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2008年12月28日

2008/12/28礼拝メッセージ

2008年12月28日の礼拝メッセージの要約です。
ヨハネの福音書1:14~18
「恵みの上のさらなる恵み」

1. 恵み
 ヨハネの福音書に出てくる「恵み」は1章に集中しています。イエスは神の恵みに満ちておられました。この方を,バプテスマのヨハネは,神が世に遣わした救い主であると証言しました。なぜなら「私たちはみな,この方の満ち満ちた豊かさの中から,恵みの上にさらに恵みをうけた」からです。ヨハネが,イエスをキリスト(救い主)であると主張したのは,私たちが恵みを受けたからです。クリスチャンは様々な場面で「恵み」という言葉を使います。神がすでに私たちに与えてくださっている多くのことがあります。それらは,単なる偶然ではなく神が与えてくださっているまさに「恵み」でしょう。それは本当に慰めであり,私たちの大きな励ましともなることでしょう。しかし,それとは異なる「恵み」が16節に記されています。

2. 恵みの成就
 「なぜなら,私たちはみな,彼の満たし,恵みに代わる恵みを受けたからである。」「満たし」これは完成,成就という意味の言葉です。ヨハネは,この言葉を豊かさのイメージを持って用いたのではなく,神のご計画の完成者としてのイエスのイメージを持って記したのでしょう。「というのは,律法はモーセによって与えられ,恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」つまり,神の救いのご計画の成就者,完成者としてのイエス。そのイエスが与えてくださる恵み。そのことをヨハネはここであらわそうとしています。

3. 恵みの上の恵み
 「恵みの上にさらに恵みを受けた。」これは,恵みに代わる恵みという言葉です。先にあった恵みに代わる恵みが,イエスによってすべての人に与えられたという意味です。ここにある「律法」が指しているのは,モーセによって示された「救い」を指しています。しかし,イエス・キリストによって与えられたのは,それ以上のものでした。私たちの力や努力ではなく,神が私たちに一方的に与えてくださるもの,それが恵みです。神が人をその信仰によって,必ず救い,神のものとしてくださるという証,それがイエスによって実現したのです。私たちのなす一つ一つの日常の働き,家事も,また労働も,感謝も,賛美も,祈りも,それらすべてが神の前に聞き届けられるという恵み。これらのことがすべてイエス・キリストによって実現したのです。

[考えるために]
 イエスによって私たちに与えられた「恵み」とは,いかなるものでしょうか。
 その「恵み」は今の私たちの生き方に,どのような慰めと励ましを与えるでしょうか。

投稿者 mb-church : 19:44 | コメント (0) | トラックバック

2008/12/21礼拝メッセージ

2008年12月21日の礼拝メッセージの要約です。
ヨハネ1:14~18
「神の栄光を見る」

1. ことばは人となった
 「ことばは人となって,私たちの間に住まわれた。」この言葉は「ことばは肉となって,私たちの間に幕屋を張った」と訳すことができます。「ことば」はイエス・キリストのことです。彼は,神のことばであり,世界のはじめから神とともにおられ,私たちの存在に深く関わっておられる方です。その神の子である方が,肉となったとあります。肉とは何でしょうか。それは肉体という意味でもありますが,それ以上に,私たち人間と一緒の肉,つまり病や痛み,そして孤独や死を経験し,人としての誘惑を受ける肉という意味で用いられています。

2. ことばは私たちの間に
 神は決定的に人とは異なる存在です。聖書の語る神は,完全に聖なる方として表されています。もし,私たちがその神を失うならば,私たち自身の存在はなんと不確かなものとなるでしょうか。私たちはどこかで,神の存在を認め,神の存在を必要としています。しかし,私たちの力や知恵では神は見えない…それが私たちの姿なのです。「ことばは肉となって,私たちの間に幕屋をはられた。」これは決して仮の宿を取ったという意味ではありません。私たち同じように,この世界で生きてくださった,という意味です。イエスは私たちと変わらない姿をとってくださいました。そのことを最もよく表しているのが,このクリスマスです。イエスの誕生はあまりにも悲惨で,みすぼらしいものでした。彼らの居場所はベツレヘムのどこにもなく,その生まれ着いた先は飼い葉おけでした(ルカ2章)。イエスは肉となって,私たちと同じように,いやそれ以下のところに来てくださったのです。

3. 神の栄光
 ヨハネはそのイエスの姿に,神のひとり子としての栄光を見たと言います。あの誕生シーンのどこに栄光があるのでしょうか。私たちの考える栄光とは違うものがここに示されています。なぜイエスは人とならなくてはならなかったのでしょうか。これが神の栄光のなぞを解く鍵です。神の前に罪深く,弱く,死という現実を抱えている私たちを,私たちの下から救い上げるために,イエスは人となられました。ここに私たちの考えを超えた神の業,神の栄光を見出します。イエスは神の恵みと神のまことに満ちたお方です。この方をお迎えしてまいりましょう。

[考えるために]
 なぜイエスは人となられたのでしょうか。神の栄光はイエスのどこにあらわされたのでしょうか。

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2008年12月19日

クリスマスのご案内

もうすぐクリスマス!
今度の日曜日はクリスマス礼拝です。
10時スタート。
クリスマスランチもぜひご一緒に。

24日19時からはイブ礼拝‐キャンドルサービス‐です。
賛美と聖書の朗読…キャンドルの灯りの中,
救い主の誕生に思いをめぐらせます。

投稿者 mb-church : 19:18 | コメント (0) | トラックバック

2008/12/14礼拝メッセージ

2008年12月14日の礼拝メッセージの要約です。
ヨハネ1:9~13
「神の子とされる特権」

1. まことの光
 私たちは,太陽が光であることを疑わない人はいません。しかし,イエス・キリストこそまことの光であるという言葉に,すべての人がうなずくことができるかといえば,できないのが現実です。その現実をヨハネはここで表しています。確かにイエスはこの世界に来られましたが,世はこの方を受け入れませんでした。この言葉どおりのことが,今も起きているのです。

2. 真の知識
 太陽が光であるという言葉と,イエスこそまことの光であるという聖書の言葉とは何が異なるのでしょうか。科学的な説明と聖書による説明とは何が違うのでしょうか。科学が発展する前は,聖書の権威は今よりもずっと確かで強いものでした。しかし,今は聖書の権威が低下しています。なぜなら「絶対的な神」「万物の創造主なる神」という存在が薄れてしまっているからです。しかし,神に対する信頼に基づくならば,私たちの聖書に対する姿勢は変わります。私たちはあまりにも物事を表面的に見ようとしてしまう傾向があります。しかし,聖書は,目に見えない神,そして私たちの人格における真の知識と知恵を扱っているのです。

3. 人という存在
 聖書は私たち人のことを「神の似姿に造られた」存在であると教えています。私たちは他の動物とは明らかに違う存在です。ヨハネはそのことを,イエスを通して私たちが造られたと語りました。しかし,そのような特別な存在であるにもかかわらず,一番肝心な部分が私たちから抜け落ちていくことになります。それが「神」の存在です。私たちは自分自身が神であるという人間中心的に自らを変えてしまったのです。人の悲劇はここから生じ,その重大な欠損部分が広がってしまっています。私たちの周りには問題が山積しています。

4. 神の救い
 私たちには救いが必要です。一時的な救いではなく,永遠の救いが必要なのです。イエスを救い主として受け入れるときに,私たちに一時的な救いではなく,永遠の救いが与えられます。神の子どもとされる特権を私たちは得るのです。もうあなたを神からの離反者,罪人とみなさず,あなたを受け入れ,あなたを守り,あなたを導く,神の子としての地位が与えられるのです。

[考えるために]
 私たちにとって,本当に大切な知識,知恵とは何でしょうか。
 神の子とされる特権は,私たちに何をもたらすでしょうか。

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2008/12/7礼拝メッセージ

2008年12月7日の礼拝メッセージの要約です。
ヨハネ1:6~9
「光を指し示す声」

1. バプテスマのヨハネ
 バプテスマのヨハネの存在は,当時のユダヤ人にとって決して無視することのできないものでした。彼の語ることに当時の人々は注目しました。その彼が生涯をかけて指し示した人。それがイエス・キリストです。バプテスマのヨハネは「この人こそ救い主である」とイエスを人々に紹介したのです。では,なぜヨハネの証言が重要なのでしょうか。

2. 聖書の語る光
 今の時代,情報が数多く氾濫している時代です。今私たちは何を信じ,何に頼って生きているでしょうか。しかし,最も根源的でかつ,最も身近なこと,つまり,私はなぜここに存在し,何をすべきなのかという問いには,世の中に氾濫している情報は答えを与えることはできません。その一方で,聖書は語ります。あなたは神によって,イエスに関係するものとして創造されたと。あなたはイエスにあって,本当のいのちを得,本当の光を得ると。なぜイエスこそ真の光だと断定できるのでしょうか。

3. ヨハネの証言
 私たちにとってヨハネは昔の人です。また,ユダヤ地方の一宗教家でしかありません。しかし,なぜこれだけ注目を集めるのでしょうか。その最大の理由は,ヨハネが神のことばをそのまま表した「声」だったということです。多くの情報の中で,何が真実なのか私たちは見極める必要があります。イエスとは誰なのか,そのことを見極めるためには,この聖書のことばが最も重用なものとなります。なぜなら,聖書こそ「神のことば」であるからです。そして,バプテスマのヨハネは,この神のことばである聖書を,その身にあらわした人だったのです。

4. 多くの証言
 これは何もバプテスマのヨハネだけに限りません。教会の歴史の中で,数多くの信仰者たちが,指し示してきたこと,それは自分の成功や権威ではありませんでした。彼らが生涯をかけて指し示したのは,聖書の神こそ私の救い,イエスこそ私の光であるということなのです。イエスこそまことの光。皆さんは,どのようにこの言葉を受け取られているでしょうか。そして,皆さんの中には,まことの光があるでしょうか。この先,何が起ころうとも,ゆるがない土台はあるでしょうか。ともにこの光を抱いて歩ませていただきましょう。

[考えるために]
 私たちのうちにゆるがない土台はあるでしょうか。

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2008年12月06日

2008/11/30礼拝メッセージ

2008年11月30日の礼拝メッセージの要約です。
ヨハネ1:1~5
「神のことばなるイエス」

1. はじめに
 「はじめに,ことばがあった。」これは,創世記の第一文が意識されています。ことばとは何でしょうか。ここで意識されているのは,ギリシャ哲学のロゴスではありません。これは神の思い,神のみこころ,神のご計画,そのようなものが含まれた,まさに神が人格を持って語ったことばそのものを表しています。このことばは神とともにあり,神であったと記されています。この「ことば」こそイエス・キリストを指しています。キリストこそ神のことばそのものであり,神である方であり,すべてのはじまりの時からおられた方であると語られています。ここで表されているのは,イエス・キリストの神性です。

2. 神のことば
 キリストが神のことばであるということはどのようなことでしょうか。神のことばとは,「必ずなる」ものです。キリストそのものが,神の約束の成就であり,また神そのものを表しており,神のみ思いそのものなのです。ですから,私たちはキリストを見,知り,キリストのことばを聞くときに,神そのものを知ることになるのです。そしてすべてのものは,この方を通して造られました。キリストのために私たちは造られたのです。キリストは私たちの存在に関わっておられるのです。そしてそれは私たちにキリストが反映されるということでもあります。

3. この方にあるいのち
 「造られたもので,この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。」しかし,ここはこのように訳すことができます。「この方によらずにできたものは一つもない。造られたものは,この方にあっていのちがあった。」すべてのものはキリストを通して造られました。そこには例外はありません。そしてすべてのものは,イエスにあっていのちがあるのです。つまり,キリストに私たちがなければ,そこにはいのちがないのです。さらに5節でこう宣言されます。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」キリストの光,そこにあるいのちは,この世の,私たちの闇を凌駕するものです。キリストにあるものは必ず真の光,永遠のいのちを得るのです。

[考えるために]
 私たちは,誰にあって真のいのちを得ることができるのでしょうか。

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