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2009年08月09日

2009/8/9礼拝メッセージ

2009年8月9日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:6~8
「完成させてくださる方」

1. イエスによる完成
 ピリピ人への手紙は「喜び」の手紙と呼ばれています。何が喜びなのでしょうか。それは主イエス・キリストを信じているがゆえの喜び、です。ともに同じ希望を持ち、神へと、そして救いの完成へと歩みを進めていることへの喜びです。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日がくるまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」良い働きをはじめられた方は誰でしょうか。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)良い働きを始められた方はイエスです。イエス・キリストが、ご自身の日が来るまでに、それを完成してくださるというのです。良い働き(福音のコイノニア)を終わりの日まで、キリストご自身が完成し続けてくださる・・・何と力強い言葉なのでしょうか。

2. キリストにある信仰
 信仰は何も難しいことではありません。聖書は救いに関して一人の方を示し続けています。イエス・キリストその方です。キリストはご自身のことをこうご自身のことばの数々をならべてみるとそれがよく分かります。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」なぜイエスなのでしょうか。大切なことは、この方が、私たちの生涯も、また教会の歩みも、そのすべてを完成し続けてくださると信じることです。

3. パウロの根拠
 これまでのパウロの歩みに関して二つのことに触れています。投獄されているときと、福音を弁明し立証しているときです。そのときも、パウロとともに恵みあずかった人々が、あなたがたピリピの教会の人々であるとパウロは証言しています。ここにある恵みとは何でしょうか?「恵み」それは、主イエスを信じともに歩みだすことです。それゆえに、どのような困難な中に置かれたとしても、そこに主の守りとまたみわざを見出すことのできる者たちとなることでもあります。その恵みにパウロもまたピリピの教会も預かってきました。そのところどころにおいて、必ずキリストの福音の喜びが、完成に完成を重ねていくことになります。主イエスとともに歩みを進めるうちに、ともにおられる方の確かさを経験していくことになるのです。

投稿者 mb-church : 18:04 | コメント (0) | トラックバック

2009/8/2礼拝メッセージ

2009年8月2日礼拝のメッセージ要約です。
ピリピ1:1~6
「喜びの手紙」

1. 獄中書簡
 この手紙は獄中書簡と呼ばれています。この手紙はパウロが投獄されているときに記したものであるからです。この手紙を書くときに、パウロはピリピ教会の人々の顔を思い浮かべながら一字一字を記したことでしょう。実にその内容は、教会への愛にあふれていました。教会を建てあげるためのことばが、この手紙にはあふれています。時に励まし、時に叱咤し、そして何よりも、イエス・キリストをその都度思い起こさせる・・・。パウロは、この手紙の冒頭でこのように記しています。「私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り・・・」ここに祈る牧会者の姿があります。

2. 感謝の理由
 パウロは言います。ピリピ教会のことを思い出すたびに神に感謝をし、そして、教会のために祈るごとに、喜びとともに祈ることができる、と。その理由が5節に記されています。「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来た」からだとパウロは言います。つまり、あなたがたのことを思うたびに神に感謝し、祈るごとに喜びを持つことができるのは、ピリピの教会が、最初の日から今に至るまで、福音を広めることにあずかって来たからだと言うのです。

3. 福音に預かる人々
 ここにはコイノニアという言葉が用いられています。福音のコイノニア。これが教会の感謝であり喜びの源泉です。ピリピの教会の始めの日に目を向けるとこのことがよく分かります。使徒の働き16:11~40にピリピ教会の開拓の様子が記録されています。最初の日にルデヤという女性が救われます。ここには、主が彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた、とあります。そして彼女も、その家族もバプテスマを受けることになりました。さらにルデヤは自分の家をパウロたちに提供します。この教会は一人の女性から始まりました。最初の日から福音が分かち合われました。家をささげ、自らのできることをルデヤはささげました。教会はまさにコイノニアによって始まったのです。コイノニア、それは第一に福音が分かち合われることです。さらには、福音をさらに他の人へ分かち合うことへとつながります。そして、福音のために持てるものをささげることへと前進していくのです。

[考えるために]
 福音のコイノニアとはどのようなことでしょうか?

投稿者 mb-church : 18:01 | コメント (0) | トラックバック

2009/7/26礼拝メッセージ

2009年7月26日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ15:22~33
「上向きの信仰」

1. 教会の中にある緊張関係
 パウロは異邦人宣教にその身を投じました。当時の教会は難しい問題を抱えていました。それはエルサレム教会を中心としたユダヤ主義に立つクリスチャンと、小アジアや地中海沿岸を中心とした異邦人社会に誕生した教会のクリスチャンたちとの間にあった緊張関係でした。その緊張関係の最前線にいたのがパウロでした。パウロは、全世界の人々が神の民となり、ともに教会において神を礼拝するということこそ、神が望まれてきたことであると確信していました。

2. エルサレムへ上ること
 そのような緊張がある中、パウロはエルサレムへと上ろうとします。周囲の人々はパウロを止めました。なぜならパウロがエルサレムに上れば、ユダヤ主義者との間のトラブルに巻き込まれることは明らかであったからです。しかし、パウロは自分の身がたとえ危険にさらされようとも、教会の一致のためにエルサレムへと上っていく決断をしました。さらにパウロはその先のことを見ています。もしパウロがエルサレム教会において一致を見ることができたならば、今度は新たな宣教地へと赴く計画を持っているというのです。パウロの周囲の人々は今の状況に対して悲観的に見ていました。しかし、パウロはそのようには考えていません。ここに「ささげる人」パウロの信仰のあり方が示されています。「ささげること」に関して、神はそのことを必ず成し遂げてくださる、神が悪いようには決してなさらない、その確信がパウロにはあるのです。

3. 祈りの要請
 そして、パウロはローマのクリスチャンたちに祈りを要請します。先の見えない中で、ローマの教会に「ともに祈ってください」と願います。パウロは自らの働きは、すべて教会の働きなのだと考えていました。それぞれの生き方を通して、仕事を通して、人に仕え、また社会に仕え、教会に仕え、何よりも神に仕える・・・そのことすべてが教会の働きなのです。それは一人ではなすことができないものです。だからパウロはここで教会に祈りを要請するのです。しかし、この祈りの課題は、その後すべてが聞かれたわけではありませんでした。パウロはローマに到着します。しかし囚人としてでした。祈りがすべてが聞かれたわけではありません。しかし、これはすべてを「良きこと」へと神が導いてくださった結果なのです。私たちの思いをはるかに超える神のみわざがなされるという確信。これこそ信仰者だけが得ることのできるものなのです。

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2009/7/19礼拝メッセージ

2009年7月19日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ15:7~13
「キリストの教会を信ず」

1. ささげるということ
 ローマ12章からここまで教会への勧告が多く記されていました。キリストによって贖われ、義とされた私たちが、どのように自らをささげていくのか、このことが大きなテーマとなっていました。これらのことは私たち教会に与えられた道しるべともなるでしょう。そして今日の箇所には、パウロ自身の「ささげるものの姿勢」が記されています。

2. 教会の主を信じること
 パウロは「確信している」と言います。この手紙を読んでいる教会が、善意と知恵とを持って、互いに戒め合えることを信じている、そうパウロは記します。これは単に人を信じているという言葉ではありません。教会もまた多くの課題を抱えています。しかし、教会はキリストのもの、神の宮、聖徒の交わりです。パウロは「キリストの教会」を信じています。聖徒の交わりに働かれる主を信じているのです。教会もまたこの世の様々な問題を抱えます。しかし、まず私たちが信じるのは、人や目に見える支えではなく、教会の主「キリスト」なのです。

3. パウロの経験
 パウロはこの手紙を送るにあたって、自分が「異邦人を導くもの」であると証しています。そしてパウロは「私はあなたがたにもう一度思い起こして欲しい」と言っています。パウロはこの手紙を通して、教会の主はキリストであり、教会は聖霊によって導かれ、聖霊によって悟り、そして教会は神の御前に傷のないものとして完成するのだと、いうことを伝えようとしています。パウロはそのために大胆に、また誰も通ったことのない道を歩んできました。そのパウロの働きや成果、それらはすべてキリストのものであり、聖霊の力によって成し遂げたものであると彼は書き送っています。何ももないところへと彼は歩みを進めて行きました。ただひたすら、自分に与えられた働きを、キリストのゆえに成していったのです。

4. ささげるところに
 パウロが自らのささげる歩みに見出しているのは、キリストのことば、わざ、しるし、不思議、そして聖霊の力です。パウロは徹底的に、キリストを通して、すべての物事をとらえようとしています。キリストの神に仕えた姿、人に仕えた姿、みことばに仕えた姿。それがパウロの原動力であり、また教会の力です。神が私たち主の民をどのように扱ってくださるのか、そのことを思い起こさせていただきましょう。

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2009/7/12礼拝メッセージ

2009年7月12日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ15:7~13
「キリストにある望みの神」

1. 多様性
 「互いに受け入れること」これは私たちにとって、とてもハードルの高いことです。初代教会の課題は、現在の私たちの課題でもあります。最初は異邦人が救われるということに対して、ユダヤ人は不安と同時に喜びを持っていたことでしょう。世界中の人々が、真の神の前にひれふす時が来たというすばらしい知らせに大きな喜びがあったことでしょう。しかし、異邦人が教会に増えてくると除々に変化が起こります。最初は「偶像に備えて汚れた物は避けるように」と言い伝えられていましたが、その取り決めも現実的ではなくなっていきました。教会はその現実に対し、悩み、祈り、そして聖書に答えを見出そうとしたのです。その答えを的確に導いた人がパウロでした。彼の結論は「偶像に捧げられた肉は食べてもよい」というものでした。しかし、問題は「納得」ではなく、感情的なレベルにありました。

2. キリストにある教会
 聖書によって正しい神学は第一に議論されるべきことです。パウロもそのことを踏まえた上で話を進めています。しかし、感情的な衝突は非常に根深いものです。パウロは繰り返しキリストの姿を指し示します。神のひとり子であるキリストが罪ある私たちを受け入れてくださったその姿。神は本来受け入れることができない私たちをキリストのゆえに受け入れてくださっています。「キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者のしもべとなられました。」割礼のある者とはユダヤ人のことです。キリストはユダヤ人としてこられ、そして十字架の死にまで従われました。それはユダヤ人だけのためではありません。それは異邦人も含めたすべての人のためです。キリストは、ユダヤ人のみならず、すべての人のために、ご自身をささげられました。この真理に立たない限り、教会の中の不一致や、感情的な衝突はおさめることができません。

3. 望みの神
 教会は「キリスト中心」です。キリストこそが基準であり、その中心です。私たちはキリストにあるときに、たとい痛みや苦しみがあろうとも、それが必ず希望と喜びへと変えられていくことを、キリストご自身の姿から教えられています。キリストにあるときに、私たちの神は確かに「望みの神」と信じることができるお方なのです。私たちも今キリストご自身の姿を、聖霊によって私たちの心にはっきりと映し出させていただきましょう。

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