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2009年09月29日

2009/9/20礼拝メッセージ

2009年9月20日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:27~30
「福音にふさわしく生きる」

1. 苦しみの意味
 私たちは、苦しみの意味がどこにあるのか問うものです。なぜ私がこのような苦しみを負わなくてはならないのか。私だけがなぜ?私たちはそのことに何とか説明をつけようと思うものです。しかし多くの説明は一時的なものです。神のことばである聖書は、表面的な回避方法を与えるものではありません。

2. パウロの苦しみ
 なぜパウロは投獄されているのでしょうか。なぜピリピの教会も苦境に立たされているのでしょうか。周囲の人はこのように言うでしょう。「律法を守り、正しい行いをすることによってのみその苦境から救われる。」しかし、パウロはここではっきりと語ります。「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」ここでパウロがすすめているのは、ただ正しい生活をすることではありません。キリストの福音にふさわしい生き方が勧められているのです。

3. キリストの福音にふさわしい生き方
 福音にふさわしい生き方とはいったい何でしょうか。ただイエス・キリストのみを主と告白することによって、何事にもぶれずに立つということ。さらに、一つ心において主イエスを信じる信仰のために闘っていること。「信仰による救い」この点において、私たちは簡単にゆりうごかされます。何か自分が正しいことをすることが救いにつながる。何か自分が間違っているから、救いが遠くなっていく・・・そうではないのです。私たちの目の前に起こる一つ一つの出来事は、すべて神と無関係なことではありません。私たちは苦難や試練において、神への信仰と救い主キリストへの信頼が第一に問われるのです。神が私たちに求めているのは「信仰」です。あなたは何を神とし、何に信頼し、何に希望を置くのか、そのことが私たちには問われています。

4. キリストのための苦しみ
 パウロは、なぜ自分が苦しみを負っているのか、そのことを知っていました。キリストの十字架の不思議はここにあります。あなたの生きる際の苦しみや試練は、ただの苦難ではもはやありません。「賜った」という言葉は、恵みとして与えられたという言葉です。パウロは、キリストの苦しみが、恵みとして与えられているのだと語ります。あなたの今受けている試練は苦しみは、神にあって意味のあるものなのです。

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2009/9/13礼拝メッセージ

2009年9月13日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:20~26
「生きるにも死ぬにも」

1. 「私にとって生きることはキリスト、死ぬことも益です。」
 パウロは、ここで生きることと死ぬことを天秤にかけているかのようです。この手紙を読み進めてくると、パウロのもどかしさも同時に伝わってきます。自由にならない状況や耳に入ってくる教会を取り巻く不穏な情報がありました。このようなすっきりとしない状況がパウロを取り巻いていました。なぜパウロはこの手紙を書いたのでしょうか。彼の執筆の動機は、教会が誤った立ち位置ではなく、キリストにある立つべき場所にしっかりと立って欲しいという思いでした。

2. 「死ぬことも益である」
 パウロはここで自らのいのちは「キリスト」であると言っています。そして、さらに彼はこのように言い表します。「だから死ぬことも益であると。」ここでパウロが触れている「死」は、たとえもし死ぬことがこの先にあったとしても、ということです。パウロはこうも言います。「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。」片方では、いのちが続くのであれば、それはそれで豊かな実を結ぶことになる・・・しかし、もう片方の死という状況であったとしても、それはむしろ自分にとっては、世を去ってキリストとともにいることになる、ゆえにそれはさらにすばらしいことである・・・つまりパウロは「どちらでも大丈夫なんだ」と言っているのです。私たちの最も大事なアイデンティティはすでに神とともにあるとパウロは捉えています。神から喜びと平安が与えられ続ける、それがクリスチャンに与えられた特権の一つなのです。

3. 「今を生きる」
 生きること、死ぬこと、そのどちらでも大丈夫なのだと語った後に、パウロが言うのは、だからこそ、今与えられているいのちを精一杯生きる、ということです。さらに付け加えるとするならば、誰のために生きるのか、ということです。ここで、パウロが求めているのは自分自身の利益ではありません。彼が求めているのは、教会にとってよいこととは何かでした。ただ自らの利益のために、彼は生きていたのではありません。ただキリストのためであり、その具体的なあらわれが「あなたがたのため」でした。「生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられること」に彼は立っていたのです。この言葉に私たちは聞き続け、それぞれの生き方の立ち位置を、確認し、修正してまいりましょう。

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2009/9/6礼拝メッセージ

2009年9月6日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:18~20
「どんなときであっても」

1. いかなる時であっても
 パウロが、どのような状況においても喜びを得ていた、その秘訣を私たちはともにこの手紙から学んでいます。パウロの喜びの第一番目の理由は、自分がたとい牢獄につながれていたとしても、キリストが宣べ伝えられている、そこに目を留めているからだ、と彼は言いました。それはいつでも、どこにおいても、神の大いなる御手を認めていた姿です。しかし、このパウロのことばを聴いて、おそらくこう言う人がいたことでしょう。「パウロは強がりをいっているに過ぎない。」

2. 喜びの源泉
 パウロは、そのような人がいることをも知っていました。パウロはここで、さらに自らの喜びがどこから来るのかを明らかにしていきます。「というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。」「このこと」とは何を指しているのでしょうか。それはパウロの身に起こったことや困難です。それが私の救いとなる・・・?ある人は「解放される」ということだとする人もいます。問題はパウロにとっての救いとは何か?ということになります。根本的なことが問われる言葉です。皆さんが問われたら何と答えるでしょうか?現実的な問題が解決すること、そう思うことが悪いのではありません。しかし、ここでパウロは目の前にある困難から救われることだけを「救い」と言っているのではありません。

3. パウロの救い
 パウロはここでこのように語ります。「生きるにも死ぬにも」つまりどんなときでも、どんな状態にあったとしても、私の身によってキリストがあがめられること、これこそが彼の願いなのです。キリストがあがめられる時、それはいつでしょうか?それは彼の行った奇跡ゆえではありません。それはキリストの十字架の犠牲のゆえです。十字架の死と復活、それは私たちの根源的な罪の赦しと、私たちが抱えた死という絶望をひっくり返す逆転する力です。どんなに目の前に困難な出来事が起きようとも、それがたとえ死ということであったとしても、キリストがその死に打ち勝ったように、やがては完全な救いへと導かれる・・・だからこそ、パウロは、ここでこう語るのです。「このことが私の救いとなることを私は知っている」と。そして、この信仰は、人の努力や知恵によって得られるのではありません。私たちは私たちのうちに働く聖霊の助けによって、キリストにある希望が与えられ続けていくのです。

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2009年09月09日

2009/8/23礼拝メッセージ

2009年8月16日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:12~18
「喜びの秘訣」

1. 喜びの人
 この箇所のテーマは「どのような状況においても喜び続ける秘訣」です。聖書にはいかなる状況においても、喜ぶことのできた人が登場します。その代表者はパウロです。この箇所でパウロは言います。「私は喜んでいる。いや、これからも喜ぶだろう。」では、パウロはこのときに何を喜んでいたのでしょうか?

2. 獄中のパウロ
 この手紙を書いているパウロの今は獄中です。これはパウロ自身も、ピリピの教会の人々も喜べる状況ではありませんでした。この箇所には、パウロの周囲にいた人々の反応が記されています。その反応は二つでした。一方の人々は、ねたみや争いが心を支配していました。また一方は善意、愛を動機としてキリストを宣べ伝える人々がいたと言っています。パウロはこのような人々がいることを牢獄の中で耳にしました。しかし、パウロはこんな境遇の時にあっても、別のものを見ていました。それはイエス・キリストが宣べ伝えられているという現実です。彼の力を超えたところで、神のことばは確かに語られていました。その現実をパウロは見ていたのです。

3. ピリピでのパウロ
 ピリピの教会がスタートする時のきっかけの一つは、このパウロの投獄でした。ピリピの教会はいわば牢獄からはじまったのです。パウロもピリピの教会の人々も、人の考えを超えた神の計画が、一見困難に見える状況のうちにもあることを知っていました。パウロは投獄されていたときに、牢屋の中で祈り、賛美をしていました。彼はこの状況下で、神を礼拝していたのです。この礼拝者としてのあり方が、パウロの人格を形成していきました。

4. 喜び続ける秘訣
 一つは、「主のみ手にゆだねる」ということです。二つ目に、何を一番にしているのかを問う、ということです。三つ目に、「キリストのゆえに」という信仰です。パウロはすべてのことを「キリストのゆえに」受け止めています。今、目の前に起こっていることすべては、「キリストのゆえ、主にあって」のことでした。目の前にある状況は、ただの不幸ではない、すべてがキリストのゆえのものであるとパウロは受け止めていました。この態度は、一日にして完成したものではありません。日々の神様との交わり、そして神礼拝こそが喜び続ける秘訣なのです。

[考えるために]
 パウロの在り方は、どのような歩みの中で育まれたのでしょうか?

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2009/8/16礼拝メッセージ

2009年8月16日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:9~11
「教会のための祈り」

1. 教会のための祈り
 この箇所はパウロが祈った「教会のための祈り」です。それは主イエスが私たちのために祈った祈りと重なるものです。パウロは二つのことを神に祈り請い願います。一つ目は愛を求める祈りです。そして、二つ目は、愛に根ざした神の聖さ(義)を求める祈りです。

2. 愛を求める祈り
 「あなたがたの愛」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。とかく愛は感情の問題であると捉える傾向があります。現代においてはヒューマニズムが強い影響力を持っています。しかし、パウロが祈りに覚えている「あなたがたの愛」はそのような愛ではありません。これは「アガペー」のことです。アガペーの愛は人間の側から自然に生まれるものではありません。アガペーの愛は、見返りを求めない無償の愛、「神の愛」のことです。「あなたがたの愛」とは、あなたがたに神が与えた愛、という意味です。まさにそれはキリストを通して示された無償の愛そのものです。さらにパウロは祈ります。愛が豊かになるということは、実は真の知識が問題であると。聖書における「知識」の源泉はどこにあるでしょうか。それは神のことばです。真の知識、それは聖書によって示された主イエス・キリストのことです。私たちは愛について、神抜き、イエス抜き、聖書抜きにしたときに、どれほどの知恵を手に入れることができるのでしょうか。神が私たちを形作り、キリストを私たちに下さった愛によって私たちを愛している・・・そこから私たちは出発しなくてはならないのです。

3. 聖さを求める祈り
 さらにパウロは祈ります。義の実に満たされるように。義の実とは何でしょうか。「義」これは神の聖さや神の正しさ、よきこと、良き行い、それらすべてに関わる言葉です。神の義はどのように示されたのでしょうか。それは愛と同様です。やはりイエス・キリストその人です。パウロは、教会がまさにキリストご自身の生き方、ことば、あり方をあらわすものとなるようにと祈っています。義の実に満たされるとは、教会がキリストの姿をあらわすものとなることに他なりません。そしてそれこそが、教会に、そして私たちに与えられている使命でもあるでしょう。とてもハードルの高い、また目標の高い使命です。私たちはできるかできないかではなく、まず神の義を祈り願うことが求められているのです。私たちも願い、互いに祈りあってまいりましょう。

[考えるために]
 パウロは何を神に祈り願ったのでしょうか?

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2009/8/16礼拝メッセージ

2009年8月16日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:9~11
「教会のための祈り」

1. 教会のための祈り
 この箇所はパウロが祈った「教会のための祈り」です。それは主イエスが私たちのために祈った祈りと重なるものです。パウロは二つのことを神に祈り請い願います。一つ目は愛を求める祈りです。そして、二つ目は、愛に根ざした神の聖さ(義)を求める祈りです。

2. 愛を求める祈り
 「あなたがたの愛」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。とかく愛は感情の問題であると捉える傾向があります。現代においてはヒューマニズムが強い影響力を持っています。しかし、パウロが祈りに覚えている「あなたがたの愛」はそのような愛ではありません。これは「アガペー」のことです。アガペーの愛は人間の側から自然に生まれるものではありません。アガペーの愛は、見返りを求めない無償の愛、「神の愛」のことです。「あなたがたの愛」とは、あなたがたに神が与えた愛、という意味です。まさにそれはキリストを通して示された無償の愛そのものです。さらにパウロは祈ります。愛が豊かになるということは、実は真の知識が問題であると。聖書における「知識」の源泉はどこにあるでしょうか。それは神のことばです。真の知識、それは聖書によって示された主イエス・キリストのことです。私たちは愛について、神抜き、イエス抜き、聖書抜きにしたときに、どれほどの知恵を手に入れることができるのでしょうか。神が私たちを形作り、キリストを私たちに下さった愛によって私たちを愛している・・・そこから私たちは出発しなくてはならないのです。

3. 聖さを求める祈り
 さらにパウロは祈ります。義の実に満たされるように。義の実とは何でしょうか。「義」これは神の聖さや神の正しさ、よきこと、良き行い、それらすべてに関わる言葉です。神の義はどのように示されたのでしょうか。それは愛と同様です。やはりイエス・キリストその人です。パウロは、教会がまさにキリストご自身の生き方、ことば、あり方をあらわすものとなるようにと祈っています。義の実に満たされるとは、教会がキリストの姿をあらわすものとなることに他なりません。そしてそれこそが、教会に、そして私たちに与えられている使命でもあるでしょう。とてもハードルの高い、また目標の高い使命です。私たちはできるかできないかではなく、まず神の義を祈り願うことが求められているのです。私たちも願い、互いに祈りあってまいりましょう。

[考えるために]
 パウロは何を神に祈り願ったのでしょうか?

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2009/8/16礼拝メッセージ

2009年8月16日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:9~11
「教会のための祈り」

1. 教会のための祈り
 この箇所はパウロが祈った「教会のための祈り」です。それは主イエスが私たちのために祈った祈りと重なるものです。パウロは二つのことを神に祈り請い願います。一つ目は愛を求める祈りです。そして、二つ目は、愛に根ざした神の聖さ(義)を求める祈りです。

2. 愛を求める祈り
 「あなたがたの愛」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。とかく愛は感情の問題であると捉える傾向があります。現代においてはヒューマニズムが強い影響力を持っています。しかし、パウロが祈りに覚えている「あなたがたの愛」はそのような愛ではありません。これは「アガペー」のことです。アガペーの愛は人間の側から自然に生まれるものではありません。アガペーの愛は、見返りを求めない無償の愛、「神の愛」のことです。「あなたがたの愛」とは、あなたがたに神が与えた愛、という意味です。まさにそれはキリストを通して示された無償の愛そのものです。さらにパウロは祈ります。愛が豊かになるということは、実は真の知識が問題であると。聖書における「知識」の源泉はどこにあるでしょうか。それは神のことばです。真の知識、それは聖書によって示された主イエス・キリストのことです。私たちは愛について、神抜き、イエス抜き、聖書抜きにしたときに、どれほどの知恵を手に入れることができるのでしょうか。神が私たちを形作り、キリストを私たちに下さった愛によって私たちを愛している・・・そこから私たちは出発しなくてはならないのです。

3. 聖さを求める祈り
 さらにパウロは祈ります。義の実に満たされるように。義の実とは何でしょうか。「義」これは神の聖さや神の正しさ、よきこと、良き行い、それらすべてに関わる言葉です。神の義はどのように示されたのでしょうか。それは愛と同様です。やはりイエス・キリストその人です。パウロは、教会がまさにキリストご自身の生き方、ことば、あり方をあらわすものとなるようにと祈っています。義の実に満たされるとは、教会がキリストの姿をあらわすものとなることに他なりません。そしてそれこそが、教会に、そして私たちに与えられている使命でもあるでしょう。とてもハードルの高い、また目標の高い使命です。私たちはできるかできないかではなく、まず神の義を祈り願うことが求められているのです。私たちも願い、互いに祈りあってまいりましょう。

[考えるために]
 パウロは何を神に祈り願ったのでしょうか?

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2009/8/16礼拝メッセージ

2009年8月16日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:9~11
「教会のための祈り」

1. 教会のための祈り
 この箇所はパウロが祈った「教会のための祈り」です。それは主イエスが私たちのために祈った祈りと重なるものです。パウロは二つのことを神に祈り請い願います。一つ目は愛を求める祈りです。そして、二つ目は、愛に根ざした神の聖さ(義)を求める祈りです。

2. 愛を求める祈り
 「あなたがたの愛」と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。とかく愛は感情の問題であると捉える傾向があります。現代においてはヒューマニズムが強い影響力を持っています。しかし、パウロが祈りに覚えている「あなたがたの愛」はそのような愛ではありません。これは「アガペー」のことです。アガペーの愛は人間の側から自然に生まれるものではありません。アガペーの愛は、見返りを求めない無償の愛、「神の愛」のことです。「あなたがたの愛」とは、あなたがたに神が与えた愛、という意味です。まさにそれはキリストを通して示された無償の愛そのものです。さらにパウロは祈ります。愛が豊かになるということは、実は真の知識が問題であると。聖書における「知識」の源泉はどこにあるでしょうか。それは神のことばです。真の知識、それは聖書によって示された主イエス・キリストのことです。私たちは愛について、神抜き、イエス抜き、聖書抜きにしたときに、どれほどの知恵を手に入れることができるのでしょうか。神が私たちを形作り、キリストを私たちに下さった愛によって私たちを愛している・・・そこから私たちは出発しなくてはならないのです。

3. 聖さを求める祈り
 さらにパウロは祈ります。義の実に満たされるように。義の実とは何でしょうか。「義」これは神の聖さや神の正しさ、よきこと、良き行い、それらすべてに関わる言葉です。神の義はどのように示されたのでしょうか。それは愛と同様です。やはりイエス・キリストその人です。パウロは、教会がまさにキリストご自身の生き方、ことば、あり方をあらわすものとなるようにと祈っています。義の実に満たされるとは、教会がキリストの姿をあらわすものとなることに他なりません。そしてそれこそが、教会に、そして私たちに与えられている使命でもあるでしょう。とてもハードルの高い、また目標の高い使命です。私たちはできるかできないかではなく、まず神の義を祈り願うことが求められているのです。私たちも願い、互いに祈りあってまいりましょう。

[考えるために]
 パウロは何を神に祈り願ったのでしょうか?

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