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2009年06月13日
2009/5/31礼拝メッセージ
2009年5月31日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ13:11~14
「キリストを着る」
1. 今という時
今はどのような時でしょうか?それは「教会の時代」です。教会の時代は、「救いが明らかになった時代」であり、「救いが広く伝えられる時代」であり、「救いが完成へと向かう時代」でもあります。教会はこの三つの点をすべて担うべく存在しています。今は救いが明らかになり、救いが伝えられ、そして救いが完成へと向かう時であるからこそ、あなたがたは、古い罪に縛られることをやめ、自分自身を、あなたがた自身を、神へとささげる生涯を送りなさいとパウロは勧めます。今は眠っている時ではなく、眠りから覚め起き上がるときだとパウロは語ります。なぜなら、今は救いが私たちにもっと近づいているからであり、救いの完成へと向かっているその時に私たちが置かれているからです。
2. 昼間らしい歩み
今は終わりの時です。しかし、恐れの時ではありません。今の時は救いの時です。夜はふけて、昼が近づいているときです。だから、私たちがその時にふさわしく生きることを神は望まれています。恐れによってではなく、今が救いの時であるからこそキリストにならうものとして生きるように勧められているのです。やみを脱ぎ捨て、光を着るように命じられています。このような中で、私たちが注目しなければならないのは、昼間らしい、正しい生き方へと向かう意志です。その意志を形づくるためにこのように勧められています。「主イエス・キリストを着なさい」と。
3. キリストを着るということ
「主イエス・キリストを着る」という言葉は、イエスを救い主とする信仰と、さらにバプテスマを受けることにより、キリストと一つとなったその状態を指しています。神にある正しい歩み、偽りなき愛を示すことは、私たちの力では到底なしえないものです。だからこそここで、「主イエス・キリストを着なさい」と語られています。キリストを着るというのは、単なるキリストのふりをすることを超えて、キリストがこの私のうちで生きてくださり、そしてキリストがこの私を変え続けてくださる、その現実が語られている言葉です。私たちではなく、すでにキリストが私のうちで生きてくださっている、その確信の上に私たちの歩みが支えられていくのです。
投稿者 mb-church : 13:17 | コメント (0) | トラックバック
2009/5/24礼拝メッセージ
2009年5月24日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ13:5~10
「神の与えた良心」
1. 神の与えた良心
私たちは神によって良きことを教えられます。私たちは神のことばによって、良きこととは何かを判断することができます。神を求め、神の良きことを求めるその思いを「良心」と言っていいでしょう。聖書における「良心」は、その人の中でも、とても価値の高いものであり、尊いものとして扱われています。パウロは非常に高い意識をもって「良心」という言葉を用いています。
2. 神の愛と聖さ
聖書において神の愛と聖さはとても大事な概念です。私たちが現実の社会においても、人間の持つすばらしい側面や高潔な生き方に触れるときに、神ご自身のすばらしさを知ることにもなります。教会では取り繕い、偽善的な態度をとる必要はありません。しかし、その逆に、自分たちがおろかで、罪深いことを強調し、いつまでも社会的にも未発達でいることも、聖書で語られているあり方では決してないでしょう。むしろ、神を信じた者たちは、神の愛や聖さを願い、また自らの生き方も日々神の前に悔い改めることが勧められています。このような良きことへとまっすぐに向かうときに、私たち自身が内面から整えられていきます。
3. むしろ愛し合うということ
パウロは言います。「誰に対しても、何の借りもあってはいけません。」そして続けてこう付け加えます。「ただし、互いに愛し合うことについては別です。」まるで借りを返すことと、愛し合うこととが同じようなこととして扱われています。互いに愛し合うということに関しては制限はいらない、ということになるでしょうか。しかし、ここで注意しなくてはならないのは「愛するだけでよい」と言ったのではないということです。神のみおしえ、律法は、愛するということによって動機付けられ、行われ、さらに完成すると語っているのであって、ただ愛するということを感情的に強調しているわけではありません。もし人間の持つ力だけを見ているならば、この言葉は何の実体も持たないものになることでしょう。しかし、パウロがここで見ているのは教会です。主イエスが愛を示され、愛を注がれた教会なのです。パウロはここで社会的な正しさを強調しています。神の愛がそうであるように、愛はただ感情的な問題では終わりません。私たちは、まず神との正しい関係に立ち、そして互いに愛し合う人との正しい関係へと進んでいくのです。