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2008年07月27日

2008/7/13礼拝メッセージ

2008年7月13日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書19:45~48
「祈りの家」

1. 宮清め
 イエスはエルサレムで最初に宮清めをしました。イエスは人の罪と悲惨を思われ涙されました。罪から自分の力で抜け出せないことにこそ人の悲惨があります。当時,エルサレムの宮で認められて人々は商売をしていました。イエスはその人々を追い出しました。なぜイエスはこのような行為に及んだのでしょうか。「わたしの家は,祈りの家でなければならない」「あなたがたはそれを強盗の巣にした」これらは旧約聖書の言葉です。一つはイザヤ書56章です。この箇所の中心テーマは「異邦人(罪人)の救い」です。ここでの「祈り」とは神に私たち自身を受け入れていただくことを願う祈りです。しかし,私たちの祈りは,自身の欲することを願う祈りに終始します。私たちがまず祈らなくてはならないことは何でしょうか。それは,主が罪人の私を受け入れ,ご自分の民としてくださることを願う神の前に立つ祈りなのです。

2. 真の神を信じる信仰
 真の神を信じる信仰とは何でしょうか?私たちは祈ったので主は聞いてくださるとか,祈っていないので聞いてくださらないと思いがちです。しかし,神は悔い改め,主に立ち返り,自分自身を主にささげたものを,ご自分の民と言ってくださいます。私たちをご自分のものとされたがゆえに,主は必ず祝福してくださるということ,これこそ真の神信仰です。キリストの体なる教会もまた祈りの家と呼ばれます。その祈りの中心にあるのは,真の神を信じる信仰です。主に対して私自身をささげる礼拝がその中心にあります。「強盗の巣」はエレミヤ書7章にある言葉です。表向きの言葉と,内なる信仰との分離が語られています。それは偽りの信仰です。イエスは,表向きは神をあがめているようで,その実は神ご自身を求めていない私たちと真正面から向き合おうとされています。

3. ご自身をささげられたイエス
 イエスはなぜ,十字架の直前に宮を清められたのでしょうか。それは,これから十字架上でささげられる犠牲の大きさに目を向けさせるためです。私たちの罪のために,ご自身を神の前でささげようとされているからです。イエスの十字架の犠牲によって,私たちの祈りが神に受けいれられるものとなります。私たちはこの宮を清められたイエスの姿を思い,この礼拝に集い,私たち自身を神にささげてまいりましょう。

[考えるために]
 私たちが第一に祈るべき祈りとは何でしょうか?

投稿者 mb-church : 13:44 | コメント (0) | トラックバック

2008年07月19日

2008/7/6礼拝メッセージ

2008年7月6日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書19:28~44
「王のあわれみ」

1. 人々の期待
 いよいよイエスはエルサレムへと近づきました。しかし,弟子たちや群集はイエスの十字架を理解していません。しかし,人々の興奮は最高潮に達していたことでしょう。そのような中,ロバの子の背に乗ってイエスは行進しました。

2. ロバの子
 イエスが二人の弟子に命じられた通りに,ロバの子が連れてこられ,その背にイエスは乗りました。ここにもイエスの超越性や神性の一端を垣間見ることができます。しかし,それ以上にこの個所が示しているのは,人々の不理解の中で,主イエスご自身が真の姿を明らかにされたということです。ロバの子の背に乗ったのは,ゼカリヤ書9:9にある王の姿を示されたからです。それは平和の王としての姿でした。さらには,完全に謙った王の姿でもありました。イエスの視線の先には確かに十字架がありました。

3. 人々の狭間で
 人々の救い主としての期待とは反対に,パリサイ人たちからはこの騒ぎを鎮めるようにとの言葉がありました。一見華やかに見えるイエスのエルサレム入城は,八方塞がりな状態となっていました。誰も,これからの十字架への歩みやその重さを理解しようとはしていませんでした。まさに人間の罪の重さを,誰も見ようとはしていなかったのです。しかし,イエスはこの人々,エルサレムの姿に涙を流されたのです。

4. イエスの涙
 イエスは泣かれました。本当の平和,神との和解を求めない人々の姿を見て泣かれました。それは人間の罪の現実でもありました。この平和は決して私たちの力で果たすことのできないものです。しかし,それは私たちの目には隠されています。なぜ隠されているのでしょうか?あの弟子たちも十字架のことが分かりませんでした。それは神が隠したのではありません。私たちの「罪」によって隠されたのです。それゆえに私たちは神の言葉を信じることができないでいます。主イエスが涙されたのは,この人の盲目的な罪ゆえです。しかし,イエスの涙は決してあきらめの涙ではありません。この涙は神の憐れみと愛から流された涙です。この涙の前に,私たちの心の頑なさを悔い改めましょう。

[考えるために]
 イエスの涙はどのような思いから流された涙でしょうか?
 また,誰のために泣かれたのでしょうか?

投稿者 mb-church : 10:42 | コメント (0) | トラックバック

2008年07月04日

2008/6/29礼拝メッセージ

2008年6月29日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書19:11~28
「主のみ思いはどこに」

1. 私たちと主の考えの違い
 イエスがエルサレムに近づくと,人々は神の国がすぐに実現すると考えていました。人々の思い描く理想と,イエスが考える神の国とが異なっていました。カルバンはこう記しています。「われわれに良きものがあるとすれば,それは御霊の実にほかならず,これなしでは我々のものとしては精神の暗黒と心情の倒錯しかない。」私たちはどこかで自分は正しいものであるという思いを持ってしまいがちです。しかし,ここで一つのたとえ話を通してそのような考えを退けられました。

2. ある身分の高い人
 ある身分の高い人はイエスのことを指しています。イエスが十字架の後に天にあげられ再び戻ってこられる,その間の時を指してたとえを話されました。この人は10人のしもべを呼んでお金を手渡して命じます。「私が帰るまで,これで商売しなさい。」イエスは王位を得て戻ってきます。そしてしもべたちがどのようにすごして来たかを聞くのです。お金を有効に運用したものには良い評価を与えられました。しかし,ある人が主人の前にやって来ました。彼はお金を包みにしまいこんで取っておきました。なぜなら,彼の目にこの主人は「計算の細かい厳しい方」「すべてを奪い取る方」として写っていたからです。主人はこの人に厳しい応答をしました。「その一ミナを彼から取り上げて,10ミナ持っている人にやりなさい。」

3. しもべの不理解
 厳しい話です。しかし,私たちが一番に注目すべきことは,このしもべがまったく主人のことを理解していなかったということです。私たちもまた,イエスのことを理解しているでしょうか。ある人は,この方を王と認めません。また,ある人は,イエスを神の子と認めていながらも,イエスのことを理解しようとしていません。私たちの目にイエスはどのように映っているのでしょうか。儲けた人々は,預けられたものを最大限に用いようとしました。失敗するか,成功するかが問題ではありません。それよりも,彼らは主人に言われたことを忠実に実行し,必ず主がほめてくださると信じていました。主は私たちに恵みに生きるように,そして,必ず将来さらに私たちに与えてくださることを信じて生きるようにと,私たちに語ってくださっているのです。ただし忘れてはなりません。主イエスが望まれていることは何であるかを。

[考えるために]
 主イエスの望まれていること,命じられていることは何でしょうか?

投稿者 mb-church : 13:15 | コメント (0) | トラックバック

2008/6/22礼拝メッセージ

2008年6月22日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書19:1~10
「義人ザアカイ」

1. ザアカイ
 今日の結論はこうです。「救いは神の招きにこたえること」。イエスの呼びかけにこたえる時に,そこに救いがもたらされます。その招きにこたえた人がザアカイでした。ザアカイとは「義人」という意味の名前です。彼はその名とは異なる人物でした。人からも,また自分でも救いようがないと見なされたこのザアカイはどのように救いに預かったのでしょうか。それはある奇跡が起こったからです。

2. 奇跡
 どのような奇跡が起こったのでしょうか。それは一見すると小さなものでした。しかしその意味するところは計り知れない大きさを持つものでした。その奇跡は「神との出会い」という奇跡です。ザアカイは神の子イエスと出会ったのです。彼はイエスが来られると聞いて走り出します。彼はイエスを間近で見たいとの思いから,木に登りました。しかし,そこで予想していなかったことが起きました。イエスが突然上を見上げ彼に声をかけられ,彼の家に泊まることになったのです。

3. ザアカイの喜び
 彼はこの申し出を喜んで受け入れました。彼はイエスを「私の主,神の子」としてへりくだりつつ迎えたのです。彼はイエスとの出会いを求めていました。そして,イエスはそのザアカイのところに「ちょうど」来て下さったのです。彼が喜んでイエスを迎えると,ザアカイには大きな変化がもたらされます。彼の心を本当に満たすものが与えられたのです。

4. 真の宝
 本当の宝は私たちが探し出して手に入れるのではありません。宝とは,私たちを探しておられるイエスを迎え入れるということです。ザアカイの奇跡は,神の御子イエスがザアカイの前に来てくださったこと,そしてザアカイがイエスを救い主として迎え入れたということでした。救いは,すでに私たちを探して下さったイエスを私の内に招きいれるということです。その時にザアカイと同様に,大きな喜びが私たちに沸き起こります。私たちは本当の宝を手に入れることができるのです。

[考えるために]
 本当の宝とは何でしょうか。
 私たちを真に満たすものは何でしょうか?

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2008/6/15礼拝メッセージ

2008年6月15日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:35~43
「信仰によっていやされる」

1. エリコに近づいたイエス
 イエスはエリコという町に近づかれました。そこには,ある盲人が道端に座り,物乞いをしていました。その日はいつもとは違いました。大勢の人々がこの人の前を通りすぎようとしていました。ナザレのイエスが通る・・・この盲人は,それを聞いて即座の反応を示します。彼は大声で叫びはじめました。ダビデの子のイエス,これはまさにイエスこそメシアであると彼が告白している言葉と言えるでしょう。あの役人とは正反対の姿がここにあったのです。

2. 役人との対比
 彼は,盲目で物乞いをせざるを得ない状況にありました。あの役人は自分でイエスの目の前にやってきました。そして自分からイエスに「永遠のいのち」を得るためにはどうしたらいいかを聞きました。彼の目にはイエスはただの人,偉い教師でしかありませんでした。また弟子たちにもイエスの真の姿は隠されていました。しかしこの盲目の人はどうでしょうか。彼はイエスを救い主と認め,そしてイエスにあわれみを求めた人でした。

3. 叫ぶ人
 彼の見えない目にうつったのは,人としてのイエスではなく,神が約束してくださったメシアの姿でした。周りの人は彼を黙らせようとします。しかし,彼はますます大きな声で信仰を告白しました。これは信仰の叫びです。今を逃してしまったら,イエスは自分に気がつかずに通りすぎてしまう。この叫びにイエスは目を留められました。

4. 信仰による救い
 イエスは彼に尋ねます。「わたしに何をして欲しいのか?」自分では見ることができない。自分には何もできない。ただあなたに願い叫び,求めるだけ・・・。そのことを彼はよく知っていました。この人は自分は本当に神の前に貧しく,弱く,何もないものであることを知っていたのです。そしてイエスこそ,この私を救ってくださる方であることを信じ,告白しました。「見えるようになれ,あなたの信仰があなたを直したのです。」あなたの信仰があなたを直した,この言葉は「救い」という意味の言葉です。イエスを信じる信仰だけが,私たちに救いをもたらすのです。

[考えるために]
 癒された人の目には,イエスはどのような方として映ったのでしょうか?

投稿者 mb-church : 13:10 | コメント (0) | トラックバック

2008/6/8礼拝メッセージ

2008年6月8日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:28~34
「その手に握り締めたもの」

1. 救いの真髄
 役人とのやり取りの中でイエスは言いました。「人にはできないことが,神にはできるのです。」これこそ救いの真髄です。神に委ね,イエスを信じるとき,救いは必ず与えられます。ところがイエスの弟子は,この話しの後にこのように言いました。「私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」役人が悲しそうに出て行ったのとは対照的な言葉です。イエスに評価を求める姿がここにあります。ここに役人と同じような匂いを感じます。「名誉」と「賞賛」です。この弟子の言葉に,イエスはどのように答えられたのでしょうか。

2. イエスの答え
 イエスは「神の国のために,家,妻,兄弟,両親,子どもを捨てた者で,だれひとりとして,この世にあってその幾倍かを受けない者はなく,後の世で永遠のいのちを受けない者はありません」と言いました。イエスが語られたのは,「この時に何倍も多くを,来たる時に永遠のいのちを受けないものはない」という内容です。イエスは,直接に弟子のことを賞賛しいません。それではイエスは何をお語りになったのでしょうか。

3. あなたの手に何があるのか
 家,妻,兄弟,両親,子どもを捨てた者とイエスは言いました。また役人とのやりとりでは,財産を捨てて従いなさいと命じられました。これらの言葉の意味するところは,「あなたが頼りにし,誇りにしているものは何か?あなたのその手に握り締めて,離せなくなっているものは何か?」という問いかけではないでしょうか。自分のものとして握り締めてしまっているものを手放し,神の前にへりくだり,神にすべてを預けなさいとイエスは語られているのです。

4. 神の祝福
 今のこの時,私たちが自分の手に握りしめているものを手放していくときに,それをすべて主が祝福してくださる・・・終わりの時には,必ず神の国を,永遠のいのちを私たちに与えてくださる,その約束がここにあります。この祝福は,自分だけが何倍も得るということではありません。家,夫婦,兄弟,両親,子ども,そのすべてにおいて,神の守りと祝福が及ぶと言ってもいいでしょう。神は私たちに必要なものを,あの空を飛ぶ鳥,野にさく花のように,いえ,それ以上に私たちに与えてくださるのです。

[考えるために]
 私たちの手から離すことのできなくなっているものは何でしょうか?

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