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2008年09月21日

2008/8/31礼拝メッセージ

2008年8月31日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:45~21:4
「与えられているものによって」

1. 律法学者と金持ち
 イエスは律法学者たちと対立しました。「律法学者には気をつけなさい。」教会の指導者である弟子たちにイエスは語られました。律法学者はどのような人々だったのでしょうか。イエスが語られたように彼らは長い衣をまとっていました。その姿は目に見える形での権威を示しています。また広場で特別な挨拶をしました。会堂や宴会の席でも特別な席があったようです。さらにイエスはやもめの家を食いつぶしているとか,長い祈りをすると指摘しています。イエスは目を上げて話を続けました。それは金持ちたちが献金している姿と,貧しいやもめがレプタ銅貨を二つ投げ入れている姿でした。そこで語られたのは,この貧しいやもめこそ,どの人よりも多く神にささげた人であるという話でした。

2. イエスの非難
 私たちはイエスの言葉から何を受け取るでしょうか。律法学者や金持ちのようではなくというメッセージでしょうか。見るからに悪い人を悪く言うことは簡単なことです。しかし,ここでイエスは見るからに悪い人のことを取り上げているわけではありません。律法学者も金持ちも,彼らは悪人ではなく,むしろ神によって祝福された人と言ってもいいでしょう。律法学者になるためには,相当な努力が必要ですし,金持ちは,まさに神からの祝福を受けたものたちであると言えます。宮を支えていたのは,このような人々でもありました。しかし,イエスはその彼らのあり方を明らかに非難されたのです。

3. すべては神のために
 私たちは目に見えるものに縛られます。あの人は立派であるとか,またしっかりしているということを重要視します。しかし大事なことは,私たちが持っているもの,努力も血筋も環境も,また地位もお金も名誉も,そのすべては誰のものであるのか,という根本的な問いかけがあります。多くのものを与えられた人には,多くの責任が持たされています。それらのものをもって,与えてくださった神のすばらしさを表し,さらに神が望まれていることを実現するために,一人一人に多くのものが与えられているのです。ここで非難しているのは,自分に与えられたものを,自分の栄光のためや神に感謝せずにささげている姿です。主がほめられたこのやもめの姿は私たちに何を示しているのでしょうか。

[考えるために]
 私たちに与えられているものとは何でしょうか。それはなぜ委ねられているのでしょうか。

投稿者 mb-church : 07:09 | コメント (0) | トラックバック

2008/8/24礼拝メッセージ

2008年8月24日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:41~44
「王であり祭司である方」

1. イエスとの対決
 イエスは人々との対決を深められます。私たちも同じようなところがあります。私たちが聖書と,イエスと向きあうときに,私たちの内面が探られるということがあります。そのことを通して,私たちの信仰は自立していきます。最初から神のことがよくわかる人はいません。一人の人が練り上げられるのには相当な時間が必要なのです。ここでもイエスは人間と神との考えの違いを明らかにしています。

2. 身勝手なメシア像
 イエスは民衆に語りました。「どうして,人々はキリストをダビデの子と言うのですか。」「ダビデの子」というのは,当時のメシアに対する称号です。この言葉だけを取れば正しい物の言いでした。しかし,問題は,この言葉を口にするときにどのような思いを抱いていたかということです。「ダビデの子」それは文字通り新しい王,ダビデのような王,そのような人を指していました。彼らにとっての救いとは何だったのでしょうか。自国の栄光,繁栄,地位の保障,勝利,平和,自由・・・これらをもたらす偉大なリーダー,カリスマ的な人物を彼らは待ち望んでいたのです。現代ではどうでしょうか。私たちはいかなる思いでキリストの名を口にしているのでしょうか。

3. イエスとは誰なのか?
 イエスとは人なのか,それとも神なのでしょうか?イエスはここで詩篇110篇を引用しました。これは父なる神が,メシアであるダビデの主に語ったと記している箇所です。これをイエスはダビデがキリストを主と呼んでいるのだと解説しました。このことは同時にご自身がいったい何者かを示した言葉なのです。それは,この世の中で考えられている神でもなく,人間のレベルのカリスマでもないということ。この詩篇にある私の主とは,世界の全ての王であると同時に「祭司」であると歌われている方です。王であり,祭司である方こそ来るべきメシアです。王とは神の正しさを実現する者であり,神の民を導く方です。そして祭司とは,神と民とを仲介する役目を負っています。その方が私たちの救い主であるがゆえに,私たちは神の民であり続けることができるのです。最後の最後まで,神の前に赦されたものであり続けることができるのです。それゆえに神の愛から誰も私たちを引き離すことはできないのです。私たちの救い主は,ただの人間でもなく,ただの神でもないのです。

[考えるために]
 イエスとはどのようなお方であると聖書は語っているでしょうか?

投稿者 mb-church : 07:06 | コメント (0) | トラックバック

2008年09月10日

2008/8/17礼拝メッセージ

2008年8月17日の礼拝メッセージの要約です。
この日は吉澤慎也神学生がご奉仕くださいました。
ヨナ書1:1~17
「ヨナと神様と私」

1. ヨナ書アウトライン
①海におけるヨナ
 A. ヨナの最初の召命(1:1-3)
 B. ヨナと水夫たち(1:4-16)
 C. 救出に対するヨナの感謝(1:17-2:10)

②ニネベにおけるヨナ
 A. ヨナの第二の召命(3:1-3)
 B. ヨナとニネベの人々(3:4-10)
 C. ニネベの救出に対するヨナの怒り(4:1-11)

2. 海に投げ込まれたヨナ
 アッシリヤ帝国の首都ニネベに行くようにという主の言葉に対して、預言者ヨナは主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとする。船は激しい暴風に襲われるが、ヨナは祈らない。ヨナは自暴自棄になっていたと思われる。海に投げ込まれたヨナは、ようやく神様の方を向き始め、魚の中から感謝の祈りをする。
ヨナの態度は中途半端で、ゆっくりとした成長しか見られないが、それでも神様はヨナをあわれまれた。神様は、ヨナと同じような私たちにもあわれみを示してくださる。

3. ヨナの怒りと神様のあわれみ
 ヨナの働きにより、ニネベは滅びを免れるが、そのことでヨナは怒る。ヨナは正義感が強く、ニネベのような悪の町は滅びるべきだと考えていた。それはヨナが最初にタルシシュへ逃れようとした理由でもある(4:2)。ヨナでさえも理解できない神様の深いあわれみが、ヨナ書の中心メッセージ。しかし最もあわれみを受けたのはヨナ自身であろう。ヨナは必ずしも模範的な信仰者として描かれていないが、神様はヨナに対して大きなあわれみを示した。ヨナと同様の私たちにもまた、神様の永遠の愛が注がれていることを覚えたい。その神様の愛を覚える時に、私たちの心にも他人に対する寛容さが生まれるのではないか。

投稿者 mb-church : 21:40 | コメント (0) | トラックバック