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2007年12月24日

2007/12/23礼拝メッセージ

2007年12月23日の礼拝メッセージの要約です。
マタイの福音書2:1~12
「一歩一歩たどりつく旅」

1. イエス誕生の時代
 イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。人口500人足らずの田舎町ベツレヘムにイエスは誕生しました。東方の博士たちはそこにやってきます。博士たちは,魔術師,占星術師であり,彼らは異教徒中の異教徒でした。しかも,どこの国から来たかも書いていません。しかし,彼らは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を一目見ようと旅してきたのです。

2. ユダヤ人の王
 「ユダヤ人の王」この言葉には意味があります。この時の王はヘロデでした。しかし,博士たちは「ユダヤ人の王」が別にいると言っています。当時各地に離散していたユダヤ人たちは,メシア(救い主)をさして「ユダヤ人の王」と呼んでいました。博士たちは「ユダヤ人の王」つまりメシアを探しにやってきたのです。

3. 根拠はどこに
 彼らの根拠は何であったのでしょうか?それは,彼らの信じていた宗教,知恵,思想に基づいた結論でした。しかし,彼らは,そのお方がどこにいるのかまではわかりませんでした。しかし,エルサレムにやってきて,この博士たちは新たな情報を得ます。それが「聖書のことば」でした。そして,博士たちは幼子イエスにまでたどり着き,そこで礼拝をささげました。

4. 私たちもまた
 ある者はイエスを恐れ否定し,ある者はこの世の権威にひれ伏します。しかし,心から真理を求める者に神は応えてくださるということを,博士たちを通して私たちは知ります。彼らは,救いを,そして神ご自身を求めたのです。しかも,彼らは求めるだけでは終わりませんでした。彼らは求めて旅立ったのです。さらに,一歩一歩真理へと,キリストへと近づいていきました。神は真理を求める者には,聖書をもって教えられます。そして,その真の光こそ,イエス・キリストなのです。

[考えるために]
 あなたは心から神を求め,救いを求める者でしょうか?祈るものでしょうか?

投稿者 mb-church : 13:34 | コメント (0) | トラックバック

2007/12/16礼拝メッセージ

2007年12月16日の礼拝メッセージの要約です。
マタイの福音書1:18~25,イザヤ書7:1~14
「神がともにいてくださる」

1. イザヤの時代
 「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは,イザヤ書に記されている預言です。イスラエルが北王国と南王国とに分裂していた時代,アハズ王の時代でした。敵対するアラムと北王国イスラエルとが,エルサレムにのぼってきて,ユダを攻めてきました。アハズ王と国の民は非常に動揺します。そこでイザヤが神のことばを語ったのです。

2. アハズの不信仰
 イザヤは,アハズに神があなたがたを守られると告げます。そして,「あなたの神,主から,しるしを求めよ」と語られました。しかし,アハズはその主のことばに応えなかったのです。「私は求めません。主を試みません。」しかし,それはアハズの不信仰から出たものでした。彼はアッシリアに助けを求めました。このアハズの行動が,ユダ王国の崩壊を加速させることとなりました。そのような中でイザヤはキリストの預言を語ったのです。

3. 罪ある人間の姿
 アハズの姿は,一人の人の姿というだけではなく,ユダの国全体の,さらには,私たち人間の堕落した姿でもあります。外見は取り繕い,あなたに従います,と形だけは見せる。しかし,実際に取る行動は,目に見えるものにより頼み,それによって,現状を打開しようとするおろかな人間の姿です。いつも聖書が私たちに語りかけるのは,主なるまことの神にゆだねなさいということです。

4. 私たちに与えられたしるし
 「主みずから,あなたたにひとつのしるしを与えられる」神みずからがひとつのしるしを与えるという,これが,主が下した結論でした。イエスは「インマヌエル」と呼ばれます。それは「神は私たちとともにおられる」という意味です。神は,私たちが不完全であることを承知の上で,自らがひとつのしるしを私たちに送ってくださいました。それが,私たちに与えられたこの唯一のしるし,イエス・キリストそのお方なのです。

[考えるために]
 私たちとアハズの共通点はどこにあるのでしょうか。

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2007/12/9礼拝メッセージ

2007年12月9日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書15:25~32
「父と兄」

1. もう一人の主人公
 放蕩生活を送ったすえに,父のところに戻ってきた弟。その弟が帰ってきた喜びの宴の途中で,兄は仕事から戻ってきます。彼は,この宴の様子を聞いて怒りだします。彼はすっかりふてくされて家に入ろうとはしませんでした。この兄のところにも父は来ました。しかし,兄は父の言葉を受け入れませんでした。この兄は,弟とのことを,名前でも,また「私の弟」とも呼びません。彼は今や弟を自分の弟とは認めてはいないのです。

2. 兄の怒りと父の思い
 兄が怒っているのなぜでしょうか?それは当然の怒りなのでしょうか。しかし,大事な点が見落とされています。それは,父の思いです。この兄は,まったく父の思いを見てはいません。これまでの兄を支えてきた動機は何だったのでしょう。兄は父と一緒にいました。しかし,この兄は父の思いを,願いを知ろうとしていたのでしょうか?もし,彼が父の思いを知っていたのなら,どのような言動をとったのでしょうか?

3. 父の答え
 父の答えは,「私のものは,全部おまえのものであり,弟もおまえの弟だ」というものでした。これこそが,私の心だ,そう父は兄に語りかけたのです。私たちもまた,父なる神のみ思いに心を寄せているでしょうか?すべての人が救われ,すべての人が真理を知ること,これこそ,父なる神の願いです。父の近くにいたにもかかわらず,兄は父の心を知りませんでした。知ろうとしていなかったのです。私たちも,失われた弟を探そうとしている父の思いを知り,そして,見つかった弟を喜んで迎え入れる者でありたいと思います。もう一度,この父なる神のみこころを私たち自身の心とさせていただきましょう。

[考えるために]
 父なる神の思いと願いは何でしょうか?

投稿者 mb-church : 13:23 | コメント (0) | トラックバック

2007年12月09日

2007/12/2礼拝メッセージ

2007年12月2日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書15:11~24
「父と弟」

1. 二人の息子
 ここには二人の主人公がいます。前半は弟が主人公です。ある日,弟が父に財産の分け前をもらいます。そして,弟は遠い国へ出かけていき,そこで放蕩の限りをつくし,分け前をすべて使ってしまうのです。しかし,その生活は長くは続きません。大飢饉がおこり,彼は食べるものにも困り始めます。とうとう,彼は豚の世話をするようになり,みじめな状態に陥るのです。

2. われに返る弟
 そして,とうとう彼はわれに返ります。自分がいったい何者で,どこから来た者なのかを思い出すのです。彼が思い出したのは,遠く離れた父の家のことでした。そして,彼は家に帰ります。この弟は,神から遠く離れた私たちのことです。私たちは,神から多くのものを与えられているにも関わらず,神から遠く離れたところで,自分勝手に生きています。しかし,そこに不測の事態がやってくるのです。私たちの力や考えをはるかに超えた困難。そして,ようやく自分の力ではどうしようもないことに気がつくのです。

3. われに返る私たち
 「われに返る」とはどういうことでしょうか。私たちがわれに返るとは,この私はどこから来て,そして誰のものなのか?ということに気がつくことです。あなたは,神が形作り,神の所有のものであり,神のために生きるのだということ。彼はもう息子となる資格はない,と思います。しかし,それと同時に,あの父の家に帰りたいと強く願うのです。

4. 迎える父
 彼が家に帰ると,父は遠くに息子の姿を認め,走りよって彼を抱き,口づけをします。それは毎日遠くへ行ってしまった息子を思う父の姿でした。父は待っていたのです。父からこれまでのことを責めるような言葉を,彼は一言も聞きませんでした。あなたがもし神に立ち返るなら,必ず,神は抱きとめてくださるお方なのです。一人の人が神に立ち返るときに,天で,そして教会で喜びの宴がはじまります。帰るべき所を見出した人は幸いなのです。

[考えるために]
 「われに返る」とはどのようなことでしょうか?私たちの帰るべき場所はどこにあるのでしょうか?

投稿者 mb-church : 08:05 | コメント (0) | トラックバック