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2009年02月05日
2009/1/18礼拝メッセージ
2009年1月18日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:1~16
「人に裁かれた神」
1. 「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみ受け」
ピラトはローマの総督でした。ローマ総督は,過ぎ越しの祭りのときにエルサレムに滞在したと言われています。なぜならその時期,ユダヤの中に愛国心や国の復興の思いが沸き起こるからでした。ユダヤの指導者たちは,イエスを殺すためにこの時を選びました。彼らはイエスをピラトのもとに連れて行きます。民衆たちは,イエスが無抵抗のまま,鞭打たれ,殴られ,そしてあざけられている姿を目の当たりにしました。イエスへの期待が,大きな失望へと移り変わっていったのです。ユダヤの指導者たちはイエスを訴えます。しかし,その告発は偽りでした。ピラトは訴えを聞いてイエスに聞きます。「あなたは,ユダヤ人の王ですか。」イエスは「そのとおりです」と答えました。しかし,ピラトの目には,イエスの姿はユダヤ人の王には見えません。そこで,ピラトはヘロデのもとへとイエスを送りつけました。そこでもイエスは何も答えませんでした。そこで,ヘロデは,さらにイエスを侮辱し,なぶりものにしてピラトに送り返しました。結局,ピラトの結論はこうでした。「この人は,死罪に当たることは何一つしていません。」「だから私は,懲らしめた上で,釈放します。」
2. 裁かれる神
このイエスの裁判の記録から,私たちが教えられるのは何でしょうか。それは,罪ある人間が,聖なる神を裁く姿です。最初から自分たちの主張だけを訴えるだけの人間。その罪ある人間の訴えに,何も反論せず,されるがままになっているイエス。そして,孤独の中,辱められる神のひとり子イエス。なぜこのような形で,イエスは十字架へと向かっていくのでしょうか。聖書はこう語ります。それは,人の罪を贖うためだ,と。しかし「贖い」は,ただイエスが死ぬことだけではありませんでした。本来私たちが受けるべき,裁き,苦しみ,痛み,不当な扱い,それらすべてもイエスが身代わりに受けなくてはならなかったのです。聖なる神の前に立ったとき,私たちは,自分自身の罪をどのように言い訳するでしょうか。おそらく神の前では,一瞬にして「有罪」の判決が出ることでしょう。しかし,イエスの裁判には,罪状書きもなく,訴えも事実無根でした。しかし,イエスは何の言い訳もそこ付け加えられませんでした。「あなたがたの言うとおりだ」としか答えられなかったのです。ここにあるイエスの姿は,神が私たちの痛みや絶望,苦悩,その罪の現実に深く関わりを持ってくださったという証なのです。
[考えるために]
神の前に,私たちは自分の罪をどのように言い表すでしょうか。
投稿者 mb-church : 2009年02月05日 14:03
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