらせていただきましょう。

投稿者 mb-church : 10:28 | コメント (0) | トラックバック

2009/10/4礼拝メッセージ

2009年10月4日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ2:5~11
「キリスト讃歌Ⅰ」

1. 私たちの課題
 福音にふさわしいあり方。皆さんにとってそれはどのような生き方を指しているでしょうか。私たちが取り組む課題とは、私たちの生き方がキリストの福音にふさわしいものとなっているだろうか、という問いにあります。そしてそれは私たちの「動機」を問うものでもあります。あなたがキリストを救い主として信じたときに、自分を中心とする罪から解放され、キリストにあるものとなっている、その宣言こそが福音のことばです。しかし、私たちはその福音の中心からずれてしまう者たちです。ですからパウロは、キリストの姿をあなたがたのうちにはっきりと描くようにと勧めています。

2. キリスト讃歌
 キリスト・イエスにあるものこそ、このような考えを持つべきであるとパウロは言います。キリストを中心とするときに、私たちに自分の力や知恵では得ることのできないことが与えられます。イエス・キリストにあるものたちが、常に思うべき私たちの主の姿がここで歌われています。それが「キリスト讃歌」です。この詩には明らかな対比があります。その対比は「キリストは神の御姿である方なのに、仕える者の姿をとった」ということです。神と等しい方が、そのことに固執されないで、つまりそれを捨てられました。ここにある賛美の言葉の一つは、キリストがご自分の立場を捨てられたということです。さらに自分を無にし、人間と同じところに降られたということ。十字架の死にまでも降っていたその姿。この詩を讃美するときに、彼の心は震えたことでしょう。

3. キリストの謙遜
 なぜ神である方が、私たちのところに来られたのでしょうか。キリストの姿に現されたのは、神の愛のもっとも具体的なあらわれでした。キリストがその力を一度でも自分のために行使したことがあったでしょうか。すべては父なる神のため、そして私たちのためでした。このことはいったい誰のためであったのか。これが重要かつ重大なポイントです。ただこれを、キリストの高潔な生涯であるとしては意味がありません。それはまさに「この私」のためなのです。私たちがイエス・キリストを仰ぎ見るときに見出すのは、神は私のために大いなる犠牲を払われる方であるということです。つまりそれこそが神の愛なのです。私たちのいのちの原動力はここに見出されるのです。

投稿者 mb-church : 10:27 | コメント (0) | トラックバック

2009/9/27礼拝メッセージ

2009年9月27日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ2:1~5
「キリスト者の心構え」

1. 「こういうわけですから…」
 直前の箇所にはこうありました。「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい」という言葉がそこにはあります。それはただ倫理的、道徳的に正しい生活を指しているのではありません。ただ十字架のキリストによって罪許され、神の民となったものとしてふさわしいあり方、そのことをパウロは私たちに訴えかけたのでした。パウロはさらに教会の現状に踏み込んでいきます。ここは短いフレーズが連続して記されています。「もし、キリストにある励ましが、もし、愛の慰めが、もし、御霊の交わりが、もし、愛情とあわれみが、あなたにあるのなら・・・」キリストの福音を私たちが知るときに、励ましと慰めにあふれた神との交わりを経験することになるでしょう。

2. パウロの喜び
 パウロは続けます。「私の喜びが満たされるように・・・」と。パウロは「神の喜びが満たされるように」とは言いませんでした。彼の喜びは自分を満足させるということにはありませんでした。彼の喜びは、教会が神の前に正しく、キリスの福音にふさわしく歩むことにあります。彼の喜びは、自己中心や虚栄にあったわけではありません。しかし、パウロに敵するものたちは「神の喜びが満たされるように」と言いながら、その実体は自らが賞賛されることを喜びとするというむなしいあり方でした。そのような言葉や表面的には正しそうなあり方をパウロは否定します。

3. 教会の一致
 そしてパウロは教会に一致を勧めます。長く教会の課題となっている事柄です。一致を別の言葉にするならば「平和」という言葉になるでしょう。これは教会だけではなく、すべての人にとっての重要な課題です。パウロは言います。「あなたがたは同じことを思い、同じ愛を持ち、心を合わせて一つのことを思うために」と。平和の土台をどこに置くかが私たちの問題です。どちらかの側にその土台を置くのではありません。パウロが指し示したのは「イエス・キリスト」でした。パウロは、キリストにあるクリスチャンの態度をこのように記しています。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりも優れた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」すばらしい在り方です。私たちの弱さに根拠を置くのではなく、キリストに土台を置くときに、私たちの間に一致が与えられるのです。

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