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2008年03月29日
2008/3/16礼拝メッセージ
2008年3月16日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書17:20~21
「神の国はどこに」
1. 人々の関心
「神の国はいつ来るのか?」これは当時の人々の関心事でもありました。彼らはメシアの到来を待ちわびていました。しかし,彼らにとっての神の国は王国の復興を意味していたのです。その王国はどのようにして到来するのでしょうか。パリサイ人の結論は,神の命令を守ることでした。つまり律法を守ることによって,神の王国が自分たちの手にもたらされると信じたのです。
2. 律法の意味
しかし,もともと律法は神の民としての契約のしるしということでした。神の民として神の基準に生きるようにと神が与えてくださったみ教えでした。しかし,パリサイ人は,それを単なる手段に貶めてしまったのです。ですから,神の国はいつ来るのかという問いは,彼らにしてみれば自然に出てきた疑問だったのです。
3. イエスの答え
しかし,イエスの答えは彼らの思いとは異なりました。神の国は,人の目で認められるようにして来るものではないというのです。神の国はあなたがたのただ中にあると答えられました。それは人の心ということだけを意味してはいません。これは,神の国はあなたがたの間に「今」あり,そして,これからもあり続けるという言葉です。もう,神の国は来ているというのです。
4. 神の国
イエスが来られたときに,神の国は近づきました。そして,イエスが十字架で死に渡され,そして復活したときに,すでに神の国は私たちのところに到来したのです。私たちはキリストを信じる信仰によって,神の国の民とせられます。私たちは,神の国の民として生きるようにと導かれているのです。私たちが,この神の恵み,十字架の恵み,神のみ思いに目が開かれ続けていくときに,私たちは今ここに,この教会に神の国があることを信仰によって見ることができるのです。
[考えるために]
神の国はどなたによってもたらされるのでしょうか。
投稿者 mb-church : 16:38 | コメント (0) | トラックバック
2008年03月26日
2008/3/9礼拝メッセージ
2008年3月9日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書17:11~19
「9人と1人」
1. サマリヤとガリラヤの間
10人のツァラアトに冒された人の話です。この場面,イエスはエルサレムへと向かっていく途上にありました。イエスはサマリヤとガリラヤの境を通られたとあります。実際のところここがどこであったのかは明確に示されてはいません。しかし,この表現も,当時の教会を意識しているのではないかと思わせるものです。正しさの尺度の違う人々が集う群れの真ん中を通られるイエスの姿。教会は常にイエスのことば,イエスの歩まれた姿に根拠をおいてきたのです。
2. 10人のいやし
ある村の十人のツァラアトに冒された人がイエスを見かけます。彼らはイエスと出会い,そしてこう声をかけられました。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」その10人は,祭司のところに行く途中できよめられました。しかし,問題はこの後です。10人のうち,すぐにイエスの元に引き返してきたのは,ただ一人だけでした。そして,その一人は,サマリヤ人だったのです。
3. 正しさを求めて
祭司に癒されたことを認めてもらうことは,当時の人々にとって正しい行為でした。しかし,癒されたことを知ったときに,この9人は何を優先したのでしょうか。彼らは正しい行いを優先しました。しかし,サマリヤ人はどうだったのでしょうか。彼は,イエスのみわざにふれた時に,神をほめたたえ,イエスの足元にひれ伏し礼拝することを選びとったのです。
4. 真のいやし
10人すべてがきよめられました。しかし,神との正しい関係を持つことができたのは,ただ一人のサマリヤ人だったのです。このサマリヤ人は,イエスから救いの宣言を聞きます。それだけではなく,彼はここから遣わされていったのです。私たちも,イエスを信じる信仰によって,神とのあるべき関係を持ち続けてまいりましょう。
[考えるために]
この一人の人は,何に気がついたのでしょうか?
投稿者 mb-church : 13:54
2008年03月19日
2008/3/2礼拝メッセージ
2008年3月2日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書17:7~10
「しもべの姿」
1. 役にたたないしもべ
「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」謙遜さの極地と言ってもいいすぎではありません。この箇所から,奉仕のあるべき姿を教えられることでしょう。しかし,それだけで,ここを読むわけにもいきません。なぜなら,この箇所も前節とつながりのある箇所だからです。それは「誤った教え」,つまり「行いによる救い」という人の作り上げた枠から,私たちをその外に置くということでもありました。救いは,イエスを信じる信仰による救い以外にはありません。そこには,一切の妥協も,一切の混ぜ物もしてはならないのです。
2. しもべのたとえ
しもべが野に出て仕事をしてきました。主人は,その働きに対して,過度に感謝するでしょうか?いいえ,しないでしょう。そのしもべは言いつけられたことをしたに過ぎません。つまり,このしもべが正しいことをしたからといって,主人からしもべが受けるである待遇以上のものを得るわけではありません。正しい行いによって,このしもべは,主人である神から特別待遇をされるわけではないのです。
3. 私たちの務め
私たちは,神がデザインし,生かし,守ってくださらなければ存在し得ない者たちです。私たちは,ただ神によって与えられた務めを果たしているにすぎません。しかし,いつでも,私たちは与えられた救いや(神の子としての)身分に,混ぜ物をする危険性があります。しかし,イエスが語られたのは,主の前にへりくだる者,自分を罪人とし,ただ神のあわれみにより頼み,神の救いを待ち望む者に救いを与えるのだということでした。私たちは,救いを与えてくださる十字架を絶えず見続けなくてはなりません。その時に,私たちは,与えられた生涯,働き,能力,財産,そのすべてが神が私たちに与え,ゆだねてくださったものだと理解することができるでしょう。そして私たちは自分は役に立たないしもべですが,喜んで,その務めをさせてください,と口にすることでしょう。私たちは,与えられた務めに対し,希望と勇気を持って向かい続けてまいりましょう。
[考えるために]
私たちの救いの根拠はどこにあるのでしょうか。
投稿者 mb-church : 12:18 | コメント (0) | トラックバック
2008年03月13日
2008/2/17礼拝メッセージ
2008年2月17日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書17:1~6
「つまずきと赦し」
1. つまずきを起こす者
この箇所は,直接教会に語られている箇所です。テーマは「つまずきと赦し」です。イエスは,教会において「つまずきが起こるのは避けられない」と言いました。つまずきとはいったい何でしょうか。ここでは「誤った教え」のことを指しています。「誤った教え」。それは教会において数多く起こってきたことです。ここまで,イエスが解き明かした救いとは,「罪人の悔い改めとその赦し」です。そして,その救いは,主イエスを信じる信仰によって与えられるものです。その対角にあるものこそ,つまずき,誤った教えなのです。その代表的なものこそ「行いによる救い」です。私たち全ての人は罪人です。だからこそ私たちは神のあわれみを受け,素直に,悔い改めなくてはなりません。信仰による義ではなく,行いによる救いが教会の中に起こるのは避けられません。しかし,一番の問題は,あなた自身がその誤った教えに留まってはいないか,ということなのです。
2. 赦しを与える者
では,もし兄弟が罪を犯したのならば,どうすればいいのでしょうか?当時の教会ならば,もし律法に背く者がいるならばどうすればいいのか,ということになるでしょう。その人を,教会から排除するのでしょうか。しかし,イエスはこう言いました。「赦してやりなさい」。ここでイエスが強調しているのは,相手を「赦しなさい」ということ。なぜなら,私たち自身こそ,行いによってではなく,ただ信仰によってのみ赦され続けているからです。だからこそ,私たちは何度でも相手を「赦しなさい」と迫られているのです。
3. からし種の信仰
しかし,これは容易なことではありません。そして,またこのことは,信仰の大きさや強さによってなるものでもありません。本物の神が与える信仰があれば,たといからし種ぐらい小さなものであっても,神の正しさと赦しを表すことができる,そうイエスは言われました。私たちは,信仰による義ということを,恐れをもって,また,深い感動を持って受け止めさせていただきましょう。この信仰こそが,私たちの立つべき所なのです。
[考えるために]
イエスが教えられた信仰とは何でしょうか?
私たちが救われるために必要なことは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 23:32 | コメント (0) | トラックバック
2008/2/10礼拝メッセージ
2008年2月10日の礼拝メッセージの要約です。
この日は,吉澤慎也神学生にメッセージをしていただきました。
ハガイ書1:1~15
「神殿再建」
1. テキスト
[時代背景]
B.C.586 エルサレム陥落。バビロン捕囚。(Ⅱ列王記25章)
B.C.538? ペルシャ王クロスによる解放令。ゼルバベルの帰還。(エズラ1章)
B.C.537? 神殿再建着手。その後中断。(エズラ3,4章)
B.C.520 神殿再建事業再開。(ハガイ書)
B.C.516 第二神殿完成。(エズラ6:15)
イスラエルの民は「主の宮を建てる時はまだ来ない」(2節)と言って、神殿再建工事に取り掛かろうとしなかった。経済的困難が民の言い訳だったが、主は「それは、廃墟となったわたしの宮のためだ」(9節)と言い、神殿をそのままにしておいたために経済的に苦しい状況を招いたのだと指摘する。実際に民は、神殿再建よりも自分の生活のことに関心があった。そこで主は宮を建てるよう言われる。「そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう」(8節)。民は悔い改め、「彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった」(14節)。
2. 神殿再建
神殿とは神を礼拝する所。そこには神の臨在と神との交わりがある。それでは、今の自分にとって神殿再建とは具体的に何を意味するだろうか。自分と神様との関係において、再建しなければならない何かがあるだろうか。
①現状考察(5,7節)
自分の現状をよく考えることは意味がある。それによって、自己中心の罪が示されるかもしれない。自己犠牲の中にこそ主の栄光が示される(8節)。
②再出発(12~14節)
やり掛けの仕事に再び取り組むことは、より大変なことである。けれども主は、宮を建てよと言われた(8節)。その主の約束は「わたしは、あなたがたとともにいる」(13節)。たとえ挫折の連続でも、イエス様は決して私たちをあきらめない。高齢のハガイの姿勢にも励まされる。私たちも神殿再建のために再出発させていただきたい。