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2009年04月22日
2009/4/12礼拝メッセージ
2009年4月12日イースター礼拝でのメッセージ要約です。
ローマ6:8~11
「キリストのいのち」
1. 復活祭
花が咲き,緑が芽吹くこの季節に,キリストが復活されたイースターを迎えたことに感謝しています。キリストがよみがえられたことを聖書は私たちに伝えています。キリストを信じる者には,神とともに歩む永遠のいのちが与えられることを神は約束しています。クリスチャンになることは何も難しいことではありません。イエス・キリストを信じればよいのです。ではイエス・キリストを信じるとはどういうことなのでしょうか。
2. イエスは神である
イエスを信じるとは,復活のイエスを信じるということです。「人間が復活した」このことを信じることはあり得ない話です。十字架刑に処せられ,完全に息を引き取った人が,その数日後に生き返るなんてことは信じがたい話です。しかし聖書は証言します。イエスは神の子であり,神と等しい方であると聖書は証言します。復活のイエスを信じるというのは,第一にイエスを神であると信じることです。
3. イエスは救い主である
復活のイエスを信じるというのは,イエスを救い主だと信じることでもあります。イエスが十字架にかかったのは,私たち人間のためだと聖書は語ります。神を神とせず,自分勝手に生きる人間のために,私たちの受ける罰の身代わりとして,イエスは十字架にかかりました。身代わりとなるというのは,身代わりになる人と同じような,いえそれ以上の価値がないとだめです。その身代わりとなられたのがイエスなのです。復活のイエスを信じるというのは,第二にイエスが私の罪のために身代わりとなってくださったことを信じることです。
4. イエスはいのちである
「キリストとともに生きることにもなると信じます。」これが復活のイエスを信じる第三番目のことです。イエスは復活を通して私たちにまったく新たないのちを与えてくださいました。そのいのちこそ,「復活のいのち」です。復活のイエスを信じる第三番目のことは,キリストとともに生きるものとなっているという信仰です。これは信じるというよりも,約束として受け止めるべきことです。このことは,復活のイエスを信じる信仰を持ち,そしてその信仰に歩み始めるときに,実感をともなって私たちに与えられるものです。私たちのいのちは,復活の主にある逆転の恵みのいのちとなるのです。
[考えるために]
復活のイエスを信じる信仰における三つのこととは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 19:26
2009/4/5礼拝メッセージ
2009年4月5日の礼拝メッセージの要約です。
ローマ12:1,2
「神のみおもいにたって」
1. 義とされたということ
12章は「そういうわけですから」という言葉ではじまります。11章までのことを踏まえてパウロは語ろうとしています。それをまとめると「イエス・キリストの十字架と,イエスを救い主と信じる信仰によって,あなたの罪は赦され,義とされた」となるでしょうか。しかし,「義とされた」ということが私たちにはよく分かりません。罪ある人間にとって「義とされた」ということは分かりづらいのです。その原因は,私たちの「神」理解の乏しさから来ているのでしょう。神理解が深まれば深まるほど,私たちが義とされた,という意味の重大さが明らかになってきます。その意味が分かると,12章1,2節の持つ意味が,豊かに私たちに迫ってくるようになるのです。
2. 強い勧め
パウロは神のあわれみのゆえに強く勧めます。今,あなたがキリストを信じて生きているのは,偶然ではなく,ただ神のあわれみによる・・・だからこそ,パウロは,私たちにこのように強く勧めます。「あなたがたのからだを,生ける,聖なる,神の喜ばれる供え物としてささげなさい。これがあなたがたの真の礼拝です。」「からだ」は単なる肉体のことをさしていません。私たちの「すべて」という意味です。なぜ,私たちが義とされたのでしょうか。それは,ただ単に私たち自身が救われるためだけではありません。それだけではなく,教会が神の栄光をあらわすものとなるために,あなたを救われたのです。
3. ささげなさい
問題は,神にささげるということが,具体的に何であるのかということでしょう。それを考える前に2節に目を向けなくてはなりません。「この時代と同じかたちにさせられてはいけません。そうではなく,あなたの思いを新たにし,形作りなおされることによって,何が神のみこころであり,よきことであり,神に喜ばれることであり,完全なことであるのかを,あなたが知るようになります。」私たちをささげるというのは,私たちを犠牲にするという意味ではありません。そうではなく,私たち自身が,根底から作り直され,神のみ思い,聖さ,完全さ,それを知るようになり,ついにはそれを喜んで行うようになるということです。ささげるということ,それは私たちが神のみこころを知って,生きるということに他なりません。そのために,私たちはまず,神を私たちの中心にお迎えする必要があります。そして,神ご自身に私たちを作り変えていただくのです。
[考えるために]
神に私たちは何をささげるのでしょうか。
投稿者 mb-church : 19:24 | コメント (0) | トラックバック
2009年04月10日
2009/3/29礼拝メッセージ
2009年3月29日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書24:44~53
「すべては神によって」
1. ルカのテーマ
ルカの福音書は教会において広く読まれ,教えられてきました。この福音書が伝えている次の三つのことは重要です。第一に,イエスが「キリスト」であるということ。次に,イエスを信じる信仰によって,すべての人が罪から救われるということ。そして三つ目に,これらのことすべてが,神によって計画されたことであるということ。私たちは容易にこれらの土台を失います。キリストを信じる信仰以外によっても,救われるのだと考えてしまいます。今生きているのも,歩んでいるのも,神によってではないと考えてしまうのが私たちでしょう。これらのことには,私たちが抱えた罪の問題があると聖書は教えます。たからこそまず私たちは,神のご計画の深さと,一人一人に向けられた神の御思いに目を向けたいのです。
2. すべては神によって
イエスは弟子たちに教えられました。「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは,必ず全部成就する」。すべては人の意志を越えた神のご計画でした。そして「イエスの名によって,罪の赦しを得させる悔い改めが,エルサレムから始まってあらゆる国の人々にのべ伝えられる」のです。罪は人間にとって認めにくいものです。ルカの中にも自らの罪に目を向けたものと,そうでないものとのコントラストがありました。神の目に正しいとは,血筋や身分や地位でもなく,見かけ上のすばらしさでもありません。神の前の正しさとは,神の前に自らを低くする者,へりくだる者,また神に立ち返る者,自らの欠けを認める者たちであったのです。そしてその人々に与えられたのが十字架の赦しと復活の希望なのです。
3. 罪を認めて
自らの罪を認めるのは,その人の生き方を根底から変えるものです。これまで神の存在を無視し,祈りもせず,また神の意思など気にもかけずに歩んできた,そのことを根本から変革させることです。そして私たちの力では,その変革は起こりません。その変革はキリストを信じる信仰によって与えられるのです。その信仰によって,教会は始まり,そして建て上げられてきました。イエスは今も教会を祝福されています。私たちもキリストを信じ,キリストの祝福を受け続ける人生へと導かれてまいりましょう。
[考えるために]
ルカの福音書に一貫して流れる神の御手とキリストの救いが,私たちにも伸ばされていることを覚えましょう。
投稿者 mb-church : 14:50 | コメント (0) | トラックバック
2009/3/22礼拝メッセージ
2009年3月22日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書24:33~43
「復活の希望」
1. 「死」というテーマ
「死」は私たちの大きな関心事でもあります。人間は死と向き合う存在です。みことばが私たちに与えるものは、その日の力だけではなく、全生涯を作り変え、私たちのいのちや死に対する答えをも与えるものです。この箇所で、聖書は私たちにイエスはよみがえられたということを宣言しています。聖書が語るのは、死に打ち勝った復活のキリストの確かな存在です。このキリストを信じるものは、復活のいのちが与えられていると聖書は私たちに約束しています(ローマ6:4~6)。
2. 復活のキリスト
復活のキリストが示すのは、罪の奴隷ではない、完全に救いが完成した人間の姿です。二人の弟子はイエスと出会った後に、エルサレムの弟子たちのもとへと戻りました。そこで弟子たちと自分たちの経験を分かち合いました。ここで驚くべきことが起こります。イエスご自身が彼らの真ん中に立たれたのです。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思います。彼らは、まだイエスが復活したということの意味も、またそのことが表す希望についても、まだ到底考えは及んでいませんでした。その彼らにイエスはご自身が実体であることを示されたのです。
3. 復活のいのち
さらに信じられずにいる彼らにイエスは食事をする姿を示されました。無事に死からいのちへと生還したということを示されたのです。キリスト教において「復活」は、信仰の中心に据えられるべきことです。それは、「復活」こそ私たちに与えられた希望のリアリティを表すものだからです。キリストが、人間の抱えた罪だけではなく、罪によって私たち人間が背負ってしまったものすべてに対して救いをもたらしたということを、復活は示しています。死や滅び、別離、悲しみ、痛み、差別・・・背負ったものは数限りなくあります。私たちは、気がつかないうちに、人や世界を傷つけ、またすぐに自己中心的に生きる存在であり、いつでも死と隣り合わせの存在です。しかし、イエスを復活の救い主であると信じるときに、私たちもまたキリストの復活と同じいのちが与えられるのです。この復活のいのちを得て歩むことこそ、私たちの生きるべき道なのです。
[考えるために]
キリストの復活は私たちに何をもたらしたのでしょうか。
投稿者 mb-church : 14:47