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2008年05月31日

2008/5/18礼拝メッセージ

2008年5月18日の礼拝メッセージの要約です。
申命記31:6~8
「これからという時」

1. 先の見えない今を生きる私たち
 「これからどうなるのか?」これはとても大きな関心事です。特に今の多様化,複雑化の時代にあって,未来に対する明快な答えは誰も持っていません。現実からは決して目を背けてもいけませんし,できるだけしっかりとした情報を得,また考えを持つべきなのはいうまでもありません。しかし,私たちには聖書が与えられています。私たちは聖書が教える,神の目線を教えられる必要があるのです。

2. 本当の今を生きる私たち
 私たちにとって本当の「今」は,主イエスを救い主として信じるときから始まります。主イエスを信じ従うときに,私たちは本来の「自分」になるのです。それは,出エジプトのイスラエルの民と重なります。彼らは約束の地を目指して歩みを進めました。その旅路を通して,彼らは自分たちを救うお方こそ神であり,他には神はないことを教えられ続けたのです。モーセは繰り返しこう語ります。「あなたの神,主の御声に聞き従い,きょう,あなたに命じる主の命令とおきてとを行いなさい。」この命令が語られたのは,約束の地に入った後こそ,神に選ばれた民としての歩みが始まるからに他なりません。神が与えてくださる救いの完成の時は未だ来ていません。私たちは既に救われているけれども,未だ完成していない時代に生きているのです。

3. 遣わされる私たち
 イスラエルの民が約束の地に入るということは,カナンの地へと遣わされるということをも意味していました。そこは,多くの異民族がすでに住み,真の神でない神々が入り乱れた世界でした。だからこそ,神とみ言葉に中心を置くように繰り返し言われています。私たちにも同様のことが起こっています。キリストの十字架によって,私たちは罪の奴隷から解放され,自由が与えられました。さらに,私たちはイスラエルの民と同様に,この世へと遣わされています。私たちはこの世にあって,神の国を待ち望むものたちです。遣わした者たちに神は語られます。主ご自身があなたの先に進み,ともにおられると。私たちも遣わされたものとして,主に信頼して歩ませていただきましょう。

[考えるために]
 あなたは今,どこに遣わされているのでしょうか。また,与えられている使命とは何でしょうか?

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2008年05月22日

2008/5/11礼拝メッセージ

2008年5月11日の礼拝メッセージの要約です。
Ⅱコリント6:1~10
「いまという時を見つめて」

1. 恵みの時
 パウロは「いま」という時をどのようにとらえているでしょうか。イザヤ書を引用して,いまは恵みの時,救いの日であると記しています。「救いの日」とは実のところ神のみこころの時でもあります。「救い」は,私たちにはコントロールすることはできません。救いは,ただ神のみ思いによってもたらされるものです。それはただイエス・キリストの十字架と復活によって,神から与えられたのです。

2. いまという境
 恵みの時,救いの日は,イエス・キリストがその境にあります。キリスト以降はすべて「恵みの時,救いの日」なのです。このことは一人の人の生の中でも起こります。キリストを救い主として信じる前と後。イエスを救い主として信じる私たちが生きているのはまさに恵みの時である「いま」です。キリストにあるいまを自覚したときに,いったい私たちの中に何が湧き上がってくるのでしょうか?

3. 真のアイデンティティー
 イエスとの出会いによって,私たちの中に真のアイデンティティーの確立が与えられます。私たちが何者なのかということがはっきりするのです。そのことをパウロはこのように表現します。「あらゆることにおいて,自分を神のしもべとして推薦している・・・」彼はキリストを信じるすべての人を,神のしもべであると推薦しています。キリストを信じて生きるとはどういうことでしょうか?それは,「いま」という時をどのようにとらえるかにかかっています。

4. 逆転の恵み
 パウロも彼を取り囲む「いま」を見つめます。さらに彼の内面に起こった「いま」も記しています。これらはキリストを信じたことによって得たものであり,引き起こされた出来事です。良い評価も悪い評価ももちろんあります。しかし,彼の中にはキリストによってもたらされた救いが確かにあります。私たちは神のしもべなのです。神のしもべは逆転の恵みに生き続ける者たちです。そしてその逆転を可能にするものこそ,キリストの十字架なのです。

[考えるために]
 「いま」はキリストにあって,どのような時と言えるのでしょうか。

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2008年05月14日

2008/5/4礼拝メッセージ

2008年5月4日の礼拝メッセージの要約です。
申命記4:32~40
「きょうに至るこれまで」

1. 申命記とは
 申命記は,モーセの遺言と言われる書です。イスラエルの40年もの荒野を彷徨う旅の終着の時,そこで語られたメッセージが申命記です。モーセは,これまでの40年の彷徨いの歴史を振り返ります。そこにある過ちの歴史。しかしそれは神の憐れみと確かな守りの歴史でもありました。

2. イスラエルの失敗
 もし彼らが失敗しなかったら,誰もがそう思うことでしょう。しかし,聖書における人間の前提は,人は必ず失敗する罪深い存在だということです。ただの成功神話が聖書に記されているわけではありません。約束の地を前にして主への信頼を失った者たちは,生きて約束の地に入ることはかないませんでした。しかし,彼らの子孫は約束の地に入ることを許されました。なぜなら,イスラエルの民は荒野を歩む中で,神とともに歩むことを学び,み教えを受け,それを子供たちに教え伝えたからです。このようにしてイスラエルの民全体が神の救いに与かりました。

3. 過ぎ去った時代に聞く
 この40年の月日を振り返ってみなさいと神はいわれます。その時,不信仰に陥いりながらも,神が確かに導き守ってくださった神の姿を認めることができます。なぜ,この40年の間,失敗に始まった神の民の歩みが守られ導かれてきたのでしょうか?それは,主だけが神であることを知るためであり,あなたを訓練するためであり,主があなたを選ばれたからだと,神は言われたのです。

4. 私たちの歩み
 教会の歩み,そして神を信じる私たちの歩みも,まさにイスラエルの民と同様です。イスラエルの民と同じように,過ぎ去った時代を振り返るとき,そこに神の守りと赦しが確かにそこにあることを私たちは見出すのです。そのことを覚えつつ,私たちは「今日」という時に立つのです。私たちも今日という日に,主だけが神であり,そして主が命じた教えと約束を心に留めたいと思います。これこそ,私たちが,この地上を歩むときの大切な心得なのです。

[考えるために]
 過ぎ去った日をもう一度振り返りましょう。
 今日という日に,神様はあなたに何を語ってくださっているのでしょうか?

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2008/4/27礼拝メッセージ

2008年4月27日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:15~17
「幼子のように」

1. 連れてこられた幼子たち
 イエスから祝福を受けようと,人々がその幼子たちをみもとに連れて来ました。彼らは,当時の慣例にしたがって,子どもたちに祝福を祈っていただこうとして,イエスのそばまで,子どもたちをつれてきたのです。その多くは乳飲み子であったことでしょう。この幼子たちは,「連れてこられた」子どもたちです。しかし,この微笑ましい光景も弟子たちに遮られました。しかし,この時代において,弟子たちの行為は常識的な行動でもありました。子どもの順番は,一番最後だったからです。しかし,イエスは幼子たちを呼び寄せます。イエスはここで当時の常識を覆して言いました。神の国はこのような者たちのものだと。神の基準は一体どこにあるのでしょうか。

2. 神の国にふさわしいもの
 イエスは言われました。子どもたちのように神の国を受け入れる者,それこそが神の国に入るものである,と。では「こどものように」とはどういうことでしょうか。子どものように「素直に」「疑うことをせず」ということでしょうか。この当時の子どもは「低い者」でもあります。そして,この子どもたちはイエスの前に連れてこられた者たちです。この子どもたちは受動的な存在です。子どものように神の国を受け入れるとは,子どものように素直に,疑わずに信じるということだけではありません。親に連れられて,またイエスに呼ばれたときに,そこに連れ出された最も謙った存在としての子どもたちの姿。その姿こそ,神の国に入るにふさわしいのです。

3. 謙遜
 真に謙るとはどのようなことなのでしょうか。それは,見せかけの謙遜さとは違います。また,逆に自分を卑しめることとも違います。この幼子たちは,そのようなどちらの謙遜さとも無縁の存在です。そして,神の国に入るには,子どものようにそこまで連れていってもらう存在でなければなりません。いったい誰に連れていっていただくのでしょうか。そう,それは神になのです。私たちは子どものように,全面的に神にゆだねる者とさせていただきましょう。

[考えるために]
 幼子のようになるとは,どのようなことでしょうか?
 神の国にはどのように入るのでしょうか?

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2008年05月02日

2008/4/20礼拝メッセージ

2008年4月20日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:9~14
「自己義認という課題」

1. 自己正当化と他者との比較
 イエスは神にある本当の救い,罪の赦しは,決して人の目に見えるものによってではないことを明らかにされました。私たちには神の救いが必要なのです。しかし,私たちは自己正当化によって,自分は罪人ではないと思い,神の救いは必要のないものだと考えてしまうのです。また,私たちは他の人との比較によって,自分の正当性を保とうとします。比較とは他者との違いだけではありません。人と同じだから安心することも比較に入るでしょう。そして私たちは自分とは違う人に対して赦すことのできない者でもあるのです。

3. ふたりの人
 パリサイ人と取税人がたとえに登場します。パリサイ人は自己正当化と他人との比較を祈ります。まさに自己義認の祈りです。自分の行動や言動は正しい,自分は正しい側にいるとこの人は考えています。しかし彼の基準は神にはありません。彼の基準は人の作り出した基準です。その一方で取税人は何を祈ったのでしょうか。取税人は遠く離れて立ち,目を天に向けようともせず,自分の胸をたたいて祈りました。「こんな罪人の私をあわれんでください。」この祈りの中には,他の人は登場しません。彼は目を天に向けようともしていません。なぜなら,それは今目の前にいる「神」を意識しているからです。そこには聖なる神を前にした「恐れ」や「おののき」があります。

4. 義とされたのは・・・
 イエスは取税人が義と認められたと語りました。私たちが自分の正しさや基準,またプライドなどにしがみついている限り,私たちはパリサイ人でしかありません。私たちが義と認められ,高く上げられるのは神のあわれみのゆえです。そして,救いを可能にしたのは,十字架の贖いのみ業なのです。私たちは根本的に自己義認の弱さを持っています。だからこそ,私たちはキリストの十字架の赦しを見続けることが必要です。神のあわれみを受けた者として,いつでも神の前に謙らせていただきましょう。

[考えるために]
 私たちの中に潜む自己義認の弱さは,どのようにして乗り越えられるのでしょうか。

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