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2009年05月23日

2009/5/17礼拝メッセージ

2009年5月17日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ13:1~5
「神の権威のもとに」

1. 世の権威との関係
 今日の箇所は、これまでの教会の歴史の中でも問題ともなってきた箇所です。この箇所はナチスの時代に悪用された箇所でもあります。権威はすべて神によって立てられたもの。この箇所はよく権力側に引用されました。しかし、聖書は文脈を無視して読み用いてはならないものです。パウロは権力側がこの箇所を使用するために、この箇所を記したわけではありません。権力を持つものに対して聖書はこう語ります。神の前にあらゆる権威、権力はひざまずかなければならない。ここでも権力は神のしもべであると語られています。

2. 時代の生き方
 パウロがこの箇所を記した時は、ローマの支配する時代でした。パウロはここで何を教会に伝えたかったのでしょうか。神を信じる人々がその社会にあってどのような姿勢を保つべきか、そのことが扱われています。根底には「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい」という考えがあります。私たちは悪に対して悪で報いることを考えてしまうものです。力がほしい。自分に敵するものを打ち負かしたい!そのように私たちは思います。しかし聖書は言います。「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」ローマの皇帝でさえも神のしもべなのだ。だからこそ、私たちは彼らと同じ悪の力を持って対抗するのではなく、良い生き方を表すのです。

3. 誰の目にも
 パウロが主張しているのは、誰からも責められるようなことはしないように、ということです。なぜこのような生き方ができるのでしょうか。その理由は、この世界にある神と神の権威を見ていたからです。ですから、権威や国家への盲従をここで推奨しているわけではありません。誰からも責められることなく生きなさい。それは神がそこに働かれているからだとこの箇所は私たちに教えます。戦争の時代、多くの教会は国家に盲従しました。神にある正しさよりも、目の前の権力に従ったのです。「すべての人の目に正しいことをするように」とは、「すべての人の前で神にある正しいことをする」という言葉です。この正しさは、すべての人の基準ではなく、神にある正しさです。私たちがこの良きことを見失ってしまうのは、神と神のことばから離れてしまうからです。私たちは聖書を通し、神を礼拝することを通し、自分たちが神によって造られた被造物であり、神にある正しさがあることが示されるのです。

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2009/5/10礼拝メッセージ

2009年5月10日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ12:17~21
「すべての人と平和を保つ」

1. 目には目を
 「偽りのない愛」これがこの箇所の根底に流れているテーマです。私たちはそのことを、身近なところからはじめるよう勧められています。自分のすぐ近くにいる人に対して愛を持って仕えること。しかし、それが自分とは敵対する人や、受け入れがたい人となると話は異なります。とたんに実行し難いことになります。パウロはこう言います。誰に対してでも悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。ここにも私たちに示されている神の基準があります。この教えは、実はここで初めて語られたものではありません。聖書の時代このような教えがありました。「目には目を、歯には歯を。」しかし、イエスはその考えに対してこのように言っています。「悪いものに手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」なぜ、こうもまったく異なることを、イエスは言われたのでしょうか。

2. 身勝手な考え
 旧約聖書において「目には目を」と語られたのはどの人々にでしょうか。それは「イスラエルの民」でした。そこには本来、敵、味方は存在しないはずです。その内部の問題を正しく裁くために教えられたものが先ほどの教えなのです。しかし、それが外部との関係になったときにどうなるのでしょうか。当時の教会で言えば「迫害者」と言ってもいいでしょう。当然、人々は彼らに対して「目には目を」と考えるわけです。現代も同じです。いやそれ以上でしょう。

3. イエスの教え
 そのような中で、イエスは何をもって、神の聖さ、正しさを示すようにとおっしゃったのでしょうか?それが「愛」です。「右の頬を打たれれば、左の頬を差し出しなさい」そんなことは通常は考えないことです。なぜ、そのようなあり方ができるのでしょうか?私たちにもそれが可能なのでしょうか。聖書ははっきりと語ります。あなた自身ではなく、神が報いる、神が正しさを示される、というのです。ここにクリスチャンに与えられた使命を見出すことができます。私たちの目の前に困難な状況があり、難しい課題があります。しかしそれは決してただ途方にくれ、気落ちしてしまう現実ではありません。むしろ、そこにこそ神が働かれ、そこにこそ神のすばらしさが表されるところなのです。私たちがそこには神などいない、自分にとっては困難なことやささいなこと、そこに神は目を留めておられるのです。

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2009/5/3礼拝メッセージ

2009年5月3日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ人への手紙12:13~16
「神の価値基準」

1. キリスト教的生活の規範
 ここにある言葉には、生活の規範が記されていると教会の歴史では受け止めてきました。しかし,それはただ聖書に記された良い事柄であるから実践するということではありません。そうではなく,ここに記されたことが神の民の喜びとなることだからこそ勧められているのです。イエスは、私たちに神のみこころを宣べ伝えました。その動機は偽りなき愛からでした。この箇所もイエス・キリストの教えがベースにあることは間違いありません。

2. パウロの強調点
 ここでパウロは「誰に」ということに触れます。「聖徒」という言葉があります。これはともに教会の人々「私たち」を示しています。その一方で、ここに「敵対者」へのなすべきことが記されています。イエスの言葉にこのような言葉があります。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。」パウロの特徴として最初に受け入れやすいこと,実践しやすいことを述べ,その後に,特に強調すべき難しいと思われることを述べるという手法があるように思います。パウロはここで「聖徒の入用に協力し,もてなす」ことと、さらに「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい」と教えました。さらにパウロはこう続けます。「喜ぶ者と一緒に喜び,泣く者といっしょに泣きなさい。」この言葉をパウロは「互いに一つの心になる」ことと結び合わせています。ここでパウロが特に力を込めるのは「喜び」ではなく「悲しみ」の方です。ただ喜びをともにするのではなく、泣く者と一緒に泣くのです。これはただの悲しみではなく,罪ゆえの悲しみに触れている言葉です。

3. ひとつの心になる
 パウロはここでこう勧めます。「高ぶった思いを持たず」、「自分こそ知者だなどと思ってはいけない。」私たちが心をひとつにできない理由はどこにあるのでしょうか。それは,高ぶった思いがあるからです。自分は大丈夫であるとの思い、これも神を神としないところからくる人間の傲慢であるといえるでしょう。ここでパウロは、私たちが困難を覚える人々に対して,むしろ祝福を祈り,ともに泣き、同じ思いを持ち,へりくだりなさい,そう教えているのです。これらのことは、戒律や規定として聖書が私たちに示しているものではありません。そうではなく,これこそ神様のみ思いであることを示したものです。私たちはここに立ち続けさせていただきましょう。それは自らの思いや力ではなく,神の霊によってなのです。

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2009/4/26礼拝メッセージ

2009年4月26日礼拝のメッセージ要約です。
ローマ人への手紙12:9~12
「真実の愛」

1. 真実の愛
 「愛には偽りがあってはなりません。」力強い言葉です。この一文には主動詞がありません。「愛,偽善なきもの」という文の直後に,さらにこう記されます。「悪を憎み,よきことに結びつく」。これは神の「聖さ」について触れていると言ってもいいものでしょう。ここでパウロが触れている「愛」という言葉は,神に属するものであるという認識があります。真実の愛と聖さは,神の性質の重要な側面でもあります。「愛」は,神の聖さ,神ご自身とは切り離して考えてはならないのです。

2. 愛の実践
 ここでパウロは3つの言葉を上げます。「兄弟愛」「尊敬」「勤勉」です。この3つのことが,真実の愛につながることであると述べられています。どれをとっても何か目新しいものではありません。むしろ私たちにとって身近なことと言ってもいいでしょう。それは即,私たちの教会のことでもあり,私たちの家族のこと,そして,私たちの置かれた場所,職場や学校,家庭のことでもあるでしょう。真実な愛とは,まず私たちの身近なところから始めよう,そう言っているようでもあります。

3. 霊に燃え,主に仕える
 パウロは「霊に燃え,主に仕えなさい」と勧めます。この言葉こそ,先ほどの兄弟愛,尊敬,勤勉を集約した言葉です。聖霊によって燃やされ,そして主に仕える。聖霊によって燃やされるとは,ただの熱心さではありません。聖霊によって燃やされるというのは,私たちのうちにキリストの姿が映し出される,あの十字架の主の姿を見上げるということです。兄弟愛,尊敬,勤勉,それらの根底にあるのは,十字架にまで従われたキリストの姿です。その姿こそ,パウロが「兄弟愛」「謙遜」「勤勉」という言葉に見出しているものです。

4. 三つの言葉
 さらにここに三つの言葉をパウロは付け加えます。「望み」「艱難」「祈り」。私たちがキリストの愛に生きるときに不可欠なもの,それがこの三つのことです。この三つはどれもが深い関係にあります。私たちに与えられた状況のすべてが,キリストにある信仰において,すべてが希望へと,すべてが喜びへと変えられていく・・・。ここにある祈りとは何でしょうか。それは主の祈りからも教えられるのは,神の国を願い,神のみこころがなることを第一に祈る祈りです。私たちはこれらの言葉によって,自らの歩みを点検してまいりましょう。

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2009年05月13日

2009/4/19礼拝メッセージ

2009年4月19日の礼拝メッセージの要約です。
ローマ人への手紙12:3~8
「信仰という基準」

1. 私たちのからだをささげるということ
 私たちのからだを,神に受け入れられる,聖い,生きた供え物としてささげなさい,これこそ真の礼拝であると聖書は私たちに語ります(ローマ12:1,2)。「からだ」という言葉には,私たちの「すべて」という意味が込められています。「私たち自身」と言い換えてもいいでしょう。あなたは救い主イエスを信じており,あなたの罪をすでに神は赦している,その一人一人が,神に向かってどのように生きるのかということが12章以降に記されています。これは単なる命令ではありません。それは,私たちのあり方,考え方,物事の見方に触れる内容なのです。「ささげる」というのはその人の生き方なのです。

2. 慎み深い考えを持つということ
 パウロは教会の一人一人に語ります。「だれでも,思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや,むしろ,神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて,慎み深い考え方をしなさい。」ここで言われているのは「あなたが何者であるかをわきまえなさい」ということです。パウロは「信仰の量りに応じて」と言います。この言葉は「信仰という基準」であり,神が私たちに等しく分け与えてくださった信仰という規準に応じて,節度のある考えを持つということです。信仰という基準とは,まさに「キリストにある基準」に応じて,私たちが考えていくということを示しています。パウロがこの言葉を記した背景を考えると,思うべき限度を越えて思い上がる人間の時代を超えたおろかな姿が見えてくるようです。

3. 互いに器官であるということ
 パウロは教会にいる一人一人の姿を思いつつ語ります。教会は一つのからだであり,一人一人はその異なる器官であると言うのです。どれもが同じ働きはしないように,私たちもそれぞれに働きが与えられています。どれが重要で,どれかが不必要であるとは言いません。一人一人にはキリストの信仰がすでに等しく与えられているのです。「賜物」という言葉も一つの真理を伝えています。それは,あなたに与えられた能力も,意志も,機会も,それはすべて神があなたに与えたものであるということです。私たちは,自分が持っているものをどのように受け止め,扱っているでしょうか。何か特別な能力があるからささげるのではありません。すでに私たちには神の恵みが注がれ,それぞれに違う賜物が与えられています。私たちは自らをささげる生き方へと招かれているのです。

[考えるために]
 私たちは,自分に与えられているものをどのように受け止め,扱っているでしょうか。

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