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2009年07月08日

2009/7/5礼拝メッセージ

2009年7月5日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ15:1~6
「忍耐と励ましの神」

1. 力のある者
 「力のある者」への勧告が記されています。「力のある者」、これは肉を食べてよいと思っていた人のことです。その人々は主に「異邦人」が中心でした。その一方で「力のない人たち」とは、主にユダヤ人たちのことです。この箇所における力のある、ないということは、能力や意見の強さのことではありません。言い方をかえると、力のある者は、より新しい考えを持っている人、そして力のない者とは、これまでの考え方にとどまる人ということでしょう。このようなギャップは、今日の教会の中にもあるでしょう。最初は、自分の信仰から出ていることで、神様のためになると思っていたことが、気がつくと自分の正当性を主張し、自分が認められることが優先されている・・・そのようなことがあります。

2. 隣人を喜ばせる
 「私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」ここには「強い」「弱い」という区別はありません。「私たち」「互いに」と語られています。この文章を直訳するとこうなります。「私たちは互いに、良きことのため、建てあげのために、隣人を喜ばせるべきです。」互いを喜ばせるのは、良きことのため、そして建て上げのためなのです。これは決して個人的に良いことや、個々人の成長を指すことばではありません。むしろその逆です。キリストのからだなる教会の良きこと、建て上げ、キリストのからだ全体の成長をパウロは思っています。「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。」主なるキリストでさえ、ご自身を喜ばせることはしなかった。これ以上の勧告はありません。キリストは「強い者」でした。しかし、キリストは「弱い者」のために十字架にまで従われたのです。

3. パウロの祈り
 「どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」私たちはどうしても、自分の狭い思いや考え、自己満足という枠から自由にはなれないでいます。そこから飛び立つためには、私たちの力ではなく、神ご自身のみ力によらなくてはならないのです。だからパウロはここで神に祈ります。「忍耐」と「励まし」の神に、パウロは願うのです。神のまなざしは、ユダヤ人にも異邦人にも、そして私たちにも注がれているのです。

[考えるために]
 私たちは、自らの思いや満足という狭い枠にとどまっていないでしょうか。
 パウロの祈りを自らの祈りとさせていただきましょう。

投稿者 mb-church : 09:48 | コメント (0) | トラックバック

2009/6/28礼拝メッセージ

2009年6月28日礼拝のメッセージ要約です。
この日は吉澤慎也神学生の説教でした。
ピレモンへの手紙
「キリスト者になるということ」

1. はじめに
 もし自分がキリスト者にならなかったら、と考えてみる。自分にとって、キリスト者になるということは、どれほどの意味のある事柄だったか。ピレモンへの手紙に登場するオネシモは、クリスチャンになったことで、その人生が決定的に変えられた。

2. 内容
 1:この手紙はパウロによって書かれた。この時パウロはローマの獄中にいたと言われている。この手紙は、使徒職に訴えるような公のものではなく、個人的な私信であった。パウロが書いた手紙の中では、このピレモン書は異色。非常に短く、内容が非常に個人的である。この手紙が残された唯一のパウロによる個人的な私信。
 2:手紙の宛先はピレモン。この人はそれなりに裕福な人だったと考えられている。
 4-7:パウロはピレモンのことをとても良く思っている。ピレモンにとってパウロは自分を信仰へ導いてくれた先生だった。
 8-10:パウロはピレモンの愛に訴えてオネシモのことをお願いする。
 11-12:オネシモはピレモンの奴隷だったが、そこから逃げ出した。当時の奴隷制度はそこまでひどいものではなかった。その後、オネシモはパウロによって導かれてクリスチャンとなり、今はパウロと共にいる。パウロはオネシモをピレモンの所へ戻そうとしてこの手紙を書いた。今のオネシモは役に立つ者へと変えられ、パウロはオネシモを非常に評価している。
 13-20:パウロはピレモンにオネシモのことを積極的に迎え入れてほしいと訴える。もしオネシモが盗みを働いたのであれば、自分がそれを支払うとパウロは言う。パウロは二人の間の執り成し手として関わっている。
 21-22:人間臭い手紙だが、この手紙には確かに愛がある。ピレモンとオネシモは和解したであろうことを期待する。

3. おわりに
 オネシモの人生は、キリスト者になることで決定的に変えられた。私たちにとっても、キリスト者になるということは、大きな意味のあることだったと思う。それを今一度思い返して、確認し、感謝したい。

投稿者 mb-church : 09:45 | コメント (0) | トラックバック

2009/6/21礼拝メッセージ

2009年6月21日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ14:13~23
「しもべへの約束」

1. 飲み食いの問題
 今日の箇所の中心は、17節です。「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このように、キリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。」この箇所の背景には一つの問題がありました。それは「飲み食い」の問題です。これは律法に照らした時の様々な規定に関しての問題です。しかしパウロはこう言います。「神の国」というのは、そのような正しいあり方、正しい行いのことではなく、聖霊のうちにある「義と平和と喜び」なのだ、と。神の国、その支配や神のみこころは聖霊によってもたらされると言うのです。正しさと平和、喜びは神からもたらされるのです。

2. パウロの勧告
 この箇所で、パウロは特に信仰の強いと言われている人々に、信仰の弱いと言われている人々に配慮しなさいと勧告しています。しかし、それと同時にパウロははっきりと言います。「すべての物はきよい」と。ここで問題となるのは、どちらの側につくのかということです。大概は考え方が正しい方へ、信仰の強い人へと皆がなればよいと考えるかもしれません。しかしそうではありませんでした。ここでパウロが見出すのはもう一つの道です。パウロが向かうのは、キリストにある平和と教会を建てあげることでした。キリストにあるときに、私たちにとって乗り越えがたく見える壁が崩れ去り、そこに神の国が表されるというのです。

3. キリストにある信仰
 「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。」この「信仰」には「キリストにある」という言葉を補う必要があります。パウロはキリストにあって「すべてのものはきよい」ということを確信しています。それは物だけではなく、すべての人でもあります。何よりも、私たちは主のしもべなのです。主のしもべには、「神に喜ばれ、また人々にも認められる」という約束が与えられています。この言葉は、主のしもべに与えられた励ましの言葉なのです。

[考えるために]
 主のしもべに与えられた約束とはどのようなものでしょうか。

投稿者 mb-church : 09:42 | コメント (0) | トラックバック

2009/6/14礼拝メッセージ

2009年6月14日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ14:8~12
「主なるお方」

1. しもべである私たち
 「主のしもべ」それがクリスチャンのもう一つの呼び名です。なぜ私たちは「神」を、また「イエス・キリスト」を「主」と呼ぶのでしょう。聖書の神は、私たちの「主」であると聖書には繰り返し記されています。その主なる神は、私たちを作られ、私たちを導き、この世界の支配者であり、また所有者だとあります。神に聞き従うものとして、人間は作られたと聖書は語ります。その関係はただの主従を越えたものとしても教えられています。神は、私たちを愛し、また私たちを哀れみ、私たちを信頼し、私たちに期待をもかけておられる。そしてその主人を「神」としてあがめ、最大限の栄誉と最大限の賛辞と最大限の信頼を置く方として敬うのが、私たち「しもべ」なのです。

2. 主である神
 主である神は、キリストを通してご自身を明らかにされました。キリストは、すべての人の主となるために、死んで、また生きられたとあります。この言葉がキリストの十字架の死と復活を意味していることは明白です。この主人は、しもべである私たちのためにそのいのちをかけ、またさらには、私たちの最大の問題である死をも乗り越えてくださった、そのお方であるとこの箇所は証しています。私たちは、このまことの主を知るまでは、自分自身が自分の主(あるじ)でした。実のところ、私たちは、この世のしもべであったとも言えるでしょう。しかし、私たちは気がつかされます。「自分自身の主人は自分ではなかったのだ」ということに。

3. 主人の思いを自分のものとして
 パウロは、ここで一つの問題から、いったい誰があなたの主人であるのか、そのことに気がつくようにと、この手紙の筆を進めています。私たちはみな神のさばきの座に立つようになる・・・すべての人が、神の前に、まことの主人の前に立つときがくるというのです。いったい誰があなたの主人なのでしょうか。さらには私たちの主人はどのような考えを持っているのでしょうか。イエスも主人としもべのたとえ(ルカ19:12~)からこのことを教えています。大事なことは、しもべが主人の性質や性格をよく理解しているのか、ということです。私たちはキリストのしもべとして、どのような考え方をし、どのように物事を見るのでしょうか。主人であるイエスであったらどうお考えになるのか、このことをもう一度問い直してまいりましょう。

[考えるために]
 主なるキリストが何を望まれているのでしょうか。そのみ思いを思いましょう。

投稿者 mb-church : 09:39 | コメント (0) | トラックバック

2009/6/7礼拝メッセージ

2009年6月7日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ14:1~8
「キリストのしもべ」

1. 「信仰の弱い人」
 信仰に強い、弱いがあるのでしょうか。そのような比較ができるのでしょうか。ここで、問題になっているのは「食べ物のこと」です。それは、当時のローマの町に出回っていた肉の問題でした。それが偶像に一度ささげられているということで、食べるのを拒否したクリスチャンがいたのです。このことに関して、教会の中でも意見が二つに分かれていました。その二つの立場を指して、「信仰の強い人」と「弱い人」と言っているのです。

2. 教会の混乱
 このような悩みは、日本のクリスチャンたちも多く抱える問題でもあります。日本特有の文化や風習の中で、このような行為はやっていいんだろうか?それともいけないのだろうか?私たちは、自分たちの基準で、これは聖い、これは清くないと、分別しています。それに合わないものに対しては、攻撃的になってしまうものです。当時の教会の中にもこのような混乱がありました。パウロはここで「偽りなき愛」に生きる教会は、どのような判断をするべきか、その一つの見方を提示しています。パウロはこの二つの立場のどちらの味方でもありません。ここでパウロが見ているのは偽りなき愛によって一致する教会の姿です。

3. 神のしもべ
 パウロはここでどちらの人々も神のしもべであると捉えています。そして、そのしもべが立つのも倒れるのも、そのしもべの力量や知恵ではなく、その主人次第だというのです。しもべはどのように物事を判断するものたちでしょうか。パウロはここでこのように物事を整理しています。すべての動機は主のためであると。おそらく、この部分を読み聞いた人々は、もう一度自分たちのあり方を問われたことでしょう。自分の本当の動機はどこにあるのだろうか。主のためと言いながら、実は自らの正しさのためではなかったのか。そしてパウロは私たちに真のしもべの姿をこう言い表し、問いかけるのです。「ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」どんな状況や状態であろうとも、私たちは主なる神のものであり、しもべである。神はそのしもべを必ず立たせてくださるのです。もう一度主のしもべであることを確認してまいりましょう。

[考えるために]
 主は、そのしもべをどのように取り扱ってくださるのでしょうか。

投稿者 mb-church : 09:35 | コメント (0) | トラックバック