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2007年09月25日
2007/9/23礼拝メッセージ
2007年9月23日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書13:22~30
「狭い門から入りなさい」
1. 努力しなさい?
「狭い門から入りなさい。」格言としても有名なこの言葉。ルカでは「努力して」と記されています。キリスト教でも努力が必要なんだ・・・そう思われるかもしれません。しかし,ここで大事なことは,私たちはどのような努力をするべきなのか,ということです。救われるために頑張りなさいとイエスは仰ったのでしょうか?イエスが強調されたのは,神に対する悔い改めとイエスご自身への信頼でした。
2. 門か戸か?
この「門」という言葉は,「戸」という意味です。この戸の特徴は「後で入ろうとしても,入れなくなる」ということです。最後の時が来る。そしてこの戸は,一度閉まってしまうと,いくらたたいても,いくら願っても,もう手遅れになります。家の主人は,手遅れになった人に向かって「私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい」と言います。なんという厳しい言葉でしょうか。この戸は明らかに「神の国」へと通ずるドアです。
3. 神の国に入るために
神の国とは,今ここに実現していくものであり,後に神の国は完成し,私たちは神の民として,そこに永遠に住まうことが明らかにされています。しかし,人々は「神の国」に入るためには,律法を自分の力や知恵によって守ることによるのだと考えていました。つまり自分たちで勝手に戸口を広げていたのです。自分に都合のいい解釈,自分たちを中心とした平和,利益を優先していたのです。
4. イエスの宣言
しかし,ここでイエスは宣言します。神の国には,あなたがたではなく,世界中から,そして,しんがりと思われている者が入ると。私たちの努力はどこに向けられるべきでしょうか。私たちは絶えず,キリストによって明らかにされた神の国と,そして神のみこころを第一とすることへと心を配らなくてはなりません。それは,自分の都合や自分の思いを優先する生き方から,神の前にへりくだる生き方への転換とも言えるでしょう。私たちはキリストの十字架によって示された「狭い戸」を選び,そこを通る者とならせていただきましょう。
[考えるために]
「狭い戸」とは何によって示されているのでしょうか?
投稿者 mb-church : 11:38 | コメント (0) | トラックバック
2007/9/16礼拝メッセージ
2007年9月16日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書13:18~21
「神の国とは?」
1. そこで・・・
直前にすばらしい出来事が起きました。一人の罪深いと思われた女性を通して,神の栄光があらわされたのです。この女性に対して,会同管理者は非難をしました。しかし,イエスはその偽善を見抜き,神のみこころを指し示したのです。直後にこの二つのたとえ話は語られました。
2. 神の国とは?
イエスは,人々に「神の国」について明らかにされました。「神の国」はいわゆる「天国」ではありません。「神の国」という言葉は,この「地」つまりこの世界と密接に結びついています。「神の国」は私たちのうちにきます。それだけではありません。神の国は,今ここにあります。そして,神の国は後に完成の時を迎えます。「あの世」で完成するのではなく,この地に神の国の完成が訪れるのです。
3. 神の国の性質
この女性の癒しと救いに関するやり取りを通して,イエスは神の国の性質について明らかにされています。その性質こそ「からし種」と「パン種」のたとえに語られているのです。それは,目にも留まらぬ小さなものが,大きくなり,周囲に広がるということです。ここで注目すべきことは,小さなものが大きくなり,周囲に広がるという点です。
4. 取るに足りない者
あの女性こそ,取るに足りない者の代表です。それだけではありません。自分でも取るに足りない存在であることを自覚していたことでしょう。しかし,その一人にイエスは目を留められました。そして,この人を通して神のみわざがあらわされ,神のみこころと栄光があらわされました。一人の何もない無力な女性を通して,イエスは神の栄光をあらわされたのです。神の国は,このような取るに足りない,目にも留まらない小さなものからはじまるのです。
[考えるために]
私たちは,神の前にどのような存在でしょうか?
イエスはどこから神の国がはじまると言ったのでしょうか?
投稿者 mb-church : 11:32 | コメント (0) | トラックバック
2007年09月15日
2007/9/9礼拝メッセージ
2007年9月9日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書13:10~17
「解き放たれる主」
1. コントラスト
イエスは,さらに「罪人」と「偽善者」というコントラストを明確にしていきます,罪人には救いを,偽善者には警告をという明確な語り口の違いです。ここでの罪人とは誰でしょうか?18年も病の霊につかれた女性が罪人の代表です。
2. 「病の霊につかれ」
これが,当時の人々の病に対する考え方でした。なぜこの人に病の霊がついているのでしょうか?それはこの女性の犯した罪のため,もしくは,家族の中に罪を犯した人がいた,そのように受け止められていました。この女性は,救われるには遅い人,後の人であったのです。
3. 罪人を招かれる方
イエスは,会堂に集まった人々の中で,真っ先にこの女性を呼び寄せました。そして,高らかに宣言するのです。「あなたの病気はいやされました。」これは,「あなたは痛み,弱さから解放された」という宣言です。この女性にしか分からない18年の間続いた痛み。その痛みからイエスは女性を解放されました。
4. 偽善を暴くイエス
イエスはこの女性に手を置きました。安息日に手を置き,この罪人を癒されたのです。イエスは,一人の罪人のところに来られ,手を置き,癒しを,救いの宣言をするために来られました。しかし,ここには「偽善者」が登場します。その代表が「会堂管理者」です。この人は直接イエスを非難せず,女性を非難しました。神のみ教えを用いながら,この罪人を非難したのです。それは全く神のみこころを,み教えから汲み取らない人の姿と言うことができるでしょう。私たちは,イエスの前に,自らの偽善を恥じ,御前にへりくだらせていただきましょう。
投稿者 mb-church : 14:59 | コメント (0) | トラックバック
2007/9/2礼拝メッセージ
2007年9月2日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書13:1~9
「例外なき招き」
1. 人々の反応
イエスの主張は単純明快でした。しかし,思わずガリラヤで起こった悲劇を口にした人々がいました。これまでのイエスの語られたことが自分のことではなく,ガリラヤのあの人々こそ,神とすぐに和解しなかった結果ではないか,そう人々は応答したのです。ここに,人間の罪深い姿があります。私たち自身に語られているのにも関わらず,他の事柄を挙げることによって,さも自分はわかっているのだ,そういいたい罪人の姿がここに描かれています。
2. イエスの答え
これは決して他人ごとではありません。イエスの答えは,「あなたがたも悔い改めないなら,みな同じように滅びます」というものでした。また,エルサレムで起きた事件も同じように例に出します。あの人々も例外ではない。みな悔い改めないなら,同じように滅びる,とイエスは明言されたのです。
3. 死の先にある滅び
イエスの視点は,単なる地上での死だけを見てはいません。神からの永遠の別離,完全な滅びに焦点が当てられています。私たちの人生,生涯は,神から与えられた一度限りのものです。しかし,それ以前に,神にあるいのちでなければ,本当に神に喜ばれるものにはなりえないと,聖書は語るのです。
4. 待たれるお方
イエスは,ここで「ぶどう園に植えられたいちじくの木のたとえ」を語られます。このいちじくは,本来のところには植えられていませんでした。それでも実がなることを期待されていました。しかし,残念ながら実はなりませんでした。しかし,その園の番人は,もう一年まって欲しいと園の所有者に願うのです。この願いこそ,イエスの願いです。そして,今,神は私たちが悔い改めの実を結ぶことを待っていてくださるのです。
投稿者 mb-church : 14:28 | コメント (0) | トラックバック
2007年09月04日
2007/8/26礼拝メッセージ
2007年8月26日の礼拝メッセージの要約です。
ローマ人への手紙7:15~8:2
「恵みに帰る信仰」
[ハイデルベルグ信仰問答]
問い3:何によって,あなたは、あなたのみじめなことを,認めることができるのですか。
答え:神の律法によるのです。
問い4:神の律法は、私たちに,何を要求するのですか。
答え:キリストは,律法の内容を,マタイによる福音書22章の中に。おまとめになりました。「『心を尽くし,思いを尽くし,知力を尽くして,あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも,それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが,この二つの戒めにかかっているのです。」
問い5:あなたはこれら全てを,完全に守ることができますか。
答え:できません。なぜならば、うまれつき,神と隣人とを憎む傾向にあるからです。
1. わたしの罪とわたしの悲惨
私たちが,神の慰めに生きるためには,「わたしの罪とわたしの悲惨とが,どんなに大きいかということ」を知らなくてはなりません。悲惨さをつきつめていくと,私たちは自分を守るために自己防衛することでしょう。しかし,聖書はその自衛本能に対し,罪と悲惨に向き合うようにと語りかけています。
2. みじめさ
パウロはその悲惨さをこう記しています。「私は,ほんとうにみじめな人間です。」私たちもみじめさを感じることがあります。しかし,本当にはそのみじめさに向き合おうとはしていません。自分のみじめさを認めようとはしていないのです。
3. 恵みに生きる
みじめさから私たちを救い出すことのできるお方は,イエス・キリストだけです。私たちが,自分の罪深さを知れば知るほど,神の赦しが恵みであることに気がつかされます。この逆説的な恵みの経験に,私たちは絶えず生きなくてはならないと聖書は教えるのです。そして,私たちは神の律法(み教え)によって,真の罪の深さを知ることができるのです。
[考えるために]
あなたは自分の,また人間の悲惨さ,みじめさ,罪深さをどのようにとらえているでしょうか?
投稿者 mb-church : 11:28 | コメント (0) | トラックバック
2007/8/19礼拝メッセージ
2007年8月19日の礼拝メッセージの要約です。
ルカの福音書12:54~59
「和解する熱意」
1. 前兆
イエスはミカ書から引用されました。それは,そこにご自身の預言と,イスラエルの民への悔い改めの勧告が確かに記されていたからです。すでに,イスラエルの人々には,神からの預言が与えられていました。しかし,人々はそれでも神に立ち返らず,イエスを受け入れようとしなかったのです。ですから,イエスは「あなたがたは地や空の現象見分けることを知りながら」と言われているのです。
2. 偽善者
イエスは,ここで人々を「偽善者たち」と非難します。どうして今のこの時代を見分けることができないのか?そして,自分から進んで,何が正しいかを判断しないのか?と容赦のない言葉を人々に投げつけました。なぜ,これだけの神からの警告,預言があるのにもかかわらず,あなたがたは,頑ななのかとイエスは訴えかけられたのです。
3. 告訴する者
どうして,これだけのことが語られているのに心を開こうとしないのか・・・人々の頑なさに対し,イエスはたとえを語られました。それはあなたを告訴する人に対し,手遅れになる前に和解しなさいというものでした。私たちは聖なる神の前に,みな罪人です。最後の一レプタを支払うまで,完全に赦されません。ですから,手遅れになる前に,それに気がついたその時に,神と和解しなさいと,イエスは言われます。何よりも,イエスこそ,私たちの負った罪の負債の代価となり,身代わりとなってくださったお方なのです。私たちは今この時に,イエスにある救いを受け取らせていただきましょう。
[考えるために]
私たちは「前兆」をしっかり見ているでしょうか。