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2009年03月29日

2009/3/15礼拝メッセージ

2009年3月15日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書24:13~32
「ともに歩まれたイエス」

1. 二人の弟子
 ルカは復活後の記録として,この二人の弟子たちの話を重要視しているようです。使徒の話や体験談は,初期の教会では誰もが直接聞きうることでした。しかし,その証言を聞くことができない時代に教会は入っていきます。見たことのないイエスの復活をいかに信じるのか,ということは非常に大きなテーマとなりました。そのよう中,この二人の弟子の話はとても大きな意味を持つことになります。「復活の主」を信じる信仰は,この二人にどのように与えられたのでしょうか。

2. エマオの途上
 二人はエマオへの帰路にありました。二人はこれまでにの出来事について話し合っていました。そして二人の所に復活のイエスが追いつきます。しかし二人の目はさえぎられていて,その人がイエスだとは分かりません。彼らがイエスだと分からなかったのは,神ご自身が二人の目をさえぎられていたからです。まだそれは「時」ではなかったからでしょう。ここからイエスご自身が彼らに語りかけられたのです。クレオパはイエスにこれまでのことを話しました。それは彼らの間で理解されていた当時のキリスト理解であり,彼らの心情でした。彼らにとって,これまでのことは理解し難いことばかりでした。するとイエスはお答えになりました。「キリストは,必ず,そのような苦しみを受けて,栄光に入るはずではなかったのですか。」イエスの言葉の根拠は旧約聖書にありました。そしてその神のことばを解き明かされたのです。

3. 心は燃えていた
 彼らはエマオに近づき,イエスに一緒に泊まって欲しいと願います。イエスは,彼らとともに食卓に着き,パンを取って祝福し,裂いて渡されました。この行為によって,目の前にいる方がイエスだということにようやく気がつきました。ここで二つのことに気がつかされます。一つは,聖書の言葉によって,イエスが救い主であることの意味を教えられるということ。そして次にイエスご自身がどのような方であるのかということ。この二つが合わさったときに,彼らの目は開かれ,目の前にいる方が復活の救い主イエスだということが分かったのです。彼らはこの時の心境をこう言い表しています。「私たちの心はうちに燃えていた。」イエスと分からなかい時でも,神は私たちに働き,導きを与え,心を燃やし続けてくださるのです。

[考えるために]
 イエスはどのようにして二人の弟子たちにご自身のことを教えられたのでしょうか?

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2009年03月08日

2009/3/8礼拝メッセージ

2009年3月8日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:50~24:12
「キリストのことば」

1. アリマタヤのヨセフ
 イエスの遺体を引き受け,その遺体を適切に葬ったのは,一人の「正しい人」でした。彼は,他のユダヤの議員に反対した人でした。何よりも彼は「神の国」を待ち望む人でした。彼は,苦しみの中にあっても,希望を失わず,自らの最善をなす人でした。彼の行動は実に適切でした。このような誠実な働きが,キリストの復活の知らせの確かな備えとなりました。彼の働きは貴重なものとなりました。

2. イエスの復活
 ついに,イエスの復活が明らかにされるときが来ました。しかし,実に静かに,また小規模な形で復活は明らかにされることになります。このことにも神のご計画があるのだということを,私たちは受け止めたいと思います。ルカはここで「ことば」に焦点を当てます。女たちは,墓にイエスがいないという事実を知ると途方にくれます。その時女性たちの前に,み使いが現れます。み使いは「イエスがお話になったことを思い出しなさい」と語りました。その時,女たちはイエスの語られた「みことば」を思い出しました。さらに,彼女たちは墓から戻り,今度は弟子たちに今あった出来事を伝えました。しかし,彼らの反応は「信じられない」というものだったのです。

3. キリストのことば
 使徒たちには「この話」はたわごとに思われました。使徒たちが信じられなかったのは,女性たちが話したことだけではなく,イエスの語られたことばそのものだったのです。なぜ信じられなかったのでしょうか。なぜ最初にこの事実を知らされたのが,女性たちだったのでしょうか。ことごとく神は,私たちの常識や順序,人間の勝手な思い込みや権威を退けられます。それは神のことば,キリストを信じる信仰によってのみ,私たちがこの事実を受け止めるようにという神の配慮があるからです。聖書において最も重要なのは,「キリストを信じる信仰」です。それは,聖書の神のことばに,絶対的な信頼を置く信仰と言ってもいいでしょう。この聖書を,私たちの常識や価値観,また勝手な思いで,弟子たちと同様に「たわごと」と思うのでしょうか。それとも,神のことば,救いのことばとして,信じ,受け取るのでしょうか。復活の根拠は,イエス・キリストが,はっきりとそのことを語ったということ,そして神がこのことを,聖書を通して私たちに語っているそこにあるのです。

[考えるために]
 弟子たちはなぜイエスの復活を聞いたときに,信じることができなかったのでしょうか。
 Ⅰペテロ1:23~25を読みましょう。

投稿者 mb-church : 07:30 | コメント (0) | トラックバック

2009/3/1礼拝メッセージ

2009年3月1日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:44~49
「新しい生ける道」

1. イエスの最期
 イエスが息を引き取るそのときが来ました。時刻は午後3時ごろであったことが記録されています。昼ごろから全地は暗くなり,太陽は光を失っていました。さらに神殿の幕が二つに裂けたということが記されています。神殿の幕は至聖所の前にかかっていました。この場所は,一年に一度大祭司だけがこの幕を通って中に入り,そこで神への犠牲をささげることになっていました。天変地異が起こり,幕が裂けた,まさに「一つの世界の終焉」の時が来たのです。イエスは「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と叫んで息を引き取りました。

2. 人々の反応
 この姿を見て百人隊長はイエスの正しさを証言しました。彼だけではなくピラトやイエスと一緒に十字架についた犯罪人も,キリストには何の罪もないということを証言しています。この場にいた多くの人々にとって,イエスの死は一つの悲しい終わりにしか見えませんでした。群集は,胸をたたいて悲しみながら帰路につき,イエスの周りにいた人々はただ呆然と,イエスの死を見つめるほかなかったのです。私たちもまたこのような状態に陥ることがあります。何の希望も見出せないそのようなときが確かにあります。クリスチャンであれば,そのときどう行動するでしょうか。おそらくその答えの一つは「祈り」でしょう。イエスは「わが霊を御手にゆだねます」と祈りました。しかし,それは私たちが口にするあきらめのような言葉ではありません。それは神に対する確かな信頼から出る祈りでした(詩篇31篇)

3. 完成と新たな出発
 ここで,イエスは無残な最期を迎えたかのように見えました。しかし,実はこのとき偉大な一つのことが成し遂げられ,そして大いなる希望の新しい時代へと突入したことを,聖書は語ろうとしています。何が成し遂げられたのでしょうか。成し遂げられたのは完全な罪の赦しの完成です(ヘブル9:12)。イエスはご自分の身をささげることにより,永遠の贖いを達成されたのです。そしてそれは大いなる希望の時代がスタートしたということでもあります(ヘブル10:19,20)。神殿の幕が二つに裂かれたことはこのことを表しています。古い方法が打ち破られ,新しい生ける神への道が開かれたのです。十字架を前に,人間は何も変わりませんでした。しかし,神の側から私たちに新しい道を開いてくださったのです。「新しい生ける道」これこそがイエスの十字架の死と復活によって開かれた道です。神があなたをわが子のように守り,導き,諭し,そして多くのものをゆだね,ともに歩もうと言ってくださっているのです。

[考えるために]
 イエスの十字架によって成し遂げられたことは何でしょうか。
 また何が開かれたのでしょうか。

投稿者 mb-church : 07:26 | コメント (0) | トラックバック

2009年03月07日

2009/2/22礼拝メッセージ

2009年2月22日の礼拝メッセージの要約です。
この日は吉澤慎也神学生のメッセージでした。
ハバクク書1:1~2:4
「正しい人はその信仰によって生きる」

1. 歴史的背景
 前721年:アッシリヤ、北イスラエルを滅ぼす
 前621年前後:ヨシヤ王の宗教改革
 前609年?:ヨシヤ王の死
 前605年:バビロン、エジプトを破る
            (カルケミシュの戦い)
 前587年?:バビロン、エルサレムを征服
 前539年:ペルシャ、バビロンを征服

2. ハバクク書アウトライン
 1:1~4:ハバククの問いかけ1
 1:5~11:神の応答1
 1:12~2:1:ハバククの問いかけ2
 2:2~4:神の応答2
 2:5~20:悪者へのさばき
 3:1~19:ハバククの祈り

3. メッセージ概要
 南ユダ王国のハバククは、神に抗議した預言者。ハバククはまず、神はなぜ悪を見過ごされるのか、と問うた。これは現代の私たちにとっても大きな問題となる。当時の南ユダ王国は不安定な情勢の中にあった。神様は、その悪を罰するためにバビロンを起こす、と答えられた。ハバククは次に、残虐な異教徒バビロンによって契約の民イスラエルが滅ぼされるのはおかしい、と抗議した。
最終的な神様の答えは「正しい人はその信仰によって生きる」。揺るぎない信仰で神を待ち望む人こそが正しい人で、その人は生きる。神の義がそのような信仰に進ませてくださる(ローマ1:17)。また苦難は信仰を強めもする。私たちも「その信仰によって」生きたい。

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2009/2/15礼拝メッセージ

2009年2月15日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:39~43
「今日という日に」

1. 知られざる真実
 イエスと二人の犯罪人の知られざる真実がここに記録されています。今日の場面が人々に与えたインパクトは計り知れないものがあります。ルカは常にコントラストを意識していました。それは,「神に義と認められた人」と,もう一方は「自分で自分を義とする人」です。これは現代においても当てはまることでしょう。イエスは,私たちがもともと持ち,考えていることを大逆転させようとしています。私たちが大丈夫だと思い込んでいることや頼っていることでは,本当にはあなたは救われないと語るのです。この救われた強盗は,ただイエスを信じたがゆえに,救われたという驚くべき証人なのです。

2. 二人の強盗
 強盗の一人はイエスに悪口を言い続け,イエスに要求します。「自分と私たちを救え!」彼は何の反省もないまま,私たちを救えとイエスに命令をします。この姿に表されているのは,自分で自分を義とする者の姿です。もう一方の強盗はこのように言います。「おまえは神をも恐れないのか。」この一言に聖書が私たちにつきつける大きな問いがあります。「あなたは神を恐れるのか,恐れないのか?」さらに彼はこう言います。「あなたの御国の位にお着きになるときには,私を思い出してください。」死が目の前に迫ってきた最後の瞬間に,彼はイエスへの信仰を告白したのです。彼は最後の最後で,キリストに出会い,神の前にへりくだり,そしてただ自分のことを覚えていてほしい,そうイエスに願ったのです。

3. イエスの応答
 イエスの答えはこうでした。「あなたは今日,わたしとともにパラダイスにいます。」これは救いの宣言です。この言葉は「私とともに,神の前に義人と数えられる」という意味です。この強盗は,イエスをキリストと信じたがゆえに,義と認められたのです。彼は当時,決して神の国に入るとは考えられない人でした。その彼が,最後にキリストを信じたがゆえに,赦され神の国へと導かれました。これほどの逆転劇はありません。神の救いは私たちの考えるものとは異なります。私たちが思う秩序や優劣ではなく,神がご覧になっているのは,私たちの本当の姿です。この十字架上の強盗が,私たちに示しているのは,神の救いは,どのような状況にあっても,誰であっても,キリストを信じる人に与えられるということです。イエスを信じるときに,今,神に受け入れられるのです。

[考えるために]
 十字架上の強盗の救いは,私たちに何を示しているでしょうか。
 神の救いは,誰に与えられるのでしょうか。

投稿者 mb-church : 17:59 | コメント (0) | トラックバック

2009/2/8礼拝メッセージ

2009年2月8日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:32~38
「自己矛盾にある私たち」

1. 十字架刑
 イエスは十字架にかけられました。通常,人々は十字架の苦しみを目の当たりにして罪の重さを見ます。このとき,イエスを真ん中にして,その両隣に二人の犯罪人がつくことになりました。十字架上で,イエスは七つの言葉を語ったと聖書は記述しています。その一つは「父よ。彼らをお赦しください。彼らは,何をしているのか自分でわからないのです」この祈りの言葉でした。「彼ら」とは誰のことなのでしょうか。

2. 詩篇22篇
 この時の出来事は詩篇22篇を思い起こさせるものでした。この詩篇は「義人の苦しみ」が題材となっています。神を信じる者が受ける不当な苦しみ,そこから,神は救ってくださるという内容です。イエスもまたこの詩篇と同じ気持ちだったのでしょうか。そうではありませんでした。イエスはこう祈ったのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは,何をしているのか自分でわからないのです。」この言葉は,神の子として,神と人との仲介者として,祈られたとりなしの祈りです。

3. 自己矛盾を抱えた人々
 何をしているのかわからない人々。正しい者,神の子を十字架にかける人々。しかし,それだけではありません。私たちは神にあって正しいことを求める人にもなりえるし,また,人を傷つけ,神のみこころを損なう罪人にもなりえてしまう者たちです。パウロもローマ7章でこう言い表しています。「私には,自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく,自分が憎むことを行っているからです。」私たちの存在は,まさに善と悪のどちらをも抱え込んでいるのです。イエスに対しても,救って欲しいと願う一方で,自分の思いにイエスが沿わないのであれば,イエスなどいらないという思いを持ってしまうのです。

4. 聞き続ける信仰
 私たちはどうしたら,この自己矛盾の状態から脱することができるのでしょうか。どうしたら,神に喜ばれる歩みをすることができるのでしょうか。どうしたら罪の支配から自由になることができるのでしょうか。その答えこそ十字架にあるのです。私たちはその十字架にあらわされた神のあわれみと,神の赦しのことばを聴き続ける必要があるのです。

[考えるために]
 私たちの抱えた矛盾から,どのようにしたら脱することができるでしょうか。

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2009/2/1礼拝メッセージ

2009年2月1日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:26~32
「嘆くべきこと」

1. 嘆き悲しむ女たち
 今日の箇所は,ルカだけが記している内容です。この箇所を読むとあることに気がつきます。それは民衆と女たちの群れという二つのグループが,この十字架の前にいたのだということです。当時のユダヤの指導者たちは男性によって構成されていました。イエスを十字架に掛けろと叫んだ民衆の大多数は「男性」であったと考えられます。では,女性たちはどうであったのでしょうか。女性たちはイエスの十字架刑を決定した当事者ではありませんでした。それでは十字架の贖いは,そこに関わっていなかった女性たちには関係はないのでしょうか。今の私たちも十字架の現場にいなかったから,十字架と私とは関係がないのでしょうか。今日の箇所で,改めて確認させられるのは,十字架と無関係な人は一人もいないのだ,ということです。

2. 目の前の嘆き
 女性たちは,嘆き悲しんでイエスの後をついていきました。絶望的な悲しみがありました。当時の女性の地位はかなり低いものです。その彼女たちにイエスは声をかけられ,慰め,受け入れてくださいました。そのイエスが十字架刑に向かう…。女たちは十字架を前にして悲嘆にくれています。彼女たちは,激しく感情がゆさぶられて涙を流しています。しかし,この女性たちに向かってイエスはこのように声を掛けられました。「わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と,自分のこどもたちのことのために泣きなさい。」

3. 本当に嘆くべきこと
 イエスは言います。あなたが嘆いていること以上のことが,あなた自身に起こるのだからと。自ら死を求めるほどの過酷で絶望的な状況が来るというのです。これをこの後のエルサレム崩壊のことと受け取ることもできます。そして私たち自身の末路を意味しているともいえるでしょう。イエスは,私たちに,起きている悲惨な現実,出来事にただ心を奪われ,悲しみに支配されるなと言われます。目の前にある嘆きや悲しみ,それ以上に,私たちが後に置かれる裁きの現実,本当の滅び,悲しみへと目を向けなさいと言われるのです。イエスがこう言われるのは,その先にあるキリストの十字架の救いを受け取って欲しいからこそ,語られているのです。「十字架の言葉は,滅びに至る人々には愚かであっても,救いを受ける私たちには,神の力(Ⅰコリント1:18)」なのです。

[考えるために]
 なぜ聖書で裁きが語られるのでしょうか。
 イエスは私たちに何を受け取って欲しいと思っているのでしょうか。

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