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2007年10月28日
2007/10/21礼拝メッセージ
2007年10月21日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書14:7~14
「引き上げてくださる方」
1. 謙遜
パリサイ人の家での食事は続きます。イエスは続けて教えられました。それは「謙遜」ということでした。婚礼の席に招かれたならば,上座にすわってはならない。なぜならば,その後,もっと身分の高い人がきたときに,あなたは恥をかくことになるからだ・・・。日本人にとって,これほどわかりやすい話はないでしょう。とにかくあなたは末席につきなさい,ということがイエスの回答でした。
2. もうひとつのたとえ
「なぜなら,だれでも自分を高くする者は低くされ,自分を低くする者は高くされるからです。」この謙遜さは,私たちが思い描くものと一緒なのでしょうか。ここにはもう一つのたとえばなしが記されています。こちらは「招かれた人」ではなく「招く人」の話です。ここでは,誰を招くかということが問題になっています。貧しい者,からだの不自由な者,足のなえた者,盲人たちを招きなさい,と教えられています。その見返りは,「復活の時」であると語られます。
3. 動機はどこに?
これらのことは明らかに,今ここでの報いではなく,神から与えられる報いをその動機としなさい,ということを意味しています。神の前に立つときに,私たちは自分を誇るものでしょうか,それとも神の前の謙遜さが私たちのうちに見られるでしょうか?
4. 私たちのゴール
いったい誰が低くて,誰が高いものなのでしょうか。神の前で,いったい誰が身分の高いものだと自分のことを主張できるのでしょうか。教会における基準は常に「神」にあります。謙遜な者を高くしてくださるのは「神」です。私たちは,いつも今,自分を高くしたい,今,見返りがほしいと願い求めてしまうものです。しかし,それは,神の国の民,教会の歩むべき心構えとしてはふさわしくありません。私たちはゴールを,今ここに設定してはならないのです。私たちの帰るべきところは神の国にあるのです。
[考えるために]
私たちの基準はどこにあるのでしょうか?
投稿者 mb-church : 18:48
2007年10月14日
2007/10/14礼拝メッセージ
2007年10月14日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書14:1~6
「安息日に求めること」
1. 家を訪れたイエス
再び,イエスはパリサイ人の家へとやってきました。イエスは「招かれざる客」であったかもしれません。ここでは,さまざまな視線が交錯しています。みんながじっとイエスを見つめていました。そこに注がれていたのは,疑いやねたみのようなものかもしれません。人々の視線の中で,イエスご自身の視線は,どこに注がれていたのでしょうか。
2. イエスの前
イエスの真正面には病の人がいました。水腫のあったこの人のことは,深く「罪」とかかわりのあるものとして受け止められていたことでしょう。その病にかかった人の前にイエスはいました。この人は,偶然にイエスの前にいたのでしょうか?自らここに入ってきたのか,それともパリサイ人たちに連れてこられたのか?しかし,重要なことは,今,この人はイエスの前にいる,それが重要なのです。
3. 安息日問題
イエスは人々の前で問われます。「安息日に病気を直すことは正しいことですか?」なぜ,この議論が福音書に頻繁に出てくるのでしょうか。それは,当時の教会で,律法を守るとはどのようなことかが,重要な課題であったからです。イエスが取り扱われたのは,律法をいかにうまく守るか?ではありません。イエスが教えたのは,律法の持つ本質,律法を与えた神のみこころそのものでした。
4. 安息日に覚えるべきこと
イエスの問いに,なぜ彼らは黙っていたのでしょうか?彼らは自分たちでつくりあげた壁を,自分で乗り越えることができませんでした。しかし,イエスはこの壁をみごとに打ち壊します。イエスは,この病の人を抱いていやされました。ここに神の私たち罪人に対する変わらぬあわれみ,愛の姿を私たちは見ます。神のみこころはは,ただ安息日を守ることにあるのではありません。神の愛,赦し,救いがあらわされることに,安息日の本質があるのです。この日こそ,この水腫が直ったこの人のように,イエスに抱かれる日なのです。
[考えるために]
安息日にあらわすべきことは何でしょうか?
投稿者 mb-church : 15:06 | コメント (0) | トラックバック
2007/10/7礼拝メッセージ
2007年10月7日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書13:31~35
「幾度も集めようとされた神」
1. 二つのポイント
一つは,神は必ず成し遂げられるということ。そしてもう一つは,イエスを受け入れるということ,です。ここで,何人かのパリサイ人がイエスに近寄ってきました。その理由は忠告でした。ヘロデ王が,イエスを殺そうとしている,それをわざわざパリサイ人たちは伝えにきたのです。
2. 神のご計画
このような圧力に対して,イエスは神のご計画の確かなことを示されました。イエスの宣教の生涯,悪霊を追い出し,病を癒す・・・それは,つまり罪に打ち勝つ救い主としての姿でした。さらに三日目に全うされる。これは十字架の死と復活を通してもたらされる完全な贖罪と救いの成就をさし示しています。これこそ神のご計画にほかなりません。
3. 必ず成し遂げられること
その神のご計画は,どのような圧力があろうとも,成し遂げられます。時の為政者がそれを止めようとしても,人間が否定しようとも,必ず完成へと向かうのです。それは神のご計画な確かさを示すと同時に,神の,イエスの決意の強さをも示しています。主は,ご自分の民を必ず救われるのです。
4. イエスの嘆き
その決意の強さと同時に,ここでイエスは深く嘆かれます。それは人々が,その救いに対して,応答しようとしないからです。預言者を殺し,自分に遣わされた人を石で打つ者。それは,神のことば,神のみこころを無視する人のことです。
5. 幾たびも集めようとされる方
そのような人々の態度の一方で,神はめんどりがひなを翼の下にかばうように,私たちを幾たびも集めようとされます。何度もあきらめずに,神は語りかけ,そのみ手を伸ばしているのです。私たちはこの招きにどのような応答をしているでしょうか?神により頼もうとしないものたちでしょうか?それとも,イエスを私の救い主として迎え入れる者でしょうか?
[考えるために]
主のみ手を拒み続けていく時の結末は,どうなるのでしょうか?