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2007年11月20日

2007/11/18礼拝メッセージ

2007年11月18日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書15:1~10
「よい羊飼い?」

1. 慰めに満ちた羊飼い
 失われた一匹の羊をかつぐイエスの姿。この姿にどんなにか,私たちは慰められてきたことでしょう。ここでも,一人の罪人が救われることの天にある喜びが語られています。しかし,ルカの福音書においては,ここでもコントラストを意識して読むべきでしょう。つまり,一人の罪人と99人の正しい人との対比です。

2. 残される99匹
 100匹の羊を持っている人が,その群れに羊が一匹足りないということに気がつきます。その人は,どのような行動をとったのでしょうか?何と彼は99匹を残して,一匹を探しにいくことにしたのです。これは果たして賢明な方法なのでしょうか?この人は,99匹を残して,一匹を探しにいきました。つまり,この人にとっては失った一匹の方が,99匹よりも重い価値があったのです。この人のとった行動は,現実的にはあまり懸命なものではないでしょう。

3. 見つかった喜び
 この人は,失われた羊が見つかると,大宴会を開いて人々と共に喜びます。もう一つのたとえ話でも同じです。一枚の銀貨を見つけた女性もまた,近所の人を招いて喜びを分かちあうのです。どちらのたとえ話も失われた物が見つかったときの大きな喜びについて,私たちに教えています。

4. 神の愛
 残された99匹はどうなってしまったのでしょうか。イエスは言います。「ひとりの罪人が悔い改めるなら,悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」悔い改める必要のない正しい人,とは誰のことでしょうか。この99人の正しい(と思い込んでいる)人とは,自分は救いを必要としていない,イエスを必要としていない,自分は大丈夫だと思う人のことでしょう。そして,その人々をイエスはどうするのでしょうか。厳しいようですが,イエスは彼らを野原に残すのです。しかし,悔い改める一人の人に対しては,イエスは,どんなことをしても探し出すと言われるのです。

[考えるために]
 神の愛とは誰に向けられるのでしょうか?

投稿者 mb-church : 10:06 | コメント (0) | トラックバック

2007年11月15日

2007/11/11礼拝メッセージ

2007年11月11日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書14:25~35
「私たちが支払うもの」

1. 厳しいことば
 大勢の人々が,イエスについてきました。しかし,イエスはその人々に対して,気休めを語ろうとはしませんでした。イエスが語ったのは厳しい内容でした。家族をまた自分のいのちを憎むということ,そして,自分の十字架を負ってイエスについていくということ。私たちはこのことを実行できるのでしょうか。

2. 自分の十字架を負うこと
 自分の十字架とは,運命や定めということではありません。自分の十字架とは,第一にこの私の「罪」のことです。さらには,その罪がキリストの十字架によって赦されたという第二の意味をも受け取ることができるでしょう。それは,救いの「恵み」です。それでは,家族や自分のいのちを憎むとはどのようなことでしょうか。この時代の人々の考えていた救いの根拠やいのちの価値観はどこに置かれていたのでしょうか。それは,「血筋」であり,また「内と外」という価値観であり,さらには自己義認という問題でした。しかし,イエスが語られたのは,信仰の根拠はそれらのものではなく,十字架にあるということだったのです。

3. まったく足りていない現実
 さらにイエスはたとえを話されました。それは,搭を建築する人と戦いに赴く王の話です。そのどちらも私たちは十分に持っていないということが分かります。そして,結論は「自分の財産を全部捨てる」ということでした。私たちは,あなたの周りの全ての自分を支えるもの,自分を支配するもの,自分の価値を作り出していると思われるもの,そのようなものに中途半端により頼むべきではありません。イエスが語られたことは,私たちのいのちの根拠は,ただ十字架の救いにのみある,ということなのです。

4. 塩が塩であるには
 キリストの弟子としての塩気とは何でしょうか?正しい言動?また家族?血筋?キリスト者の塩気とは,ただ主の恵みによって私は救われているのだ,という信仰なのです。

[考えるために]
 キリストの弟子であり続ける秘訣とは何でしょうか?

投稿者 mb-church : 13:29 | コメント (0) | トラックバック

2007年11月07日

2007/11/4礼拝メッセージ

2007年11月4日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書14:15~24
「神の国の食卓」

1. 線を引く
 安息日におけるイエスの話は続きます。直前にイエスは「誰を食卓に招くべきか」というたとえ話をしました。そこで,パリサイ人たちの内と外とを区別する信仰を非難したわけです。さらにイエスはたとえを語りました。それは,招かれた人々ではなく,招いていない人々を祝宴に招く主人の話でした。

2. 断る理由
 それには理由がありました。なぜなら招いた人々が,ことごとく理由をつけてその招きに応じなかったのです。ひどい話です。そして,その理由は人々の勝手な都合でした。事前にすばらしい宴会の時があると知らされていたにもかかわらず,この招かれた人々は自分たちの都合を優先させたのです。彼らは,この主人の誘いを,第一の優先順位とはしませんでした。なぜ,この人々は誘いを断ったのでしょうか?それはまさに「身勝手な思い」としか言うほかありません。

3. 招きに応じた人々
 結局,誰がこの主人の宴会へと招かれたのでしょうか。貧しい人,体の不自由な人,目の見えない人,足の不自由な人,そして,さらには通りにいる人々でした。これらの人々は,事前に招かれていない人々です。結局,神の国の食卓につく人々は,身勝手な理由で断る人々ではなく,罪人とみなされた人々であり,異邦人であり,神の前に真にへりくだる者たちなのです。本当に,神の前にへりくだる人,悔い改める人とはどのような人のことでしょうか。イエスによって,神の国への招待状は,すでに私たち一人一人に届けられています。私たちは,神の国の宴会がはじまる時までに,自分の都合を優先させる生き方から,神様のみこころを第一とする生き方へと,方向転換をするように教えられているのです。

[考えるために]
 神の招きに応じる生き方とは,どのような生き方でしょうか。

投稿者 mb-church : 20:53 | コメント (0) | トラックバック