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2008年10月24日
2008/10/5礼拝メッセージ
2008年10月5日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ21:37~22:6
「すべての人」
1. イエスの周囲
十字架を前にしたイエスの周囲には様々な人々がいました。まず「民衆」がいました。民衆はみな朝早くおきて,教えを聞こうとして,宮におられるイエスのもとに集まってきました。それは彼らの熱心さをあらわしています。それと同時に,イエスに対する彼らの期待の高さをも示しています。さらに過ぎ越しの祭りに入り,民衆の熱気は高まっていったことでしょう。その民衆の一方で,祭司長,律法学者たちは,イエスを殺すための良い方法を探していました。
2. 弟子たち
ここでは12弟子の一人の姿が記されています。それはユダです。ユダの裏切りは初期の教会で非常に大きな問題となったことでしょう。また彼を単純に悪者にはできない背景もあったのではないかと思います。他の福音書においてもユダの裏切りが取り上げられていますが,それぞれに特色があります。いずれにしてもユダの裏切りは衝撃的な出来事でした。これをどう教会は受け止めたのでしょうか。もう一つの問題はイエスが自ら十字架を予告していたということです。ユダの裏切もまたイエスは承知していたということも,弟子たちは知っていたのです。悪を神が誘発したのか,それとも神は悪を容認されたのか。ここでは「サタンが入った」と説明をしています。そうとしか言えないほどに私たち人間は弱いという現実があります。しかしそれだけではありません。そのことさえも神はご存知であるというもうひとつの側面があるのです。
3. すべての人
一見無害に見える群衆も,明らかにイエスに敵対していた祭司長たちも,さらにキリストの弟子たちも,裏切ったユダも,ここにいるすべての人が,イエスの十字架と無関係ではありません。群集は熱心にイエスの話に耳を傾けていました。しかし,彼らもまたイエスを十字架にかけることに賛同していきます。弟子たちも最後までイエスに従うことのできなかったものたちです。ここに登場する人すべてが罪人であり,それは私たちも同様です。しかし,主の名を呼ぶものは,みな救われる,これもまた聖書の語る真理なのです
[考えるために]
私たちの弱さとは何でしょうか。
神は私たちの弱さをどのように受け止めておられるでしょうか。
投稿者 mb-church : 15:07 | コメント (0) | トラックバック
2008年10月22日
2008/9/28礼拝メッセージ
2008年9月28日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ21:29~36
「神の約束を信じて」
1. 時を見極める
「この世界がいつまでも続くように」そう願うものです。私たちはイエスが口にされたその世界の悲惨な現状を見て祈ります。「どうか,ここに平和が,神の国が来ますように」と。イエスの宣教はこの言葉でスタートしました。「時が満ち,神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」イエスは時を見極めなさいと言われます。ここでそれをたとえを用いて説明しました。木が茂ることにより,季節の到来を知ると同じように,今がどのような時かを見極めなさいというのです。
2. 時の捉え方
イエスが語られた「その時」とは恐ろしい審判の時であるような気がします。よく耳にする最後の審判と呼ばれているものです。イエスも私たちを脅しているのでしょうか。この天地は滅びる,だから今信じなさいと言われているのでしょうか。全てが手遅れとなってしまうその前に神に立ち返りなさい,と勧めているのは確かなことです。しかし,ここでイエスは何か分からないけれど,恐ろしいから信じるようにと言っているのではありません。イエスは「本当の現実をしっかりと知りなさい」と仰っているのです。
3. 神の国の到来
神の国が来るとはどういうことでしょうか。それは,世界の終わりだけを意味しているのではありません。それは神の救いの完成の時です。あらゆる苦難や現実に対する神の完全なる回答が,「神の国の到来」です。イエスが教えられた「主の祈り」の中にもこの事が祈られています。これは「この世界を救ってください」という切実な祈りでもあります。神の国が来るということは2重の意味を持っています。それは「滅び」と「救い」です。滅びは罪の世の滅びです。そして救いは罪の世が過ぎ去り,そして神の国がここに到来することです。私たちの目に見えるものすべては崩れ去り,過ぎ去ります。しかし,神の言葉は決して滅びることはありません。つまり,神の約束が無に帰することはなく,神の救い,神の国は必ず来るということなのです。だからこそ,私たちは世に流され,落胆することなく,神の国が来ますようにと祈るものとさせていただきたいのです。
[考えるために]
主の祈りの意味をもう一度考えましょう。
私たちは何を祈っているのでしょうか。
投稿者 mb-church : 15:08 | コメント (0) | トラックバック
2008年10月16日
2008/9/21礼拝メッセージ
2008年9月21日の礼拝メッセージの要約です。
ルカ21:20~28
「頭を上にあげて」
1. 世の終わり
「世の終わり」はいつの時代においても語られてきました。終末ということを,私たちは聖書から正しく知ることが必要でしょう。聖書は始まりがあり,終わりがあるということを語っています。始まりはこの世界の始まりであり,私たちのいのちの始まりでもあるでしょう。そして終わりは人の生涯の終わりであり,この世界の終わり,終末のことをも指しています。しかし,その「終わり」は同時に「神の国の完成」「神の国の開国」の時と言ってもいいものなのです。
2. 二つの終わり
イエスは「世の終わり」について2つの側面から語りました。一つは「エルサレムの終焉」ともう一つは「世界の終末」です。「エルサレムの終焉」これは歴史の中ですでに起こった出来事です。「滅亡」「逃亡」「痛み」「大きな苦しみ」「神の怒り」それは悲しい現実です。当時の人々は神を信じる者にはこのようなことは起こらないと考えていました。しかし,イエスの認識は違いました。なぜならそのこともまた神によって預言された現実の苦難だったからです。この苦難は神の知らないことではなく,神が報いる日でもありました。さらにこの苦難に終わりがあります。「異邦人の時の終わるまで」さらに「人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗ってくる」その時こそ終わりの時です。
3. 贖いの時
初代教会は実際にエルサレムの滅亡に直面しました。その現実を目の当たりにしたとき,彼らはイエスのことばを改めて現実のものとして受け取ったことでしょう。そして,身を引き締めたに違いありません。ここでイエスは言われました。「これらのことが起こり始めたなら,からだをまっすぐにし,頭を上げなさい。」苦難は起こる,しかしそのときこそ,頭を天に向け,神を見上げよとイエスは言いました。なぜなら「贖いの時」がいよいよ来たのです。つまり神の国がここに到来し,完成する・・・それが贖いの時です。私たちもまた苦難の先にある神の救いを,神の贖いの時を信仰によって見させていただきましょう。主イエスの十字架の苦難と死の先にある,復活の栄光と新しいいのちを見上げさせていただきましょう。
[考えるために]
私たちの苦難の先に,主イエスは何を約束されたのでしょうか。
投稿者 mb-church : 14:08 | コメント (0) | トラックバック
2008年10月04日
2008/9/14礼拝メッセージ
2008年9月14日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書21:10~19
「忍耐によって」
1. イエスの預言
「恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。」すでにこれらのことが,私たちの時代において起こっていることを私たちは見ています。今の日本において,実感としては薄いものも中にはあるでしょう。しかし,潜在的に言い知れない不安や焦燥感があることも事実です。しかし,いつ何が起こっても不思議ではない中に私たちは生きています。このイエスのことばを聞いた人々も同様だったことでしょう。また弟子たちの期待は,イエスが,ダビデのような王として君臨してくださると期待していました。イエスが王位に着いてくだされば,決してそのようなことは起こらない,そう期待していたことでしょう。
2. イエスの認識
しかし,イエスの現実認識は異なりました。これから起こるのは,多くの痛ましい事柄と迫害であると言うのです。キリストを信じる信仰は安易な慰めの信仰ではありません。また現実から目を背けさせるようなものでもありません。この世界を生きるということは,苦しみの連続です。聖書はそのことを最初から記しています。「あなたはちりだから,ちりに帰らなければならない。」私たちのいのちには苦しみが付きまといます。
3. 慰めのことば
しかし,イエスは従うものに対する慰めと励ましの言葉を語ってくださいました。それは,苦しみの時,迫害の時,痛みの時,そこに必ず神の手が伸ばされるという約束でした。迫害のときも心配しなくてよい,なぜならそのときが「あかし」の時となるからだと言われました。また語るべきこともあなたがたに与えると約束されました。さらなる苦しみに会おうとも,あなたがたの髪の毛の一本も失われることはないとお語りになりました。なぜなら,イエスご自身が,十字架上でこれらの苦しみを受けてくださり,そしてそれゆえに,神がこの方を高くあげてくださったからです。イエスの忍耐の先にあったのは,復活のいのち,復活の主の栄光でした。私たちもまた苦しみのなかで忍耐を強いられることもあるでしょう。しかし主に従うものの忍耐は,キリストご自身の忍耐がそこに合わさり,キリストが受けた栄光と同じ栄光が,そこに完全にあらわされるのです。私たちをどんなときにも守られ,支えてくださる主の約束にとどまらせていただきましょう。
[考えるために]
イエスの忍耐の先にあったものは何でしょうか。
私たちの忍耐の先に約束されているものは何でしょうか。
投稿者 mb-church : 14:53 | コメント (0) | トラックバック
2008/9/7礼拝メッセージ
2008年9月7日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書21:5~9
「警告と招き」
1. イエスとの対決
イエスは人々との対決を深められます。私たちも同じようなところがあります。私たちが聖書と,イエスと向きあうときに,私たちの内面が探られるということがあります。そのことを通して,私たちの信仰は自立していきます。最初から神のことがよくわかる人はいません。一人の人が練り上げられるのには相当な時間が必要なのです。ここでもイエスは人間と神との考えの違いを明らかにしています。
2. 身勝手なメシア像
イエスは民衆に語りました。「どうして,人々はキリストをダビデの子と言うのですか。」「ダビデの子」というのは,当時のメシアに対する称号です。この言葉だけを取れば正しい物の言いでした。しかし,問題は,この言葉を口にするときにどのような思いを抱いていたかということです。「ダビデの子」それは文字通り新しい王,ダビデのような王,そのような人を指していました。彼らにとっての救いとは何だったのでしょうか。自国の栄光,繁栄,地位の保障,勝利,平和,自由・・・これらをもたらす偉大なリーダー,カリスマ的な人物を彼らは待ち望んでいたのです。現代ではどうでしょうか。私たちはいかなる思いでキリストの名を口にしているのでしょうか。
3. イエスとは誰なのか?
イエスとは人なのか,それとも神なのでしょうか?イエスはここで詩篇110篇を引用しました。これは父なる神が,メシアであるダビデの主に語ったと記している箇所です。これをイエスはダビデがキリストを主と呼んでいるのだと解説しました。このことは同時にご自身がいったい何者かを示した言葉なのです。それは,この世の中で考えられている神でもなく,人間のレベルのカリスマでもないということ。この詩篇にある私の主とは,世界の全ての王であると同時に「祭司」であると歌われている方です。王であり,祭司である方こそ来るべきメシアです。王とは神の正しさを実現する者であり,神の民を導く方です。そして祭司とは,神と民とを仲介する役目を負っています。その方が私たちの救い主であるがゆえに,私たちは神の民であり続けることができるのです。最後の最後まで,神の前に赦されたものであり続けることができるのです。それゆえに神の愛から誰も私たちを引き離すことはできないのです。私たちの救い主は,ただの人間でもなく,ただの神でもないのです。
[考えるために]
詩篇110篇にあるメシアの姿とはどのようなものでしょうか。