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2008年04月23日
2008/4/13礼拝メッセージ
2008年4月13日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書18:1~8
「いつでも失望しないで」
1. いつでも祈る必要
ここは17章とつながりを持って読むべき箇所です。私たちが,神の国へと歩み始めたのならば,後ろのものを振り返らずに,神の国へと歩みを進めていきなさいとイエスは語られました。そして,私たちが後ろを振り返らないために,私たちは「いつでも祈る必要がある」のです。
2. 不正な裁判官
不正な裁判官でさえ,ひとりのやもめの絶え間ない訴えを聞くとのたとえをイエスは語りました。それでは正しい神はどうなのでしょうか。神は不正な裁判官とは比べようもないほど,正しく,愛にあふれ,知恵に満ちています。その神が,あなたの祈りを聞かれないだろうか?当然,神はその祈りを聞かれるのです。
3. 何を祈るのか?
この祈りは,たとい苦難が目の前にあろうとも,神の国へと歩みを進めるための祈りです。ここでの祈りは,「御名があがめられ,御国が来ますように」との祈りでもあります。しかし,そうは言っても,そのような祈りは,私たちの日常とはかけ離れているように感じるのではないでしょうか。しかし,神の国はどこから始まるのでしょうか?それは多くの場合,病人や罪人からであり,やもめや貧しい人,痛みを知る人,放蕩した弟,迷い出た羊からです。私たちのほんの些細な日常の中で,絶え間なくやってくる困難や苦悩,なすべき仕事,人間関係,そのような中で,私たちはイエスが言われるようにいつでも祈るべきなのです。どんな些細なことにおいても,主は必ずそこにご自身の正しさを,またご栄光を表してくださるのです。
4. 人の子が来たときに
イエスは最後に言われました。「しかし,人の子が来たとき,はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」これは,私たちに対する問いかけと同時に,希望の言葉でもあります。イエスが再び来られるときに,神にあって,地上に信仰は見出すことができるでしょう。私たちの望みは,私たち自身にではなく,神にあるのですから。
[考えるために]
神の国はどこから始まるのでしょうか?
投稿者 mb-church : 14:35 | コメント (0) | トラックバック
2008年04月11日
2008/4/6礼拝メッセージ
2008年4月6日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書17:22~37
「前へと向かって」
1. 人の子の日
人の子の日,神の国の完成の時を見たいと願っても見れない時が来るとイエスは弟子たちに言われました。イエスは,神の国が来るその前に,教会は苦しみ,悲しみに直面するということを教えられたのです。事実,キリストの弟子たちは苦難を通りました。そして,その時には誤った教えも次々と出てくるようになります。しかし,イエスが再び来られるときは,すべてを輝き照らす「いなずま」のように来ると語られています。必ずイエスの栄光が照り輝く日がやがて来るのです。
2. 必ずそこにある苦難
しかし,その栄光の時の前に,苦しみの時がやってきます。そして,そのときのことを,旧約にあるノアとロトの物語からさらに明らかにされています。救いの完成に向かう間,それもまた救いの時であると言えますが,それは同時に苦しみの時でもあります。しかし,ここで重要なことは,ロトの妻のように後ろのものを振り返ってはならないということです。それは,救いの言葉を聞いた後の私たちの生き方の問題でもあります。人の子の現れる日がいつかは,はっきりと分かりません。しかし,その日は必ず来ます。しかし,その日を迎える前に,私たちは必ず苦しみを通らされ,さらに救いの言葉を見失わせるような現実や言葉を聞くことになるのです。
3. 前に向かって
私たちは救いの完成へと向かうこの時代にどのように歩んでいるのでしょうか?後ろを振り返らずに,神の方へと歩みだしているでしょうか?苦しみを前にしてもなお,救いの完成の時を待ち望んで歩んでいるでしょうか?私たちが大事にするべきことは,どんなときでも,やがて来る神の国の完成の時を見つめて,十字架に完全な希望を置いて歩むということです。今目の前に苦しみ,痛ましい現実があったとしても,私たちは救いの完成の時に向かって着実に進んでいるのだということを覚えさせていただきましょう。
[考えるために]
あなたは何を望みに歩んでいるのでしょうか?
投稿者 mb-church : 13:30 | コメント (0) | トラックバック
2008/3/30礼拝メッセージ
2008年3月30日の礼拝メッセージの要約です。
ローマ人への手紙12:12
「ともに祈る祈り」
1. 第一の奉仕
私たちの第一の奉仕は,主の日に時間をささげ,身体をささげ,心をささげ,聖霊にうながされて集い,ともに父なる神を覚え,イエス・キリストの十字架に感謝する礼拝をささげることです。また,神の民である私たちの歩みは,恵みの神が先行し,私たちは主に心から従うという歩みです。
2. 両輪
恵みの神が先行し,主に心から従う。この単純なあり方に,なぜ私たちは向かうことができないのでしょうか。その原因のひとつは「恵みの神の姿」をはっきりと捉えていないことにあります。もうひとつの原因は,私たちの側に主に従う備えがないということです。その現状への打開策とは何でしょうか?それは「みことばと祈り」です。これが信仰生活の両輪なのです。
3. 祈り
祈りは,神の恵みにお応えすることです。神の語りかけに応えるという循環こそ,私たちの信仰を生き生きとしたものにする秘訣です。祈りとは何でしょうか?祈りとは,私たちの願いであり,叫びともいえます。祈りにおいて重要なことは,祈りにあなた自身をささげているか,ということです。祈りの中で,深くみことばをめぐらせ,神のみこころを求める。それは神と呼吸をあわせていくことでもあります。しかし,それでも問題は残ります。しかし,真の問題は個人の問題ではないのです。
4. ともに祈る
「祈り」は個人だけのものではありません。聖書において祈りとはともに祈ることをも指しています。私たちは,ともに神のみこころを求めて祈っているでしょうか。この世と神の国の狭間である教会において,私たちはいつでもともに祈るものとさせていただきましょう。私たちがともに祈るそこに主はおられるのですから。
[考えるために]
ともに祈るときをもっているでしょうか?