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2008年08月10日
2008/8/10礼拝メッセージ
2008年8月10日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:27~40
「生きている者の神」
1. サドカイ派
サドカイ派は祭司職についていたユダヤの貴族階級に支持されていました。彼らは義人の復活を否定しました。彼らは「レビラート」と呼ばれる制度を用いて質問をしました。それは規定通りに行った場合,もし復活があるならば復活後妻は誰の妻となるのか?という質問でした。
2. 質問の真意
レビラート婚の制度は「相続」ということがその根底にあります。それは真の神に対する信仰の継承が,神が与えてくださった財産を継承することと固く結びついていたからに他なりません。それほど,この世におかれた神の民の使命が重要なものであったことを,この規定は表しています。しかし,サドカイ派はその点は問題にせず,ただ表面的な規定を取り上げてイエスに質問しました。一見,夫婦の問題であるかのように見えます。しかし,この質問で問われているのは夫婦の愛ではありません。復活の時に妻は誰のものとなるのか,さらには,結局,財産は誰のものになるのかという問題なのです。彼らは律法を取り上げながら,その根底には世俗的な考えがあることがわかります。しかし,私たちもまた,神の国と義を求めているようで,その実態はこの世の現実や心配で頭の中がいっぱいになっているのではないでしょうか。
3. 復活の子
イエスは答えられました。「義人が復活したならば,そのような人はめとることも,とつぐこともない。」神の国ではもう財産の相続など関係はありません。なぜなら,そこは神の完全なる支配が完成に至った「国」だからです。さらにイエスは言います。「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは,神に対しては,みなが生きているからです。」つまり,神は過去のお方でもなく,また死んでしまった者の神ではありません。今,生きている者の神であり,それはアブラハムの時代から,今に至るまで同様であるということ。そして,今,神を信じ,神に従うということは,神がこれから先,永遠に至るまで,私たちを心に留めてくださるということです。イエスにあって神の国に入る,そして永遠のいのちを持つということは,私たちの想像をはるかに超えたことであり,この世の尺度では決して測ることができない大きなものです。その約束はアブラハムや過去の信仰者のものではなく,今生きている者に与えられてもいる約束であるということなのです。
[考えるために]
私たちはどこに向かって生きているのでしょうか。この世,目に見えるものに対してでしょうか。
それとも,神に向かって生きるものでしょうか。
投稿者 mb-church : 15:49 | コメント (0) | トラックバック
2008/8/3礼拝メッセージ
2008年8月3日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:19~26
「神の肖像」
1. 律法学者たちの反発
たとえ話を聞いて,律法学者たちは自分たちのことであると気がつきました。しかし,彼らは神に立ち返りイエスを受け入れようとはしませんでした。反発の度合いを強め,義人を装った間者を送りました。イエスの言葉尻を捕まえて,理由をつけ総督の下へと引き出そうと考えたのです。自分たちの手を汚さずにイエスを葬り去ろう,それが彼らの狙いでした。
2. 間者の罠
彼らは税金に関する質問をイエスにしました。「私たちがカイザルに税金を納めることは,律法にかなっていることでしょうか。」この質問は,答え次第ではローマ総督へ引き出すか,もしくは民衆がイエスから離れていくきっかけになるものでした。イエスは答えました。「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。」銀貨にはカイザルの肖像が彫られていました。そこでイエスはこのように言います。「カイザルのものはカイザルに。そして神のものは神に返しなさい。」イエスは税金を納めることを否定しませんでした。しかし,献げることの本質的な議論に入っていったのです。
3. 誰のものか
「神のものは神にかえしなさい。」問題はここです。「神のもの」これは一体何か。ここで注目すべきは「肖像」という言葉です。この言葉は「かたち」という言葉です。つまり,神のかたちとは何かという問いをイエスは投げかけているのです。神の「かたち」それは人間の創造のときに神が語った言葉です。神のかたちであるものは何でしょうか。それは「人」です。神のかたちでが刻まれている人間,そうあなた自身を神に返しなさい,神にささげなさい,と語られたのです。
4. 神のものは神へ
私たちの目線はどこに向けられているでしょうか?「神のものは神に返す」ということはどの範囲をさしているのでしょうか?旧約の規定である10分の1でしょうか。表向きは正しく行っているかのように見えて,全てをご存知で,全てを下さった方に何をお返ししていたのでしょうか。私たちは何よりも大きなものを神からいただいています。それが十字架の主イエス・キリストなのです。この十字架に対して,わたしたちは何を神にお返しすることができるでしょうか。
[考えるために]
あなたにはどなたの肖像が刻まれているのでしょうか。
何を神にお返しすることができるでしょうか。
投稿者 mb-church : 15:46 | コメント (0) | トラックバック
2008年08月02日
2008/7/27礼拝メッセージ
2008年7月27日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:9~18
「砕きの石」
1. 主人と農夫
ある人がぶどう園を造り,農夫たちに貸して長い旅にでます。季節になりぶどう園の収穫の分け前をもらうことにしました。そこで一人のしもべを遣わします。ところが農夫たちは,このしもべを袋叩きにし送り返したのです。そのようなことが三度繰り返されます。このたとえ話は,イスラエルと神,人間と神との関係が描かれています。しもべは旧約の預言者です。神は預言者を通して,この世界の真の主人が誰であるかを語ってきました。しかし,その預言者を,神のことばである聖書を私たちはどのように扱ってきたのでしょうか。このたとえのように,そのことばを受け止めず,軽んじ,無視してしまっているような現実があるのではないでしょうか。
2. 主人の忍耐
この主人は,三度もしもべを農夫たちに送りました。これこそイエスが語る神の姿なのです。神は寛容にこの世界を私たちにゆだねておられます。そのような中で,何度も神は私たちに語りかけておられます。「今,神に立ち返りなさい,あなたは神から離れてしまっている。神は悔い改める民をあわれみ深く扱ってくださる」と語りかけてくださっている。しかし,私たちはその言葉に耳を傾けず,自分の考え,自分の悟りによって歩んでいるのです。しかし,神は三度目を越えて,とうとう彼の愛する息子を遣わすことにしました。しかし農夫たちは,その息子を殺すという暴挙に出るのです。当然,ぶどう園の主人はこの農夫を打ち滅ぼしてしまいました。
3. 和解の使者
人々は,この話を聞いてそんなことがあってはならないと言います。この主人は農夫たちに望みを置きました。何とか分かって欲しいと期待したのです。しかし,残念ながらその思いは農夫たちに届きませんでした。この息子は礎の石であり,その石によって私たちが神の前に問われているのだとイエスは語ります。この息子こそイエス自身です。イエスが来られたのは決して私たちを裁くためだけではありません。神が御子を世に遣わしたのは、御子によって世が救われるためなのです。愛する息子を送ったのは,そこに最後の希望を置くためでした。私たちは,その和解の使者をどのようにお迎えするのでしょうか。神の前に悔い改め,イエスを信じるならば必ず神との和解が与えられるのです。
[考えるために]
私たちと神様との関係を考えて見ましょう。
どれだけ多くのものが私たちの手に委ねられているのでしょうか。
投稿者 mb-church : 14:36 | コメント (0) | トラックバック
2008/7/20礼拝メッセージ
2008年7月20日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書20:1~8
「誰の権威の下で」
1. 宮きよめで語られたこと
「宮きよめ」のメッセージの本質は,神の前の悔い改めを迫ったということにあります。あなた自身が,神の前にささげられているのか,そうイエスは問われました。これまでのあり方を神の前に悔い改め,キリストをお迎えしなさい・・・神はそのあなたを救ってくださる。これが救いのメッセージです。
2. 何の権威の下に
私たちはどこに基準を置いているのでしょうか。どの尺度で物事を計り,他の人を値踏みしているのでしょうか。ユダヤ人たちはイエスに問いました。「何の権威によって?」これは実に根本的な「問い」です。私たちが人間である限り,どこかに基準(権威)を置き,この世界と関わっていることでしょう。しかしイエスは人々の目に見える基準を否定されました。そしてこの行動は,この時代の権威の下にあった人々を震え上がらせ,恐れさせました。なぜ彼らは恐れたのでしょうか?
3. イエスの行動の前に
なぜなら,イエスの言動は,人による権威を無効化した行為だったからです。その前に私たちが立たせられるならば,たちまち人間的な取り繕った正しさや正義ではなく,神の前に素の私たちの姿があらわになってしまいます。ですから,祭司長,律法学者,長老たちはイエスの前に恐れました。彼らは表向き正しさを保っているように見えます。しかし,その正しさは人の権威によって築き上げられたものでした。彼らだけではありません。私たちの世界もまた,何らかの権威によって成り立っています。それは個人においても同様です。
4. 天からか人からか
彼らは問いました。しかし,イエスは問いを彼らに返されました。ヨハネのバプテスマは天からなのか?しかし,彼らの結論は「どこからか知りません」というものでした。それは,ただプライドと人を恐れての結論でした。彼らが恐れているのは神ではなく,「多くの人の目」また彼らが築き上げてきたものを失うことへの恐れだったのです。イエスは言われます。「あなたがたに話すまい。」この答えは,彼らの頑なさゆえです。人の目を恐れず,正しさに固執しなければ答えを出せたはずです。イエスが答えてくださらないのではなく,私たちの方で本心を隠し,答えを避けてしまうことがあるのです。
[考えるために]
私たちは考えや行動の基準をどこに置いているのでしょうか?