« 2009年01月 | メインページへ | 2009年03月 »

2009年02月13日

2009/1/25礼拝メッセージ

2009年1月25日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:17~25
「一人の罪人の身代わりに」

1. 人々の熱狂
 危機的状況の中で,人々は優秀なリーダー,強力なリーダーを求めます。そして,そのような期待を抱かせる人物が登場すると,大勢の人々は期待をもって迎えます。しかし,もしその期待が裏切られることになるのだとするならば,どうなるのでしょうか。イエスもまた,熱狂的な期待の中,エルサレムに迎え入れられました。しかし,その期待は裏切られることになります。反対する者たちに,イエスは捕らえられます。もし力ある王ならば,そのような現状を打開することなど造作もないことでしょう。しかし,イエスはそうされなかったのです。その姿は,人々が期待し,また慕い従ってきた王の姿とはかけ離れたものでした。民衆の結論は「十字架」でした。

2. 罪人の身代わりに
 「この人を除け。バラバを釈放しろ。」バラバは著名な犯罪人でした。この罪人と引き換えにイエスは十字架に架かったのです。そのような決断をさせたのは民衆の声でした。その民衆はごくごく普通の人々です。「イスラエルのすべての人々」がイエスを十字架につけたのです。すべての人,そこには例外となる人はいません。私たちもまた,あの現場にいたならば,イエスを十字架にかけろ!と叫ぶ民衆の一人なのだと聖書は私たちに問うのです。自分の罪を棚上げにし,決して自分こそが罪人だと認めない私たちの姿がそこにあります。イエスは,大勢の罪人によって十字架に掛けられました。そしてそれは奇しくも,たった一人の罪人のために十字架に掛けられるということになるのです。

3. 私のこととして
 あなたはこの一人の罪人なのではないかと聖書は私たちに訴えかけます。このイエスの十字架とあなたとは決して無関係ではなく,あなたもまた罪人の一人であり,イエスが身代わりとならなくてはいけないのだ,そう聖書は私たちに問います。キリストは,罪ある人に向けられた神の怒りを,その裁きの全てを,その身に負ってくださいました。しかし,それは本来は神が負うべきものではありません。イエスは私の罪の身代わりにその刑罰を受けてくださった,そう信じ,告白するなら,私たちは神の赦しを受けることができます。そして,神の子としての生涯を歩むことができるのです。ともに神の前に悔い改め,キリストの犠牲に感謝いたしましょう。

[考えるために]
 神の払った犠牲の大きさを,イエスを通して考えてみましょう。

投稿者 mb-church : 12:09 | コメント (0) | トラックバック

2009年02月05日

2009/1/18礼拝メッセージ

2009年1月18日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書23:1~16
「人に裁かれた神」

1. 「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみ受け」
 ピラトはローマの総督でした。ローマ総督は,過ぎ越しの祭りのときにエルサレムに滞在したと言われています。なぜならその時期,ユダヤの中に愛国心や国の復興の思いが沸き起こるからでした。ユダヤの指導者たちは,イエスを殺すためにこの時を選びました。彼らはイエスをピラトのもとに連れて行きます。民衆たちは,イエスが無抵抗のまま,鞭打たれ,殴られ,そしてあざけられている姿を目の当たりにしました。イエスへの期待が,大きな失望へと移り変わっていったのです。ユダヤの指導者たちはイエスを訴えます。しかし,その告発は偽りでした。ピラトは訴えを聞いてイエスに聞きます。「あなたは,ユダヤ人の王ですか。」イエスは「そのとおりです」と答えました。しかし,ピラトの目には,イエスの姿はユダヤ人の王には見えません。そこで,ピラトはヘロデのもとへとイエスを送りつけました。そこでもイエスは何も答えませんでした。そこで,ヘロデは,さらにイエスを侮辱し,なぶりものにしてピラトに送り返しました。結局,ピラトの結論はこうでした。「この人は,死罪に当たることは何一つしていません。」「だから私は,懲らしめた上で,釈放します。」

2. 裁かれる神
 このイエスの裁判の記録から,私たちが教えられるのは何でしょうか。それは,罪ある人間が,聖なる神を裁く姿です。最初から自分たちの主張だけを訴えるだけの人間。その罪ある人間の訴えに,何も反論せず,されるがままになっているイエス。そして,孤独の中,辱められる神のひとり子イエス。なぜこのような形で,イエスは十字架へと向かっていくのでしょうか。聖書はこう語ります。それは,人の罪を贖うためだ,と。しかし「贖い」は,ただイエスが死ぬことだけではありませんでした。本来私たちが受けるべき,裁き,苦しみ,痛み,不当な扱い,それらすべてもイエスが身代わりに受けなくてはならなかったのです。聖なる神の前に立ったとき,私たちは,自分自身の罪をどのように言い訳するでしょうか。おそらく神の前では,一瞬にして「有罪」の判決が出ることでしょう。しかし,イエスの裁判には,罪状書きもなく,訴えも事実無根でした。しかし,イエスは何の言い訳もそこ付け加えられませんでした。「あなたがたの言うとおりだ」としか答えられなかったのです。ここにあるイエスの姿は,神が私たちの痛みや絶望,苦悩,その罪の現実に深く関わりを持ってくださったという証なのです。

[考えるために]
 神の前に,私たちは自分の罪をどのように言い表すでしょうか。

投稿者 mb-church : 14:03 | コメント (0) | トラックバック