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2008年11月28日
2008/11/23礼拝メッセージ
2008年11月23日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:54~62
「イエスのまなざし」
1. ペテロの否認
ペテロの3度にわたるイエスの否定。ルカの福音書だけではなく,全ての福音書に取り上げられている場面です。ここもルカ独自の描き方がなされています。どの書が正しいのかが問題ではありません。この箇所を通して,教会に何が語られたのか,それが問題です。ルカでは,捕らえられたイエスの扱いよりも,ペテロの方にまず焦点が当てられているようです。イエスは,ペテロに対して苦難を予告されました。しかし,イエスは彼のために祈られました。さらに必ず立ち直ること,そして兄弟たちを力づけるようにと語られたのです。
2. 立ち込める暗雲
この後,暗黒の闇が近づいてきました。イエスは人々に捕らえられました。そして,このペテロの否認の場面になるのです。ルカは他の弟子には触れていません。ルカは,ペテロを弟子の代表として取り上げているようです。ペテロはイエスの後を追って,大祭司の家に来ました。そしてその中庭にまで彼は入っていきます。すると女中がその姿を発見します。「この人も,イエスといっしょにいました。」すぐにペテロはその女中の言葉を打ち消します。さらに別の人がこう告げました。「あなたも彼らの仲間だ。」しかし,このときもペテロは否定します。そしてまた別の人がペテロに声をかけます。「確かにこの人も彼と一緒だった。」この人は,ペテロがイエスに言った言葉と同じ言葉を使いました。「一緒」という言葉。しかし,ペテロはこう答えたのです。「あなたの言うことは私にはわかりません。」なんという皮肉でしょうか。ペテロ自身が言った言葉に対して,私にはわからないとペテロは口にしたのです。
3. 振り向かれたイエス
その時,鶏が鳴きました。その時,イエスは振り向いてペテロを見つめられました。彼は打ちのめされます。自分の本当の姿を彼は徹底的に見せ付けられるのです。その彼に,イエスは視線を投げかけられました。この時の眼差しはどのようなものだったのでしょうか。様々な受け止め方があるでしょう。しかし,ただ一つ確かなことがあります。それは全てを知っている眼差しであったということです。その弱さも,過ちも,その時どんな思いであったかも,ペテロの全てをイエスは知っていたおられたのです。私たちはどうでしょうか。全てを見ておられるイエスに,全てを明け渡しているでしょうか。あなたに注がれるイエスの眼差しに,まず気がつきたいのです。
[考えるために]
あなたに向けられるイエスのまなざしは,どのようなものでしょうか。
そのイエスのまなざしに私たちはどのように応答するでしょうか。
投稿者 mb-church : 15:33 | コメント (0) | トラックバック
2008年11月20日
2008/11/9礼拝メッセージ
2008年11月9日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:39~46
「みこころを求めて」
1. ゲッセマネの祈り
有名なイエスの祈りの場面です。しかし,ルカの福音書は他の福音書とは異なる描き方をしています。ルカは,ここでの出来事をとても簡潔に記しています。この個所は,私たちに対してシンプルにこう語っているようです。「これからおこるであろう苦難,信仰の試練に対し,霊的な備えをせよ。その備えこそ祈りであると。」この箇所で私たちが気づかされるのは「いつものように」という言葉です。私たちには,いつものように祈るとき,そして祈る場所が確保されているでしょうか。
2. 誘惑に陥らないように
この「誘惑」とはなんでしょうか。イエスは次のように祈られました。「父よ。みこころならば,この杯をわたしから取り除けてください。しかし,わたしの願いではなく,みこころのとおりにしてください。」この祈りの言葉は,神に祈られた言葉であると同時に,弟子たちに教えるための祈りでもあるでしょう。イエスはまず祈られます。できればこの苦難をわたしから取り除けてくださいと。しかし,ここで重要なのは次の言葉です。「しかし,わたしの願いではなく,みこころのとおりにしてください。」これこそがキリストの弟子の祈りであり,確かな備えの祈りなのです。
3. 悲しみの果てに
しかし,この祈りは,非常に祈るのが難しい祈りでもあります。ここでも,弟子たちは「悲しみの果てに,眠り込んで」しまいました。他の福音書では,疲れて眠ってしまったかのような記述になっています。しかしルカでは悲しみから彼らは眠ってしまったというのです。一方でイエスは,十字架の苦しみを前にして,いつものように,いつもの場所で祈られました。しかし,そのもう一方の弟子たちは,いつものように,いつもの場所で,試練を前にして,祈ることをせず眠ってしまったのです。私たちにイエスは語られます。くじけそうになる事柄を前にして,祈らず眠り込んでしまった弟子のようではなく,私のように絶えず祈りなさい,と。その祈りは,ただ熱心に祈ればよいわけではありません。「わたしの願いではなく,みこころのとおりにしてください」と祈るように導かれているのです。私たちは,祈る前からここでの弟子たちのように眠り込んでしまっています。私たちはみこころを求める祈りによって,目に見える剣よりも確かな武具を手にすることになるのです。
[考えるために]
私たちには,祈りの場所,祈りの時間が確保されているでしょうか。
また,その祈りは何を願う祈りなのでしょうか。
投稿者 mb-church : 09:43
2008年11月08日
2008/11/2礼拝メッセージ
2008年11月2日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:35~38
「十分な備え」
1. イエスの問いかけ
「わたしがあなたがたを,財布も旅行袋も持たせずに旅に出したとき,何か足りない物がありましたか。」弟子たちを訓練するための宣教旅行のことをイエスは話に出しました。この旅行は,弟子たちにとっての成功体験でもありました。このように聞かれた弟子たちは「何も不自由はありません」と答えました。しかし,イエスは続けて今は持ち物をしっかりと持ちなさいと言われたのです。しかも,剣のない者は,着物を売ってまで剣を揃えなさいと言いました。
2. 誤解
以前の旅行で弟子たちは,イエスの名の偉大さ,すごさを知ることとなりました。それと同時に,彼ら自身が「力を得た」と感じたことでしょう。しかしその弟子たちにイエスはこう教えました。ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさいと。さらに今日の箇所で,イエスは持ち物をしっかりと持ちなさいと教えられました。さまざまな持ち物,刀なども比喩なのでしょう。しかし,弟子たちはその比喩に気がつきませんでした。弟子たちはまったくイエスの言葉を理解していなかったのです。いよいよイエスとともに戦いに赴く,そのような様子が見て取れます。
3. イエスの答え
イエスは続けてお語りになりました。「彼は罪人たちの中に数えられた」とは,イザヤ書53:12の言葉です。これは十字架の苦難の預言です。イエスはこれから十字架に向かうとはっきりと語られた上で,備えるべきものを備えよ,そう命じられたのです。イエスの備え,それは信仰における備えです。ここではその信仰における備えと,さらには信仰の自立をイエスは促しています。信仰における自立のために「霊的な備え」をしなさいと教えられました。ただ受けるだけのものではなく,備えなさい,と言われたのです。私たちが強いのではありません。また私たちは何もしないでいても大丈夫なのではありません。神が,主イエスが強いのであり,また,みことばにその力があります。私たちは神の真理に逆らい,神の正しさや聖さにではなく,自分の正しさや基準に立とうとしてしまいます。私たちは信仰の備えをしなくてはならないのです。祈りによって,またみことばを学ぶことによって,さらに主イエスに従うことによって,私たちは信仰の備えをしてまいりましょう。
[考えるために]
霊的な備えが十分にされているでしょうか。
そのために私たちは何をすべきなのでしょうか。
投稿者 mb-church : 18:40 | コメント (0) | トラックバック
2008年11月01日
2008/10/26礼拝メッセージ
2008年10月26日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:31~34
「あなたのために祈る主」
1. 苦しみの中で
「神はなぜこのような現実を許しておられるのか。」私たちは苦しみの中叫びます。神が自分を見捨てていると思うときが私たちの生涯の中でもあります。「サタンが,あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って」とイエスはペテロに語りました。「あなたがた」とあります。イエスを信じる全ての人に対して「あなたがた」と言っています。キリストを信じる歩みの中で信仰における試練を与えることを,神が許容されることがあるというのです。ペテロにもそのようなことが起こりました。「三度の否認」でした。自分の力でイエスに従えると思っていたペテロ。それなりに自信も持っていたことでしょう。その彼が,自分の弱さ,欠けをまざまざと知らされる出来事に遭遇するのです。イエスはこのことを知っていたにもかかわらず,この言葉通りになります。
2. 神の方法
分かっているならば回避してくれればよかったのに,と思います。しかし神の方法は違います。イエスは,「あなたの信仰がなくならないように,あなたのために祈りました」と言われました。ここで対比されているのは,サタンの願いと神の子キリストの祈りです。サタンの願いは,一時的に聞き届けられているかのように見えます。それは一時的であり,不変なものではありえません。しかし,イエスの祈りはどうでしょうか。イエスの祈りは完全で,圧倒的な力に満ちたものです。この祈りは,今もわたしたちに向けて祈られている祈りでもあります。わたしたちは何も守りのないなか,放り出されているわけでは決してありません。絶えず祈ってくださる主イエスのとりなしの祈りの中,わたしたちは導かれていると言えるのです。
3. 失敗の中から
ペテロは予告通り失敗をしました。しかしイエスはこのようにペテロに語りかけています。「だからあなたは,立ち直ったら,兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエスは知っていました。必ずペテロは試みにあうが,必ず立ち直ると。私たちが苦難を通るときに,私たちは同じように神から人生の歩みを与えられた人々を励ますことができるように整えられます。私たちに与えられた苦しみは,ただ自分だけの苦しみではありません。その苦しみは,すでに誰かが通った道であり,そしてこれから多くの人々が通るであろう苦しみなのです。主は今も祈ってくださっているのです。
[考えるために]
神のとられる方法は,私たちとは同じなのでしょうか。
今もイエスは私たちに何をしてくださっているのでしょうか。
投稿者 mb-church : 16:41 | コメント (0) | トラックバック
2008/10/19礼拝メッセージ
2008年10月19日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:22~30
「仕える者のように」
1. 聖書の原則
聖書の言葉は,書かれた時代の言葉として読まなくてはなりません。この箇所においてもイエスが最後の晩餐のその場で,弟子たちに語られた言葉として読むということが第一です。しかし,もう一つの視点があります。それは当時の教会に語られた言葉としての視点です。弟子たちに語られたこれらの言葉は,当時の教会の信仰者に対して語られたものでもあります。そしてそれはまさに今の私たちに対して語られている言葉であることを意識したいと思います。
2. 裏切り
聖餐の直後,イエスはこう言われました。「しかし,見なさい。わたしを裏切る者の手が,わたしとともに食卓にあります。」直接的にはユダのことでしょう。しかし,これは聖餐を受けたものがみな受けるべき自己吟味でもあります。これは教会の話でもあるのです。イエスはその上でこう言われました。「人の子は定められたとおりに去っていきます。」 誰が裏切るか,そのこともイエスは知っていました。しかし,それでも十字架に架かられたのです。私たちが罪人であるにもかかわらずそうなさったのです。そのことを知っていてなお,イエスを裏切るような人は「わざわい」なのです。
3. 比較を超えて
弟子たちは犯人探しをし始めました。それが発展して,とうとうこの中でだれが一番偉いのかという論議にいたるのです。これは私たちの悲しい罪の現実です。罪を自分のものとしてではなく,他者との比較の中でとらえてしまう私たちの愚かさが表わされています。しかし,そこで,イエスは教会に大きな知恵を与えてくださいました。神を信じ,キリストに従う者は,自分を誇るのではなく,一番年の若い者のようになり,仕える人のようでありなさいと勧められました。人との比較の中で,自分を正しい者とするのではなく,私たち自身が一番弱く,貧しく,むなしいものであることを自覚し,仕える人となること。それはまさにイエスの姿でした。自己正当化では,私たち自身の罪はどうにもなりません。自己正当化をすることによって,神の憐れみやキリストの十字架の恵みを取り逃してしまうことでしょう。たとい誰からも評価されなかったとしても,イエスが私たちの忠実な歩みをご覧になっています。そして,神の国での祝福を約束してくださっているのです。
[考えるために]
私たちの基準はどこにあるのでしょうか。自己正当化に陥ってはいないでしょうか。
投稿者 mb-church : 16:39 | コメント (0) | トラックバック
2008/10/12礼拝メッセージ
2008年10月12日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ22:7~22:23
「これを覚えなさい」
1. 最後の晩餐
十字架にかかる日が近づいてきました。異様な緊張感がこのときのエルサレムの町にはあったのではないかと思います。民衆の期待と祭司長たちの殺意。そのような中で「最後の晩餐」は開かれました。この食卓が聖餐式のはじめの時となります。この聖餐式はもともと「食事」でした。この食事は過ぎ越しの食事と呼ばれるものでした。この食事こそ,神の救いを思い起こすときであり,神との契約の証でもありました。
2. イエスの晩餐
この過ぎ越しの食事をイエスは新たなものとしました。十字架の贖い,そして救いの新しい契約・・・イエスは,これから起こる出来事を何度も思い起こすようにとこの食卓を弟子に用意しました。「神の国が完成するその時まで,過ぎ越しの食事はしない。」それは必ず私は神の国で,あなたとともに食事をするという約束の言葉です。この食卓は,神の家族の全員が招かれている食卓です。一人で飲み食いするのではなく,一つのパンと一つの杯を分かち合うようにと命じられています。
3. 教会の晩餐
過ぎ越しの祭りは一年に一度でした。しかし,聖餐式はいつでも開かれます。過ぎ越しの食事と違い,教会ではキリストの聖餐をいつも開きました。なぜなら,キリストの十字架の出来事が,今信じる者にとって,今まさに目の前で起きる出来事でもあるからです。イエスは「わたしを覚えてこれを行いなさい」と言われました。聖餐の中心にあるのは「イエスを覚えること」そして「新しい契約」を私たち自身に絶えず刻みつけ,告白していくことにあります。それは儀式としてというよりも,みことばが語られ,イエスの教えが語られ,そして,十字架の死において流された血潮とささげられた体を覚えるときであり,さらには主の約束を思い返す時でもあるのです。
4. 私たちの晩餐
イエスは私たちと親しく食事をともにしてくださいます。イエスご自身を私たちに与えてくださいました。そして,神の国で杯を交わそうと約束してくださったのです。今は目の前にイエスはいないけれども,信仰を持ってこの食卓に着くときに,私たちの目の前にイエスはいてくださるのです。
[考えるために]
イエスが備えられた聖餐には,どのような意味があるのでしょうか。